・・Ocean Bright・・ ◆飛べない天使達◆

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3.天使の行方

 都内郊外にある私立病院の駐車場。
 晩秋の晴れた空の中、そっと吹き抜ける木枯らしに舞う銀杏葉──。

 そこに、一つの命を挟んで繋がるべき二人が向き合っていた。

「……義兄様が?」
「うん。診察に付き添うのは父親が良いと……」

 茫然としている葉月が、やっと呟けた一言にも、以前からそうであったように、すんなりと隼人が答えてくれた。

「ただ、ああいう人だから──人を通しての連絡しか出来ないそうで、昨日の朝、若槻社長から本部に連絡があって……」
「……そう」

 隼人が言っている事は、葉月も驚かずに聞き入れられた。
 義兄は人とコンタクトを取る時は、そんな方法ばかりを用いるし、『会うべき』とも言っていたからこのような水面下の手配をしていた事も……葉月は怒ろうとは思わなかった。
 むしろ──義兄は私の心理をよく知っていると思ったのだ。
 隼人に会おうと決めても『診察を済ませたら──考えよう』と、やや腰が引けている部分も、それなりに自分で感じていた。
 最悪、『退職願申告時』に、本部で再会すれば良いとか考えている部分があった事も否定は出来ない。

 それで『明日の診察には澤村も来る』だなんて義兄が言い出して、葉月がまた、予想外の『むずがり』を起こす可能性があるなら、本人の意志を無視はしてしまうが『会わせてしまえ』と心決めてた事が分かった。

 葉月は茫然としながらも、そんな隼人の向こうに若槻と並んで様子を見ている義兄を見つめた。
 純一は、そんな葉月と目があっても、なんら動じない。
 『二人で行ってこい』と言う顔をしているのが分かる……。

 葉月はそっと俯く。
 そんな義兄の気持ちも良く分かるし、言いたい事も。
 だから、隼人と向き合った。

「あの……色々と心配をさせてごめんなさい。ううん、辛い思いをさせてしまって、ごめんなさい──」
「いいや……俺、なんとも思っていないよ」
「嘘……」
「……うん、そうだね、嘘だ」
「……」

 優しい声に笑顔、その顔で『何とも思っていない』と気遣ってくれたのが分かったが、『嘘』と言えば、彼は降参したように小さく微笑んだだけ。
 その方が、葉月にとっては『──らしい返答』だった。
 なんとも思っていないと言われるより、責められた方が気が楽だったから……。

 ただ──葉月の都合の良い感じ方かもしれないが、隼人の笑顔はとても静かで落ち着いている様に見えた。
 とても、暖かく感じるのは、離れていたせいなのだろうか?
 彼の眼差しは、葉月を責めるわけでもなく、憎んでいる風でもない。
 恨みを募らせて、葉月に怒りをぶつけたそうな気配など、微塵もなさそうで……。
 かえってそれが葉月の心を痛くさせる。
 そんなに私がした事を、そこまで静かに受け止めているのは何故? と……葉月は思わず、隼人の顔に見とれてしまっていたのだ。

「なに? 俺……変な顔、しているかな」
「え! ううん……その……」

 あんまり葉月が見上げているので、隼人がおかしそうに笑った。
 そんな余裕も……つい最近のまま。
 葉月がちょっと驚いて、俯くと──。

「葉月ちゃん……いいかな?」
「若槻さん……」

 若い二人の様子をそっとうかがいながら、若槻が割って入ってきた。

「先輩が……二人で行ってこいと……。僕は先輩と一緒に待っているから。いいね? 澤村君も──」
「は、はい……」

 隼人の少しばかり、戸惑う返答。
 葉月もこっくりと頷いた。

「ええっとぉ。エド──後はお任せして良いかな? と、いう先輩からの伝言で……」
「あ、はい。かしこまりました」

 それとなく『再会』出来た若い二人を確認したからなのか、義兄でなく……若槻が指示を残して、サッと退いていった。
 そして、エドのエスコートに任せ『二人きりにしよう』という『魂胆』までもが、義兄と後輩の間で打ち合わせ済みのようだった。

「澤村様、私が医師の手配をさせて頂きました。皆は私を『エド』と呼びます。宜しくお願い致します」
「あ、ああ……。こちらこそ、お世話になります……。小笠原の澤村隼人です」

 二人が握手を交わした。

 初対面ではなさそうな眼差しを、二人が神妙に交わしあったのを、葉月は感じ取る。
 おそらく……あのカタパルトが停止した訓練トラブルの時に、見知り合った顔なのだろうと、想像が出来たが、葉月は知らぬ振りをした。

 エドは車から書類袋を取りに帰り、それから『こちらです』と進行方向を歩き出す。
 すると、葉月でなく隼人がそっと後ろを振り返る。
 葉月も振り返った。

 葉月が乗ってきたベンツに、義兄と若槻が並んでいる。
 隼人が振り向いた途端に、義兄はスッとベンツの後部座席に乗り込んでしまい──それに続いて若槻も車内に姿を消したようだ。

 なのに……隼人が一礼をした。
 それが義兄の目に届いたかは……判らないが。

「行こう──」
「!」

 隼人に肩を抱かれ、歩き始める。
 葉月は、その隼人が肩を抱く力が──つい最近までは当たり前で、とても安心感ある彼の仕草だったはずなのに……。
 素直に甘える事が出来ずに、サッと身体を翻してしまった。

「……ごめんなさい」
「いや──俺も……」

 隼人も察してくれたようで、でも──彼らしくないショックを隠しきれない顔をしていた。

「そうじゃないの……だって……だって……」

 もう、自分は隼人のその仕草に、甘んじる事は許されないのだ。
 自分の身体も心も……今は隅々までもう、義兄の匂いと指跡までもが染みこんでしまったようなものなのだ。
 そんな『自分』を、彼に任せて寄りかかるなんて事は、もう出来ない。
 たとえ……隼人のその『懐かしい仕草』が、心の中で甘く疼いてもだ。
 葉月はそこで、顔を覆ってしゃがみ込もうとした。
 だが……。

「……ごめん。分かっているよ……」

 隼人が葉月の腕を引っ張り上げ、なんとか立たそうとした。
 その力には逆らえず、葉月も力が抜けそうになった両足に力を入れ直し、立ち上がる。

「お嬢様、大丈夫ですか?」

 エドが、少し離れた位置で……近寄り難そうにしつつも、『ボス不在』の中、『お嬢様の面倒』はしっかり請け負うという使命感ある心配顔で問いかけてくる。

「……ごめんなさい。ええ、大丈夫よ、エド」

 葉月がなんとか笑顔を浮かべて歩き出すと、エドがホッとした顔で、歩き始めた。

 黒いスーツ姿のエドの背に、二人は着いていく。

「……やはり、やつれたかな?」
「そう?」
「でも……綺麗になったみたいで」
「……」

 葉月を見下ろし、今度の隼人は笑顔ではなかった。
 とても切なそうな思い詰めたような眼差しで、葉月をジッと確認するように……いや? 『もう俺が知っている葉月じゃない』という様な眼差しで見つめているのが葉月には分かった。

「でも、子供──俺の自覚が足りなくて、申し訳なかったと思っている。でも、嬉しかった」

 笑顔はなく……『それなのに、突き放してしまい、後悔している』というように、彼がそっと唇を噛みしめ俯いた。

「私も同じ……。こんな事をしてしまったし、私も自覚が足りなかったと思ったわ。でも……嬉しかった。本当よ……」

 『嬉しかった』──その一言だけが重なった瞬間。
 二人はやっと自然に微笑み合っていた。
 そこには……葉月が飛び出すほんのちょっと前、『裸になったように絡めたあった視線』で通じ合った彼と自分の疎通を感じる事が出来たのだ。

 そして、彼の顔からも……笑みが広がった。
 その微笑みで、彼にも私と同じ気持ちが、今、胸に広がっているのだと葉月には確信する事が出来た。

「葉月──もう、何も言わないでくれ。こうなってしまったのはもう仕方がないだろう……。俺も今は何も言わない事にするから。とにかく、子供の事を優先にして、まずは診察をするんだ。今後の事はこれからじっくり」
「ええ」

 隼人の穏和な濁りない微笑みに、葉月はこっくりと頷く。

「さ……行こう」

 今度は肩ではなく、隼人はそっと片手で葉月の背を押しただけだった。
 エドがホッとした様子で、隼人と葉月の前を数歩先を行く。

 三人は裏口だろう自動ドアから院内に入った。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 土曜の午後故か、院内は人通りが少なく感じる。
 それとも裏口から入ったからなのだろうか?

 エドは淡々と廊下を進み、エレベータでなく階段の前で立ち止まった。

「産科は二階にありまして……階段で宜しいですか?」

 何故か、葉月でなくエドは隼人に目線を合わせて伺うのだ。
 隼人は一時、葉月を見下ろして、こっくり頷いただけだった。

 エドは遠慮しているのか、階段を上がっても五段は先を行くというように、距離を空けているのだ。

「彼はいつも、ボスと一緒なのか?」
「ええ……」
「彼だけ?」
「……もう一人いるけど。今日は、お留守番しているわ。エドは医療知識と医師資格があって、それで今回のお供と手配の役みたい」
「……そっか。会いたかったな、そのもう一人にも」

 階段を上がりながら、隼人もエドをジッと観察しているよう?
 それに『もう一人に会いたかった』という言い方が、非常に残念だったような、期待はずれだったというような? そんながっかりとした溜め息を吐いて、眼差しを伏せたのだ。

(やはり……母艦のアクシデントで、ジュールにも会ったんだわ)

 葉月は確信した。
 そして──『あのジュールの事』。
 義兄の事ばかりでなく、この隼人を見て……彼なりの何かを隼人と交わし合ったのだと……。
 彼ならやりかねないし、彼と隼人なら、なんだか『ごく一般的な論理以外の疎通』をあっと言う間に合致させるだろうという、『匂い』を葉月は感じ取れるのだ。

 もしかして……『葉月を行かすので宜しく』とか『ええ、お任せ下さい』なんて、そこまでやりそうな気もしてきて。

「驚いたよ。俺も、若槻社長が出ているような雑誌を愛読しているから──」
「そうなのよね。私も義兄様から紹介されて驚いたのよ。まさか……兄様達の後輩だったとは」
「そうなんだ!? そういえば、昔は横須賀基地の通信科隊員だったよな! なるほど? そういう繋がりだったのか……」
「そうみたい」
「うちの親父とも一度は会った事があると言っていた。そんな話を横須賀まで迎えにきてくれた社長としていたんだ……」

 それで気が紛れた……と、隼人が笑う。
 なるべく──葉月が今、どうしているとか、義兄とどうなのかなど……そんな空気には触れないようにしつつ、以前通りの自然な会話にしようと努めてくれている事が解る。

 それが──また、痛くて。
 葉月はそっと胸を押さえたが……。

『いいの。これを感じなくては駄目なの』

 逃げない。
 その痛さが『何故、何の為に』生じた事なのか?
 今は漠然としていても、その意識だけは忘れ去ってはいけないと言う僅かな責務の様に感じ、刻み込もうとしていた。

 そんな会話をしていると……二階に辿り着いた。
 やはり──やや閑散としていて静かな診察室前。

 そこに一人の医師が白衣姿で立っていた。

「やぁやぁ。エド──来たね」
「お世話になりますね」

 四十代ぐらいのにこやかな医師が、エドに手を振ったのだが、エドはいつも葉月に見せている聞き分けの良い従順な素直な部下の顔でなく、『今からはビジネス』と言った警戒をしているような厳しい顔になったのだ。

「いつも融通を利かせて頂いて──」
「なんのなんの。お安いご用」
「宜しくお願いします。“副院長”」

 どうやら、この病院の『御曹司』らしい雰囲気だった。
 葉月としては、その医師のにこやかさ加減が……どちらかというと『胡散臭い』という印象。
 こういう見方をしてしまう自分は『ああ、こうして大佐室にいたのだわ』とか『こうして軍隊という組織にいたんだわ』という感覚を久しぶりに感じたような不思議な感触に陥った。

「おお!? 彼女の事?」

 エドの肩を越え、覗き込むようにその医師が、後ろにいる葉月に視線を向けてきた。

 しかし、葉月がその胡散臭さに、僅かながら眉間にシワを寄せた『気持ち』は、隼人も一緒だったようで……。
 彼がそっと、背で隠そうと警戒しているのが解る。

「お約束──お願いしますね。深く追求はしないと」

 そんな調子が良さそうな医師に向かって、エドがなんだか念を押すように……手に持っていた大判の書類袋を彼に差し出した。
 その時──やっとその医師から笑みが消えて、真剣な顔になった。

「いつも悪いねー」
「お互い様ですからね。今回はそれで……」
「OK。良いだろう。産科医師の方はきちんと言い含めてあるよ。悪いけど『上得意様の事情を抱えたご令嬢』と言っておいたよ。これで充分だろう?」
「ええ、充分です」

 そして、医師がその封筒を真剣な顔で、覗き込んだ。
 レントゲン写真が1、2枚入っているようで、それを彼がやっと医師らしい顔で、チラリと数センチだけ外に出して覗き込み、一人で頷いていた。
 そして──奥の方に手を入れて、今度は『にんまり』と微笑む。

(包んだのね)

 葉月は、やはり胡散臭い医師だったかと、そっと溜め息を落とした。
 それは横にいる隼人もしらけた眼差しを向けていたが、『見なかった事にしよう』という割り切りの心積もりを始めている顔つきだと葉月にも通じる。
 いわゆる『金一封』なのだろう?
 レントゲン写真は何が目的かは知らないが、エドでないと手に入らない代物故の『ギブアンドテイク成立』がなされ、今回の表立たない診察受け入れの請負をしてくれたのだと解った。
 こういうやりとりが『闇男』ならではかなと……。

 自分の為に、そういう取引をされた事。
 それは義兄の世界では当たり前の事で、これからだって何度も目にする事だろう。
 もっと言えば、こんな事──闇世界なんかでなくても、そこらへんで始終行われている事であって、単に目にしないだけの事なのかも知れない。

 そんな風に葉月がそっと溜め息を二度ついている横で、隼人はもう割り切った顔をしているのだ。
 こういうの『大人』というかどうかは葉月には言い切れないが、隼人としては『それも世の一つだろう』という判断なのだろう。

「じゃぁ、エド。ありがとさん、助かったよ」
「いいえ」
「診察が終わったら、俺の事務室まで来てくれよ。あっちで待っている。産科医師はもう控えているから」
「承知しました。あとで伺います」

 そこで、エドが来た時よりにこやかに……書類封筒を胸に抱えた彼が去っていった。

「気にしないで下さい。私達の世界では当たり前の『取引』です。それに……彼もああみえて、腕の良い向上心ある医師なんですよ。ただ野心家であるだけで──自分のステップアップには手段を選ばないだけの……」
「解るよ──エド」
「!?」

 隼人が穏和に理解ある笑顔を向けたので、葉月は驚き、そして、エドはニコリと隼人に微笑み返したのだ。
 どちらかというと……『敵方』という態度を取るというのが、率直な葉月の考え方だったのだが?
 義兄に一礼した事も、ジュールに会いたかったという素振りも、そしてエドを介しての『黒猫』のやり方も──。
 隼人としては、受け入れられる様なので、驚いたのだ。

「有り難うございます。ご理解頂けまして……どうぞ、こちらへ」

 そんな葉月をよそに、エドは葉月でなく、隼人に向かって丁寧なエスコート。
 廊下と壁を挟んでいる内廊下──そこには産科医師が控えているだろう診察室が並んでいて、エドがそこへと進んでいったのだ。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「初対面の医師なので──まず、私が様子見も兼ねて、事情を話し合ってきますので、ここでお待ち下さい」

 その内廊下に入ると、灯りがついている診察室の前でエドがそう言った。
 二人は揃って頷いたのだが──。

「あの……澤村様、すこし、宜しいですか?」
「え? ああ、いいよ?」

 少し戸惑っている様子のエドが、隼人だけ誘って外廊下に出てしまった。

「?」

 葉月は男二人で確認し合わねばならぬ事でもあるのか? と、少し腑に落ちない気分で顔をしかめつつ……グレーのコートを脱いで側にある長椅子に腰をかけた。

 エドと隼人が並ぶと……同世代のようで、隼人はもうエドには警戒がないらしい。

『……で、宜しいですか?』
『ああ、彼女に聞いてみるよ。それで様子が……なら、俺が』
『解りました』

 そんな会話を聞き取れた。
 やはり自分の事かと……葉月はいつだってそうして人に気遣わせてしまう自分を、今になって呪いたくなったりする。
 二人が内廊下に戻ってきた。

 戻ってくると、エドはすぐさまドアをノックし、一礼しながら診察室へと入ってしまい、隼人は座っている葉月を見つけて隣に腰をかけたのだ。

「彼、日本語上手いね──ジョイ並みだ」
「……」
「あはは……自分の事を話していたと判って、拗ねているんだ」
「そうじゃないけど……」

 そんな自分もお見通しなのは変わらない。
 そして、笑い飛ばしてしまう様子も……隼人そのものだった。

「残念ながら……女医はいないそうなんだ。それで、エドが……いや? 義兄さんに言い含められているのかな? 『内診、触診』の時──お嬢様は大丈夫だろうかという心配。お前……男でも医師なら医師って割り切れるよな?」
「ええ、お医者様ならね……」
「エドが人相を確かめてくるってさ! 真剣に言うんだもんなぁ。解らないでもないけど〜」

 医師とは言え、男に女性の秘所を探られるという事で、咄嗟に葉月が拒否反応を起こすとか……拒絶するとか、酷ければ大騒ぎになるとか、そんな心配だったようだ。
 隼人のそんな『子供扱い』をする『からかい目線』も久しぶりの様な気がして、葉月はそっと頬を染めた。

 別居してからは大佐と中佐の同僚だった。
 そして今は完全に離れてしまった元彼と元彼女みたいな距離感だったから……。
 そんな側に、自分の側に……どんな姿の葉月の側に、いつだって寄り添ってくれていた彼に久々に触れたような気がする。
 だけど──そうして、葉月をからかい加減に見下ろしていた隼人は、長い軍コートを脱ぎながら、急に真顔で呟く。

「心配なら……内診台の側で俺が付き添うようにしてあげるよ……。エドは下手な事は滅多に起きないだろうと思うが、念の為という意識は捨てられない。だけど──こういうナーバスな女性の診察でも『患者』であれば割り切れるが、今回は……なんだか、どうしても『お嬢様』と意識してしまい、流石に付き添えないって困っていたみたいで。義兄さんは医者らしく見守ってくれたらそれでいいと許可してくれたみたいだけどね?」
「じゃぁ……そうして。それでエドも安心すると思うから──」
「解った。初診で男性が付き添っても診察室までは遠慮した方がいいと聞いた事があるんだけど。それでエドもボスに顔が立つんだろうな? ああいう側近的な使命感は流石だな。彼は医師としては、この感情は失格だみたいに言っていたけど……」

 隼人は『プロだ』と随分と感心した様子だった。
 けど──葉月が驚いたのは……『エドが一人困っている事を、隼人にすんなり相談した』と言う事だった。
 会っているとしたら、今日までにたった一度だけのはず。
 なのに──義兄の硬い姿勢の部下を、こう軟化させてしまい、妙な信頼性を持たせてしまったのならば? 『澤村』という男はなんて男なんだろう!? と、葉月は思ってしまったのだ。

 やはり──空母艦での接触で、何を交わしたのか? と、今になって葉月は思い巡ってしまったのだが……。

 エドは直ぐには出てこなかった。
 すぐ隣で隼人もジッと扉を見つめて待っている。
 その沈黙の中──いつもの制服を着込んでいる隼人の体温がほのかに伝わってくる。

 葉月は……そっと隼人が膝の上にのせている手を見つめた。
 その手で……いつだって『前を向こう』と優しく導いてくれていた事、苦しい時は休ませてくれた事、時には『ここでは、嫌でも前向け』と背中を押し出してくれた手。
 今回もそう……その手が『私を突き放した』。
 それは、私の為の、私の前進の為の……後押しだったと葉月は今でも信じて疑わない。
 その為に『再確認』してしまった『本心』を、隼人はもうあの時点で認めてくれていたのに、認めようとしなかったのは自分だけだったのかも知れない。
 それを知った上で、『では? 俺とどうする?』という『地点』まで……『俺はそこで待っているから、早く来い』と言っていたのだろう。
 だけど──『私達』はひとつだけ、過ちを犯した。
 お互いに愛し合ってきた『事実の重み』を無視した事だ。
 その結果──この産科にいる。

 義兄の事を愛しているのだとはっきりと認識しているのに。
 その手を握って……葉月はその手に触れたい衝動に駆られている自分も、今ここに存在している事を知って、改めて──驚いているのだ。

「……? どうした?」

 葉月はハッと隼人を見上げた。
 彼の手を見つめる自分の眼差しに、かなり力が入っていたようだ。

「……」

 彼もそれに気が付いていた様で……葉月が見つめていた自分の手を、見下ろしているのだ。
 すると……隼人がそっとその手で葉月の側にある手の平を握ってきた。
 衝動で駆られていた合間に、望んでしまっていたぬくもりが、伝わってくるではないか……。

「いつも俺より冷たい手」
「……隼人さん」
「どうしてそんな顔なんだよ? てっきり願いが叶って幸せなんだと思っていたのに」
「……」
「そのワンピース似合っているな……化粧もして。もうすっかり、綺麗なレディじゃないか。軍隊にいた女性には見えないよ……綺麗になっている。俺の傍、小笠原にいた時……そんなに素直な女性としての姿になった事はあまりなかったよな? それだけ──自分から女性として綺麗になりたいと、心の底から素直に女性として過ごしているのが、解るな……」

 そう笑顔で言う彼の声が……少しばかり掠れて震えていた。
 そして、大きな黒い瞳が、濡れたように揺れている。
 葉月と再会し、隼人が思ったのは──『愛されている、愛している、女性として』──そんな葉月を確認してしまったと言う顔に思えた。

「なのに──そんなやつれた顔で思い詰めた顔で。お前がうんと幸せな顔していたら、憎たらしく思っても諦められたのに……」
「だって……」

 確かに『幸せ』だった。
 なにも考えずに、一定の囲いの中で葉月がずっと切望してきた義兄に愛される数日間は、子供が出来たと判っても幸せだった。
 だけど──子供の存在は時として、葉月の『楽園』を戒めようとしてきた。
 現実へと目覚めさせるように、僕の父親を忘れるなといわんばかりに……。
 そして、それによって葉月は自分がした事を、隼人に勧められたとか、義兄に誘われたからとか、そんな事に甘んじて『彼等がそうするから』と突き進んだ果てに『自己が望んだからこそ、犯してしまった罪』の大きさを知る事になったのだ。

「……貴方を苦しめて、やっぱり、苦しめて……」
「違う!」
「!」

 葉月が自分の罪の大きさを、隼人に告げようとしたのに──なのに隼人の方が切羽詰まったような苦悩顔で、思い切り抱きしめてきたので、葉月はびっくりして硬直した!

「は、隼人さん……?」
「良く思い返してくれ。この可能性があるのに、突き放したのは俺だっただろう? お前は、もう義兄さんには会わないと何度も言ってくれたじゃないか? それを信じなかったのは……最後まで信じられなかったのは俺で……お前を追い込んだのも、俺で……それでお前に裏切りをさせたのも俺で……」
「でも……」
「葉月──俺の目を見てくれ」
「!?」

 抱きしめられたかと思ったら、今度は両肩を掴まれて、彼の身体から引き離される。
 だけど、直ぐ側で隼人が自分を見つめているのだ。
 言われた通りに、隼人の両目を訝しみつつ見つめてみると……。

「俺は……申し訳なかったと思っているんだ。だから、もう、何も言わないで自分の事は責めないでくれ」
「……」

 葉月は葉月なりに自分を責めたいのに。
 でも、隼人はそれをやめて欲しいと……今度は彼自身が自分を責めているので、また驚いたりする。

「やっぱり……隼人さんはずれているわ」

 葉月は……そこで微笑みつつも、なんだか哀しく瞼が熱くなり、涙で隼人の顔が滲んでいくのを自分で眺める。

「バカね……どうして私を憎んでくれないの? 忘れてくれないの?」

 今度は頬に涙が落ちていく──。
 それを隼人が……以前通りに指で止めるように拭ってくれる仕草にも、葉月は顔を背けてしまった。

「貴方が今言ったように……貴方も自分を責めないで。お願いよ……悪いのはお前だって言ってよ……言ってちょうだい」
「言えるもんか──俺は、」
「?」

 その覚悟を込めたような声が、ふと気になって葉月が背けた顔を再び隼人に向けると……。

「──!? んっ! はやっ」
「言えるもんか……今、言っても良いなら……『愛している』しか言えない」

 彼にまた抱き寄せられ、その上、唇を塞がれた。
 こんないつ人が来るかも分からない、エドが直ぐに戻ってきそうな気配もする中──隼人が我を忘れたように。

「……だ、め」

 葉月はそっと隼人の肩を押しのけて、また、顔を背けようとしたが──その隼人の大きな手が無理矢理、葉月の頬を自分に向かせ、また唇を強引に塞がれる。
 そして、つい最近まで……二人で楽しんでいたように、お互いに情熱を分け合うように、気持ちを絡め合っていたような、とろけるような熱いキスを……。

「お前、この前……俺にこうして消えていった。あの時のお返しだ」
「うっ……」

 なんだかやっと隼人が、葉月を奪いたいというような男の覇気をみなぎらせたかのように、葉月の下唇をやや強めに噛む。
 だけど──それは一瞬で、直ぐに彼の熱い唇がその痛みを撫でて和らげてくれる。

「もう……何もいらない。俺は、お前を愛している……それだけ、俺も伝えたかった」
「んっ」

 葉月が何かを言おうとすると、それを悟ったように、ずっと隼人に唇を奪われっぱなしだった。

「お待たせいたし……っ!?」

 そこへ──エドが診察室から出てきたのだが。
 そんな隼人と葉月の口づけの交わし合いを一目見て、とても驚いた顔をしている。

 隼人の肩越しに葉月はそれを確かめる事が出来たのだが……隼人もエドの声が聞こえているはずなのに、一向に葉月から離れようとしないし、ずっと唇を塞がれたまま、何も言えない状態にさせられていた。

「……失礼致しました」

 エドはそれだけ言うと、なんだかバツが悪そうにして外廊下に出て行ってしまった。

『なにもいらない──』

 隼人のそんな言葉が、葉月の頭の中を駆けめぐる。
 『何もいらない』とは、何? と──。

 やっと隼人が離れてくれた。
 少しばかり息が上がっているようで、隼人の胸はやや上下に激しくうごめいている。
 その胸に、葉月は抱きしめられていた。

「葉月──俺、本当に嬉しかったよ」

 隼人が微笑む。
 そして……葉月を熱っぽく見つめて、そっと指と指を絡ませながら、その絡め合った手を葉月の腹部にあててきた。

「これからどうなっても。俺とお前は──愛し合っていた事だけは、忘れられないだろう」
「……そうね、そうね……。私もそう思う。私、大切にするから、頑張って産むから、育てるから」
「俺はそれだけでも良いよ。俺もお前と──これだけは、これから一緒に頑張るし、力になるから……」

 もう、葉月もそれしか言えなかった。
 でも、確実に『父と母』という最低限の絆は保てた様な気がした。
 だから、その隼人の微笑みに、葉月もやっと微笑み返す事が出来る。
 ただ──その喜びがあっても、やはり哀しい状態でもあり、涙は止まらなかった。

「──参ったな」

 そこで、隼人が黒髪をかきながら、立ち上がり、外廊下に出て行った。
 人目もはばからずに、我を忘れていた事、やっと我に返ったのだろう。

『えっと……』
『いえ、気になさらずに──』
『彼女の横に付き添う事にするよ』
『分かりました。担当医にもそう言っておきましたから』

 そんなエドとのぎこちない会話を交わしているのが葉月にも聞こえる。
 そこで、エドが戻ってきた。

「では、診察室へまず、どうぞ。医師が控えております。私は、ここで控えておりますので」
「分かったよ」
「行ってきます……」

 エドに見送られ、葉月は今度は素直に隼人に肩を抱かれて、診察室の扉を二人で開けた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 医師は先程の副院長より堅実そうな、50代前半とみられる静かな医師だった。
 葉月も抵抗無く、その医師に全てを任せて、ひと通りの診察を済ませた。

 一番緊張したのは、やはり内診台に上っての超音波検査だった。
 隼人も同じだったようで……医師に静かに身体を預ける葉月を、そっと硬い面持ちで見守っているだけだった。

「うーん……お嬢さん。先程の問診で、最終生理日を確認しましたけど、間違いありませんよね」
「ええ……あの多少ずれてはいるかも知れませんけど」
「そう──八週か九週目とみられますけどね……」

 静かな医師で淡々と検査を進めてくれているのだが。
 彼がそこで、妙に顔をしかめていたのが気になって、葉月は寝転がっている診察台の頭の方にいる隼人を探す。
 隼人と目があったのだが……彼はただ不思議そうに、そして、なんだか居心地が悪そうに首を傾げて、おどけた笑顔を見せてくれただけたっだ。

『診察室前の廊下でお待ち下さい』

 医師にそう言われ、葉月は身を整えて、隼人と一緒に外に出た。
 そこで待っているはずのエドがいなかった。

「エドに報告しているんだろう?」
「……」

 まず隼人が先程の長椅子に腰をかけたのだが──葉月が妙に腑に落ちない顔をしている事は、もう分かっているようだった。
 葉月が不安に思っている心情を察したのか、隼人が葉月の手を包みながらそっと横に座らせてくれた。

 診察室から、僅かながらに……エドの声が聞こえてくるのだが。

「……お待たせ致しました。中へどうぞ」

 神妙な面持ちのエド。
 葉月にはなんだか、そのエドが目を合わせてくれなかったように感じ、余計に不安に駆られた。
 それも、勿論──横にいる隼人には通じているようで、彼が『大丈夫だよ』と小さく囁き、葉月の背を後押ししたのだ。

 二人で、医師のデスク前にある椅子に腰をかける。
 エドが医師の横でカルテを書き込んでいたのだ。

「私から言います」

 何故かエドが平坦な口調ながらも、妙に力んだように、診察をしてくれた産科医に告げた。
 医師は座ったまま……ちょっと葉月を見つめて、視線を逸らしてしまったのだ。

 エドがカルテを手にして、葉月と隼人の前にたたずんだ。

「私も、撮った超音波映像を確認させて頂きました。八週目といったところですね。心拍の確認が出来る時期に入っています」

 静かにエドが淡々とした口調で説明を始める。

 だが……そこで彼が、溜め息を一つ吐いて、一時の躊躇いを見せていた。
 そしてエドの視線は隼人にも葉月にも向けられない。

「──残念ながら『心拍』の確認が出来ませんでした。つまり……」

『流産しています』

 エドの下向きの目線、そして消え入るような乾いた声が小さく響く。

 窓辺から入ってくる昼下がりの日差し、銀杏の黄色い葉が揺れている大木。
 音のない風の流れ──。

 その景色すらも──葉月の見開いた瞳には真っ白に色彩が吹き飛ばされるかのようだった。

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