◇・◇ お許しください、大佐殿 ◇・◇

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 26. 陸の匂い、艦の匂い

 

 また艦が騒々しくなる。ミセス艦長が戻ってきたから。
 そして心優もまたあの小部屋に戻った。綺麗に整っている。御園大佐から『園田が出て行った後も誰も使っていない。処分が決まるまではと、ミラー大佐も艦長室は使わなかったぐらいだよ』と教えてくれた。
 誰もが懲戒免職を覚悟しながらも、それでも信じて待っていてくれたことが窺えた。
 艦長室の補佐デスクに光太と復帰する。留守の間は、御園大佐と福留少佐が代わりに艦長室業務を担当してくれていたとのことだった。
 それでも少し溜まっている。通常業務以上に、緊急事態についての後処理に、代理艦長室もこの五日間追われていたとのことだった。
「御園艦長、お帰りなさいませ」
 この空母の指令室一同が艦長室にて集まり、御園艦長の復帰に敬礼をする。
 御園准将も艦長デスクについた。そして大佐に少佐達に敬礼をする。
「この度は……」
 珍しく彼女がそこで言い淀んだ。思うものがあるようで、それでも誰もが次の言葉を静かに待っている。
「もう帰ることはないだろうと思っていたので、まさか、またここに戻ってこられるだなんて」
 敬礼をとくと、御園准将は艦長デスクをそっと撫でた。
「緊急事態にもよくぞ耐えてくれました。貴方達の力添えあってのことでした。ありがとうございます。そして不在の間も艦を護ってくださってありがとう」
 再度彼女が敬礼をすると、男達も真顔で敬礼をした。
 そこで御園艦長が彼の顔を見渡す。
「私の処分についてはもう知っているの?」
 そこにいる男性達が顔を見合わせたり、首を振ったりした。でも御園大佐だけがじっとうつむいている。雅臣もだった。どうやら連絡を受けて知らされたのは大佐の二人だけということらしい。
「澤村、伝えていないの」
「艦長が復帰する、帰ってくると皆が喜びに沸いていたので、その時点では敢えて伝えないようにしようとミラー大佐と城戸大佐と決めていました」
 喜びの中、水を差す報せ。だから敢えて言わなかった。それが『良くない報せ』だと少佐達は顔色を変えた。いちばん青ざめたのはハワード少佐。
「准将、復帰したからにはお咎めなしだったのですよね? 司令部も仕方のない判断だったと認めてくれたのですよね」
「いいえ。あれだけのことをして、ただで済むわけないでしょう」
「ですが、こうして……戻ってこられて……」
 無傷の復帰だと信じていただろう少佐達に、御園准将はいつものアイスドールの顔で告げる。
「私にとってこれが最後の航海です。以後、艦隊指揮の任務に艦長として指名されることはもうないとのことです。あと、人事が決まり次第、小笠原の空部大隊長も退きます」
 少佐三人が『嘘だ』と驚き息引いた様子を見せた。
「艦長、それでよろしいのですか!」
 若いコナー少佐が憤るようにして叫んだ。それでも御園准将は淡々とした眼差しで彼を見た。
「大丈夫よ。こんな時が来るかもしれないと、数年前から準備はしてきたでしょう」
 『御園大佐以外』の男達は、御園准将がその体質を案じて艦を降りたい、降りるならその準備をするという行動は既に周知のところ、だがそれが今なのか、こういうことで貴女がいなくなるなんて思わなかったという顔を揃えていた。
「もう、辛かったの。いつ起こるともわからない発作を抱えて、この重責ある任務に就くのが……」
 あの御園准将がいつになく表情を灯してうつむいてしまう。
 補佐デスクにいる心優と光太は、より多く側にいたため既にその心情を推し量ることができる。あるいは先輩達ほど責任ある職務ではない若い秘書官のため、かえって御園准将が『娘みたい息子みたい』と日頃、隊員達がみることがないミセス准将を、いや『葉月さんの顔』を見せてくれていたからだと思う。
 辛かった……。艦長が吐露する本心に、男達が黙ってしまう。
「だから、私の後を引き継いでくれる隊員をと思ってきた。小笠原にはミラー大佐とコリンズ大佐という頼りがいのある先輩もいる。橘大佐も私のこの体質を助けるために離れたくない横須賀から、マリンスワローを引退してまで来てくれた。いつか横須賀に返さなくてはと思ってはいるけれど、もし彼がやってくれるというなら彼も候補にしている。五十代四十代の人材はここで見定めている。そして……」
 ミセス艦長が雅臣を見た。雅臣も気がついてこちらを見つめている。
「その後の若い大佐も見つかった。帰ってきてくれた。大隊長も空母の艦長ももうしっかり揃っている。なんら案じることはない」
 いちばん納得していないのはハワード少佐だった。
「大隊長を退くって……、あの大隊長室を出ていくということですか」
「そうよ。秘書室もまるごと、次の大隊長のために置いていく」
「俺もですか! 俺は、俺は……、御園准将の側に来てやっとやっと軍人として護衛官として身を立てられました。貴女以外の護衛など……」
「だからこそ、その実力をもっと高めて欲しいと思うの。私のところにずっといては駄目。私はもう貴方ほどの護衛を必要とする外に出ることもなくなるから」
 嫌です! ハワード少佐がなりふりかまわず泣き崩れた。それを福留お父さんがそっと宥める。
 その福留お父さんも心配そうに葉月さんに尋ねる。
「では、准将はどうなるのですか」
 あの准将が迷うように、うつむいてしまう。それを男達がますます案ずるように固唾を呑んで待っている。
 ほんとうに迷っているんだと心優には通じる。この後、どうなるのか。まだはっきり決定しているわけではない。でも夏目中将は『パイロットの技能向上に貢献して欲しい』と言っていた。それで確定しているかどうかわからない。
 しかし、いまならいいのではないかと……、生意気ながら心優はそっと御園准将に言ってみる。
「もう、指令室の信頼されている方々にはお伝えしてもよろしいのではないですか」
「でも、今回のことで取り消されるかもしれない」
「わたしが言えば、秘書官の戯れ言で済みますよね」
 心優が笑うと、御園准将がちょっと驚いた顔をした。
「いえ、心優から伝えるくらいならば、私から言う」
 そういって、ようやっと大佐と少佐達へと顔を上げた。
「今後だけれど、小笠原にできる訓練校の『校長』に内定している」
 また彼等が驚き(妻の心優が前もって密かに伝えていた雅臣以外)、今度は絶句した顔を揃えている。あの御園大佐までもが。でもすぐに妻を睨む目になっていて、心優はゾッとする。
 出航前に御園のご夫妻がすれ違った時に、隼人さんが怒っていた目。でも彼はいまここではじっと黙って問わない。きっと後でまた問いつめられるんだと思った。
 それでもハワード少佐がようやっと笑顔になった。
「そうでしたか。行く先が決まっているのですね。しかも同じ小笠原に……良かった」
 良かった。でも……。またハワード少佐が別れが近いことに肩を落としている。
 コナー少佐も哀しそうに准将に尋ねる。
「では、自分とハワード少佐、トメさんは次に任命される大隊長のために秘書室に残るということなのですね。心優と光太は……、まだ来たばかりの若い二人もそのまま次の大隊長の護衛官として置いてかれるのですか」
 その問いにも御園准将は迷わずに答える。
「心優と光太は、新しい校長室に連れて行く。若いからこちらで育てたい」
 自分の護衛官として連れていく。そう告げると、先輩たちも納得した顔をしてくれた。
「でも今回の私の行動で、もう任命されないかもしれない。辞令がどうなるかどこへ異動になるかはわからない。それでも……、最後の航海、一緒に終わらせて」
 准将がそこで微笑むと、またハワード少佐が泣いてしまった。コナー少佐もぐっと堪えている。
 そしてそのまま御園大佐が、何かに耐えきれないような様子で、艦長室を出て行ってしまった。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 溜まっている艦長室業務を光太とせっせと片づける。
 ミセス艦長もすっかり元通り。艦長デスクに座って、パソコンのモニターと睨めっこ。マウスを持って各所確認に忙しそうだった。
「心優、これを指令室へ持っていって」
 受け取って艦長室から指令室へと向かう。指令室には福留少佐とコナー少佐の二人がいるだけだったが、こちらも忙しそう。
「そのまま、管制室の大佐に持っていって」
 コナー少佐に言われ、今度は管制室へ。そのドアを開け、通路に出る。静かなその通路を心優は奥まで見つめる。
 数日前、ここで戦った。なのにいまその通路は日常を取り戻し、もう禍々しさは消えている。
「くっそ、そういうことだったのか。全貌が見えた!」
 もの凄く悔しそうに言い捨てながら、御園大佐が廊下を歩いていた。
 しかも雅臣と一緒に歩いている。長身のお二人だけれど、雅臣のほうが背が高い。御園大佐を見下ろして、ご機嫌を伺っている。
「まあ、落ち着いてくださいよ。隼人さん」
「雅臣君まで知っていたなんて、」
 そこでお二人が管制室の前にいる心優に気がついた。
「てことは、園田から聞いたってことか。園田、いつ、いつ、あんな『校長内定』なんてなっていたんだ」
 うわ、すっごい感情的になってる? あの御園大佐が『妻にやられた』という悔しさを滲ませている顔。これは下手な返答をしたら心優にもとばっちりが来そう。
「えっと、あの、奥様にお聞きください」
 これがいちばんに決まっている。御園大佐がこうなったら中和剤なんてないんだから。
「そうかそうか。だから、アグレッサー部隊を結成すると言いだしたんだな。訓練校の中に『現役パイロットの訓練機関』を作れると見定めていたわけだ」
 心優はただただ黙って、なにも返答しなかった。そういう静かな心優を見て、どうしてか御園大佐の勢いが緩んだ。
「なんだよ……。俺がまるで苦しめてきたみたいだな。艦長を頑張れ、辞めるな、なんとかなるって」
 そう彼が怒っているのはきっとそこ。心優にはわかる。葉月さんは『夫は完璧なサポートがあれば、辞めなくても頑張れると思っている。辞めると言えば、サポートのレベルをアップすることに躍起になる。そうではない。私は退きたいのだ』と思っていてるのに対し、ご主人の隼人さんは『そんなに苦しいのならば、辞めたらいい。おまえ次第だ』と考えていることが通じていない。
 その双方の気持ちに気がついていたのは、御園大佐が心優にだけ憂う姿を見せてくれていたから。だからこそ、伝えられなかった、葉月さんに。そこはまた夫妻の問題だと思ったからだった。
「申し訳ありません。わたし、御園大佐がそう思っていると気がついていたのに。奥様にさりげなく伝えることができませんでした」
 御園大佐が驚いた顔をした。そして急にバツが悪そうに黒髪をかいて口ごもる。
「いや、別に……。園田になんとかしてもらうなんて、申し訳なさすぎる。そうだな……、俺と葉月の問題だ。ありがとう」
 そういうとすぐに艦長室へと御園大佐が向かう。
「暫く、二人きりにしてくれ」
「かしこまりました」
 心優がそう答えると、御園大佐が艦長室へと入っていった。
 目の前に、雅臣が取り残された。彼も心配そうな顔になっている。
「城戸大佐。こちら艦長室と指令室のサイン頂いています。確認をお願いします」
「あ、ああ。ありがとう」
 クリアファイルに挟んでいる書類を手渡した。まだ戻ってきて数時間、どちらも多忙を極めて姿を見たり見なくなったりだった。
「とうとう隼人さんに知れるところになったか」
「そうだね。艦長を退く――というのは、自然な流れになってしまったけれど、『辞める準備をしていた。辛かった』という言葉がショックだったみたいだね」
「いまそこの休憩ブースで隼人さんの文句を聞いていたんだけれど、それならそうとどうして言ってくれなかったとぼやいていた」
 だよね。でも……と心優は思うところが。
「言えないよ。夫と妻でも、違う仕事をしている指揮官同士だもの。夫だからこそ気遣いが申し訳ない時もある。妻だからこそ、心配しすぎて邪魔をしてしまうかもしれない」
「俺たちだってそうだもんな」
「うん……。臣さんがわたしにも言えないことがあるのはわかってるよ」
「俺もだよ」
 ふと気がつくと雅臣が潤んだ目で見つめてくれていた。心優もどきっとときめいてしまう。離れていた分、すぐ抱きつきたくなって困る。
 そんな甘い雰囲気の中、目の前の艦長室のドアが開いて光太が出てきた。
「ひい、追い出された」
 御園大佐が奥様に突撃、『二人きりにしてくれ』と言っていたから、そこに残っていた光太が追い出されたということらしい。
「暫く戻れないね。一緒にカフェテリアで時間でも潰す?」
 心優も秘書官の顔に戻す。雅臣も副艦長の顔に戻っていた。
「そうだな。俺が許可したことにしてやるから、二人でカフェで時間でも潰してきな。一時間後に戻っておいで。大丈夫。長く夫婦をやってきたお二人なんだからそっとしときな」
 上官の凛々しい顔で言うと、心優が渡した書類片手に管制室へ行ってしまった。
「あれ、もしかして俺。こちらでもお邪魔でした?」
「そんなわけないでしょ。業務中なんだから」
 事務作業に行き詰まっていたからちょうどいい休憩として、光太と一緒にカフェテリアでお茶をすることにした。
 ブリッジの通路を歩きながら、心優も光太に聞いてみる。
「どうだった。隼人さん。すごく怒ってた?」
「いいえ。二人きりで話したいと大佐が言われたけれど、葉月さんは『今は話したくない』てつっぱねて。そうしたら、隼人さんが『俺は話したい。今でなければもうこのことについては一生問わない。俺の中で棘が刺さったままにしてやる』て言ってましたね。怒っていない言い方でしたけど、怖かったですよー。二人きりにしてくれと俺に向けた大佐の目が見たことない目で怖かったですよ」
「うわー、わかるわ……。私、初めて御園大佐に会った時、すごい怖い旦那様だったもの。葉月さん、その時も隼人さんの意志と心配を無碍にした行動をしてね。あのミセス准将を平手打ち、葉月さんがすごい怒られたの見ちゃったから」
「あのギリギリの決断をしたミセス准将を、静かな迫力でくちごたえができない程に押し切る男。うん、さすが旦那様」
 うん、まさにそのとおりと心優も強く頷く。
 しかしカフェテリアに行ったら行ったでまた心優と光太は隊員達に囲まれてしまう。
 『お帰りなさい』から『大変だったね』とか、光太は艦長を命がけで護ったことや麻酔銃を撃たれたことまで知れ渡っていて『すごい』とか『もう大丈夫なのか』と男性隊員達にもみくちゃにされてしまう。
 一時間があっという間に過ぎる。『もう〜、休んだ気がしない』と光太がゲンナリしている状態で艦長室に戻った。
 さて。一時間程度でご夫妻は収まってくれたのだろうか。緊張しながら艦長室ドアをノックしてから入室した。
「おかえりなさい」
 御園准将のデスクにはいつもどおりに彼女が、でもそのすぐ隣に光太の椅子を借りて座っている御園大佐もいた。
 もう二人ともくっつきそうに寄り添って、奥様が開いている新聞を一緒に覗き込んでいる。横須賀基地司令部で拘束されていた間に、山口女史が届けてくれた新聞を持ってきたようだった。
「そっちの新聞も読んでもいいか」
「どうぞ」
「おー、すごい騒ぎだな。おまえが拘束されていた五日間、一面がずっとコーストガード襲撃事件じゃないか」
「そうなの。でもどこにもフランカーが爆撃したことは出ていないわけ。その方向で艦内も周知しておいて欲しいの。ネイビーメールで家族に言わないようにね」
「既にそこは周知してあるが、改めて徹底しておこう」
「あ、そうそう。ここも読んでおいて。この評論家のコラムね」
 どれどれ。奥様が開いた新聞へと旦那様が顔を近づけて密着状態。仕事の話をしているようで、結局、夫妻の雰囲気。仕事の話をしているのに……、なんですかそのちょーっと甘い密着ぐあい。
 光太がまたこっそり『ラブラブじゃないっすか』と呆れたほど。なのにさすがは吉岡光太、そこですぐさまにっこり微笑む。
「艦長はお紅茶で、『旦那様』はカフェオレでよろしいですか」
 ワザと旦那様と言ったんだとわかって、光太のそんな大胆な言い方に心優はびっくりしてしまう。
「私もカフェオレでいいわよ」
「俺もミルクティーでいいよ」
 お二人が同時に言った。そして顔を見合わせるお二人。
「どちらなんでしょう」
 光太がさらにからかうようににっこり。
「ええっと。ミルクティーで頼む」
 隼人さんが決めた。そして葉月さんは恥ずかしそうにして開いた新聞の影に隠れてしまう。
 若い護衛官の二人に、うっかり仲直りした甘い空気を知られてしまったとやっと気がついたようだった。
 でも光太と一緒に指令室の給湯でお茶を入れながら『心配なんていらなかった』と笑ってしまった。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 艦は少しだけ北上し停泊中。現在は緊急発進のアラート待機も解除されている状態。
 明日、いよいよ調査団が横須賀へ帰るとのことだった。
 西南の空に星、とっぷりと紺碧の夜空に艦は包まれる。
 久しぶりの業務も二十一時でひと区切り。艦長が『今日はお終いにしましょう』と言った。
「今夜は指令室にアドルフがいるから、二人は休んでいいわよ。数日間、横須賀で私との生活、お疲れ様。一緒に来てくれて助かったわ。言ってはいけないけど、それはそれで楽しかったわよ」
 心優と光太も『自分達もです』と微笑み返した。
「光太、お薬飲みなさいよ。それから……、あなたの音楽プレイヤーに入っていたいくつかの曲名、あとで教えて」
「お気に召した曲があったんですね。では後で持ってきます。暫くお貸ししますから、曲名を抜粋してください」
「心優には女同士のお話があるの」
 そういうと、気の利く光太はそこで『お疲れ様でした』と退室をした。
 心優と御園准将の二人きりになる。
「心優、あなたも今夜はゆっくり眠りなさい。横須賀で夜も気を張っていたでしょう」
「艦長こそ。あまり眠れていないようでしたね」
「私はいつもそうよ。慣れないところや、気が抜けない場所では目が冴えてしまうの」
「発作が起きるのではないかと心配で……」
「大丈夫だったでしょう。でも、ありがとう。だから、あなたも今夜はゆっくり眠りなさい」
 艦長は――と聞こうとした時だった。
「お疲れー。吉岡が出てきたからそろそろかと思って。チョコレート、きちんと取っておいたからな」
 御園大佐が入ってきた。
「彼と積もる話があるの。二人きりにして」
 そういうことなら――と安心して、心優は眼鏡の大佐に『あとをよろしくお願いします』と託し、遠慮なく一人部屋に入った。
 確かに、ようやっとひとりになってほっとできたような気がする。
 葉月さんと光太といるのは苦痛ではないけれど、数日間ずっと一緒だった。
「はあ、なんだか落ち着く」
 おかしいな。むこうが陸にあって警備も整っている基地の中だったのに。揺れないベッドだったのに。こちら海上に浮かぶ空母の小部屋が落ち着くだなんて。
 もう警戒警備もない。スクランブルもない。心優はジャケットを脱いで放る。タンクトップ姿になって、ベッドに腰を掛け、掛け紐のブーツも脱いでしまう。  そのままベッドに寝そべり、丸窓も空かした。潮の匂い、エンジンの匂い、波の音。そして星空。わたしの部屋。
 よかった。生きてここにいられた。よかった。
 胸張って、帰ってもいいかな。お父さんのところに。
 艦長を護ったよ。不審な男も制圧したよ。
 夫よりも艦長の側にいることを選んだよ。
 お父さん、これで良かったんだよね。
 少し涙が滲んだ。
 そんな時に、ドアからノックの音。もう今夜は艦長の気遣いで誰も来ないだろうと思っていたから、心優は慌てて紺のジャケットを肩に羽織った。
「お疲れ、俺――」
 臣さん!? 声だけで夫とわかった心優は迷わずにドアを開けた。
「なにかあったの。もしかして艦長になにか」
 気が抜けた時が危ない。旦那様が側にいるけれど、なにかあったのかと雅臣を見上げた。
「違う。一時間だけ休憩をもらったんだ。その……、心優と話してもいいかと聞いたら、ここまで入る許可もらえて――」
 心優の顔を見た雅臣が少しだけ訝しそうにして、心優の顔を覗き込んだ。
「どうした、目が潤んでる。泣いていたのか」
「あ、うん……。無事に終わったんだなって、やっと。この部屋が、船団が来る前とおなじように静かになって。それから、お父さんに今回は怒られなくて済むかなって……」
 夫のシャーマナイトの目がそこにある。心優も涙で潤んだまま見つめてしまう。
 雅臣がそっと入ってきて、ドアを閉めた。
「心優」
 優しく静かにその胸に抱きしめてくれる。
 心優もそのまま、待ちこがれていた夫の胸に頬を埋める。ほんとうに頬ずりを何度もしてしまう。
 汗の匂い、働くだけで日々を送っている男の皮膚の匂いがする。心優が愛している大佐殿の匂い。
 きっと雅臣も心優の匂いを今度こそゆっくり感じてくれていると思うほど、心優の黒髪にくちづけている。
 そして、ふたり。感じていることも同じ。それが抱き合うだけで通じてしまう。
 そのくちびるに、指先、息づかい。お互いに触れるその仕草のすべてが欲していると――。
 それは甲板で青い風の中抱き合った時に既にあった。あそこは人前だったから堪えただけ。
 でも、雅臣の指が、心優の顎を掴んで上に向かせる。
 視線が合う。もうなにも言わなくてもわかる、熱い目。
 雅臣はなにもいわなかった。心優も。
 見つめ合うまま、そっとお互いのくちびるが近づく。
「心優――」
 心優、そう彼が呼びながら、心優のくちびるを吸った。もうそれだけで涙が出てしまう。
 帰ってきた。生きて、またこの人の熱に触れられた。愛してくれてる。
「臣さん、臣さん……」
 優しいキスをしてくれているのに、心優のほうが感極まってしまい雅臣の首にきつく抱きついて、もっともっととキスをねだってしまう。
 雅臣の手ももうそのつもりだった。心優のタンクトップの裾を引き抜き、肌を探している。
 緊迫していたあの夜と同じ。心優の肌に熱い手、その手が肌に触れると今度は乳房に触れようとしている。そしてキスは愛しあう熱いキスではなくて、男と女が快楽を求める濃厚なものに変わっていく。絡まる舌の熱さ、夫が求める舌先の愛撫、濡らされる口元、愛しあう前の挨拶みたいに、準備みたいに、儀式みたいに……。心優の頭の中に浮かんでいた余計なものが融けていく。
「は、う、ふぅ……、あん、臣、さん」
 もうとろけてしまった心優の声を聴いて、雅臣の目つきがかわった。
 ああ、お猿さんの目。ふざけてエッチなことで心優をからかって楽しむお猿じゃなくて、本気になった野性的で獰猛な猿のほう。
 胸元がはだけたまま、ベッドに連れて行かれる。心優ももう止まらない。
 雅臣と一緒にベッドに寝転がって、お互いの衣服を解き合う。心優は寝そべったまま戦闘ズボンのベルトを解いてショーツも一緒に降ろして脱いで、雅臣は心優にまたがったまま、大佐のバッジがついている紺色の指揮官戦闘服をざっと脱いで床に放る。
 心優も下着を解いて素肌になるけれど、裸になる自分の真上で、黒いティシャツを脱いだ夫の鍛えられている上半身を久しぶりに見る。
 いつまでも逞しい肉体、心優はいつだって彼のその鍛えている身体を見るととてつもなくときめいてどうしようもなくなる。
 自分から抱きついて、彼の胸元にキスをした。優しくない、強く吸うキス。
 心優――。彼のせつなそうな声にかまわず、心優のキスは夫の胸元にいくつも落とされる。
 心配だったよ、触りたかったよ、安心したよ――、そんな言葉を交わしたいのに、もう言わなくても、こうして触れあうだけでなにもかもが元通りになっていく。
 濃密なキスを繰り返して、衣服を脱ぎ去って、お互いの皮膚を愛撫して、その指先は繋げたい、欲しいものへと向かっていく。
 雅臣の熱い男の塊がもう我慢できなさそうに大きく膨らんで、もうその尖端が心優を欲して濡れている。心優もそう夫が欲しくて、身体の奥、熱くなった芯から滲み出たもので雅臣の指を濡らしている。
 繋がる前の妻からの、夫からの、求める手と指先。見つめ合うその目が熱く潤んでお互いを離さない。
 でも心優は気がついてしまう。
「もし、もし……、ここで、できちゃったら」
 こんなに熱く求め合って愛しあいたくて、久しぶりの交わりで、気持ちも『お互いに無事だった』と高まっている。できちゃいそうな気がしてならない。
 ほてっている頬にかかる黒髪を、上から覗き込む雅臣が優しく微笑みながらその手でのけて撫でてくれる。
「大丈夫、一回分ぐらいなら」
 その意味がわかってしまい、心優は『今回も持ってきてたんだ』と予測はしていたけれど呆れて笑ってしまった。
「じゃあ、もういまだけなんだね」
「そう。いま心優を抱きたい」
 いまだけ。これが終わったらまた、いつもの大佐殿と女護衛官に戻るんだ。小笠原に帰還するまで軍人としての使命を全うするんだ。
 熱くとろけるように甘く見つめ合っていたのに、その時だけ、ふたりはなにかを誓うように頷いていた。
 あとはもう、本能のまま愛しあうだけ。
 心優も留め金が外れたようにして、夫の身体に抱きついた。久しぶりにお猿の大きな塊が心優の中にはいってくる。
「あぅ……っ」
 声が出そうになって、心優は強く奥歯を噛んだ。それほどに、灼けつくような熱い感触。
「はあっ、あん……、だめ、声……でちゃ……」
「我慢しろ」
 大きな身体の夫が覆い被さりながら、心優の口元を塞いでくれる。
「あふ、あん……、お、臣さ……ん」
 いつも以上に腕と腕がお互いの身体を引き寄せ、堅く抱きしめ合っている。そして足の間で繋がっているそこが熱く擦れあい、声は我慢しても、そこが濡れている音が小さく聞こえる。
 心優に覆い被さってぴったりと抱きついて、腰を動かしている雅臣の息をあがってきた。その彼が心優の耳元で囁く。
「いい匂いだな。陸にいる人間の匂いだ……。こんな心優の匂いかいだから堪らない、甲板で抱きしめてすぐそう思っていた」
 外から帰ってきた匂いということなのだろう。つまり、空母に一ヶ月もいた潮風と油と万全ではない生活を強いられて過ごしている隊員の匂いではないということ。
 外に五日間いた。そこでは、女性として気遣ってくれた秘書官がいた。いい匂いがする入浴をさせてくれた、洗濯も。そういう陸から帰ってきた匂いに、お猿は敏感に反応していた。
 でもそれは心優も。
「わたしもだよ。もう臣さんに触れて、もう、我慢できなかったの」
「帰ったら、こんなものしないからな」
 激しく愛され息だけで喘ぎながら、心優も頷く。
 心優の中でずっしりと熱い夫の塊、それが激しく奥まで。それでもいまそこには薄く隔てているものがある。
「はあ、ああ、くそ。久しぶりすぎて、もう」
 そのせいか、心優のなかがきつく感じると雅臣もはあはあと息切れている。
 いいよ、今夜はただただ貴方と愛しあいたかっただけ。触れたかっただけ。
「帰ったらゆっくり愛して」
「もちろん、覚悟しておけよ」
 丸窓の星が見える中、ぎゅっと抱き合ってキスも繰り返して……。
 一時間の休憩、あっという間のひととき、それでもやっと『生きてこの夫のところに還ってきた』と心優は涙をこぼした。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 一時間の休憩、駆け抜けるように抱き合って、少し話して、雅臣は元の凛々しい大佐殿に戻って出て行った。
 心優も、濡らしたタオルで愛された身体を拭いた。
 喉が渇いて、外の自販機まで飲み物を買いに行こうと艦長室に戻るドアを開けようとした。
「校長になるために、駒沢君をスカウトしていただと」
「そうよ。まだ返事はもらっていない」
 艦長室ではまだご夫妻が『積もる話』をしていた。心優はドアを開けず、そこに立ち止まった。
 こちらのご夫妻も甘い話でもするのかと思ったら、割と真剣なもの。
「確かにな。広報を経験している男なら、外側との付き合いは上手くやってくれるだろうな」
「彼にはまだどうして私のところに来て欲しいかは、はっきりは言えなかったの。考えておいてとだけ……」
「わかった。司令部の広報でどんな仕事をしているか暫く様子を見て、俺がなんとかする」
 俺がなんとかする。出た。ミセスよりも、夫の隼人さんのほうが『スカウト能力』に長けている。またものすごい準備をして、爆撃体勢で臨むに決まっている。
 これは本当にひっぱってきてくれそうだと心優も安心する。
「それにしても。最初はどうして妻が艦長を務める艦に、もう二十年も航海に出ていない夫の俺を乗せるんだと思っていたけれど。海東君はなんとなく予感していたのかもな。今回の摩擦は刺激が強すぎる。そんな時、ミセス准将は思わぬ判断をする可能性がある。おまえがコントロールの効かないことをやるかもしれない。その時、代わりになる指令官が必要。それが夫の俺だったというわけか」
「かもしれないわね……、おかげさまで、私は拘束されている間も、貴方と雅臣がいると思って安心して任せていられたわ」
「しかし。なにもなければ、西南の海と空に映える彩り、雲に星、そして海鳥に海洋生物の通過。島とは違う雄大さ。それは楽しんでいる。これからは日本海と冬のオホーツク海、おまえと一緒に見られるだなんてな」
 感慨深そうな話に変わった。もう少し空気が和んだら、さりげなく外に出ようと心優はタイミングを計っているのだが。
「でもな。こんな任務でおまえとフルムーンなんてしたくなかったな」
「やめてよ。任務で航海しているのと、夫婦で旅行するのと一緒にしないでよ」
「だってさ、実際におまえと旅をしているわけだし?」
 そこでご夫妻の会話が止まった。いまかな。いまなら出ても良さそう。ドアノブを手にした時だった。
「フルムーンは北海道の洞爺湖がいいと思ってるの。春よ、今度は冬ではなくて春に行くの。約束でしょ」
 葉月さんの言葉が聞こえた。隼人さんはどう答えるのだろう。また心優は出られなくなる。でも、隼人さんの返事が聞こえてこない?
「どうしたの、隼人さん。なんか、言ってよ……。緑に息吹く洞爺湖をもう一度見に戻ってこようと言ったの、貴方よ」
 何故か、葉月さんの声が泣きそうになっている。本当ならご夫妻の会話だから心優はここから立ち去るべきなのだろうけれど、足が動かない。お二人の気持ちを知っておきたい。
「泣いているの、隼人さん?」
 御園大佐が泣いている? 心優はびっくりして目を見開く。
「おまえ、いままで、洞爺湖のこと言わなかっただろ」
「言わないだけで。覚えているわよ、私。忘れるわけないじゃない。唯一、ふたりだけで行った旅行なんだから。新婚旅行もしなかったでしょ」
「瀬川と再会した場所だったんだぞ……。辛いんじゃないのか」
 隼人さんまで涙声――。
「もう大丈夫よ、きっと。発作、おきなかったもの。だから大丈夫、連れていって、隼人さん」
 それからふたりの声が聞こえない。でも、ドア越しでも心優には見える。年月を経た夫妻が静かに寄り添っている姿が――。
 もう喉が渇いたはどうでもよくなって、心優はそのまま小部屋に戻った。
 ベッドに寝転がって、また丸窓の星を見上げる。
「あんなふうになれるかな」
 まだ熱愛だけの新婚、熱くなくても通じる長く寄り添ってきた夫妻の想い。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 調査団が横須賀に帰還し、ついに艦は御園艦長の号令の元、事件現場から出航をする。
 沖縄海域を目指し、北上を開始。艦長も元通り、出航の時と変わらない航海が始まった。当初の計画通り、いつもの押し気味の航路も変更せず、厳戒態勢で航行する。
『あの事件で一件落着ではない、気を抜かないように』
 それが御園艦長の出航時の号令だった。

 ゆっくりとした速度での北上開始から数日経った頃。

 御園艦長がまた夜型の生活になってしまったので、『お昼寝』をするようになった。寝ないよりマシだということで、その時間は光太と心優のふたりで艦長室の留守番をしている。
「お疲れさーん、お邪魔するよ」
 御園大佐が様子見で艦長室にはいってきた。
「お疲れ様」
 雅臣まで。ふたりの大佐が揃って、心優のデスクへと向かってくる。
「あの、なにか?」
 ふたりが顔を見合わせ、なにかを示し合わせたようにして頷いている。雅臣は真顔だけど、御園大佐はなんだかにんまりと楽しそうでその笑顔に胸騒ぎがした。
「園田、艦長のためなら、おまえ、嘘をつけるよな」
 え? 嘘ってなに? 心優は戸惑い返答できなかった。
「う、嘘ってどんな嘘を……」
「これ、やって欲しいんだよな。秘書室の隊員じゃないとわからないと思うんだ。頼む」
 メモ用紙を渡され、これを確認して欲しいという内容を見て心優は驚き、眼鏡の御園大佐を見上げてしまう。
 そして迷わず返答した。
「わかりました。至急、確認します」
 心優は目の前のパソコンに向かい、外との通信を試みる。連絡先は、小笠原の基地で留守番をしているラングラー中佐。
 御園大佐がにっこり眼鏡の顔で笑う。
「艦長には絶対に内緒だぞ」
 心優と光太は強く頷いた。

 

 

 

 

Update/2017.12.18
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