・・Ocean Bright・・ ◆飛べない天使達◆

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8.私の音

 昨日の雨模様もすっかり穏やかな天気になったこの日──午後、昼下がり。

 午前中、ノートパソコンに向かっていた葉月は、もうそこにはいない。
 エドが作った軽いランチを食したのを、良い区切りとばかりに二階に上がってしまったのだ。
 葉月の『ちょっとした業務』を見守っていた純一も、見守る事30分程度で書斎にもどってしまい、彼もまた、葉月が二階に上がって入れ替わるようにおりてきて、同じように軽い食事をすると、また二階に消えていった。

「静かだなー」

 キッチンにあるちょっとした足長の椅子に腰をかけて、片手間にサンドウィッチを頬張るエド。
 煌めく湖が垣間見える明るい庭を、目をスッと細めて眺めていた。

「そうだなぁ」

 エドがついででも、ジュールの分もこしらえてくれる無言の気遣いは、いつもの事。
 ジュールも、エドの手元にあるレタスとトマトと目玉焼きが挟まれているサンドを手にとって、立ったまま頬張った。

 それぞれ思う所はあれど──男二人は無言の片手間ランチ。
 先週は、葉月が来たかと思ったら、やれ『妊娠』だの『父親はどうする』だの……診察がどうこうであっという間だった。
 それに比べると、今週は──ただゆっくりと、静かに時間が流れている。

『うふふ……』
『大丈夫か? 外の風は冷たいぞ』

 そんな声が階段の上から聞こえてきて、ジュールとエドは、片手間のサンドウィッチを皿に置いて、姿勢を正した。

 午後になって着替えたのだろうか? 葉月は、午前とは異なった装いで現れる。
 白地に青い小花柄のワンピースに水色のカーディガンを羽織っている葉月が、ヴァイオリンケースを片手に、純一と並んでいた。
 純一は、白地に黒いピンストライプのワイシャツを着ているだけで、ネクタイはしていない。
 が、外に出かけるのか、黒いジャケットを羽織った所──。
 そして、義妹の肩にそっと水色のコートを羽織らせた所だった。

「湖畔を散歩してくる」
「行ってきます」

『いってらっしゃいませ』

 ジュールとエドは静かに見送る。

 葉月の腰に手を添えて、自分に引き寄せる純一。
 その義兄の顔を、葉月が麗しい眼差しで見上げながら……二人はほんとうに仲むつまじい、穏やかな若夫妻のような雰囲気でリビングを出て行った。

「なーんで、俺がドキドキしているんだろうー」
「あははっ」

 エドがなんだか、胸を押さえながら切なそうな声で一言。
 ジュールもその気持ちが分かるので、笑い飛ばしたのだが……。
 実際は、笑いたくなかった……。

 今──あの二人があんなに穏やかで、仲むつまじい程……妙に切なくて、悲しくて仕様がないのだ。
 特に、あの兄貴の『なにもかも』悟りきったような穏やかさが。
 今までは、何処か思い詰めたような、何処か卑屈になってふてくされていたような、何処か諦め加減でいい加減にする事で向き合わなかったような……。
 まるで、自分の気持ちを持てあますばかりの少年が、どうして良いか解らない末に、つまんない悪態をついていたような……そんな尖った部分がすっかり平らになって『本来の彼らしい雄大さ』が、解き放たれているように見えるのだ。

 と……なると、『俺、ジュールだったら』と言う考えが、兄貴にもあったのなら……。
 その感がどうもここ数日、拭えない。
 なのに、二人は今まで以上にとても穏やかで、幸せそうだった。

 それが『怖い』と思えるジュールの『予感』は……予感こそあれど、思ったよりも早く二人の間に現れるなどとは、この静かな昼下がりの中では予想出来なかった事だった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 静かな小波がさざめく湖畔は、晩秋の柔らかな午後の光を跳ね返し、キラキラと輝いている。
 十一月も半ばに差し掛かろうかという時期で、この昼下がりでも風は冷たい。
 だが、空気はとても澄んでいた。

 昨日の雨模様で、大気の埃が落とされたかのように……富士の山も周りの峠の緑も、とてもくっきりとした深い色彩を青空の中、個性を主張するように浮かび上がっている。

 湖畔に沿った細い散策道を、純一と並んで葉月は歩く。
 片手にはヴァイオリンケース。
 葉月の半歩前を、義兄が穏やかな様子で先に歩く。
 まるで……葉月の為に、先に足元を確かめるように……大股で歩く人がゆっくりと……先に。
 個人別荘が多い地域のようで、ここのあたりの湖畔散策道はあまり整備されていないようだった。
 湖畔の散策道はただ草が倒れ、この時期には枯れていて……数少ない人が歩いた跡があるだけの小径だったから、純一が細まった道になると、振り返っては葉月がちゃんと歩いてついてきているか、必ず振り返る。

 『散歩に行こう』と言い出したのは義兄だった。
 葉月が、ひとりぼんやりとしている時に、彼が笑顔でそういったのだ。
 『いいわよ』──義兄の穏やかな笑顔に葉月も笑顔で応える。
 自然と、手にはヴァイオリンケース。
 そして……葉月は出かける準備をするついでのように、こっそり着替えたのだ。

 着替えた葉月を見て、純一は『なんの気まぐれだ』と──やっぱり、いつものように笑ってくれる。
 葉月にしてみると『気まぐれ』ではないつもり……。
 だけど──葉月が選んだワンピース姿を見て、嬉しそうな笑顔を浮かべてくれた。

『俺が選んだ服のひとつだ』

 きっと、そうだろう──と、葉月は思ったのだ。
 だから、着替えてみた。
 そんな洋服が、クローゼットの一画にうかがえたから──。
 エドのトレンドを盛り込んだだろう全般的なプロデュースではない……懐かしい、慣れた感触をくすぐるような洋服が数枚、紛れ込んでいる。
 きっと……『純兄様が選んでくれた』と葉月は思っていたから……。
 それを着ないのは勿体ない。
 だけど、その洋服達はどちらかというと『普段着』というよりかは『ドレスアップ』に近いものばかりだったのだ。
 今、着替えたワンピースだって……季節的には薄い生地で、色合いも夏っぽい色彩。
 白地に、ラベンダー色に近い小花がちりばめられていて、サテンの光沢ある青紫のリボンテープが胸元の切り替えに施され、夏のリゾート地で着られそうな感じだったのだ。
 ちょっとした夜会などに出席するなら、とても重宝しそうなワンピース。
 それをあえて、葉月は着てみた。

 その格好で、義兄が紳士らしく、葉月をちゃんとレディ扱いにてエスコートをしてくれる。
 そうして、部屋を出てきた。

 歩いている内に、古ぼけた欅のベンチが現れて、そこに純一が腰をかけた。
 座った彼が、葉月を見上げてそっと微笑む。
 葉月もただ微笑み返して、そのベンチにヴァイオリンケースを置いて……開いた。
 風はやや冷たいけれど、静かで柔らかに降り注ぐ昼下がりの日差しの中、コートだけをそっと脱ぐと、それを純一がベンチの背に綺麗にかけてくれる。

 二人の間には──風とさざ波の音だけ。
 その中、葉月はなにも言わずに、ヴァイオリンを……日差しの中、構えた。

 彼が好きなのは……『アヴェマリア』でも、『グノーのアヴェマリア』
 それをそっと弾いてみる。

 眩しいキラキラとした湖面に語りかけるように、そして、真っ青な空にその音が昇っていきますように──。
 そして──貴方の耳に、胸に……響きますように。
 風と一緒に、唄う。
 さざ波の音のように、弦を震わせる。
 そして……私の心も、今──この景色の中の一つのように。
 ただ……この美しい色彩の中の……小さな一部分なんだけれど、そこから『音』で伝えてみる。

 貴方に届けたい……ただの『愛』を。
 装飾物はいらない。
 ただ──それだけの事を。

 そっと弾き終わって振り向くと──彼が優しく葉月を見上げているだけだった。
 それにも、葉月はにっこりと微笑み返すだけ。
 その内に──彼が無言で手を差し出す。

「……」
「とても良かった──有り難う」

 そんな事を素直に言ってくれる義兄様は、珍しい。
 だけど、葉月はそれが嬉しくて──そっと差し出された手の上に、自分の手の平をのせた。
 それを手元に引いた義兄が、そっと抱きしめてくれる。
 葉月の胸元に──とても清々しい笑顔を浮かべてくれているお兄ちゃまの顔。
 それを見つめていると、今度は隣に座るように手を引かれて……葉月はヴァイオリンを膝に乗せて座った。

「静かだな」
「うん……」

 純一の眼差しは、遠くで旋回している海賊船のような遊覧船を静かに見つめている。
 だけど──キラキラと輝く湖面も真っ黒い瞳に映っていて、葉月はそれを万華鏡を見ているようにジッと見つめた。

 唇をそっと緩めている純一の穏やかな微笑は、とても静かで……満足そう。
 葉月はそれもずっと見つめていた。

 その内に、彼がフッと笑い声を少しだけこぼし、ベンチに片方の足だけを折って乗せて、それを抱えた。
 片膝を折って抱きかかえるその格好。
 葉月の脳裏に……真っ白いティシャツと、くたくたのジーンズを穿いていただけの『若かりし頃のお兄ちゃま』の幻がふっと浮かび、そこにいる男性と重なった。
 あの時──年上のお兄ちゃまが何を考えているのか知りたくて、一生懸命考えて覗き込んでいた小さい私。
 その葉月を、若い青年のお兄ちゃまは、そんな風に静かに笑って、そして、ちょっと背伸びに年上のお兄ちゃまの事を計ろうとジッと見つめてばかりの葉月の様子を楽しんでいる。
 その時の『格好』を今……目の前で、彼がしているのだ。

「なんだ? 俺が何を考えているか……知りたいのか?」
「ううん──その格好、変わらないわね……と、思っただけ」
「ああ、そうか……」

 今頃、気が付いたように、純一はその格好をやめて、両足を悠然と組む姿勢に変わってしまった。

「お前も変わらないな。俺をそんなにジロジロ見て──怖いじゃないか」
「私が? 怖いなんて思っていないクセに」
「フフ──分かっているクセに。知らない振りをするんだ──お前は時々、俺の事をよく知っているクセに、知らない振りを『してくれる』──」
「何の事?」

 葉月はちょっとドキリとしながら……でも、絶対に表情は変えない努力をしたつもり。
 今までだってそうしてきた。
 お兄ちゃまが『チビに悟られたくない、もし生意気なお前が悟ってしまっても俺にはそれを見せるな』というような暗黙の希望を読みとってそうしてきたから──。
 でも、これも葉月独りの予想で、彼にそんな事を思っているかは確かめた事はない。
 けれど、解る。
 お兄ちゃまは、きっとそうして欲しいのだって──。

「そのチビの顔で──。一生懸命、俺の事を考えてくれる……昔からだな」
「!? どうしちゃったの?」

 そんな事を彼から口にするのは初めてだったので、葉月はかなり驚いた。
 暗黙の了解で通じてきたのに──。
 葉月も今となっては、大人と言えば大人で……子供の時よりも、もっと『暗黙の取り交わし』は上手に出来るようになった方だと思っていた。
 それでも自分より人生経験がある義兄の考えについていこうと、今だって一生懸命覗き込んで、考えてみたりしていたのに──。

「そんなお前が……俺には必要で堪らなかったし、甘えていたな……心地よすぎるから」
「!?──本当に、どうしちゃったの?」
「そして、そのチビの顔で……いや、可愛らしい幼い子供の顔で、一生懸命──俺の事を考えてくれるお前が愛おしくて、堪らなかった」
「──!」
「今もそう──。お前は大人になったが……顔は変わらない。オチビだよ」
「お兄ちゃま?」

 そこで、清々しい目尻にシワを寄せる彼の笑顔は──いつしか、彼が閉ざしてしまった若かりし頃、時々見せてくれる優しいお兄ちゃまの笑顔だった。
 そして……若い頃だって、いつだってひねくれて意地悪でつっけんどんに切り返してばかりのお兄ちゃまが……そんな素直で優しい事を言ってくれるは? 初めてのような気がして、葉月は呆然と、隣の純一をただ見上げていた。

「……葉月」
「……なに?」

 急に彼の眼差しが陰った。
 葉月の心の鼓動が……妙に早まる、そして、妙に締め付けられる。
 そう──『予感』があったから……。
 お兄ちゃまが言う所の『知っているクセに、知らない振り』と言う事の『意味』を葉月は判っていたから──。

 それは義兄が『その考えを持っている』と判ったからではない。
 葉月自身が、『その同じ考え』を我が事として気が付いたから──。
 だけど──それには躊躇いがあった。

 それは……。

 彼の陰った眼差しは──やはり、遠く遊覧船を暫く追っている。
 けど──葉月は、そんな彼から目を離さない。
 そして、やっと純一が静かな微笑みを向けて……葉月に言った。

「一昨日まで、沢山の曲を、ヴァイオリンで弾いていたな」
「ええ──思いつくままに……」

 葉月も笑顔で答える。
 そして──心の中で、少し……泣きたい気持ちになる。
 その『問い』の意味……葉月が何故? 沢山の曲を弾いていたのか……彼だって、暗黙の読みとりにて、葉月が心境を語らなくても判ってしまっているから。

「どの曲を──誰に弾いていたのだろう? 弾いてあげたい、気持ちを伝えたい『大切な人』がお前にはいっぱいいるんだな」
「うん……」
「それは……パパか? ママか?」
「パパもママも……」
「それは……右京か? それともロイも?」
「お兄ちゃま達も……」
「それは……」

 そこで義兄が、微笑みながらも、きっちりと葉月のガラス玉の瞳を捉えて、真っ直ぐにみつめてくる。
 逃げない、逃がしてくれない彼の眼差しに──葉月も真剣に見つめ返した。

「それは……パイロットの仲間か?」
「うん」
「そして……」
「大佐室の周りの皆……」
「もっと大切な人間がいるだろう?」
「うん……『彼』に一番、聴いて欲しい。お兄ちゃまに聴いてもらいたいのと同じぐらいに──。捧げてみたいの……伝えてみたいの。まだ、完全じゃないおぼろげなままだけど、それなら納得出来るまで伝え続けてみたいの。私が一番、人に『伝えられる方法』がこれなんじゃないかって思ったの。だから……」

 『そうか』──と、彼が穏やかに微笑んだのだ。

「皆を……愛している。愛されてばかりだったから──今度は敬愛している事を……伝えたい」
「そうか……」
「そこから──この彼女とやり直したい。そう思ったの……」
「うん。いいじゃないか」
「ステージじゃない。私の、私が生きてきた歩んできた道の側にいた『愛してくれた人たち』の為に……まず伝えたいの。私のヴァイオリンは、そういう物なんだって……」
「ああ──いいな。そういう気持ち、俺は好きだな」
「本当に?」
「ああ……」

 そして、包み込むように微笑み──大きな手で彼が葉月の栗毛の頭を優しく撫でた。
 その途端に──葉月は弾けたように、瞳に涙が滲んで、それが頬にこぼれてしまっていた。

「私──『プロ』にはならない。ヴァイオリンは私の『生きるパートナー』にはならない。お友達であるだけ、でも、手放せないお友達なの」
「ああ……そうだな」
「だから──『プロの弾き手』にはならない……。傍にいる人たちに、聴いてもらって。それが少しでも、敬愛する人たちの心の和みになってくれたら──それで充分。そういうもっと身近な暖かいものにしたい。それが『私の音』──。こんな風に、自然の中で自然に存在するような……そんな音にしたいの……」
「いいじゃないか。それがお前が納得出来た答なら」
「純兄様──それがどんな意味か、どんな答か判って笑ってくれているの?」
「……」

 彼の穏やかで暖かい眼差しがスッと──引いた。

「葉月──」
「……言わないで……」

 その義兄の真剣に煌めいた眼差しを見ただけで、葉月は顔を覆ってしまった!
 聞かなくても、分かり合える仲だからこそ──彼が言いたい事も、考えていた事も……そしてお兄ちゃまに知られてしまっている、見抜かれている『私の気持ち』──それが『当たってる』からこそ、葉月はそこを逸らしたい!

 『楽園の魔法』が解ける!
 彼の前で、ただ──女として幸せなだけの『姫君』の魔法がとけてしまう!

 だけど、葉月はもう──目が覚めていた。
 葉月の側には『天使』がいる。
 葉月を現実から離さない、現実に呼び戻そうとした、罪をそして現実にあった『私』を位置づけてくれた『天使』が待っていた。

 その天使を与えてくれたのは──お兄ちゃまではなかった。
 『彼』だった。
 そして──『自分自身』
 二人で呼び寄せた二人だけの『天使』

 葉月が虚像のように拒否してきた『望まない現実』で作り上げた『最高の結果』だった事を、教えてくれたのだ。

 これは『魔法』じゃない。
 『望まなくても』──確かに葉月が育んできた『現実』だった。

 自分が望んでいた『ヴァイオリニストの夢』もない、そして──『幸せにただ真っ直ぐでいられるはずの罪なき笑顔だけの姫君』でもない、自分が『望んでいた人生』でなくても、自分で『パイロット』として踏み出して築きあげてきた日々の『現実』は、この『楽園』よりずっと重いものだった。
 だから──私の天使が、ずっと私の肩に乗って囁く。

『飛ばない限り、重いだけだから──ずっと肩に乗っているだけだよ。僕は──』

 飛ぶのが怖い?
 パイロットのくせに……飛ぶのが怖い。
 きっとそうなのだ──。
 だけど、もう目が覚めている。
 解っているのに『やらない事』を無視してきた『楽園』ではなくなっているから──だから、飛べない事が今度は『苦しい』。
 怖いけど──やってみないと、同じ事……やれない苦しさがつきまとうのだ。
 そう感じている事、その葛藤が生じ始めている事を……隣のお兄ちゃまは、もう知っている。

 彼が今から言うだろう事も──葉月には判る。
 だから──。
 でも、彼は真顔で……いつものように頼りがいある指先が、弾けた涙を拭い取ってくれながら、切なそうに葉月を見下ろしていた。
 今度は、お兄ちゃまが、私の瞳を万華鏡を覗くようにみつめている……。

「俺達──互いに、暖めあいすぎたな」
「……」
「あの忌まわしい日から……その次の日から……俺達は……なにも始めていやしない」
「純兄様……」

 彼の黒い瞳に、苦悩に満ちた波がさざめいた。

「俺がな……皐月との約束を守っていれば。なにもかも」
「純兄様のせいじゃないって……! 何度も、私もお姉ちゃまも言っているのに!」

 これも何度も交わし合った、もう決まった会話。
 だけど──いつしか、もう近頃では言い交わすのも疲れ消えてしまった会話だった。

「そんな俺を──そういって、お前は皐月の分も一生懸命、かばってくれた。バカだな」

 彼がフッと遠い目を湖に投げかける。

「私だって……ずっと背を向けている子供みたいに。でも、お兄ちゃまだけは、絶対に私の事。捨てたりしなかったもの。離れていても……絶対に、解ってくれるのは純兄様が『最後』に必ずいてくれたから……」

 だけど──それが、純一が言う所の『暖めあいすぎた』と言う事なのだと、葉月にも通じて、俯いた。

 そして、私達は『あの忌まわしい日』から、離れず──その世界観の中で、お互いだけを頼りに生きてきた。
 取り残されるように。
 だけど、独りではなく──。
 二人だけで、痛さを慰め合ってきた。

 それすらも、目が覚めた葉月には……義兄が言いたい事が痛い程解ってきていた。
 そして──天使の囁き。

 すると──義兄の純一が、葉月の肩を抱き寄せながら、フッと笑顔で青空を見上げた。

「葉月。俺と……飛び降りてみるか? そこの崖を」
「? そこの崖?」

 目の前には──小さなさざ波を受け止めている湖の静かな岸辺。
 だけど、純一は空だけを見上げて、続ける。

「ああ、俺達が躊躇しつづけてきた『明日への崖』だよ。俺も……いい加減、やってしまった事はもう取り返しがつかない。後悔を噛みしめつつ、痛くても新しい日を迎えていくのだと言う気持ちにならないといけないな。この歳になって……今更かも知れないが」
「!」

 彼が何を言いたいのか……葉月にも判って、涙が止まる。
 そして、肩を抱き寄せてくれているお兄ちゃまを見上げた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 二人が散歩から帰ってきて、直ぐの事だった──。
 階段の上からドアの音が聞こえたので、キッチンで一息の一杯を一緒に楽しんでいたジュールとエドは、サッと姿勢を正す。

 階段から姿を現したのは──葉月の方だった。

「あの、ジュール。お願いがあるの……」
「なんでございましょう?」

 いつもの笑顔でニコリと微笑み返すと、彼女の方も警戒なく微笑み返してくれる。
 その笑顔が、いままでとは少し違うとても自然な笑顔にジュールには思えてしまった。

「明日ね……お買い物に行きたいんだけど、付き合ってくれる?」
「買い物ですか?」
「そう。義兄様にね? プレゼントしたい物があって──」
「……プレゼント?」

 急に義兄に『プレゼント』とは──と、ジュールは思ったのだが。
 まぁ──それも彼女の女性らしい気持ちの表れであって、暇を持てあます中、外で買い物でもと言う気になったのかも知れない? と……ジュールはそう思う事にしてみる。
 では──ボスには知られないように、二人で買い物に出かけられるようにしましょうね? と、その段取りをサッと頭に描いていたその時……。

 今度は書斎の扉が開いた音──。

「ジュール、エド──話がある」
「イエッサー」

 純一のボスたる声色に、いつもの反応を二人は揃える──。
 

「あ、お買い物の目的は……義兄様には内緒よ? ね? ジュール」
「ええ、勿論……解っておりますよ」
「お買い物に行く事は、後で義兄様に言っておくから。宜しくね」
「ああ、はい……」

 そして、葉月はヒラリと純一の視線を避けるように、部屋には戻らずに、リビングのソファーに座ってくつろぎ始めたのだ。
 純一はそんな義妹の様子を目で追っていたようだが、溜め息ひとつついて、書斎に戻っていっただけ……。
 やはりジュールの脳裏には、散歩前の『予感』が過ぎってどうも心は落ち着かなかった。

 純一の書斎に入り、革椅子に座っている純一の前に、エドと並んで立った。

 そして──やはり……ジュールの『予感』は的中した!
 ボスが、二人に向かって無表情に一言──。

 

「葉月を小笠原に返す事にした──」
「!」

 

 当然、隣のエドは息を止める程、驚いていたようだが──!
 ボスから聞かされた一言に、ジュールは『予感』していたとはいえ、愕然とした。
 何故だろう? がっくりと、腰から力が抜けるような気持ちにさせられたのだ!

 解っている。
 解っている!
 きっと、これで良いのだって──。
 それが『お二人の“良き前進”の為に、一番良い選択になるだろう』という事も……。
 解っているのに──。

 予感はあったのに、当たると非常に嫌な気分にさせられた。
 その予感の中に……『葉月はヴァイオリンの道を選ばなかった』と言うのがあった。
 きっと、彼女は『やっと見極めた私の新しい気持ち』として、湖畔を散歩しながら、義兄に告げたのだろう。
 だから? それで? 義兄は『イタリアには連れて行かない』と決めたのだろう? そう、判ったのだが!

 そこまで判っているのに、ジュールの中で、急に熱くうごめく物が……! それに突き動かされる!

「ボス──小笠原でなくても、お嬢様に、イタリアでヴァイオリン以外のチャンスをつくってやれば! お嬢様だったら、きっと! ママンに負けない経営者にだってなれるし……そうして傍に一緒にいることだって出来るじゃないですか!?」

 何故か……ジュールはムキになって言い放っていた。
 一番良い選択が何か解ってはいても、そんなの『何が一番なんだ』と、今、自分の気持ちと口が言い放っている方が、ジュールには不思議なぐらい。
 でも、その気持ちが勝っているから。

「そうだ! ほら……イギリスの兄貴の航空機会社、あそこからテストパイロットの育成スクールを作る計画があるんですよ。それ……お嬢様に丁度良いお仕事だと思うし、それに……ボスと一緒に、ボスを支えてくれる片腕秘書にだって……! 俺達の仕事は元々は……すべては御園の──」
「ジュール、やめろ」
「!」
「どうした? お前らしくない……」
「……」

 確かに──と、ジュールは純一の声で、ふと我に返ったのだが……。

「エド──経過確認の診察だけは、小笠原に帰る前にしておかなくてはいけないと思っているのだが、早められないか?」
「連絡してみますが──土曜の方が、来院者が少ないので、丁度宜しいかと……」
「そうですよ、ボス。そんなに急がなくても──」

 エドが真面目に答えたのか、それなりに彼も惜しんで渋った答え方をしたのかは、今のジュールには解らない。
 だけど──そのエドの言葉を助け船のようにして、何故か葉月を引き留めようとしていた。

「ジュール……もう、変わらない」

 『この決心は──』……そう聞こえた。

「ナタリーに小笠原まで帰れるルートと足を、早急に確保して欲しいと依頼してくれるか」
「……」

 純一の静かな指示に、何故かジュールとエドは瞬時に返答出来なかった。

「なんだ? お前達が出来ないなら──俺がやる」

 彼がそこまで言った。

「わかりました。私から──ナタリーに言っておきましょう」
「では、私は……医師と連絡を取ってみます」

 ジュールも自分で良く解らないが、渋々と答えていたし。
 エドも……あまり乗り気でなさそうな致し方ない返答の仕方。

 二人で溜め息を一緒について、ボスの書斎を出た。
 顔を見合わせた。

「俺は……それがあまり良くない形だと言われても、ボスにはお嬢様と一緒にいて欲しかったな……」

 エドのそんな溜め息。

「まあな……」
「でも──ジュールがあんな事、言い出すなんて驚いたな? いつもなら……徹底した合理主義だったり、『絶対的最善論』をボスに堂々と突きつけるのに……」
「うるさいな……!」
「ジュール」

 まるでふてくされた少年のように、ジュールは後輩を払った。
 だけど──その後輩はそんなあからさまに自分を出してしまっている先輩に、そっと微笑みを投げかけてくれていたのだ。
 だから……余計に、ジュールは冷たく払って階段を降りた。

 階段を降りると、リビングのソファーでは一人……葉月がひっそりと座っていた。
 その横顔が少し、寂しく見えなくもない?
 だが……表情は今まで通りの平坦さを戻しているような、その方が例え易いような落ち着いた横顔だった。

『義兄様にね? プレゼントしたい物があって──』

 彼女の自然な笑顔がジュールの脳裏に過ぎった……。
 あの笑顔で……『別れ』を決したのか?
 いや? もしかして、葉月は小笠原に返される事を分かっていないのかも知れない?
 もしや、また──兄貴が勝手に彼女を『岬』に無理矢理突き返そうとしているのだろうか?

 いったい──何が二人の間で取り交わされたのだろうか……?

 そして、また……静かに流れる時間の中、彼女の静かすぎる様子だけが、ジュールを哀しくさせるだけだった。

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