・・Ocean Bright・・ ◆揺れる隼◆

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3.遠い彼女

「今日も色々あったなー」

 隼人と葉月は、いつもの赤い車で一緒に帰宅。
 まだ日が長いので空は明るいが、19時を回ろうとしていた。

「本当……達也にはやられる……」

 達也が取ってきた『大役』。
 葉月は張り切る達也に『あれを許可してほしい、これもやりたいどうにかしてくれ』と、一日中せっつかれて振り回されたようだった。
 このウサギを振り回すほどの男がやって来て、隼人も横で見ていてなんだか面白い。

 だが──隼人も……。

「俺もー。エディにはやられるよ……」
「本当……エディも仕事熱心よね?」

 もう隼人は源中佐の元での『キャプテン研修訓練』以外の『補助員訓練』は出ていなかった。
 エディが全部、引き受けていて『大丈夫?』と言うぐらい、一日中甲板にいたがるのだ。
 その上、なにも整備仕事がないと……とりあえずいさせている班室から内線がかかってくる。

『中佐! 他に仕事ないんですかーー!』

 エディにそうせっつかれて隼人は彼を説得するのに骨を折る。
 トリシアとファーマーは、まだこちらに来ていなかったがもうすぐという段階だった。
 だけど……エディの噂は徐々に広まり……

『澤村君、よかったら……だけど──君の所のキャンベラ君……貸してくれない?』

……そんな声が良くかかるようになった。

 最初は源からの申し出。

『車庫に一機……どうにもこうにもならないトムキャットがいるんだよね〜。出来れば彼の力借りたいんだけどー。ちょっと目線を変えて診てみたいんだ』

 あの小笠原メンテ頭のキャプテンが疲れたようにそんな事を申し入れてきた。
 そりゃもう……エディはホーネットしか触っていないので喜び勇んですっ飛んでいったのだ。
 しかも──。

『やー。澤村君……彼、流石だね! おかげで助かったよー。ちょっとした観点の違いなんだけどね……おじさん、勉強になったかな〜』

──なんて源の報告が来た。

 エディがバシッと原因を突き止めて、なんなく整備してしまったとか。
 隼人もそれには絶句した。
 さらにその噂が広まり……『澤村中佐の所にAAプラスのすごい整備員が来た』と評判。
 他のメンテチームからも『ちょっと見てみたい』から『貸して欲しい』等。
 エディは引っ張り凧で……今のところ落ちついている。

 

「今夜こそ、早く寝るわ!」

 マンションのオートロック自動ドアを隼人が解除すると、葉月が何故かそんな気合いを入れいていた。

(……ま。俺もそろそろ限界かな)

 ため息をつく。
 頑張り過ぎも良いところかもしれないと……ちょっと反省中だった。
 どうやら平淡大佐嬢はもうおしまいのようで、またウサギちゃんは、元気いっぱいの笑顔でロビーに入ったのだ。

(だから……その顔が……)

 どれだけ俺を惑わせているって、解っているのだろうか?
 いや? 解っていなくてコントロールできていないのは、俺の方じゃないか?
 隼人は一人でブツブツとそんな事を呟きながら、元気良くエレベーターの前に駆けていった葉月の後を追う。

「おかえりなさい」
「あら……こんばんは。白川さん……」

 急に葉月の品良いしなやかな声。
 それに気が付いて隼人も顔を上げた。

「二人揃ってお帰りかい? お疲れ様」

 そこには品の良い老夫妻がニッコリ立っていた。

「あ、こんばんは。白川さん──」

 隼人も葉月と並んで、ご挨拶。

 一階で一人暮らしをしているたけこお婆ちゃんのお隣さんだった。
 三人は昼間は良くロビーのソファーでくつろいで仲良くお喋りをしている仲。
 隼人にもよく声をかけてくれる。
 老夫妻は二人の帰りを待っていたかの様に、奥様は腕に枝豆を一杯抱えていた。
 まだ枝に付いたまま三束ぐらい──。

「これね……頂いたのは良いけど、うちはお父さんと二人だけだから食べきれなくて」

 奥さんがニッコリ微笑みながら葉月に差し出した。

「先日、隼人君のフロリダ出張で、アメリカのお菓子をお土産に頂いただろう? その御礼と思って、受け取ってくれたら嬉しいよ」
「え……」
「よろしいのですか?」

 葉月が戸惑いつつ、奥様から枝豆を抱えて受け取った。

「美味しそうですね〜」

 隼人もふっくらとした房を指で触って、ニッコリとご主人に微笑む。

「ビールのつまみに是非ね。それとも隼人君はフランス帰りだからワインかな?」

 ご主人が照れながら頭をかいた。

「あら……ワインに枝豆なんて、お父さんったら、合わないかもしれないわ」

 奥様も上品にクスクスと笑う。

「いえいえ。そんなに気取った呑み方はしていません。もっぱらビールですよ。私も──」
「美味しそうー。ビシソワーズ! 作ってくれる?」

 葉月が何の警戒もなく隼人にねだったので、ちょっと驚いた。

「まぁ! 隼人君はそんな事が出来るの?」
「え、ええ……まぁ。その独身が長かった副産物というか〜」

 実際、そう驚かれるとなんだか照れくさかった。

「いやー。感心だね! こりゃ、葉月ちゃんも楽だね。さすが、側近さん!」

 ご主人もかなり驚いたようだった。
 葉月はただ嬉しそうにニコニコしているだけ。
 二人はご夫妻に御礼を述べて、エレベーターに乗った。

「帰ったら、早速茹でなくっちゃ……」

 葉月は頂き物を手に抱えて嬉しそうだった。

「全部スープにするには多いなぁ?」
「残りは冷凍にして、今度、豆ご飯に使うの」
「あ。なるほど──。じゃぁ……冷製スープつくるか」
「生クリームたっぷり入れてね」
「はいはい──」

 彼女の愛らしい笑顔に、隼人もつい頬がほころぶ。
 このマンションでは葉月と隼人の同棲カップルはもうすっかり公認でお馴染み。

『あの子がああして男の人と、はばかることなくこのマンションで前に出るって珍しいよー。アンタはよっぽど特別なんだね。大切におしよ?』

 たけこお婆ちゃんにも、そう言われた事がある。
 それは嬉しい『勲章』でもあった。
 ここを出ていく気はもうないし……。
 こうして本当にここで二人きり……。

『私──やり直すから。あなたと……やり直すから』

 フロリダでそういってくれてから……特に葉月は『開放的』になっている。
 なっているのだが──。

 隼人はなんだかまだ拭えない。
 葉月が『やり直す』と言ってくれたのは……たぶん『大好きな兄様を待つのをやめる』
 『忘れる』
 『隼人さんと一緒に頑張る』
 そういう事を決めてくれたと思っている。

 でも──。

(それでいいのか? それだけで……本当にいいのか?)

 達也を手元に引き寄せた心理と一緒だった。
 葉月の中で……そして『謎の男』の中で……それだけで『終われるのか?』
 長年……引きずってきたんだろう?
 隼人にはこの『長年引きずる』気持ちは誰よりも解るはずだった。

 淡い初恋だったはずなのに、隼人の初恋は『こじれまくって』何年も引きずった。
 訳や縁が深いほど……そんな簡単に終われない。
 やっと彼女と面と向き合って……わだかまりを解いたのだ。
 葉月だって『兄様』というからには『縁』が深いはずだ。

『似ている……』
『真さんに似ている』
『父親?』
『伯父?』

 達也と見てしまった『男』は絶対に真一と縁ある男と確信した。

 あんなに真一に似ている男が『生存』している様子。
 真一と関係ある『兄貴』なら……葉月にとっては右京の次に近しい『親戚の兄貴』になるじゃないか?
 義理の兄だ。
 そんな男性と何年も……離れつつも想いあっていた?
 彼は何故帰ってこない? その訳も解らない。
 谷村家は彼を何故隠す? それも解らない。
 何故、葉月は彼を待っている? 離れているくせに何故?
 だから葉月は待ってみたり、諦めて他の男性に身を委ねて、やっぱりダメで元に戻って──。
 そういう繰り返しだったのではないか?

 最近──そんな風に考えが変わってきた。
 勿論……葉月の心の壁も大きかっただろうが?
 いや……その兄貴が存分に葉月を受け入れ、どの男よりも葉月を扱えたとも思える。
 葉月は近くの男性にそれが見いだせないほど……その男に──。

 会って話をしないまま、終われる恋なら隼人だってこだわらない。
 離れているのに何年も待って、そして他の男でもまったく進展なし。
 そんな繰り返しをしている、踏ん切りが付かない恋が……こんな風に簡単に終われるのだろうか??
 それなら……隼人に対して今『開放的』でも、『いつかは──?』

『戻ってしまうのではないか──?』

 隼人はそんな事になりたくないと、拳を握って唇を噛みしめた。

 葉月がエレベーターを降りた。
 隼人も降りる……。

「ねぇ?」

 隼人の背中でエレベーターの扉がスッと閉まった。
 目の前……背を向けている葉月が枝豆を抱えて俯き立ち止まった。

「なに?」
「……今、私が話しかけたのに、何も答えてくれなかった」
「え! そうだった?」

 隼人はハッと我に返った。
 本当に覚えがなかった。
 すると葉月が、切なそうな眼差しで肩越しに振り返る。

「……最近、時々だけど……なんだか怖い顔で考え込んでいるの」
「──!!」

 また『時々』──。
 葉月から目をそらす。
 上の空で考え事をしている。
 そう──近頃、隼人はかなり『情緒不安定』だった。

 喜びも情熱も、焦りも嫉妬も──。
 ありとあらゆる気持ちが、順番に巡ってくる。
 誰にも悟られないように内側に上手く押し込めている『つもり』だった。
 だけど……『同居人』で『相棒』で『恋人』の彼女。
 それ以上にそういう事は鋭い葉月の目は、誤魔化せなかったのだと今気が付いた。

 それに『目をそらす』
 これは本当に彼女がまばゆいばかりで、見ているとどうにも情熱が抑えられないからだった。
 だけど──葉月から見ると……『怖い顔して考え事をして、時々上の空。そして私から目を逸らす』 ……そう思って、今朝だって自分が何か隼人に対して気に入らない事をしている? 甘えすぎている? やっぱりこうして私が『葉月らしくなる』と……『隼人さんは気に入らないの?』…… そう不安に思っていたのだと、今、やっと気が付いた。

 これでは今までと逆だった。
 いつも自分に手一杯の葉月を、ジッと幅広い眼差しで見つめていたのは隼人。
 今は隼人が自分に手一杯で、自分にすら見いだせない自分を、葉月の方が見つけて隼人に教えてくれるなんて──。

「……ごめん。ちょっと忙しくて頭の整理がつかないんだ」

 確かに仕事は忙しい。
 本当に今が正念場だから──。
 隼人はやるせない笑顔を浮かべつつ、額の黒髪をかき上げて誤魔化した。

「ごめんな……もう一度言ってくれる? 言うこと聞くよ」

 葉月の肩をそっと抱いた。

「……」

 葉月は俯いてむくれている。
 その顔もまた……基地では見られない幼い顔だった。

「なんて言ったんだろう? ウサギさんは……」

 ここは3階。
 二人以外は誰もいないテリトリーに入る。
 だから……そっと葉月の肩を胸に抱き寄せて、彼女の横髪に唇を寄せた。

「……」

 彼女の顔がそっと憂いを解いて和らいだが、まだ不審そうだった。

(もう……仕方がないな)

 本当に自分が悪いのだが……今までならしなかったのだが……!

「本当に悪かったよ。だから──」

 彼女の唇をそっと吸った。

「……」

 葉月が頬を染めて、やっと安心したように微笑んで俯いた。

「……たいした事じゃないの。ごめんなさい。私こそ」
「だから……何て言ったの?」
「……どっちが茹でるって聞いただけ……」

 たったそれだけの事と……葉月も改めて拗ねたことに恥ずかしさを感じたようだった。
 でも──自分の一言、一言。
 それを彼に逃さず聞いて欲しい……。
 そういう葉月の気構えこそ、今までにも見られなかった事だ。
 こんな風に……『小さな女の子』の様な表現をするようになるだなんて……。

「いいよ、俺がビシソワーズを作るんだから、俺が茹でるから」
「じゃぁ……私がさやから取り出すわね?」
「じゃぁ……その間に他のメニューをこしらえよう」
「うん!」

 やっと頬を薔薇色に染めた葉月の元気な笑顔。
 それを見てしまっては隼人も先程の考えを改めさせられる。

(本当……ごめん、葉月)

 何を考えていたかは言えなかったから、心で彼女に謝った。
 今の葉月を見たら……それだけで『彼女は俺を見ている、欲している』と感じられる。
 それで心はまた『幸せ』を感じる。

 次は……いつ『あの影』が襲ってくるのだろう?
 ご機嫌を直してカードキーでロックを解いた葉月を見つめながら、隼人は順番に巡ってくる『心の嵐』にまた不安感を抱くだけだった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「はい、頼んだぞ」

 黒いエプロンと、いつものジーンズ姿で、隼人は茹であがった枝豆をボウルいっぱいに、葉月の前に差し出した。

「任せて!」

 こちらもなんだか近頃は女性らしいジーンズ姿。
 葉月が水色の綿ブラウスの袖をめくって、隼人がドンと持ってきた枝豆に向かった。
 ダイニングテーブルの上に大きなボウルが三つ。
 茹で上がりを入れた物と、そこに取りだした豆と、さやの殻を分けて入れる。
 葉月がその作業をしている間に、隼人は他のメニューを作るためにキッチンに戻った。

 ジーンズのせいか、葉月はダイニングテーブルの椅子の上に膝を抱えて座る形に。
 なんだか行儀悪いように見えるが……そこがまた子供のように警戒がないようで、隼人はキッチンからそんな彼女の姿をみて微笑んでいた。

 葉月が一人、真剣に豆とさやと分けている。
 その顔と言ったら……まるで大佐席にいる平淡大佐嬢と一緒なので、隼人はまたフライパンで炒め物をしながら、ひっそりと笑ってしまう。

 テレビもつけていないリビングで、葉月の手作業の小さな音がしてはいたのに。
 急にその音が聞こえなくなったような気がして、隼人はフッとまな板から顔をあげた。

「……」

 葉月の手元が止まって……彼女はジッとテラスの方を見つめている。
 そしてジッと遠い水平線を見るように。
 部屋は徐々に夕日に包まれていて、葉月の白い頬もオレンジ色に……。
 髪の色もハチミツ色に、そして瞳も茶色いガラス玉のように透き通って──。
 その顔は、どこか哀しげで……そして美しいほど透き通っていて──。

 初めて出逢った頃、何を考えているか解らない、そんな中を覗き込みたくなるような……あの頃のミステリアスな葉月そのものだった。
 葉月はそうして一時、海を眺めると……なんだか納得行かないような、怒ったような顔をしてスッと眼差しを閉じ、また、黙々と豆剥きを続ける。

「どうした?」

 キッチンから隼人が出てきて尋ねると、葉月はただニッコリ笑って小首を傾げただけ。

「なに?」

 最近見せている無邪気な笑顔だった。

「……いや、なんでもない」

 その笑顔は嘘じゃない。
 嘘じゃないとちゃんと伝わっている。
 だけど……まだ、どこか葉月が葉月自身に『嘘』をついているような……。
 無理に誤魔化したような──。
 隼人のために無理をしているような──。

(どうしたんだ、俺──)

 今まで、こんな猜疑心はなかったのに──。
 どの男の事も……水に流せたのに──。

──何故!?──

 女性と付き合ってこれほどまでの激しい嫉妬心は、初めてだったかもしれない?
 していたとしても自分の中で上手く消化できていたはずだ。
 それが……どうして出来ない!

 隼人は包丁を握ったまま……トマトを一切れ切ったまま……。
 そのままの姿勢で……静止していたようだ。
 それにも気が付かなかった。

「きっと──私が悪いのね」
「──!」

 気が付いた時には、葉月がキッチンの入り口に背をもたれて立っていた。
 そしてやるせない笑顔で隼人に微笑みかけている。

「お前が悪いって? 何が──?」

 誤魔化した……やり過ごそうとした。
 葉月がこういう事を悟るのは鋭い事を解っていて、こんな姿をあからさまに見せる自分を、誤魔化すにはそうとぼけるしかなかった。

「……あなたを、今まで以上に苦しめている気がする」

 葉月がスッと眼差しを伏せた。
 そういう顔の方が……今まで見てきた葉月のイメージと一致する。

「なにを根拠に俺が苦しむんだろう?」

 隼人は包丁を置いて、サッとエプロンで濡れている手を拭った。
 せっかく彼女が『やり直す』と、素直になって笑顔になって無邪気になって、隼人に数々の幸福と喜びと、情熱を与えてくれているのに。
 そんな状態になってからの方が、隼人の方が逆に『──らしく』なくなってきている。
 葉月はそんな事をとうにお見通しで、それで今朝から隼人の事に不安感を抱いている。
 だから──そんな自分をさらけ出すと彼女の『やり直し決心』を傷つけるような気がして、今、ここではこうして取り繕うことしかできない。

「あのね──。やっぱり『兄様の事』……言わなければ良かったと思ったの」
「言わない方が良い? 言ってくれなかったら俺は知らないまま、葉月一人で心の整理を?」

『それが出来ないから、他の男とも最後まで解り合えなかったんだろう?』

 そう……葉月が教えてくれたから、隼人はこの一年を過ごすことが出来たと思っている。
 そんな事はもうずっと前に覚悟もしていたし、そうでなければ、やっぱり訳が解らない閉じこもるだけの葉月に対して我慢とか出来なかったかもしれない。
 他の男達のように──。

 今の隼人の『苦悩』は、通らねばならない道。
 そして彼女と一緒に苦しむべき物だと……。
 そんな気持ちがフッと心に今湧いたから、それを言おうと口を開くと──。

「遠い人で、帰ってこないの。絶対に、帰ってこないの──。だから……本当にもういいの。それで……ずっと意味のないことをしていたと思ったから。今の私は、隼人さんといる方がずっと意味があるの──。解って……なんて言わない。私は今までずっと隼人さんに寄りかかって見届けてもらって、そうしてあなたを苦しめたんだもの。私……信じてもらえなくて当たり前だと思っているし。それでも──あなたの側にいる」

 葉月はあの無表情さでそれだけいうと、フッと顔を逸らしてダイニングに戻っていく──。

「葉月──」

 隼人はキッチンから出て、そんな葉月の腕を掴んでいた。
 彼女が振り返る。
 瞳が涙ぐんでいた。

「お前──」

 あんな無表情で気持ちを伝えたのも、自分の本当の気持ちを押し込めるための、彼女の完璧なまでのセルフコントロール。
 本当はそうして泣きたいほど、不安なくせに……。

「……信じている。なんで、お前がそんなに苦しむんだよ」

 葉月の頭をグッと自分の肩に抱き寄せた。

「あんな余計な話をしなければ……あなたはこんな風に苦しまなかったって……」
「真実が欲しい俺には……必要な事だと思っている」

 彼女の栗毛を撫でながら、隼人は真剣に言いきった。

「葉月、お前だって……本当は苦しいのじゃないか?」

 葉月が肩先に首を振った。
 鼻先が赤くなって、涙を堪えているが……もう涙は隼人の肩先を濡らしている。

「いいんだ。葉月が苦しいのなら俺も一緒に……」

 彼女の横髪に頬を寄せた。

「それが今どうしてもある葉月だから……俺も解っているよ」

 解っているから俺も苦しい。
 それは言えなかったが……隼人は葉月を抱きしめて、微笑んでいた。
 ちゃんと解っている──。
 彼女が今……俺の手の中、腕の中、目の前にちゃんといる事。いてくれること。いたいと思ってくれていること。

 ただ……それは『今』だから、こう出来ると言うことを、どうして葉月に言えばいいのだろう?
 聞けばいいのだろう?
 彼女もこうして闘っているじゃないか?

 でも──彼女にとっては『彼は影』でなく、しっかりとした『一人の男』として、心の中に住んでいる。
 その男とどうやって闘ってここにいる?
 本当はどれだけ闘って、今こうして微笑んでいるのか──。

 それが知りたいという、知って、どうやって『決心』したのか確かめたいという、隼人のエゴイストを彼女はまだ解っていない──。

 小さな俺のウサギ。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「やっぱり、隼人さんの洋食は天下一品♪ おいしかったー」

 若葉色のクリーミーな枝豆スープに、オリーブオイルたっぷりのドレッシングサラダ。
 そして夏野菜のオリーブオイル炒め。
 それだけ食して、葉月はやっといつもの『ご馳走様』の笑顔を見せてくれる。

「カフェオレ、飲む? 入れるわよ」

 食後は葉月がたいてい動く。

「ああ、じゃぁ──テラスで仕事をしてもいいかな?」
「ええ。仕事じゃなくてもくつろいで」

 彼女の優美な笑顔に、隼人もホッとしてノートパソコンをテラステーブルにセッティング。
 いつものネット娯楽に、仕事に、雑誌鑑賞などをする事に。

(この時間が一番、おちつくなー)

 テラスで何かを勝手気ままにする事も習慣的になり、就寝するまでの隼人の一番自由な時間だった。

 マウスを転がして暫く適当にネットサーフィンをしていると、葉月はカフェオレカップを持ってくる。

「はい、ごゆっくり」
「メルシー」

 隼人の笑顔に葉月も嬉しそうに微笑んでキッチンへ戻っていった。

(相手がいるのも良いことだ)

 隼人はぬるめに入れてくれたカフェオレを口に付け、満足げに夜海を見渡した。
 今夜も水平線まで散らばる漁り火が美しく夜海を彩っている。
 優雅な時間と空間と感触。
 暫く──ジッと何も考えないことにして、ただ景色を眺めていた。
 そのうちにカフェオレが一杯、なくなった──。

(本当に……美味いな……)

 近頃、さらに隼人好みに仕上がってきた気がする。

「もう一杯……あるかな?」

 洗い物をしている葉月に話しかける。

「あ、洗い終わってからでも良かったら入れるわよ?」
「……そう、お願いしようかな?」
「いいわよ」

 水色のブラウスの袖をまくり上げて、泡だらけのスポンジを手に、葉月がちょっと手の甲で額をこすりながら笑った。
 前髪がだいぶ伸びて、以前のようにスッと横分けにするようになっていた。
 顎のラインでおかっぱにしていた毛先も徐々に肩に付き始めていて、つい最近毛先だけ薄くすいて、毛先だけ首筋に細く沿うような髪型になった。
 そうした途端に葉月は女学生のようだった髪型から急に以前の大人びた雰囲気を醸しだしている。

 そこにいるのはなんだか『若妻』のように見えなくもなく……。
 隼人は暫く洗い物仕事に真剣な彼女の台所姿を眺めていた。

「……? なに?」

 一段落ついたのか葉月が洗い物を終えて、水を止め、タオルで手を拭いた。

「いや……」

 そんな彼女を変な観点で見ている『男心』を持っていた自分に気が付いて、隼人はスッと目線を逸らした。
そして……また、ハッとする。

「その……」

 振り返った時には、また……葉月がジッとむくれた様に隼人を見ている。

「ほら……どうしてそうやって目を逸らすの? 私、何かしていた?」
「だから、違うんだ」
「何が違うの──!?」
「──!!」

 結構、本気で葉月が叫んだので、隼人もちょっと驚いた。
 彼女の目は真剣だった。


──『ちゃんと私を真っ直ぐに見てよ!』──

 そんな言葉が聞こえてきそうな程……燃えた眼差しをしていた。
 そんな『女性的』な眼差し……今までしたか?
 隼人がそうおののく程……熱のこもったまなざし。
 そして真っ向から隼人にぶつかってくる葉月の真剣な顔、言葉、眼差し──。

隼人は拳を握って……一つ深呼吸をした。
 そして……。

「……な、なにするの!?」

 キッチンのシンク前にいる葉月の腕を引っ張った。
 ──ガシャン──!
 彼女の背を押しつけたのは向かい側にある食器棚。

「……ど、どうしたの?」

 食器棚に隼人は両腕をついて葉月を囲った。

「解ってくれないなら、教えてやろう? 俺が決して……お前を避けているんじゃないと」
「え……?」
「今朝も言っただろう? 刺激を与えられるから与えないように見ないようにしているだけだ!」
「……!!」

 そのまま葉月の唇を強引に奪った。

「……うっ」

 また彼女のうめく声。
 そして、彼女を奪うようにブラウスの下に手を突っ込んだ。
 もちろんジーンズのボタンも外した。

「ちょ……ちょっと!」
「嫌なら、押しのけるなり突き飛ばすなり、大声で喚くなり……泣くなり抵抗しろよ。俺は今……野獣だ。そうすれば……やめる!」
「……隼人さん……!?」

 言葉の通り隼人は、思うままに葉月のあらゆる衣服をはぎ取るように手荒にしていた。
 ジーンズは隼人の片足が手際よく引き下ろした、その荒々しさに葉月が硬直しているのも解る。

「どうした? いままでなら、怒ったり泣いたり突き飛ばしたりしていたはずだ? ウサギさん」

 その時は彼女のブラウスを思いっきり左右に開いていた。
 ボタンが幾つか間に合わずに飛んだ程。
 その後はすかさずブラジャーのストラップを引き下ろしていた。

『……いや』

 葉月が顔を逸らしてうめいた。
 その時……やっと隼人もなんとか手が止まった。

「これほど、俺がこれほど──お前を欲しているって。こんな事をしたくないから……目を避けている事を……解ってくれたか?」

 やっと葉月の両頬をそっと撫でていた。

「……そんなに?」

 葉月は多少は怯えた様だったが、静かになった隼人の手に触れて意外と冷静になったようで……。

 

「いいわよ……隼人さんだったら奪われるように抱かれても……いい」

 

 葉月が息を切らしている隼人の首に両腕を回して抱きついてきた。

「だから……ただ、そういう勢いがいつでもある事を示したかっただけで……」

 葉月の腕を解いて……なんとか『最後までは』堪えようとまた……顔を逸らした。
 それほど……淫らな荒れ姿にしてしまっていた。

「ちゃんと真っ直ぐに見て。私を!」

 また……葉月に叱られるように突きつけられて、隼人は顔を向ける。

「見て……私を……」

 潤んだ瞳は熱っぽく揺れて、桜色の唇はジェルの様に震えていた。

「……だから、いつもお前は……」
「誘惑って言うのでしょう? そうよ。誘惑しているの」

 葉月はそういうと、自分からショーツに手をかけていた。

「ちゃんと愛してくれないと……許さないから……」

 彼女の眼差しが煌めいた。
 そこから……感じたことがない熱風が隼人を煽っている。

「……ホントにお前は……」
『小悪魔か』

 隼人は、心でそれだけ呟いて……。

 その後のことは──。
 どれだけの情熱と官能と狂おしさと愛しさの嵐が襲った事か──。

 その場も構わない分かち合いが、今、隼人という野獣の炎を燃え上がらせて、そして鎮火させて行く。

『ちゃんと愛してくれないと……許さないから』

 そういった彼女も、随分と燃えていたような気がした。

 彼女はいま……近くにいる。もの凄く近くにいる。
 だけど……それが一時のような感触はまだ拭えなかった。
 確かに彼女に求められて、こんなに愛されているのに──。

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