37.黒猫流身支度

薄暗い船室へと、義理兄について葉月は入り口をくぐる。

「まず……下着を付けろ」

長いコートを翻して振り向いた純一に言われて葉月は頷く。

船室のテーブルの上に置かれている、光沢がある黒い生地の下着……。

それを手にとってショーツから付けてみようとしたが……

「なにこれ? 伸縮性はあるけどすごくキツイ……」

足は通せたが、太股からなかなか通しにくくなって

葉月はやっとの思いで腰まで上げた。

身につけても軽い素材と解ったが、妙にきつかった。

「つべこべ言わずに……上も付けて見ろ」

葉月は……いつもサイズはピッタリの贈り物を用意する義理兄らしくない……

と、ため息をついて肩紐がタンクトップのように太い、

レエス無しの下着を付けた。

ブラジャーも乳房を押さえ込むようにキツイではないか?

(なんで? キツイぐらいなら私が身につけてきた下着でも構わないと思うけど)

葉月が腑に落ちない表情で……ブラジャーのアウトラインに指を通していると……。

「手を除けろ」

「え?」

葉月が訝しそうに指を肌から除けた途端!

純一が腰からナイフを取り出して、葉月が驚く間もなく……葉月に向かって突き刺してきた!

「!!」

その機敏な動きは、さすがの葉月も反応が出来なかったほど……

葉月が額に汗を浮かべて茫然としていると……彼が『ニヤリ』と微笑んだ。

葉月は何が起こったのか解らなくて……義理兄が葉月の肌に向けたナイフの先を確かめる。

ブラジャーの下のアウトライン……。

葉月のミゾオチから、胸の谷間に向かって……ブラジャーの下にナイフの先は突き上げられている。

葉月の肌にはナイフの峰、ブラジャーの生地には鋭い刃が食い込んでいるのに……

『生地が……切れていない!?』

葉月はやっと気が付いて、純一の顔を見上げた。

それを確かめて、純一はサッとナイフを葉月から遠のけて腰に戻した。

「そうゆうことだ。伸縮性がある軽い生地だが切れにくい素材だ。それから……」

葉月がそんな素材どこから入手したのだ? と、思い巡っているうちに

今度は純一の革手袋の手が……ブラジャーの下を捕らえて、めくりあげようと

谷間に突っ込んできたのだが……!

義理兄の強い力でつま先が浮いただけで……キツイ下着はめくれることもなかった。

「キツイかも知れないが……ちょっとやそっとじゃ『脱がせられない』という……

『男泣かせな下着』を作らせてみた。どうだ? 気に入ったか?」

不敵に微笑んだ純一の手が葉月の下着から除けられる……。

そう……葉月がどんなに頑張っても、力も身体も『女』なのだ。

少しでも……男の暴力を避けるためのモノを用意してくれたのだと、葉月は気が付いて……

「あ・有り難う……我慢して着ていく」

「我慢ね……着心地悪いなら、モニターの意見として今後の参考にする」

義理兄支配下の会社の商品なのだろうか??と葉月は眉をひそめた。

その次、義理兄がベストを葉月に投げつけた。

消防士の作業着のような……銀色のキルティングがされているベスト……。

(防弾チョッキ?)と……葉月は思いながら、投げつけられたそれを手で受け取ると……。

「なにこれも?? 重いじゃない!」

防弾チョッキにしては素材が薄いし、なのに……重いのだ。

純一が葉月がいちいち驚くので、ため息をついたのだが……

「ジュール! エド! こっちにこい!!」

船室から叫んだ『ボスの命令』で、船室外の甲板から慌てたように

彼等がバタバタと入り口に走ってくるのが葉月にも解った。

「何でしょうか? ボス?」

先に来たのは金髪の彼。

「ジュール、そこを退いていろ」

彼がさっと入り口から身を避けると……

「ボス? お呼びですか??」

栗毛の彼が今度は入り口に顔を出した……。

その時!!

義理兄が栗毛の彼に向かって銃を構えたので葉月はビックリ!!

「やめて! 何するのよ!!」

葉月が叫んだのと同時に……

『プシュ!』

サイレンサーをつけている純一の銃が、栗毛の彼に向かって撃たれてしまったのだ!!

『ああ!!』

葉月は思い余って……目を覆ったのだが……。

「おっと……そうゆうことでしたか……」

栗毛の彼の声がして……葉月は驚いて顔を上げた!

入り口から……反動で1、2歩……後ろに引いた彼が……

『ケロリ』として立っているではないか!?

「え?……??」

葉月はまた……冷や汗をドッと浮かべて義理兄と栗毛の彼を交互に見つめてしまった。

「エド……義妹にみせてやれ……」

純一が静かに促すと……栗毛のエドは……『にこり』と葉月に微笑みながら……

黒い戦闘服のジャケットを解いて見せる。

エドの筋力が付いた肌に……葉月が手にしているベストと

同じモノを彼が着込んでいた!

「ほら……」

ベストには穴が開いていたが……エドが裏側から指で押すと

銃弾が『コロリ……』と甲板に落ちたのだ……。

『すごい! こんなにうすい生地なのに!?』

葉月は『信じられない!』と手にしているベストをマジマジと眺めた。

「この防弾チョッキは……そこの金髪の男が『開発』したモノだ。

ただ、コストが高いので商品化は出来なかった……そうだな? ジュール」

「はぁ……失敗作でしたね」

『…………』

葉月はいったい彼等は何をして生きているのだ? と……

初めて金髪の彼を義理兄と同等のように『感心』して見つめてしまった。

葉月がジッと見つめるので……彼から視線を逸らしてしまった。

「丈夫な薄い生地を何層にも重ねてあるそうだ。俺達は愛用している。

ただし……スナイパーの弾はさすがに防げないそうだ。

遠距離からの狙撃なら防げる可能性もあるが、距離が近いと通してしまうそうだ?

それから……至近距離からの小銃の弾も防げない。

今ぐらいの距離なら、防げるのは今……目で確かめたな」

「・……。解った……」

葉月は、納得してその少しばかり重いチョッキを下着の上に着込む。

「そうだ。 お前にはまだ……紹介していなかったな」

「え?」

「金髪の方は『昔』から顔なじみだったろうが……『ジュール』と呼んでいる

栗毛の男はここ数年……お前の前に使わすようになった事も解っているな?

『エド』と呼んでいる……」

純一から彼等の『ネーム』を初めて紹介されたのだ。

「よろしくね……」

葉月が戸惑って、会釈をすると

船室の入り口にいる男二人が丁寧に頭を下げてくれる。

「ジュール……エドと操縦を変わって潜入ポイントに移動を始めろ。

エド……お前はアクアラングの準備を」

『イエッサー……』

純一の静かな口調の命令に、彼等も静かに応えて散っていった……。

「ジュールは『情報系戦闘員』だ。エドは……『潜入系戦闘員』と言ったところだ。

二人ともどちらもこなすが何が得意と位置づけるとそうなる……

それで……お前の潜入には栗毛のエドが途中まで付き添う手はずだ。いいな?」

「……お任せする。それでは、空母に潜入したのは栗毛の彼の方だったわけね?」

「正解だ」

葉月は……いつも義理兄しか見ていなかったから……

義理兄と並ぶといつもかすんでしまう部下の二人もかなりの男だと

解ってはいたのだが、改めて感じたのだ。

「さて……チョッキを付けたら後はお馴染みの衣装だ」

ニヤリと微笑んだ義理兄は、隼人や達也が着込んでいった『連合軍潜入服』を差し出す。

(なんでも用意がいいこと)

アンダーのシャツは、黒いハイネック。

それを防弾チョッキの上に着ると……チョッキは薄いので

葉月の身体のラインはそうは崩れないほどすっきりとしている。

でも……下着はきついしチョッキを着たので……

葉月のささやかな乳房の膨らみは消えてしまった……。

(丁度いい……一目で身体のラインは見えないってワケね)

でも……長い髪が……と、葉月が思いつくと。

「銃の装着をする、ショルダーを付けてやるから手を挙げていろ」

言われた通りに手を挙げると、黒いカットソーの上に

肩から腰にかけて、純一に銃をつけるショルダーベルトを付けられた。

「銃は3丁渡す。他、2丁は予備だから敵に悟られるな。」

「うん……解った。お兄ちゃま」

手際よく義理兄が胸のサックに一丁……腰の背中に1丁……腰に一丁と

種類も大きさも違う銃を備えてくれる。

それを終えて葉月は紺のズボンを履いて……紺のジャケットを羽織った。

最後はアーマーブーツを自分で履く。

アーマーブーツをスケート靴を履くようにヒモをかけて結んでいると……

「次はこれだ」

義理兄が船室にある金庫のような鉄の引き出しから何かを取り出して葉月に見せた。

「!!……それ! どうしてここに!!」

純一の手にあるモノをみて、葉月は動揺したが……

「右京から預かった。葉月が飛び出したときには、身につけさせてくれと」

「右京お兄ちゃまが??」

それなら納得いくと葉月は義理兄が指でつまんでいるそれを見つめた。

彼の手に……大きな蒼い石の指輪が……。

『海の氷月』

祖母がそう言っていた『家宝のサファイアの指輪』

葉月が使っていたスリムの蒼いライターにもこの石が使われていたが

同じ『品質・品格』のもので、この指輪は石が大きいので『値打ち』は計り知れない……。

祖母が貴族の末裔だったので代々受け継がれてきた『家宝』であった。

もちろん、業界ではそれなりに知られている物であったが祖母は売ろうとはしなかった。

そうでなく……このサファイアの指輪は嫁に来た『登貴子』に受け継がれて

葉月の母が『結婚式』に付けた物だと聞かされ……

数年前……葉月がパイロットとして『航空ショーチーム』に選抜されたとき……

『一人前の大人になった』と認めた父と母が葉月に『所有権』を譲ってくれた物。

だが……田舎の小笠原では管理しかねるので

葉月は従兄の右京に本島で管理してもらうよう預けていたから……。

それを何故? 従兄が葉月に持たせようとしたのかと葉月が考えていると……。

「レイチェルばあが……なんと言っていたか覚えているか?オチビ……」

葉月は急に思い出して、こくりと頷く。

「きっと身を守ってくれる指輪で……浅ましい人間が手にすると不幸を招く。

だから……無理に欲しがる人間には渡せばいい、

いずれ正統な所持者に自然に指輪から戻って来るって……。

小さかった頃……その指輪が怖かった……。私はどっちの人間になるのかと……」

『小さかった頃』

そう言った物の……葉月は両親が『大人』として認めて贈ってくれた事は嬉しかったが

自分自身は……まだ、指を持つには『未熟』と思っていた。

幼少に植え付けられた『祖母』の話のせいか

『不幸になる人間かも知れない』……そう思っていたから従兄に預けていたのだ。

「もっていけ。犯人は浅ましい男だ。

欲しがったら軽々差し出せ……お前の身体を守ってくれるだろうと……右京がそう言っていた。

心配するな……盗られたら、俺が取り返してやる」

純一が輝く眼差しでその指輪を葉月に差し出した。

「……」

葉月は躊躇う……。

自分が戦場に行くと言うことは……『葉月でなくなる』事だと解っていたから。

そんな自分が持っていく資格があるのだろうか?……と。

持っていくが故に未熟な自分に被害を招く指輪かも知れないと……。

「どうした? これでも物足りないなら……」

義理兄が黒の戦闘パンツのポケットからまた何か差し出した。

「え!?」

義理兄が手にしている物……それこそ驚いた!

今度、義理兄が手にしているのは……深紅の石の指輪……。

「それ! お姉ちゃまの……。お兄ちゃまが持っていたの??」

『鮮血の花』

祖母がそう言っていた『ルビーの指輪』は姉が祖母から受け継いだ物と聞かされていた。

ただ……子供だった葉月には今その指輪は誰の物でもなく……

鎌倉で叔父が管理していると大人になって思いこんでいた。

その指輪こそ……『レイチェル祖母』が貴族の末裔として

何よりも大切にしていて……『正統継承者』にしか相続しないと聞かされていたからだ。

「皐月とお前の代には『男』がいないから……皐月が受け継いだ

だが……皐月が死んだ……。

俺は『いらない』と言い張ったが……レイチェルばあやが俺に押しつけた物だ。

だが、俺は確かに皐月との間に『子供』を持ったが『継承者』とは思っていない。

ばあやにもそう言った。どうしても……と言うから……今は皐月の形見として持っている。

いずれ……御園の継承者になる者に渡すつもりだ」

「そんなもの……いらない! 触りたくない!!」

葉月は顔を背けて、大声で叫んだ。

「お前にとってはこの指輪も『トラウマ』か?」

葉月の唇が震え始めた……義理兄の問いかけで……やっと返事が。

「襲った『イキモノ達』が……欲しかったのは……

姉様の身体と……意志支配と……その指輪だった!

あの男達はお姉ちゃまにそれを出せと迫っていた!!」

葉月があからさまに取り乱した姿を見て……純一はため息をつく。

「お前は子供だった。この指輪の話はそうは聞いていないだろう」

「……??」

葉月はやっと顔を上げて義理兄を見上げた。

「皐月に似ていると思わないか? この指輪の色

昔、騎士の流れを組んでいたばあやの一族の色だ。

鮮血で栄えてきた家柄だ……。闘う一族には最高の印だ」

「紅い血の花……」

「そうだ……。皐月はまさにそれだったな」

「……。その指輪が継承者の物ならば……私でなく『真一』に渡せばいいじゃない」

「フフ……確かに、ボウズが今のまま立派に育てば

ヤツは『闘う男』ではないが鮮血を手にする医師になるからな。それも考えてはいるが……」

純一が珍しく『息子』の事を口にしたので

葉月は過去に突き落とされた気分の悪さから……

少しばかり気が安まったような気がして落ち着いてきた。

「しかし……ボウズにはまだまだだな。勿論? お前もだが……

持っていけ……皐月が側にいてくれるだろう……」

「もう、側にいる」

葉月が真剣に言いきったので、純一が驚いた顔を浮かべた。

そして……彼はそっとうつむいて『フフ』と微笑んだのだ。

「なんだ……いるのか、そこに……」

葉月が妄想的に幻を作り出しているのに……

義理兄はそれを真剣に受け止めてくれる……。

そう……『一人の女性を挟んだ家族』だからこそ……。

葉月もそっと微笑んだ。

「知っているか? 葉月……このルビーの『品質』を」

葉月は『コクリ』と頷いた……従兄の右京から聞かされている。

「ルビーの最高品質……『ピジョン・ブラッド:鳩の血』でしょ?

私がもらったサファイアなど……足元にも及ばない値が付くって聞かされているわ」

「だな……。一度、鑑定に出したが鑑定士が顔色を変えた。

業界では今どこにあるかと御園が持っているのかどうかと気を揉んでいるそうだ。

億は軽く行く……」

「……そんなにすごいの!? それは右京兄ちゃまからは聞いていない……!」

「右京もそこまでとは思っていないだろうな? 俺も調べて驚いた。

ばあやがいうには『門外不出』だそうだ……だから皐月が身体を張った……」

「…………」

「これは……お前の保険だ。欲しがったら素直に渡せ……。

いいか? 俺が絶対に取り返す。信じろ」

純一の手の中に……大きな蒼い石と紅い石の指輪。

それを彼がプラチナの鎖に通して……葉月の首に付けてくれた。

「最後の手段に使え……犯人のボスは俺と似たような背格好で……黒髪の男だ」

「さすがね……犯人も調べたの?」

「ああ……どうしようもない男だ」

「知り合い?」

「……いや? そうだな、名ぐらいは闇で聞いたことがある」

自分を殺しかけた男と聞けば……葉月はムキになり、無茶に殺すかも知れない……。

そう思ったから、純一は『真実』は告げなかった。

葉月の手のひらを純一は手に取る。

そして……葉月の手のひらに指で字を書いた。

「はやし? 林?」

「中国の発音で『ラム』と読む」

「犯人は東洋人なの?」

「そうだ……一目でわかるだろう……気を付けろよ……

『闇の男』だ……お前が正面切っても適わないだろうから。

だが、ヤツは金目の物には弱いはずだ……」

「それで……指輪を?」

「そうだ……」

葉月はやっと納得して……義理兄の言葉と作戦を信じることにした。

指輪をチョッキの下……胸の谷間に滑り込ませて奥にしまう。

『ボス……そろそろ着きます』

エドの声が甲板から……

「葉月……爆発物の扱いは昔、教えたよな?」

「うん……シンプルな物だったけど?」

純一が小さなリュックを葉月に差し出した。

「発信が消えてからそろそろ40分が経つが……」

「本当に彼等は……まだ無事なの?」

葉月は40分も経っていたら、銃でとっくに撃ち取られていると気が焦った。

「俺達は通信傍受ならお手の物だが……おそらく、追いつめられて囲まれたはずだ。

そこで敵に捕まり、軍と連絡する装備はすべて身体から取り外されただけだと思う

傍受の元が無くなったから……さすがに俺達でも今はどうなっているかは解らない」

「…………それで?」

「だが……一つ。奴ら犯人がすぐに殺さないワケがある」

「ワケ?」

「俺達の盗み聞きでは……新システムプログラムの実行は終わっていた。

空はもう……犯人の手元では好き勝手が出来なくなって焦っただろう。

それならば? 次にどうしても手を打たねばならないのが……

忍び込んだ軍の『ネズミ』が新しく投入した『システム』だ

だが……通信隊のリーダーがログインパスワードを

吐かなければシステムは奪ったことにならない

だから……今……吐かせようとしている最中だろう……

粘っているなら……『何人かは生きているはず』だ」

「それに賭ける!」

義理兄のその説明で葉月の心に『希望』が蘇る!

「それで……この爆発物だが……

仲間を捕らえていた犯人グループを上手く始末したら……

その部屋はもう使えないはずだ。二手に分かれて同じ作業を進めろ」

「違う場所で同じ仕事を?」

「つまり……お前が目くらましでシステムをどこで動かそうとしているか

ラムに狙われるように派手に起動をしろって事だ。

ラムが駆けつけてくる頃に……お前は仲間と退陣して……『ドカン!』……どうだ?」

黒い手袋をしている彼の手が『パ!』と葉月の鼻の先で開かれた。

余裕に微笑みながら『作戦』まで授けてくれる義理兄に葉月はうつむいてしまう。

「お兄ちゃまがいて……初めて私は『中佐』なのかも……」

「なに弱気になっているのだ? 教えたことを成功させ、今後に役立てればいい」

『ほら……背を向けろ』

と……純一に無理矢理、背を向けられて小さなリュックを背負わされた。

葉月はされるままに、リュックを背負う。

そして。もう一度義理兄に振り向く。

「……有り難う……お兄ちゃま……

ねぇ? どうして……お兄ちゃまはこんな私を押さえつけないで、外に出してくれるの?」

他の大人は、葉月を大人しくさせようとかなりの『圧力』をかけていたのに……

この義理兄だけは……葉月を思うまま『泳がせてくれる』

「さぁな……そうだなぁ……強いて言えば『おちこぼれの愛弟子』が見ていられなくて」

「おちこぼれってなによ!?」

『愛弟子』とこの強靱な闇の男に言われるのは軍人としては喜ばしいが……

絶対に誉めてくれない義理兄らしい……。『おちこぼれ』の例え。

葉月がムキになると、やっぱり義理兄は面白そうに笑うだけだ。

『もう!』

いつも通り、葉月が拗ねた所で、急に純一の顔が神妙になり……

葉月をジッと見下ろしたので、葉月もそんな彼をみあげる。

「なに?」

「皐月がそこにいるっていったな」

「え? まぁ……妄想だけど」

「いや……いる」

義理兄まで真剣に捕らえるので葉月の方が戸惑ってしまった……。

だが……彼は葉月の頭の横をジッと見つめている。

「仕上げだ」

「仕上げ??」

一呼吸置いて……純一は葉月の横……何もない空気を見つめてこう囁いた……。

「皐月……お前が妹をここまで連れてきたんだ……解っているな?

オチビを守るためだ……怒るなよ?」

「は?」

葉月が『何を言い出すのだ』と、現実的な兄らしくないと顔をしかめると……

義理兄の黒い大きな手が……『ヒュッ!』と葉月の肩を越えて後ろ首に回り……

葉月の長い髪を一束にして、そこでいきなり掴んだ……。

そして……!!

『え!!』

また……葉月が動けぬ間に……

葉月のその視界に……一瞬、銀色の閃光が筋を描いたのだ!

一瞬だった……。

葉月の頬には……真っ直ぐに切りそろえられた栗毛の毛先が目に止まる。

『…………ああ……』

葉月が茫然として……今見つめている『目の前の光景』は……

義理兄の大きな手が握りしめている『長い栗毛の切れ端』

彼の右手には、ナイフが……。

船室に入り込んでくる潮風が、葉月の白い首をくすぐった……。

「解っているな……『男』としていくことは……

皐月には……『妹の大切な髪を切った』と夢の中でどやされることにするさ……」

でも……そんな義理兄も、自分の左手で握りしめている艶やかな栗毛を

ジッと……切なそうに見つめてくれている。

それだけで……充分……葉月も解っている。

『断髪』は『最後の仕上げ』

自分で切ることは躊躇っただろう……。

いつもこの栗毛を愛おしんでくれる義理兄が切ってくれたなら……それで良い。

葉月は、頬で短くなって揺れる栗毛の毛先を少しだけ見つめて……

一時……瞳を閉じる。

隼人がよく触ってくれた……栗毛でもあったから……。

そんな、女性としてうつむいている義理妹を見て、

そっと義理兄が肩をさすってくれたが……

その手を気強く払いのける!

「ふん……いい目付きになってきた……さぁ! いくぞ!」

「ラジャー……黒猫さん」

義理兄も情を捨てるかのように、葉月の断髪した栗毛を

船室の床に躊躇いなく捨てた。

船室を出ると……甲板には栗毛のエドが既にウェットスーツを着ている。

船が泊まり……操縦席からコートをなびかせて金髪のジュールも出てきた。

「ボス……傍受したところ第二陣が今、岬下の崖を進行中ですね……

30分後には敵と鉢合うでしょう……」

「そうか……ご苦労。ジュール……

エド……悪いが……『仕上げてくれないか』」

「イエッサー」

『仕上げてくれないか』と言う、義理兄が葉月をエドの方に差し向けたので

(なに? まだ、仕上げがあるの??)

と……躊躇っていると……

「お嬢様……こちらにお掛け下さい」

厳つい顔つきの、義理兄と同じように栗毛の無精ヒゲを生やしているエドが……

戦闘の格好をしていると言うのに……

ものすごい優雅な仕草で葉月を甲板にあるテーブルセットの椅子に誘う。

あまりにも紳士なので、葉月は言われるまま腰を椅子に落ち着ける。

すると……金髪のジュールが、テーブルに鏡をセット。

「あまり綺麗に切るなよ。こいつが無茶に切ったように見せかけろよ

それから……あまり短く男っぽく切るな」

純一が腕組みながら、テーブルの側で見下ろす。

エドがくどいボスに初めて呆れたため息を……。

「難しい注文ですね……。困ったお客様」

(たしかに……) と、葉月が『クスリ』とこぼすと、

初めて義理兄が『フン!』と照れて背を向けてしまったのだ。

葉月がおかしくて笑っていると……鏡の中で呆れて微笑むエドと初めて視線があう……。

彼もニッコリ……微笑みながら……何故か片手には……『美容ハサミ』が

「お許し下さいね? 無事ご帰還されたら……

青山に持っている『サロン』にいつでも来ていただけるよう手配いたしますから……

お好きなまま美容師に言い付けて下さい」

「え!? そうゆう……『分野』もなの?」

「ええ……まぁ……」

そう言いながら、エドは葉月の生乾きの髪を指に挟んで

軽やかに『シャキシャキ』とハサミを入れていってしまう!

(あああ……なんなの? この人達は???)

葉月が茫然と鏡を見入ること1分もしないうちにエドはハサミを降ろしてしまった。

『あーあ』

遠くから金髪の彼がそっとそんな声を漏らしたので葉月は彼を見たが

背を向けて操縦席に姿を消してしまった。

鏡には……首でおかっぱに切られた髪が……丸いショートヘアに変えられてしまった。

後ろは首が丸出しになってしまったが……

義理兄の注文通り……頬に沿う横髪だけは顎まで残してくれたようだった。

「おおざっぱで申し訳ありません」

これまた……どこから出したのか??

ブラシで肩に掛かる栗毛も払ってくれる。

「ボス……如何ですか?」

拗ねて背を向けていた義理兄が肩越しに振り向く……

「ふん……ガキに逆戻りだな。まぁ……元々オチビだからな」

(もう!!)

案の定、意地悪いことしかいってくれない純一に葉月は『イー!』と歯を向けた。

『訓練校生の時のお写真をボスから参考に見せていただきましたので

……その感じでしました』

エドがそっと囁いて教えてくれる……。

(最初から切るつもりだったのね……お兄ちゃま)

葉月は変わり果てた自分の姿を見つめた……。

(たしかに……あの頃の私みたいだ)

そっと目を閉じて……また目を開くといつの間にか鏡には義理兄が映っていた。

「……お前」

彼はそう言いながら……黒い手袋の両手で葉月の目を覆ってしまう。

「な、なに?」

「男を助けにいく『女』として行くのか?

それとも……『中佐』という『軍人』か?」

「……」

葉月はその暗示をかけるような義理兄の囁きを耳に留める……。

「どっちなのだ?」

「ふふ……」

目を覆われている葉月の唇が不敵に微笑む形が鏡に写ると……

そっと純一が手袋を除けて行く……。

「姉様を背負って……『鬼』に決まっているじゃない?」

鏡に映し出された『御園葉月』の瞳の輝きに

純一が『ニヤリ』と微笑んだ。

が……側にいたエドは、初めて畏れを抱いたのか表情が凍り付いていた。

「皐月に似てきたな……行け!」

純一に肩を叩かれて、葉月は椅子から立ち上がる!

素早い海中潜入への身支度にエドが戸惑い始めるが彼も身を整え始めた!

二人揃って、船の手すりに腰をかけると

純一とジュールが並んで見送ろうとしていた。

「頼んだぞ。エド」

「勿論……」

「お嬢様……お気をつけて」

ジュールが敬礼をくれたので……

「メルシー」と葉月も敬礼を返した。

「葉月……お前のアリア……また……聴きに行くぞ」

それが……義理兄らしい『生きて帰ってこい』だと葉月には解った。

「兄様こそ……聴きに来てよね」

『有り難う……ジュン兄様』

葉月はそう囁くとエドより先に背を海中に向けて倒した!

『ザッパン!!』

飛沫の中……沈む海水の水面に……

ジッと見据えてくれる黒い男がいつまでも葉月を見下ろしていた……。