・・Ocean Bright・・ ◆ウサギ覚醒◆

TOP | BACK | NEXT

6.おやすみ

 結局、ジョイの言い分は──。

『俺は、ちょっと良いと思っただけなのに!』であったのだが……葉月が見た所、あんなに慌てているというのが腑に落ちなかった。

 先程も、ジョイの『おつきあいの才能』と言うものを、同性について思い出していたが、逆に言うと、女性との上手な距離の取り方もジョイは上手いのだ。
 その気にさせず、楽しく過ごして終わらせる──という事が、実に上手く、こじれる事がない。
 男女の関係に発展しなくても、その後は『良き顔見知り』で終わったり、続いたりと、何でも『後腐れなく、爽やか』に終わらすのだ。
 決して、誰も傷つかない。

 そのジョイの無邪気な笑顔で許される数々の発展なき『異性とのおつきあい』。
 それを見ている周りの男性同僚達は、『お前の可愛い笑顔はお得だな』と言っているのを葉月は耳にするが──。
 女性とは、すぐに危なげな雰囲気を作り上げてしまう『達也』に言わせると──。
 ──『あいつ、底知れぬ大物かもしれないな。あの笑顔に騙されるな。あれはリッキー兄さん並!!』──と、畏れているぐらい。

 そんな『楽しく、サヨナラ。また、機会があったら会いましょう』で笑って終わるジョイのおつきあいに?
 『その親を通じて、日本の職場まで追いかけてくる』という状態に思える女性が、やってくるというのが……そこで既に『おや?』という感じなのだ。

「そのこと、隼人さんや達也にも話したの?」
「まっさか! 言ったのなら──えらいからかわられるに決まっている!」
「そうだろうけど……」

 葉月はフッと溜め息をつく。

 夕方の色を醸し出した空を眺めながら……二人は四中隊棟の屋上に、ちょこんと備えられているベンチに座って、揃って見上げていた。

「ジョイは……じゃぁ、その子の事は、なんでもないの?」
「そう言う訳じゃないけど……状況が合っていないよな?」
「状況?」
「そ。俺は日本でここで、頑張っていきたいけど、彼女はまだ学生だし。といっても今年卒業だけどね」
「彼女はアメリカで?」
「……」

 ジョイが黙り込んでしまったので、葉月は首を傾げ、彼の顔をそっと覗き込んだ。

「そのー、日本文化を専攻していて……そこで話が合っただけなんだけどぉ〜」
「ん? じゃぁ……日本に興味があるって事?」
「だからぁ〜」
「……」

 葉月は口ごもるジョイに対して、心の中では『なんだ』と、ふと落ち着いてしまった。

 ジョイはまだ、自分の本心を認めたくないらしいが……『状況さえ揃えば、そうなってもいい』と、少しは思う事が出来た相手なんだと。
 また──夏期休暇中に、そんな共通の話題で意気投合して、気の良いジョイが『日本に一度来てご覧』なんて、言ってしまった事が本当になろうとしている事。
 まさか……日本にまで来るはずないと思っていたけど、彼女は『やや本気』になっている事に戸惑っているのだと──。

「でも、本当にただ……日本に一度、来てみたいだけなのかもよ?」
「……だといいけどね」

 なんて、言い放ちつつも、ジョイはちょっと恥ずかしそうに頬を染めたのだ。

「とりあえず、『良く来たね』と出迎えてあげたら? 別にデートした事なんて、プライベートの事なんだから、周りのお兄さん達にいちいち報告しなくてもいいじゃない? 彼女、そういう事を、あからさまに表にだしちゃう子なの?」
「いいや? 大人しい素朴な子だよ。ユリアの友達だから、妙に派手な子はいないからな」
「だったら。それで良いかと思うけど……」
「そうだな──」

 急に、ジョイの顔が穏やかに緩んだのだ。

「ああ、すっきりした。でも、お嬢には伝えておきたかったんだよね。どういう経過で知り合った子かとかさ……」
「大丈夫。誰にも言わないわよ」

 葉月が笑うと、ジョイも急におかしそうに笑い出した。

(ジョイも……恋をしたんだわ)

 歳は若いのに、年上の先輩達を唸らせるほど優秀なジョイ。
 そんな彼は、若いからこそ、誰にも何も言わせない努力と采配を駆使してきたのは葉月がよく知っている。
 おかげで、ジョイの頑張りは年を追う事に実り、ついに最年少中佐となった。
 それまでは、ある程度のおつきあいにチャレンジはしても、ジョイの日常の重心は仕事だった。

  その頼りがいある弟分が、ついに恋に芽生えようとしているのだろうか?

「彼女にはお嬢の事は『面倒がかかる幼なじみ姉ちゃん』って、散々紹介しちゃっているから」
「ええ〜? そんな紹介したの!? 失礼ねぇ?」

 葉月がむくれると、ジョイが笑い出した。

「だって、その通りじゃぁん? 本当に……俺も、今回はちょっと寂しい気持ちでいっぱいなんだ。本当は、ここにいて欲しい……」
「……」

 膝の上で両手を組み、やるせない笑顔で俯いたジョイ。
 ロイとは違う真っ直ぐでさらさらの金髪が、傾き始めた日差しにキラリと輝きながら揺れ、青い瞳は、滲むように伏せられる。

「まだ……私は」

 まだ戸惑っている事を、なんと言葉にすればよいか葉月は口ごもった。
 純一へ向かい始めてしまったストレートな気持ちは、今まで以上に……ブレーキはきかなくなっているし、それに相反して、『今まで自分であった自分』を思うと、ジョイや達也が引き留めるように『行ってしまう事は、今の全てを捨てる事』も……まだ拭い切れていなかった。

「……でも、俺も。ずっとお嬢を見てきた一人だからね。達也兄よりも隼人兄よりも。それに純兄の事も知っているだけにね……。本当は気が優しすぎる為に、兄ちゃんは、変な遠回りばっかりしているように俺には思えるんだ。その上、素直じゃないから、つっけんどんに自分を悪く見せちゃう所もね。俺達がオチビの時からそうじゃん? 周りに格好良く見せる事ばかり考えているような男とは兄ちゃんは違うからね。そこが誤解されやすい勿体ないところで、良い所なんだけど」

 ジョイのその純一というお兄さんを語る言葉に、葉月は心の中でそっと頷いていた。
 そういう義兄で、葉月ですら、そんな彼の性格に、気を揉んだ事も何度もあった。
 そして──ジョイという弟分が、彼を否定しない事に、葉月はやっぱり──今まで長い時間を共にしてきた『家族』に近い弟分だと思った。
 そうでないとあの解りにくい義兄の事を、こうは言ってくれないだろうと思うから──。

「だから、お嬢だけの事を考えると──止められないのが本心だけど。お嬢と隼人兄をセットで考えると……いて欲しいな、やっぱり。二人はお似合いだし、絶対にこのまま一緒に歩んでいっても大丈夫だと思うよ」
「それも──今、考えているわ」
「そう」

 ジョイが葉月を慈しむように見下ろして微笑んでいた。

「俺さ──。お嬢と純兄、それから隼人兄を見ていて思ったんだけど」
「? なに? どんな事?」

 葉月は身近な親族のような弟分が、自分と義兄、そして隼人との関係をどう例えているのかと、少し……緊張した。

「相手がどんな人間でも『好きでいられる』という事が、本当の恋であったり、愛であるのかな? って。誰もが羨む理想的な人が一番だったり、それが確かに自分を安定させてくれる一番の選択なんだろうけど……。周りから見ても『あなたは何故、あんなひどい人を好きになるのか』と言われるような相手、さらに……『なんでこの人は私にこんな苦しい思いばかりさせるの? 傷つけるの?』とか『俺の重荷にばかりなるんだ。思い通りになってくれないんだ?』とかあるんだろうけど……そこでやっぱり『それでもあなたが好き』だとか『それでもお前が気になって仕方がない』と、そのその負担や苦しさを背負える事が──本当に心より『気持ち』を振り絞っている、それこそ『愛してしまっている』という『真実』だとね──。隼人兄は特にそうだよね? でも……そこにお嬢の『私が望む負担』というのが……ないんじゃないかって」

『!』

 その弟分の言葉に……葉月は妙に打ちのめされたような気がした!

「お嬢はいままで愛されすぎてきたよね──誰からも。だけど……一度も、愛しすぎるという事に満足した事がない。何故なら──その相手が遠くにいる捕まらない人だからだったんだね──」

 葉月の口元は……震えていた。
 こんなところで、そして弟分に──こんな風に自分でもまとめられない気持ちを暴かれるだなんて思ってもいなかったからだ。

「ロイ兄があんなに『アイツは葉月を幸せには出来ない』と非難しているけど。お嬢は違うんだよね? どんなに隼人兄に愛されて、どんなに隼人兄がお嬢の為に自分を犠牲にしても──。お嬢が力を注ぎたいのは……純兄なんだって。あんなに『息子を捨てた男』とか『義妹を弄ぶいい加減な男』とか言われても、お嬢は知っているんだもんね。純兄の『良さ』、そして、これが俺が言いたい重要な所だけど『悪い所』も──。その悪い所も愛してあげて、誰よりも助けてあげたいんだよね? そうなんだろう? それが出来ないから……今までだって……」
「……」
「俺は止めないよ。純兄を愛し抜きたいなら、行っておいで。それで……思いを遂げたのなら……そこにお嬢の答もあるだろうし」
「……」
「それが、お嬢が選んだ……『望む事』なら。一緒に頑張ってきた『フィールド』を分かつ事になっても、俺……残念でも、受け入れられるよ──ほんと」

 茫然と……葉月は、青い瞳を輝かせて微笑む幼なじみを、ジッと見据えていた。

「幸せに──お嬢。俺にとっては、それが一番」
「ジョイ……!」

 堪らなくなり、葉月は何年かぶりに、弟分の胸元に飛びついていた。

「わぁ……お嬢がこんな風に泣くのを俺が見たのはいつ振りかな〜」

 いつものからかいながらのとぼけた声。
 だけど──その声も震えているのが葉月には分かっていた。

 彼がそっと背中を撫でてくれる。
 その手も……もう、男性の手になっていた。

 いつか──この手は、彼が愛する女性の為にあるべき物になるだろう。

「私も──ジョイの幸せ、祈っている」
「うん。有り難う──。結婚式は何処にいても来てもらうからな」
「うん……うん……」

 ジョイの制服の胸元を握りしめ──葉月は思う存分に涙を流していた。

 フィールドを分かつ事になっても──『私達は幼なじみ姉弟』。

 葉月に──愛されるだけでない、愛する事も出来る旅立ちがあったとしても──。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 その日の晩──。
 葉月は仕事が終わり、いったん自宅に戻っていたのだが、なんだか落ち着かない気持ちに駆られ、とある場所に来ていた。

 そこは隼人と達也が住まう日本人官舎だった。

 あたりはすっかり暗くなり、各戸が並ぶ通路には、台所の窓から差し込む各家庭の明かりが足下を照らしていた。
 それは当然──葉月が息を潜めて辿り着いた、隼人の部屋にも。

 そこの小さな小さな台所の窓は、少しだけ空かされていて、そこから料理をする匂いが漂ってきていた。
 どこか……懐かしい匂いに葉月には思え、また少しだけ、瞳に何かがこみ上げてきそうだったのだが──。

『うわお! 今夜も今夜も良い匂い♪』
『こら、いじくるなよ! 今、煮込んでいるんだから。手伝ってくれないなら、あっちにいてくれ』
『冷たいわねぇ? 隼人さんったら……私、拗ねちゃうから』
『何の真似だ。それ! この前から──! その言葉遣い、やめろよな!』
『ほら……あなたって本当に女には手厳しいわね』

 そんな男性二人の声が聞こえて、葉月は立ち止まってしまった。
 隼人が言っていた通りに、達也が頻繁にお邪魔している事……それを初めて耳にしたのだ。

 達也が葉月に限らず、隼人にまで、あんなふざけた『女言葉』を使っている事に、葉月は眉間にシワを寄せてしまったのだが──。

 達也がいるから……という理由でもなく、そんな二人が仲良く過ごしている事に……急に、前に進めなくなった気がしたのだ。

『出来上がるまで、まだ時間があるから──ビールでも飲んでいろよ』
『晩酌が先! はぁ……今日も疲れたな』
『いよいよ明日から、来賓受け入れだからな。頑張れよ。俺の部屋で夜更かしは、ごめんだぜ』
『勿論。今夜は夜中にフロリダ組の輸送機が到着するから、早く寝るんだ!』
『そっか……テッド達とホテルまでエスコートか』
『ああ。娘が来ないのは残念みたいだけど。葉月も兄さんも朝から甲板だろ? そこは納得していたみたいだぜ』
『宜しく言っておいてくれよ。訓練後には挨拶できると思うからと──』
『解っているって!』

 そんな声を耳にして……葉月はフッと踵を返した時だった。

『! ちょっと待ってろよ? 兄さん──』

 達也がなにやら急に、真剣みを帯びた声。

「!」

 葉月も勘の良い達也の事を予想して、サッと足下の速度を速めたが──。

「葉月じゃないか!」

 遅かった──。
 官舎の台所、ダイニングの直ぐ側が玄関だったから──達也が気配を感じて、直ぐにドアを開けてしまったようだ。

 葉月は振り向かずに、そのまま立ち止まっていたのだが。

「葉月──」

 達也の声の次には、隼人の声が背中に届いていた。

「うわっと! 忘れていた! 今夜さーーメジャーリーグの中継があるんだよ!! 近頃、日本でも見られるようになったみたいで嬉しいけど、ビデオセットしてくるのを忘れた! 兄さん……ちょいと戻るわ、俺」

 何かを察してくれたのか、達也がすぐに嘘だと分かるような気遣いまでして、そのままサッと玄関を出てきてしまったのだ。
 そこで葉月はやっと振り返る。

「別に……ちょっと様子を見に来ただけよ。二人が一緒にご飯を食べているのが見たかっただけ」

 葉月は出てきた達也に苦笑いで告げたのだが──。

「何言っているんだよ。俺、メジャーリーグの方が大事なのね」

 葉月の側まで来た達也が、すれ違いざまに葉月の肩を押し出す。
 まるで『行ってやれよ、ここまで来たんだから』とばかりに──。

 そして、彼はジーンズ姿で、しかもぺったんこのセッタをがさごそと引きずるようにして、自分の階へと上がる階段へと消えてしまったのだ。

「おいでよ──せっかく来たんだから」
「うん……」

 玄関から差し込む明かりの中──そこにはいつも通りに穏やかに微笑んでいる彼がいた。
 それに誘われるように、そこに向かう事に、少しばかり抵抗を感じたが、達也も彼も言うように『ここまで来た』のだから、葉月も微笑みを返しながら、そこに向かう。

「良い匂いね──」

 玄関の扉が閉まると、その狭い玄関を隼人は直ぐにあがり、コンロへと向かっていた。
 葉月はそのまま、そこに立ちつくしているだけ。

「ああ、ハヤシライスをね。作っていたんだけど──俺達、いつも晩酌が先だから。多少時間がかかる煮込み物でも、出来上がるぐらいの時間で丁度いいんだ」
「仲良くしているのね。楽しそうな声が聞こえたわ──」
「ああ、最近は色々な事、話すよ。遠慮なく──。時には意見が違って、言い合いになりそうになったり、達也が拗ねて、部屋に戻ったり、おかしいよ」
「拗ねて……出て行くの?」

 まるで達也が面倒を見てもらっている『彼女』のようで、葉月は、ついに笑い出してしまっていた。
 そして──隼人も、実はそんな生活も悪くもないと思っているのか、一緒におかしそうに笑い出す。

「食べていくか?」
「時間……かかるのでしょう?」
「直ぐに帰るつもりで?」

 隼人がコンロから……まだ上がろうとしない葉月を、確かめるように真剣な眼差しで見つめている。

「なにをしに?」

 葉月が来た事──葉月から足を運んできた事。
 やや期待を感じさせる彼の切なそうな眼差しに気が付いて、葉月はそっと視線を逸らしてしまった。

 そう──直ぐに帰るつもりだった。

 葉月のその態度と、気持ちも……隼人はすぐに察したようで、疲れたような溜め息を落としたのだが……。

「まぁ……いいや。とにかくあがれよ」
「……」

 それでも葉月の足は……靴を脱ごうという動作には結びつきそうにない。

「別に──。取って食うなんてしないから」
「そうじゃないわよ──」

 隼人を男として警戒しているだなんて事はない。
 そうじゃない──。
 あがってしまい、彼に優しくされたら……きっと自分は今までのように崩れてしまうだろうという、葉月が今まで当たり前にしていた『自分の甘え』を恐れているだけだった。
 これ以上は、隼人を傷つけるのではないかと思ったりして、葉月はやっと靴を脱いで玄関に上がった。

 隼人は達也と同様に、マンションでもそうしていたシャツとジーンズ姿だったが……。
 葉月は上着は着てはいなかったが、いつもの白いカッターシャツにタイトスカートだった。

「なに? お前──。俺達と一緒に退出したのに、まだ制服だったのかよ?」
「え? うん……」

 玄関を上がった葉月は、隼人に誘われるまま……彼が引いてくれたダイニングの椅子に腰をかけた。

「その様子だと、メシもまだみたいだな。ちゃんと食っているのか?」
「一人だから簡単よ」
「だろうけど。お前は結構、面倒くさがり屋だから……一人で適当となると、ちゃんとしているのかな?」
「しているわよ。食べないと、コックピットでも流石に酸欠を感じるわ」
「なるほど? そこは管理はきちっとしているんだ。安心した」

 彼が心底、安心したような微笑みを浮かべたので、葉月も微笑んだ。

「しかし……今日は違うみたいだな」
「うん──色々。考えていたら、この時間になっていて、ここに来ていたわ」

 正直に答えた。
 すると──分かってはいただろうが、素直に状態を吐露した葉月に隼人はやや驚いた顔。

「……それで?」

 そして……そんな葉月の微笑みをみた隼人が、ちょっと恐れたような声を……。
 葉月も……察している彼に驚きながらも、致し方なくうなだれ、俯いてしまう。

「……今日、気が付いた事。あなたにどうしても話したくなって……」
「……どんな事?」

 隼人がやっと向かいの席に腰をかけた。
 小さな正方形のダイニングテーブルは、二人が腰をかけるだけの物で、彼の顔は直ぐ目の前にあった。
 だが……葉月はちゃんと顔をあげ、彼の瞳を真っ直ぐに見つめた。
 隼人も、恐れは抱いているようだが、逃げるような視線は返してこずに、ちゃんと見つめ返してくれる。

「私の精一杯の『愛している』を、ちゃんと受け止めてくれて、有り難う」
「? なんだよ? 今更──」
「私のとっても小さくてささやかすぎる『愛している』を、あなたは存分に、こんなにちっちゃいのに、とっても大きな物のように受け止めてくれていたって事」
「……」

 隼人が急に……苦々しい顔に。
 その顔に、葉月が言いたい事も、どのような事であるのか……彼のような察しよく、そして、物事の有様を様々な形で理解する柔軟さが、そこに現れていると葉月は思った。
 遠回しに言っても……葉月の稚拙な言葉での伝達でも、隼人はちゃんと奥深く理解してくれる人だという事を、近頃、切々と感じていたから、余計に──。

「……葉月の小さな『愛している』を得るのは、なかなか大変な事だったけど。俺がどうしても感じたかった事だった。だから──葉月が小さな隙間から、ちょっとだけでも『愛している』と表現してくれた事は、俺にとってはうんと大きな事で、とても嬉しい事だった。葉月には小さくても、俺には大きな事だったよ」
「隼人さん──」

 自然と涙が溢れてきた。
 その様子を確かめた隼人は……そこは嬉しそうに微笑んでくれている。
 それを見て……さらに葉月は瞳を滲ませた。

「でも……」

 涙で詰まった声で……次の言葉がなかなか出てこなかった。

「でも?」

 隼人はそのまま先を聞きたそうな口振りでも、そのまま穏やかに待ってくれていた。
 それも以前と変わらぬままだ。
 葉月の鈍い気持ちのグラデーションが……真っ赤に染まるまで、熱くボルテージが上がるまで……そんな事を待つのはもう慣れっことばかりに──。

「あなたは……知っていたのね?」
「何を?」
「私が……私が……あなたを本当は、強く求めていないという事。知っていたんでしょう?」
「……そうじゃないけど。意味が違うかと……」
「分かっているわ。でも、本当の事よ。私のほんのちょっとの愛を、あなたは大きく感じてくれていたから、私は気が付かなかったし、甘えていたのよ!」

 そこで……葉月は感極まって、溢れ出てきた涙を隠すように両手で顔を覆ってしまった。

「……」

 隼人も分かりきったように……何も言い返してこない。

「一時──信じてくれないとか、私の愛しているという態度を、まったく受け止めてくれないとか……私はあなたに対して、散々、抗議していたけど。隼人さんがもどかしく感じていた事が、何であったのか……やっと分かったのよ」
「そう……」
「隼人さん……指輪を外した時に言ったわよね? 『俺が言っている意味が分かるまで待っている』と──」
「ああ……その意味が、分かってきた?」

 すると……途端に隼人が妙に厳しい眼差しを葉月に突きつけていたのだ。

「ええ」

 葉月は……泣くのをやめて、こっくりと頷いた。

「まだ……ぼんやりだけど。すこしあなたがいる方向から光が差してきた感じ……」
「そうか──」

 すると……隼人は溜め息をつきながら……席をけだるそうに立ち上がったのだ。

「そして──それが俺のどうしようもない『エゴ』だとも気が付いたかい? ウサギさん」

 彼は笑っていなかった。
 しかし……その自分を責めているような隼人の苦悩顔に、葉月は首を傾げる。

 『エゴ』って何? と……。

「俺は真実が欲しいだけなんだ。曖昧に……お前を捕まえて安心するだけじゃ、満足できない男になっていたんだよ」
「何言っているの? 充分に……あなたは自分を犠牲にしているじゃない?」
「犠牲にしているようにみえて、実は……お前の為とも思っているけど、最大、俺の為でもあるんだよ」
「?」

 葉月はまた……一度には理解できない事を彼が言い出したので、困惑し始める。

「俺……『御園葉月』という女に関しては、かなり貪欲なんだ。葉月は……知らないだろうけど」

 そして、背を向けた彼は……腕を組みながらテーブルの角に腰をかけて、俯いていた。
 その顔は、葉月には見えなくなってしまったが……もう苦悩の顔でもなく、確固たる自分の考えを主張している声に聞こえる。

「俺──誰よりもお前に愛されたいんだ。その結果……こういう事になった。俺……他の男を想っている葉月では満足できない。それで……賭てしまった。これは果たして……『愛している』と言えるのだろうか? お前を突き放してまで、得ようとしている事で、お前を苦しめるはめになっただけじゃないかと──」
「……」

 またしても……葉月は彼が何を言っているのかを、理解できずにいる。

「確かに──誰にも渡したくなく、手放したくない。そういう時期もあった。でも──こうなってしまった。それはお前も分かってくれたみたいだけど。こうするしか……お前を手に入れる方法が思いつかなかったし、こうせずにはいられなかった。つまり……お前がいなくなるなら……それで俺の欲望も終わるだろうって事さ──」
「違う──」

 葉月の『目覚めの為』。
 誰もがそう思い、隼人の決意は『本物の愛』だと誰もが思っている。葉月ですら──。
 なのに──隼人は『己の為だ』と言っているのだ。

「……」

 しかし……葉月はそう思いながらも……ふと考え込んだ。

「そうだったの……」
「ああ、そうだ」
「分かったわ」
「……」

 隼人が肩越しに振り返る。
 途端に物わかり良く、落ち着いた受け答えをする葉月を確かめるように──。

「苦しいの……私といる事が」
「ああ。もう、苦しい──だけど、欲しいんだ。我が儘だろう?」
「それが……隼人さんの『愛している』?」
「今のところはね──」

 また……隼人が背を向ける。
 だけど──深い溜め息を……肩でついていた。

「私──『愛する』という事がまだ、分からないの」
「そうか……そこまで、自分で感じるようになったか……」
「誰に対してもよ。あなたに限らず、きっと義兄様に対してもね……」
「だけど……お前は隠し持っているその気持ち」
「ええ……感じているわ。じんわりと胸の奥から滲み出てきたわ」
「もう、それ以上はいい。あとはお前が出す答だろう?」
「そうね──」

 葉月も席を立ち上がった。
 もう……帰るつもりで立ったのだが──。

「私の『愛』──探してくれて有り難う」
「……」
「もう、隼人さんのキスも、隼人さんの肌の暖かさも……あなたが私の髪を撫でてくれた手も……もう、いらない」
「……」

 葉月のきっぱりとした声に、隼人が切なそうに振り返る。

「! 葉月──」

 そこには……涙で頬を濡らしきっている葉月の顔があった。

「なくても……私、忘れない。だって……あなたが私に『愛』を教えてくれたから。今度は私が探して、あなたに見せる」
「葉月──」
「今でも答はみつからないし、分からない。でも──誓った通りに、私は忘れない。あなたがあっての今の私がこうして泣いている事も──探そうとしている事も。それが……何処へ辿り着くか分からなくても、私はあなたを誰よりも忘れない……」
「葉月──俺は……今でも本当に……」
「分かっているわ。ちゃんと通じている。あなたが今望んでいる事も──。私を信じてくれている事も。待っていてくれている事も。私が愛に目覚めて、何処へ行くか……それまでは、見守ってくれている事も──。あなたが私が本当の意味で人を愛する事を望んでいる事も。それが済まないと、もう……何もないって事も──だから……私」

「だから──私、思うままに行くわ」

 それだけ言うと、葉月は玄関へと向かい、忙しく靴を履いて、扉を開けた。

「葉月! 待ってくれ──!!」

 葉月を行かせたいはずの彼が……呼び止めたので、葉月は思わず、振り返ってしまった。
 そこには……やっとそれらしく、葉月にすがるような悲しみの眼差しを投げかけている彼がいた。 

「俺も……今はお前を抱く事も、抱きしめる事も出来ない。けど──!」

 隼人が玄関まで大股で駆け寄ってきて、扉を開けた葉月を、再び──玄関へと引き込んだ。

「は、隼人さん──」

 そして、その瞬間──彼は葉月を鷲づかみにするように、抱きしめていたのだ。
 抱きしめられないといいながら……そこには有り余っている力を全て注ぎ込むような強い力で。
 そして……葉月が壊れそうな、痛く感じる力で──。
 それは、今まで葉月を包み込んできた力でもなく、いたわってくれた優しさでもなく──彼が今、持っている、彼が表現したい力そのものだった。

「今だって……お前の匂いも、髪の柔らかさも……俺を離さない柔肌も、声も……暖かさも。頼りなげなか細さも……俺を独占しているし、どうしても欲してしまう夜がどれだけ苦しいか……それだけ身体が火照っても、俺はお前を抱いても満足できないほど、愛している事を、こうなって痛切に感じている──」

 その大きな手は、葉月の細い背中を今にも折ってしまいそうなほど……力がこもり、葉月はうめき声を漏らしたが、それは嫌な痛さでもなく、どこまでも感じていたいぐらいの感動を覚える痛さだった。
 そして隼人の鼻先が狂おしそうに、葉月の首筋と髪をなぞり、震える息が葉月の肌を撫でていく。

「葉月は……私のような女のせいでと思うかもしれないけど。そうじゃない──俺だって本当は、葉月でなかったら……適当な男なんだ。俺をこんなにした女はお前なんだ。御園葉月という女だから──こんなに真剣に沢山の事を考えて、『狂った』──」
「狂った?」

 葉月はまた首を傾げながら……やっと離れた隼人の顔を見上げた。

「お前も狂うほど……人を欲した事があるだろう?」
「……」

 それが義兄だなんて口が裂けても言えなかったが……隼人には言いたい事は見抜かれていた。

「それを……俺に向けて欲しいだけだった──」
「……」

 やはり──隼人は、葉月が今夜言いに来た通り、葉月がそれほど本能のまま欲していない事に気が付いていたんだと──分かっていたが、葉月は哀しい気持ちになり、彼を悲しませる自分を嫌になった程だった。
 今までも何度も……彼の為にならない自分に嫌悪を抱いてきた事もあったが、今夜は最大だった。
 だけど『私、壊れて消えてなくなりたい』と思う気持ちは、もう……なかった。
 『あの日の意味』を彼があの時、刻んでくれていた。
 無駄じゃない──そんな風に、自分を感じる事も『無駄じゃない』と──。
 ありのままの嫌な自分すらも、葉月は『生きているのだ』と感じる事が出来ていた。

「俺も──お前という女に出会えて、ここまで考えさせてくれて……そして、俺自身が望んで愛せた事は『一生の誇り』になるだろう──。それを女の勲章にしたらいい……私は一人の男を狂わせた事もあるのよってね……」
「……隼人さん」
「葉月は……いい女だよ。本当だ。今だって俺の中で一番で、どこかで戻ってくると信じているけど──」

『けど──』

 そこで隼人が口ごもり──葉月は顔を背けた。

 お互いに──もう『私たちは、とにかくいったん、終わるのだ』と……頭にかすめ合った事を感じたからだ。

「お、おやすみなさい──」
「葉月……」

 葉月は堪らなくなり……隼人の腕から逃げるように、玄関を飛び出した。

「お前は……またそうなんだな……!」

 飛び出した玄関から──隼人が叫んだ。

「サヨナラじゃなくて……おやすみ、また明日と言うんだ。そして……俺を置いていった」
「!」

 フランスで、彼に飛び込んだあの夜。
 葉月は独りよがりに思いを遂げて、サヨナラも言わずに、隼人の元から逃げたあの夜。

「だけど……俺もそう言おう。おやすみ、また明日──葉月」

 彼が泣いていた──。
 大泣きではなく……彼の片方の目尻から……一筋だけ涙がこぼれていたのだ。
 それを見て……葉月もまた……涙が溢れた。

「サヨナラがいえない悪い女よ。でも──隼人さん、ちいちゃくても私の愛しているをもう一度言うわ」
「……」
「そして──あなたも勲章を胸に着けて。私という『死んで生きている者』を……『生き返らせてくれた』事を──」
「葉月──!?」

 微笑みながら、葉月が言い放ったその言葉に……隼人が変に驚いていた。

 だけど──葉月は背を向けて走り出す。
 階段を駆け下りて、階下についても上は見上げなかった。
 そして──彼ももう追ってこない。

『おやすみなさい』

 私たちは──眠りについたのだと──。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「わはは〜♪ なかなかここも暑いねぇー!」
「パパ──静かにしてください。皆さん、お仕事中なんですから……」

 いよいよ翌日が、式典。
 午前中の御園大佐室には、立派な肩章をつけている栗毛の紳士が、優雅に扇子で頬を扇ぎ上機嫌。
 隣には上品に楚々と寄り添っている、白いブラウスを着込んでいる黒髪の女性が、二人揃って応接ソファーに座っていた。
 葉月の両親が一番に、この大佐室を訪ねてきたのは、午前11時の事。

 亮介の登場に、本部員達はいよいよ『ホスト隊』としての気持ちを引き締めていたようだ。
 迎えに行ったのは、顔なじみの達也。
 ジョイの両親は、甥っ子がいる連隊長室へと……そして、ジョイもそこへ挨拶へと向かった所だった。

 正面の大佐席の主は……不在。
 そして、その右隣の中佐も不在──。

「構いませんよ。おふくろさん。大佐室は外から見えないし──。昨夜、遅くに到着してお疲れでしょ? 休めたかな〜?」
「ええ、もう──座席があるとは言え、ぐっすり眠れるなんてものじゃないでしょ? 輸送機も──。ホテルに案内されるなり、パパも私もぐったり……ぐっすりよ。達也君も……夜中なのにお出迎えご苦労様」
「いいえ──。あっ! もうすぐ葉月も澤村中佐も訓練を終えて帰ってくると思いますから」

 達也は二人に冷茶を差し出していた。

「おや。これは私も好物なんだよね」
「そうそう。葉月が好きなのよね? この島の和菓子屋で見つけたとかで──」

 お茶菓子は、豆大福で、葉月が両親が来ると必ず差し出す物であり、達也は今朝早く、柏木に買わせに向かわせていた。

「うんうん! 美味い、美味い」
「やっぱり、日本で口にする和菓子は美味しいわね」

 二人が満足そうに味わっているのを見て、達也もホッと笑顔をほころばす。

「あの少佐もどうぞ──」
「いや……私は」

 達也は亮介に付き添ってきた秘書室の側近──『ロビン』が、真面目にソファーの後ろで控えていたので声をかけた。

「ロビン! いいんだよ。ここでそんなにかしこまらなくても! 今は娘に顔を見せにきた親父とおふくろさんなんだから」
「そうよ? マイクなら遠慮なく一緒にご馳走になっているわよ?」
「そうそう! あの口うるさい側近ならねぇ〜」
「もう、亮介さんはすぐにマイクの事を──」

 いつもの会話を弾ませる夫妻に、ロビンと達也は苦笑いをこぼしつつも……。

「では……頂きます」
「ええ。大佐嬢自慢の和菓子。初めてでしょ?」
「はい」

 ロビンはマイクの一番の後輩だった。
 歳はマイクと近く、隼人や達也より上で所帯持ちの男だが、やはり初めて単独でのお供に緊張をしている様子だった。

(はぁ〜。マイクも手放すようになったか)

 今まで何でも一人で取り仕切っていたマイクが、後輩を信頼し突き放し、旅をさせる勇気を持ったのだと、達也は唸った。
 ふと──フロリダを出る前の彼を達也は思い起こす。

(女に振られて……なんだか変わったみたいだな?)

 なんて思いながら、いつもと違う雰囲気の御園中将一行を達也は眺めていた。

「ああ! 私たちの事は気にしないで、達也君はちゃんと業務に励んでくれ?」
「そうよ。転属するなり、ホスト隊を引き受けてしまうなんて、流石ね」

 登貴子にニッコリと褒められて、達也もまんざらでもなく、つい照れて黒髪をかいてしまった。

「ロビン。どうだい!?」
「ええ──美味いです」

 亮介がまるで自分が差し出したように、葉月特選の大福を部下に食べさせて、感想を求めているのだ。
 それを見て、登貴子と達也は顔を見合わせながら、一緒に微笑んでいた。

 そんなお茶を楽しんでいると──。

「おお!? あれかな!?」

 防音ガラスにもかかわらず、戦闘機が上空を通れば、それなりの音は室内に響く──。
 亮介が大福片手に、大佐席後ろの大窓へと駆け寄っていく。

「まぁ……亮介さんったら、お行儀悪い事」
「あれ……あの中に大佐嬢が?」

 だが、登貴子もロビンも結局、瞳を輝かせながら、亮介の後を追っていった。

 窓辺では、十機の編成隊が、左右に分かれて、交差すれすれのタッククロスを試みようとしている所だった。

「また、あれをするの!? もう、ヒヤヒヤするわ!!」
「中将! お嬢さんはどれですか!?」
「あれだ、あれ! 八機がクロスする寸前を、縦に割ってキャプテン機と一足先にクロスして抜けていく、あれだ!」
「あああ……あんな危険なポジション……あああ、なんてフォーメーションなんでしょう!?」
「ああ! 見ていられないわ! 時々、あの子がパイロットである事が、堪らなくなるわ!」
「だーいじょうぶだって、ママ! 葉月はあれを毎日こなして、生きているんだから!」

 登貴子が目を覆うと、亮介が笑い飛ばす。
 ロビンはコリンズ流の迫力を目の当たりにして、茫然としているようだった。
 達也は思わず──フロリダの隊員が驚いている事に、一人ニヤリとほくそ笑んでしまう。

 そして──達也はそんな娘を見守っている彼女の両親を……目を細めながら見つめた。

 その向こう側の青空を、自在に飛んでいる娘。
 そのもっと向こう側の海上で、彼女を飛ばしている娘の恋人がいる。

『おはよう──』
『おはよう──』

 今朝の事、隼人が葉月と挨拶を交わした時の事だ。
 大佐室に出勤してきた隼人は……とても疲れ切った目元で、達也は愕然とした。
 そして、その直ぐ後に出勤してきた葉月も──同じだった。

 二人はみるからに……今までにないぐらい憔悴しているといった顔つきだった。

『眠そうだな』
『あなたもね』

 何故か……二人が解りきっているように微笑み合ったので、達也は驚いてしまったのだ。
 そして──その二人が放っている空気に、どうにも割り込む事は出来ないのに、そこを引く事も出来ず、何気なく見てしまうだけ──。

『ああ、眠れなかった。昨夜は──』

 隼人の顔が歪む。
 その人目も気にしない苦悩顔を見た達也は、昨晩の事を思い起こす。

 達也は昨晩、あの後、隼人の部屋には戻らなかった。
 なんだか──そんな気がしたのだ。
 もしかすると? 二人が……寄りを戻すとかでもなく、気持ちの高ぶりにでもあって愛し合っているかもしれないと思いもした。
 それを想像する事は、達也には辛い事ではあったが、どこかでそうなってくれているなら『葉月は戻ってくる』なんて……。
 隼人を利用しているようだが、達也では引き留める事も出来ない場所にいる葉月を止めて欲しいという気持ちが強かったのだ。

 だが──達也のそんな……辛くても願っていた事は、叶わなかったようだった。

『私も──』
『……だろうな』

 そして、また二人が微笑みあうのだ。

 なんなのだろう?

 そのお互いを知り尽くしているよな? そして、認め合って……なにもかもが終わったような顔。
 それに対して微笑みあう事が出来る事が……達也には解らなかった。
 マリアと笑顔で別れた達也だが、それでも半年はごたごたしたのだ。

 つい最近ではないか?
 二人が別居を始めたのは──。

 そこに──何処にも踏み込めそうもない二人の間柄に……妙な嫉妬心さえ覚えたほどだ。
 だけど、静かに見守れる自分も達也はちゃんと感じる事が出来ていた。

『いよいよだな。今日は夜も機体チェックがあって忙しい。明日も、早朝から甲板だ』
『そうね。明日は……どんな結果で終わっても、無事に終わらせるわ』
『四回転──出来そうで、出来ないな』
『でも──やるだけやったわ』
『ああ、それは誰もが認めているよ。最後まで諦めるなよ』
『勿論よ──』

 そこで二人が確固たる顔で頷き合う。

 もう……恋人ではなさそうな雰囲気の二人を繋げている物。
 まるで──最後の共同作業だと言わんばかりの、出陣前を激励し合う二人は……『戦友』にしか見えなかった。

 それで──終わるつもりである事を。
 達也は隼人からも葉月からも突きつけられて……正直、心の中は穏やかでない。
 むしろ──どうにもならない悔しさで、朝からいっぱいだった。

 それでも達也も全うしようと思う。
 三人で……ここまでやって来た仕事を──。

 達也も空を見上げた──。
 十機の戦闘機が描く図形の噴煙が……描き終わり崩れていくのを哀しい何かの形に感じながら──。

TOP | BACK | NEXT
Copyright (c) 2000-2007 Yuuki Moriya (kiriki) All rights reserved.