・・Ocean Bright・・ ◆飛べない天使達◆

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4.トライアングル

 そして……色彩がなくなってしまった世界で独り。
 葉月の耳元には、エドの『この後』という説明らしき語句が、右から左へと流れているという感覚しかなく──。

「エド……解ったよ。もう……今は。いいかい?」

 隼人のそんな絶望を隠しきれない、掠れた声だけが葉月の耳に焼き付いた。

 『もう……今は。いいかい?』──何に対して隼人がそう言ったのか、葉月には解らなかったが、エドの妙に力説っぽいような医師らしい声が聞こえなくなった。

『ドクター。有り難うございました……また』
『いいえ……彼女、お大事に……』

 そんな隼人と、担当してくれた医師の会話も、エドとその医師がまたヒソヒソと話し合う声も、まるで雑音のよう。

「外、出よう……」
「……」

 ただ、隼人が葉月を立たそうと手を取ってくれるのだが。
 力が入らない。

「葉月……」
「うん……」

 だけど、もうここにはいたくないと思ったから、葉月はそっと立ち上がる。
 ホッとしたような隼人の息づかいだけ感じ取る。
 そして、彼が葉月の背を押しながら診察室を出たのだ。

 出た途端だった。

「う……」

 葉月は胸をさすって俯いた。

「!……大丈夫か? つわりか?」
「……うっく。だ、大丈夫……よ」
「何か吐きそうなのか?」

  隼人がすかさずハンカチを取りだして、口元にあててくれるのに……。

 隼人は初めて見るだろう。
 こうして妊娠しているが故の『悪阻』を──。
 本当なら、こうして気分が悪くても、これも喜びの症状の一つのはずなのに、はずなのに──!
 こうして、父親である愛し合った男が、ちょっと戸惑ったように背をさすってくれるのだって……嬉しいはずなのに、嬉しいはずなのに。
 今まで、妊娠した事があっても、もう『父親』になるべき男性は誰一人、葉月の側にはいてくれなかった。
 これが、初めてだ。
 たとえ、父親になりたいと言ってくれた義兄が先にさすってくれていた事があっても……こうして本当の父親がさすってくれるのに、くれるのに……。

「大丈夫か? そこにトイレがあったけど、行くか?」
「……う、ん」

 隼人に外廊下に連れて行かれ、数メートル先にあるトイレへと向いたのだが。

「お嬢様、澤村様──お待たせしました」
「ああ、エド……」

 そこでエドが診察室から出てきた。
 エドはカルテを手にして渋い顔。
 その顔を見ただけで、葉月はまだ今は聞きたくない事を聞かされるのだと怯えてしまった。

「……大丈夫よ。一人で行けるわ」
「そうか……?」
「お嬢様……」

 心配そうな二人の顔なのだが、婦人トイレまでは付き添う事は無理と解ってか、そっと葉月を送り出してくれる。

『どうして──』

 口元を押さえていたハンカチは、口ではなくて、目元にあてがった。
 葉月は唇を無意識に噛みしめている。
 頬に熱い涙が伝い始めていた。

『こんなに気持ち悪いって事は、まだいるんでしょう?』

 そのグレーストライプの隼人のハンカチで涙をおさえる。

 気分が悪くても、悪いなら、繋がっているのではないのか? と、葉月はよろめきながら手洗いを目指した。

 

「あの……」

 おぼつかない足取りで姿を消した葉月の後ろ姿を見守っている隼人に、エドがそっと声をかけてきた。

「あのご様子ですと──私の説明を聞かれていなかったと思うのですが……」
「ああ──だろうね……うん、俺からもう一度、言い聞かすよ」
「……」

 先程、隼人が『もう……今は。いいかい?』と、言ったのも……葉月が放心状態で、エドの医師として言わねばならぬと言う辛い表情をした説明を『今は聞きたくない』という様子だと思ったからだった。

 エドが言うには──。
 『心拍の確認が出来なかった』としても、今日の一度の内診で『処置』を決定するにはまだ安易すぎるので、来週、もう一度念のための確認をするとの事……。
 そして、その時、やはり確認出来なければ『処置』をすると言うのが、産科医の診断だそうだ。

 その説明も、葉月はまったく聞こえてない様子だった。
 だが隼人としては、この説明を聞いた時、『万が一』とふと、心が軽くなった! のだが──それすらも、エドが『余計な期待はさせない』と言う確固たる医師の顔で、言わねばならぬ事として説明し始めた事にかき消された。

 それは、もし……葉月が最終生理日の『大幅』な記憶間違いをしているならば、その可能性もあるかもしれないと言う事だが?
 通常、心拍の確認が出来るようになるのは、六、七週目。
 これが六週目ぐらいなら──まだ心拍を確認するのには不確かな時期とも言えるが、葉月の場合は、最終生理時期で余程の記憶違いでなければ、まず……望みは薄い時期だという事。
 それ以上に、もう、直ぐにでも……出血を伴う腹痛の症状が起きる危険の方が高いとの事だった。
 それでも『万が一』を考えて、もう一週間様子を見ましょうという、産科医とエドの判断。

 隼人としては、エドと医師の様子で──万が一を考えてみたが、『期待はしない方が良い』という雰囲気を感じ取り、絶望を覆す事は出来なかった。
 だが──横にいる葉月としては、『可能性がある』とか『もうすぐ痛みを伴う流産の症状が出る』とか……そんな事まったく聞こえていないようだった。
 だから──とりあえず、外に出た。

「実はですね──澤村様」
「うん?」

 すっかり隼人には、気易く話しかけてくれる様子になったエドが、何かを伝えたいような顔をしているので、隼人も葉月が消えたので、そちらに耳を傾けてみる。

「ボスから……お嬢様の今までの妊娠歴というのですか? お聞きしていたので、万が一があるかも知れないと思い、私もこの度色々と産科の事を少しばかり調べたりしてみたんです」
「? ……それは、つまり……今回も流産があるかもしれないと?」
「ええ……申し訳ありません。勿論、つつがない経過をお祈りしておりましたが。なんだかその不安が拭えなくて。あの、お調べしたのも、お嬢様に『ご自分のせいじゃない』という流産が起こる医学的仕組みを知って欲しいと思いまして……」
「! 流産の仕組み?」
「はい。ただ……三回続くとそれなりに身体的問題も出てくるのですが、それもどういう事なのかという理解なども、ただ自分を責める前に、その知識も念頭に置いて欲しいと思いまして……」

 隼人としては、『それってどんな事?』という未知の世界の事だ。
 それはエドのような医師から聞かないと知らない事もあるだろう?

「ただ、それは医師としての知識に過ぎません。勿論、ご自分の体の中で生死が起こるのですから、妊娠をした女性としては知識云々より、気持ちがナーバスに落ち込んだりする事も当たり前の感情だと思います。だけど、中にはその仕組みを知って、悲しみから早く立ち直る女性もいますので、ひとつのキッカケとして……」
「そう……だったら……彼女に話してあげてくれ」
「もしかすると、私よりかは……」

 エドが何かを提案するように隼人をジッと見つめてくる。

「俺から?」
「その方が……お嬢様も聞く事ができるし、慰めになるかも知れません……」
「……」

 『確かに──』と、隼人は思ったし……彼が、『あなたが父親だ』として扱ってくれる事が、とても有り難く感じた。

「しかし……」

 葉月は今は──義兄の側にいる。
 もしかすると、それは彼がやっても同じではないかとは思ったのだ。
 来週の診断をするまでは、隼人は葉月の側にはいられない……。
 その間、心の整理をさせるなら、その言葉の主になるのは隼人よりも義兄の方が適している位置にいるのでは……と。

 それとは別に……隼人の胸に、また自己嫌悪のような嫌な気持ちが沸き上がる。

『何もいらない』

 彼女にああいいきったのに。
 子供という『繋ぎ』がなくなったショックは大きく、今──胸をえぐられるように絶望していた。

(俺は……何もいらないと言ったくせに……)

 『子供は欲しかった』のだ。と──。
 つまり、葉月を繋ぎ止める唯一の『頼り』をまだ心に残して言えていたのだと……。

 もう……これで、本当に『何もなくなった』
 その上でもう一度、彼女に言ってみる。

『もう──何もいらない。ただ、愛しているだけ』

 無償に愛する事の、辛さと重さを、初めて思い知らされた気がした。

(これは──俺への罰なのか……)

 そう──心を賭けたり、傷つき崩れる姿になりたくない為に、自分一人で格好良くなってみたり。
 自分の彼女の本当の愛を獲得したいというエゴの為に、彼女を試した罰なのか?
 最後の最後に『救い』でもあった……いや? 隼人を都合良く繋げてくれたただ尊いだけのはずの小さな命すらも、最後の切り札のように思ってしまった隼人の心根を、神が裁いた結果がこれなのか!?

 そんな自己嫌悪だった。

「澤村様──?」
「!」

 そんな事に囚われている隼人の事を、なにか考えあぐねていると、返答を待っている様子のエドが訝しそうに声をかけてきた。

「そうだな……」

 隼人は渋い表情で、胸ポケットから手帳を出す。
 最後のメモページに、自分の携帯番号を記し、それを破ってエドに渡そうとした。

「もし……彼女にとって俺でなければいけないという事があったら……ここに」

 隼人はエドにそれを渡そうとした。

「解りました──では……頂いて……」
「いや……やっぱりやめておく」

 エドがせっかく安心したように受け取ろうとしている所、隼人はそれを顔をしかめながら、クシャッと握りつぶしてしまった。
 エドが目の前で、硬直していた。

「俺は……もう……そう、義兄さんで充分だろう。きっと──。彼にそう勧めてみてくれないかな……」
「……」

 そう、それが一番良いだろう──と、隼人は致し方ない笑顔を小さく浮かべ、なんとかエドにそう言ったのだが。

「いえ、こちら──預からせて頂きます」
「!」

 エドの手前で握りつぶした拳。
 それを彼が無理矢理と言っていいぐらいの力でこじ開けて、隼人が握りつぶしたメモを取り去ってしまったのだ。

「あの……」
「勿論、ボスにもそのようにお伺いしてみます」
「そ……有り難う」
「いいえ……」

 彼の顔は、表情がなく平坦だった。
 だが──このエドからも隼人は、なんだか訳の分からない男気みたいなものを感じてしまったのだ。

「彼……どうしている? 金髪の……」
「ああ……彼ですか? 今日は留守番ですけど」
「そう、宜しく伝えておいて」
「かしこまりました」

 エドもジュールと言う男性と、隼人がどのようなやりとりを交わし合ったか知っているはずだろう。
 だが、そこも敢えて……エドは特別な感情を表さないのだが、良く察してくれたように多くは詮索はしてこないのだ。

「? そういえば……お嬢様、遅くありませんか?」
「? そういえば──?」 

 男同士、内廊下ですっかり話し込んでいたのは、ほんの少しの間ではあったが、そこでやっとお互いに元の現実に戻ったかのようにハッとしたのだ。
 そして──なにげなく、隼人とエドは視線を合わせ……顔色を変える。

「まさか……!」

 隼人がコートを小脇に抱えながら、トイレに直進し始めると、その後をエドが慌ててついてきた。

 あの『ウサギ』の事。
 あんな風に受け入れがたい事があると、どんな状態になって、どう彷徨って、どんな方向に転がっていくかなど──隼人にとってはいつも真っ先に浮かぶ『不安』が強く過ぎった。
 ほんの一瞬、目を離すと、本当に『ウサギさん』は怯えて何処かに隠れてしまうのだから!
 隼人は『しまった』と舌打ちしながら、婦人トイレの前に辿り着いたが……やはり、一歩を躊躇した。

「葉月?」

 そして、やはり紳士として? 遠慮がちな声しか出てこなかった。
 なのに──隼人の横を、黒い男が足音もなく横切っていった。
 エドだ──彼が何食わぬ顔で、女性のテリトリーに突き進んでいったのだ。

 彼が、直角の壁で遮られて見えない空間に姿を消したが、本当に足音をさせない。
 だが、『お嬢様?』と一言、声を発したのは聞こえた。
 そして……今度は、神妙な面持ちで戻ってきた。

「おりません……いつのまに!」

 それまで、平坦な表情を保っていた彼が、初めて表情を露わに、顔をしかめたのだ。
 ボスに預けられていた使命感からなのか? それとも、『付き添い方』の仕事中にプロでもある自分の抜け目を、葉月が縫って出て行った事への情けなさなのか……?
 どちらかは解らないが、エドはあからさまに悔しそうな顔をしながらも、すかさず……胸ポケットから携帯電話を取りだしたのだ。

「ボス──エドです。あの……申し訳ありません。実は……」

 エドはそれでも冷静に、『ボス』に状況を説明し始める。

 子供が駄目だった事。
 ちょっと目を離した隙に、お嬢様がいなくなった事を──。
 『義兄』の反応は、エドを見ていても隼人には計れなかったが、エドは静かに頷いて、電話を切った。

「念のため──私は上へと探します」
「上?」
「ですから……念のためです。屋上に行けば、上から下も見渡せますから。澤村様はボスの所に……そちらにお嬢様が向かったかも知れませんから……」
「!」
「では……!」

 隼人がそのエドの素早い進言に固まったのは……葉月が哀しい事があって義兄の所に向かったかも、と言うよりも……『屋上』という可能性もある……という判断をした『義兄』の指示にだった。

 隼人は今、この状況下に置かれても──『そこまでは、まさか』としか思わなかった。
 確かに、どこにどう転がるか解らない『ウサギ』でも、そこまではしないと──。
 だけど、義兄は……彼は『その最悪』を想定している。
 想定出来るのは……やはり?

『葉月なら、そう考える事もあり得る』

 と──知り尽くしているから?
 でないとしても、『一番最悪の感情を宿すだろう』という真っ先の判断に、隼人は何故だか、妙に適わないような口惜しさを感じたのだ。

 でも──それどころではない!
 エドが言う通りだ。
 今の葉月なら、泣きたいなら『お兄ちゃま』の胸に甘えたいと無意識に向かったのではないか?
 隼人としては、そちらの方が『今のウサギさんらしい』と判断し、即行エドとは反対方向に階段を降りた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 先程、葉月と引き合わせてくれた駐車場に駆け込み、隼人は黒いベンツへと向かった。

「澤村君──!」

 隼人が駆け寄って、姿を現したのは『若槻』だった。

「若槻さん……彼女……」

 義兄の姿がない。
 若槻だけが、落ち着かない様子で待機しているといった風だった。

「今──先輩も思い当たる所があるようで、そっちに向かったんだ」
「思い当たる所?」
「なんだか……? オチビなら芝生か裏庭だろうと。この棟の裏は、正面玄関になるんだけど、目の前に芝生の広場があるそうで、エドに教えてもらってそっちに急行したよ」
「!」

 それにも隼人は驚いた。
 どこかで聞いたような判断で、隼人にとってもよく知っている『彼女のお馴染みの行動パターン』だ。
 それを真っ先に、義兄である彼が思い浮かべて向かったという……。

「向こうの──広場ですね」
「ああ。僕は、ここに帰ってくるかも知れないから、待機しているよ。行っておいで──」

 それを聞いて、隼人も同じ方向へと駆け出す。

 一番中心に君臨している大きな棟の脇道。
 銀杏並木の院内道路を走り抜けると、確かに、その正面玄関は芝庭で開けていた。

「!──葉月?」

 その広場も銀杏で縁取られ──まだ青々としている芝生の広場の中央に、ぽつんと一人だけ女性が立ちつくしていた。
 そして……その銀杏並木の一画にあるベンチに、黒いスーツを着ている男が、そっと座って、ただ彼女を見つめているのだ。

「……」

 何故か、隼人の足が動かなくなる。

 暫くみつめていると──葉月がふっとベンチの方に視線を向けた。
 確かに……そこに義兄がいると判っている顔をしているのに、葉月はそのまままた空を見上げて、彼の元に寄る素振りは見せなかった。
 そして……彼も、葉月が気が付いたのを判っているのに、それどころか悠然と足を組んで、そのままなのだ。

 広場でぽつんと、澄み切った秋空を見上げている葉月。
 それを触ろうとせずに、ただ、離れた所から見つめている義兄。
 そして……その二人の姿に、どうしても近寄る事ができない自分。

 それまで感じてきた『構図』のようなものが……今、目の前で描かれ、突きつけられている気分になったのだ。
 だが、隼人は今度こそは、と、拳を握り、息を大きく吸って歩き出す。

「あの……彼女をただ見ているだけ?」
「……」

 ベンチの背後に近寄って、凛々しくスーツを着こなしている純一に、隼人は硬く緊張した声で、なんとか一言声をかけた。
 すると、振り向きはしないが……純一はひとつ溜め息をこぼしただけ。
 膝の上で両手を組み、背をかがめて、ただ視線は葉月から外そうとしなかった。

「そういう顔をしていると思わないか?」
「……」
「お前さんの所にも、俺の所にもこなかった……」
「確かに……」
「ま、良かったら座れよ」

 手振りだけで隣を促されて、隼人は少しドッキリしつつも……言われるままに彼の横に腰をかけた。

「お前さんこそ、行ってやったらどうだ?」
「……」

 隼人も黙り込む。
 行ったからとて、彼と同じ感触を感じている。
 今は──中庭に駆け込んで紫陽花の植え込みに隠れて一人声を殺して泣いていた『あの日のウサギ』と一緒だと思ったからだ。
 あの時だって、彼女が植え込みから出てくるまでは、暫くはそっとしていた。
 あれと同じ感触を、今──隼人も隣の男も同じように感じて、そうして見守っているだけ。

「……残念だったな」
「ええ」

 彼にとって──愛する義妹と他の男との子供を、どのように捉えていたかは隼人には判らない。
 だけど、その言い方に含みも、取り繕いもなく、たった一言なのに、その溜め息混じりの声は本心からだとすんなりと受け入れられたので、隼人自身も不思議だった。

「きっとまた自分を責めているだろう。子供が駄目だった。裏切ってしまったお前さんの所で泣けない、父親でない俺の所でも泣けない──だからだろう……」
「うん、そうだ。きっと……ね」
「俺達の声なんて、聞こえないだろう。今は──責めたいんだよ、義妹は自分を」

 だから、気が済むまでそうさせてやろう……と、言う事らしい。
 その内に、泣いて戻りたくなる、それまで。
 そんな風に隼人には思えた。
 そして、隼人もそう思う。

 ここに来て、この隣の男性とまったく同じ感触を共感し合っている事が、とても不思議だった。
 空母艦で会った時は、こんな空気は感じなかった。
 少なくとも隼人の感情は、もっと燃えていて、熱くて、尖っていて──彼とはその感情の起伏に温度差も感じたし、対局している感触があったのに。
 なのに……今、彼とこうして並んでいると、隼人の方がフッとなだめられているように、肩の力が楽に抜け始めているのは……この感覚はなんなのだろう?? と、思わず、隼人は頬をさすった。

 だから、なんだか言葉が続かなくなったが、そこで男二人……妙な距離感でベンチに並んで座っているだけ。
 バカみたいに……ぽかんとしたのんびりとした間の中で、黙って静かに、葉月を見守っているだけだった。

「ボス……」

 エドが息を切らして、ベンチにやってきた。

「申し訳ありませんでした……本当に」
「分かっているだろう? お前も。オチビはいつだってそうじゃないか? お前もジュールも何度、オチビに振り回されたか、驚かされたか……」
「まったく……そうと解っていて、申し訳ありません……本当にお嬢様は、もう、目が離せないと言うか、油断させてくれないと言うか……」
「あはは」

 エドもかなり『やられた』という気持ちらしく、彼はボスの前で、本当に息を切らして、悔しそうでもあり妙な敗北を味わったような顔をしているのだ。
 それを、純一が、軽やかに笑い飛ばした。
 そして──隼人も……。

「本当に……油断させてくれない」

 そっと笑い出してしまっていたのだ。

 そこで初めて、隣の義兄と目があった。
 けど……お互いに直ぐに逸らしてしまう。
 エドはそのまま、後ろに立ったまま待機している。
 だけど、何故かお互いにクスクスとした笑い声を漏らし合ってしまったのだ。

 その笑い声が聞こえたのかどうか知らないが? 葉月が、またこちらを見た。
 何故か、男二人の間で空気が固まって、お互いに背筋が伸びたような気がしたのだ。
 彼女が、無表情にこちらに歩み寄ってくる。
 きっとこのように挟まれている男性二人が並んでいるだなんて、彼女にとっては避けたい状況かもしれないのに。
 いつもの『何も感じようとしない』という冷めた平坦な顔つきで、グレーのコートの裾を揺らしながら……。

「どうした?」

 葉月は、隼人でなく、義兄の目の前に立った。
 隼人はそれを見て……かなり胸をえぐられる気持ちだった。
 やはり、もう……彼女は隣の彼の所が帰る所だと決めているのだと。
 そして、それを迎える隣の彼の声は、とても優しかった。
 勿論……隼人としては、まだ少ししか言葉を交わした事がない男だが、それでも、それがとても優しい声だと直ぐにわかった。

「お兄ちゃま」
「なんだ?」

 そして葉月の甘えた声。
 それすらも……隼人があまり聞いた事がない声だ。
 彼女はいつだって凛々しい、低くても甘い声を発して、皆をまとめていた大佐嬢。
 隼人の前でも、警戒を解けば、愛らしい声で無邪気に寄ってくれる事もあった。
 それに、右京やロイと言った兄達の前でも『オチビ扱いしないでよ』といった風な、生意気オチビの声でもない。
 それとは異なる、完全たる『少女のような声』だったのだ。

 それに、やや驚いて、隼人は俯かせてしまった顔を、立っている葉月へとあげる。
 その彼女の顔──涙の跡がうかがえた。
 けど、もう……乾いているようだ。

 そしてそんな彼女が、義兄に甘えたそうな眼差しをするのかと思ったら、そうではなく。
 それこそ、何かを決めたかのような? 大佐席にいた時のような顔をしているので、隼人はまたまた、そのギャップに驚いて、葉月の顔に釘付けになった。

 そして、その葉月が言い出した事──。

「私、シャボン玉したい」
「……シャボン玉か?」

 思わず、隼人は眉をひそめながら、二人の会話を見守っていた。
 葉月の顔は、お兄さんに甘える声なのに、顔は大佐嬢なのだ?
 そして、義兄の方もやや戸惑ってはいるが、驚きはせずに、その葉月の声を上手く吸収するかのような響きだった。

 それに何故にいきなり『シャボン玉?』
 妙に幼児返りをしている葉月のその発言に、隼人は正直……絶句だった。

「そうだな。したいだろう……よし、探して買ってこよう」

 なのに、隣のお兄さんは、ニコリと笑って立ち上がったのだ。

「ボス──わたくしが、探して参ります」

 エドの部下たる気遣い。

「いや……俺が探す。そこらのコンビニでもあるかもしれないしな」
「この病院を出た通りなら、店舗が並んでいますから……お付き合い致します」
「うむ」

 ボスと部下のやりとり……それも『オチビちゃんご所望のシャボン玉』の為に!?
 なんだかとても不思議な世界にいる気分にさせられた。

 だが、彼等は真剣な顔で……あっさりと、葉月と隼人を二人きりにして、出かけてしまったのだ。

 呆然としている隼人に、そんな義兄の背を見送る葉月。
 その隼人の隣に、葉月がそっと座った。

「変なの……と、思ったでしょ」
「あ、うん。まぁ……」

 夢でも見ているかのように、隼人はまた……呆然としつつも頬をさすってしまった。
 そして、葉月がそっと小さく微笑む。
 だけど──目線は広い芝庭だった。

「姉様が亡くなった時、義兄様がシャボン玉をしていたわ」
「え?」
「兄様、泣いていた」
「……」
「後にも先にも──義兄様が顔をクシャクシャにしているのを見たのはその時だけ。私もするって一緒に夕焼けの空に吹いた。『皐月とお前が良く一緒に遊んでいただろう? その時のお前達はとても楽しそうで。あいつは綺麗なものが好きだから、綺麗に周りを飾ってやるんだ』って……だから、私も吹いた。義兄様は泣いていたけど、私は『きっと姉様は喜んでいる』って言ったわ。そうしたら、義兄様、もっと泣いちゃったの──」
「そうだったんだ」

 それで、判った。
 葉月はもう……ひとしきり泣いて『子供を送ろう』と、とりあえず受け入れたのだと。
 そして、その昔──兄さんがしたように、シャボン玉で天国まで飾ってやるんだと。
 そんな昔話を『シャボン玉』の一言で、義兄さんは葉月の気持ちを察する事が出来た。
 だから──隼人みたいに唖然とせずに、すぐに受け入れて……そして、思う通りにさせてあげようと自ら買いに出かけていったのだと。

 そんな疎通は……やはり長年の付き合いを思わせるものだった。
 だけど、これで隼人もなんとなく『不可解な幼児返り』も、納得が出来たような気がしたのだが?

 それでも……隼人が想像していたような『ふたり』とはちょっと違うな? という印象でもあった。
 愛し合っている男と女という匂いがあまりしてこなかった。
 見ている限り、本当に義兄さんと義妹だ。
 隼人がそれで首を傾げていると……。

「……また、だめだった。やっぱりだめだった……罰があたったのだわ……」
「葉月──」

 途端に葉月が俯いて、唇を噛みしめ──今度こそ、何も構わずに、しゃくり上げるように激しく泣き始めた。

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