・・Ocean Bright・・ ◆光と影の羊達◆

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1.処分

「葉月!」
「──?」

 颯爽と前へと進んでいた彼女の背に、やっと隼人は追いつき呼び止めていた。

「なに?」

 その平坦な表情は……職場での彼女のいつもの顔。
 それは変わらないようだ。

「……」
「……」

 暫く、お互いの視線があっただけで──沈黙が続いた。
 そして、向き合う距離すらも──そこに空気の壁があるように……ずっとお互いに踏み込めないような『遠さ』を感じたのだろうか?
 ある一定の隙間は、以前よりもひんやりとしていた。
 彼女がそう隼人に思わせるのか? いや、隼人が既に自身でそう思うようになってしまったのかは解らない。

 その一定の距離感で、暫く見つめ合う事しか出来なかった。

 やっと言葉が出たのは、隼人の方だ。

「ほ、本当に──これで良かったのか? お前……小さい頃からずっと願っていた『生活』を、諦めて──」
「諦める?」

 隼人の一言に、葉月が一瞬だけ訝しそうに首を傾げたのだが、次には険しい眼差しをした。

「諦めたんじゃなくて、理解したのよ」
「理解……?」
「それこそが『既に現実ではない』と……ね。私が『生きてきた場所』が何処なのか、何から目を逸らしていたのか……知っているでしょ? 勿論……つい最近までの私を見ていたら『もう、望みはない。葉月は夢に喰われた』と、貴方は判断したと思うけれど……」
「!」
「目が覚めたわ──」

 葉月のそのれっきとした言葉に、隼人の脳髄にまた電気が走ったように、身体が固まった。

「じゃぁ……葉月。お前……」

そして、そこでやっと──視線が『いつもの感触』で絡み合った。

 静かに……。
 離れていた時間を伝え合うような──そんな波長を、隼人は感じた。
 彼女も逸らさないし、隼人から逃げない。

 どこか彼女の静かな眼差しは、冷たく燃えているように見える。
 そう──彼女が何か『戦いを決した時』に、良く見せていたあの毅然とした眼差しだった。

 だが、その伝え合う強さも僅かの事だった。

「有り難う──」
「え?」

 葉月の目元が緩む。
 静かにゆっくりと清々しい笑顔が、彼女の顔に広がった。
 そして、頬にそっと赤みが差し、輝く唇が柔らかい形を描き始める。
 ガラス玉の茶色い瞳も、隼人が愛しているままに透き通り、煌めき始めた。

「──」

 隼人はその彼女を見て、身体中の全てに呪文をかけられたように動けなくなる。
 まるで、そこに神々しい何かが現れたかのようで、隼人が知っている『どうしようもなく手間がかかる女の子が居る』のではなくなっていた。

「あ、有り難うって……」

 やっと何とか発した言葉も──そこで止まってしまった。
 彼女がその清々しい笑顔で隼人を見つめたままだから……余計に。

「私を生き返らせてくれて、有り難う」
「!」
「私の中で、『光と影』が融合したの。それが隼人さんが私に『理解して欲しい事』だったのでしょう?」
「──生き返った……融合した……!」

 葉月が言っている意味が何の事であるか判り、隼人は驚いて葉月を見つめ返した。

「多くは言わないわ。言えば……なにもかも、貴方に許して欲しいという言い訳なるから」
「許して欲しい? 違う──だから、俺の方が……」
「もう、何も言わないで」

 また先日、再会した時のような『私が悪い、俺が突き放したから悪い』という堂々巡りになる前に、葉月が言葉を遮る。
 隼人も同じ事を言い合う繰り返しなど、既に終わった事に等しいので黙り込んだ。

「でも、これだけは言わせて……?」
「なに?」

 葉月が、また……なんともいえない、やんわりとした優雅な微笑みを広げる。

「これからの──私を見て……。よければね」
「……これからの」
「そうね──目標は……」
「目標?」

 何故か、葉月が可笑しそうに笑った。

「そう、とりあえずの目標は──『自分でドレスを選ぶ』、かしら?」
「はぁ?」

 いつものあの悪戯めいた微笑み。
 また訳の分からない事を『言い出した』と思った隼人は、眉をひそめる。
 それにもまた、葉月が微笑んだ。

「もう……兄様達に生かしてもらうのではないって事よ」
「なるほど?」

 解ったような? 解らないような……隼人が目をしばたかせながら、首を傾げる。
 そんな隼人を見て、葉月はただ微笑んでいたのだが──また、急にあの『影ある眼差し』を、隼人がドキリとするぐらいの麗しさで伏せたのだ。
 その妙に綺麗に見える影と、柔らかな微笑み。
 今は、誰もその彼女には触れられないような荘厳さに、どうも隼人は近寄れずにいる。

「もう……自分で選ぶ。『生き返った』んだから……。ドレスはひとつのたとえだけどね。『自分で選ぶ』という事、それを見届けて欲しい……」
「……俺に?」
「一度は消えようとした私だけれど。そう、私が何を選んで生きていこうとするのかを」

 そこで一度、葉月が何かを躊躇うように言葉を止め──そして、隼人を見据える。

「……願わくば……」

 彼女が恥じ入るように顔を俯かせたが、その『願わくば』という声は気兼ねしているようで、消え入りそうだった。
 まるで、隼人を恐れている罪人のように──。

 そんな彼女を見て、隼人の胸は貫かれる。
 自分が彼女に差し向けた『課題』は、それほどに彼女にとっては『痛さを伴う物』であった事を!
 今の彼女の顔を見て、思った。
 彼女は『罪』について、いかほど自分を責めて乗り越えてきたかを……!

 『あるべき姿』にさせる為には『痛さは当然』と思っていたが──こんな顔をさせる為に、隼人は彼女を見送ったのではなかったのに。
 でも、結局はこれが『結果』であったのだと……隼人は言葉を失った。

「やっぱり──そんなの虫が良すぎたわね。いいの……聞かなかった事にして」
「いや……そうではなくて」
「いいのよ──私がした事は、貴方に限らず……今まで出会ってきた誰に対しても、酷い物だったのかもしれないのだから……。確かに私は酷い目に遭った事で、世の中に、出会う人々に『酷い目に遭ったのだから、私のやりたいように大目に見て欲しい』などと、甘えていたと思うわ。それで、『生き難い』と逃げたくなる事も『許される事』だと。でも──それこそも『間違い』だったわね」
「!」
「生き難い……でも、ここで生きていく。傷つけ、裏切った姿で、償っていくわ……」

 静かに伏せられた眼差しを陰らせたまま、彼女が背を向けて歩き出した。

「俺は……」

 そんな葉月を引き留める事も出来ない程──隼人は『愕然』としていた。

 確かに……彼女が帰ってきたからとて、もう何もかも『遅すぎた』気がするのだ。
 義兄との決着も、自分との『復縁』も──結局、こうして彼女が戻ってきてみて、隼人が思ったのは『葉月は俺の胸には帰ってこない』だった。
 いや……『俺はお前を許しているよ、戻ってきて欲しい』と言えそうな気がずっとしていたに──。
 こうして帰ってきた彼女を見るにつれ、どういうわけか……『やり直そう、今日から直ぐに』と言えそうになかった。

 これは、隼人としては『予想外の自分』だった。
 葉月が帰ってくる事を『信じていた予想』は、『帰ってこない結果』となったはずなのに……『予想通りに帰ってきた』事は『予想外の自分と彼女』を生み出しているのだ。

 彼女は『個人は独り』であるという意味を、心に融合させ帰ってきた。
 そのしなやかな様は……何処でも見た事もない、隼人の予想を超える『姿』だった。

 隼人が『予想』をしていたのは……やはり『あのお嬢ちゃん』であるだけの彼女が戻ってくるだけだったのだ。
 予想というものは、当たっていたとしても──結果とは異なる事を、隼人は身をもって知った様な気がした!

 俺が『許せば』──彼女を許してやれば、それで全てが収まると思っていたのも『隼人のエゴ』だったのかもしれない。
 そうじゃないか? 恋人として愛していた女性が、そんな事で甘んじる人間ではない事を──何故、そこは予想出来なかった?
 隼人が許すと言えば、言う程──彼女は『自分の罪』を噛みしめて、苦しむだけではないか!?

 葉月をここまで身も心も削らせてでも痛い思いをさせて、『あるべき姿』へと厳しく手放した結果──彼女がこんなにもあるべき姿に痛さを通り越して遂げてきたのも、隼人が望んだ事なのに。
 『許してあげる』? なんて傲慢な言葉なのだろうか!

 葉月が静かに去っていく中──隼人は拳を握りしめた。
 彼女の背が……また遠のいていく。

『葉月──!』

 それは口から出た叫びではなかった。
 心で叫んだまま──隼人は、葉月に向かって今度は一直線に追いかけていた!

 気配を感じたのか、葉月が栗毛の毛先を揺らしながら──肩越しに振り返った。
 だが──その時にはもう、隼人の胸の中だ!

「──!? な、なに!?」
「葉月──許して欲しいのは、俺の方じゃないか」
「!? ど、どうして??」
「解ったよ、解った──。お前の好きにしたらいい……俺、見ているから。それでいいだろう?」
「隼人……さん?」
「それで……いいだろう?」

 彼女が困った顔をしている。
 だが、そんな隼人の腕をほどこうとはせず……でも、身体は硬く、以前のようには預けてはくれない。
 でも──隼人は葉月を固く抱きしめたまま、彼女の肩先で涙を堪えていた。

 泣きたいなんて──。
 それも予想外ではないか?

 だが彼女は、もう泣いていた。
 隼人の腕に頬を埋めてくれたが、それは涙を抑える為に顔を伏せただけの仕草にしか見えない。
 だけれども、そのうちに──以前もそうしてくれていたように、懐かしい手つきで、隼人の腕を愛おしそうに撫でている──。
 しかし、その慣れたような懐かしい仕草をしている事に気が付いたのか……隼人が心の何処かで『安心』しようとする前に、葉月はそっとその手を除けてしまったのだ。

「だめ……だめなの。解るでしょう? 離して……」
「ああ、解っている」
「お願い……」
「ああ……仕方がない。そう……俺が……。解っているよ」
「お願い……もう……」

 何かを言葉にすれば──それも『罪』になるだろうとばかりに、葉月の声は涙にかき消されていく。
 そんな彼女の栗毛の頭を、隼人はただ……何処にも、もう行かせたりしないなんて、遅い意志である情けなさを噛みしめながら、でも──だからこそ、今更ながらに強く引き寄せていた。

『解っている……何もかも』

 それでも、そんな栗毛のウサギさんを抱きしめて。
 何度、彼女の耳元で囁いただろう?
 彼女も『抱きしめてもらう資格はないから、離して欲しい』と言う口とは裏腹に、隼人の腕の中に収まったまま──暫く、泣いていた。

 この暖かさと柔らかさの心地良さ……久しぶりで、手放しがたい。
 少なくとも隼人は。そして──彼女も?

「行かなくちゃ──」
「──! 葉月……」

 帰ってきたウサギさんは、また、するりと隼人の腕から跳ねていく……。

 傍で見ている。
 もう──それしか許されないのだろう。

 そうして彼女は、暫くは……自分を罪人として自身を責めながら、許さないだろう。
 そして、彼女に罪人の烙印を押した男の罪は……許しはどう得れば良いのだろうか?

 

 彼女の首筋からは、どんな香りも漂わなくなっていた。
 もう──『カボティーヌ』の香りさえも……。 

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 赤い薔薇の瑞々しい香り──。
 窓辺でベルベットのように輝く花びら。

 彼が毎朝──この部屋に入ってすることは、その窓辺の薔薇に触る事。
 いや? アリスには『挨拶』に見えた。

「聞いちゃった。ロイの愛しい人が誰なのか!」

 この金髪の男性の自宅で暮らすようになって、一週間ぐらい。
 その間、アリスは持ち前の明るさですっかり馴染んでしまっていた。

 立派な軍服を着込んでいる彼の背に、アリスはからかうように歩み寄ったのだが……その彼が薔薇の花びらを指の腹でそっとそっと撫でながら、静かに微笑んだ。

 その微笑み方──どうして? 好きで仕方がなかった男性に似ていて、アリスはドッキリしたのだ。
 同じ女性を……同じ年月想ってきた同士だから?
 そんな風に思ってしまった。
 それほど。彼と純一の憂う静かな笑顔が似ていたのだ。

「また、美穂がおしゃべりか? 『サッチ』だと……聞いたのか」
「うん……レイのお姉さんだって。素敵な人だったらしいわね。軍人で……」
「それで?」
「ロイが想っていたのに、サッチはジュンが大好きで──最後はジュンと結ばれました。ですって……? それだけよ」

 『それで?』と、ロイは微笑んでいたが、声はとても冷たい声だった。
 ロイの想い人だった──『以上』に何か聞いたのか?……と、言う意味が含まれているのをアリスは察していた。
 だから『それだけよ』と、とぼけていったのだが。

 ロイが可笑しそうに微笑みながら、クリスタルの花瓶から赤い薔薇を一本、抜き取った。
 振り返って、そこにいるアリスに差し出す。

「アリス──君は、賢い」
「どこが? それ、最近の口癖ね。もう、何度目? 私にそう言ったのは……」
「そう思うから、言っているのではないか。だから、何度でもいってあげよう。自分の事、学がないおばかさんだと思っているな?」
「そうじゃない。だから、こうして!」

 アリスは、この広々とした『連隊長室』にある、ゆったりとしているソファーに向かった。
 そこのテーブルにあるノートパソコン。
 美穂のお古を譲ってもらったのだ。
 ロイの提案だった。

『良かったら、勉強してみないか? 教える講師ならいくらでもいるし、俺ならいくらでも手配してやれる』

 アリスは、二つ返事で了解した。
 そんな気分だったのだ。

『だったら、パソコンを触れるようになりたい!』
『お安いご用だ──講座を開講してやろう』

 何か──自分のプラスになる事、そして暇を持てあまさないぐらいに『忙しくする』という事に没頭したい気持ちしかなかったから……。
 そう言う事で、アリスは『パソコン講座』の為に連隊長室に、毎日、来ている。

 その様に、『勉強』をしてるのだから、『学がないおばかさん』と言われても当然だと思っているのに……。
 目の前の綺麗な男性は、悠然と微笑んだまま──自分の論には自信満々と言った余裕が伺える。

 そのロイがサラッと差し出した薔薇を、アリスは受け取る。

「学がない事が『おばかさん』とは言い切れないぞ? 学があっても『状況判断』が出来るとは限らない。だが──アリスは生きていく上での、それが出来ている。自分に自信を持っても良いと思うな──」
「そ、そうかしら……? その状況判断が出来なかったから、私は『ここ』に居る事になったのではないの?」
「誰だって、『的確な判断』とやらを得るには、『経験をする』と言う得方も一つの通り道で、手段であるだけ──。と、思わないか? アリスは『運が良い』。その『考えるチャンス』の通り道を通る事が出来たのだから」
「そう言われたら、そうなのかもしれないけれど──」
「今からではないだろうか? なぁ?」

 ロイの麗しい青い眼差しに、アリスは頬を染めた。
 自分もかなり『美しい部類』だと自負していても──彼の麗しさには、なんだか照れてしまう。
 それに見抜かれている……『それだけよ』と、気遣って答えた事も、『それ以上』を知りたくても知ろうとしないアリスの心境も──。
 その点で、アリスは──目の前のにこやかだけれど、鋭すぎる金髪の男性の事は、まだ出会って間もないけれども『怖い人』と位置づけている。

 でも──ロイのその言葉で、またある人を思い出した。
 今度は、ロイとは違う、凍てつく金髪の男性。
 暖かい茶色の瞳を凍らせて鋭くて、でも……不思議と寛容な所があったお兄さん、ジュールを──。

『お前はバカだけど。基本は良く解っている……それすらない人間は結構いるモンだ。それは絶対に捨てるな』

 彼もロイと同じ事を言ってくれていた。
 その『私の良い所』を改めて、知ったようにも思える。

 こうして、知らない世界に来て、初めて……。

 

 それからアリスが望むまでもなく、ロイから『基地』へと連れて行く。

『どちら様──?』
『遠い親戚。フランスで暮らしているから、久しぶりに会ったんだ』

 ロイが連れている女性……『アリス』に、皆がとても目を見張った様子で視線を向けてくる。
 最初は戸惑ったが──。

(こんなに注目されるのって、久しぶり〜♪)

 連隊長が連れている『謎の美女』という噂が飛び交っていると、秘書室の男性達が、楽しそうにアリスに教えてくれる。
 週中には、アリスはすっかり楽しんで、堂々とした『ロイの親戚』を演じきっていた。

 それにロイと話すのも、だいぶ楽しくなってきた。
 彼は連隊長としてはとても怖い顔をするけれど……アリスと向かう時は気さくなお兄さんに変貌する。

 でも──仕事とプライベートの顔の変化も……有様は違えど、やっぱり『あの男と同類だ』とアリスは思わずにいられなかった。
 二人が『ライバル』という雰囲気が、良く理解する事が出来た程。

 そのロイの手配で、連隊長室の秘書達が入れ替わりで、アリスに『パソコンビキナー講座』を施してくれているのだ。
 そして、夕方からはロイの自宅で、ロイが自ら『日本語』を教えてくれている。
 そんな毎日。

(さぁ、パソコン……立ち上げておこう)

 もうすぐ始業時間だ。

 アリスをさらった栗毛の彼『リッキー』が、その『講師』を選んでくれていた。
 彼自身は忙しそうにしているし、ロイと違ってアリスに愛想良く話しかけてはくれない。
 にっこりとした挨拶のみ。
 アリスからすると、彼も『怖い』
 第一にして、アリスをさらった時の手際といい……さらえたと言う事は、あの時、駆けつけてくれたジュールを『制する事が出来た凄腕の男』という事になる!
 それに、こうして毎日、連隊長室にいると、彼の方がロイよりも慌ただしそうで、滅多に顔を見せない。
 その仕事をしている顔は『ジュール』に似ているようにも思えた。
 いわば──『仕事完璧主義』という奴だ。
 二人の何が違うといえば、リッキーの方が『怪しい笑顔』を保っている事。
 だから、彼のにっこり挨拶にも、アリスは構えてしまうぐらい。

 そんな人を察する感じ方をとっても──ロイは『君は賢い』などと、言ってくれる。

(今日は誰が教えてくれるのかしら〜?)

 秘書室の秘書の中でも、分かり易く、丁寧に──そして穏和に教えてくれるのは『水沢少佐』だった。
 それから、アリスが一番楽しみにしているのは、その少佐の奥さんである、綺麗な黒髪のお姉さん『真理』。
 お洒落の話から、アリスのちょっとした質問も上手に答えてくれて、まるで『美穂』といるような安心感があるのだ。
 ちょっと軽めの楽しいお話をするのなら、アリスと同年代のアメリカ人青年も、楽しい講師の一人。

 そんな予想を思い描きながら、『楽しくなってきた日々』の始まりに心を弾ませていた。
 すると、秘書室のドアが開いて、リッキーが現れたのだ。

(まさか……彼が?)

 だとしたら、『やりにくそうだわ』なんて、眉をひそめたのだが──。
 彼はなんだかちょっと狼狽えているように見える?
 ロイの将軍席に歩み寄ると、上司である彼にそっと耳打ちを……。そして、ロイもとても驚いた顔をしたのだ。
 しかも、何故かアリスの方をチラリと見た。 

「アリス──俺とこっちに来てくれないか?」
「いや。構わない──アリスはここにいさせて」
「ロイ……! しかし……」

『なに?』

 リッキーは、アリスを連隊長室から出したそうだったが、ロイは妙に硬い面持ちでリッキーの進言を却下したようだった。

「いい。俺が迎える」
「わ、解った……」

 リッキーが致し方なく折れたようで、そうして、ロイが自らこの部屋の大きくて立派な彫刻がされているドアに向かっていった。

(お客様──?)

 立ち上がったパソコンを目の前に、ソファーに座ったまま……アリスはそのドアを見つめていると、ロイが扉を大きく開いた。

「おはようございます。連隊長──」

『!』

 開いた扉から現れた軍服姿の女性が、扉を開けたロイに向けて、きっちりとした敬礼をする姿が──!
 その栗毛の軍服女性を見て、アリスの身体は急激に硬直した!!

(何故!?)

 彼女は……! 純一と一緒にイタリアへ行くのではなかったのか?
 もう会う事もないだろうし、さらに一番怖れていた『軍服の彼女』が、再度現れ、アリスの唇は少しばかり震えた。
 なのにロイは、目の前に現れた『栗毛の彼女』と向き合うなり、かなりしらけたような冷めた眼差しを差し向けていた。

「やっと来たか。それとも『戻ってこない』かと思ったぞ」
「ご迷惑をおかけ致しまして、返す言葉もございません」
「もう、そんなにかしこまらなくても良いだろう? 『軍人』ではなくなるんだからなぁ〜」

 呆れたような溜め息をこぼしたロイが、栗毛の彼女を部屋の中へ入れた。

(軍人ではなくなる……)

 ロイのその言葉に、アリスは『軍人としての最後の挨拶に来た』のだと思った。
 やはり、彼女は『黒猫ボス』を手に入れて、行ってしまうのだと──。

 箱根の別荘で、ふんわりとした甘い雰囲気を漂わせ、黒猫の彼を惑わせていた頼りなげな彼女。
 その彼女は今、アリスの目の前では、堅い軍服に身を包み凛としている涼しげな彼女。

 その落差にアリスは釘付けになっていた。

「!?」

 そんな彼女が、部屋に入るなり、ソファーにいる『金髪の女性』に気が付いて、とても驚いた顔!
 アリスは何故か、サッと顔を背けてしまった。

「兄様──!? 彼女……!」
「なんだ。知らなかったのか? 純一は何も言わなかったのか……」
「然るべき、頼れる所に預けたとしか聞いていないわよ!?」
「その『然るべき頼れる所』は、どうも『ここ』、俺の事らしい」
「……純兄様が!? ロイ兄様に頼んだの??」

 『信じられない』といった様子の彼女に、アリスはさらに身を縮こまらせて小さくなる気分。

「ふふ──流石の『バカ猫』も、今回は『俺の提案』を『助け船』と思って、頼ってくれたみたいでな〜ぁ」
「……そ、そう」

 わざとだろうか?
 ロイはアリスにも解るように、急にフランス語で話し始めた。
 彼女も気が付いたようで、戸惑いながらも、ロイに合わせた応対。

「そりゃ、困るわなぁ〜? 『本命の女』と『愛人』が鉢あってしまうような状況まで持ち込んでしまった『バカ猫』だからなー。不甲斐なく思って、今頃、また勝手に一人で苦しんでいる事だろうよー?」
「……そ、そうね?」

 ロイは嫌みたらしく、まるで彼女を苛めるようにニヤニヤと突きつけていた。
 彼女もやや戸惑っている様だが、とても落ち着いていて、無表情だった。

(ジュンと一緒にいた妹みたいな女性……。同一人物には見えないわ……)

 その落ち着いた冷たい横顔は、アリスが初めて彼女を目にした時に着ていた『白い正装姿』だった彼女と同じで、『青年』みたいな顔だった。
 それに──その無表情さは、リッキーを上回る落ち着きに見えた。
 どことなく……あの徹底しているジュールの顔つきを思い起こさせる程の……。

 そんな彼女が、アリスがいる事に驚きはしても──『ともあれ』といったように、連隊長席に座ったロイと向き合った。

「御園大佐──残念だ。大任を放って、お前は『我が事』の為に、全てを放棄した事……。あれだけの『フライト』を成功させてくれた後だけに……本当に」

 ロイがキッと座った姿勢から、規律正しくたたずんでいる彼女を、冷えた青い眼差しで見上げる。

「仰る通りです。覚悟をしております」
「覚悟? そんな物は、もう必要はない。お前は退官する。誰が責めようと、けなされようと、そんな声を聞く事もなく、聞こえる事もない『別世界』にいってしまうのだからな!」

 ロイの責めるような声は、最後には険しくなり──彼はとても悔しそうな顔をしていた。
 側にいるリッキーは、何も言わないけれども、ロイとは違って、残念そうな哀しい顔をしている。
 だが、彼女は──そんな『目上の男性達』の顔を見ても、淡々と微動だにせず、落ち着き払っていた。

 それを見て、なんだか、アリスはやはり彼女の妙に『堂々』としている様に、恐ろしさを感じてしまっていた。
 それ程、年齢も変わらない同じ女性なのに?
 彼女の凍てつくような『強固さ』みたいな雰囲気が……女性らしくないから余計に。

「いいえ……連隊長」

 そんな彼女が静かに呟いた。
 そして──そっと右手が、敬礼をしたかと思うと……。

「わたくし、御園は──どのような処分も受ける覚悟でございます!」
「はぁ!?」
「レ、レイ!?」

 堂々と胸を張った敬礼で──彼女は、そう言い放っていた!
 二人の男性の面食らった顔。
 そして、沈黙が流れた──。

「降格、解任、転属──どの処分でも結構です。最悪、懲戒免職とあらば、それも最後の責任として聞き届けに参りました」
「……待て? 懲戒免職にすれば、お前は正直『自由』になれるんだぞ? それを望んできたのか?」
「いや、レイ! もしかして? 降格と転属の場合は、軍人を続けるって事だよ!?」

 男性二人の狼狽え方。
 やはり彼女の方が落ち着いていて、端で見ているアリスでも唖然としてしまった。

「懲戒免職となりましたら……鎌倉か、両親が住まうフロリダに帰ります。ですが……出来ましたら、降格、転属で収めていだけましたら幸いです」
「なに!? お前……」
「レイ!? まさか──!?」

 さらに二人の男性が、驚き──最後には茫然といった様子で黙り込んでしまった。

「自分がした『無責任』な有様を自覚しております。ですが──続けさせて下さい! 『ここ』で生きる事を! 処分は受けます。無官になっても構いません。二等兵からでも、『やり直す』覚悟は出来ております!」

 連隊長室に、シンとした空気が流れる。
 時間が止まったようだった。

 だが、直ぐにロイが空気を激しく、揺るがせた!

「この──馬鹿者!!!」

(ひぇー!)

 思わず、アリスが耳を塞いでのけぞった程!
 あのロイが、もの凄い形相で怒鳴ったのだ!
 しかし、彼がそこまで怒鳴った先には……

『あ!』

 リッキーのそんな声が聞こえたと同時に、『パシン』という乾いた音が連隊長室に響いた。
 栗毛の彼女の顔が、ロイの手先に叩かれ、彼女がフッとよろめいた。

 さすがにリッキーも息をのんで固まっている。
 当然……アリスもだ。

 彼女が頬を押さえ、ゆらり……と、ロイに向き直った。
 今度、彼女の栗毛の隙間から見えた瞳は、やっと熱帯びたように潤んでいたのだ。

「──二回目ね……兄様に、本気で殴られたの」
「今度も、後悔はしていない」

 二人が見つめ合ったまま──。
 でも、お互いに何か感極まったのか泣きそうな顔をしていた。
 いや……彼女の方は、既に涙を浮かべていた。

「……あの時は痛くなかったわ。でも……今度は……いた……い」
「葉月……」
「今頃……痛いわ。ごめんなさい……ロイ兄様」
「お前──」

 とても威風堂々といった『女軍人』の風貌だった彼女が、しおらしい様で、眼差しを伏せている。
 そして、ロイも……今にも彼女を抱きしめたそうな、優しいまでの哀しい眼差しで彼女を見つめていた。

 だが、ロイはその様を抑えるかのように、金髪をかきあげながら、再度、連隊長の椅子に座りこむ。
 今度、彼女を見上げたロイの眼差しは、既に『冷ややかな連隊長』に戻っていた。
 そして、彼女も──頬を赤くしたまま、凛とした姿勢に直った。

「……なんだ? では御園大佐の気が済む『処分』とやらを出せばいいのか?」
「それが、連隊長の『判断』ならば──」
「ほう?」

 途端にロイが、白けた眼差しで彼女を黙って見据えた。

「そうだなー。お前が職務放棄をした後、部下達は『大佐がいなくなった』なんて気が付かない程に滞りなく、使命を果たした。『隊長』が居なくても『動く』とは、見事にしつけたなー。それは、褒めよう」
「有り難うございます」
「お前のその『部下』を動かせる『信頼関係』は見事だと思えば、思う程──お前が『それ』を捨てた事は、非常に残念だったなぁー」
「確かに……返す言葉がありません」
「任務に支障がでなかったのは幸いであったが、放棄は放棄だ。騒ぎにも噂にもなってはいないがね──」
「出勤いたしましたら、早出で出てきていたある大尉に『機体急降下後の体調不良で、鎌倉に養生の為に帰省していた』事を心配する言葉が出てきまして……連隊長の『お計らいだ』とすぐに判りました。ご迷惑おかけ致しました」
「ま、騒ぎになれば──どのような処分で済むか、『判るな』」
「──」

 嫌味な言い方で彼女をからかっているようにも見えたロイの青い瞳が、冷たく揺らぐ。
 まるで──彼女から何かを探るように。
 しかも、その『捜し物』の在処も、『形』も判っているのに、わざと彼女を試すような眼差しだ。

 そのロイの突き刺すような眼差しを、真っ向から静かに受け止めている彼女が、淡々と応え始める。

「中隊長の解任は、免れませんでしょう」
「甘いな。そんな『解任大佐』を今後はどこで使うのだ? ただでさえ、お前は『特異形体』でいさせてもらっている『最年少大佐』だからな? ここであっての『大佐』なんだからなー?」
「では、解任の上に『降格』ですね」
「だな──中佐に落としても、さて……どこへ転属させようか? お前が『転属』と来たら、『札付き』でも『是非』という部署は沢山あるだろうな〜?」
「……お任せ致します」
「ほぅ? では、お前は『コックピット』に逆戻りか?」
「……」

 彼女が困ったように、黙り込んでしまった。

「──すべて『お望み通り』ではないか? 『葉月』?」
「いえ……それは」
「お前はコックピットを完全ではなくとも降ろされ、『甲板指揮』への移行を指示されたばかり。その『訓練監督』など、望んではいまい。では、今回、お前を『解任、降格、転属』いずれにしても、そうとなればこの『指示』は無効になるのではないか?」
「そう言う事に、なりますでしょうか……」
「ほほーぅ、では……班室への降格としたとしたら? これはこれは、お前は『重任』から解放って訳かい? 楽になるわけだ? 昔のように危険も顧みない無謀なパイロットなら、自己以外は責任など何処にもない。中隊の後輩や部下達の事など、なにも考えなくて済むわけだ。そりゃ、『お望みしたいところ』なわけだ?」
「……」

 ロイの嫌みたらしい挑発的な微笑み。
 それを困ったような顔で、でも……何も言い返す言葉もなさそうな彼女が暫く向き合ったままだった。

 ところが! その静かな間を引き裂くように、ロイが『バン!』と机に両手をついて、再度立ち上がる!

「ああ、もどしてやろうじゃないか!? 血を吐くまで、コックピットに乗っていられる『防衛最前線』に放り込んでやるぞ!! もう、俺の『愛弟子』である苦労して育て上げてきた『御園大佐』なんて、捨ててやる!!」

 そのロイの形相が、また険しく彼女に詰め寄った!!

「どうなんだ? 『葉月』!」
「……」
「──俺が言いたい事が、判っているなら。言ってみろ!!!」
「に、兄様……よろしいの?」

 『ロイの言いたい事』──それが先程、ロイが『彼女から捜していた形』で、彼女はロイが望む『形』を解っているようだった。
 ロイはそれを彼女に言わそうとしているのだ。

『言え──!!』

 ロイのまくしたてに、彼女の瞳が真っ直ぐに輝き出す!

「れ、連隊長……」
「声が、小さい──!!」
「連隊長! 処分は当然とは思いますが……わたくしの『最大の処分』は、『重責を背負っての職務続行』だと思っております。また……願っております! どうか、このまま……」

 

「このまま、四中隊での大佐である事をお許し下さい!」

 

 彼女のキリッと張りのある透き通る声が、連隊長室に響き渡った。

「お前の命──もらったつもりでいいな?」
「はい。連隊長、あなたについていきます……今後も」

 そして、ロイが『にやり』と微笑んだ。
 その横で黙って見守っているかのようだったリッキーも、目を輝かせて嬉しそうな笑顔を浮かべている。

「良く言った。葉月──。まさに、その通りだ。やはり、お前は俺自慢の『秘蔵っ子』だな」
「兄様……本当に、今までの事……」
「いや……俺も、お前に良かれと思えばこそばかりで、『葉月』という女性の事は、お前側になって考えてあげる『寛大さ』が足りなさすぎたと反省している」
「そんな事……全部、私の自己的なものばかりだったのに」

 彼女が『女の子』の顔になって、顔を覆い、ふと泣き始めたのを、ロイが辛そうに見下ろしていた。

「……ヴァイオリンは……いいのか?」
「うん……。もう、いいの。でも──捨てずに済んだわ。これからもずっと私の傍らに在るだけで、良くなったの。それに今まで以上に『愛おしい』存在になったの……」
「そ、そうか……。そうなったのか……。そ、そうか……」

 ロイの顔が崩れ、彼の声も震えていた……。

「お帰り──葉月」
「お帰り……レイ」

 『軍人』として帰ってきた。
 それが解った彼等はとても嬉しそうで、軍人としての張りつめた『上下関係』は解かれ、親しい間柄で和み始める。
 それに、ロイもリッキーも彼女の側に行き、二人が交互に『お帰り』と抱きしめたりしているのだ。

(待って……? って事は……??)

 そんな彼等と彼女のやりとりを、ただ黙って見ている事しか出来なかったアリスの脳裏に『ある結果』が思い浮かんだ。
 そして……。

(って事は……?? ジュンは……!??)

 それを考えて、急に血が上りそうに身体が火照ってきた!!

「ちょっと、待ちなさいよ!!」
『!?』

 『あ、そうだった。彼女が居た』──と、ばかりに皆がアリスに振り返った。
 それにもカッとなる!!

「だったら……あなた『あそこまでしておいて』ジュンを捨てたわけ!?? 冗談じゃないわよ!!!!」
「!」

 叫んだアリスと、栗毛の彼女の視線がカチッと重なり合う。
 今度はロイとリッキーが妙に狼狽え、彼女はただ、驚いた顔をしていたのだが……。

「あの、兄様? 彼女をお借りしてもよろしい?」
「あ? ああ……そ、そうだな? お前がそれでよければ……?」

 また、あの落ち着き払った涼しげな彼女に戻り、その顔でアリスに向かって来た。

「一度──お話をしたかったの」
「勿論、こっちもよ!」

 ひんやりとして、落ち着いている栗毛の彼女と、メラメラと燃える輝く金髪の美女が向き合った。

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