・・Ocean Bright・・ ◆ウサギ覚醒◆

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14.裸の視線

 ──ガシャ……──

 黒い男が、ぐったりと──放心状態で金網フェンスに背を預けきった姿があった。

「……悪いが、一人にしてくれ……」

 ネクタイをさらに緩め……そして、彼は額を抱えながら、息を切らしているように見えた。

「かしこまりました……ボス。エド、アリス……行くぞ……」
「……」
「ああ。行こう──アリス」

 茫然としていたのは、ボスの彼だけじゃない……エドも、そしてジュールも暫くは放心状態だった。
 アリスに至っては、もう……腰が抜けた後、今度は生気が吸い取られた気がした。
 だが、エドが片手を引っ張り、そして──ジュールがアリスの腰を持って、立ち上がらそうとする。
 そして、アリスもただ……そんな男達の力任せにしか、動く事が出来なかった。

 

 少し前の時間に戻る──。

 金網の向こうで響き渡る歓声──そして、大空に描かれた四つのスパイラル──。

「ボス……! やりましたね! お嬢様!」
「ああ……ああ、そうだな──」

 喜びの笑顔を浮かべたジュールと、ボスにそんな声をかけるエド……。
 そして──ホッとした表情を空に向け、誇らしそうに清々しい笑顔を放っている純一。

 当然──アリスは座りこんだまま、ただ唖然と空を情けない顔で見上げていた。
『すごい』としか言いようがない……彼女が何故、あそこまで自分を追いつめて、そして成し遂げられるパワーを持っているのかも……解らなく不思議で、知りたいくらい──。

 だが……! 皆で見守っていた『彼女の鳥』が、急に異変を起こした。
 その瞬間──誰でなくとも、あの冷静沈着なジュールでさえ、目の前にある波打ち際に、今にも海に飛び込むのではないか? という勢いで、飛び出したぐらい……狼狽えていた。

「ボス──! あれは気を失っている! 気が付かない限り、レスキューも出来なければ……もう……」

──『墜落しかない』──

 ジュールが濁し、黙ってしまった先の言葉……その意味は、ただ墜ちてくる鳥を見ているだけのアリスにも分かって、仰天した!

 そして──純一は……。

「葉月……」

 しゃがみ込んでいるアリスの目の前、降下している彼女をただ見ている事しか出来ないアリスの視界を遮るように……ジャケットの裾を潮風にはためかせ、彼は向かい風に立ち向かうように立ちはだかったのだ。

「葉月──帰ってこい……」

 アリスは彼を、ただ……見上げた。
 彼の肩越しに僅かに見えている横顔……唇が、小さく震えているように見える?
 日本語で囁いているから、アリスには彼が何を言っているのか理解は出来ないけど──彼女に向かって囁いている事だけ解っている。

「帰ってくるんだ──いつものように……俺は今、そこには行けない……」

 彼が小さく囁く声。
 そして真っ直ぐに見据えているだろう視線……彼の長いまつげも震えているように見えた。

 そして──アリスの目の前に立ちはだかっている彼が、急に、拳を力強く握りしめた!

「帰ってこい──!! 俺の所に……もう一度、戻ってくるんだ!!」

『!?』

 その叫びは……静かな黒猫ボスの姿ではなかった!?

「ちゃんと……お前は自分で生きるという事が出来るはずだ! どうした? これで……終わりなのか──葉月!!」

『!!』

 また──自然とアリスの瞳に、大量の涙が押し流れていく──。
 彼がこんなに必死になっている姿なんて……アリスには想像出来なかったし、それが目の前で起きていた。
 やはり、彼は必死になって、彼女を引き留めている!
 純一が叫んでいる言葉の意味は分からなくとも、彼の必死の形相……何もかも我を忘れている彼の顔、眼差し、熱い声──その様子がアリスの身体中を震撼させていた──!

「ボス──!」

 ジュールも青ざめた顔で、狼狽えている。
 彼の動きは、助けに行きたいのに、行けないと言うもどかしさを露わに表にだしていて、エドに至ってはアリス同様……茫然とたたずんでいるだけだった。

 だが──やがて、海面で、彼女の鳥が急に息を吹き返したかのように、空気の中をフワッと空に舞い戻っていたではないか。

「……お、お嬢様……」

 エドとジュールのホッとした顔。
 汗を拭う姿──。

 そして──純一は……おぼつかない足取りで金網フェンスへと後退したかと思うと、よろめくようにフェンスに背を傾けたのだ。
 それで……。

──『……悪いが、一人にしてくれ……』──

 いつも保っている『冷静』であり続ける事を正常としている『心の周波数』が、まるで乱れきって、直ぐには正常化できないほどの異常事態……という顔をしていたのだ。
 それを見て……アリスはまた愕然とした。

 もう──何もかも砕け散った気持ちだった。
 『彼に愛されている、必要とされている』という事が……こんな事だったなんて……今まで想像もしなかった。
 自分は頑張れば、彼を愛していると思い続ければ、必ず思いは叶うと思っていた。
 だけど──。

(私──彼の事、何も解っていなかった!)

 そう思った。
 いや……解らなくて当たり前なのだ。
 彼がアリスという女性に、『俺』という人間の事を何一つ……教えてくれなかったのだから。
 つまり……もっというと『心を開いてくれていなかった』のだ。
 まだまだ言うと……『私は彼の心を開く事にも至らなかった』。さらに『それに適する努力』も怠っていたのだろう?

 何も始まっていなかった事を悟った。

──『血迷ったか、子猫! お前……自分の立場を解っていないな!?』──

 アリスはつい最近……ジュールにそんな風に怒鳴られ、殴られた事を思いだし、おもむろに頬を押さえた。

(本当……解っていなかったわ)

 何故あの冷静沈着なジュールがあそこまでして怒ったのか……盲目になっているアリスに目を覚まして欲しかったから!? ……そう思えてきた!

 二人の男にただ連れて行かれるまま……アリスは眼差しを伏せた。
 『愛人』だったのだ……。
 愛人という言葉も使えないかも知れない。
 アリスが条件を出して『手に入れたもの』は、『愛、恋』なんてどこにも存在しない……『男と女の体の良い契約』……ギブアンドテイクだっただけだ。
 アリスは自分の思いをぶつける事が出来る……そして、気に入った男性に条件付きでも良いから抱いてもらえる事で満足し、純一は男の性をただ感情なしにアリスにぶつけていただけだ──。

 その上──アリスは、この『強靱なボス』をすっかり頼り切って、『ちゃんと面倒をみてくれる、不自由しない』という安定ある彼を手放したら、また自分が不安定に生きて行かねばならないから……必死になっていたのかもしれない!?

 これでは……嫌悪感を抱いている『身体を売りにして生きてきた過去』と変わらないじゃないか?
 違いがあるとしたら──自分から突っ込んでいった事……そして、ここが一番弱くなった部分になるかも知れないが……純一が、彼が……初めてアリスという『人格』を認めて見守ってくれた事だ。

 愛人生活を送ってしまっていたあの過去に出会った男達は……皆、アリスの事を『自由に出来る美しき動く人形』ぐらいにしか思っていなかった。
 最後のパトロンに至っては、純一に暗殺される直前に、アリスを放って逃げたぐらい──。
 そういう身勝手な男ばかりだったのに──。

 そういうと、身体だけの関係を受け入れ継続してきた純一だって『勝手な男』の部類に入るのだろう──。
 だけど、アリスから見ると、全然違うのだ。
 だいたいにして、純一が『勝手だ』とか『男の好都合に甘んじている』なんてアリスから責める事なんて出来るはずがない。何故なら自分から押しつけた『押しつけがましい愛』を純一に……さらに『死ぬ』なんて事を盾にして無理矢理突きつけていたのだ。
 それでも拒んでいた純一に……アリスは何度も、何度も……『不利でもいいから』と……彼を責めるように……。
 彼はアリスの気持ちを……そんな形でしか受け止められず、それでも拒んでいたのに、受け入れてくれたのだ。
 なのに……彼は……。

『黒子猫のお前に子分が誕生か……』
『お前は笑っていた方がいい……』

 そんな彼の優しい言葉と、時たま浮かべてくれる穏やかな微笑みが蘇る。
 彼が初めてだった──『アリス』という人格を持った『私』をちゃんと見てくれた初めての男だった。

 だから──アリスは『貪欲になってしまった』のだろう!

(ジュールの言いたい事が解ってきた気がする!)

 アリスは小さな浜辺の小道を歩きながら……もう一度頬を押さえた。
 そっと肩越しに振り返る。

 疲れ切ったような純一が、眉間を指でつまんで……唸っているかのように俯いていた。
 泣いているようにも見えた──。

 彼はたった一人……彼女が消えてしまうかも知れない恐怖を感じたばかりで──。
 あんなに弱々しい彼を見たのも……彼があからさまに人前で弱くなっているのを見せているのも──初めてだった。

 その時──アリスの脳裏に『懐かしい言葉』が過ぎった。

──『どうしたら……彼は救われるの?』──

『自分の為じゃない。彼の為に……そうすればきっと……自分も幸福感を一緒に味わえるはず。彼が幸せじゃなくちゃ、意味がないんだから──!!』

(!!)

 以前の自分はそう思っていたはずなのに!?
 ただ……『彼の為だけ思っていれば、自分も幸せになれる』という信条の中には『自分も幸せでなくてはいけない』という条件も組み込まれていた。
 『自分も幸せ』という意味は『彼と愛し合えるだろう』なんていう『安易な夢』だった。
 違う! 彼の為だけに一生懸命に愛しさえすれば、自分も幸せになれるなんて、そんなの『お手軽な夢』だっただけ!
 本当の愛は……『私の思いが叶わなくても、彼が幸せになれる』事だったのではないか!?

 少なくとも……『身体を駆使し、それだけでも構わない条件』で手に入れた『彼の情』で、とりあえず満足していた『愛人子猫』は、そうする事が……『義妹から彼を取り返す』事より先だったのではないのだろうか?

 だから……きっと、ジュールに殴られたのだろう。
 アリスの一番怖いお兄さんは──やっぱり『公平』だった。
 アリスがどうするべきか……教えてくれていたのだから。
 どうでも良いのなら……あのまま見捨てられていただろう。

 今度は、海原に視線を馳せた。

 遠い空母艦の上空に──何機もの戦闘機が旋回している。
 あそこに……『彼女』がいる。

 自分の何かを空に賭けた……彼女。
 彼女にどこか共感を感じ、まるで自分が空を飛んでいるような感覚に陥ったのは何故なのだろう?

 今度は違う意味で、絶対に会いたかった。

 潮風の中──アリスは前をスッと強く見据えた。

「ジュール。お願いがあるの──」
「……なんだ?」

 青い瞳はもう揺るがない。
 アリスの煌めき始めた眼差しに気が付いたジュールも、その眼差しを強く対等に受けてくれていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 終わった──。

 そう心で一人囁きながら……隼人はロッカーの扉を閉める。
 そしてロッカールームを見渡した。
 もう……隼人一人。
 皆──ショーサポートという大任から解放され、白い正装服に着替え祭典へと飛び出していった後だった。

 隼人はここで一人、ゆっくりと支度をして、後輩達を送り出したのだ。

 ま──ワザとゆっくりしていたというのもある。
 何故なら……。

『待っていてね』

 そう──葉月との約束があり、出来ればゆっくりと二人きりになりたかったから、一人になるように見計らっての事だった。

ロッカールームを出て、隼人は扉までとりあえず彼女を待つ事に……。

 

 それにしても──『彼女を待つ』という事がどうしてこんなに、落ち着きなく感じるのだろう。
 まるで学生が校門だか、裏門で、お互い知るのみの約束として、密かに待ち合わせている気分だった。
 別に……今だって『公認の男女仲』で通るだろう関係なのに……。

(あいつが、あんな顔するからだ──)

 隼人はさらに溜め息を落とす。

 『待っていてね、プレゼントがあるの』なんて……見慣れているはずの笑顔が、妙に新鮮に『可愛らしく』見えた物だから……。
 そして、こんなにも『その笑顔に、頬に触れたい』と切望し胸を焦がしているくせに──。
 ……きっとまた、触ろうと思ったその瞬間に、なんだか『遠い気持ち』になってしまうに違いなかった。

 暫くして……待つ事が少し退屈になった頃……。

──カンカンカン!──
「?」

 車庫へと降りる鉄階段から、誰かが駆け上がってくる足音が響いてきた。

「隼人さん──」
「!」

 隼人がその音が近くに来て構えていると、やがて鉄階段の踊り場に、息を切らして駆け上がってきた葉月が姿を現した。
 まだ……紺色のショー衣装のままだった。

「ああ、そんなに待たなかったけど。もう、来賓客のお相手は終わったのか?」

 思ったより早かったので、そう尋ねたのだが……。

「……隼人さん……」
「ど、どうしたんだよ……?」

 階段を上がりきって、息を切らしたままたたずんでいる葉月の顔が──妙に泣き顔に崩れたような気がして、隼人は眉をひそめる。
 その途端だった──葉月がまるでなにもかも忘れたかのような必死とも言える顔つきで、隼人に向かって走ってくるのだ!

「葉月──!?」

 何事かと思って、隼人の足は自然に彼女を迎えに行くよう、大きく一歩踏み出していた。
 だが、必死に走ってきた葉月の方が、隼人の胸元に辿り着くのが早かったようだ。

「うっ……は、葉月?」

 まるで突っ込んできたかのような突進に、隼人はよろめきながら──胸元に飛び込んできた葉月をなんとか抱き留めた!
 彼女を抱き留めて、やっと胸元を見下ろすと……葉月は少しだけ涙を流して、隼人の白い正装服の胸元に顔を埋めていた。
 その顔が……また、妙に清らかで透き通っているように見え、隼人の胸は、何か鷲づかみでもされたような狂おしい感触に、みまわれる。
 その感触に自分で戸惑っていると、今度は、隼人の胸元で息を整え、やっと落ち着いたかのような葉月が濡れた瞳で、隼人を見上げるのだ──。

 それにも少したじろいでしまい、隼人は思わず視線を逸らしてしまった程──。
 やはり──どうにも……彼女の全てが愛おしくて堪らないという気持ちにさせられる。
 だが──『もう、そうではない』と自分に言い聞かせ、彼女にも『決めた通りにやり通す』様にしてもらう為に、身体から引き離そうとしたのだが──。

「──隼人さん……さっき……有り難う」
「……あ、ああ……あれね……その、細川中将が慌てて呼ぶから……その……」

 白い正装服の胸元を握りしめ、隼人を見つめるその眼差しには……逆らえなかった。
 葉月と接して、こんな風に『術にかけられたよう……』な感覚になる事は、以前ならそれ程気にしない『当たり前』の感覚であって、決してそれに逆らわず、かけられたのなら、抑制せずそのまま彼女を愛していた……術をかけられたなら、かけられただけで済ませない程の懸命さで──。
 それが──日常だった。
 だが──今は懸命に自分をコントロールしている感覚は『抑制』だった。
 だから──葉月のその顔から逃れるように、また顔を背ける。
 その上、何故? 言葉がどもってしまっているなんて……本当にうぶな少年が、本心とは逆さまに、なんとか普段の自分を保とうと必死になっている様と一緒ではないかと、隼人はこの歳になっての現象に、密かに驚き、情けなく思ったりしたほどだ。

「……お、お前──やっぱり何処か調子悪かったんじゃないのか? もう、大丈夫なのか?」

 なんとか気を取り直して、思い詰めるように見つめている葉月を見下ろし、頬に自然に触れる気になった時だった──。

 一瞬だった──。
 彼女の細い腕が隼人の首を巻き込み、そして……口元にふわりとした感触を押しつけられたのは──。

「むっぅ……!?」

 不意打ちとはこの事か?
 なんの前振りもなく、葉月がまたもや突撃するように隼人の唇を塞いだので……思わずそんな声が漏れてしまった。

『葉月!?』

 あまりにも葉月が激しい口づけをするので、そう言いたくても言葉が出ない程、唇を動かす隙も与えてくれず……息苦しい程……。
 目を見開いている隼人の目には、しんなりとしたまつげを伏せて、夢中に自分を愛してくれている葉月の顔。
 白い頬は桃色にそまり、茶色の艶々としているまつげには、小さな玉雫がまとっていて、それがしっとりと隼人の頬をくすぐっている。
 そして──唇はいつも以上に熱く、珍しくも……隼人の方が舌を巻かれて翻弄されるぐらいの……吸い取られるような愛撫で硬直した。

 こんな吸い取るような口づけなんて……当たり前だったじゃないか?
 いや……彼女の唇をいつも絡め取るように攻めていたのは、隼人だった。
 今は──自分が絡め取られている?
 甘くて、そして──少しスッとしているミントのような涼しさが漂う感覚が、葉月との口づけだった。
 彼女の唇に触れると……いつも何処か……彼女の指先のように『ひんやり』としていると感じる事が多かった。
 その血が通っていないかのような彼女の冷めている唇を暖めてあげる──そして、彼女を抱きしめて指先にも血流を送ってあげる。
 そんな風に彼女と抱き合って、そして隼人は彼女を愛してきた感覚がある──。

 だが──今、こんなにも懸命に自分を愛してくれている葉月の唇は『熱い』
 隼人の唇も舌も急激に火を点けられたように……『暴れそう』だ。

「……葉月」

 彼女が息継ぎをしたその時──ここのところ、必死に意識してきた隼人の留め金が外れる。

「あっ・・は・やと……さん──」

 葉月の頭を……栗毛を鷲づかみにする勢いで引き寄せる。
 彼女に仕返しをするように……彼女を制圧するように火を点けられた隼人の唇は、葉月の口の中で力強く暴れ始める。
 彼女をきつく抱き寄せ、その細い身体をよりいっそう感じたい為に、いつも以上の強い力で抱きしめてしまっていた。

 今日──彼女の栗毛はしっとりとしていて、少し汗の匂いがする。
 だが──首筋から、トワレの香りはしないが……隼人だけが知っている、よほど側に寄り添っていないと解るはずもない、嗅ぎ分けられないであろう、葉月だけが放つ、微かな甘い身体の匂いが立ち込め始める。

 いつもなら──あのトワレをつけているはずなのに、つけていない彼女にがっかりするはずなのに──。
 その『特有な甘い僅かな匂い』を感じる事が出来たのが、妙に狂おしく胸を焦がしていた。

「うん……あ、隼人さん……」
「なんだ……いったいどういうつもりなんだ?」

 唇は離さず、腕の絡まりは解かず……視線は逸らさない……。

 お互いの全てが一致した『熱く甘露な感触』を決して途切れさせない姿勢が整ってしまっていた。
 ここがはばからない場所なら、絶対に葉月を押し倒し……一糸まとわぬ姿にして、隼人は何も考えずに彼女の肌を欲し、愛してしまっていただろう。
 それ程の官能的な感触が──罪な事に隼人の身体に湧き起こっている。
 それは……葉月も一緒なのだろうか?
 その甘露な感触を途切れさせないで唇を離さない葉月が、言葉を発する余裕を取り戻しても──息を切らして、うっすらと首筋に汗を滲ませているから……。

「……死ぬかと思ったわ」
「ああ」
「……本当に……無茶はしないって約束したのに」
「ああ」
「だから……ここに戻ってこられて、嬉しいの──」
「うん」

 その柔らかい声を聞きながら……その彼女の気持ちの意味を受け止めながらも──隼人はやっぱり、目の前に確実に存在している『甘い物体』に捕らわれたように……そして逃がさぬように愛撫し続ける感触を堪能する事に虜にされていた。

「……解る? 今の私の、この溢れる気持ち……」
「──?」

 葉月の瞳が大きく揺れて、今度は涙いっぱいに滲み始めた。
 隼人は少し首を傾げ、葉月から唇を離して、見下ろした。

「溢れてくるの……あなたを愛しているわ……伝えたかった」
「──葉月」

 葉月の目尻から、静かに涙の雫が流れ落ちていった。

「嘘じゃないわ……本当よ。もし──あの時墜落したら、言えない事だったわ。だから──今、言っているの」
「……」

 そっと染まった桃のような頬、そして、すこし紅くなってしまった濡れている唇──煌めく瞳は、ちゃんと隼人を映している。
 そして──その声は、いつも以上に熱っぽく、彼女が奏でるヴァイオリンのちょっと弱い音の様な……? そういう空気にちゃんと振動している『生きている声』に聞こえた。

「葉月……」

 その愛を告げてくれる彼女の顔に、隼人は捕らわれ見入っていた。
 ──美しかったのだ。
 今まで以上に……今度は目が逸らせなかった。

 そのまま時が止まったかのように──暫く二人は見つめ合っていた。

 その間、言葉も交わさずに、お互いに思い合っている事は『一緒』だと……隼人は確信していた。
 葉月と見つめ合う、絡め合う視線は──どこかベッドの上で、二人で懸命に抱き合っていた感覚と、とても似ている。
 言葉が無くても、お互いの今の熱い気持ちを身体の何処にぶつけたいのか……身体の何処を愛して欲しいのか……そんな事を心の感触で感じ取っている。
 今──二人は裸ではないけれど……今の熱い気持ちを『どんな言葉で心にぶつけたいか』……そういう感触に満ちあふれているのが『視線』で解る。

 だから──その視線が『何を話しているか』も解る。

『本当は生きたいのだろう?』
『ええ、うんと生きたかった……だから、帰ってきたわ』
『お前は生きるという事を選べたんだ──』
『そうよ。選べたから──あなたに言うの。生きているうちに、ちゃんと言うわ』

──『愛しているって!!』──

「隼人さん──」
「葉月──」

 もう一度、抱きしめ合って口づけを交わした。
 言葉がない、囁きもない……口づけの熱い音だけが小さく二人の耳元まで響くだけ──。

『でも──』

 そして──何故か二人は揃って唇を離し、もう一度見つめ合う。
 今度は……お互いに視線を逸らし、ついに腕の絡まりも解き合ってしまっていた。

 『現実』が二人を、夢の中から連れ戻すように──目を覚ましたのだ。

「……解っているな。葉月」
「うん……解っているわ」

 それも、お互いの沈黙の中で──これだけの言葉で『通じ合ってしまうなんて』……。

「生きて帰ってこられたからこそ……解るな。俺に愛していると、言えるんだから……だからやっぱり、これで終わりにしたら駄目だ」
「……」

 隼人だって、こんな事言わずに──今すぐに葉月を抱きかかえ、官舎に連れて帰り、誰にも邪魔されず、何にも捕らわれずに、彼女を愛し抜きたい。
 だが──そういう事で、今まで怯えていた『影』から逃げてばかりいたのだ。
 このままの勢いで彼女をさらう事ができるだなんて思っていない。

『兄貴に会えなくなってもいいのか!?』

 そう叫んだ途端に……その言葉が起爆剤だったかのように、今にも散ろうとしている葉月の気力が、爆発的に蘇った感覚は隼人には否定出来なかった。
 だからこそ──それを感じた自分にも隼人は嘘で誤魔化したくない。
 誤魔化しで、とりあえず手に入れて安心する『彼女との愛』なんて、もう沢山なのだから。

 隼人の言い聞かせに、葉月は俯いてしまった。
 そして動かなくなっている。
 まさか──この勢いで、俺の所に戻ってくるつもりになってしまったのか? と、隼人は焦った。
 焦った? いや──少しばかり、そういう葉月の決意もあるかもしれないという期待も含まれているが、隼人はそんな安易で確率が低いだろうケースにすがるなんていう期待は絶対に持たない。
 だから──焦った……という感覚の方が勝っていたのだが……。

「これ……」

 そして俯いている葉月が、スラックスのポケットから何かを差し出してきた。

「約束していたプレゼント……」
「これを? 俺に──?」

 葉月がこっくり頷く。
 それは──ショーに参加出来たパイロットが、参加記念にもらえる『バッジ』だった。
 水色で小笠原基地のマークに白い戦闘機が描かれている小さなバッジだ。
 これを胸につけているパイロットを隼人は何人も見ている。
 特に第一中隊と第二中隊──。
 このショーに選ばれるパイロットだけが手に入れる事が出来る品だ。
 きっともらったばかりだろうそれを、葉月が差し出していたのだ。

「いや……でもこれはパイロットの一種の勲章じゃないか」
「私──これが二つ目だし」
「そうだろうけど……」

 すると怖じ気づいている隼人に向かうように、葉月が確固たる顔つきで顔を上げる。

「知っている? 源中佐の胸にもこのバッジが付いているのよ?」
「え? そうだった?? メンテ員ももらえる事があるのか?」
「違うわ。ウォーカーキャプテンがご自分がもらったバッジを、一生懸命サポートしてくれたメンテの源中佐に捧げたい……と差し上げたと言う話は聞いた事はない?」
「!……いや、ないけど。もしかして……これを俺というメンテ員に?」
「そうよ」

 透明なプラスチックケース、とりあえずというように敷かれている紺色のビロードの上に、ちょこんと乗せられている水色のバッジ。
 それを葉月が両手で差し出す。

「今日まで……ご苦労様。私達を守ってくれて有り難う。澤村キャプテン」
「……あ、ああ……」

 清々しい笑顔を、なんとか浮かべた……というような葉月の顔。

「私とあなたの……記念品にしたいの。私とあなた……一緒に空を飛ぶ事を為し遂げた事に……」
「うん、そうだな──嬉しいよ。作業着の胸につけるよ。ちゃんと──」

 彼女の笑顔が自然に輝き始める。
 隼人も──それは感激だった。

「あなたが私を飛ばして……」
「お前が、俺の手で空を飛ぶ──」

 不思議だった──。
 まるで打ち合わせたかのような……以前からお互いの口癖だったように、口調が揃ったのだ。
 当然──二人で顔を見合わせ、一瞬茫然としたのだが、次には微笑み合っていた。

「有り難う──最高のプレゼントだ」
「……うん」

 葉月が差し出している透明なケースに、隼人は両手を差し伸べる。
 そして、受け取ろうと、自分の方へ引き寄せようとしたのだが──葉月が、何故か手を離してくれない?

「えっと……本当にもらって良いんだよな?」
「……」

 葉月はこっくり頷くが……やっぱり、そのケースを受け取ろうとする隼人の力に逆らって、強く握りしめたままなのだ。

「……葉月」
「……これ……」

 手渡そうとしない葉月が、俯いて、また──泣き始めていた。
 隼人にも──どうしてなのか……解った。

「……俺、受け取りたいんだけど……せっかくだから。それに、これ以上の記念品はないとおもうから、“今日”から手元に置いておきたい」
「……うん」

 言葉は肯定的なのに、葉月の手元は強く抵抗している──そんな矛盾している彼女の『気持ち』が、見ている隼人にも痛々しい程伝わってくる。
 これを渡してしまったら……『私達の今までが終わる』──二人だけの『一幕』が確実に閉じるのだ。
 矛盾している葉月のその姿──。
 目の前の男を愛し、そして捨てきれない想いを熱く秘めて揺れているだろう、彼女を引き裂いているような『ふたつの愛』。
 矛盾しているのだろうか? 彼女がたまたま『ふたつの愛』を抱えてしまっているだけで──その中で、確実に自分の事も愛してくれているのは、隼人にも解っている。
 そして──やっぱりこのまま連れて帰りたくなった。
 泣いている彼女を、側に置いて──『もう、なにも考えなくていいんだよ』と、抱きしめて、その小さな頭を撫でてあげたい。

 だが──隼人は深呼吸をし、心を鬼にする。

「有り難う──俺の宝物だ」

 葉月が握りしめているその片手を、隼人はケースから力を入れて外す。
 そして、もう……片手も。
 彼女からのプレゼントだと、彼女が差し出しているのに──まるで奪うかのような形になってしまった。
 葉月が、がっくりと肩を落とした。

──『終わった』──

 二人の間に漂っている空気に、そんな一言が流れ込んできた気がした。

 そして再び、見つめ合った。

『行くんだ……葉月』

 隼人の眼差しはそう念じる。
 そして──隼人は目の前で自分を惜しむように見つめている葉月の両肩を力強く握りしめた。
 葉月が『痛い』というように表情を歪める程の力で……彼女を回れ右をさせ、背中を向けさせた。

「葉月──」

 葉月の首筋に、隼人は指を滑らせた。
 戸惑う彼女を、なだめるように──そういう仕草だ。

「誰かが……誰もが……俺の事も、お前の事も──『間違っている』と言うだろう。そんな事、気にするな。これが俺とお前が決めた『決意で正解』だ。誰も邪魔は出来ないし、口出しは出来ない。俺達二人で決めた事は、そんなに簡単に壊れない。俺とお前はそういう強い関係だ」
「……強い関係」
「それだけは、忘れないでくれ──何があっても……」
「……」

 視線だけで、抱き合っている感覚に陥る事が出来る程の『関係』であった事は──今日これほど強く感じた事はなかった。
 それはお互いに感じ得た事だっただろう──。

「……行ってくれ……」
「……隼人さん……」

 隼人はその両肩を、押し出した。

 葉月の背後から、フッと気配が退いた。
 そして、後押しをしてくれていた肩が軽くなる──。

 振り向くと──隼人はもう……葉月に背を向けて歩き出している。
 反対方向に──振り向かずに……。

「有り難う──」

 葉月もその……白く輝いているような彼の背を見送る。
 そして──肩に残る強い感覚……そして、軽くなった瞬間の感覚を思い出す。

 彼は、私をたった今……『本当の世界に一人で飛ばしてくれた』

 葉月はそう思った。
 彼はやっぱり、葉月を飛ばしてくれる人だった──。
 私を後押し、背中で見守っていた彼は──『もう、いない』。

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