・・Ocean Bright・・ ◆楽園の猫姫◆

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6.幻のミューズ

「帰ったぞ」

 菓子店の紙バッグを片手に、純一がリビングに姿を現した。

 夕方とあって、キッチンにはジュールとエド、そして手伝う為にアリスも出てきていた。

「兄様──お帰りなさい」

 誰も告げていないのに……葉月が笑顔で階段に姿を現したので、ジュールとエドは思わず緊張し、顔を見合わせた。
 だけど──葉月は、何事もなかったように笑顔だった。
 そう──朝、輝く笑顔で義兄を見送った時と一緒だった。

「ああ……大丈夫だったか」
「ええ。好きなように過ごしていたわよ。昼寝なんかしちゃったわ」
「そうか。お前が昼寝ね──滅多にない事だろうな」
「うん──御陰様で!」

 元気な様子で階段を降りてきた葉月。
 そして──葉月が何かの為に自然と手を差し伸べたのだが、それと同時と言っても良い程の間で、純一は葉月にコートを差し出していた。
 それも息があったように、葉月が受け取ったではないか?

 ジュールは、初めて見た光景ではないけれど……今日に限っては、その『息の合い方』を初めて見知ったように感じた程──。
 当然──エドも同じようだった。
 さらに──アリスも……硬直してた。
 誰もがわかるぐらい……いつも毎日、そうしてきた夫妻のように見えたのだろう?

「探してきたぞ」
「わ……兄様、有り難う──。早速……食べても良い? 兄様も召し上がるわよね?」
「そうだな、一休みするか」

 そして、二人はそんな会話を笑顔で交わしながら、ダイニングテーブルに向かっている。
 さらに純一は、ジャケットを脱ぐと、それも葉月に差し出した。
 勿論──それを丁寧に受け取った葉月はソファーの背にかけて、ダイニングに戻ってくる。
 純一が座った椅子の側で、葉月はお土産の袋を早速、物色し始めている。

「わぁ。美味しそう──」

 箱を開けた葉月は、豪勢な洋なしのタルトと、こぢんまりとした一口サイズのチョコレートを見届け、満足そうに微笑んでいた。
 そして、そのチョコレートをポイッと立ったまま口に放り込んでいる。

「大人の味がする。ブランデーが効いているわね!」
「なんだ、お前は……ちゃんと座って食え」

 純一は、そんな義妹に呆れつつも──やはり何処かしら楽しそうに口元を緩めているのを、ジュールは何故かホッとしながら見守っていた。
 エドも、ホッとしたのか、そんな二人のティータイムの為にお茶の準備を始める。

『アリス、トレイにケーキ皿とフォークを準備してくれ』
『……』

 エドの流れに沿った指示に……アリスが無言で動き始める。
 返事も返せない程のアリス──。

 ジュールは、少しばかり気の毒には思うが、それも彼女が望んだ事。
 そしてこれを受け止めねば、自分がどういうポジションだったのか、そこからどうするべきか、分かり得ないだろうと思うので、そのまま横目で見守るだけ──。

「コーヒー、頂いてくるわね」

 葉月が純一に笑顔を向けながら、背を翻す。
 だが、純一は、側を離れようとした葉月の手首をひっつかんで、キッチンへと向かおうとしていた彼女の身体を強引に自分の側に引き寄せる。
 その上、軽々と義妹を膝の上に抱え込んでしまったのだ。

『!』

 アリスの絶望的な顔。
 人前で義兄がする大胆な行動に戸惑う葉月──。

「エド──早くコーヒーと、ケーキ皿持ってこい」
『は、はい……只今──』

 純一はそう言いながらも、膝の上に抱え込んだ葉月の頬から栗毛をかきあげ……彼女の顔だけを確かめるように見つめていた。

「アリス、ここの手伝いはもういい。離れに戻って良いぞ──」
「……」

 ジュールは、やはり……ここは気の毒だと思い、アリスにここを退く指示をする。
 だが──アリスは怖い物見たさの如く、見たくないだろうに、切に求めている男性が自分にもしてくれなかっただろう行為で、女性を愛でている姿に釘付けになっている。

「アリス──聞こえなかったのか? 俺達の晩飯をこしらえておいてくれ」
「は、はい……解りました」

 ジュールが少しきつめに言い放つと、やっとアリスが我に返った様に返事をし、シュンとした様子でリビングを出て行った。

(ワザとかな? ボスったら……)

 しょっちゅうではないがジュールやエドの目の前で、葉月を可愛がる様は今までも何度か目にしている事だ。
 だから、純一も部下の手前でも遠慮がない時もあるだろうが──アリスがいる場合は、別だった。
 今までの純一なら……アリスを別宅に置いて、『愛人契約解除』の説得をしようとしていた程なのだから、葉月と睦み合う姿は見せたくないし、見せればアリスを傷つけるとでも思いそうな所を……。
 ああやって、見せてしまったという事は?
 せめて──義妹との愛の園になりつつあるこの現場に出入り出来る『部下』という立場だけでも、諦めさせようという魂胆にも見えなくもない。

 ジュールも『愛人でもなく部下だから、遠慮はいらない』と、純一に豪語した手前……本来なら、『職務』を始めたアリスには、辛くてもここにいさせるべきなのかもしれないが──。
 だからとて、あの『子猫』にはまだ無理だと言うのが、ジュールの判断だった。

──パタン……──

「……」

 案の定? 純一は葉月の栗毛を撫でながらも、彼女の肩越しにアリスが出て行くのを確かめているようで、ジュールはその視線を見逃さなかった。
 アリスが去ったのだから……もう、葉月を手放すのかと思ったのだが──。

「に、兄様──降りても良い?」
「もう一つ、どうだ?」
「……に、兄様も食べてよ……」

 人前で、そんな事をする義兄じゃないと思っている葉月が──それでも自分の身体の線を愛でてくれる指先には逆らえないかのように、戸惑っている。

「お前が食べろ」
「う、うん……」

 純一はつまんだチョコレートを、これまたどうした事か葉月の唇に突きつけ、彼女が口を開くまでつついていた。
 葉月は戸惑いつつも……そのまま、それを受けるしかなくなったかのように、そっとふっくらとしている桜色の唇を開いて、頬張る。

『はぁ〜。やるなーボスったらっ。参るな〜』

 エドが流石に目のやり場の困っているではないか。
 ジュールは長年、見慣れている為──今度はエドが顔を真っ赤にしているのが可笑しくなってきたぐらいだ。
 なんて──ジュールは笑いを堪えていたのだが……。

「どれ? 俺もどんな味か試してみるか──」
「?」

 純一は自分の膝の上で、チョコレートを口の中で溶かし大人しく味わっている義妹を、愛おしそうに見つめているだけかと思ったら! なんとも強引に、義妹の唇を奪っているではないか?

「っんくっ……に、兄……さ?」
「なるほど……美味いじゃないか」
「あっぅんっ」

 葉月の唇の端がチョコレートで汚れたが、それも純一が綺麗に吸い取る。
 それが繰り返される。

(もう、いい加減にしろよっ)

 流石にジュールも、そこまでやりのける兄貴に、ムッとしたぐらい。
 葉月は人前とあって、迫ってくる義兄のする事に僅かな抵抗をしていたが……彼の大きな手にがっちりと頭を抱えられ、背中を撫でられているうちに……彼女も全てを忘れてしまったかの様に、大人しく従ってしまったようだ。

 暫く──二人はそうして離れない。
 むしろ、純一の方が葉月を引きつけて──魔法をかけてしまったかのように……二人は見つめ合ったまま。
 そして、純一は、葉月が着ている柔らかな白いセーターの上に狂おしそうに手を這わせながら、義妹を熱く見つめている。

「無駄だと思うけど、エド──さっさと持っていて、目を覚ましてやれ」
「あ、ああ……無駄かもしれないけどな〜?」

 流石のジュールも頬を染めながら、破れかぶれにエドを急かした。
 アリスがいなくなったから……の行為なのか? それともアリスがいても、気にしない程──義妹しか見ていないのか? そう思うぐらいの純一の熱愛に、もう目もあてられない状態だった。

「うっく……」
「──? どうした?」

 エドがテーブルに着いたと同時に、葉月が純一の膝の上で、口元をおさえうずくまる。
 そして、義兄の愛でる手を振り払うかのように、膝から飛び降り──階段裏のトイレルームまで突き進んでいった。

「……」

 純一が、そっと立ち上がる。
 そして、側にいるエドを見下ろしたのだ。

「本当に一日──大丈夫だったのか?」
「え、ええ……二階でごゆっくりされていた様ですが、時にはお声をかけて、お茶などもしておりましたよ」
「そうか……?」

 エドはやや狼狽えた眼差しを見せたが、なんとか平然とした口調を保つ事が出来たようだ。

「エド──後は俺がやる……離れの様子を頼む」
「解った……」

 アリスの様子も気になる所であり、エドもボスの探る眼差しから逃れたいのもあっただろう。
 先輩のちょっとした配慮ある指示を、助け船のように感じたようで、素直にリビングを出て行った。
 エドの代わりに、ジュールがテーブルに付き、ケーキ皿にタルトを切り分け、純一にはエスプレッソ、葉月にはエドが選んできたハーブティーをカップに注いだ。

「なんだ。エドまで、ここから除けるとは」
「特にありませんが? アリスの目の前であのような事をされては……彼女も放っておけないでしょう? いくら、職務に就いたとはいえ……」
「そうだが……」

 純一が煙草をくわえながら、葉月が帰ってくるのを待っている。

「ボス──煙草はお控え下さい」

 ジュールは思わず、純一がおもむろにくわえた煙草を、彼の口から抜き取ってしまった。

「なにするんだ。ここはいつから禁煙になったのだ?」
「今日からです。お嬢様はもうおやめになったのですから──」
「葉月は気にしない。寝室では構わず吸わせてもらっているが、文句を言われた事などないぞ」
「それでも、です。私のちょっとした気遣いです」
「余計な気遣いだ──」

 純一がまた一本……煙草をくわえ、ついに火を点けてしまった。
 ジュールも本当の事を言えば、解ってもらえると思いつつ……の、もどかしさが生じたが、葉月からの報告を無にはしたくなく、致し方なく見過ごした。
 そこで葉月が戻ってくる。

「大丈夫か? お前……後でエドに診てもらうか?」
「兄様……大丈夫よ」

 少しばかりやつれ気味の葉月が、それでも笑顔で帰ってくる。
 すると──ジュールの注意に反抗したものの、純一はまだ1センチも吸っていない煙草を、灰皿にもみ消していた。

「ジュール。エドをここにすぐ、呼び戻してくれ」
「……。そうですね」

 純一はついにエドに診察をさせようと、いつもの固い表情に戻った。
 だが──もう、診察は皆無だ。
 エドが言うには、後は設備が整っている場に行き、確実な妊娠であるか……子宮外妊娠でないかを確かめるのが次の段階にする事だと言っていたから──。
 だが、ジュールは葉月の様子をチラリと確かめつつ、そこは彼女が言うまでは『何も知らない振り』をせねばならず、ボスの指示に従う返事しか出来なかった。

「──いいのよ。兄様、エドには朝……診てもらったの」
「? そうだったのか? それで……エドはなんと? 何か症状を和らげる薬とか処方してもらったか?」
「……」

 葉月が押し黙る。
 そっと俯いて、やはり躊躇っていた。
 それを見た純一は、また──席を立ち、葉月を静かに見下ろした。
 そして、純一は何も言えそうもない葉月を見かねて、一緒に診察を見届けただろうジュールを見下ろす……。

「……ボス、あの……」

 やはり、葉月から言う勇気もないのなら──と、不本意だがジュールが言いかけた時だった。

 

「私、妊娠している」
「!」
「澤村の子──」

 

 また──リビングに白樺の梢を揺らす風音だけが響いた。
 その間、純一はなんとも例えがたい、動きない表情で止まっていた。

「妊娠? お前が?」

 葉月がこっくり頷く。

「……それはつまり……葉月、お前……」
「ピル、やめたの。彼に言わなかったから……彼、知らなくて」
「……そ、そうだったのか」

 純一は、力が抜けた様子だったが、僅かに冷静な堅い口調を保っていた。
 だが、溜め息をひとつだけ吐くと、彼は急に生き返ったかのように、いつものれっきとした『ボス』に戻ったよう……そして、葉月を真っ直ぐに見据え、瞳を輝かせていた。

「葉月……当然、産むだろう? いや、産んだ方が良い」
「兄様……」

 たたずんでいる葉月に、純一は迷いもないようにそう言った。

「俺の気持ちを先に言っておく。俺は、お前を手放す気は、もうない」
「──! お兄ちゃま?」
「これから、いや、今から……お前に起こりうる事は、全て、俺に起こった事だ。つまり……」
「……」
「俺の子として産んでくれ。お前の子なら、俺の子にしたい」
「本当に……?」
「お前が選ぶ事だと解っている、だが──俺は今度は違う。お前と生きていく為なら……お前を必死に引き留める」
「本当に? そう思ってくれているの?」
「ああ。……だが、お前が決めた幸せが、違う形なら──諦める覚悟も……」

 純一が躊躇いがちに目を伏せる。
 それは──葉月がやはり『子供の父親』を選ぶのなら、彼女を縛り付けれるような悪あがきはしない……と、純一はいいたそうだが……。

(どうやら……本気だな)

 もう、本当に手放す気がないのだと──ジュールには兄貴の『熱い想い』を今度こそ、真っ正面から見届けた気持ちを持つ事が出来た。

「……産むわ。産む……。でも、本当にいいの? 兄様の子として……」
「家族になるんだ。今度こそ──俺とお前と真一と……そして、生まれてくる子供と……。もう一度……そんな形をやり直したい。お前達と……一緒に──」
「!」

 今までこの男が絶対に言いそうもなかった……言葉を聞き届け、葉月がものすごく驚いた顔で、義兄を見上げた。

「家族──?」
「もう少し、お前の様子を見てから……と、思っていた……。だが、もう躊躇わない。今、ここで言う」
「な、なに?」

 さらに純一の黒い瞳が──宝石のように輝きを放った。

「俺の女房にする──イタリアに戻ったら、お前に白いドレスを……そう決めていた」
「──!」

 葉月はもう──あまりの驚きで、返す言葉も出ない程、茫然としているようで……。
 いや、側で見守らせてもらっているジュールでさえ……これは予想外の驚愕で、彼女同様に茫然としていた。

「葉月──お前はもう……俺のものだ」
「!」

 そして、純一が……とても切実に狂おしそうな顔で、葉月を固く抱きしめた。
 その姿には、自分を取り繕うとする余裕もなさそうな──彼の必死な姿だった。

「お、お兄ちゃま……」
「ただ……法的というか、日本で言う入籍みたいなものは……出来ないのだが……」
「うん……そんなの、どうでもいい……」
「これからは、俺の女房──それで良いだろう?」
「……うん」

 腕の中で、葉月が涙を滲ませ、感激のあまり声が出ないようで……こっくりとだけ頷く。
 彼女がそっと顔を上げて、義兄を麗しく見つめた途端──純一が迷わずに彼女の唇を塞いだ。

「……」

 ジュールは……夕方の茜色に染まり始めた日差しの中抱き合う二人を置いて、そっと……リビングを出た。

(決まったか──)

 少しばかり、予想外の展開。
 もう少し、葉月が揺れるかと思い、色々と構えていたのだが。

 彼女の恋しい義兄が、あそこまで言い切っては……もう、迷わないだろう。

(皮肉なもんだ──)

 ジュールの脳裏には、『約束』が蘇る。
 『必ず、答えを見極めて、お届けしますからね』──その答がほぼ固まった気がしてきた。
 それも──彼の『爪痕』が……こうも早く、決定づけるなんて。

 だが──まだ、ジュールは『もう少し……』という気持ちを、消す事が出来なかった。
 何故なのだろう──?
 それも、ジュール自身も分からない、例えようがない……小さなひっかかりだった。

 

☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆

 

 もうそこに、葉月に絡まっていた『鎖』は、なにもかもなくなっていた。

 水色のスカートも、柔らかなセーターも……そして薔薇の刺繍を施してあるランジェリーも。
 罪悪感も、将来の不安も、そして──自分が歩んできた憎しみの道も、胸を掻きむしる切望した『夢』への悲しみも、なにもかも。

 まっさらな素肌を、皮膚を柔らかな夕暮れの日差しに捧げるように、そして、その日の光の中に身を委ねるように──。
 背中から真っ逆さまに落ちていくような、その感覚に逆らわず。
 でも墜ちていく速度は、とても優しく緩やかだ。
 ゆっくりとゆっくりと墜ちていく自分を全て──その日差し、空気、そして、流れに委ねる。

 今──私の全ては『摘み立ての真綿』のよう。
 ふわふわと、風に乗せられているのだけど──とても大きな手が、私が吹き飛ばされないように、そぉっと、すくいながら包み込もうとしていた。

「葉月──もう、俺の事は……」
「お、お兄ちゃま──」

 夕暮れのシーツに漂う葉月の裸体の上には、とても狂おしい吐息声で耳元をくすぐる愛しい人の声。
 彼の身体が、優しく柔らかく葉月の全てを覆い尽くし、そして、その優しい手は、葉月の栗毛を、狂おしそうにかき混ぜている。

 手先は優しくゆっくりと……真綿の私が潰れないように、そっと包んでくれているのに……。
 彼の唇は、荒っぽく吸い付くばかりの口づけを──白い首筋から胸元に、首飾りをかけてくれるように繰り返される。

「俺の事を……『兄様』とか『お兄ちゃま』とか……もう、言うな」
「あ・・で、でも……」

 なんて、呼べばいいの?
 『じゅん?』──彼が少し眉をしかめる。
 『純一さん?』──今度は、可笑しそうに吹き出した。

「──そうだな。今、すぐでなくても……いいか」

 彼が可笑しそうに、葉月の耳元に頬を寄せて、笑っている。

「“あなた”──?」

 自分でも違和感がいっぱいで……消え入るような声で囁いただけだった。
 なのに──。

「……もう一度、言ってくれないか?」
「……」

 可笑しそうに笑っていた顔から──彼は急に、切なそうに黒い瞳を揺らして、狂おしそうに葉月を見下ろしている。
そして、葉月もその真剣な眼差しに応えるかのように……そっと視線を絡めて、彼の黒い瞳を捕らえる。

「……あ、あなた」
「……」

 まだ違和感はある。
 たぶん、この後も、明日も、明後日も──直ぐには頻繁に口には出来なさそうな違和感だった。
 だけど──彼は、まだ、何か急に見つけたように、真っ直ぐに葉月を見つめているだけだ。
 それも……葉月が見た事がない、義兄の目の色だった。

 まるで──少年の様に。
 黒くて大きな瞳は、奥まで澄みきって、潤んでいた。
 そう──まるで、彼の息子のような……そんな無垢な眼差しに、葉月の胸が熱く握りつぶされるようにドックンと脈打つ程の愛おしさが溢れる瞬間。
 その感触を葉月は初めて自覚していた。

「見つけた……」
「え? に、兄様?」

 だけど──もう、義兄、いや……彼はもう何も見えていないかのように、盲目に葉月の身体を激しく唇で、手先で、身体全体で求めて止まなくなった。

「ああ……に、いさま……」

 ううん……そうじゃない。

「あなた……」

 掠れるような吐息声で夢中な彼の耳元で囁き、彼の背中に強く抱きついた。

「……は、葉月……そう、そうだ。それだ……」

 何が『それ』なのか、葉月には解らなかったが──いつも葉月の事を『小さな義妹』として、余裕げにじらしたり、狂わせたりして、何処か勝ち誇っているような大人の義兄ではなくなっていた。
 女性をじらして悦ばすなんていう男としての余裕がなく、まるで、覚えたての少年が、ただ真っ直ぐに飛びついてくるような懸命さだった。

 葉月も一瞬たじろいだのだが──。
 その内に、彼が叩きつけてくる懸命さに身体の奥……違う、心の奥から、熱く湧き出てくる『感動』に包まれ始めていた。
 その湧き出てくる物に『涙』を浮かべていた。

 身体に叩きつけられている官能的な感覚の方が麻痺して、心が熱くなるなんて──。
 もっと愛してよ、愛してよ──と、無意識に呟きながら、彼の身体に葉月は必死にしがみついていた。
 勿論──杭を打ち込むような彼の激しい訴えは、身体の奥から葉月の心を貫いてやまない。

『心が熱くてちぎれそう──』
『俺もだ』
『心が壊れそう──もう、だめよ……もう、だめ……』

 身体じゃない──心が、こんなに甘くて狂おしくて、切なくて……心が愛という官能な感情にかき回されて引きちぎれそう。
 これが──『愛する歓び』? 『心の歓び』? 身体で感じるオーガズムなんて、そんな物よりずっと官能的で気が狂いそう──そういう歓びに、もう心が引き裂かれそうだった。
 身体が官能で愛液で濡れるなら、心が官能で濡れるのは、瞳の涙。
 今、葉月がこぼし続けている涙は、心の愛液だ。

『あなたを愛しているの──!』

 夕日が、葉月の白い肌を──真っ赤に染めてくれていた。
 そして、彼の頬も血潮が駆けめぐったように、夕日に染められている。
 その頬が、葉月の胸元にすがりつくように押し当てられる。
 唇が……葉月の胸先を貪り、そして真っ赤に染まった秋の木の実のように照り輝く唇を、いつまでも欲しがってくる。

 彼は額に汗を浮かべ、何処か遠くから走ってやっと辿り着いたかのような、ひどい息切れをしている。
 やがて──葉月ですら聞いた事もない、切なそうな呻き声を気後れすることなく漏らして、果てたのだ。
 その時の彼の表情を見て、葉月はまた泣いていた。
 彼が、本当の彼がそこにいた。
そして、朦朧とする意識の中……独り、心の中で呟く──。

『私、知っているの──本当のあなたを……ずっとそうだって思っていた』

 本当に無垢な男性の姿がそこにあった。
 葉月の目の前に、やっと『その人』が来てくれた。
 どこか弱々しくて、儚げな、その誰にも見せようとしてくれない『無垢なジュンイチ』が、そこにいた。
 葉月だけが、こっそり見つけていたけど、知らない振りをしてきた彼が……いた。

「葉月──もう、お前の事も“オチビ”だなんて……言えそうもない……」

 泣いているわけではないけど、それに近い胸詰まるような彼の囁き。
 葉月を抱きしめて離さないこの男性が……なんだかとても幼いような透き通る笑顔を輝かせているのだ。

 葉月にはその彼の顔が──とても幸せそうに見えた。
 客観的に見ているのか、それとも気持ちが高ぶっている今の自分の主観なのかは分からないけど。
 そう思えた。

 大好きな、恋しい、愛しい人──そんな彼の幸せそうな笑顔を見届けた瞬間、葉月も泣き出していた。
 泣き出して──彼に抱きついていた……いいや? 彼を包み込むように抱きしめていた。

 すると……葉月の胸元に頬を寄せている彼が囁き始める。

「ずっと昔──俺の中にはいつの間にか、水色のドレスを着てヴァイオリンを手にしている“ミューズ”が住み着いていた」
「ミューズ?」
「目の前には『オチビ』がいるのが現実だった。だが……俺の中では、長い栗毛をなびかせて、涼風の中、ヴァイオリンを唄わせてる女性がずっといた」
「……私?」
「そう、俺が──勝手に大人になったお前を想像し、その女に惚れていたんだ。オチビじゃない、その俺が作り出したミューズ……」
「……でも」

 葉月は目を伏せた。
 純一が、その『ミューズ』を求めていたとしても、葉月はその女性には成り得なかったのだから。
 自分は笑顔を封じ込め、そして、ヴァイオリンを捨て、冷たい心で軍服という鎧を着た──水色のドレスとは縁を持たないようにしてきた女になった。

「そのミューズがいたから、俺は他の女には興味が湧かなかった」
「!? ……姉様も?」

 思わず、恐る恐る尋ねると──純一はその時は、少し遠い眼差しで黙り込んでしまった。

『いつか──貴方は妹を愛してしまう……そう思ったの』
『だから──妹が貴方の女神になってしまう前に、私に振り向かせたかったの──』
『私の焦りが……貴方を巻き添えにして苦しめた。そして妹まで──これは私の罰だったのだわ』
『いいの……葉月を愛してあげて。貴方の思うままに……葉月を守ってあげて……私の代わりに……』
『今度は素直になってあげて……』

『許して──純兄……本当は、優しすぎて弱い人……許して……』

 純一が柔らかに茜さす窓辺に馳せている視線に、葉月は首を傾げる。
 彼がそんな事を思い出している事は、葉月には分かり得ない事だったが……。

「ああ──皐月は知っていた。俺が……大人になるだろうお前を愛してしまうだろうと……その時の俺は自覚がなかったようだが、皐月に教えられた」
「──姉様が!?」
「……許してくれ。と……俺に……」
「お兄ちゃま……?」
「中途半端な事しか出来なかった俺なんかに、詫びなくてもいいのに……そうして死んでいった」
「兄様──」

 何にも捕らわれなくなった彼の透き通る眼差しが、うっすらと……涙ぐむ。
 葉月はそれを見届けて、また……胸が熱くなり、彼の頭を強く胸元に抱きしめていた。

「そしてお前は、俺が想像した通りの女になって……どれだけ惑わされたか……」
「私が? だって……私は、ヴァイオリンもドレスも……」

 自分はもう、彼が切望していた女ではなくなっているのに、と、葉月が言おうとすると──。

「いや……お前はずっと奥底で生き続けていた。お前の心の奥にちゃんと生存していた。俺はそれを見て、どうにもならない道を行ったり来たりする事しか出来なかった。これまで──何故なら、お前はそのミューズを隠し持ったまま、俺にもたまにしか見せてくれない。お前はミューズを拒否していた、殺そうとしていた。それが……どうにも哀しく、そして……殺さねば苦しそうにしているお前を見て、無理にミューズを呼び醒ます事も出来なかった」

 そこまで──独り言のように呟いていた純一の眼差しが、いつもの強い輝きを放ち葉月の胸元から見上げてきた。

「……そんなお前をどうにも救えずにいた無力な俺を許してくれ……」
「……お兄ちゃま」
「でも……やっと現れてくれた──お前を真っ直ぐに愛したい。もう……何にも遠慮しない。俺が待ち続けたミューズ……」

 もう湖の向こうは夕闇。
 小さな星が散らばり始め、夕月が氷の欠片のように浮かんでいる。
 シーツの上で、身体を重ね合っている二人を包んでいた夕闇が──夜のとばりに変わり、そっと二人を闇に溶け込ませて隠してしまった。

 暗闇に包まれても、未だ愛し合う二人は──。
 煌めく栗毛と、煌めく黒い瞳……真っ白な夢の中を、甘く漂っている。
 そこは『煌めく日差しの中』で笑い合っている明るい世界にしか見えていなかった。

『ミューズに白い薔薇の花束を──』

 彼が彼女に捧げたい物──。
 彼女がそれを笑顔で受け取った夕暮れ──。

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