・・Ocean Bright・・ ◆飛べない天使達◆

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5.子供部屋

 俯いている彼女の栗毛──少しばかり冷たいそよ風に、そっと揺れるだけ……そして、その影から聞こえてくる震える声は、とても哀しそうだった。
 隼人でも、ここまで悲しみに暮れる彼女を見た事もなく、それでいて──その心の底から震わせている哀しみの微弱な唇音は、何故か、今まで以上に熱っぽい生きているような『音』に聞こえてきて、ふと……もらい泣きしそうになったような感情に襲われた程だった。

 それだけ、彼女が自分を責めていたのだと──改めて痛感したような……そんな気分で。
 隼人も口惜しい気持ちを噛みしめながら、今はただ……葉月の肩を抱いて、そっと寄り添うだけ……。

 どれぐらい時間が経ったか……?
 葉月はひとしきり、俯いたままむせび泣き……それが落ち着くと、濡れた唇を小刻みに震わせながら、何かを言おうとして、でも……その言葉を呑み込んで……。と、言うような様子がうかがえるのを隼人は気が付き、そっとそのまま葉月が言う気になるまで待っていたのだが……。

「そら……買ってきたぞ」
「! お兄ちゃま……」

 葉月の肩越しに、ピンク色のプラスチックボトルがスッと差し出されていた。
 意外と早く見つけてきたようだ。
 隼人はなんだか、二人きりの所をサッと遮ってきた義兄の再来に、何故かホッとしていた。
 何故なんだ? と、不思議と……そう思っている事に驚きながら……。

 葉月はそれを手にして、また──芝庭の中央へとベンチを離れて行ってしまった。

「やれやれ」

 また……先程と同じように、妙に気だるそうな様子で彼が座りこんだ。

 葉月は、芝庭の中央で──ストローを空に向けて、まるで子供みたいに夢中な姿で、シャボン玉を吹き始めたのだ。

「お前さんも、やるか?」

 隣の彼が、ポケットからもう一つ、ピンク色のボトルを出して、隼人に差し出した。

「もしかして……葉月は話したか?」
「なにを?」
「いや……だったら、いいんだか……」

 自分が泣いた話。
 葉月がシャボン玉をしたがった訳。
 知っているなら、『お前も父親として、義妹と送ってやらないか?』という意味なのだろう?
 それを義妹が、打ち明けているはずと分かりきっている隣の彼の余裕に、隼人はやっと腹立たしさを感じた。
 おそらく『嫉妬』に近いだろう。
 それは葉月の事を知り尽くしているからなのか……隼人以上の『男としての許せる余裕』を見せつけられたからなのか?
 それはどちらか分からないが、とにかく、隼人は憮然としてしまい、知らない振りをする事にした。

 そんな憮然としている隼人に、気遣うように、義兄さんはフッと溜め息をこぼしながら──また、視線は遠くから葉月を見守る姿勢になったのだ。
 そして──彼がそっと笑った。

「いつまで経っても……葉月はあんなだな」
「でも、それが可愛いんでしょ」

 これまた隼人はつっけんどんに言い放っていた。
 何故? いつもは、人より『余裕』をかましているのは自分であって、こんなに相手に『ムキになる』というような子供じみた態度など、なるべく取らないようにしてきた隼人なのに。
 そして、そんな隼人を見て、そっと微笑んだのも……大人の彼だった。

「まぁな──ご覧の通りだ」
「あっそう……」

 その隠そうともしない嬉しそうな顔。
 隼人はしらけつつも、『この野郎』とはらわたが煮えくりかえった。
 そうして──いつにない嫌な思いを自分で感じて、また、俺ってこんなヤツだったんだ……なんて、自己嫌悪に陥っていると。

「だがな……あまり良い事じゃないだろうな」
「え?」

 葉月を包み込むように見守っている彼が、急に渋い顔をして、眼差しを曇らせたのだ。

「……フロリダの葉月の部屋を見た事があるか?」
「……あ、あるけど」
「どう思った?」

 妙な話に切り替わって、隼人は戸惑ったが……彼の顔は空母艦で会った時のように、真っ正面向き合いに来た、と言った時のような硬い表情になっている。
 だから──隼人もその問いを真面目に考える。

「小笠原の彼女の部屋からは想像が出来ない程、彼女のその時の日常生活からは考えられない程の……乙女ちっくというか、メルヘンチックというか……」
「つまり、お嬢ちゃんの子供部屋だっただろう?」

 そこで彼は可笑しそうに笑った。
 隼人も、こっくり頷くだけ。

「それなんだ。俺と葉月は……始終な」
「え?」

 急に真顔で、そして──彼の哀しそうな眼差しが、シャボン玉を懸命に空に飾っている義妹に向けられた。

「葉月にとって、俺といるのは『子供部屋』と同じなんだよ」
「!?」
「葉月は──その部屋で『人魚姫』を眺めていなかったか?」
「! 眺めていた!」

 思い出のような場面を、隣の男が言い当ててくるみたいな気分にさせられて、隼人はドッキリ背筋がのび、思わず……意識して避けていた『純一』という男の視線と合わせてしまった。
 そして、彼も隼人の視線を捉えて、今度は離さなかった。

「昔から葉月は……あの本だけは何故か手放さない。そして、クセのように眺めていた。それをフロリダの自室でもしていたようで……」
「……結末が納得出来ないとか、なんとか言っていたな?」
「どの姫君の話もハッピーエンドなのに、どうして人魚姫だけ海の泡にならなくてはいけなかったのか? それも愛している王子を殺して元の姿に戻るという選択を強いられなければならなかったのか……もっと簡単に幸せになれるのではないのか……。だけど、人魚姫だけ容赦なく、儚い泡になっただけ……」
「……」

 隼人はある晩の事を回想する。

『最後に人魚姫が海の泡になっちゃう所……。昔はすごく印象的だったわ』
『だけど──それはそれで、彼女は満足だったと思うけどな? 女性の究極の幸せの形ではなかっただろうけどね? 彼女は愛を貫いたんだ──』
『……そうね。きっと、そうよね? 昔は……こんな結末で悔しかったんだけど』

 ママに選んで貰っただろう少女みたいな服を着た葉月とそんな話をした、あの夏の晩の事を……。

「人はいつかは、子供部屋を出て行くだろう──そして、徐々に自分の個性を醸し出す部屋を作り出すだろう? だけど──葉月はそれが出来ない、いや……『海軍パイロット』という部屋を自分で作ったのに、それが『望んでもいない虚像』のように思っている──本来、自分が『居たい』のはその子供部屋だ」
「なるほど……ね」

 やっと淡々と心の内を語ってくれる義兄さんのその話は、隼人も納得だった。
 葉月は外で無感情に、淡々とロボットのように生きていたのも……誰にも追いつけない程、なにも感じる間もない程、息継ぎも出来ない程走っていたのも……『その現実の痛み』を、いちいち感じたくない為だったのだろう。
 そして、時々──とても居心地がよい『子供部屋』に帰る。
 それが……『義兄さん』の所。

「外に出ると『人魚姫』のような話なんて『当たり前』のように転がっている。それどころか、葉月は自ら『この部屋を出て、大人の女になりたい』と自発的に欲する前に理不尽に悲劇を突きつけられ、『外』に恐れを抱き始めた。その幸せしかなかった彼女の夢の日々でもあった少女期に、受け入れられなかったものが一つだけ。それが『人魚姫』だ。どうしてもその話だけが、葉月の夢の部屋で『そうじゃない』と言い続ける。だから──それが気になって、手放さない……。それだけ、葉月にとってはあの部屋は『心地よき夢の世界』なんだ。それと一緒だ、俺といる『意味』は。人魚姫になるはずもない子供部屋に俺がいてくれる……とね」

 彼が言うように、その内に誰もが自然と卒業出来るだろう『子供部屋』。
 その『卒業』を迎えられないまま……葉月がいつも帰りたがっているのは『奪われた少女の日々』。
 その失いたくないけど、失ってしまったものを……『義兄様は取り戻してくれる』?
 そういう事だったのだろうか? 彼は、そういう事を言いたいのだろうか?

「そこまで自分で分かっていて……それで、それが『成人した葉月』には良くない事と分かっていて?」
「だから、俺は愚か者……と、言われるのだろうなぁ。葉月を駄目にしている男だとな……よく言われる」
「……」

 彼が笑った。
 なんの悪びれる様子もなく。

「いい訳に聞こえるだろう……俺は……」
「……」

 彼がそこで、言いにくそうに黙り込んだ。
 本当に、『いい訳』なのだろう。
 そして、いい訳なら言うべきでないと思っているのだろう。
 隼人にはそんな彼の心情が良く解る。
 だからとて、心の中に確かに存在する『気持ち』を一人で殺す事はないと思う。
 それが『いい訳』でも──。
 隼人は、心の中で『言ってしまえ! 格好悪い事じゃない』と、彼に……妙にイライラしながら叫んでいた。

 それが通じたのかは分からない。
 だけど、隼人のちょっとイライラしている、隠そうともしない僅かな表情を知ったか……知って、それで言う気になったのか……彼が溜め息を漏らしながら、ゆっくりと話し始める。

「その子供部屋にいたがる葉月を……何度も外に連れ出そうと試みた。だが、葉月はすぐに逃げ帰る。そこにいても、お前の欲しい時間はもう、ないんだと言って、外に何度も送り出したのに……。その内に俺は、ミイラ取りがミイラになったように──そこで葉月という小さな少女が『俺のみ』を見つめて幸せそうにして過ごす『楽園』に甘んじるようになってしまった……。だから、言われる。お前は判っているのに、葉月を駄目にしていると。だが……葉月のその時の幸せそうな顔を見ていると、既に外に出すのがもう無理なのか。それとも存分に思い通りにさせてあげれば、遅くとも、いつかは子供部屋を出て行く日が来るのだろうと、そんな自分を慰めるような都合の良い期待に甘んじて、会うたび、会うたびに、やり過ごして……十何年も経ってしまった」

 一気にそこまで、語った義兄さんは、そこで一息ついて……シャボン玉をしている義妹を遠い目で眺める。
 隼人も……『思っていた通りの彼の心情』を確かめる事が出来たので、神妙に聞き入れ、同じように葉月を見つめた。

「お前さんだったら、きっと──こんな事はお互いの為じゃない、今すぐに考え直して、本来あるべき姿になる努力をしよう! かな?」
「……そう思った。『葉月を送ろう』と思った時はね……。義兄さんは、ある程度は、葉月を現世に突き返してはいるけれど、このままでは、葉月も『貴方』も駄目になるって……だから、俺……」
「だろうなぁ? だから──俺にこうして葉月をたきつけたんだろう?」
「それも……通じていたようで」

 隼人が始めた事に、皆が『おかしい』と口々に言った。
 そして、デイブにはもっともな説教を突きつけられた。
 皆が言っている事だって、隼人は分かっている。
 だけど──『もう、これしかない』と思ったのだ。

 その間に──葉月の気持ちを無視した。
 彼女の為だと思ったからだ。
 彼女を突き放した。
 それに平行して……忘れてはいけない事をおざなりにした。
 もし? 隼人が『彼女が妊娠するかも』と自覚していたら、こちらを優先していただろうが……。
 それでも、子供を無事に手にして、もしかして、結婚後……また、今回のような問題は巡ってきたと思うのだ。
 今回は運悪く重なった。
 だけど──そこから学べた事は確かにあったと思いたい。

「今、存分に子供部屋を堪能中だ。どうだ? お前さんの『思惑』通りだろう?」
「みたいで──ヴァイオリンと向き合っていると、葉月が言っていた。俺の思っている事が通じているなら、きっと貴方はそうするかもしれないと思っていたけど、本当にしてくれていたんだ」
「お前さん、もう、どうにもならないのなら──逆に、どっぷりと葉月の『願い』を叶えてやろうと思ったんだろう? いつまでも捨て切れない思いを満たしてあげようと思ったんだろう? 周りにもとやかく言われただろう?」
「ああ……散々言われた……」
「お前さんも……大変だったよな。俺達に巻き込まれて……申し訳ない」
「……謝られても。俺が決めた事だから。間違っていると指さされる覚悟はあったはずなんだけど。やっぱり、しんどかったかな──」

 何故か、隼人まで──妙な『愚痴』っぽい弱音を彼に聞かせてしまっていた。
 そして、彼は自分の事のように『だろうな、分かる』なんて言いながら、また笑っているのだ。
 だけど──隼人は笑えなかった。

 彼──本当は解っているし、隼人が『こうして欲しい』と思っていた事も、ちゃんとやってくれていた。
 なんだ──彼になにもかも見透かされている。そして、やはり『通じていた』。
 やっぱり『共犯』だった。
 だが、ここで隼人が笑えないのは、解っているのに、どうすれば良いか解っているのに──『敢えて、やらない』という彼のスタンスだった。

 隼人なら、そう……今、義兄さんが言った通りに『こんな事はお互いの為じゃない、今すぐに考え直して、本来あるべき姿になる努力をしよう!』だった。
 そこに、今回の隼人のジレンマがあって、それで、ついには──葉月の気持ちを無視してでも『強行』したのだ。
 それが……葉月の為だと──。
 なのに、隼人はこの『敢えてやらない彼』に妙な恐怖感を初めて抱いた。

 何故? そう思った時に……彼がそっと微笑みつつも、葉月をジッと見つめている眼差しに、変に胸を掻き乱される。
 そう……隼人は気が付いた。
 この人は、走るのが遅かったり、すぐに躓いたり、そして、そこで立ち止まってぐずっている『オチビちゃん』に、ゆっくり、ゆっくり伴走してるだけなのではないかと?
 その内に、人生終わってしまうよ! その間に、本当に欲しいものを失ってしまうよ!!──隼人なら、そこに『焦り』を感じるだろう。だから、今回だって『お前、すっごく痛いかもしれないけど、痛くても我慢して頑張ろうよ』と葉月を彼女が思い描いてもいない荒波の中に、厳しく放り投げたのだ。
 だけど──彼は『何もかも失うかもしれない。そのような結果になっても、葉月が自分のペースでいける分だけ、付き合う』という心積もりなのだろう……と。
 それは、本当に葉月の為じゃない。隼人はそう思う。

 なのに、彼に、ちょっとでも恐ろしい……と、思ったのは。
 『もし、葉月が最終的に駄目になっても、俺だけは、俺も一緒に駄目になっても構わない』──その覚悟だった。
 隼人なら、そんな『共倒れ』など、絶対に許さない所だ。なにがなんでも、葉月が痛がっても、『もっと良い場所に行こう』と葉月の手を引っ張る。

 だけど……果たして、それが『全てにおいて、出来るはず』の事なのだろうか?
 果たして……誰もが、努力すれば『すぐに』『必ず』乗り越えられるものなのだろうか?
 もしかしたら、努力しても、『一生』かかるかもしれない。

 そうなると途方もなく、隼人でも気が遠くなる。
 今は彼女を熱愛で愛していても、途中で嫌になるかも知れない。
 隣の男は十何年も葉月に伴走している『世の中を知り尽くした大人』のはずだ。
 隼人など、この一年、たった一年だけ……彼女を必死に愛しただけの『駆け出し』だ。
 この一年、隼人を捉えた『熱愛』が今は隼人を必死にさせても……十何年も、のろのろとしている葉月の伴走を出来るのか?
 そう問われると、やっぱり気が遠くなる。だから……この前まで、妙に焦ったように『葉月の為に、俺達の将来の為に』と、様々な無理強いをしてきたのではないか?
 そこで、隼人は『なるべく早く幸せになりたいから……ほら、今すぐ、今すぐ、頑張ってみようよ!!』と──葉月の為と思いつつ、実は『彼女には合わないスピード』を要求していたのではないか?
 そんな事を、この隣の義兄と向き合って、『初めて思った』!!

 もしかして、彼も? 今の隼人のような時期があったのかもしれない。
 そのジレンマを通り越して、今に至ってしまったのかも知れない?
 彼は……そんな『理屈に理想論』なんて、とっくに解っているけど、けど──『最悪』、葉月と一緒に堕ちて儚く遂げられないまま人生が終わろうとも、それでも遂げきれなかった義妹を一人にはさせない……それなら『お前のリードが悪い』という汚名だってなんてことない。
 そう思っているのではないか!?
 隼人が、ハッとした恐怖感は……そういうものの様な気がした……!

「さて──俺達の『思惑』。その後……だな。これからは……」
「……」

 隼人は黙り込む。
 本当はなにもかも『解っている』この人が、『目を覚ましたら』……これ程、怖い事はないと、隼人は思った。
 今までは『愚か者』で『甘んじてばかりの男』だろうが……今回、隼人が『たきつけた彼への挑戦状』の意味は、とことん通じていると分かったから。

 そう──彼の言葉を借りるなら。
 『子供部屋からの卒業』だ。

 隼人の勝負は『戻るはずない時間を存分に堪能したら、夢から覚めて、葉月は、帰ってくる』だった。
 さて? 隣の葉月を知り尽くしている義兄さんは? どう思い描いているのかが……隼人には気になる所。

「イタリアへ……連れて行くつもりだ」
「イタリア?」
「俺はそこを拠点にして、表稼業を展開させているんでね。そこで葉月と暮らす。というつもりだ。そこから、『ゆっくり』今度は、本腰を据えて、葉月を子供部屋から徐々に外に連れだし、立派なレディにしてやろうと思ってね」
「!」
「お前さんには悪いが? 俺も義妹を愛してる。今度こそ、葉月の為に……『楽園』ではない世界で『夢』を叶えさせてやろうと思う」
「そ、そうか──」

 つまり『一緒に暮らす』……つまり『共に生きる』と言う事を、彼が決意した。
 隼人は、なんだか適わない敗北感をここで突きつけられたような気がした。

 葉月にとって……あるべきだった『女性としての幸せ』を、存分に叶えてくれるだろう『恋しい人』が『本気』になったのだ。
 後から来た、そして……その彼女の元来あった『思い』を打ち砕く事が出来なかった隼人には、出来ない事だ。

 そんな『愕然』とした敗北に打ちひしがれ、隼人ががっくりとうなだれた時だった。

「──と、言うのは俺の気持ちでね。オチビはどうかな?」
「は? そりゃ、当然……大好きな義兄さんと行くでしょう? パイロットなんかより、元はヴァイオリンをしたかったんだから……もう一度、夢が叶えられるんだから……。俺がそう仕向けたわけだし。それに、もう、パイロットに関しても妙に関心が薄れているみたいだし」
「ふうむ?」
「?」

 彼は、ただ穏やかに微笑み──葉月を見つめていた。
 隼人は彼が何を考えているのか、解らなくて……ちょっと苛つくのだが、なんだか、ただそれだけで、彼に丸め込まれているような? 妙な気持ちにさせられ、同じように黙って葉月を見つめた。

「義妹の感性とやらを、『駄目なチビ』と思って見くびりすぎると──いつも後で驚かされる」
「!?」
「そう、子供部屋にいながらにして、葉月はやはり──『御園の子』だなぁ。と、驚かされる事が多々あるからなぁ。俺としては、それもまた『楽しいオチビ』かな」
「どういう事かな?」
「さぁ? それはお前さんが、自分で探しな。だが、俺はオチビの行く先を……一生見守るつもりだ。言いたい事はそれだけだ」
「……あっそう」

 彼が大人だから、苛つくのか? それとも何を言っているのか判断出来ないから苛つくのか?
 隼人には分からないが、まぁ……また、なにやら『一人だけ解りきっている』顔をしているのが気にくわない。

「さて……俺はもう、言いたい事はない」
「!」

 彼がベンチから立ち上がった。
 隼人はなんだか急に……突き放されたような気持ちになっている自分に、自分で驚きながら、彼を見上げた。
 まだ、話したい事が山程あるような気がして?

「オチビに、車で待っていると伝えてくれ」
「ちょっと……!」

 だけど、途端に彼は、それまで隼人が焼き付けてきた黒猫の兄貴の顔になって、まだ座っている隼人を容赦なく上から見下ろしていた。

「葉月は、軍隊を辞めると言っている」
「……そう」
「来週──最終診察が済んだら、小笠原に一度連れて行く」

 彼はそれだけ言うと、素っ気なく背を向けて、エドを伴って去っていってしまった。

 語り足りなかったような……。なにも彼に敵うことなく、一撃も与えられなかった様な気持ちのまま置いてかれてしまって途方に暮れている……そんな気持ちにさせられつつ、でも、隼人には彼を止める事が出来なかった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 まだシャボン玉に夢中な葉月の下へと隼人は足を向けた。

「義兄さん……車で待っているってさ」
「そう……」

 葉月がそっと微笑む。
 義兄が自分を置いて、別れた恋人と二人きりにさせていった事を解っているようだった。

「何を話していたの? 義兄様と」

 彼女から笑顔が消えて……葉月はシャボン玉を吹きながら、なにげなく尋ねてくるが、気にしているようだ。

「内緒だ」
「男同士の内緒話?」
「そう言う事になるかな」
「義兄様──なんだか、いつもと違う顔をしていたわ。いつもはとても無愛想な顔で人と話すのに──楽しそうに見えたわ」
「! そうなんだ?」
「もしかすると……隼人さんといっぱい話したかったのかもね……」
「……」

 そうだったかもしれない……と、これまた義兄の事を知り尽くしていそうな義妹の落ち着いた言葉にも、隼人は黙り込んでしまった。

 シャボン玉を吹いてばかりいた葉月が……そっと空を見上げている。
 隼人も、同調するようにそれを一緒に見送ろうと思った。
 すると──そのシャボン玉が、ひとつ、ひとつ、儚く割れていくのを見上げている葉月が、またフッと涙を流していたのだ……。

「私は……とても欲張りだったわ。子供さえいれば──あなたと愛し合った事だって正当化できるとか、少しでも思った自分を……呪うわ」
「! 葉月──それは……」
「私の罪と罰。それにあなたを巻き込んでしまったわ──許して。ううん、許してくれなくても、私はあなたに懺悔するわ」
「だから……!」

 診察する前と同じ事を隼人は言おうと思った。
 『自分ばかり責めるんじゃない』と──。
 だけど、今度は言う気がなくなった。
 何を言っても、隣の女は今は自分を責めるだろう──そして、この『俺』もだ。

「俺も……同じ事を考えてしまってたよ。『子はかすがい』だったかな……それを頼りにしている事も気が付かずに、『何もいらない、愛しているだけ』と言っていた。だけど何もなくなったと思って……それを頼った上で、言い切っていたのではないかと思い知らされて、自分でショックを受けていた。そりゃ……その子が俺達の『すべて』だった事は変わりはないから、存在する事が出来た尊い物だと思っている。けど……だった」
「そうなの……?」
「ああ、同じだよ──」

 涙に濡れている葉月が、そんな隼人の自責の思いを聞いて驚いたように顔を上げた。

「俺も……たくさん後悔した。たくさん考えさせられた。本当に……真剣に考えたはずの事が、実はそうではなくて間違った事だったりした。だけど──そうしてやってみた事で、痛くて傷ついたり、知らずにお前を傷つけたりもしたけど……俺は、こんなに真剣に考える事が出来た事は……後悔していない」
「……隼人さん……それは私だって……同じだわ」

 だけど、静かに涙に濡れていた葉月の眼差しが急に輝いたように感じた。
 何故か? その瞳が急に? 真っ直ぐに輝いたように見えた。
 どうしてだろう? 隼人が大佐室でよく知っている『葉月大佐』のような凛とした眼差しだったのだ。
 先程まで、むせび泣き、なよなよと打ちひしがれていた彼女ではなくなっているような??
 とても強い意志を秘めたような顔つきに、隼人は久々に息を呑んで見入ってしまうだけだ。
 それでも、やや唇を震わせ、涙を堪えるかのように、強い口調で葉月が話し始める。

「私、絶対に忘れない──この子は、私に沢山の事、考えさせてくれて、教えてくれたから」
「……!」
「ママはね……ここがいけないんじゃないかって、教えてくれたのよ。あなたと離れている間に……忘れさせてくれなかった」
「葉月……」
「なにもかも忘れそうになった私の側に、いてくれたのよ……。とても厳しい赤ちゃん。まるであなたみたい、『大事な事、忘れずに考えろよ』って偉そうなの。でも、だからこそ教えてくれた事は忘れない。それを忘れない事が、その子とこれから生きていく事と同じではないかって……その子が存在していた意味を、無駄にしないのではないかって……そう思う事にするわ」
「──お前……? どうした?」
「……え?」

 隼人は驚いて、まじまじと彼女の顔を見下ろした。

「だってさ。そういう事って……」
「なに? 私、おかしな事を言った? 間違っているなら教えてよ……」
「いや……感動した」

 葉月は訝しそうにして、唖然としている隼人の顔を首を傾げて覗いている。
 だって、そうだろう? 今、葉月が自発的に言い放った事など……いつものパターンで言えば、それは『隼人が言いそうな事』であったからだ。
 いつも、そんな事を言うのは『隼人』が考え、それを葉月に伝え、まるで死んだような感情を持っている彼女の心に脈を打たせるといった状態のふたりだったのに?
 それを──今回は、隼人が側にいなくても……たった一人で葉月はここまで、自分で自分の感情と向き合えているなんて……と、そんな驚きだった。
 しかも、その言葉は──。一緒に悲しんでいる隼人の心にもきちんと脈打って、流れてきた。

「この世に出てくる事はできなかったけど。俺達の『これまでの意味の子』として……葉月の中に生き続けるか……」
「……だから、送ってあげるの。綺麗なシャボン玉で……。そして存在は私の中で生きるの」
「そうか……」

 隼人も唇を噛みしめた。
 目の前の芝の景色が歪み、じんわりと目頭が熱くなってきたからだ。
 その時、ふと何か、そんな彼女に自分も応えられる気持ちを言おうと思ったが──もう、声にはならなかった。
 隼人も隣にいる彼女と一緒で、涙を流し始めていたから。
 先程の葉月のように声をしゃくり上げる事だけは、心の何処かで抑えたが、それでも漏れてくる息は熱く震えているのは自覚していた。

 すると……そんな隼人を見て、葉月がそっと隼人の側に寄り添ってきて、肩に頬を埋めて、一緒に泣き始める。
 隼人も、そんな葉月の肩を抱き寄せた。

 二人の体温が、久しぶりに一つになった気がする……。
 感じている心の色も、一緒に重なっている熱さを感じる事が出来たのに──それはとても痛くて、胸にしみるばかりの感触しか感じない。
 だけど……一人じゃなかった。
 一緒に、彼女と噛みしめている。

 お互いに、言葉が出ない状態で、ひとしきり一緒に思い切り泣いた。

 本当になにもなかった。

 『戻ってきて欲しい』も『戻りたい』も……。
 『もう一度やり直そう』も『もう、やり直せない』も……。
 なにもかも、そんなものすらもなくなった気分なのだ。

 とにかく……『自分達がしてきた事』だけ、そして、その『終点』を見た気がしたのだ。
 だから……先の事など、今、二人の間では考える余地もない事。
 だからといって、過去の事も、もう……何がいけなかったとか、どうすれば良かったとかも無意味な事。
 欲しいもの、欲しかったもの、やってしまった事、やってはいけなかった事。
 そんな事もすべて……それだけ『なにもかも』なくなったのだ。

 ただ、ここに……思いを交わし合って、ここまで辿り着いてしまった二人が、寄り添っているだけだった。
 今、あるのはそれだけだ。

 暫く、お互いにただ……寄り添うだけだったけど。
 身体は暖かく、そして心の波も穏やかになった気がした。
 少なくとも隼人は……だけど、葉月も、隼人に寄り添ったままで、いつもそうだったように力を抜いて身体を寄りかからせて頼ってくれていた。
 どことなく『くつろぎ』の感触が芽生えたような気がした時。
 葉月の方から、そっと離れてしまったのだ。

「私ね……今、ヴァイオリンと向き合っているのよ。義兄様が、もう一度弾き手になる事を考えてみないか?って言ってくれたの。とても素敵なヴァイオリンをプレゼントしてくれて……」
「そう……」

 涙を拭いながら──そんな近況報告。
 彼女は、ちょっと遠慮がちに微笑みながらも、『それが今の私よ』と隼人に告げている。
 パイロットとか大佐とか──置いてきた職場の事などは一言も言いそうもない様子に、隼人の心はにわかに沈んだ。

「あの……この前の電話でね……言った事なんだけど……」
「ああ、『あの事』ね。お前、本当はコックピットを降ろされる事、ショックだったんだろう……何もかも軍隊でもなくした気分になっていたんだろう? 俺、自分の事で頭が一杯だったから気が付かなかった……」
「そりゃ、隼人さんは自分の事の他にもとても忙しい中佐さんだったもの。それにそこまで私の為に気を回そうとしてくれていた事、感謝するわ。でも、そうね……そうだったのかしら? 今、思えば、ショックだったのかしら? 確かに今までにない虚無感を感じていたわ。なんとかコックピット以外の事も、今まで通り、やっていこうと思ってたはずなのに……。『好きな人を追って、完全に女になる』と言う事に向き合ったら『仕事との共有感』がなくなったり。大技をやってのけた時点で、今まで『ここにいたい』と思っていた自分の何もかもが終わった気持ちにはなった事は確かね……」
「うん──あの晩の電話で、お前が、ヴァイオリンとの人生を選んでも愛してくれるのかと言い始めたものだから。初めてそう振り返って、あの時、飛び出す前のお前の事をそう思った。俺は、あの時のお前がどんな事を『葉月なりに考え抜いているか』なんて、実はなにも気が付いてなかったよ。自分が『こうしたい方向』に持っていく事で頭が一杯で、お前を無視して勝手だった。でも……そうか。義兄さん……お前にヴァイオリンを勧めてくれたんだ?」
「うん……」
「そっか──『思った通り』だったな」
「思った通り?」

 葉月が横で、ちょっと不思議そうに問い返してきたのだが、隼人はそっと微笑み目を閉じた。

「思った通りって何?」

 葉月がそこを気にして、問いかけてくる。
 だけど──隼人はそっと首だけ振った。
 それ以上は思う所は言いたくなかった。

「良かったな。夢──もう一度、叶えるんだろう? それを選べたんだから」
「!」

 隼人はそれだけ……なんとか言った。
 判っていたのだ……『もし』を期待しつつも、葉月がこの選択をしたのならば『こう言ってあげよう』と。
 だが……ここで限界だった。

 彼女は俺の元から去っていく。
 だけど──それは彼女にとっては切望していた『本来願っていた夢』のひとつ。
 彼女は、羽ばたこうとしているのだ。
 だから──なにもなくなったから、もう、止めない。
 なにもなくなって、あるのはお互いの新しい道だけだ。
 愛した女性、今も愛している女性。
 だからこそ……隼人は『これだけは残したい』と思い、なんとか言っただけだ。

「隼人さん……もしかして……」

 葉月の顔色が変わった。
 それを見て、隼人は焦って、背を向ける。
 だが──そんな風に、やるせない思いを噛みしめて耐えている隼人の目の端に──妙に顔色を変えてしまった葉月が、自分をジッと見つめているのだけが分かった。

 そこで隼人は、葉月に問うてみる。

「義兄さんの事、愛しているんだろう」
「……」

 葉月は、隼人が知っている無表情になって、また、シャボン玉を一吹き。
 そりゃ、言いにくいだろう。
 だが、葉月はやっとストローを口から外し、俯き加減に眼差しを伏せた。

「愛しているわ。この気持ちは消えないと……今回つくづく、感じたわ」

 葉月の真剣で真っ直ぐな眼差しが、シャボン玉で飾られている空へと……矢が放たれたように向かっていった。
 それを見て……隼人はまた、胸がえぐられながらも、耐えるように唇を噛みしめた。
 口惜しいが、何故か──今は葉月の気持ちにも、彼の気持ちにも、自分の気持ちが触れ合わない気がするからだ。

 だけど……そこで、葉月がフッと瞳に深く暗い色を灯したように思えた。
 なのに? 口元には微笑を浮かべているのだ。
 もの凄く……崇高な表情に見えたのだが?? 気のせいだろうか?
 それとも、これは、二人の男を愛してしまった女性が最後に哀しみも交えた果てに『答』を得た顔なのだろうか?
 隼人はそんな葉月の顔を初めて見た気がした。

 隼人が知らない『女の顔』だった。
 もっと言うと……いや、言いたくないが、認めたくないが──『俺が知っている葉月じゃない、綺麗な葉月』を見せつけられた気がした。
 それが『義兄を愛している』と悟りきった、その揺るがない答を掴んだ女の顔なんだと──。
 ここでまた……隼人は叶わぬ想いを噛みしめさせられる。

 もう──隼人も抗わない。
 そう、これが『俺が決した事の結果』なのだと──やっと認められる。
 今日は、これを確かめに来て、自分で引導を渡す為の覚悟もしてきたのだ。

 もう、充分だ。
 隼人はそう思って、『決めてきた事』をする事に……

「葉月──これを……」
「なに?」

 隼人は胸ポケットから軍証を収めているカードケースを取りだして、そこから出したものを葉月の手に握らせた。

 手の平を開いて、それを確かめた葉月がとても驚いた顔……いや? 困ったような顔かも知れない。
 とにかく驚いている顔をしているのを解っていて、隼人は強い眼差しで葉月を見据えた。

 それは──『指輪』だった。
 そう……隼人が葉月の指から抜き取ってしまった、あの『誓いのリング』だ。
 だから、葉月が再びそれを贈られて、戸惑っているのだと、重々解ってる上で、隼人は握らせる。

「受け取ってくれ」
「……」

 葉月は、ずっと昔のものを見るように──哀しそうに、リングを手の平にのせて、見下ろしているだけだった。

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