・・Ocean Bright・・ ◆楽園の猫姫◆

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5.見失い

──プルルルッ!──

 内線が鳴る。

「はい、第四中隊大佐室、澤村です」

 その日もいつもの席で、いつもの業務をこなしていた。
 ただし──せっかく式典が終わったのに『いつもより』忙しくなり……目の前の大きな席には『彼女』がいない。
 それでも、隼人は淡々といつもの業務に取り組んでいる所。

『お疲れ──サワムラ君。第一中隊のウォーカーだけど……』
「! ウォーカーキャプテン……? ああ、お疲れ様です」

 彼と言葉を交わすのは久しぶりだった。
 自分のメンテチームを持つまでは、各フライトチームをサポートしているメンテチームの『補助員』──つまりお手伝い廻りをしていた時に、彼の機体を飛ばした事もあるし、整備した事もある。
 だが──こうして自分の中隊に戻る陸では、隼人にとっては接点少ない大先輩で、言葉を交わす事はあまりなかった。
 その彼が自ら連絡してきたのだ。

『源から聞いたんだけど……お嬢、今──出てきていないんだって?』
「は、はい……急に体調を崩し、式典後に鎌倉の親戚宅で養生する事になりまして、あの、連隊長も承知済みです」
『デイブからも聞いた。なんだか体調がおかしい様子だったけど、そこまでだとは思わなかったと彼も驚いていたよ。ショーを無理押しして参加したからではないかと……』
「いえ、ショーそのものが原因ではないみたいですよ。その以前からですね……ちょっと大佐としての重責で彼女も気を張っていて、今回の大任で糸が切れたみたいに……」

 全て……ロイと打ち合わせをして用意された『いい訳』だった。

『なるほど……? 確かに、お嬢は春の任務からかなり頑張っていたからね……そうか。彼女でも駄目になるんだ……』
「申し訳ありません──私達も、気が付かなくて……」
『いや……仕方がないね』

 何故か、ウォーカーのがっかりする声。

『それで……君は側近として、彼女がどれぐらいで戻ってこられそうか判るかな? と思って……』
「……」

 流石に隼人は言葉に詰まった。

 彼女がいつ戻ってくるかなんて保証もない中、とりあえず答えた日数は、彼に期待を持たせてしまうだろう……と。
 しかし、隼人は眉間にシワを寄せつつ、腹を決め、深呼吸をした。

「おそらく……10日ぐらい……かと……」
『……そう』

 また、彼のがっかりする声。

『こうあからさまに、君に尋ねるのは失礼かと思うけど……』
「どのような事でございましょう?」

 まだウォーカー中佐は、諦めてくれない。
 余程、葉月と話したい何かがあると、隼人は急にそれが気になり出す。

『君──彼女の恋人だよね? その……連絡とかも毎日しているのかな? 彼女、様子……どうなのかな? それと……』
「?」

 その突っ込みは、隼人には胸痛くなる突っ込みだった。
 『恋人』としての心配は今となっては、その資格も自分から放棄したような物。それでも心配したとしても、連絡する事は……気が進まない。あの兄貴の所にいる彼女の様子など……。
 だが、それ以上に──ウォーカーは今の葉月の様子を執拗に知りたがるのだ。

「──連絡はしておりますけど──。彼女……今は親戚が大事に面倒をみているようなので。家族間の事もあるようなので、僕は一歩、控えさせてもらっています」
『家族間?……そ、そうなんだ』

 『御園の間の事で何かあり』と匂わせ、そこは隼人からは何も言えない状態だと遠回しに告げると、やっとそこで彼も首がつっこめない何かが起きていると察してくれたようで、黙り込んだ。

『分かったよ。有り難う──もし、お嬢に連絡する事があるなら、お大事にと……』
「はい……有り難うございます。伝えておきます」
『では……』

 そこでウォーカーの息づかいが遠のこうとしていた。
 だが──!

「あの! キャプテン……!」
『? なんだい?』
「……彼女が帰省するまでに、何かお約束でも?」
『いや……もういいよ。ちょっとショー成功のお祝いを言いたかっただけなんだ』

 だが、彼の声は、とても沈んでいるではないか?
 余程、葉月に会う事を待ち望んでいたかの様子だ。
 もう──彼女は帰ってこないかもしれない。だけど──! ここでその何かのパイプを断ち切ってしまえば……それで何もかも終わるかのような? そんな気がしたのだ。

『ここは俺が守る!』

 そう思って彼女がいなくても、ここで日々をこなしているのだから。

「宜しかったら……お聞かせ下さいませんか? 私なりに力不足でも協力できることなら……!」
『いや……』
「彼女が帰ってきたら、直ぐに引き継ぎ出来るように致しますから!」
『……』

 まるで訴えるかのような隼人の声に、ウォーカーが黙り込んだ。
 だが──。

『いや……本当になんでもないよ。有り難う。じゃぁ──君も大変だろうけど頑張って──』
「──! キャプテン……?」

 そこであちらから、振り払うように内線を切ってしまったではないか?

「──」

 隼人は一時、受話器を見つめ──。

「くそっ!」

 悔し紛れに受話器を叩きつけるように戻す。

 やはり『彼女でないと……』と言う感触を、ここ数日何度も噛みしめさせられる程、痛感させられていた。
 昨年──『小娘のくせに』と中高年の隊員達に小馬鹿にされていたが、彼女の存在感は、昨年の物とはもう異なっている位置づけが確立されている事を──。

『え!? あの大佐嬢が休暇? 体調を崩して帰省?』
『困るなぁ〜。やはり、彼女が許可してくれたというならね……受け付けてもいいんだけど〜』

 外も内も──『葉月がいない、期限不明の休暇、帰省』に過剰な反応だった。
 では……これをどう収め、彼等を納得させているかというと。

『分かったよ。私が許可をして、責任を持とう』

 葉月が大佐になるまでそうしてくれていたように、五中隊長のウィリアム大佐が……後見人として戻ってきてしまったのだ。
 また、振り出しに戻った気分にさせられた。彼女が……いなくなっただけで。

『くっそー。俺達ってその程度? これでも葉月代理も通るはずの直属側近だぜ?』

 せっかく大任を葉月に任されやりこなしたばかりの達也も、結果に大満足、ついた自信から突き落とされたかのように一転してしまった数日に非常に不機嫌であった。
 隼人も──。

(こうなるとは予想していたが──)

 一人きり留守を守っている大佐室で、額を抱えてうなだれた。

 

 葉月が飛び出していった後。
 式典中とはいえ、ちょっとした動揺が『内輪のみ』にて、波紋が起きた。
 起こったのだが──。

『こうなる事は予想していた。ここは俺の一存にて今後、暫くの間、対処する。従って欲しい──』

 ロイは非常に落ち着いていた。
 いつもなら、すぐに怒り出し、今にも大々的に『追跡』をしそうな彼が──義妹を宿敵にさらわれたと言う状況なのに、サラッとした顔をしていたのだ。

 それを見て、ムキになったのは『達也』一人だけだった。

『どうして皆、あんなに落ち着いているんだよ!』

 それもそのはずで……。

 ロイとは、密かに葉月を送り出すかどうかについて、話し合った事もあったので──隼人は『ついに連隊長も送り出す方に賭けたか』と思えたのだが。
 隼人が一番驚いたのは『葉月の両親』の反応だった。

 二人とも、葉月が今まで自分自身でもしがみついてきたはずの『この場所』──つまり『軍隊』であったり『四中隊』であったり『パイロット』であったり……それを、全て捨てるかのように飛び出した事を聞いても……『そうか』と『そう……』と、表情は固かったが、取り乱したりしなかったのだ。
 それはつまり──『両親も娘の心底はよく知っていた』と言う事を、隼人は思い知らされる事になった。

『……隼人君、申し訳ない!』
『娘に代わってのお詫びなんて……これだけのお詫びで済むとは思っていないし、葉月を許してだなんて言わないけど……でも』

『申し訳ない……』
『申し訳ありません……』

 二人が隼人に土下座でもしそうな勢いで、謝ってきたのだ。
 だけど──隼人としても、そうされたら困る。

『行かせたのは……僕自身です』

 それもロイから聞かされ、亮介も登貴子も『分かっている。隼人君の心意気は聞いている』と……。
 それでも『全ては、私達家族の葉月の育て方、導き方が悪かった』とかなんとか言ってくれたが──隼人としては、これは起こる事と覚悟していたので、亮介と登貴子には。

『僕は──彼女が戻ってくると信じています。連隊長と一緒に、大佐室を守って待ちます』

 と、言い切ると、亮介と登貴子は初めて驚いた顔を二人で見合わせていたのだ。

『暫く──君に辛い思いをさせるけど、こちら、御園側に任せてくれないか?』

 亮介が苦々しい苦痛顔で、隼人に頭を下げたのだ。
 『もうとっくに右京にその気持ち、そちらに葉月を任せる心積もりを伝えている』と知らせると、亮介はまた驚いた顔をしていた。

 澤村の家族に誤魔化すのも一苦労だった。

『葉月君が体調を崩して? 大丈夫かね?』
『え〜! あれだけの事を成し遂げた葉月さんにお祝いを言いたかったのにぃーーー!』
『お大事に──伝えておいてね? 残念だわ……今からゆっくりお話出来ると思ったのに……』

 あんな大事故寸前の危機を脱した後だった為、和之も美沙も和人も、『両親に付き添われて、今、休んでいる』という隼人の言葉を信じた様子で、夕方定期便で横須賀へと帰り、隼人はそれを見送った。

『まぁ──連休が取れたら、彼女と顔でもみせなさい』

 そう言ってくれる父親の笑顔が、とても痛かったが──隼人は『分かった』とだけ答え、今のところは、そのまま見送るだけに留めておいた。

 そして──葉月の両親は、ロイの夕べのパーティーに参加することなく、慌てるように『鎌倉』へと急遽、出立してしまったのだ。

 ロイのパーティには……隼人は参加しなかった。
 ロイも察してくれ、一人きりにしてくれた。
 達也は一人になってしまった真一を気遣って、二人でロイの家へと出かけたとの事だった。

 

(御園家と……フランク家と……黒猫……谷村家か)

 そこで、新参者には……いや、その三家以外の部外者には、なにやら入り込めない何かがありそうな事を、隼人に予感させた。
 特に亮介と登貴子は、娘が闇の男の下へと走った事で取り乱すのではないかと思っていただけに。

(いくら……黒猫の兄貴が真一の親父で、婿に近い男といってもな?)

 妙な違和感が湧いていた──。

 しかし、今となっては……もう隼人が賭けてしまった事は『待つしかない』だった。
 達也は悶々としているが、彼も彼なりの『決意』があるようで……。

『裏切られても、追わない事にしたんだ』

 と──葉月が飛び出したなら、もう『俺が知っている葉月じゃねぇ』みたいに、もういない人間の様にひと言も言わなくなる始末。
 隼人に『連絡しろよ』とか『追いかけろよ』とか……そんな責めもいいやしない。
 彼は大佐がいなくなった『この中隊を守る』という事だけに、神経を傾けているようだった。

 

「ただいま〜」
「ああ、ご苦労様──」

 そんな達也が外から帰ってきた。
 葉月不在の為、彼が代理で『中隊長定例会』に出席していたのだ。
 その達也が書類をばっさりと机に置いて、座りこむ。

「どうだった? 他の大佐達……」
「さぁね? 俺を遠巻きにしてヒソヒソとお茶会に出かけたみたいだったよ。俺なんて眼中なしって感じで、蚊帳の外さ」
「あー。とりあえず、不審には思っているんだ」
「そりゃ、そうだ。何故か大御所のフォード第一中隊長が『お嬢が?』なんて、一番不思議そうだったぜ? で、そのオッサンが他のオッサン達を引き連れるようにカフェにいっちまったよ」
「第一中隊のフォード大佐が?」
「うん。いつ頃彼女は帰ってきそうか? なんて事は聞かれたけど──? 僕は知りませーんって笑顔で言っておいた」
「はぁ……そうなんだ?」

 先程の第一中隊のフライトキャプテンと言い、一番幅をきかせているフォード中隊長が『葉月の帰りを待っている』ような様子が、妙に引っかかった。

「ま。何があっても、俺はもうなんにもできねぇ、一中佐だから? 後は『ロイ兄様』の勝手でしょ。いちいち『上官達』の思惑なんて、深く考えるだけ無駄だ──」
「……」

 少しばかり投げやりに、達也は言い捨てる。

「俺、ランチに行っていいかな? それとも兄さんが先に行く?」
「え? ああ……いいよ。まだデーターまとめているんで……」
「そっか、悪いな」

 達也はそういうと、ちょっとだけ疲れた笑顔を灯して、席を立ち上がる。
 だが、達也が立ち止まった。

「……どうしているかな? 幸せなんだろうな……きっと」

 彼の哀しそうな眼差しが、肩越しからチラリと大佐席に向かった。

「さぁね。考えた事ない……」
「あっそ」

 隼人が素っ気なく答えると、達也は鼻の頭にシワを寄せかなり不機嫌に出かけていった。

 隼人も溜め息をこぼしながら……大佐席を見つめた。

「……幸せか……」

 そして、また──何事も無かったように隼人はパソコンに向かう。

 そう──もう、何も感じてはいけない。
 感じれば──自分がした事を後悔するだけだ。
 後悔をしたら……余計に苦しくなる。
 達也と同じように、今は『自分が決めた職務』をただまっとうしていればいいのだ。

 ただ一人──心の中で彼女を切望している事を、どれだけ殺しているかは……誰も知らない。

『!』

 葉月の大佐席を、溜め息をつきながら見つめていると、隼人はふと何か閃き、席を立った。

「……そう言えば、あいつ……残していったかも?」

 彼女のみの感覚で積み上げられているバインダーの山を隼人は覗き込んだ。
 もし、これを崩したのなら……帰ってきた葉月に怒られるという事を頭に描いてしまい、その順番を狂わせないようにそっと……両側に積まれているカラフルなバインダーをひとつひとつ除いたが……なかった。

 だったら……と、思い切って引き出しを開けてみる。
 小物を揃えている彼女の引き出しにも、それは見あたらない。

「! これか?」

 最後の大きめの引き出しを開けた時だった。
 葉月がいつも通勤で使っているプラダの黒リュックが出てきた。

「……あの日のままか……」

 誰にも気が付いてもらえず……数日間、あの式典の当日から、持ち主に見捨てられたかのように、皆に忘れ去られたように……置き去りにされていた。
 その荷物も、失礼かと思いながら開けてみる。
 そこには、化粧ポーチが一つ。そして……。

「あった!」

 やはり……置いてかれていた。
 それは……青い革カバーの『ビジネス手帳』だった。
 いつもは彼女の通常制服の胸ポケットに差し込まれているはずの、ハンドタイプの薄い手帳だ。
 あの日は式典で正装だったため、ポケットから外していたようだ。

 隼人はその手帳をめくってみる。

『!』

 見つけた! こういう所は、きちんとしている彼女で、隼人はホッとした。
 十月の欄、式典後、週明けの火曜日。
 もう──その日は過ぎている、昨日の事だ。

【ウォーカーキャプテンとコリンズ中佐について……15時カフェにて約束(内密)】

 そう記されている!

「コリンズ中佐について? なんだろう……?」

 だが、これでウォーカーが葉月にコンタクトを取りたがっている事が分かった!

「あのバカ……こういう事も忘れる程、飛び出していったのか……」

 何故か……隼人は微笑んでいた。
 あの葉月が……それ程、感情を燃やして行動をしたという事ではないか?
 いつも、この『世界』にある自分の周りに起きるだろう事を一番に考えて動き回り、飛び跳ねていた『ウサギ』が……それを忘れて、かなぐり捨て、『女として』飛び出していったのだ。
 微笑んでいたのに……急に涙が滲んできた。

「俺では……駄目だったのか……?」

 彼女がいなくなって……初めての涙だった。
 それが、彼女のシンプルな罫線だけの手帳にぽつりと落ちた。

 

『裏切られるのが怖かったんだ。兄さんは──』

 

 達也のあるひと言が急に隼人の胸に迫った。
 式典後、フランク家の親しい来賓と隊員を集めての夕べのパーティ後の事だ。
 達也は早々に官舎に戻ってきて、隼人の様子を気にし訪ねてきたのだ。

 その時、隼人は台所の小さなテーブルで独り──缶ビールを何本も空けて、突っ伏していた所だった。
 それを見た達也が、呆れた様子で呟いた一言がそれだった……。

『兄さんは……確かに葉月を真っ直ぐに愛していた。だからこそだと、今だって俺は認めているよ。だけど──果たしてそれは“男”だったのだろうかと……女を愛する男の熱愛じゃなかったと俺は思うね。それもここの所、急に──。フロリダで再会した時はもっと葉月に対して男として熱っぽく見えていたけどな』

 と──。
 何が言いたいのだ……と、隼人は鬱陶しそうにうつぶせているだけだった。

『兄さんは……葉月を死ぬ程愛している真っ最中に、裏切られるぐらいなら、こっちから裏切りを認めてやろうじゃないかと……そうしただけだ。悪く言えばな──』
『!』
『傷つきたくなかったんだ。最悪の形で──。まぁ……普通の男じゃ考えられない事、やったんだ。それが葉月の為というなら、男と言う匂いを捨てきった側にいる親友がする事で、人として疎い葉月の後押ししただけって感じに俺には思えるよ。俺だったら、男としてなら必死に女の葉月を離さない。女の葉月を男として熱く愛し抜いてこそ、女は幸せなんだって……。一度、手放してしまったから、俺には解る』

──『手放したら……戻す事は難しいのだ』──

 達也はそう言い切った。

『でも──あの女を愛するには、この過程は必要だったんだという事は俺も認めるよ。兄さんは──そこまで自分を追いつめてまで、男を捨ててまで、葉月を愛していたんだって。だが、これも俺からすると“良く言えば”になるけどな──』

 達也は、『仕方がなかったかも』と認め、諦めつつそう労ってくれたが……彼だからこその言葉に、その時、急に酔いが覚めた事を隼人は思い出していた。

 その後……。

『先に裏切りを認めた』
『最悪の形で傷つきたくなかっただけ』
『男と言うより親友的だった』

 その一晩、朝まで──隼人はその言葉について考えさせられた。

『俺の愛は……男、異性じゃなかった?』

 だから──『女である葉月』を逃した。
 そう聞こえたのだ。

【新キャプテンについて、細川中将から知らせある予定】
【フライトミーティングにて、今後の活動についての話し合いあり】
【フロリダ・マイクに経過報告をする事】

 彼女の手帳に、式典後も……大佐として頑張ろうという彼女の『意志』がそこに綴られている。
 たった一粒の涙は乾いて、隼人は手帳を閉じ……それを元のリュックにしまっておく。

 もし──彼女が戻ってきたのなら……。
 隼人はそんな事を……まるで昔の事を思い返すように、考え始めていた。

 日差しの中に輝く大佐席。
 そこに、いつも悪戯っぽい眼差しで台風ばかり起こしていたお転婆ウサギはいない……。

 

☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆

 

 うららかな午後だ。
 リビングには、暖かで柔らかい晩秋の日差しが燦々と入り込んでくる中──ジュールは誰よりも、うろうろしていたのだ。

「あのさ……ジュールらしくないから、やめてくれ」
「……ああ、そうだな」
「まるで、出産を待っている旦那みたいだ」
「……」

 エドはもう……面白がってからかう声ではなく、呆れきった様子だったので、ジュールも思わずはたと我に返り、ソファーに座りこんだ。
 今、アリスは離れにて、他の仕事をさせていた。
 アリスは朝起きた出来事がなんであったか知る事はなかった。
 何故なら──葉月と交わしていたのは日本語であったから、彼女には解らなかったのだ。

『彼女……どうだったの?』
『あー。やはり……胃腸が弱っているみたいだな?』

 エドがそう誤魔化していたが、ジュールの頭の中では、アリスに知られる事よりももっと他の事……ボスへの報告や、今後についてばかりだった。

 午後になってエドが……『お嬢様がこれから食べられそうな物を見繕ってくる』と、買い物に出かけた。
 そして──ドラッグストアで、検査薬を買ってきたのだ。
 そんな医師としててきぱきと、事を進めるエドに……まだ事の重大さを認めたくないジュールは……逆に見ている事しか出来ない状態に。
 そんな呆然としているジュールをよそに、エドは買ってきたオレンジジュースを葉月に勧めながら……。

『お嬢様──お試しになりますか?』

 なんて──さりげなく、市販の検査薬を差し出していたので、ジュールはハラハラしたぐらいだ。
 だが、葉月は素直にこっくり頷いて、暫く、ソファーでくつろいでいるのをエドと見守っていると……。
 それを手にして、これまた何も悩んでいる様子もなく、躊躇う様子もなく──さりげなく二階に上がってしまったのだ。

 それで一人で二階で試しているのかと……こうしてエドと次に出てくるだろう葉月を待っている所だった。

──カチャ──

 二階のドアが開いた音がした。
 エドと顔を見合わせたのだが……ジュールが緊張している様子を、エドはまた呆れた顔にて、彼からキッチンを出て行った。

「お嬢様──何か少しでも食べますか? プティングやゼリーを買ってきてみたんですけど……」

 こういう対応は、この男には適いそうもないなと、ジュールはエドのにっこりソフトな対応に脱帽だった。

「これ……」

 すると階段を降りきった葉月が、そっと細いスティックをエドに差し出していた。

「ああ、では──処分しておきますね」
「ごめんなさい」

 エドはそのスティックをチラリと見下ろし受け取ると、次にはニッコリと微笑み、キッチンに向かって来た。
 そして……それをジュールにちらり見せてくれたが、正直、それが何を表しているのか判らなかった。

「陽性だ」
「そうか……」

 エドの一言に、ジュールはがっくりうなだれた。
 まだ何処かで、エドの見解と判断が間違いであって欲しいと、願っていたのだが──。
 それから逃れる事は出来なかったようだ。

「ジュール、エド……」

 対面式のキッチンの正面に来た葉月が、真剣な顔で二人の男を見つめていた。

「なんでしょう……」

 二人で妙に緊張した返答を揃えていた。

「義兄様には……きちんと私から話します。だから、あなた達から報告しないでね──」
「……え、ええ、解っています」

 そこはエドは戸惑ったようで、そう先に答えたのはジュールだった。

「これはもう判りきった事だから……ちゃんと今夜中にお話しするから……」
「承知致しました……」

 今度はエドも一緒に返答した。

「私──二階にいますから」
「ええ……ごゆっくり。ご用があったら遠慮無くお呼び下さいね」
「お嬢様──ご気分がどうしても優れなかったら、ちゃんと私に頼って下さいね」

 ジュールはジュールの……エドはエドとしての一言を添え、やはり気分が冴えない顔をしている葉月を見送った。

「……はぁ、なんて事だ」

 そして、ジュールは日差しが降り注ぐ、明るいソファーへと向かい、ぐったりと身を沈めた。

「一杯、いるか?」

 今日に限っては……エドの方が落ち着いている。
 ジュールはそんな後輩の言葉に甘えるように、無言で頷いた。

「やはり──ただでは……あの中佐とは終わらないんだなぁ。あの男性、お嬢様とそれだけの時間を過ごしていたって事なんだ」

 エドの妙に降参したような、張りのない声。

「……」

 ジュールは眉間にシワを寄せつつも──反論しなかった。
 ジュールもあの彼の事は、素晴らしいと認めていたのだから。
 だからこそ、今度はボスには曖昧で終わって欲しくなかったのだ──『本気』の上で、葉月を手に入れたのなら、それが結果であり、それを彼に報告するつもりだった。
 そうせねば、彼はずっと葉月を信じて待っているだろう。
 何処かで、終わらせてあげねばならぬ時も来る事を、考えていた。
 だが──逆の事も考えていた。
 純一が本気になった姿を見た葉月が……それでも、隼人という男を忘れ得ない様子を垣間見せる事もあるのではないかと……。
 今のところ──純一と葉月の様子では、二人には二人しか見えていない様で……『これはやはりボスの物なのか』とジュールは思っていたが、それもまだ数日、始まったばかりの事だ。
 まだ──判らない。

 そこへ来て……まるで……手放してくれた『彼』が、執念で彼女の身体に『消えない爪痕』でも残したかのように……。
 お互いしか目に見えていない二人の熱愛の間に……間違いなく滑り込んできたのだ。
 今夜からは、二人だけ──なんて事は絶対になくなるのだ。
 二人の間には……常に『澤村』という男がちらつく事になるだろう──。

(さて──ボスはどうするか……)

 笑えなかったが……ここも見極め所だとジュールは思った。
 今までの兄貴だと、一歩引き下がりまたもや人に遠慮するが為の『ひねた決断』を選ぶかもしれないし。
 本当に、今回が最後の本気なら──。

(最後の本気か──)

 そこまで考えてジュールはある事に思いを馳せる。

 ジュールも葉月が妙な心理でピルを常用している話は純一から聞かさせていた。
 でも、今回──二人が男女として交わしているのは確かで、純一が男として対処をどうしているかはまだ知らない。
 ジュールが知っている範囲では、純一は葉月がピルを服用していると解っていても『俺はそれでも怠らない』という性分であるのは解っているのだ。
 それでも『ピルは葉月の精神上必要だ』と言い出しそうな所を、今回は、まだ何も言ってこない。
 それはつまり──純一は、葉月という女性に対し、全ての囲いを解いて、彼女がもし……女性として身ごもっても、それも覚悟の上であるというのを、ジュールは感じ取っていた。

 この数日の分かち合いで──純一は密かに期待もしているのではないか? ジュールはそう思っていた。
 実際に──朝方、彼が出かける時、微かでも幸福感という物を滲みだしていたではないか。
 あれは愛妻に向ける笑顔と、惚け顔だった──。
 彼は本当に──彼女を恋女房として迎えるとジュールはさらに確信した程。

 だが──純一のその密かな期待とやらは……澤村という男に既にブロックされていた事になる。

『間が悪い人だな──本当に……』

 ジュールは溜め息を漏らす。
 いつだってそうだ。
 彼が本気になった時は、本当に手遅れであることが多すぎる。
 ここまでくると、自業自得と指さす所か、かえって気の毒に思えてきた程だ。

 それでもだった──。
 それでも──俺の兄貴が今度はどれだけの男になるのか……ジュールは見届けたいと思った。
 それが、本当のバカ兄貴であっても……。
 それが、今度こそ『バカ』を乗り越えられても……。

 ジュールはエドが持ってきてくれたエスプレッソを口に付けて、やっと人心地ついた気分だった。
 うららかな午後だ。

 エドは葉月の為の新たなるメニューを模索中。
 そして──ボスのシャム猫嬢は、静かに二階の部屋に籠もったまま。

 少なくとも……忘れかけていた恋人の事を思い返している事だろう──。
 

 そして──夕方、明るいうちに彼が帰宅してきた。

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