◇・◇ お許しください、大佐殿 ◇・◇

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 32.抱きしめたいの、大佐殿  

 

 一発でスワロー品質を極めた雷神エースの鈴木少佐。
 彼の若き才能に感化された元パイロット達が、艦長室に集う。
「艦長室の園田です。一息つけるドリンクを四つお願いいたします」
 自分のデスク内線から、心優は艦長専属厨房へと連絡する。
『もう夜も遅いですし、撮影や予行飛行も控えているのでコーヒーはやめた方が良さそうですね。かといって艦長はともかく男性陣はハーブティーは望まれないでしょうね……。消化の良いスープでも持っていきますね。四つではなくて五つですね。園田さんも召し上がってくださいね』
 艦長専属シェフの是枝大尉は、いつもこうして心優のことも忘れずに気遣ってくれる。
「いつもお気遣い有り難うございます。それでは、お願いいたします」
『お疲れ様です。今夜も白熱していることでしょう』
 是枝シェフの一言に、心優もそっと笑う。

「このあたりのタイミングでの『GO NOW』でよろしいわね」
「そうだな。そこは艦長に任せる」
「上空2700、ここ背面になる時。いちおう、隊長からの『NOW』があった方がいいと思うのですがいかがでしょう」
「俺も、隊長から一声あった方がタイミングがよりあわせやすいのでお願いしたいな」
 御園艦長、橘大佐、そして雅臣に鈴木少佐。撮影の指揮官とパイロットが毎夜打ち合わせに熱中している。
 心優はそれを少し離れたところから見守って、タイミングを見計らって『お時間大丈夫ですか』と声を掛けたりして、集中して時間を忘れている上官達を気遣う。時にはこうしてひと息のドリンクを準備したりしている。
「ローアングルキューバンは綺麗に合いそうだな。明日、一度だけ英太とリハをする」
「よろしいわよ。リハなしでやるかと思ったけれど……」
「いや。何度も毎日は俺が危ない。一度だけで感触を確かめてみる」
 橘大佐が鈴木少佐を同等の技能を持つパイロットとして認めた証拠だった。
「あと問題は、バーティカルクライムロールだな」
「陸では基地の建物を目印にしたり、海岸線を目印にして、何回転したかをコックピット内から見下ろしてカウントしますからね」
 雅臣が何をもってカウントするかと唸っている。
「自分は航行中は、空母を目印にして回転数を数えるけれど、それでは駄目なんですか」
 鈴木少佐も遠慮なく提案していく。
「そうだなあ。この大海原海上での撮影だから、目印といったら空母しかないよな」
「では、こうしたらどうかしら。空母を中心にして、右と左で位置をとり……」
 ミセス准将が提案をするが、雅臣がそこで意見する。
「そうなるとカメラワークに距離が出ます。真下で撮影するなら、空母を挟まずに二機隣接した方が迫力がでます」
「危険度も増すけどな。俺のホーネットと英太のホワイト、二機の間隔を狭めれば狭めるほど、どんなに慣れている俺や英太でも恐怖感を得るだろうし、それを克服しても単機演技の時よりも余計な注意力を使うことになりプレッシャーもかかる」
 安全性を考慮するならミセス准将の案が的確。しかし、それではいつもの迫力ある撮影アングルは得られない。多少危険であっても、二機が並んだ状態で上昇回転をするカットを得ることがこの撮影の成功だと雅臣は言いたそうだった。
「雅臣らしくないわね」
 ミセス准将の言葉に、雅臣が黙り込む。
 心優も思った。雅臣はどちらかというと慎重な方でリスクを嫌う。秘書官の時はまさにそうだった。ミセス准将の言葉を借りるなら『優等生』。なのに今回の撮影は、迫力とアングルにとてもこだわっている。自分が撮影企画をしたからなのか。あるいは、引退する橘大佐へ最高の餞をするためなのか、妙に力んでいるなと密かに案じていた。
 でもそれも『臣さん』らしいとも思っている。本当の雅臣は、とても熱い男。今回はそこに情熱を燃やしているだけ……。
「いつもなら、そういうリスクある賭け事をやろうと言い出すのは、私の方なのにね」
「いえ……。もちろん、安全が第一です」
「アクロバット展示飛行の過去の事故を思い出して。編隊のどこか、一機でも気持ちがずれていたら1秒のズレでもあっという間に事故が起きる。飛行絵図が崩れるだけの大失敗ならまだいい。でも、事故は絶対にあってはならない。そのことを忘れないで」
 ミセス准将に珍しく一喝されてしまい、雅臣が表情を歪めてうつむいた。気持ちが先走っている己を叱責しているかのように。
 だがミセス准将の切り替えは早い。
「では、こうするのはどうかしら」
 指揮官とパイロットの四人が集うテーブルには、航海図や飛行図の軌道や高度に速度を書き記したメモ紙が散らばっている。そのうちの一枚の紙に、御園准将が上空から見下ろした空母の形をサッと描く。
「この空母の船首を目印に、この角度、空母船首より四時の方向。ここを演技ポイントにしてはどうかしら。この位置なら、二機が隣接しても同じ目印が見えると思うの」
「なるほど。ただし、二機同じようには見えないだろう。そうだな……」
 橘大佐もうーんと考える。
「明日、英太と並んで飛んでみて、演技をしなくても上昇をすることでどう見えるか感覚を掴んでみるか」
「そうっすね。あとは俺が予行飛行で一度バーティカルクライムロールをやってみて見え方を、コックピット内から撮影するってどうかな」
「そうね。それで一度検討してみましょう」
 ちょうど、話がまとまったところで是枝シェフがスープを持ってきてくれた。
 心優もそれぞれに配るのを手伝う。手元にスープが届くと、四人が一斉に力を抜いて、空への話はしなくなってしまった。
「今夜はこれでお終いにしましょう。明日に備えて、ゆっくり休んでおかないとね」
 御園准将がやっと、気心知れている身内だけしかいないせいか柔らかに微笑んだ。仕事中はアイスドールの彼女が微笑んだだけで、男達もホッとした顔をする。
 じゃじゃ馬だの、ロボットだの氷だの鬼女とまで言われることもあるミセス准将だけれど、彼女が微笑むと、結局、男達はどこかうっとりしているように見えてしまう。
 心優も距離を置いて、自分のデスクでそっとスープをいただく。
「あ、隊長。俺も聞いたっすよ。十七歳差、しかも一気にお父ちゃんになるとかで、おめでとうございます」
 いつも末っ子にされている鈴木少佐が、こういうときは遠慮なく話題にしてしまう。
 橘大佐も既にわかっているのか、言われたからとて慌ててはいない。
「まあな。なんかわかんないけど、いつのまにかそうなったから、自然ってことなんだろうなって」
 顔色は変えていない橘大佐だったが、いつもの口調ではなかった。やはりそれなりに照れくさいように心優には見える。
「自然なわけないじゃないっすか〜。女性関係が激しかった隊長が、ですよ。ずっと独身できた隊長がですよ、ここにきて一人の女性に限って子供が出来たって事は、それなりの決意があって彼女を愛しちゃったんでしょう〜」
 もう心優はびっくりしてしまう。畏れ多くも副艦長、そしてスワローの元隊長で雅臣と鈴木少佐の上官だった男性。その方に対して、ほんと兄貴をからかう若い弟みたいに平気で突っ込む鈴木少佐の悪ガキ振りに、心優はハラハラ……。
 でも橘大佐も負けていない。
「だから、そういう気持ちになったのが自然って言っているんだよ。おまえ、やっぱガキだな」
「へえ。やっぱり子供が出来てもいい気持ちで、そうしちゃったんでしょ。愛ですね〜」
「なにいってんだよ。俺はな、どの女の子も全力で愛してきたぞ。ほら、そこの葉月ちゃんにだって全力でアタックしてふられただけだし」
「そもそも隊長は後先考えずに、これと思っただけで女の子に見境なく飛びつきすぎっすよ。隊長が小笠原に来てから、俺、初めてキャットファイトを目にしちゃってショックだったんだよな」
「う、うるさいな。俺は女の子にすぐに飛びつくかもしれないが、二股はしたことないし、別れもきちんとしてきた。が! ちょっとした行き違いでそうなっただけなんだよ」
 橘大佐と年若い鈴木少佐が言い合いをはじめたので、御園准将が頭が痛いとばかりに眉間に皺を寄せ溜め息。雅臣も苦笑いをこぼしながら、スープを味わっている。
 でも心優には雅臣が少し落ち込んでいるように感じている。いつもどんな空気でもその輪に入って話せるのに、口数が少ない。
「もう、そのへんにして。英太の言うとおり、橘さんの女性関係で私もどれだけ迷惑を被ったことか。でも、これからは大丈夫よね」
「あれ。葉月ちゃん。俺のこと諦めちゃうの。俺、まだ葉月ちゃんがその気なら、まだまだ一筋で愛せるよ〜」
 また始まった。このオジサンは、こんなふうにしてノリが軽すぎて、平気で愛しているって准将に言う。
「惜しいなー。あの時、葉月ちゃんが俺を受け入れてくれたら、俺だって澤村君みたいに全力で葉月ちゃんを理解して守ったよ。そばにいたよ」
 いつもの軽い口なのに、今夜の御園准将は呆れたりせずに、クスクスと楽しそうに笑いだした。
「そうね。きっとそうだったわね。いまなら、橘さんに任せたら……、真っ正面から向かってくれたと思う。澤村と出会うより先に出会っていたから、橘さんと一緒にいたかもしれない。今ならそう思える、信じられる。でも、あの時そうであったら……、貴方はいまのような男性ではなかったかもしれないわね」
 こちらも何故か。そんなミセス准将の思わぬ言葉に、軽口を叩いていた橘大佐が黙ってしまう。
「いや――。ちょっとふざけすぎた。……澤村君のようにはなかなかなれないな。若い俺は投げ出していたかもしれない。葉月ちゃんの深い傷に……どれだけ立ち向かえただろうか」
 急に話が真面目な空気になり、しかも御園准将の受けた傷の話題にまでなって暗い空気が漂いはじめている。
 心優はなにか話題を切り替えようと、気を逸らすための話題を探した。でも、なかなか見つからない……。
「ねえ、橘さん。いつも私のこと抱きたい抱きたいってふざけていたけれど。本当に抱きたい時ってあったの?」
 御園准将から唐突に性的な話題に触れたので、さすがの橘大佐も面食らった顔――。
「そりゃあ、若い時にぜっってえあの女、俺のものにするってくらいの勢いだったし? 葉月ちゃんほどの令嬢のなにもかもを俺の手の中に抱きしめてさ、その彼女が貴方だけって抱きついてきてくれたなら、俺もメロメロになっちゃうだろうなーと何度も思ったもんさ。それに……。お互いに四十を超えて再会した時も、ほんと葉月ちゃんは綺麗な大人になっていてそそられたね。あの時、旦那になった澤村君にも随分嫉妬したっけな。これ、本当な」
「俺、その時のこと覚えてる。だって、俺も隊長のヘッドハントに行く葉月さんに連れて行かれてさ。その時、葉月さんほんっとにお洒落をして、令嬢奥様で、橘隊長はカッコイイ大人の男できめてきてさ。なーんか、ふたりが怪しい雰囲気だったんだよな」
「そう。あれで俺、また葉月ちゃんにやられちゃったんだよな。旦那がいてもいいから、一度でもいいから、あの女、ひと晩でも落としてやるって男の熱情が燃えさかった」
「橘さんの中にいる私の裸って、どんななの?」
 また橘大佐の方が驚きたじろいで、言葉を失っている。鈴木少佐と雅臣も揃って目を丸くしていた。
「ど、どしたの。葉月ちゃん。俺が結婚しちゃうから、惜しくなった? なあ、おかしいぞ」
 だけれど、御園准将は穏やかに彼に微笑んでいる。
「橘さんは私の傷を見たことがないでしょう。だから、綺麗な身体を想像してくれているんでしょう。ずっと、そうであって欲しいなって……よく思っている」
「え……、そ、そうだったんだ……?」
 御園准将が女の子のような顔で静かに頷いた。
 心優もはっと気が付く。ハワード大尉が言っていた言葉。『入浴中に倒れたら、裸の私を助けていいのはアドルフだけ。橘さんは絶対に嫌』。ミセス准将が男性陣にそういったのは、橘大佐を警戒していたというよりは『女心』?
 橘大佐も、なんだか頼もしい男の顔で御園准将をみつめている。
「ああ、綺麗だよ。葉月ちゃんは若い時からほっぺなんかいつも真っ白できめ細かくてさ。だから、カラダの方も真っ白でとろけるような柔らかーい肌なんだろうな、触りてえーなーって。ずっと思ってきた。傷なんかどこにもない」
「そうなの。嬉しい。ありがとう」
 あの御園准将が、今にも泣きそうな目で精一杯微笑んでいる。
 同年代の様々なことを乗り越えてきた男と女が、男と女として向きあっている。
 ふざけて大人をからかう鈴木少佐も、真面目に黙って聞いていた雅臣も、間には入れない。
「ずっと綺麗なカラダだよ。安心しろって」
「うん、安心した」
「ちぇ。そのために、俺は近づけさせてくれないのか〜。でもそれって、俺こそ男としてみてくれているってことだよな! この中にいるどんな男よりも、男として意識してもらっている。だからさ〜、別にいいんだよ、傷があっても葉月ちゃん〜。肌は魅惑的なんだから。やっぱ触りてー」
 あっという間にいつものチャラいオジサンに戻ってしまって、若い三人は揃って溜め息をついてしまう。
 だが、御園准将もすぐに元に戻る。
「私、いいパイロットだと身体が熱くなって感じるから」
 今夜の准将は様子が少し違う。心優はそう感じる。男三人が面食らっているが、准将はいつものアイスドールの顔でしらっとしている。
 でも、心優にはもうわかる。これは准将が既に『仕掛けている』のだと――。
 橘大佐が不敵に微笑む。
「へえ……。それって『濡れるほど』ってこと?」
「そんなかんじでもあるわね」
 危うい男の表現にも、ミセス准将は狼狽えず、冷たい顔。
「じゃあ、なに。ここにいる俺達三人は、葉月ちゃんの目で選んだパイロットだろ。雅臣の飛行を見て、俺の飛行を見て、英太の飛行を見て、身体熱くなって濡れたから引き抜いてくれたってことか」
 男の目になっている。女から仕掛けてきたのだから、そこは男として遠慮なく食いついてきた。
 御園准将も、こんな時ににっこりと男達に微笑む。
「内緒。でも、私の身体を震撼させた男のフライトは、私の身体を一気に熱くしてくれる。抱かれる前みたいな興奮を覚えるの」
「じゃあさ。どんな時に濡れたの。それ知りたいもんだねえ」
 御園准将が、自分の隣に当たり前のように座っている弟分を見た。鈴木少佐がちょっと驚いた顔をして、のんきにスープを飲んでいた手をとめた。
「え、なに。葉月さん……」
 え、え。俺に?? 鈴木少佐もびっくりして固まっている。
「は、まさか。葉月ちゃん……。このガキには濡れたのかよ!?」
「そうねえ。それも、内緒」
 悪ガキには女の身体が燃えたと言いたげな准将を見た橘大佐が舌打ちをして悔しそうにしている。
「おっしゃ、燃えてきた。ぜっていに『私、カンジちゃった』って言わせてやるからな」
 心優には、ミセス准将が何か思い通りになったかのようにひっそりとほくそ笑んだのがわかってしまう。
「ああいう感覚は、パイロットではない夫からはもらえないし、これから出会えるかどうか。もうあとは橘さんしかいないかもしれないわね」
 私の身体を濡らすパイロットは、もうあとは一人しかいないだろう。その男もこれが最後のフライト。御園准将から橘大佐を煽っている。
 そんなミセス准将のそばにずっといた心優にも見えてきた。橘大佐を上手くコントロールするという准将の意図は、もしかして……。
 今日まで、橘大佐には雷神の現役エースも敵わない位置づけだった。でもそうではない。ミセス准将は品質はともかく、感性と感度としては、鈴木少佐の方が気持ちを持っていかれる――と仄めかしている。
 それはつまり。結局のところ、互いの敵わぬ才能を引きだし合って分けあって『対等の心構えで飛んで欲しい』という、ミセス准将のコントロールだと心優には見えた。
 なにげない親しげな会話からチャンスを拾って目的を果たし、男達をそうして動かしてしまうミセス准将。
 どうにも侮れないミセス准将は、やはり怖いと心優は改めてわななく。
 橘大佐がこんな時は真顔で立ち上がった。
「わかった。それで、俺と葉月ちゃんの関係もケジメってわけだな」
 今度のミセス准将はなにも答えなかった。
 男と女としても、若い時からの危うい関係もこれで最後。綺麗に締めて、お互いの道を行きましょう。その為には、最高の男であってパイロットであることを私に残して――。そんな男と女の駆け引きに、橘大佐が本気になった。
「もう休ませてもらう。お疲れさん」
「お疲れ様。橘さん」
 橘大佐が艦長室を出て行った。
「俺も……、そろそろ部屋に帰るな。葉月さん、眠れている?」
「大丈夫よ。英太。今度の非番、私に付き合って。子供達のこと話したいの」
「ああ、いいよ。じゃあ、おやすみ」
 こちらはいつもの姉貴と弟の顔で別れた。
 ずっと静かに黙っていた雅臣だけが残った。
 ミセス准将はそんな雅臣の様子にも気がついている。
「雅臣。貴方らしくなかったけれど、だからってそれをいちいち気に病まないように」
 やはり。いつもの城戸大佐らしくなかった指摘が堪えていたようだった。
「でも。雅臣は悪ガキ集団と言われていたスワロー部隊の中では珍しく真面目で優等生だったわね。なのに、ここぞというときに野性的になる。ほんとうの燕になる。それでいいのよ。真面目なばかりではつまらないじゃない。それだけでは、乗り越えられないこともある。優等生の雅臣がこれまでを乗り越えられてきたのは、時にはそんな思い切った大胆な行動ができるからよ。でも今日の雅臣は突っ走りすぎ。理屈だけで推し進めようとしたでしょう。あのような時は、まずはパイロットの様子を把握してから押し切るのよ。私だって大胆なことは言っても、まずはパイロットをそこの一点に押し上げるための緻密な構築を少し前からやったりしている。だからブレーキを掛けたけれど、そのブレーキが古傷に触れてしまったのね」
「わかっております。落ち込んでいるわではありません。……その、事故というものに、未だに……」
 心優は驚愕する。雅臣の事故は飛行での事故ではなかった。それでも、事故に遭って苦しんだ本人にとっては、パイロットとしての自分を潰した事故はトラウマなのだと。
 御園准将も傷つけられた古傷があるから、致し方ない哀しみを滲ませた顔で雅臣をみつめている。
「雅臣。貴方には、私のような苦しみは味わって欲しくない。そこに執着すればするほど、食われてしまうわよ。私は食われてしまったから……」
 彼女がそっと三日月の傷がある胸に手を当てた。それだけで、雅臣も察したのか背筋を伸ばして、いつもの頼もしい顔に戻る。
「失礼いたしました。俺は大丈夫です」
「足は大丈夫? 時々引きずっているわね。天候によって痛んだりしない?」
「もう慣れています」
 雅臣は微笑んでいるが、心優の心は苦しくて泣きたくなる。ほんの少しでも足を引きずる歩き方が雅臣のいまの普通の歩き方。もう心優も見慣れているし、誰もそれには触れない。でも心優の頬に触れる時、身をかがめる雅臣はひょっこりとした動きをする。それは普段の雅臣でも、時々、どうしてそうなったかは決して消えないのだという痛みが通じてしまう。
「私が艦長でいる間に、雅臣には絶対に忘れて欲しくないことは厳しく告げていくつもりよ。事故に遭った貴方だからこそ、パイロットの事故がどれだけ辛いかわかっているわよね。普段の貴方は慎重だから大丈夫。私のようにならなくても大丈夫。今の雅臣のままが、将来の城戸艦長の礎になるでしょう。だから、らしくないことをしているな――と自分で感じた時は、今日の私を忘れないで」
「わかりました。肝に銘じておきます」
「その上で、先ほどの城戸大佐の提案を明日から確実にものにしていきましょう。空母は挟まず、二機隣接のバーティカルクライムロール。私も賛成です」
「艦長――。ありがとうございます!」
 やっと雅臣の笑顔が戻った。心優だけでなく、ミセス准将もほっとした微笑みをみせている。
「では、そろそろ艦長修行の一環として、私がつけている艦長日誌を読み返すようにしましょう。どのようにまとめるかを掴んでいきましょう」
 そういって、ミセス准将が心優を見た。心優もうなずいて、艦長日誌を手にして城戸大佐へと手渡す。
「いまはなんでもデーター化だけれど、いちおう手記としても残しておくことになっているの。書いたことを、データーに残す。データーの入力はいまは心優が担当よ。彼女が翌日中に入力しているから、データー化のことは心優に聞いてね」
「かしこまりました、艦長」
 雅臣と目が合ってしまう。ああ、また葉月さんが二人きりにしようと気遣ってくれたんだなあ――という、お互いのアイコンタクトだった。
「それでは、私も先に休ませてもらうわね。心優、ほどほどにして寝なさいよ」
「はい、艦長。お疲れ様でした。おやすみなさいませ」
 雅臣も立ち上がって『おやすみなさいませ』の挨拶をすると、御園准将もにっこりとした笑みを残してベッドルームがある奥へと消えていった。
「城戸大佐もお疲れ様でした。お仕事、続けられますか。よろしければ珈琲をお持ちいたしますよ」
 まだ業務の姿勢で心優は接した。雅臣とは約束している。この前、一緒に散歩した時を最後にして、お互いに業務に集中しよう――と。
「その前に、頭を冷やしてくる」
 雅臣もそのまま艦長室を出て行ってしまう。本当なら追いかけて、静かな場所で二人きりになれるなら、心優だってかけたい言葉がいっぱいある。でも、今の雅臣はそれを欲していない気がした。それもまた心優に心配はかけまいとしている、雅臣からの気遣いだとも思っている。
 心優はスープカップを片づける。トレイに乗せ、艦長室を出て、階下にある厨房へと持っていく。階段を下りたそこには甲板への出入り口がある。今日もそこから潮の匂いがする風が入ってくる。
 そこに雅臣がいた。一人、鉄壁に背をもたれて、じっと満天の星を見上げている。
「臣さん」
 約束はしたけれど、心優は敢えてオフの顔で彼を呼んだ。雅臣も気がついて振り向いてくれる。
「心優」
「いま、辛いの?」
 彼が静かに首を振る。でも穏やかに微笑んでくれている。
「大丈夫。でも、久しぶりに思い出してしまって」
「事故のこと?」
 いままで二人の間で、いちばん辛い局面については触れることもなかった。雅臣も避けていたし、心優は知っていても知らないふりをするようにして触れなかったから。
「事故の激痛も覚えているし、歩けるようになるまでのもどかしさや怒りに苦痛も覚えている。でも、さ。信じていた男が、友人が、幼馴染みが、……、隣にいたその時に、俺を連れ損ねて死んだんだ。憎まれたままの別れだ。それが今でも痛い」
「臣さん……」
 初めて彼が心優にその気持ちを話してくれた。だからこそ、心優の心も苦しく潰れそうになる。怪我で不自由になった足はもちろん、心も予想以上に痛めている。雅臣はそれを四年間、一人でじっと抱え込んできたのだから。でも今夜は心優に話してくれる。
「大丈夫だよ。心優。葉月さんの言うとおりだよ。俺だからこそ事故の痛みを忘れてはいけない。そして、執着すると食われる。葉月さんは、その苦しみを心にも全身にも受けた人。俺はまだ、彼女のように囚われていない。囚われてもいけない。そう執着したらいけないんだ。そう言い聞かせていたところ」
 こんな時、彼を抱きしめたい。雅臣より小さなカラダだけれど抱きしめてあげたい。でも今はそれが出来ない。
「わたしの小部屋で臣さんを休ませてあげたい」
 早く陸に帰って、心優と眠りたい。雅臣がそう言ってくれたから、今度は心優からお返し。
 それをわかってくれた雅臣が甲板から入口へと戻ってきて、すぐそこに立っている心優を抱きしめようとする。でも心優はスープカップを乗せているトレイを持っているので、そこで雅臣が困ったように首を傾げる。
 抱きしめようとしてくれた。でも、今は、そういう約束だから――。
「これ。シェフに返してきますね」
 それだけで充分だよ、臣さん。心でそう呟き、目線で彼に伝えたつもりで心優は背を向け甘い気持ちを断ち切る。
「待てよ」
 背を向けたのに、雅臣が後ろからぎゅっと抱きついてきた。
「臣さん……。あの、約束……」
「いまだけ、もうほんとうにいまだけな……」
 彼が後ろから心優の耳元の黒髪をかきあげ、そこにキスをしてくれる。
 どうして、こんなにそばにいるのに。こんなに気持ちが通じているのに。いますぐ思いっきり抱き合えない。そんな甘い辛さが募る。
「ありがとうな。心優。ほんと、出来るなら心優の小部屋で少しでもいいから休みたい。きっとそれだけで俺の執着は消えていくよ――」
「御園准将を見ていて感じてるの。どんなに辛くても、ずっとそばに隣に隼人さんがついていてくれたから、葉月さんの傷が癒えることはなくても幸せなひとときの方が増えて笑顔でいられるって」
 心優はそのまま肩越しにいる雅臣へと振り返る。
「これからは、臣さんのそばにいるね。なにをしていいのかわからないけれど、今度は離れない。そう、御園大佐のようになりたいの。離れていても奥様がいつだってそばに感じている隼人さんのようになりたい。臣さんが長い航海に出ても、そばにいられるような女になりたい」
 雅臣のシャーマナイトの目が僅かに潤んで揺れた。
「心優……」
 さらにぎゅっと強く抱きしめてくれる。最後に少しだけ、唇を愛してくれた。ほんのちょっとだけ、唇を吸ってくれるキス。潮の匂い、波と夜風の音――。
「それ、早く返してこいよ。俺も艦長室に戻るから、珈琲をたのんだぞ。園田」
「はい。城戸大佐」
 やっと頼もしい城戸大佐の顔になって、雅臣が艦長室へと階段を上がっていく。
 きっともう大丈夫。見送るその背中――。彼が徐々に、艦長となるべく男としてその階段を上がっていくように見えてしまった。
 近い将来。彼は空部隊の長になり、ひとつの艦を治める男になる。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 空母が進行するその向こうに島影――。
 日本海佐渡島近辺に到着。
 本日は、晴天。ついに撮影本番当日を迎えた。

 いよいよ本番。心優も自分のことのようにドキドキしている。
 ここ数日は、鈴木少佐と橘大佐二機揃っての調整が続いていた。まだ完全に仕上がっていない部分があるとのことだったが、それでもだいぶスワロー師弟の息が合ってきている。
 バレット担当の雅臣の指揮も白熱し、いまの彼はパイロットの顔で集中している。心優と会話を交わしても、もう甘い雰囲気も言葉も皆無になった。
 でも、心優はそんな雅臣をそっと見守っているだけで幸せで、そして雅臣も時々、心優を見てあの愛嬌ある笑顔を見せてくれ、心優のことも気にしてくれている。
 ―― がんばって、臣さん!
 今日の撮影が、雅臣が企画した撮影が、上手く仕上がりますように。成功しますように。事故が起きませんように。心優はずっと祈っている。
 ミセス准将より早めに起きて、艦長室を綺麗に清掃し整えるのが朝一番の仕事。
「おはよう、心優」
「おはようござ……」
 艦長デスクを整理しているところでベッドルームから出てきたミセス准将を一目見て、心優は絶句してしまう。
 彼女も今日は、ネイビーラインで縁取られている真っ白な飛行服姿だった。
「おはようございます。す、素敵です、とても素敵ですね艦長」
 栗毛に琥珀の瞳が、真っ白な布の上できらめく輝石のよう。このお方のこういうパッと周りの空気を変えてしまうムードは、やっぱり独特で惹きつけるものであると、つくづく感動してしまう姿だった。
 でも当の本人はちょっとご機嫌斜め――。
「今日は彼等が主役だから、私はいつもの指揮官服でいいって言ったんだけれど。橘さんも雅臣も絶対に艦長も白い飛行服を着るべきってうるさくって」
 男達を主役に目立たせたいから、自分は普段の目立たない紺の指揮官服で良かったのに――と思っていたらしい。
「雷神の隊長ではありませんか。艦長が着ないと、鈴木少佐だってがっかりしてテンションが下がるかと思います。なににおいても御園准将あっての『雷神』ではありませんか。准将が再興させたから、橘大佐も城戸大佐も鈴木少佐も白い飛行服を着られるのです。どんなにこの後の進退を決めていらっしゃっても、御園准将にはそれまでは最後まで白い飛行服の大隊長であって欲しいと思っております」
 男達の思いに応えて欲しくて、つい力んでしまい、心優ははっと我に返る。
「も、申し訳ありません! 生意気を申しました!!」
 すぐに深々と頭を下げて詫びた。
 しかし、クスクスとした笑い声が聞こえてきた。頭を上げると、白い飛行服のミセス准将が笑っている。
「心優。もうすっかり私についてくれている秘書官ね。言うことを聞くばかりの補佐から卒業ね。嬉しいわよ」
 毎日毎日そばにいて、毎日彼女と二人。本当にお姉さんと妹のようで、時には母親と娘という錯覚さえ起き始めているのは確か。そうして心優も彼女の本当の姿を知っていくうちに、彼女の本質に触れる時はもう誤魔化しや取り繕いなどでは付き合っていけないことを感じ始めていた。でも、生意気な意見を言うにはまだ勇気がなかった。なのに……つい。
「テッドを見ていればわかるかと思うけれど、言うことを聞くだけが秘書官ではないのよ。私が見えていないことや、私に対するアドバイスをくれるのは、秘書官の貴方達よ。頼りにしているの。こうして空母に乗るとね、いつのまにか家族のようになってくる。家族のように、私のための意見を届けてくれるような秘書官になってほしいと願っていたから、ほんと嬉しい」
「恐れ入ります。ですが、本当に生意気を言った時にはお叱りください。それも今後のわたしの為です」
「それはもちろん。でも、いまの彼等を配慮したアドバイスには感謝します。今日は私も久しぶりの白い飛行服、心を真っ白にして望もうと思います」
「はい。わたしも影ながら支えさせて頂きます」
「朝食の前に、ミーティングね。指令室に行って、準備具合を確かめてきてくれるかしら」
「かしこまりました。艦長」
 その時が刻一刻と迫ってきている。

 

 

 

 

Update/2015.7.17
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