・・Ocean Bright・・ ◆ウサギ覚醒◆

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5.愛染まる

「どこにいても落ち着かない物だけど、お兄ちゃまといると、なおさらね」

 約束通り、一時間後──カフェテリアで落ち合った従兄妹同士。
 栗毛の優雅なクウォーターの二人が向き合っているだけで、隊員達が一度はこちらに視線を向ける。

「べっつに。俺は気にしないね」
「お兄ちゃまらしいわね」
「誘っておいて、その顔はないだろ、その顔!」
「ふっぐ! やめてよ! 人前で──!」

 『ミルクをたっぷり入れて欲しい』とまで頼んでやったアイスミルクティーを、右京が丁寧に差し出してやったというのに、従妹の葉月は、さも当たり前のように、澄ました顔で口を付け、この言いぐさ。
 なので、右京がいつもそうしているように、従妹の小さくてツンとしている自分と似た鼻を向かい席から腕を伸ばしてつまみ上げると、葉月は首を振っていつも以上に抵抗した。

 ずっと向こうから、若い女性達のクスクス声が聞こえ、葉月が頬を染める。
 いつもは冷たい横顔の……近寄りがたい凛とした若大佐嬢が、大人の従兄にいなされているのを見て、微笑まずにはいられなかったのだろう。

 右京は、まったく平気であった。
 目の前の女性と、いや、従妹と『噂』になるはずもなく、する奴の方がどうかしているのだから──。

「カフェは間違っていたわ!」
「だからって、外に出る余裕もないだろう? いくら大佐で自由がきいても、部下達が走り回っている中、私事で外出は気が引けるしな」
「分かっているわよ」

 だからカフェしかないと、言い聞かせる従兄に、葉月は仏頂面で雫をつけているグラスにさしてあるストローで中身をぐるぐる回していた。

「まったく、そういう仕草……やめてくれ。もっと上品にしてください。リトルレイちゃん」
「はぁい」

 右京の苦笑い、そして『しつけ』めいた小言にも、葉月はツンとしているだけだった。

「なんだ? お前からお茶に誘うなんて……珍しいじゃないか?」
「そう?」

 右京も同じくミルク多めのアイスティーをスッとすする。
 いつもは引っ込み思案で、出かけたがらない従妹を、引っ張り回したいほど誘うのは右京の方だから──。

「ねぇ? お兄ちゃま?」

 すると、すぐに降参したのか、葉月はしおらしい眼差しで右京に微笑みかけてくる。
 『なんだい? 葉月』と、目尻を下げてしまう、右京が弱い妹の顔で──。

 だが……その表情はすぐに曇り、なんだか戸惑いをみせる少女のような暗い顔に。

「どうした?」
「おかしいの。最近の私──」
「普通じゃないのか? お前が感じている『変な自分』とやらは──」
「! そうなの? やっぱり……」

 従妹が感じている『最近の私は変』という現象が、何の事であるかなんて、大人の立場にある右京には、とんとお見通しの事だった。
 そして葉月も……なにやら、答は解っていたんだけど、でも、違うかもしれないから『お兄ちゃまに聞きたかった』という顔だった。
 従兄が突きつけた答は、葉月が思っていた答と一致しているようだ。

「あのね……変に涙がでちゃったり。今までの事が虚しくなったり、私がここにいる意味がないような気がしたり。今までやってきて確かにある事実が、実は嘘だったのじゃないかって……そう思っちゃうの──。一生懸命、生きているつもりなのに、この先、何があるの? 何が待っているの? と……なんだか、変にこれからに期待がもてないと言うか、期待を持ったとしても不透明すぎて、とっても怖く感じるの──」
「なるほど──」
「まるで思春期の女の子だって、隼人さんが言うのよ」
「ほぅ〜遅れ馳せながら、お前にも思春期ね?」
「今頃? そんな事ってあるの? お兄ちゃま……」
「お前の場合はね。忘れた時期に来るべき物が来ただけじゃないのか?」
「そうなの?」
「そうさ」
「そう──」

 さも当たり前と、澄ました顔で紅茶をすする従兄の静観している顔に、葉月が困ったように首を傾げていた。

「そういう事を考えているって事は──。お前……なんだか決めかけているのか? 『軍人以外の生活』──」
「解らない──」

 『軍人以外の生活』──それが、この場を捨てて、想い人に身を任せる生活を考えている事。
 つまり、想い続けてきた……そして、想い描いてしまっては辛いだけで、いつかは諦めてしまっただろう従妹の女性としての『夢』。
 『義兄との生活』──。
 それを、葉月が意識し始めているのだと、右京には悟る事が出来たのだが……。
 葉月は、それを解っていながらも、どこかで『そんな事は、考えられない』と……今まで自分にかけてきた呪文を解けきれない状態であるようだった。

──『今までの事が虚しくなった』──

 なんて……葉月が思う訳。
 この表世界で自分で生きる為に、兄達を頼りつつも、確固たるポジションを確立してきた事は、どんなに年上の右京でも立派と認めている事実である。
 それが『虚しくなった』というのは、それを覆すほどの状況に、男達が追い込んでしまったからだと、右京は思っていた。

 葉月に与えてしまった『虚しさ』は、そうして、今までは『やってはいけない事』へに対して『良く考えろ』と男達が言い出した為であり、今までは『全う』に踏ん張ってきた葉月に対し『兄達の言いつけ通りに頑張ってきた事を捨てて、女になっても良い』などと言っているから、急に、捨てる事に対し、葉月が虚しさを感じ始めているのが、右京には解ってきた。

 まるで──仕事を辞めざる得ない『結婚』を考えさせ、選択させているような物だ。
 葉月が、そんな方向に感じている……と、言う事は、つまりは、『この世界と縁を切り、この世界にはいない想い人の所へ行く』という事を、確実に考えさせられているという事だ──そう、義兄の元へ、なにもかも捨てていくという事の『現実』について、葉月は初めて向き合っている。
 もう──想像だけの『夢』では終わらない、それでは済まされない『現実』と言うものに──。

 そして、今まで自分が苦労を重ね、築き上げてきた『現実』も捨てきれない『迷い』──しかし、もし? 自分がいなくなった場合に予想される事。
 それが意外と……軍隊では、いや? 社会では意外と何でもない事である『社会性』も葉月はよく知っているのだろう。
 つまり──『辞めたら、それまで』。代わりもいくらでもいる。そういう事にも気が付いているようだった。
 そこからくる『虚無感』なのだろう──?

「ごめんな。葉月──」
「やだ。やめてよ……お兄ちゃま!」

 神妙に頭をちょこっと下げた右京に、葉月が背筋を伸ばすほど驚き、そして周りを気にしてきょろきょろとしていた。
 右京もすぐに頭は上げたので、葉月はホッとしたようだが……やや茫然としている。

「お前にとっては、『大どんでん返し』だよな? 今まで反対され続けてきた事を……今更ながら、『やってみろ』なんて“俺達”が言い出しているんだから──」
「俺達って? ロイ兄様にはなんにも今回の問題は告げていないわよ? 私──」
「さぁ……もしかすると、今回はロイもOKかもしれないぞ?」
「まさか──」

 葉月は引きつり笑いを浮かべていた。
 なにしろ、一番強固な態度で、義兄との接触を阻止してきたお兄様が、実は今回は、今までとは違う考えで、影ながら動いてくれている事など、知るよしもない事──。
 だが、右京は一呼吸、深呼吸をしてから……苦々しい表情にて、意を決したように葉月に語り出す。

「そうだけどな? でも──今まで、そう……純一ですら、葉月があるべき場所は『ここである』と、俺達は強要していたんだ。お前もかなり疑問に思いつつも、だからって素直に飛び込む事は勇気がいる事だと判っていたんだろう? だから、『ここ』で頑張ってきたんだろう? だから──“俺達”も、葉月が『ここ』で上手く生きていけるように、サポートしてきたんだ。俺は兄貴として、ロイは上司として、そして……純一も……裏の立役者としてな。そして、葉月が『ここ』で『平凡な女性としての幸せを見つける』事。そして、任せられる最高の男を、葉月自身が見つける事──。それが『一番良い方法だ』と思ってきたんだ。“俺達”が勝手にな……。その通り、お前は澤村という実に素晴らしい男性と出会い、お互いの絆を深め、お前に目覚ましい『進歩』まで見いだしてくれた。俺もロイも──きっと純一も最近までは『これで、よし』と思っただろう……。ここまで来て、今更──お前達の思う通りにしたらどうだなんて……いくら澤村の真摯な決意が向かわせくれた結果とはいえ、本当に勝手だよな……」

 だから──『ごめんな』と言う意味は、葉月にもちゃんと理解できたようで、そして、『今更、責める気もない』という笑顔を見せたのだ。

「その点は大丈夫よ。私も随分と反抗的だったと思うけど……自分でも頭では分かっていたのよ。言ったでしょ? 割り切り悪かったのは私の問題で。お兄ちゃま達の私を心配し、心より幸せになって欲しいという好意に愛情は、充分に伝わっているの──」

 そんな葉月の笑顔に右京は救われたように微笑んだのだが……。
 その笑顔が知っている従妹ではないような違和感にも包まれた。
 しかし、その違和感は、右京にとってはなんだか『新たなる期待感』を持たせる笑顔で……暫くは、従兄として受け入れがたい何かを感じたのだ。

 そして──葉月が、気後れした笑顔で、尋ねてくる。

「純兄様も──? 本当は、私が『ここ』にいる事が『最善』と願っているの? いつも? 必ず? 今までもこれからも……?」

 葉月の探るような……解らない答をそこで見つけようとしているかのような疑問的な眼差し。
 右京は緊張しながら、そんな従妹が真っ直ぐに突き詰めようとしている『答』に、変な道しるべにならないよう、慎重に、もう一度、語り出す。

「ああ。『本心を殺して』でもだ──。それが『お前の為』と、アイツも割り切ろうとしていたと思うぞ」
「それはつまり……右京兄様も? ロイ兄様が気が付いていたように、純兄様の本心は知っていたという事?」
「……」

 右京は答に詰まったが……。

「ああ、知っていた。隠していた訳じゃない。それは純一も望んで『割り切ろうとしていた』から──それに従ったまでだ」
「……じゃぁ、私は……」

 そこで、葉月が少し、恐れたように俯いたのだ。
 その顔……迷い、そして……解けない呪文。
 葉月自身も『もう、割り切ろう──忘れよう。兄様達が言うように世界が違う、結ばれない一時の男性』と何度も自分に言い聞かせてきた『積み重ね』もあるだろう──。
 だが──右京も、もう……今回は『覚悟』を決めていた。

「そうだ。葉月──戸惑う事はない。純一は、お前を愛しているし……お前が必要だから、会いに来ていた。会っていた時間は、アイツにとっては最高に幸せな『ひととき』だったと俺は思っている。葉月──お前と同じさ。お前とのささやかな『幸せなひととき』を夢の時間と割り切りながらも、それを支えに、純一も……自分が決めた世界で踏ん張ってきたと俺は思っているし……見届けているつもりだよ」
「──純兄様にとっても『幸せなひととき』……?」

 その時、葉月の瞳が……熱く潤んだのを右京は見逃さなかった。
 だが──葉月はグッと堪えたようで、すぐに瞳は通常の輝きに戻ってしまった。

 その潤んだ眼差しは、間違いなく『女』であった。
 女性とのロマンスには『百戦錬磨』と自負しても良いこの右京が、何度となく見てきた『愛に染まり煌めく女性』がする眼差しだった。

「もう……躊躇う事はない。葉月──感じるままに、いけばいい。純一も、今回は、きっとそうしてお前を迎えに来てくれるだろう」

 右京が確固たる真顔で囁くと、葉月が照れたように、でも、やっぱり戸惑いはあるようで、本当に初恋をしている少女のように俯いたのだ。
 その『少女のように恋に戸惑う従妹の顔』は、右京は何度も見てきていた。
 それは、異性には心を閉ざしてしまい、恋心には鈍感になってしまった従妹がたまに見せる『ささやかな愛らしさ』であったのだが──。

(いや──今回は、かなり振幅が激しいぞ──)

 先ほどのような『煌めき』を、もう一度、確かめたく……右京はつぶさに、葉月の細かい表情の変化を見守っていたが──。
 それだけだった。
 そして──戸惑う葉月が、急に溜め息を漏らした。

「でも──純兄様だって、来るとは限らないし……」
「分からないぞ? 澤村も言っていただろう? お前がこんな状況にあって、アイツも今度は顔を出すかも──。元より、お前の『パイロットとしての晴れ姿』楽しみにしていると思うしな。ショーを一目見ようと、そこまで来ているかもしれない」
「……」

 葉月が黙り込んだ。
 今度はロイに対する『まさか』という気持ちは、純一には感じないようで──?
 そこに『会いに来てくれる』と信じているような葉月の顔に、右京は首を傾げた。

「なんだ。純一の事は、信じているのか?」
「……」
「どうした?」

 葉月がジッと右京を見つめていたのだが……心を落ち着けるかのように、ストローに口を付けていた。
 一口、紅茶を飲み込んだ葉月は──。

「会いに来たみたいよ? 隼人さんに……」
「なに?」
「先週、おかしな事に、滅多に止まらないカタパルトが発進寸前に、止まってしまったのよ。慎重な隼人さんがそのチェックを怠るわけもないし──。もし、止まったとしても、空母艦の整備員が迅速に対応するはずなのに──。彼が自らコントロール室に向かったら……彼、戻ってこなかったの。しかも……私は空にいたから分からなかったけど、細川のおじ様まで動いていたみたい」
「──! それで!?」
「これまたおかしな事に……隼人さんはコントロール室で、右手を切ったとかいう負傷の上、失神していたんですって。彼は『うっかりしていた、慌てていた』と言っていたし、細川のおじ様は、あまりお咎めもしないで、『澤村は疲れているのだ』とだけで、サッとその事を流してしまったのよ? どう思う? お兄ちゃまなら──」
「へぇ……それは、それは──」

 右京は苦笑いを浮かべていた。
 その話に、右京としては、従妹同様に『来ていたんだな』と直感できたからだ。

「……隼人さんが何も言わない様子、それから、その件が起きた後に、今まで以上に彼が落ち着いているように感じるの……」
「つまり、純一と面と向かって『話し合った内容』に、澤村は満足してしまっていると言う事か?」
「教えてくれないから良く解らないけど──。彼、以前は見えもしない義兄様の事を、何とか見いだそうと、たった一人でも苛々していた部分はあると思うの。それに、何故、姿を現さないのだ……とか、色々。それがすっきり解消されたみたいに──。とっても、落ち着いているのよ」

 従妹のその話しぶりに、右京は『わかる、わかる』とばかりにウンウンと唸る。

「それは、お前が感じている通り、澤村の中では、純一という男が『明確』になり、ある程度の『あるべき自分』に落ち着いた。と、言う事だな」
「……やっぱり、そうなの……」

 葉月の深い溜め息。

「最初は、純兄様が、いつもの『無愛想』でつっけんどんに接したのならば、隼人さんも受け入れがたかったかと思っていたんだけど」

 溜め息を漏らす葉月の予想に、右京は声を立てて笑った。

「あはは! そうそう! あの無愛想さが『喧嘩売っている』と勘違いされやすい奴だからな〜!」
「でも……その後の隼人さんの落ち着きを見ているとね? なんか……こう……純兄様とは対等になったというか、兄様に対する不安がなくなったみたいな、さっぱりした顔をしているように、私には見えるの。勿論──接触していると言う事が前提だけど、その仮定をたてたのなら、しっくりする落ち着きが、接触したと知らない者からみると逆に不自然で。それでいて、あそこまで落ち着けてしまえる彼の『決意』がとっても怖いわ──」
「……」

 従妹のその予測も、右京も頷ける見解であり──そこまで、隼人の事を見て見ぬふりしつつも、彼の考えをきちんと見定めている従妹に……何も言えなくなってくる。
 ここまで、お互いに……今の状態がどうであれ、通じ合っているではないか?
 相手の為、相手が思っている事──こんな風に、奥底で理解し合っている従妹とその恋人である青年。
 それも……捨て難き関係である。
 そして──その恋人の青年の今の達観した状態が『怖い』という従妹の気持ちも、解らないでもない。

 人があそこまで、突き抜けるられるものだろうか?
 貫き通せるものだろうか?

 それは並大抵の精神力では出来ない……いや、そんな人間は見た事がないと言いたいのだろう。
 だが──葉月の目の前で、葉月の為だけに、その男性が貫こうとしている『想い』。
 あるはずない、人間がそうは辿り着かないだろう『境地』に行こうとしている男性が、自分の目の前にいる。
 誰も心に踏み入れさせようとしなかった従妹──人は皆、誰も同じで、信じる価値もないと思っていただろう従妹が、あるはずもない『まさか』を今、目の前にしているのだ。
 だから──『怖い』のだろう。

「でも──彼にとても感謝しているの。本当に──」
「!」
「愛しているって、言えるんだけど。もっと違う、もっと自然に、もっと……彼に良く通じる『目に見えない力』で、伝えたい……」
「──!」

 今度は、しんなりとした手つきで、恥じらうように紅茶をストローでかき回す従妹の目が……『煌めいた』のだ。
 そこには、頬を染め、血が通った暖かみがある表情、そして──艶がある声。
 右京は目を見張った。

「……お兄ちゃま……『愛している』という、なんだかとっても滲むように広がる暖かい気持ちって。これは、隼人さんが教えてくれたと思うの」
「……だろうな」
「でも──その気持ちを知って、違う所にも、うんと熱くうごめく焦がれる様な熱い気持ちもある──それにも気が付いたわ」
「それが、純一?」
「……」

 葉月がこっくりと頷く。
 その顔は、今度は微笑んではいず、神妙であったが──恥じらいを含めた顔つきは、とてもしっとりとしていて、これが従妹でなかったのなら、右京はその頬に手を伸ばし、触れてみたいと思ったほどの愛らしさだった。

「そうか──」

 今度は、右京が長いため息を漏らす。
 彼の長い足は、横向きに腰をかけたテーブルの外枠へと投げ出され、そこでスッと組まれる。
 そして、溜め息を漏らしながら、腕も組み──彼はジッと従妹を見据えた。

「な、なに……? そんな怖い顔をして。私、おかしな事を言った?」
「いいや。言っていない」
「じゃぁ……なぁに? お兄ちゃま……」

 その右京が放った真剣な眼差しが、いつもの『何かを厳しく伝える姿勢』である事に気が付いているから、葉月が怯えている事は分かっていた。
 だが──右京はそのままの姿勢と顔つきで進める。

 その右京が、静かに葉月の前に差し出した物──。
 彼の制服スラックスのポケットから、古びたビロードの巾着が現れる。
 紺生地で、金色シルクの縄紐で口元が絞られているのだが、右京がテーブルに置くと、『ゴト』という重厚な音が響いた。

「これ……!」
「渡しておく──」
「でも──!」

 葉月は一目で……その古びた巾着の中に何が保管されているか判ったようだ。

「葉月──。俺は……お前がこれを登貴子伯母さんから譲り受けた後、それを管理する事を任された時に、お前に言っただろう?」
「……でも……」

 葉月は戸惑いを見せていた。

「まぁ──その、俺としてはまっとうな『挙式』にて、ドレスを着たお前が指につける日というのを願っていたんだが……」
「……私もそのつもりだけど──」
「いや。お前は──今回、必ず……自分なりの『愛』を見いだすだろう──。行ってしまってからでは、遅い」
「!」
「まっとう……なんて、どうでもいいじゃないか? そうだろう? そんな事にこだわる事ないさ──」

 右京は、致し方ない笑顔を浮かべながら……スッと、さらに前へと葉月に巾着を差し出した。

「行ってしまうって──」
「……そりゃ。お前の答は俺に判るはずがない。でも──『たぶん』……そうなのだろう? そうでないと、おかしいじゃないか?」
「お兄ちゃま──」

 そこには……『お前は、もう、俺の目が届かない所に行ってしまう』という右京の『覚悟』が現れている。
 それを知った葉月は、先を見通しきっている従兄に、申し訳なさそうな顔で見つめてくる。

 その視線を、右京はサッと避ける。
 何故なら──やっぱり、手放しがたい『従妹』だからだ。

「その指輪を見せてみろ──。そうすれば、純一は俺に気兼ねせずにお前を連れて行ってくれるだろう。アイツにはそう話してある。お前が誰かと一緒になる時に渡すと決めていたと──」
「お兄ちゃま──」

 右京の目の端に……今にも泣きそうな葉月の顔がある。

「大丈夫。純一は……お前を一番に生きてくれるはずだ。勿論──澤村でも、俺は大丈夫だと思っている。だが──どうも、俺にはそうとしか考えられない。後は、葉月次第だ──。ちゃんと考えて、後悔しないようにしろ。分かったな」
「……有り難う」

 右京の言いたい事を解ってくれたのか、葉月がやっと紺色の巾着を両手に包み込んでいた。

「それから──最後に。余所に連れて行ってしまう前に、一度、殴らせろと言っておけ」
「……うん」

 葉月の力無い返事に……迷いはあるだろうが、そこに従妹が決めかけている心情を、右京は確認できたような気がして……。
 そのまま、立ち上がる。

「あの……明日、パパとママが……」
「挨拶してから横須賀に帰る。その後は俺も忙しい──。既に始まっている全国公演会を高田夫妻に指揮を任せたままで、主要都市の演奏指揮は、俺がやらなくてはいけないから──式典には参加できない。帰ったらすぐにツアー出張が続くからな……」
「そう……」
「それと、これは『お兄ちゃんの命令』だ。パパとママには言うな。後の事は俺に任せてくれ。純一も、そうなればやらねばならない事も出てくるから、俺達に任せていればいい」
「そうなの? でも──」
「命令だ。なにもお前からは言うな」
「分かった。そこまで、言うなら……そうするわ。今回も何も言わない」
「よし──良い子だ」

 『女』となり、愛に染まり行く従妹を直視できなかったが、右京はやっと笑顔で彼女を見下ろした。

「……別に、これが別れでもあるまいし……」
「……」
「純一に、たまには葉月を返せとも言っておいてくれ──」
「……うん。“そうなったら”ね……」
「……」

 まだ決めかねているような、自信がなさそうな従妹の返事であったが──。
 右京には分かっていた。
 そうでもしなければ──この件……また、いつかどこかで巡って来るに決まっている。

 今度、従妹が逃げても、純一が逃げても──そのような事になれば、今度は、この為に身を引いた隼人は、直ぐには葉月が出した答を信じないだろう。
 もし──葉月が、ここに残ったとしても、彼女自身──今度は『隼人を選んだ事を信じてもらう』という難関が待っているのだ。

 ま……どちらを選んだとしても、従妹にとっては──既に『己との決着と戦い』でしかないのだが。

「では、俺は──ロイと約束しているからな」
「……有り難う。お兄ちゃまとお話しできて……ちょっと、迷っていた事も解りやすくなったかも」
「そっか……」

 そこには、右京が愛でてきた愛らしい従妹が微笑んでいた。
 それには……何も考えず、右京はいつものお兄ちゃまの笑顔をこぼす。

 それが……いつまでも従妹の眼の奥に焼き付けておいてもらいたい気持ちで──。
 そこを後にした──。

 高価な指輪であるから、葉月は巾着から出そうとはせずに、ギュッと握りしめたまま、その席に座ったままだった。
 エレベーターに一人乗り込んだ右京は、彼女の物憂うい表情で……しかし、やはりその苦悩する悩ましさが漂っている従妹を遠い眼差しで見送る。
 扉が閉まっても……その愛らしいばかりで、そして、頑なになってしまった小さな従妹が、本当に男に愛され、そして愛される事から愛する事を知る艶やかな女性へと遂げていこうとする姿を……眼に焼き付けていた。

 確信していた。
 従妹は絶対に──右京の『親友』である、彼女の義兄の所に……行ってしまうだろうと──。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「ただいま──」

 従兄から渡された巾着を、胸に大事に抱きしめ……葉月は、本部へ戻った。

「おかえり〜……兄ちゃん、どうだった?」

 そこには、妙に気が抜けた顔で、珍しくぼんやり気味のジョイがいたのだが──。

「どうかしたの?」
「別に?」
「それなら……いいけど。あとは本番実行のみになったとはいえ、ジョイがそうして何もしていないと、ジョイじゃないみたい──」

 しかも……ぼんやりと溜め息なんかついたりして。と、葉月はいいそうになったが、そこは探られたくなさそうなジョイに気遣って口をつぐんだ。

「あのさ──お嬢」
「なに?」

 頬杖をついて、席からチラリとした視線を葉月に向けてきたので、葉月も、それなりに微笑み返してみる。

「今、ちょっとだけ二人きりになれる?」
「は? 珍しいわね」

 数ヶ月前までは、任務負傷で内勤に励んでいた葉月とジョイは、一緒にランチを取る習慣があったが、葉月が外勤訓練にも復帰した為、近頃では二人きりになって何かを話し合う、向き合うと言うのは希になっていた。

 しかし──今までは『何かあれば、報告』を怠らない姉弟分の仲だった。
 だが──葉月は今回の事は、ジョイには話していない。
 むしろ……その余裕がなかったとも言いたいし、もっと言うと、ジョイの最近までの勤務状態は、そういうごたごた私情を持ち込む事には気が引けたし……。
 最年少中佐のジョイが、一番の功績を作り上げる一番の勝負所と言っても良い『職務』の真っ最中だった。
 ジョイには思い切り、仕事をして、成功して欲しかった──。
 だから──言えなかった。
 そして──『従兄のロイから聞いている』と言う事も分かっていたし、ジョイは、隼人が別居宣言した理由も、達也と揃って把握している事も、分かっている事である。

 「屋上──行こうか」

 葉月が戸惑っている間に、ジョイからスッと席を立ち上がった。

「兄さん、ちょっとお嬢と出かける。すぐに帰るから──」
「ああ、どうぞ」

 ジョイは相棒隣席の山中に一声かける。
 山中も、書類に向かったまま、無表情に二人をすんなりと送り出してくれた。

「行こう。お嬢──」
「う、うん──」

 そして──これまた久しぶりに、ジョイに手首を掴まれ、葉月は引っ張られるように本部を再び出る事に──。

 ジョイが引っ張って行く自分の手首を葉月は見下ろす。
 その手は……自分の手より大きく、そして手首は逞しく──そして……もう、葉月が知っている可愛らしい力ではなく、とても強く引っ張っていく。

『レイ──! ダメだよ。家にばかり籠もっていちゃ! 渚に行こう、渚に!! ジュディとユリアも待っているよ!!』
『嫌だ! 離してよ。私はどうせ泳げないのよ!!』
『泳がなくてもいいよ! 空を見て、一緒に笑うだけだよ!』
『空を見て?』
『そう、馬鹿みたいに、笑うんだ! それだけ──』

 葉月の脳裏に……そんな幼き日々の記憶が蘇った。
 一番歳が近かったジョイが、毎日、一生懸命、葉月を訪ねに来てくれた。
 いや……ジョイだけでなく、ジョイの姉ジュディも妹のユリアも──。
 葉月がアメリカで出会った一番近しい、新しい姉弟妹のようなフランク次男一家の子供達。
 彼と彼女等のおかげで、立ち直ったと言っても過言ではない。

 その中でも、女性としての本能を内側へと押し込めようとしていた葉月が、一番、楽しく打ち解けたのが男の子のジョイだった。
 ジョイとの遊びは、楽しく、いままでにないスリリングを味わった。
 男の子の遊びは大胆で、新鮮で──そして、煩わしさを忘れた。

 ただし──それは、『ジョイとだけ』。
 他の男の子とジョイが遊ぼうとすると、葉月はスッと逃げてきていた。
 あとで、『お嬢を一人にしてごめんね』などと、ジョイは謝るのだが、葉月はそこは心苦しい所だった。
 ジョイにはジョイの付き合いがあるのだから、自分の事は気にしないようにとも言ったのに──。
 ジョイはちゃんと葉月の心の奥底を解っていて、一緒に遊ぶ約束をした時は、絶対に他の男の子達とは約束をしなかったし、きっぱり断るのだ。

 勿論──そんなジョイには不利な噂もたったし、彼の同級生達は、そんなジョイを散々からかったりもしていた。
 しかし──そこがジョイの持ち味、才能というのだろうか?
 葉月との付き合い、同級・同性との付き合いというものを、幼い頃から上手くコントロールして、彼等との付き合いも怠らない。
 その結果──いつもジョイの『主張』が認められる。
 だから──葉月とジョイが二人きりでいる事も、多少の場を楽しく盛り上げるからかいに使われたりもしたが、『姉弟』という様な関係で認められてきた。
 多少、皆は影で疑っていたかもしれないが、そんな事はお互いに芽生えもしなかった感情なので、やっぱり噂は立ち消える。
 さらに、そんなジョイが上手く両立してきた関係にあやかって、年下であるが親しくしてもらい信頼できる『男友達』が葉月にも出来るようになったのだ。

 ……そんな事がさぁっと脳裏に過ぎる。
 それを思い起こさせるジョイの『引っ張る力』。

 葉月はそれを振りほどいた。

「離して──」
「あ、ごめん。痛かった?」

 そうではなかった。
 その引っ張られる力に、急に涙が溢れてきたのだ。

「お嬢? どうしたの!? ちょ、ちょっと、参ったな〜!?」

 立ち止まり、掴まれていた手首を包み込み、涙を流し始めた葉月に、戸惑うジョイ。

「違うの──。昔を思い出して──いつもこうしてジョイが私を……色々な所に連れていってくれた事、思い出して……」
「……そうなんだ」

 ジョイが解りきったように……そこで溜め息をついた。
 その溜め息すら……もう、それは葉月には見えない、葉月の頭の上から聞こえるのだ。
 彼はいつの間にか立派な青年になっている。

「ジョイがいなかったら……私はフロリダで何も出来なかった。たくさん、助けてもらったんだって……今までだってとっても感謝していたの。でも……いつも側にいるから──」
「……お嬢。ああ、でも……俺だってお嬢が軍人としてガンガン進むから、ここまで連れてきてもらったって感じだから。お互い様?」
「でも! いつも側にいるから……それすらも言えなかった。ううん? 言わなくてもジョイは解ってくれていると甘えていたのよ。それが……」
「……」

 スッと顔を上げると──そこにはいつもは『無邪気』と皆で笑い飛ばしている彼とは違う……あの切れ者と呼ばれている従兄のロイを思わせるような、とても落ち着いた青眼の青年がジッと葉月を見下ろしていた。

「やっぱり、そんな事で泣くなんて──『本気』なんだ」
「!」

 ジョイも……葉月が下そうとしている『決断』を見通している様だ。

「そのこともあるけど、俺も話がある……もう、今夜だろう? うちの親とさ、お嬢のパパママが来るのは。明日──まずいんだよ」
「は?」

 急に……いつもの調子良さで、ジョイが両手を合わせて、葉月に拝み倒してきた。
 感傷的に流していた涙が、スッと止まってしまう。

「実はさ、実はさ! この前の夏期休暇でたまたまデートした女の子がいてさ! なんだか向こうでどんな話になっているかしらないけど、親父とマミーがその子を連れてくるっていうんだよ! どう思う!? お嬢!!」
「……」

 葉月はジョイに両肩を揺さぶられ……フッと溜め息を落とす。
 やっぱり……この子は、この子なのかな? と。

「どう思うって……気に入ったから、デートしたんでしょ?」
「なんだかしらないけど! 妙に、パパとマミーが張り切っているんだよね! 彼女、ユリアの大学の友達で紹介してもらっただけなのに……」
「ジョイ──ユリアにはめられたわね」
「やっぱり──!!」
「分かったわ。ちょっと話そう──」
「うん! 頼むよ、お嬢!!!」

 近頃の『敏感センチメンタル』を吹き飛ばしてしまったジョイに葉月は呆れたのだが。
 それもなんだか笑えてくる。
 笑えてきたのだが……その途端に、それすらも『ジョイは分かっていて吹き飛ばした』と分かると、また泣きそうになった。

 でも──それを堪えて、大好きな弟分と肩を並べて、葉月は笑顔を浮かべる。

 この大好きなチビ相棒さんとも……お別れになるのだろうか?
 葉月はそんな事を思いながら──。

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