23.元・恋人

管制塔にある空軍専用ロッカールーム。

この島では、女性のメンテナンサーなどもいるので女性専用のロッカールームもあった。

葉月はパイロットとしては、今のところ女性一人なので

いつも広いロッカールームを悠々一人で使っていた。

訓練後、髪を濡らさないように結い上げて身体の汗だけをシャワーで洗い流して

バスタオルに身体をくるんでから、化粧台に向かう。

そこでいつものスリップドレスを身につけて化粧を軽く直す。

ファンデーションだけ薄くのばして、唇の色に近い薄いピンクのグロスをのばすだけ。

後は仕上げに隼人がくれたトワレを以前より多めに振り付ける。

制服に着替えて、髪を櫛でとかして…鏡の前で荷物をまとめて出る頃には…。

隣の男性ロッカーはもうシンとしているのだ。

大ざっぱな兄様方は大勢でシャワーを浴びるだけ浴びてさっさと制服に着替えて出ていくのだ。

男性達には個人専用のロッカーを与えられていたが、女性にはなかった。

忍び込まれて変な下心を持つ男性隊員に鍵を掛けていない間に

ロッカールームを荒らされるのが嫌だという女性達の意見で、

女性達は必ず荷物をまとめて毎回持って帰ることになっていた。

葉月は静かになったロッカールームを出て、先にカフェテリアに向かっただろう先輩達をおう。

「御園中佐」

一人だけ…男性ロッカーから誰かが出てきたようで葉月はハッとして振り返った。

「ハリス少佐…」

葉月の目の前に細長く背が高い…濃い栗毛の彼が髭を撫でながらニッコリ微笑んでいた。

本日は、この葉月の前・恋人。ロベルト=ハリスが率いる『第二中隊第三編成隊、メンテチーム』が

コリンズフライトチームをサポートしてくれた日だったのだ。

隼人が赴任してきてからも何度かこの元恋人とは同じ滑走路で訓練はしたが、

恋人の時と同様にお互い仕事以外の会話は勿論しなかった。

彼はとうとう先日結婚式を故郷のアメリカで挙げて妻を連れて日本に帰ってきたばかり…。

コリンズチームの中でもその話題で盛り上がっていたぐらいだ。

ただ一人…キャプテンのコリンズは…葉月にそっと一言。

『お前。もう気にしていないよな?気にしているならアイツらの口を停めてもイイゼ?』

チームメイトの祝福話にうらめし話…。からかい話。

そんな話を葉月は構わず笑わずいつもの平静顔で聞きながら時折クスリと微笑むだけ。

空母艦から連絡小型船で海上から帰ってくるときも葉月は頬杖一人で窓辺から凪を見つめていた。

コリンズに『彼と付き合っています』とは報告はしなかったが、

さすがは長年葉月の面倒を見てきただけあってか、言わずとも知っているようだった。

『なんのことですか?奥様綺麗な方ですってね。よろしいことですわ。』

強がりじゃない。本当にそう思っている。

付き合っていた恋人の結婚相手はまだ目にしていないが

おそらく自分なんかよりきっと気だてが良くて彼を幸せにしてくれるだろうと確信していた。

アメリカからわざわざ、日本の離島に夫のためにやって来た妻。

それだけで…きっと『ロベルト』を信頼して結婚したのだろうと解るから…。

葉月の冷淡な返事にコリンズは呆れていたが…

『その内。サワムラとかいう側近紹介しろよ。』と

ニッコリ、ロッカールームに姿を消していったのだ。

そんな話の後…。

誰もいないはずの男性ロッカーからその噂の当人が出てきたから葉月も躊躇した。

しかし彼は相変わらず憎めない少年のような笑顔で葉月の横に走ってきた。

「どう?本当は振られたはずの新しい側近さん…」

「別に。フランスで出逢ったときとなんにも変わらないわよ。」

つい…冷たくそっぽを向いてしまった。

フランスから帰ってきてあやふやだった別れ話に改めてお互いに終止符を打った。

その時ロベルトは葉月にハッキリ…結婚を告げ、葉月は隼人に惚れたことを告げた。

しかし、葉月はその時『振られた』事も告げたのに…

後になってから隼人自身が島にやってきたからロベルトの手前ではばつが悪くて仕様がないのだ。

「でも、良かったじゃない。振られたんじゃなくて。」

「別に。相変わらず冷たい人よ。」

こんな照れ隠ししか出てこないから…葉月はロベルトの前では少しも成長していない自分に呆れた。

しかし、そんな素直じゃない葉月はロベルトとしてはお手の物。

いつもの憎めない笑顔でニッコリ優しく微笑んでくれた。

「葉月も…相変わらずだね。ちゃんと言わなきゃダメだよ『愛している』って。」

「よけいなお世話。」

『だろうね…』とロベルトは少しも警戒心を解いてくれない葉月に今度こそはガッカリため息をついた。

二人で暫く無言で歩いていると人通りが多い管制塔と陸訓練館を結ぶ連絡通路に差し掛かった。

「トワレ変えたんだね。似合っているよ。じゃぁね。」

ロベルトは人目を気にしてサッと長い足で自分の歩幅で葉月の先を行ってしまった。

相変わらず細やかな男だった。葉月が香りを変えたことに気が付いたのは隼人以外に彼が二人目だ。

『結婚おめでとう…』そう言いたかったのに…

葉月は素直になれなかったことを悔やみながら…

遠い目で細い背中のロベルトを『じゃぁね。ロニー』と、心で見送った。

(あ。山本少佐のこと聞けば良かった)

葉月はハッとして追いかけようとしたが…。

(ううん。隼人さんとジョイがどうにかしているかも知れないし…)

追いかけようとした足はそう思ってすぐに止まってしまった。

山本は第二中隊の空軍本部員。ロベルトはその同じ中隊のメンテナンスチームのキャプテン。

山本の許可が出てロベルト達が葉月とコリンズのチームに手を貸してくれている。

ロベルトと顔を合わすのは週に一回か10日に一回の周期。

木田君の計画では来週も借りたい予定になっていた。

葉月が何とかしようと思えばロベルトも協力してくれるだろうが…。

ロベルトは本部員ではない。外勤の班室に属している。

本部員の許可無しでは動けないと言うところだ。

『もったいないわ。彼。真面目だし、腕もあるし。キャプテンだし…。

その気になれば内勤しながら外勤もできるのに…。

本部員になれば…自分のチームだって思うままに動かせるはずなのに…』

葉月とコリンズは同じように外勤をこなしながら内勤をする本部員で

二人一緒に一つのフライトチームを管理しているのだ。

葉月は恋人だった彼が真面目で奥手で…前には自分から行かないところをいつも惜しく思っていた。

真面目一本で二年前30歳にしてやっとメンテチームのキャプテンになった彼…。

フロリダ校出身なのに彼は一歩一歩前に確実に進む慎重派。

フロリダ校の出身にしては積極性がないのが

ロベルトのいいところと言うか…もったいないところと言うか…。

そう思った途端に…葉月はなんだか妙な気持ちが生まれてきていた。

(山本少佐を何処にどかすかね?ちょっとさぐってみようなか?)

独りでにやりと微笑んでいた。

なるべく大きな騒ぎにならないよう…にと…。

葉月は久しぶりに『フフフ…』と一人こぼし笑いをしながら…

連絡通路からこぼれる秋晴れの日射しに髪を払って…足取りも軽く歩き始めていた。

そのころ。隼人は不機嫌だった。

先発隊として、遠い第二中隊の本部まで足を伸ばしたのに…。

山本に軽くあしらわれて帰ってきたあとだった。

第二中隊は、第五中隊のような年齢層の外人が多い本部だった。

なんでも山本はその中でも希な日本人で語学力が達者らしいのだ。

その本部の入り口で『山本少佐いらっしゃいますか?』と入り口に陣取っている補佐らしき

恰幅が良い威厳満々のアメリカ人に声を掛けると…。

『何処の誰だ?』と冷たく返された。

隼人は苦笑いをして…『失礼いたしました。第四中隊の…御園の側近であるサワムラと申します』と

改めて頭を下げると…急に…。

『へぇ!君があの御園嬢が頭を下げて引き抜いたって言うフランスの男か!?』と

興味津々に上から下なめるように眺められた。

『頭を下げさせた』という『伝説』みたいなモノが噂になっていて隼人としてはやりにくいったらありゃしない。

しかし…『御園嬢の側近』と言っただけで彼が急に笑顔になったのも気に入らなかった。

『どうだい?お嬢さんは機嫌良く仕事しているかい??』

『ええ。まぁ…。』

『彼女って手厳しいかい?』

『いいえ?普通ですけど』

『彼女一人でちゃんとやっているからすごいよね!僕からも頑張るように言っていたと伝えてよ』

そんな会話をにこやかに隼人に語るおじさんに本部の奥に連れられていった。

(葉月を通してフロリダのオヤジさんに名前売りって訳か)

隼人は先程までふんぞり返っていたオヤジが葉月の側近と言った途端にこのザマ。

これでは葉月も身分を隠したくなるってモノだった。

『ヤマモトなら。あそこにいるよ。ほら…黒髪の…男。』

補佐のおじさんが指さした方向を隼人も眼鏡をかけ直して目を凝らした。

外人が多いこの本部で確かに黒髪の男は目立っている。

五つほど席が向かい合わせに固められている班のようで、

その上座に当たる一席に黒髪の男が書類に向かっていた。

隼人は深呼吸をして彼の席に近づいた。

『初めまして。山本少佐。いつもご迷惑掛けています。第四中の澤村です。』

まずは…下手に丁寧に挨拶…。

黒髪で清潔感ある髪型の男だが、今時のファッションらしく無精ひげを生やしていた。

その男が隼人の挨拶を聞いて驚くわけでもなくチラリと横目で隼人を見上げて

また手元の書類に視線を戻してしまった。

『ふん。アンタが御園嬢の側近か。いつも、いつも。かばっているんだろう?

彼女が側にいるのに俺がうるさいから取り次がないって訳か?

いいよな。毎日御園嬢のご機嫌とって、気に入られているって事か。』

島に来て一ヶ月が経とうとしていた。最初はこんな言葉を気にしていた隼人。

それでも、徐々に葉月と確かな仕事の折り合いがついてそんな言葉も気にならなくなっていたのに…。

ここに来て久々に言われたくないことを初対面のしかも…階級が上の男にズバリと言われたのだ。

隼人の方にまずダメージポイントが入ってしまった気分だった。

しかしここではまだ、喧嘩を売るタイミングではない。

隼人はそう思ってなんとかこらえた。

『ご機嫌取りなんて飛んでもない。冷たいお嬢さんですからね。

それに彼女は本当にいつでも何処かに行っていて側にはいないんですよ。』となんとか言い返せたが…。

『どうだかね!』などときつく返されたのだ。

『こちら、お願いいたします。』

隼人はとにかく用件を済ませて、言葉多く語らない…事務的に対応するのが賢明だと判断。

山本に来週の空軍スケジュールを折り込んだ書類を渡した。

しかし…

『なんだよこれは!』と胸に突き返されたのだ。

隼人の胸に当たって無惨にも持ってきた書類は隼人の足元に落ちた。

隼人は根気よくこらえて…その書類をもう一度拾い上げる。

そして…山本にもう一度差し出した。

『ですから…木田が今まで組んできたモノと同じ書類です。

来週の半ば。そちらのメンテナンスチームをお借りしたいので調整をお願いいたします。』

隼人はなんだか…フランスで言われてきた『冷たい男』がここで役に立つなんて…と思いながら…

山本に無表情に書類を差し出していた。

確かに新人である若い男がこれを毎日されていたのでは堪らなかったに違いない。

隼人が思いのほか冷静なのが山本には驚きだったのか何だかさらに形相が激しくなった。

『おい。新人!判っているのか!?お前の所はなぁ、半端な空軍なんだよ!

いっちょまえにパイロットはいて肝心のメンテがいないなんておかしくないか?

御園嬢にもそう言っておけ!仕事が一つ増えるんだよ!オタクの半端な空軍のお陰でな!

メンテチームを当たり前のように借りられちゃ困るって言っているんだ!』

山本は日本語で隼人に怒鳴り散らした。

周りの外人達はなんだかため息はついていたが、『何を言っているか判らない』と言う風で

誰も山本と隼人の間で繰り広げられているやりとりには反応しようとしなかった。

(なるほどね。木田君はこうして毎日、いびられていたって訳か…)

山本がさも当たり前の理屈を隼人に叩き込もうと大声を出すほど

隼人の心は冷淡に冷めて行くほど…。

(みっともない。大の男がそんなことで怒鳴り散らすなよ)とシラッとしてきた。

『そこのところ、御園嬢にも一度徹底的に叩き込まないとな。

航空ショーを経験した女性パイロットとかいって、もてはやされているのは間違いだとね!

彼女にもそう言っておいてくれ。一度俺の所にこいってな!側近なら言えるだろ?

木田の坊やはお嬢さんが怖くて言えないようだったからな!頼んだぞ!!』

そう言って山本はやっと隼人の手から乱暴に書類を受け取ってくれたのだ。

『宜しくお願いします。』

隼人は『なるほどね』と山本という男がどんな男か判ってとりあえず…そこを去ろうと頭を下げたが…

『ち!いっつも組みにくい日を希望してくるな!』

そんな捨てぜりふを去ろうとした隼人の背中に投げつけてきた。

(別にアンタに頼んでいるんじゃないよ。メンテチームに頼んでいるんだよ)

隼人は何も反応せずに二中隊をやっと出る。

山本の横暴な接し方にはシラッと出来たが…。

やっぱりなんだか悔しさがこみ上げてきた。

『半端な空軍なんだよ!航空ショーを体験した女性パイロットで

もてはやされているのは間違いだって、御園嬢に一度叩き込んでやる!!』

(くそ!葉月はちゃんとやって来たんだ!!)

そう…隼人は初めて…葉月をバカにされて…怒りを持ったのだ。

『彼が来たら、メンテナンスチームを作るわ!!』

いつだったか…葉月がフランスに来たとき…隼人を引き抜いたらどうしたいか…。

昼下がりの木陰で康夫に元気良くそう語っていたのを急に思い出した。

隼人に初めて…葉月のためにどうしたらいいのかが見えてきた瞬間だった。

(メンテナンスチーム…やっぱり…俺が作らないといけないのかな…)

葉月に限らず…コリンズチームがこうしていつまでもメンテチームを借りている肩身の狭さは

今までだっていろいろなところで感じてきたに違いない。

それにメンテナンスチームがないのは葉月のせいではない…。

山本が言うところの不満は葉月に言うのはお門違い。

上の者が決めることだ。それを葉月に間違っているなんとかしろだのほざいて…。

葉月をおびき出したいキッカケにしては笑える理屈だった。

それと同時に…『一度、俺の所に来るよう側近のお前から御園嬢に言え!!』

それにはもっと腹が立った。

先輩中隊だか何だか知らないが…若いといえども葉月の方が上官だ。

あんなに威張り散らして、『俺が御園嬢をたたき上げる』みたいな傲慢さ。

むかっ腹が立ってきた。

それで山本は葉月に手取り足取り?一流の男になったつもりで思う通りに動かしたいのか?と

思うと隼人ですらおぞましくなるぐらいだった。

(あんな男に…葉月を差し出してたまるか!!)

隼人は誰もいない廊下で…革靴の先を壁に蹴り入れた。

きっと…遠野大佐と葉月のパートナーであった姿を、今度は自分もできると思っているのだろう…。

山本の風格から歳も遠野祐介と変わらない34歳ほどの男だった。

葉月が妻子持ちの男でも頼りがいある仕事が出来る男となら付き合ってくれるとでも思っているのだろう…。

隼人は山本をそう感じた。

(冗談じゃない。アンタが遠野先輩になんかなれるモンか!)

隼人はもう見えなくなった二中隊の方にンベッ!と思いっきり舌を出していた。

それでも…

(ああ。あんな男…葉月はどうやって外すつもりなんだよ…まったく…)

急にガックリ疲れが肩にのしかかってきたのだ。

ジョイに山中に早速ありのままを報告してガックリしながら大佐室で葉月の帰りを…

いつも以上に心待ちにしていた所だった。