・・Ocean Bright・・ ◆飛べない天使達◆

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12.飛翔岬

 うねるような風の音──。
 潮騒の音──。
 そして……海猫の声。

『うん……』

 瞼がまだ、重たい。
 そっと開けると──目の前に、夜明けの大海原が広がっていた。

「!」

 それでも、まだ──頭がはっきりと冴えなくて、葉月は首を振りながら、目の前を見据えた。

 それは……夢?
 ううん……今までが夢?

「私……!」

 身体をガバッと起こすと──。

「え!」

 あたりを見渡すと、そこはとても見覚えがある『一室』だった。

 この空間には、薔薇の香りが立ちこめている。
 そう『助手席』に、水色のリボンがかけられている溢れんばかりの白い薔薇の花束。
 そして──水色のドレスを着たまま『運転席』に座っている自分。

 くるりと見渡すと──それは自分の愛車『赤い車』の中にいた!

「お、お兄ちゃまっ!」

 暫くは混乱したのだが……葉月は、直ぐに肩の力を抜いた。

「お兄ちゃま……」

 すぐに思い出した。
 最後に飲んだあのシャンパングラス……『お別れの媚薬』が塗られていたのだ、きっと。

 葉月自身も『やがてくる別れ』には、『どういう顔で、どういう状態で別れようか』とは思ってはいたのだ。
 でも、覚悟はしっかりしていたつもりだった。
 義兄が、どのように『帰す』かを言い出さなくても、夜明けには一人で旅立つぐらいの覚悟はしていた。
 けれど──もっと、もっと……葉月よりも、もっと! 本当は『彼』の方が、そんな別れに『辛さ』を感じていたのだと。
 葉月よりも『辛かった』のかもしれない。
 どのように手放せば良いのか、判らなかったのかもしれない……

 そんな人──私の愛しい義兄は、そんな人。
 なんだか、やっと『あの人』が……そんな『脆さと不器用さ』があった事を、噛みしめたような気がした。
 だけど、兄様のそんな所さえ、深く愛してきたのだ。

『終わった』

 葉月はハンドルに額をひっつけて、独り──声を殺して泣いた。
 暫くして……声なんか殺すことなく、思い切り叫んで泣いた。

 私の楽園が消えた。
 そして──もう、大好きなぬくもりもない。
 目の前の岬……そこから今から飛び降りなくちゃ行けない。

 置き去り岬が……今からは『飛翔岬』

「一緒に……飛び降りてくれるって言ったのに……」

 ふとそんな『最後の我が儘』がついて出た。
 実際はもう……一緒に飛び降りたのだ。
 昨夜、泡になる媚薬を彼の腕の中で飲んだ時──彼も私を寂しそうに見つめていた。
 あの時──二人で飛び降りたのだ。

 そう思いながらも……やっぱり『置き去り岬』
 お兄ちゃまは、突然消えた気分だった。

『!?』

 暫く泣きわめいて落ち着くと──視界の端に『黒い影』があるのに気がついて、葉月はそっと外を見た。

「!」

 この岬の駐車場──その出口に黒い車が一台、停まっていた。

「純……兄様」

 葉月は思わず、運転席のドアを開けて、外に出た。
 すると──少し遠くに停まっているその車の後ろから、黒い男がスッと降りてきた。

「兄様……」

 だけど、彼は──そこで動かずに、葉月をジッと見つめているだけ。
 その眼差しは、とても寂しそうだった。

 葉月の心が貫かれる。

『今なら──戻れる』

 大好きな兄様と一緒に……いられる。
 イタリアに行く事だって……出来る。
 そこで一緒に暮らす事だって出来る。

 そう……頭にかすめた。

 吹きすさぶ岬の風の中。
 ここで始まった夢は、まだ完全に、終わっていない……。

『行こう……』

 その声は誰の声なのか?
 一瞬、葉月の耳元で──そんな囁く声が、吹きすさぶ風の音と共に聞こえた。

『戻らないで、行こう─』
「もう、戻らない。行かなくちゃ……」

 その声は、『自分の声』
 もう、心で囁くだけではいけない。
 もう、声に出して、そして、自分で行かねばならない。

「戻らなくちゃ……」

 そう呟いた葉月の脳裏には──。
 この瞬間までに、様々な人々が『生きて欲しい』と、必死になってくれた姿が次々と浮かぶ。

 葉月は、すぐに車の中に戻って『何を持たされたのか』を、確認する。
 助手席には、大きな白薔薇の花束、そして、ヴァイオリンケース、書類袋を入れているペーパーバッグ、そして──!

(良かった……持たせてくれたのね)

 多数のバッグをせっかく揃えてくれていたのに、葉月が手にして気に入っていたのは、純一が選んでくれたという『水色のハンドバッグ』
 それに自分の持ち物を、常に仕舞い込んでいたので、持たせてくれたのだろう。

 バッグの中身を確かめる。

 財布、ハンカチーフ、携帯電話。
 いつのまにか? サファイアの指輪が入っているはずの紺色の巾着袋も入っている。
 そして、葉月が自らが望んだ買い物で選んだ『天使のオブジェ』
 そして……黒い包装紙と金色のリボンをかけてある箱が入っていた。

 葉月はその黒い箱を手に取った。
 そう、ジュールと横浜まで買いに行った、早めの『誕生日プレゼント』──いや、お別れする前に、一度で良いから『大好きな男性である義兄への贈り物』を選んで、贈る為に買った『プレゼント』だった。

 それを手にして、また車の外に出たのだが……。

 葉月を見守るように遠巻きにしている『黒猫一行』に向き合っても、彼等は去ろうともしないが、寄ってくる気配もなかった。

「これ……」

 どうしても、渡したいが──葉月も、再度、駆け寄るような気持ちが湧かない。
 どこかで、まだ……目の前に行けば、抱きついて、離れなくなるような気がしたのだ。
 そして、こんな気持ちになって──昨夜、純一が無理に眠らせ、強引な別れを突きつけてきた『気持ち』が、痛い程に解ってしまう。
 だから……寄れなかった。

 葉月のそんな気持ちも解っているのか?
 そうして、ただ戸惑うように向き合っている間に、『意を決した』のは純一の方。
 赤い車に乗って去ろうともしない葉月が戻ってきても、彼も困るのだろう? 断ち切る自信が、まだ固まっていない恐れを自覚しているのか、サッと後部座席の扉を開け、車に乗り込もうとしていた。

「待って──!」

 葉月が叫ぶと、純一の動きが止まった。

 葉月は急いで、赤い車の中に戻り、助手席から白薔薇を抜き取った。
 そして、それを手にして、車の外に出て──少し離れたアスファルトの上に、ひざまずく。

 そんな事をしている葉月を、離れた位置にいる純一が訝しそうに眺めているのが解る。
 葉月は、地面の上に白薔薇を置き、風に飛ばされないように、その上に黒い箱を置いた。

「……さよなら……」

 足元に白い薔薇と、黒い箱。
 潮風に吹かれる水色ドレスの柔らかな裾が、激しくはためく。

「さようなら……私の……」

 涙が滲んだ。

 だが! 葉月はそこで、涙を止めた!
 もう、この事では嘆かない!
 もう、愛していた男性との終わりに泣かない!
 そう、彼と一緒に……背を向け合っても、『彼と一緒に』、私達は『飛ぶ』のだ!

 飛ばねば、義兄様との『愛』すら、意味はなくなるだろう!

 だから──!!

 その次には、もう──赤い車の運転席に、乗り込んでいた!
 キーを回す感触、エンジンの音──そして、身体に染みついている『リズム』で、アクセルを踏んだ!
 踏んだのだが、踏み心地がいつもと違っていた。

「もう!」

 ドレスに合わせて部屋で履いた白いハイヒール。
 それを、ポイッと脱ぎ捨て、助手席に放った。

 軽快なエンジン音。
 握りしめるステアリング。

 風の中、走り始めるスピード!

 葉月の車が、バックをして岬の駐車場の出口へと向いた時。
 先程、葉月が薔薇と黒い箱を置いた位置に、ベンツが移動していた。

「……兄様」

『メルシー』

 聞こえはしないが、彼がそう言っているように、葉月には感じられ……。

「……に、兄様」

 黒い箱を片手に掲げている義兄・純一の笑顔。
 そして、彼もその後には、いつもの厳しい顔つきになってベンツに乗り込んでしまった。

 彼等の黒い車は、葉月とは反対方向の出口へと向かっていく。

『さぁ……ここから!』

 彼等の車も去ろうとしているから、葉月も再度、ハンドルを握りしめた。

 葉月の赤い車が坂を降り始めると、黒いベンツも駐車場の出口を出た。
 だが……葉月が車を走らせ始めたバッグミラーには、そんな葉月を先に見送るように停車しているベンツが見えているだけ。

「終わったわ……」

 一度、止めたはずの涙が──今度は、どうにもならなず、溢れ出てきた。
 それでも、葉月は涙を拭わずに、アクセルを踏んだ。

 運転席の窓には、見慣れた海原の景色が広がっていた。
 車の時計は、午前6時を指している。
 水平線は日が昇り、空は茜色に染まっていた。
 この日の天気は、小笠原の海を煌めかせる『晴天』になるだろう。
 そして──今日も輝く空が青く広がるだろう──。

 葉月は『青空の世界』に、戻ってきた色彩に、徐々に目覚めを覚えながらも……。
 今、たった今──独りきりで『飛び立った』事の『寂しさ』に『悲しさ』に、そして『不安』を噛みしめながらも、『それが出来た自分』に、どことない『小さな誇り』を感じていた。

 この僅かに得た『誇り』を──今度こそ!

 その先の事は……『これから手探り』になるだろうが。

 

 私は飛んだ。
 まだ、高度も方向感覚も、なにも感触がない。
 どこをどう、飛び始めているか判らない。

 あの人も飛んだ。
 何処を見定めて飛んでいったか判らない。
 もう、何処を飛んでいるかも見えない。
 私の傍を飛んではいない……。

 一緒に岬を飛び降りたばかり──。
 置き去り岬はもう、ない。
 そこは、飛翔岬。

 その岬に行く事は……もう、ないだろう。
 何故なら、二度と戻ってきてはいけない『スタート地点』だから──。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「はぁ。俺は月曜日がこれほど嫌だと思った事はないね」

 四中隊棟の三階、本部前の廊下を歩いている最中、隼人の後ろを歩いていた達也が、気だるそうに呟いていた。

「なんだよ。この前から、その覇気のない様子は」

 近頃、上の階に住んでいる達也は、なにかというと隼人の部屋を訪ねてくる。
 特に朝は……『一緒に出勤しよう』と、毎日、欠かさずやってくる。
 それで、隼人が『自転車で出勤する』といっても、まるで隼人が何処かへ逃げてしまうかのように捕まえて、無理矢理、買ったばかりの新車に乗せて、こうして職場に連れてこられるのだ。

 分かっている──何故、達也が、こんなに朝のお誘いが『しつこい』のかも。
 隼人が『最悪の状態』に陥った今を影ながら支えようよしてくれているのだろう。

『葉月は退職する』

 先週、本島まで『葉月との再会』の為に出向いた隼人が、持って帰ってきた『答え』が、それだったからだ。
 しかも──『二人の愛の結晶』とも言うべき子供が『流産した』という報告をすると、流石の達也が『文句なし』に絶句して、放心状態になったぐらいだ。

 その後、達也が泣いたのには、隼人もどうすればいいか分からなくなった。
 その上、ご託を並べる事もせず、達也はひたすら泣いたかと思うと、『帰る』と言って、隼人を一人残して、姿を消したぐらい。

 それ程、ショックだったらしい。
 その後──隼人の事を気遣ってか、『あれがこうだったからだ』とか『こうして何とか元に戻そう』とかいう、ある意味小うるさい意見なども、喚いたりする事もなく、隼人としては『そっとしてくれているんだな』と思い、その気遣いにホッとしているぐらいだった。

 だが──隼人が、葉月を純一の下に置いてきてから一週間。
 達也は、葉月の大佐席を眺めては溜め息をついたり。
 携帯電話を手に握りしめては、何かを思い詰めたようにジッと長い事眺めている……という、彼らしくない様子が、何度か、垣間見れた。

 隼人もそれなりに、気は滅入ってはいる。
 だが……『やる事はやった』と言う、『達成感』はあるから、『葉月がいなくなってしまった、これから完全にここから去っていく』という『避けられない事態』は、達也よりかは、受け入れられていた。

 だけど、達也はそうではないのだ。
 言ってみれば彼は、今回の『男女関係のもつれ』に関しては、第三者であり部外者であり傍観者にしか過ぎないのだ。
 それでも──『なにも出来なかった、もどかしい口惜しさ』を、誰よりも噛みしめている事を隼人は知っている。

 だからなのだ……。

『来週あたり、退官手続きに来る』

 その隼人の報告。
 今日は、月曜日だ。
 もしかすると、葉月が『最後の挨拶』に本部にくるかもしれない。

 達也の『月曜日がこれほど嫌だ……』云々の気持ちは、そこから来ているのだ。

「なんだか、あっさりしすぎなんじゃないの? ちょっとはジタバタしたのかよ」
「あれ? 一週間経って、やっと達也らしい『お説教』だな」
「そのシラッとしているのが、前から気にくわない!」

 そろそろ達也も『ショック』の段階を通り越して、いつもの『喚きモード』が復活したかと、隼人は溜め息をつく。
 だが、隼人も隼人なりに『滅入っている』のだ。
 だから、達也をグッと見据え、彼の鼻先を指さした。

「苛ついているのは分かるけどな。『今の俺』に喧嘩売るなら、それこそ覚悟しろよ」
「……わかったよ」

 隼人の静かなる気迫が通じたのか、達也は渋々といった様子で口元を曲げ、隼人と共に本部事務所に入った。

 時計は、朝の7時になろうとしていた。
 達也はいつも早めに出勤をして、同じく早めの出勤をしている『総合管理官』の若い男の子達と『大佐室』の手入れや、『受け入れ準備』をしていた。
 ……今は『迎えるべき主』はいないが、それでも、『大佐室』の手入れは怠らない。

 隼人も、本来は、一緒に住んでいた葉月と共に、もう少し遅めの出勤が『朝のサイクル』ではあったが──今は同じ官舎に住んでいる達也のペースにすっかりはめられているというのだろうか? まぁ、それで気が紛れているのも有り難い事ではあるのだが、そんな彼の『サイクル』に巻き込まれて、朝は早めに出勤するようになっていた。

 あの官舎の部屋で一人で考えていても仕方がない。
 こうして朝、職場に出てきてしまえば『やらねばならぬ事』は、山程あるのだ。
 否が応でも『めまぐるしい時間』を過ごす事が出来る。

 だから、朝出てきたら、直ぐにデスクに向かっていた。

「あーれー? 今日はテッドが当番だけど、来ていないじゃないか?」
「本当だ。几帳面なテッドにしては、珍しいなぁ」

 達也が総合管理官の男の子達に割り当てていた『朝の大佐室当番』。
 つまり、朝、大佐室を掃除して、大佐にお茶を入れる『当番』だ。

 近頃、『大佐室』のサポートに携われるようになって、意欲的になっている彼が、達也より先に来ていないと言うのは、初めてのような気がしたのだ。

「ま。テッドだって色々あるだろう。俺達より先に来るという決まりまでは作っていないからな」
「そうだな」

 でも……と、心に引っかかりをお互いに感じながら、大佐室の自動ドアをくぐったのだが……!

「おはようございます」

 そこには栗毛の後輩テッドが、トレイにカップを乗せた姿で自動ドア前を横切ろうとしている所だった。

「テッド! なんだ? お茶入れなんか、当分、意味ないぞ」

 テッドが大佐室に既に入っていたのに達也は驚いた様だったが……。

 

「そうよ、テッド。お茶は後にして。分かるでしょ? 私、今からここの整理で、お茶どころじゃないの」

『!!』

 

 隼人の耳に流れ込んできたのは、そんな女性の声。
 その声が誰の声か判っていながら、その声に脳髄を電気で貫かれたかのような『衝撃』が走った!

「葉月……お前っ!」
「……」

 達也が驚いた横で、隼人は硬直してしまっていた。

 そう……朝日が入り込む大窓の前、君臨している大佐席に、制服姿の『栗毛の彼女』がいるではないか!?

(ああ……ついに退職願に来たか)

 硬直している隼人の脳裏には、衝撃はあれど──そんな判りきった事は、ゆっくり淡々とした感触で過ぎっていくだけだった。
 だけれども、そんな隼人の『痛さを通り越した平坦な感覚』を、まるでさざ波でも起こすかのように揺さぶろうとする葉月の声が、大きく大佐室に響く。

「誰!? 私が留守の間に、バインダーをいじくり回したでしょ! だいぶ、崩されているわ!」

 いつも彼女が『俺達を振り回す声』だった。
 いつも彼女が『俺達を巻き込む声』だった。

 隼人は、そんな『いつもの軍服姿』でいる葉月の姿を、ただ──何かに捕らわれたように眺めているだけ。

「なにが、『いじくり回されている』だよ! お前がいないから、俺達がいじらざる得なかったんだろ! それに、お前、相変わらず『整理』出来ていない!!」
「達也がいじったの!? いつも言っているじゃないの! 皆には訳が分からなくても、私には意味があるの!」
「なんだと!? 整理が出来ていないだけならともかく! もう、誰がいじくりまわしたって、『葉月感覚』で置いておく事に意味なんてなくなるんだろっっ!!」
「やっぱり! 達也がいじったのね! 隼人さんなら、触っても、絶対に順番を崩したりする事なんてしないもの!」
「あー! そうかい! だが、その気配りもサポートも完璧な『兄さん』にやった事に対してなー! お前は──」

 いつもの『同期生同士』の言い合いだったが……!
 やはり『核心』である『二人の破局』へと論点が移ろうとしていたものだから……。

「やめてくれ。達也──」
「でも! 兄さん!」

 隼人はスッと静かに割ってはいると、いつものように達也も葉月もピタリと言い合いをやめた。

「もう、なんなのよっ。すぐに『やりたい事』があるのに、タイムロスだわ」

 姿を現した途端にプリプリとしている葉月の様子に、達也が『カチン』と来たようで、また大佐席に食らいつこうとしていたが、隼人は再度静かに、達也を制した。
 そんな隼人が淡々としているので、達也もなんとか押さえ込んだようで、その隙に隼人が大佐席に向かった。

「──悪かったよ」

 『悪かった』などと言う筋合いもないような気がするのだが、確かに『まだ退職をしていない上司の机を、留守中に乱す』と言う行為は部下としては許されないだろう。
 だから、隼人は葉月の隣に並んで、そのカラフルな数々の書類バインダーの『山の順序』を、一緒に組み直した。

「……!?」

 隼人の横で、葉月が固まった。
 『順序』に迷わぬ隼人の手……順序を覚えている事に気が付き、驚いているようだ。

「覚えたの!?」
「隊長である大佐が不在の場合──隊長許可書に中佐として『代行印』を押したり、管理日誌を各管理班で整理してここに積むわけだろ? 達也だけじゃないよ。山中の兄さんも、ジョイも、経理班の洋子姉さんも。この『意味不明な大佐感覚の書類山』に『挑まざる得なかった』のだから。だから、俺が『毎朝』、一番にここの山を直していたら、覚えただけだよ」

「そうなの!?」
「そうだったのかよ!」

「……相変わらずだな。お前達」

 葉月と達也が、毎度の如く双子並みに揃った反応をしたので、隼人は苦笑いをこぼした。
 だが、そのままバインダーの山を淡々と直す。
 葉月も何故か? 妙に力んだ様子で必死に直している。

「? そんなにムキになって直さなくても……」

 達也のように食ってかかって『言い合う気力』は、もうないのだが──やはり、達也が言うように、そんなに真剣に『以前の体勢』を立て直して、今更、何の意味があるのか? 流石に、隼人も首を傾げた。

「だから、これから『忙しくなる』の!」
「忙しくなる? お前、連隊長室に行ってきたのか?」
「まだ時間が早いでしょ。始業時間をすぎたら、真っ先に行ってくるわよ」
「だったら──それまで、ゆっくりしていたらいいだろう? 荷物をまとめるなり……」

 隼人が諦め加減に、力無くそう言うと──やっと葉月が、隼人に向き直る。

「これ、目を通しておいて」
「な、なんだよ?」

 彼女が、隼人の胸元に書類束を突きつけてきた。
 隼人も首を傾げながら受け取り、早速、内容を確認しようと、めくってみる。

「!?」

 最初の『議題』のタイトルを見て『何事だ』と、隼人が眉をひそめたその時。

「テッド、丁度良かったわ。こっちに来て」
「は、はい……?」

 三人の日本人先輩が言い合っていた内容が、なにであるか把握出来なくとも、なんとなく『不穏な空気』を感じ取ったまま黙って控えていたテッドを、葉月が呼び寄せた。

 テッドが大佐席に向かった。

「それから、『澤村中佐』──空軍管理の男の子を、暫く、借りたいのだけれど」
「は? どういう事で?」

 書類も気になるが、まだ最初を読まない内に、葉月が何かを言い出した。

「あなたが見た範囲で、『これは有望』と見定めている隊員がいたら、推薦して」
「? 何故?」
「総合管理班からは、迷うことなく『ラングラー大尉』──テッドを選んだから、空軍管理班からは、澤村中佐が選んでと言っているの」
「??」

「なんだよ! お前、何をしようとしているんだよ! あまりの『勝手』はこれ以上、許さないし、従う『義務』も、もうないと思うけどなっ!」

 達也の真っ向からの抗議ではあったが、今度の葉月はシラッとした様子で、受け流そうとしていた。
 その顔が、『いつもの大佐嬢』の顔であったのだが……。

(なんだ? いったい──)

 もう去ろうと決めている彼女が、『最後の指示』として何かをさせようとしているようだが、それがなんなのか? 隼人にも見当がつかない。

 だが、ついに葉月が真相を明かす。

 

「澤村中佐が選んだ空軍管理官を、『私の』甲板訓練の『サポーター』にするわ。つまり細川中将室でいえば、『梶川少佐』みたいな訓練補佐官ね」
「え!?」

「さらに、テッド──『佐官試験』を受けて、少佐を目指してもらうわ」
「はい!?」

「それで、テッドにはこれから、同じく──中佐達の手が回らない時……いえ、暫くは、大佐付き添いをしてもらうわ。まぁ、言ってみれば『準側近』って所であり、『補佐官候補』として、頑張ってもらいたいわけ」
「はぁ!? なんだよ、葉月! それ!!」
「達也、あなたもね。陸部の補佐官候補にデビー……えっとワグナー少佐をと考えているの。先輩として『鍛え直し』てちょうだい。それと、テッドの指導をお願いするわ」

 葉月は目の前にいる三人の男に、それぞれ言い渡すと、男達の『呆然』とした反応もなんのその──当たり前の事を告げたかのような何食わぬ顔で、また、バインダーの山を積み直し始める。

 やっと気が戻ったのは、隼人だった。

「ちょっと待った! 葉月、今──『私の』と言ったな!?」
「言ったわよ」

 隼人が食いついても、今度は葉月の方が淡々と整理の手を動かし続けている。

「だって。これから『訓練総監代理』になって、甲板で指示を出す役職に『させられた』んだもの。細川総監のように、側で『システム』をサポートしてくれる付き添いが必要だと思わない?」
「葉月……お前!?」

 今後の傾向を、さも当たり前のように告げた『彼女』に、隼人は再度、絶句……。
 当然、達也も唖然としたままだった。

 そう──やっと『彼女が軍人としての生活を選んだ』と判ったのだ。
 それが……『義兄と別れてきた』と言う意味である事……。
 だけれども、その『別れてきた』という意味を、二人の中佐は、信じる事が出来なくて、言葉を失うしかなかったのだ。

 そこで、やっと……一瞬だけ、葉月が気後れした表情を見せたが、本当に一瞬だった。
 彼女は、机の引き出しを開けると、カードケースを取りだし、そこから紙切れを引き出していた。
 そして、それを中佐二人の後ろに控え、戸惑っているテッドに差し向ける。

 よく見ると、カフェテリアのチケットだ。

「テッド……詳しくは後ほど、中佐達と話し合った後に、他の隊員と揃えて報告するわ……」
「え、ええ……」
「悪いけど──朝、起きてから何も食べずにここに来たの。カフェテリアがもう開いていると思うのだけれど、軽く食べられる物を見繕ってきてくれる?」
「え? ……あの……」
「これ、カフェのチケット……出来たら、サンドウィッチが良いわ。よろしくね」
「あ、はい! 解りました。行ってきます!」

 テッドはそれを輝く笑顔で受け取って、すぐさま大佐室を出て行った。
 その様子を達也が訝しそうに見送っていた。

 葉月が中佐二人と、じっくり話し合いたい為に、体良くテッドを退けた意味が含まれている事も……。
 笑顔でそれを受け取って従ったテッドが、その『退けられた』意味が通じている、だけれども『大佐嬢が、物を頼んでくれた』事に喜びを感じて出て行った事も……それは、隼人にも達也にも判ったのだが。
 ただ、『しっくり』こない事が、ひとつ──。
 その『しっくり』こないことを、すぐに口にしたのは達也。

「珍しいじゃないかよ。お前が、後輩の男を『小間事』で遣うって……」
「これから、一緒に付き添ってもらうなら、これぐらい遠慮なく言える『部下、仲間』であった方が良いでしょう?」
「そりゃ……そうだけど」

「……」

 隼人としても、葉月のその『変化』から──後輩の一人を『補佐官候補』として育てようという心意気は『本物だ』と、確信した。
 そうでなければ今までの彼女なら、たとえ後輩が『大佐の為に、僕がやります』と気を利かせても『要らない、やならなくて良い、私が一人でする』などという態度をとっていたはずなのだ。
 その証拠が、達也が始めた『大佐室のお茶入れ』だった。この時も彼女は気が進まない顔をずっとしていたぐらい。
 それを……軽く『朝メシ、買ってこい』と言えるようになった『変化』に、達也が戸惑っているのが、隼人にも判る。

 ただ……隼人はその『変化』から確信出来た『彼女の帰還』、イコール『愛する義兄との別れ』が、どうしても『信じられなかった』のだ。
 それは達也も一緒のようで、何かをまだ考えあぐねて様子をうかがっている隼人が、何も言い出さない様子をただ眺めているだけだった。

 その間も、葉月は淡々とバインダーを積み直しているだけ。
 しかし、その三人の『沈黙』は長く続かなかった。
 バインダーを直していた、葉月の手元が止まった。

 そして、彼女がフッと、大佐席前に肩を並べてたたずんでいる二人に、真っ直ぐに向き直る。

「──中佐方には、お詫び致します」

『!』

 葉月の急な……他人行儀な、それでいて、今までにない荘厳にも感じられる『上司』としての口調に、隼人と達也は揃って硬直してしまっていた。

「確かに今、私は『戻ってきました』。戻ってきたと言う事は『今後』をここでやっていくと言う『意志』があるからです」

『戻る意志で帰ってきた!』

 隼人はおろか、達也の脳裏にも、その葉月の『意志』とやらの言葉が信じられないぐらい衝撃的に走っただろう。
 望んでいた事でありながら……でも! 『もう、ありえない』と思っていたのだから!
 だが、目の前の彼女は、本当に今までにない妙な威厳を携えたような? 触れられないような高尚ささえ感じられるような雰囲気を醸し出してる。
 少なくとも、隼人はそう感じてしまい……達也も同じかどうか判らないが、そんな『他人行儀な彼女』に、先程までのような『同僚たる突っ込み』が既に出来ない状態に陥っている様に見える。

 そんな以前の『大佐嬢』ではなさそうな『彼女』が、憂う眼差しを落として続けた。

「──『意志』は、あります。ただ……大事なお客様をお迎えしている日に、なおかつ、そのお客様をおもてなししている『受け入れ隊』を引き受けている部隊の『隊長』でありながら、『私事』で、『職務放棄した隊長としての責任』を取る覚悟です」

「覚悟って──!?」

 他人行儀なままで告げた葉月の一言に、すぐに驚いたのは達也だったが……隼人は違う。

「当然だな──。連隊長が上手く誤魔化してくれているとはいえ、大佐たる者が職務放棄。最悪『懲戒免職』になるかもしれないし、最低限『隊長解任』もしくは、『降格処分』でもなりかねない」
「兄さん!?」

 冷淡に言い切った隼人に、また達也が信じられない顔を向けてきた。
 しかし葉月は──そんな容赦ない隼人の判断を、真っ向から聞き入れていて、落ち着いていた。
 そんな彼女の『落ち着き加減』……その眼差しに、ドキリとしたのは何故か、隼人の方だった。

 何故だろう?
 そんな葉月の落ち着きが、とてもしっとりとしていて……今までには感じられなかった類の、匂う高き気品と威厳みたいな物を感じたのだ。
 いままでの、どこか、なにかが尖っていて──アンバランスで危ういばかりの『お嬢ちゃん』ではなくなっている気がした?

 ほんの半月ほど、離れていた間に?
 こんなに変わる物だろうか?
 彼女はこんなに落ち着いていただろうか?

 それに憂いている眼差し……。

 ──こんなに綺麗だっただろうか?──

 隼人はふと、そんな彼女を、自分が抱きしめ続けてきた女性ではないように、見入ってしまっていたのだ。
 『綺麗』と言っても『女性的な綺麗』ではない。
 もっと中性的な色合いでみる人しての『綺麗だ』と隼人は感じていると……その彼女が、ふっと呟き始める。

「……ごもっとも。当然でしょう。覚悟は出来ています」
「そうですか……大佐。もし、そうなりましたら……残念です」
「運良く、降格処分無しの隊長解任で留まったとしても、おそらく『転属』となるでしょうね」
「……解りました。その際は、先程うかがった『大佐嬢の最後の指示』──わたくし、『澤村』が引き受けます。補佐官候補の育成と……この『空軍教育強化』の計画を……必ず!」

 葉月に渡された書類を……隼人は彼女に、差し向けた。

「ちょっと、待ってくれ! 二人とも……!」

 処分を覚悟して帰ってきたという葉月。
 そして──それは『当然だ』と、すんなりと受け止めようとしている隼人。

 再会するなり『もっとも最悪の事態』を、理解し受け止め合った二人の覚悟を、達也は飲み込めず、それこそ何とか阻止しようとしていたのだが。

「有り難う──隼人さん。いいえ……流石、澤村中佐ね……」
「!」
「!」

 葉月が、この上なく嬉しそうに微笑んだ。
 その輝く笑顔には、もう……何も憂いという陰りは伺えず、またもや隼人と達也は揃って、惚けてしまいそうになった程、硬直してしまう。

「達也──海野中佐も、有り難う。あなたの事だから、すごく怒っていると思うのだけれど、でも、一生懸命、ここを誰よりも守ってくれていたと思うの」
「いや、俺は……そのっ……」
「新しい隊長が、もし──赴任してきても、私と同じ指示を出すだろうと信じているわ。でも、私の指示以上の提案がでても今後の四中隊の為になることなら、その隊長の指示に従って欲しいし。為にならない事なら、達也が一番に阻止してくれそうね……頼んだわよ」
「葉月……!?」

 彼女は、達也にも達観したような清々しい笑顔を向けたのだが、次には、急に笑顔を消し、表情を引き締めたのだ。
 そして、大佐席を離れた。

「連隊長の所へ行ってきますので……」

 葉月が覚悟を決めた凛とした顔で、大佐室を出て行こうと、自動ドアへと向かっていく……。

「いってらっしゃい」

 隼人はそれを静かに見送ろうとした。
 隣の達也は、拳を握って、事態を受け止め難そうに……葉月を見送ろうとはしなかったが、止めようともしない。

「行ってきます」

 葉月が、フッとまた、あの憂う眼差しを肩越しに残し──大佐室を再度、去ろうとしていた。

 彼女が出て行った。

 中佐二人、置き去りにされたように、静かな沈黙の中、揃ってたたずむ──大佐嬢が去った扉を見つめたまま。
 彼女が戻ってきた。
 だけれども『大きな代償』を背負っての帰還。
 もしかすると、結局──彼女は『ここ』には戻ってこられないのかもしれない。

「葉月──!」

 達也が、やはり──受け入れられないのか、彼女を追いかけようと飛び出す。

 だが──! その肩が力強く、後ろに引き戻された!

「なんだよ! 離せよ、兄さん! 偉そうに、なんでも淡々と物事を整然とした方向に判断して受け止めるのが当たり前みたいにするな! 俺は、違う!! 処分を受けるのが、妥当であっても、俺は、葉月を取り返す!!!」
「うるさい! 解っている!!」
「!!」

 正しき秩序が正解とばかりに葉月を見送った隼人の冷淡さに、業を煮やした達也。
 だが──! それを『黙れ』と静かに言い放った隼人の形相を目にして、達也が黙り込んでしまった。
 隼人自身も、自分が咄嗟に達也を止め、どのような『必死の本心』を顔に刻んだかは判らない……が、達也が非常に恐れたように黙ったのは確かだった。

「俺に……行かせてくれ」
「……バカじゃないか!? そんな気持ちがあるなら、さっさと行けよ!」
「ああ……」

 今度は達也に突き飛ばされていた。
 隼人は、今度こそ──我を忘れて、大佐室を飛び出していた!

 本部前の廊下に飛び出すと、葉月が高官棟の連絡通路へと向かう道筋へと……凛とした背を向けて歩いているのが遠くに見えた。

 追いかけようと、隼人の足は、自然と前に出たのに……。
 何故か、その彼女の凛とした背筋から漂ってくる『新しい匂い』に、足元が固まった。

 (もう──俺が知っている彼女じゃない……?)

 彼女の背が、徐々に小さく、遠ざかっていく。
 それは……隼人が自分のプライドを捨てて、彼女を手放す『覚悟』をした時には感じる事がなかった、『予想外の恐怖』に思えた!

 これが? 隼人が決した果てに、出るはずの『結果』なのだろうか?

 彼女が『隼人の予想以上』の、手に届かないような遠くに行ってしまうような?
 そんな思いもしなかった『驚愕』に、隼人の足は固まったままだった。

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