=マルセイユの休暇=

6.御園の長

 潮風が微かに入り込んでくる黒いベンツの運転席。

そこでジュールはバックミラーをひたすら見つめていた。

躊躇って……俯いて……

そうして、また前を見据えて……そしてやっと一歩踏み出して、立ち止まる。

そんな少年の『戸惑い』を、気長にせかさずに見守る。

『さぁ……大丈夫だ……。おじさんが何とかしてやる』

ジュールの『念』が通じたのだろうか? 真一がやっとゆっくりでもベンツに近づいてくる。

「なんだ……エドに早く乗れと言え」

小瓶に気が集中していた純一が助手席外に部下が帰ってきたのに気が付いた様だ。

「その前に……私に一服させて下さい」

ジュールはそれとなく……運転席から外に出ることにした。

「……早くしろよ?」

純一も咎めない。

だが──運転席から金髪の『外人』がさらに一人……出てきたのを真一が気が付き……

また、そこで驚いたのか少年が足を止めた。

「エド……一本くれ」

ジュールはベンツの前を回って助手席側にいる後輩の元に身を寄せる。

「お前も……吸え。ボスに呼ばれないように……」

「解った……」

エドがジュールに紙袋の煙草を一本差し出し……

ジュールがくわえると、エドも一緒に口にくわえて……

それぞれ所持しているジッポーライターにて一息……。

「なんでもない顔しろよ」

「うるさいな……解っているよ」

ジュールは真一に警戒されないようそっと空を見上げた。

エドも、車体に背を持たれて……白いシャツ姿で空を見上げる。

『はぁ……はぁ……』

少年の息づかいが……そっと二人の耳元に近づいてきた。

ジュールとエドは一緒に顔を見合わせて頷いた。

二人一緒にそっと……ベンツから数メートル離れることにしたのだ。

一緒に煙草をくわえたまま……ベンツのボンネットからさらに先に二人一緒に離れてみる。

その……行動が真一の警戒を解いたよう……だ。

フロントガラスの向こう……後部座席で待機しているボスが

やっと……部下二人の『不可解な行動』に気が付いて

ジュールと視線があった。

『何をしている!?』

ボスがそう……身を乗り出したときには、ベンツの背後にはもう真一が辿り着くところ……。

そして──!!

ジュールはいつもの落ち着きで冷ややかな表情にて見守る。

ジュールより幾ばかりか若いエドは……固唾を呑むように緊張した顔に……。

『──!?』

『──!!』

ジュールとエドが目にした……『予想外の光景』!

 

「この! クソオヤジ!! 出てこい!!」

 

真一が父親が微かに見えるベンツの黒窓に……なんと! 思いっきり足をあげて蹴ったのだ!

「ハハ……♪」

ジュールは……思わず笑ってしまい……

「あああ……あんな事を」

エドは顔面蒼白! 見ていられないとばかりに目元を手で覆ったのだ。

勿論──純一が驚いた顔をしたのは言うまでもない。

ジュールとしては『兄貴に対して、してやったり♪』

エドは……『ボスに対して……やってしまった!』とオロオロ……。

そこがこの二人の違いだった。

だが──やっぱり『ボスはボス』

驚きはしたようだが、いつもの冷徹な表情にすぐに戻り……

二人の部下に、一睨みきかせて……

窓辺の外で息切らしている少年を睨み付けているのが二人にはすぐに解った。

「ジュ……ジュール……なんだか、余計な事だったかな?

ボスのこと……例え、息子でも意地悪い事言って傷つけるかも?」

「ああ、大いにあり得るな」

ジュールはフッと微笑んで煙草の煙を吐き出す。

「あり得るって! 可哀想じゃないか??」

ジュールは葉月に対して敏感だが、このエドは『真一様』にはかなり敏感だから

ジュールはまた、面白くて……いつも口減らずの後輩をニヤリと見つめた。

「まぁ……見ていろって……。

お前にも教えてあげただろ? 先月、小笠原に真一様に会いに行った時……

ボスと真一様がどんなやり取りしたか……

真一様は……結構やるぞって……お前も喜んで聞いていたじゃないか」

「そ・そうだけど……」

話で間接的に聞いて笑えるのと、現実目の前にするのとでは違うとばかりに

エドは狼狽えるだけ……。

すると……純一が、スッとベンツのドアを開けて……息子の前に姿を現した。

スラッと息子の前に……黒いスーツの細長い男。

まだ、成長しきっていない身長の真一を圧するかのように上から純一は見下ろしていた。

サングラスは取りはしないようだ。

「…………」

「…………」

ジュールとエドが見守る中……

純一がドアを閉めるなり……

『ガン!』と、自分が閉めたベンツの黒窓……

真一がコンバースのバッシュで蹴った足跡を拳で叩いて真一に見せる。

「傷が付いた。どうしてくれるつもりだ」

「…………」

上から息子を圧する純一。

上から圧せられても負けずに父親を睨み付ける真一。

「ジュールぅ……ほら、見ろ……ボスがあんな事言って脅している!」

いつもは強面で仕事一徹の後輩が狼狽えているのも見物だが……

いい加減、認めている後輩がここまで取り乱すとジュールも先輩として呆れてくる。

「まぁまぁ……見ていろって……」

ジュールはエドの肩を叩いて落ち着かせた。

そして──真一の瞳が、黒いサングラスの父親に向かってさらに輝く──!

 

「こんな気取った車の傷がなんだよ!

葉月ちゃんを傷つけたりして、なんで助けなかったんだよ!

『プロ』なんだろ! どうにもならなかったのかよ!!」

 

『オオ!?』

ジュールとエドは『なかなかイイコト言う!』と、二人揃って顔を見合わせてしまった。

確かに! ジュールもエドも……葉月が林にいいように捕まって触られている時……

何度、純一に『いいのですか? これでいいのですか?』と聞きまくったのだから……。

だけど──ジュールもエドも、そこを『ジッと堪えたボスの目的』は重々解っていた。

納得できなかったら、やっぱりボスの命令に逆らって女性の葉月を助けていたのだから……。

『ボスの目的』──それは、まだ幼い真一にはその『深み』は理解は出来ないところだ。

 

その『深み』……それを純一はどう? 息子に伝えるのだろうか??

二人はまた……一緒に向き合う父子を見守る。

 

すると──

「うう!」

純一がガッと……今日は手袋をしていない手で息子のシャツ、襟元を掴みあげた!

「──ボスは本当に乱暴なんだから」

ジュールはため息をつき……

「あああ……何もあんな事……小さな男の子にしなくても……」

エドは、やっぱりオロオロ……。

青いチェックのシャツを着ている真一のつま先は……石畳からやや、浮いていた。

そして……『ガ!』と純一は軽々と息子の身体事、身を反転させて

黒いベンツの車体に真一の身体を、襟首を掴んだまま押さえつけたのだ!

真一の顔が、苦しそうに歪んではいたが、真っ赤な顔をしてもまだ瞳の力は緩んでいない。

そんな横暴な父親をまだ……いや、さらに輝く瞳で睨み付けている。

「おい。ボウズ……生意気なことを言うが……なんだ?

こんな軽々押さえ込まれる程度じゃ、叔母を守る守らない云々言える立場じゃないぞ」

「うるさい! 出来る奴が出来なかったクセに偉そうな事言うな!」

(うわぁ……)

ジュールとエドは……真一のお返しにまた苦笑い……。

自分達だって、ボスには流石に……あそこまで言ったことがない。

そこは、やはり……『息子』と思うが……

つい最近、純一が父親と知ったばかりの少年が……

父親に『思慕』を抱いて、知らない異国の地を一人飛び出してきたのに……

あの生意気さ……。

「な? 真一様……ボスにそっくりだろ?」

ジュールが笑いながらエドの肩を抱くと。

「ああ。そっくり! 素直じゃない」

エドもやっと飲み込めたのか……さらに苦笑い、煙草をやっと落ち着いて吸い始めた。

そして──さらに睨み合う『父子』を見守る……。

「いいか。ボウズ……助けようと思えば、簡単に助けられる。

だがな……お前の叔母には『自力』で『解決』させたかったから余計な手出しはしなかっただけ」

「でも! なんで犯人に捕まるようなこと!」

「アイツが選んで行動したことは、アイツ自身で責任をとる。当たり前の事じゃないか?

それを、簡単に俺達が手助けをするなんて甘えられていては……『中佐』とは言えまい?」

真一が見上げる父親の顔……。

青い空に白い雲にクッキリと黒い頭の男。

サングラスがキラリとフレームの縁を輝かせて……その奥からうっすらと見える瞳が

冷たく……無表情に真一を見下ろしていた。

彼が首を掴む力は一向に緩まない……真一の身体は車の車体に押しつけられたまま……。

「それに……アイツには『大佐』になってもらう」

「え──!?」

父親が真顔で言い出したことに、真一は驚いて純一の目を真っ直ぐに覗いてしまった。

すると……なんだか照れたように、純一がサッと真一の眼差しから顔を逸らした。

「その為には……アイツ自身で今回の任務をやり遂げて欲しかった……

それだけだ……。どうしても、手の足りないところはフォローしただけだ」

「……葉月ちゃんが……『大佐』? まさか……」

真一は思わず、冗談だろ? と、オオボラな父親に一瞥の眼差しを向けて鼻で笑った。

だって……葉月は今年『27歳』になる……しかも女性じゃないか??

そんな事? あるのだろうか?? と……

だが……父親の眼差しがそんな事を小馬鹿にした息子に

再び戻ってきて……そして、かなり真剣に輝いたのだ。

真一も息を呑む……。

「ボウズ……そうやってのんびり構えているといつまで経っても

『叔母』に負担がかかるぞ……アイツにはひとまず『御園の長』になってもらわねばならない。

わかるな? 叔母の代には男がいない。右京は『辞退』を決め込んでいる

何故か解るか? ボウズ……」

真一のつま先がそっと……石畳に降りた。

父親がそっと襟首を掴む力を抜いたのだ。

だけど……その代わり、サングラスの奥の眼差しが、眩しいくらいに輝いたのだ。

その鋭い真剣な眼差しの方が……乱暴に掴みあげられるより真一の背筋を凍らせたほど……。

その眼差しに釘付けにされてなんだか呪文をかけられたよう……。

そうして、言葉も発しなくなった息子の様子を見て、

純一は『素手』の手で真一の顎をガッと掴んで上に向けたのだ。

「お前の母親が、お前が立派な御園の長になることを望んだからだ。

すべてがお前の為に……葉月はフロリダ本部勤務を蹴って日本へ行き、

右京はお前達を鎌倉で一人見守っている結婚もせずにな……

財力狙いの女達を押しのけ、葉月に近寄る財力狙いの男を押しのけ……

葉月も御園の為に前に進んでいるじゃないか?

そうして右京と葉月はお前を守っているじゃないか?

だが、お前がどんな道を選ぼうが、あの二人は何も言うまい。

御園の『長』を強要もしないだろう……。だが、お前にその気があった場合のために

あの二人はお前の側で……いつも、いつも見守ってその準備をしているじゃないか?

俺はあの二人とは違うぞ。お前には母親の残した意志通り、

『キッチリ』……御園の長になってもらうつもりだ」

真一の額に初めて……緊張の汗が滲んだ。

父親に初めて……素手で触られている事……。

それもあるが……父親の口から知っている大人達の事が次々と出てくる。

いつも霧の向こうに霞んでいるような男だったのに……。

この男がいかに……御園と深く関わっていて……

それに──『母親の意志のため』とハッキリ口にした。

この男は……真一の母親『皐月の為に生きている』

紛れもなく……

『俺の……親父』

そう思えて……なんだか力が抜けてきた。

そんな『反抗意志』を緩めてしまった息子を見て純一がサッと襟首から手を除けた。

そして……ベンツのドアに手をかけた。

背を向けた父親が去ろうとしているのを真一は止めることも出来ず……

でも……『本当に言いたかった事』を言おうかどうかと引き留めたい気持ちが揺れていると……

「『叔母を守れ』と生意気な口叩く前に……早く、立派な『医師』になれ。

真のような『医師』にな……待っているぞ」

「──!!」

後ろ姿の黒いスーツジャケットがマルセイユの青空の下……潮風にそっとはためいた。

真一の瞳に涙が浮かんでいた。

(なるよ! 絶対……医者になるから!! それで葉月ちゃんを守るから!)

心ではそう言っているのに……

「20歳……」

「??」

ポツ……と呟いた息子に純一がベンツの後部座席に座り込もうとした寸前で振り返った。

栗毛の息子が石畳にジッと視線を落として……そして真っ直ぐに視線を父親に上げる。

「20歳で……医者になる!」

茶色の瞳を『キラリ』と輝かせた息子に……純一は僅かに微笑むだけ。

「オマケして22歳だ」

純一が笑ってそう言うと……

「オマケなんかいらない!」

息子がムキになる。

その時には、もう離れていた部下二人はそっとベンツの運転席側に戻ってきていた。

「22歳までは待ってやる」

「なんで? 22歳なんだよ!?」

真一がムキになって後部座席に乗り込んでしまった父親に詰め寄った。

「……俺の独り立ちは22歳だった。……お前が生まれたときだ」

「──!!」

後部座席に父親が乗り込むと……運転席には金髪の男が乗り込み

助手席にはあの栗毛の先生がサッと乗り込み始めた。

そして……後部座席に乗り込んだ父親が何かを座席から手にとって真一に差し出した。

「見舞い品だ……『オチビ』に渡してくれ」

父親が差し出したのは……2匹の熱帯魚が泳いでいる薄緑色の小瓶だった。

「俺が今日捕ったと言ってくれればいい。世話はお前がしろ」

「…………」

葉月が言ったとおり……父親は義妹の事を『オチビ』と言った。

真一はそれを手に受け取る。

その途端に、ベンツのドアが『バタン!』と閉められ、すぐさまエンジンがかかったのだ。

「待って!!」

今にも発進してしまいそうなベンツの黒窓に真一は手を付いて叫んだ!

『本当に言いたかった事』をまだ言っていないから!

すると……スッとベンツの黒窓が僅かに開いてそこから父親がサングラスで覗いていた。

「……大丈夫なのかよ?」

真一が言いにくそうに小声で呟くと……

「何がだ?」

僅かな黒窓の隙間から淡泊な父親の声が返ってきた。

「怪我……したんだろ? それで……去年、母さんのお墓参り来れなかったんだろ?」

真一がぶっきらぼうに石畳に視線を落として呟くと……

「──!!」

僅かに父親が息を止めた気配が耳に届いた。

「……誰に聞いた」

「……アンタと一緒で俺も結構『地獄耳』なんでね……」

真一がそう言うと、助手席と運転席から『ぷ……』という笑い声が聞こえてきた。

カッコイイ先生と初めて見る金髪のおじさんに笑われて真一は頬を染めてしまった。

だけど、純一が一睨みすると、その二人は襟元をただして色ない表情に引き締まった。

「……よけいな心配だ。俺に掴みあげられた奴が言う事じゃない」

(なるほど。大丈夫ってワケね?)

真一だってそれなりに大きく成長した男だ。

その男を軽々掴みあげたのだから……そりゃ、もう怪我も大丈夫と言いたいのだと解った。

「早く、オチビの所に帰れ。

外国で一人うろうろするな、俺みたいな悪いおじさんに気を付けろよ……『坊ちゃん』」

最後は口悪くても……絶対に何か心配してくれる一言。

「……そっちこそ。『ヘマ』して、くたばるなよ? クソ親父」

『クソ親父』に純一が僅かに微笑んだように真一には見えた。

「……」

純一がサッと黒窓を閉めた途端に、ベンツがキュキュキュ──!……と、

タイヤを鳴らし埃を巻き上げて発進していった。

「…………」

人並み行き交う商店街の中……その高級車が小さくなるまで……

真一はずっと、ずっと……たたずんで見つめているだけ。

手の中に『ヒンヤリ』とした魚が入った小瓶……。

『お前が世話をしろ』

瓶についている白い紙に気が付いて……それを開いてみると

「読めないジャン……日本語で書いてよ」

でも……ニッコリ微笑んでいた。

(オヤジが捕ってくれた魚! 葉月ちゃん喜ぶかな!!)

そして……ちょっと痛みがまだ残る顎をさすってみた。

『お前が生まれたとき』

(オヤジ……なんで俺を置いていって独り立ちしたのかな?)

そう疑問に思いながらも……顎を触りながら顔がにやけていた。

『お前が生まれたとき』

その瞬間……確かにあの男は自分の側にいてくれた人なのだと……。

初めて実感が湧いた。

(葉月ちゃん……有り難う)

送り出してくれた葉月にも……

そして……あの栗毛の先生と、なんだかちょっと冷たそうな金髪のおじさんにも感謝をしていた。

真一は、小瓶の魚を大事に腕に抱えて……そっと来た道を戻ろうとする。

ふと……振り向いても……

もう──緑の香りがする公園の潮風の中……黒猫さんの影はチラリとも見えなかった。

 

「お前達……後で覚えていろよ?」

「イエッサ──」

後部座席で落ち着きなく煙草を吸い始めたボスに低い声で咎められても……

ジュールとエドも真顔で答えつつ……お互い顔を見合わせてそっと『ニンマリ』

煙草を吸いながら、そっと後ろを振り返ったボスが

フロントミラーに映ったのをジュールは見逃さなかった。

ボスの『ボウズ』がそっと背中を向けて、一人歩き出したのを黒猫の3人は見届ける……。

 その頃……葉月は、一人病室で落ち着きなくため息をついていた。

(シンちゃんを一人送り出してしまったけど……大丈夫かしら?)

それが気になって、気になって、眠るどころではなかった。

思わず……送り出してしまったが

言ってみれば、ここは外国……。

そんな中、一人十代の少年を外に出させてしまった。

例え、父親と会えたとしても……あの物事に厳しい純一が

息子とは言え、丁寧にここまで帰りも送ってくれるとは思えなかった。

(うううん。エドがいたから……ちゃんと送ってくれるかも?)

そうとも思えて……安心と不安の狭間を揺れているところ。

かといって……自分が今起きあがって迎えに行くのも無理なところ……。

時計を見るともうだいぶ時間が経っている。

(ママも何処に行っちゃったのかしら?)

親がいないのを良い事に、真実を知ってしまった真一を送り出せたのだが

母親が帰ってきて孫がいないことに気が付いて……

その時も……なんて言い分ければいいのかと、葉月はまた一人でぐるぐる考えていると……

 

「あ。 気が付いた!?」

そんな声がして、そっと首だけ起こすと……

「は、隼人さん……?」

白いティシャツに紺のアーマーパンツを穿いている男が

ニッコリ……眼鏡をかけている顔で微笑んでいたのだ。

「どうしたの? ママ……えっと、じゃない、母様から休養に入ったって聞いたのに……」

葉月が驚いて叫ぶと……隼人がそっと致し方なさそうに微笑んで

葉月のベッドの横にある真一が座っていたパイプ椅子に腰をかけた。

「そろそろ、お前が目を覚ますかと思うと眠れなくて……眠たいはずなのにさ……」

隼人はそう微笑んで……そっと眼鏡を外し、パンツのポケットにしまい込んだ。

「…………そんな……しっかり眠ればいいのに。寝ていないじゃない? ずっと……」

「そうなんだけど……お前の顔見たら、眠れるかな?と……」

なんだか隼人が疲れたように笑うだけなので……

葉月は疲れているようだけど、なんだか落ち着きなさそうな隼人に首を傾げた。

でも……

「嬉しい……早く……逢いたかった」

葉月がそっと隼人にベッドから微笑むと……

「俺も……」

隼人からも……やっと葉月が待ち望んでいた穏やかな笑顔が返ってきた。

隼人がそっと立ち上がる。

そして……ベッドの側に立ちつくす隼人がジッと葉月の瞳を見下ろした。

「達也は?」

「……一緒の部屋だったけど、いびきかいて寝ている」

隼人が可笑しそうに笑いながらも……そっと葉月の頬に触れた。

「良かった。顔色も良いみたいだし。声も元気だ」

「うん──平気。もう……平気」

葉月はやっと隼人の優しい手触りが戻ってきたとばかりに……それだけで声がうわずった。

「ゴメンね? 隼人さん……たくさん、ごめんなさい」

涙ですこしばかり瞳が曇って……声もくぐもる。

「なんで? 謝るのさ? お前──すごく立派だったよ。流石、俺達の隊長だ。

そうそう──小池中佐も松葉杖になったけど、たいしたことなく元気だよ。

山中の兄さんも……お前のこと少しは怒っていたけど……

『立派だ』って感心していた……。コリンズ中佐も……お前がまた飛べると知って安心していた」

「そう……そう」

そんな葉月が気にしている事も優しく報告してくれる隼人に……

葉月はすっかり安心してやっぱり、涙を浮かべてしまった。

すると……

「待ち遠しかったよ」

隼人が頬をさすってくれながら……そして短くなった栗毛をかき上げながら……

身体を折り曲げてそっと……葉月の顔に近づいてくる。

葉月もそっと瞳を閉じた。

「私も……」

そう囁くと、それが合図のように彼の唇がそっと重なる。

戸惑うように隼人が葉月の唇をそっと撫でて……そして徐々に唇を噛んで。

やっと葉月が知っているいつもの熱い口づけをしてくれた。

暫くして隼人の唇が離れたのだが……

彼はジッと葉月の瞳を見つめていた。

そして……また、隼人が口づけを繰り返してくれる。

「どうしたの? 息が出来ないわよ」

こんなに熱く唇を欲してくれているのに……葉月は思わずそう呟いた。

「俺も息できないよ」

そういってまた口付けられた。

(んん──隼人さん? どうしたのかしら)

でも──葉月もそのまま『うっとり』

いつも以上に愛してくれる隼人にもう、何も言い返せなかった。

「髪、短くなったけど……小さな頭、余計小さくなったみたいだ」

隼人がまだ、唇を噛みながらそう言って……大きな手で栗毛をかき上げた。

葉月は……いつになく熱くて夢中な口づけを繰り返す隼人を

ただ……『うっとり』と見つめるだけ。 言葉が見つからない……。

「俺のせいだね……短くなったの」

「嫌い?」

葉月がちょっと拗ねて唇を尖らせると……葉月の顔の上で隼人がそっと可笑しそうに微笑んだ。

「……長い方が好きかも知れないけど……

どうだろ? これから伸ばすまで色々な髪型試してみたら? 楽しみ」

「それって長い方がやっぱり好きって事じゃない!?」

思わず照れ隠し……葉月はツン──と隼人から顔を背けた。

「葉月はどうなんだよ? 自分で大切にしていたじゃないか? 長い髪」

「そ・そうだけど……」

「お姉さんにそっくりだ……」

そう言われて……葉月はドッキリ。

隼人が姉のことを口にしたのは初めてだったような気がした。

でも──大好きな姉の妹であることを久々に感じた気がした。

「お父さんに見せてもらったんだ。姉妹で写っている写真

お姉さん……すっごく美人で……お前はすごく可愛いお嬢さんだった。

お前も姉さんが望んでいた通りに『綺麗』にならなとね……

お姉さんがいつも髪結いして、綺麗な洋服選んでくれていたんだろ?」

本当は……隼人と姉の事……沢山話したい衝動は今までも幾度もあった。

だけど……姉の事を口にすると隼人が気遣う反応を見ると自分も辛いから。

言えなかった──。

でも──目の前の隼人は……そんな事サラッと自然に呟いてくれた。

隼人の口から『サラッ』と出てきた姉の姿は……

何かを抱えた悲劇の姉でなくて……

葉月の……ただ普通の『姉』として出てきたような感じだった。

「うん……姉様に負けない……。また、頑張って髪は伸ばす……」

葉月がそう言うと、隼人は優しくニッコリ微笑んで短くなった栗毛を撫でてやっと離れた。

隼人がそう姉の事を自然に口にしてくれた安心感からか……

「隼人さん……お願いがあるの」

「なに?」

椅子に座ろうとしていた隼人の動きが中途半端に止まった。

「あのね? シンちゃんに外にお買い物頼んじゃって……

ちゃんと一人で戻ってくるか心配で……そこら辺にいると思うの……迎えに行ってくれる?」

葉月がそう言うと隼人が驚いたようにして立ち上がった。

「お前──何考えているんだよ!?

真一はフランスが初めてなんだろ? ここは田舎かも知れないけど……外国なんだ。

お前みたいに慣れているわけじゃないんだから……簡単に外に出すなんて!」

「ご・ごめんなさい……でも……」

「でも、じゃないだろ!? しっかりした若叔母のお前らしくないな!」

隼人のその『お叱りと慌て振り』はごもっともだ。

隼人にはまだ……本当のことは言えないけど……。

母の登貴子が帰ってくるまでには何とか真一には帰ってきて欲しい。

そして──無事に何事もなく……帰ってきて欲しい。

こんな事……今までなら隼人にだって頼めなかった。

でも……今は何故か隼人にそんな事……

父親に会いに行っただろう真一の迎えに行かせて……

真一がどんな気持ちを抱えて帰ってくるか解らないが

何があっても上手く対処してくれる気がしたのだ。

解っていても、知らぬ振りをしてくれて……

気が付いても……葉月が言うまではそっとしてくれると……そう思えるから。

そうじゃなくても……

隼人は真一が外に出ていると知っただけで……

葉月に厳しいお咎めを残して……サッと外に出ていってしまった。

隼人が迎えに行ってくれて……葉月はそれだけでホッと安心が出来た。

彼が何度も噛んだ唇を動く右手でさすった……。

『兄様に負けない人』

急にそんな風に思えてくる。

今までは……兄は密かに心の中では『永遠』だと思っていて……

表と裏は別世界だから……裏の世界での『愛情思慕』は別の感情として扱っていた葉月。

だけど……『表』で見つけたものが……徐々に葉月の心を占領していく。

『……でも? 隼人さんにどうやって言えばいいの?』

だが──初めてだった。

『兄様の事……話したい』

そう思わせる男性も初めてだったのだ。

葉月は唇をさすりながら……暫く茫然と日差しに輝く白い天井を見つめていた。