・・Ocean Bright・・ ◆飛べない天使達◆

TOP | BACK | NEXT

7.彼女の天使

──プルル、プルル──

 白いベッドに、朝日が差し込む日曜の朝──枕元に置いている携帯電話が鳴っている。
 素肌のまま眠っている栗毛の男は、唸りながら寝返りをうつ。

「いってて……!」

 寝返ると、先日痛めたあばら骨から、激痛が走った……が、彼はそのまま力尽きるように、うつぶせのまま電話の音を聞き流す。

──プルル、プルル──

「……ううん……久々の休み……じゃぁなかったのか?」

 うつぶせになって枕に埋まる顔をこすりながらも……無視する事は許されない、いや、俺自身が許さない感覚を備えてしまっている。
 だから……リッキーは手元に置いている携帯電話を……一個、二個……手探りで、バイブで震えている方を手に取った。

 黒色は基地本職務用。
 赤色は秘密裏に動く際に使っているリッキー専用の『裏電話』。

 手に取ると? 『赤い携帯電話』だった。

 それもおぼろげに手にとって、着信データーを見ると……『蝶』と出ている。
 リッキーがそのように登録したのだ。

 相手が誰か判った時点で──『もう、お互いに用無しのはずでは?』と、顔をしかめる。
 俺の目的であった『子猫拉致』は、もう済んだし、彼女の目的であった『子猫、脱黒猫』も叶ったはずだ?
 だが──彼女は今、『レイ』がいる場所に出入りが許されている数少ない人間──。
 『万が一』があるかもしれない? 何かが起きたのかも知れない?
 そういう『万が一』の気持ちというのを逃す事が出来ないのも、俺が許さない、備えてしまった感覚なのだろう。

 だから、リッキーは応対する事にした。

「グッモーニン?」
『グッモーニン。先日はお世話様』
「なんだろう? 君の身体に悪戯した抗議なら、受けるつもりはないけどなぁ」
『あははっ! その瞬間はまさかっ! と、焦ったわよ。さすが、あなたね。演技であって、本気にみせちゃうなんて。だけど、今は逆に感謝しているわよ。だって……あのジュールが……』

 彼女がなんだかクスクスと笑いをこぼし、なにやら嬉しそうな気持ちを噛みしめている様子。

 対決する相手の男を煽るのが目的とは言え、女性の肌を本気で荒らした事を、リッキーは『悪かった』だなんて思ってはいない。
 むしろ、『女の身体を触った』という感覚ではなく──全ては『任務達成』の中の一つの作戦で過程としか捉えていないので?
 まぁ……多少は『いい女だな』と言う感触は手の平に残ってはいるが、その程度だ。
 だが──彼女も、リッキーの『目的』と『心底、言いたい事』の意味があっての『横暴』であった事は通じているのか? 笑って返してきた。
 それで、少し、警戒がとけ……リッキーの目も覚めてくる、だが……シーツを身体に巻き付けて、横に寝転がる。

「なんだろうー。俺、やっと休みなんだよな……ぁ。ここのところ、バタバタしていてさ……もう、お互いに用はないはずで」
『まぁね? 子猫がどうなっているかだなんて? 私はこれっぽっちも気にしていないし?』
「! では?……もしかして?」
『この前、あんな男同士のいざこざになったから、言いそびれたし。私も言おうかどうか悩んでいたんだけどね。今、ご機嫌伺いに、別荘にきているんだけど……言っておいた方が良いと思って。ジュールも私に教えてくれたって事は、言いたきゃ、リッキーに報告しても構わないという事だと思うの。だから……』
「? なんだい? 勿体ぶって……」
『あの……お嬢様が──』

 そこで『夏蝶』のナタリーが、沈んだ声色で報告してくれた事……。

「レイが──!?」

 リッキーは飛び起きた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 アイボリーが基調の美しく広いダイニング──白いテーブルに、窓からこぼれる朝の日差し。
 テーブルには、絵に描いたような暖かい家庭を表す美味しそうな朝食が並んでいる。

「はぁーなんだろう? 近頃、寝付きが良くない」

 白いシルクのパジャマ姿、紺色のカーディガンを羽織った金髪の美男が、英字新聞を片手にダイニングに現れた。

「まったく──あなたは、心配性っていうのかしらね? 連隊長のくせに、やり始めたのなら、どんと構えていなさいよ」
「うちの奥さんは厳しい……」

 キッチンには和服姿の黒髪の女性。
 なのに。彼女は入ってきた金髪の旦那さんに英語で話しかける。
 そうすると、旦那さんの方も、日本語だったのに英語で答える。
 奇妙な風景。
 でも──どこかでも『一緒』だったではないかと……思った。

「ボンジュール、アリス」
「ボンジュール……」
「少しは慣れたかな?」
「はい……」

 そう、アリスは今──この夢のような『家庭』がある男の家にいる。
 目の前に、素敵な白い家の家庭が繰り広げられていた。
 そこに眩しい程綺麗な顔をした、金髪で青い瞳の男性が、この上ない極上の笑みで、アリスの向かい側に座った。

「アリス? 待ってなくて宜しいのよ。冷めないうちにお食べなさい」
「はい……」

 そして、この家の『奥様』はとても優しかった。
 ここに有無も言わさずさらわれて来て、目が覚めて怯えていたのだけれど……迎えてくれたのは、この優しい奥様だった。

「パパー。グッモーニン」
「グッモーニン、愛里」

 そして──その輝く日差しの中の、真っ白いダイニングに……これまた眩いばかりの少女が現れた。
 アリスと一緒で、金髪で青い目の……ティディベアを抱いている眠そうな顔の女の子。

 本当に、絵に描いたような『日曜の朝』
 そこに自分が一緒にいるのが変な気分だった。

「アリス姉様、ボンジュール」
「ボンジュール。アイリ……」

 賢い子だった。
 和服のママが、一度教えただけで、彼女はアリスには片言のフランス語で話しかけてくる。
 この家の標準語は英語のようだ。
 奥様はみるからに日本人なのに、流暢に英語を話す。
 もっと驚いたのは、アリスと一対一の時はフランス語だって話す。
 そして、夫妻の標準語は、英語だけど時々『日本語』。

 どこかのファミリーと一緒だった。

 その小学生ぐらいの女の子が、アリスの隣に座った。
 その女の子とパパはそっくりだった。

「おー、見応えあるなぁ。まるで姉妹じゃないか?」

 目の前にならんだ若い金髪の女性と、金髪の少女。
 二人とも青い目。
 ロイとかいう男が、目を細めて……なんだか嬉しそう?

「ほーんと、ほんと! 私がいるのが恥ずかしくなっちゃうぐらい、そこはキラキラしている事。ロイとアリスもまるで兄妹ね」
「あの奥様だって……! 和服、ジャポンの雰囲気、とても素敵です」
「あら……ごめんなさい……あなたにそんな気を遣わせるような事、言ってしまって……」

 奥様の『美穂』が慌てて、何かを言い直そうとしていた。

「いえ……その……」
「でも、本当の事よ。あなたとロイ……兄妹みたいだわ。愛里とは姉妹みたいね。私の娘? 妹って所かしら」
「うむうむ」

 奥様の優しそうな語りかけに、妙に唸っている旦那さん。

 和服の奥様に、金髪青眼の美男の夫妻。
 不思議な取り合わせのようなのに、なんだかしっくり馴染んで見えてきてしまう所が夫妻というのだろうか?

 アリスは既にその感覚も慣れてきていた。

 

 二日前の夕方だったと思う。
 目が覚めると、そこは……白い部屋で……レエスの白いベッドカバーが施してある所で、アリスは目が覚めた。

「起きたっ!」
「!?」

 そんな女の子の声がしたので、アリスはビクッと起きあがると……ベッドの縁に、可愛いワンピースを着た女の子が座っていたのだ。
 アリスは目をこすった?
 タイムスリップをしたのかと、思った?
 まだ、もしかして、夢を見ているのかと思った?
 だって……目の前に、子供の頃の自分のような女の子が、私を見て、無邪気に笑っているのだ?

「ママーっ、パパー! お姉ちゃまが起きたー」

 それは日本語だったと思う?
 金髪の女の子が日本語を発して、出て行った。

「そうか、そうか」

 そんな男性の声が、部屋の入り口に近づいてきて、アリスはビクッと怯えた。
 でも……最悪の恐怖感を感じなかったのは、あんな小さな愛らしい女の子がいる場所に連れてこられた……と、解ったから。

「初めまして、アリス嬢──今朝は手荒にして、すまなかったね」
「……!?」

 金髪の女の子に手を引かれて現れた男性にも……アリスは目を見張った!
 そこにも輝くばかりの金髪青眼の美しい男性が笑顔で現れたからだ。
 しかも──立派なバッジや肩章を付けている軍服姿。

 だが──妙な場所で目を覚ますよりも、アリスは困惑していた。

「私はね、ロイ=フランク。黒猫とは腐れ縁で……」
「ロイっ!」

 それを聞いて、アリスは反射的に後ずさってしまった!
 『腐れ縁』だなんて一言は聞こえなかったのだ。
 ジュンの天敵とやらの家に連れてこられてしまったのだ! ──と、怯えたのだ。
 そんな風にアリスがとても怯えたので、ロイという男はとても傷ついた様な顔をして、黙ってしまった。

 その時だった。

「ロイ──謝りなさいっ!」
「美穂──」

 和服姿の黒髪の女性が、もの凄い剣幕で部屋に駆け込んできたかと思ったら、その金髪の軍服男性の背中を思い切りぶっ叩いていたのだ。

「ほら! 怯えているじゃないの! 何を考えているのよ、拉致ってなに? 拉致って! あなた達、男性同士の勝手な考えの為に、何を『彼女達』を振り回しているの! 謝りなさい!!!」
「俺はっこの子が純一のせいで、不憫な思いをしていると思って! 葉月だってそうだろう!? あの男は、この子と葉月を鉢合わせるような事をしたんだぞ!!」
「それはそれ! これはこれ! 純一さんに対抗する気持ちは、えーえ、そりゃあなたは大きいでしょうけど? だからって部下を使って拉致ってなに! 連隊長がする事なの? それは!!!!」
「ああ、もう……うるさいな……。俺には俺の考えが……」
「それも解りました。でも、訳も分からないまま、連れてきた事、怖がらせた事を謝って!」

 日本語でまくし立てる和服の女性に、威風堂々としていた軍服男性が徐々に小さくなっているようにアリスには見えてくる。
 それに所々『ジュンイチ、ジュンイチ』と聞こえる。

 それに見るからに夫婦喧嘩をしている二人に唖然としていると……。
 『すまなかったね。驚かせて──うん、でも、安心してくれ。危害は加えない。暫くは我が家でゆっくりしてくれ』──と、奥様に睨まれながら、金髪の旦那さんがアリスにペコペコと謝っていたのだ。

 それで、益々──アリスは呆然としていた。

 だけど、目を覚まして、女性である和服の奥様『美穂』があれやこれやと、優しく気遣ってくれる。
 素直な女の子が、アリスを『お姉ちゃま、お姉ちゃま、遊ぼう』と慕ってくれる。
 仕事に戻ったが、夕方、帰ってきたロイも、優しい笑顔で、アリスをもてなしてくれる。

 なんだか……今まで居た、しがみついていた世界が一転したのに、アリスは妙に力が抜けて、そして何処かでホッとしていた。
 その『しがみついていた世界』は、アリスにとって『もう、何処にも行けない、瀬戸際の世界』だったから……あんなに『彼』に対して必死になっていた。
 無論、今あるこの状況は、単に『ラッキー』に過ぎない。
 再び拾ってくれた人が、こんなに素敵な家庭を持っていて、そこにアリスを迎えてくれたのも『ラッキー』に過ぎない。
 本当なら、あの時──行く宛てもなく、何処かで果てたかも知れないし、また泥をすすりながらの地を這うような堕ちた生活に逆戻りしていたかも知れないし、それこそ……大好きでしがみついていた『黒猫のお兄さん』を脅したそのまま……死を選んでいたかも知れない。

 でも──ホッとしていた。
 そんな風に、一人泣くアリスを、そっと言葉もなく、追求もせず──フランク夫妻は静かに泣かせてくれた。

『今は、泣きなさい──』

 それが、奥様美穂の言葉だった。
 アリスの日常は、いつも『男』に囲まれていた。
 女性だって、皆、ライバルだったし、自ら、敵視していた。
 だって──アリスの『生きる切り札』である『ジュン』を奪われると思っていたから。

 でも、ここではもう……そんな必要はない。
 その『生きる切り札』もいない。
 それ以上に──『ママン』と再会した気分だった。

 最初の夜──アリスは、そっと抱きしめてくれた美穂の腕の中で、黙って泣いた。
 彼女は……朝まで付き添ってくれていた。

 次の日は、金髪の連隊長さんは土曜日でお休みとの事だったけれど、制服を着て出かけていった。
 だけど、午後は帰ってきて、リビングで娘のアイリと楽しそうにお喋りをしていたのだ。

 アリスの脳裏に、忘れたはずの『パパ』が蘇る。
 ちょっと羨ましくて、だけど、近づけずに遠くから眺めているだけだったのだが……。
 『こっちにおいで』とロイとアイリに輝くばかりの笑顔で誘われて、アリスもその中にお邪魔した。
 だけど、ひとしきりすると──元気の良い少女はパパとのお喋りに飽きたのか、何処かへ行ってしまった。

 そんなに知らない男性と二人きりになって、アリスは黙る。
 いつもアリスの日常では、『登場人物』は『男三人』だけだったから……。
 こんなに自分が人見知りする方だったか? と、自分で驚いてしまった。
 昔は、あんなに人にちやほやされる華やかな世界で笑顔を振りまいていたのに……。

「純一はなぁ……」
「!?」

 そっと静かに微笑む連隊長さんが、『純一』という男について、お話をしてくれた。
 アリスが知らない昔話ばかりだった。

 日本の、どんな土地で生まれたとか。
 彼の実家はどういう家なのかとか。
 彼とはどういう馴れ初めで、『腐れ縁』で……一人の女性を挟んで色々あった『恋話』。

 ありきたりな『彼等の青春エピソード仕立て』であって──本来、何故、純一があの世界にいるとか、何があって彼が一人彷徨っているかだなんて事は、触れてはこなかった。
 だけど──その『過ぎ去りし、悪友と憧れた女性との日々』の話は、アリスにはとても興味深い話で、思わず『ジュンが!?』とか『そうだったの……』なんて、驚いたり、相づちをうっては聞き入ってしまっていたのだ。
 そんなアリスを相手に、なんだか、金髪の連隊長さんは、楽しそうだった。

「別に──心底、嫌いって訳でもないし、仲間だとは思っているんだけどなー。男同士故の反発っていうかね」

 彼は微笑みながらも、溜め息をひとつ。
 でも……そんな『思い出話』は、アリスにとってはとても参考になった話だった。

 そんな風に、ちらほらと『純一』と『サッチとレイ』の話が、この家にいると明らかになってくる。
 だけど、なんだか一番中心の『芯』の部分をアリスが嗅ぎ取ると、ロイだけでなく美穂まで表情を曇らせ、そして、口調は重くなるようだった。
 それは黒猫の家にいる時も感じでいた事なので、アリスも今は深くは探らず、流してみた。

 そんな数日を過ごして、今、日曜の朝──。
 また、アリスにはあり得ない素敵な家庭の風景の中で『仲間入り』させてもらっていた。

「アリス、今日は私とお買い物に行きましょうね。買い出し、手伝ってくれる?」
「え、ええ……」

 まだ、この白い館から一歩も出ていない。
 ちょっと躊躇った。

「行ってきたらいい。家に籠もってばかりでもいけないから、気分転換で……」
「あなたが寝ている寝室にね。ロイが少しばかりお洋服を揃えているから……趣味があったら、着てみてね」
「趣味が合ったらってなんだよ? 俺のセンスを疑うのか?」
「だって、あなた、アリスとは出会ったばかりなのに、彼女がどのようなお洋服を好んでいるかご存じではないでしょう?」
「そりゃ、そうだが〜」
「きっとね! 純一より、俺の方がセンスが良いってお洋服が並んでいるわよ〜っ。アリス、無理して着なくても宜しいからね?」
「えっとぉ……」

 また『純一』を挟んで夫妻が言い合い……そして、ロイのらしくないふてくされた子供みたいな顔。
 軍服を着て出かける時は、それは凛々しい若将軍なのに、奥様の美穂にかかれば、子供みたいだった。

 昨日、昼下がりに聞かせてもらった『純一とロイの腐れ縁話』を思い出し、そして……彼が『サッチ』を愛していたのに、純一に負けた悔しさとかのちょっとした軽い冗談めいた話も思い出し……。
 アリスはついに笑い出していた。
 そして、また──泣いていた。

 外にこんな世界があった。
 私は……何をしがみついていたのだろう?
 勇気を出して、自分から外に出ていれば──あの『黒猫』以外にだって、アリスを包み込んでくれる人達はいたではないかと……。

「うふふ──連隊長さんの趣味がジュンとどんなに違うか楽しみっ。早くご飯を食べて見に行こう!」

 アリスはやっと……自分らしい自分の笑顔と喋り方で、彼等に応えていた。
 夫妻がホッとした様子で、お互いを見つめ合って微笑んでいる。
 その姿も……なんだか黒猫の家ではあり得ない光景で、眩しかった。

『暫くは、ロイの遠い親戚という気分で過ごしたらいいわ。容姿も丁度、似ているし。誰も疑わないでしょう……』

 それが暫くの『アリスの身分』になりそうだった。
 ロイが用意したのは『フランスで暮らしている遠い親戚』という肩書きだった。
 この家の様子だと今度はアリスがある程度は『お嬢様』を演じる事になりそうだ。

 与えられた寝室に戻って、なんだかワクワクしながらクローゼットを開けた。
 どれほど、純一と『張り合っているのか?』を想像するのも楽しくなってきた。

「確かに……」

 アリスはちょっぴり眉をひそめる。
 そこには、ここ数年──アリスが絶対に着る事もなかっただろう……白い服、ヒラヒラのフェミニンなお嬢様服ばかりだった。
 だが、中には、それに似つかないどっきりするぐらい大胆な? ビビッドカラーの鮮やかな洋服も混ざっているのだ。

 その中から……この常夏っぽい『島』の雰囲気に合いそうな、白地に大柄の南国花のプリントがされている裾がヒラヒラしているワンピースを手にしていた。

「そうそう……私って元女優じゃない?」

 アリスは、趣味ではない洋服を胸元にあてて、ゴージャスな猫足の姿見の前で微笑んだ。

「着こなしてみせるわ。そして……演じきってみせるわ」

 まず、そこから──『世界を変えてみよう』と思っていた。

 そして、早速──その『変化』をロイに見てもらおうと思った。
 ダイニングを覗くと……?

 アリスはドッキリした。
 先程まで──あんなに快活にキッチンを明るくしていた女性が……一人、ダイニングの椅子に座って、額を抱え、うなだれていたのだ。
 いや……泣いているように見えた。
 アイリはもういないし、ロイもいなかった。

「あの……奥様?」
「あ、あら! 素敵だわ! 似合うじゃない!」
「……メルシー」

 やはり、美穂の黒い瞳は潤んでいた。
 無理に浮かべている笑顔が、ちょっと申し訳なくて──間が悪かった気がして、アリスはサッとそこを去った。
 すると……今度は、リビングから声が聞こえる。

 行儀悪いが、アリスはそのリビングに入る美しい金取っ手の白い扉をそっと開けて、覗くと……。

『なんだって? 葉月が? 右京からも若槻からも……そんな連絡もらっていないぞ』
『それが……ナタリーが言うには、ここ数日の急展開だったみたいで。もう……澤村君とのコンタクトもつけているようで……』
『それで、隼人は昨日、本島に出かけたのか!』
『だけど……さっき報告した通りに……子供は、今朝、流産して駄目だったらしい。なにもかも……』

「!」

 そこには、あの……アリスを拉致した栗毛の彼が血相を変えて、ロイと向き合っていた。
 そして……ロイも言葉を失い、妻の美穂同様に窓辺に差し込む眩しい日差しの中、青い瞳を手で覆ってうなだれていたのだ。

『何故──こんな事に……何故? 俺もそこまで気が付かなかったんだ』
『ロイ──今更、誰を、何を責めても仕方がないよ。澤村君……が一番、傷ついているだろう』

 彼等は英語で話していたので……ばっちり聞こえてしまい、アリスは愕然とした。
 扉から一歩、二歩後ずさって……そして、呆然とした。

 つまり……『義妹』は、あの別荘に着た時点で?──『妊娠』していた!?

 あの『サワムラの子』を……。
 ジュンはそれを知って……? それで、あの時彼は……彼女をそれでも受け入れた!

 再度、アリスに衝撃が襲った。
 だけど──その次に、間を置かずに襲ってきたのは……『流産』という結果だった。

 アリスは……思わず、美穂の所に駆けていってしまった。

「彼女……流産って。それから……婚約者のサワムラ……えっとそれで、ジュンは……」

 何をどう言って、自分の気持ちを整理して……美穂に聞いてもらえば良いのか分からなかった。

「アリス──あなた」

 美穂は疲れたように立ち上がり──ただ、アリスを抱きしめてくれた。
 なんだか涙が出てきた。
 言わなくても、私の事を分かってくれているような……錯覚かも知れないけど、そんな気持ちでアリスはただ、彼女の胸で泣いていた。

 ジュンは今──どうしているんだろう?

 でも……他の男性の子供を宿している彼女の全てを受け止めようとした純一。
 アリスが今更、こうして泣いて、心配して、沢山の事を後悔したって──きっとなにも変わらない。
 きっとジュンには『義妹』さえ、側にいれば──なんてことないのだ、きっと。

 だけど、アリスが泣けてきた事は、この口惜しさもあるが──もっと違う、それ以上の感情が勝ってきていた。

 あの人が一人で彷徨って苦しんでいる事を、側で何年も見てきたはずなのに。
 アリスは……その彼の哀しみとか苦悩を見守ってあげたかったのに……。

 急に──イタリアで彼をただ思っていた時の純粋な自分の気持ちを思い出していた。
 そして、そうは思っても、結局、役には立たなかった自分を。
 そして、そうは思っても、結局、自分が先走った自分本位の気持ちを彼に押しつけるがままに、はち切れてしまった事も。

 そんな事が口惜しくて──ただ、泣くしか出来なかったのだ。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「ジュール。ワープロか、ノートパソコンがあったら貸して欲しいの──」
「お嬢様?」

 彼女の天使が去ってから、二、三日が経っていたと思う。
 処置後、数日、二階の寝室で安静にしていた葉月が、この朝、そう言いだしたのだ。

「あの……」
「やりたい事が残っていて──」
「そうですか、かしこまりました……」

 食後のロイヤルティーを彼女に差し出す。
 彼女の目の前には、もう決まったように純一が座っている。
 ジュールは、そんな彼をチラリと見たのだが……。
 純一は新聞を読みながら、エスプレッソを静かに味わっているだけで、今の会話など聞こえないかのよう。

「書斎にいる」

 葉月より先に食べ終わった純一は、いつものボスの顔で立ち上がった。
 葉月はまだ、ジュールコレクションのカップを傾けて、ゆっくりと食後のお茶を堪能中。

 妙に淡々としている二人の様子。
 ジュールはそれをただ見守っていた。

 

 処置後数日、安静に過ごしていた葉月は、二階の部屋で一日中──ヴァイオリンを弾くようになっていた。
 その数々の音……絶えず流れてくる音……。

 あまりにも聴き心地が良いので、ジュールは思わず──そんな彼女の姿を見たくて、頼まれてもいないのに、一休みのためのドリンクを手にして、葉月に持っていったのだ。

 彼女は寝室にある二階のバルコニーで、風の中、そして日差しの中──とても穏やかな顔でヴァイオリンを弾きこなしていた。
 眩しい程のその姿に、ジュールは思わず、ドアを開けたまま見とれてしまった程だ。

「変わったな」
「!」

 そんな惚けてしまっていたジュールの背後から、ボスの声。
 彼は書斎側のドアからそっと出てきて、ジュールの背後から義妹の演奏姿を確かめ──なんだか嬉しそうに微笑んでいたのだ。

「そうですね──垢抜けた気がします。透明感も増して、アマティがとても活きていますね」
「ああ」
「なにか──突き抜けたようで……」

 ジュールも微笑んだ。
 だが……と、ジュールは俯く。
 そして、背後で息を潜めて義妹を触らずに見守っている『兄貴』の眼差しを見つめる。

『あなたの眼も……』

 曇りが拭われ、輝きも増して──そして何か吹っ切れたような透明感を放っているような気がしてならない。
 彼の眼差しからジュールは『彼だけの愛』を確かに読みとっていた。
 そして──それは……ジュールが『読みとっている通り』なら、とても切ない想いであろうと予測する。

 だけど……彼は美しくヴァイオリンを手にしている義妹にとても満足そうで、そして、近寄りがたそうな様子で見つめている。

「俺は、これで良いと思う」
「ボス……」
「葉月が出した答なら……それでいい。そして──俺はそんな答を見いだした葉月を誇りに思う」
「……では、ボスは……やはり、最初からそれで宜しかったので?」
「どちらでも、葉月が『それで生きていく』と決めた事ならとは、思っていたが……だが、俺は不確かで手応えが得にくい大きな事に囚われる事より、小さな事でも確実に足元に存在している物を見つけて欲しかった……それをおそらく見つけたのでは? と思っている」

 そして、眼差しを伏せて穏やかに微笑む『兄貴』をジュールはちょっと同情するように見つめた。
 だけど、その同情を超すと、いつもは隠している『兄貴への敬愛』に変わる。
 ジュールも口には出しにくかった『兄貴の思う所』を、今回は口を出さずに傍観するが如く見守っていたが──どうやら、ほぼ、『行き着いた』らしい。
 その結果が生み出す事は、彼の『愛』であって、そしてその形は決して世間一般でいう所の『最高の形』ではなかった。
 だけど……近いうちに、この人は、そんな形も自分なりの『最高』として形にするのだろう?──そんな予感も。

 彼女は、ここのところ──あらゆる曲を活き活きと演奏していた。
 そして頬は、やっと血が通ったようにほんのりと赤くて、瞳はキラキラしていて、口元はとても穏やかだった。

 あんな哀しい事を経験したばかりなのに……。
 いや、だからこそなのかもしれない。
 ジュールには解る。
 『哀しみを知らない奴、格好悪くもがく事を知らない奴』には絶対に解らない感覚だ。
 そこを抜けた者だけが見いだせる『美』を彼女が見つけたような気がしてならない。

「天使が味方についたからな」
「天使?」
「そう、葉月とあの子の天使だ」
「! ボス……」
「その天使が、葉月を生かしている。そして葉月がその天使を生かしている。そして、生かそうとしたのは『あの子』だろうな。だから、葉月はもう泣かないだろう。嘆かないだろう──。自分が生きるという事は、天使も生きるという事。生きている喜びも哀しみも、楽しさも苦しさも、美しさも醜さも──全て受け入れられたんだろう。だから、もう……」
「ちょっと待って下さい? ボス……あのですね」

 ジュールも『同じ意見』だった。
 でも──そこまで言えた兄貴を、少しは不憫と思って……何か言おうとやや躊躇ったその時。

「なにも言うな」
「!」

 彼は哀しい顔をする所か、とても満足そうな爽やかな笑顔を見せて、階段を降りていった。

 なんだか、ジュールの『読み通り』であるのに。
 それが『哀しい事と嬉しい事』の両極面がある為、そのようになったらなったで『やるせない』気持ちになる。
 なのに兄貴は、満足そうだった。

『この人も突き抜けようとしている──』

 確信した、が、まだ様子見だった。

 そんな事が二日程続き、昨日、ぱったりと葉月がヴァイオリンを弾かなくなった。
 この日はまた小雨の日。
 天気が彼女と天使の気分を損ねているのかと思い、ジュールはまた、ご機嫌伺いのドリンクを持っていったのだ。

「今日はどうされたのですか?」
「うん? なんとなく──」

 換気の為なのか、 それとも葉月の気分なのか分からないが? バルコニーへの窓が開け放たれていて、やや冷たい空気が部屋の中に入ってきてる。
 だが──その凛と引き締まる空気が流れる中、そして、さらさらとした穏やかな小雨の音の中、しっとりとした杉の木立と、霧に霞む湖を、彼女は慈しむような眼差しで眺めている。

「静かで、しっとりしていて──とても綺麗ね……」

 確かに晩秋の小雨に濡れる芦ノ湖の風景は、趣ある風情。
 その風情に……葉月もしっとりと絵の中の一部分のように、溶け込んでいるよう……。

 ジュールはそれにも、見とれてしまっていた。
 ロイヤルコペンハーゲンのフローラダニカ。
 ジュールの思い出の品に、丁寧に入れた甘めのロイヤルミルクティー。
 そのカップを手にして、葉月がそっと眼差しを伏せ、舌鼓を打つ。
 そのしっとりとした仕草と、彼女から放たれてくる匂いが──『レイチェル』そっくりだったものだから、ジュールは固まった程だ。

 なんだか神々しささえ覚え──ヴァイオリンを弾かなくなった彼女ですら、美しすぎて、そのままそっとして退いた程。

 その日は、一日──寝室のソファーで、葉月はそうして穏やかな眼差しで、物思いにふけっていたようだった。
 そんな彼女、義妹の様子を、純一は急に距離を置くように、見守っているだけだ。

 この前までの二人のバカみたいな熱愛の影はもうない。
 それどころか、そんなに言葉も交わしていないし、密着もしていないのに?
 ジュールが見守っている限り、距離はあっても、二人は目が合えば微笑み合い、言葉無しになにか通じ合っているような暖かさと穏やかさを見せられている気がしてならない。

 そんな静かな日々が淡々と過ぎている。

 そして──この日の朝。
 葉月が今度言い出したのは……『文字が打ちたい』と言うことらしい?

 ジュールは、おそらく『軍退官、引き継ぎ作業』の一環をする事にしたのだろう……と思った。
 診察した翌日早朝、葉月が流産をした事は──エドから隼人に伝え、彼の方も淡々と受け止めていたとエドから聞かされた。
 週末には流産を処置した経過を見る診察の為に、また、東京へ行くらしい。
 そして週明けの月曜日に、小笠原に連れて行くとの事。
 ロイとコンタクトをいつ取るかはまだ知らされていないが、もう週中に差し掛かってきた為に、葉月がその準備を始めたのは頷けた。

 ジュールは手持ちのパソコンを一台、葉月に差し出した。

「有り難う──」

 一階の食事をしていたダイニングテーブルでやるつもりらしく、ジュールが配線もセットした。
 その間に、葉月はパソコンの横に、ちょっとした筆記用具を二階から持ち出してきたようだ。
 おそらく、純一が仕事で使っている物を、お裾分けしてもらったのだろう?
 ノート一冊と、そして、ペン数本──そして、『携帯電話』。

『さて──』

 まるで腕まくりでもするように、葉月は着ているエレガントなカットソーの袖を肘までまくって、ノートパソコンに向かい始める。

 エドがキッチンで朝食の片付け──。
 ジュールも、そのエドの横で、エスプレッソメーカーの手入れをしている振りをして、そっと葉月の様子を観察。

 小一時間程、彼女はキーボードを打つ、と言うよりも……ノートを開いてなにやらペンをちょこまかと忙しそうに走らせていた。

「ああいう顔のお嬢様は、本当に安定感あると前から思っていたんだけどな」
「エド……」

 皿を拭いているエドのそんな一言。
 エドはどちらかと言うと『大佐嬢』である彼女へのサポートへは意気込みがあったようなのだ。
 『お嬢様』と言うより、『御園の跡取り娘』という感触らしく、だから『しっかりして欲しい』というつもりだったようで……今回の事はともかくとして。

「ふぅむ……」

 ジュールも彼女の『不思議な手腕』には、ある程度の『期待』を持っていた。
 あのレイチェルの孫だ。しかも──親戚や親しい義兄達の援護があったとはいえ、彼女の身体と気持ちを張って得た『大佐』と言う地位を考えれば、血筋を思わずにはいられない。

 今──彼女はそういう顔をしている。

 ノートへ集中していた彼女の手が止まる。
 すると……葉月は暫く唸りつつ、動きが止まった。
 その彷徨う視線、集中している視線は、周りの風景も物も見えていないかのように──何処かの世界へと一人入り込んでいる『気』が、充満しているようにみえる。

「ううん……」

 そして、時々唸っていた。

「……どうした。そんなに力んだ顔をして。見ているこっちが息詰まりそうだ」
「義兄様──」

 二階で自分の仕事をしていただろう純一が、ノーネクタイのシャツ姿で階段に現れた。
 彼が葉月が座っているダイニングに寄っていく。

「どれ」
「あっ。それは……」

 義妹がペンを走らせていたノートを純一が取り上げるようにして、手に取った。
 葉月は一瞬戸惑ったようだが、なんだか……それを義兄に見られて、緊張している様子。
 純一はそのノートを眺めると、葉月の手元からペンを取り、サッと何かを書き足していた。

「ふうん。第一中隊のフライトキャプテンが引退、お前のフライトキャプテンもチーム卒業ね。確か……小笠原の六中隊は教育隊だったな」
「うん……それも考えているけど」
「こうするとすれば、『小娘』らしいだろうな? それと、ここも今の中隊の『穴』だ。検討した方が良いかと」

 純一が静かにノートを葉月に返した。
 それを眺めた葉月がハッとした顔をして、義兄を見上げる。

「! 義兄様……有り難う」
「まぁ……もう、お前の中隊ではなくなるだろうがね? それぐらいの『安定』は残してやれよ」
「はい」

 そして……葉月もまるで上司に何かを諭されたように、素直にこっくり頷いて、またノートに向かい始めた。

「エド、エスプレッソ」

 なのに、純一は集中し始めた葉月の目の前の椅子に居座って、いつものボスの声でエドに一声。

「あ、はい……」

 そして──葉月は、目の前で純一が腕を組んでジッと見つめていても、それすらもいていないような顔で、ノートに書き込みを始めていた。
 それを純一が、コーヒー休憩を取るような振りをして、見守っているようにみえなくもない?

 暫くして、彼女が携帯電話を手にした。
 そして、葉月が言い出した事。

「ジョイ? 私──。色々、心配かけてごめんね。あの……急で悪いけど……調べて欲しい事があって……」

『!』

 ジュールとエドは揃って顔を見合わせた。
 でも……純一は頬杖をついて、目の前で淡々としている表情の義妹に、ニヤリと微笑んだ。

 弟分に仕事に関する用件のみを連絡した葉月が携帯電話を静かに置いた。

「お前と仕事をしたら……楽しいかもなぁ?」
「そう? だとしたら、私、すっごく我を通したがるかもよ?」
「喧嘩ばかりするかもな」
「ふふ──」

 そして、そんな義兄の意味ありげな微笑みに、義妹の方も妙に不敵な微笑みを返していたのだ。

TOP | BACK | NEXT
Copyright (c) 2000-2007 Yuuki Moriya (kiriki) All rights reserved.