・・Ocean Bright・・ ◆光と影の羊達◆

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3.欠勤の真相

「では、本日も滞りない業務を……」

『敬礼!』

 朝礼の最後の締めは、山中の一言と号令で終わる。
 そして、その時──隼人と達也、そして『木箱』を挟んで、ジョイと山中……その『木箱台』の上には、毎朝、『大佐嬢』がいて、誰よりも凛々しい敬礼をして、皆に畏怖を抱かせてきた勇ましい姿があったはずなのだ。
 今日も、その木箱に彼女がいない。

 何日目かは、もう……隼人にも分からない。
 しかし、このところ──その『主』が不在である事に皆は慣れ始めていた。
 『大佐でも調子を崩して、休む事もあるのだ』と言う事を飲み込み始めていたのだ。
 そうして、山中の締めが終われば、皆、散っていくはずだった。

 だが、この日──誰もが、山中の『終了』の合図を聞いても、動こうとはしない。
 何故なら、姿はまだ現さないが、その『不在の主』が帰ってきたのを目撃していたからだ。

『テッドも皆と待っていて』
『ラジャー』

 たった一人──入室と同伴を許されていた『テッド』と、その大佐嬢が一緒に出てきたのだ。
 皆の視線が、そこに集まる。

 栗毛の青年、テッド=ラングラー大尉が、何事もなかったような顔で、いつもの最前列へと総合管理官達が位置する列に加わった。

「少しばかり、時間を下さい」

 葉月が総勢五十名はいる本部事務員の集合列前に、やっと姿を現した。
 隼人と達也はそっと互いに視線を合わせる。

 ここで彼女が『療養から帰ってきた』と、すんなりと思っている者もいるだろうし、もしかすると『何かあっての長期休暇だったのでは』と感じている者もいるかもしれない。

 それはともかくとして、『フライト大技後に起きた不慮の機体降下』で、急な体調不良という『欠勤理由』については、誰もが妙な納得をしていたのだ。

 彼女が木箱台にあがり、いつもそうしていたように、上から皆を見渡し、今まで通りの『威厳』を放っても、また元の状態が戻ってくるだけの事だ。

「どうぞ、大佐」

 いつものようにジョイが、毎日怠ることなく用意していた台を彼女に差し向けた。

「いいえ……」
『!』

 その時、葉月の側に添っている補佐官中佐である隼人達は、葉月がとった行動に戸惑った。
 何故なら、彼女はその『木箱台』に登らずに、木箱の前、その低い位置に立ち、本部員達に向き合ったからだ。

『何故?』
『どうした? 葉月──?』

 隼人と達也が、そんな事を思いつつ顔を見合わせながらも、『嫌な予感』がしてきた!

「皆様に『お詫び』をしなくてはなりません」

 葉月が神妙な面持ちで、部下一同に向き合う。
 一段上に立ち、皆を見下ろしていた場所ではない──部下達と同じ立ち位置で。
 葉月が取った行動は、そこを意識している事は隼人にも分かったのだが……その『真意』はまだ分からなかった。
 だが、葉月は躊躇う様子もなく、皆を見据え、話し始めた。

「航空ショーという私自身の使命の中で起きた『不慮』によって、中隊内で重要な使命にあたっている最中に、職務を遂行出来なくなり、その後『欠勤』をしまして申し訳なく思っており、お詫び致します。それと共に不在の間も皆様方にはご迷惑をおかけしたにもかかわらず、滞りなく本部と中隊を守って下さった事に、お礼申し上げます」

 隊長として突然『不在』にした事に関しての、葉月の詫びだった。
 当然の申し出であろうし、葉月の素直な気持ちであるだろうから、隼人もそうだし、達也を始めとする誰もが、ただ『月並みな復帰挨拶』として聞き入っていた。

 だが──次に葉月は、皆が驚く事を言い始める。

「実は……わたくし、今回の欠勤の間に『退職、退官』を決意しておりました」
『!!』

 そんな事を微笑みながら言い放った『隊長』に、誰もが驚き固まってしまっていたのだ。
 集団の息づかいが、キュッと一瞬、聞こえなくなったような──そんな間を隼人は肌で感じた。
 だが、葉月はただ穏やかに微笑み、皆を見渡していた。

「何故かというと……『ひとりの女』になりたかったからです」

 そこで葉月がやっと眼差しを伏せ、言いにくそうにもう一度呟く。

「ただ……の、女と言う事以外をすべて捨てて・・・です」
『え!?』
「隊長という『責任』も忘れてです……」

 今度はどこからともなく、複数のそんな驚きの声が漏れた上に、ほとんどの本部員の視線は隼人に向かってきた。
 『いったい何があった?』と、言う皆の視線が隼人に集まる──。

 『ただの女になりたかった』──それには『恋人とだけの生活を選ぼうとしていた』と皆が思い、そしてその『相手』は、隼人しかいないと思い当たったからだろう。
 だが、隼人はその部下達の視線に動揺はしなかった。
 そして、葉月が『言いたい事』と『伝えたい事』がなんであるかは、この時点で把握する事が出来たので、黙って聞いている事に決めた。

「この数年、皆さんは、こんなに力が不安定な私が管理するこの隊の中で、本当に良くやって下さいました。平均年齢が『若い』と言われている『私達の中隊』ですが、今回の式典職務で大きな評価を得られたのは、『私の隊だから』ではなく、間違いなく『皆の力での成果』だと思います。現に私が不在となっても皆さん、本当に良くやり遂げて下さいました。先程、連隊長からお褒めのお言葉を頂きました……」

 彼女の皆を慈しむ笑顔。
 だけれども、木箱には立たずに『辞職の決意』を語り始めた隊長を目の前に、皆が戸惑っていた。

「……体調不良という事になっているようですが……ええ、一部そう言う事もあったのは確かですが、大方は『もう、辞めよう』と思っていました。突然、消えようとした事は、ついてきて下さった皆様への『裏切り』だと思っております」

 皆がシンとした。
 達也は『あんな事を言わせて良いのか?』と、隼人に視線を向けてきたが、隼人は取り合わない。
 それに葉月を『かばおう』とも思わなかった。
 逆にかばえば、葉月が『持って帰ってきて覚悟』を無にすると思ったからだ。

「私は……戻っては来ましたが、今はこの『台』に立つ資格はないと思っております」

 彼女の覚悟──。
 それに対して、一人の青年が手を挙げた。

「大佐!」

 テッドだった。
 彼は先頭に位置する総合管理班の列から一歩前に出た。
 そして彼は拳を握って、眼差しが燃えていたのだ。

「大佐が……上官が『休暇中』に何をしようが何を考えようが、そんな事は『休暇』である以上、職務をしている部下にでも『関係ないプライベート』です。そんな事をいちいち私どもに報告する義務もないと思います」
「しかし『機体急降下』と言う事があり、『体調不良』とはなってはおりますが、そんな事は『実は体の良い言い訳』──本当は辞める事を考える為の休暇だったのです。しかも……皆さんが全力を尽くしている職務中に、私は最後まで隊長としての責任を放棄した形で、ここから姿を消したのですから……」

 淡々と『申告』をする彼女に、テッドはまだ退かない。

「突然『体調を崩し欠勤、気弱になって退官を考えた』──なんて事は、『個人事情』です。いちいち報告しないで下さい! それに」
「ですが、私は……突然に『欠勤』をした上に、突然の『退官』を決していたんです。もう二度と、あなた達の前には姿を現さないつもりでした」
「!?」
「それは……ついてきてくださった貴方方への『裏切り』ではありませんか?」
「大佐……」

 テッドが黙った──。
 大佐の『突然休暇の真相と裏切り申告』に、誰もが反応しがたい戸惑いのまま……また沈黙が流れる。

「はーい、大佐」

 そこで間が抜けた声で、手を挙げたのは達也だ。

「あの〜先程、連隊長の所に行かれたようですが、フランク中将は『今回の件』について、どのようなお沙汰を下したのか? それを教えて下さい」
「連隊長の判断は、判断よ。私は皆にも判断をする『権利』があると思って言っているのよ」
「では──ここで本部員が数名『リコール』をした場合は? 本当に隊長を辞すおつもりですか?」
「ええ。連隊長に『リコール』があった事は申し上げます。ですが、どのような処分が言い渡されようと、軍人という職務は続けたいという意志は伝えて参りました。お許しが出ていたとしても、ここで許されねば、意味はないと思っています」
「あっそう」

 達也はそれだけ葉月と言葉を交わすと、しらけた眼差しで隼人の隣に並び直る。

「……だってさ? 澤村中佐。どう思う?」

 これまた達也は、とぼけた声をこれみよがしに皆に聞こえるように発し、隼人を面前に引きずり出そうとしているのだ。

「そうだな。別に彼女が『女性の幸せ』を望んでいるのなら、止める権利は俺達にはないと思うけどね」
「俺も。思うよ? さっさと行っちまえばいいよな〜? 俺達には関係ないモン。『葉月の人生』だもんな」
「そうだ。関係ない。『誰を選ぼうが、どの道を選ぼうが、彼女の人生』じゃないか──」

 側近二人の落ち着いた会話。
 そこには、やはり『事情は良く把握していた』事と『大佐がいなくなる覚悟もしていた』事が皆に知られ、さらに驚きに拍車をかけたようだった。
 しかも──葉月と一番に協力しあってきた側近ふたりの決意が『ご自由にどうぞ』という『覚悟』であった事も。

「テッドの言う通りだよな〜? 澤村中佐」
「ああ、本当だ。そんな『個人事情』をひけらかされてもなぁ?」

 葉月の妙に力が入った『真相申告』にも、達也と隼人は揃って『呆れ口調』で、馬鹿にしている様にも見えた。
 だが──そこで、達也の眼差しが鋭く輝く。
 その視線は、まっすぐ迷うことなく『大佐嬢』に向けられていた。

「責任──? 部下の権利でリコール? なに、格好付けているんだよ。んなもん『アンタ』の良心の呵責から生まれている『個人的な懺悔』を何処で精算して、心の重荷を軽くしたいかってだけだろ? そんな事『関係ない俺達』の前でやられても、こっちがメイワクってモンだ!」
「……海野、中佐……」

 流石の葉月も、達也に手厳しく突き返され、一歩、後ずさったように見えた。
 それでも尚、達也の瞳は強く輝く。

「俺達は『軍人』なんだよ。『上』が『こうしろ』と言ったならば、それを忠実に実行する『駒』である事が『優秀』なんだよ。中将がアンタに『もう一度、やれ』と命令したのならば、アンタはそれに従うべきだし、俺達もそれに従うって『だけの事』で成り立っているんだよ! その『だけの事』で『私は女の幸せを選ぼうとして、あなた達を裏切った』なんて『個人的感情』は実際は、ナンセンスな世界なんだよ!」

 達也の『味気ない』が、でも本当はそうである世界観の理論には、葉月はおろか、他の部下達も絶句したようで、また妙な静けさが漂う。
 そして、今度は隼人が口を開く。

「そう、俺も同感──だが、『大佐』だけが責められるのなら、『俺達側近』にも責められる事がある」

 隼人のその言葉。
 側近の責め──と言うくだりに、達也も解っているかのように、驚きはしなかった。

「……俺達も『解っていて』、彼女を送り出した。特に俺は『張本人』だから」

 その隼人の告白にも、皆がどよめく。
 つまり『送り出した』と言う事は、自分以外の場所へ送り出した……『別の男』の影が、皆にちらついた事だろう。
 これを表に出してしまう事は、自分の立場は『捨てられた』と言う憐れみの目で見られ、葉月は『捨てた』と言う非難を浴びる事になるだろう。
 ここまで言う必要はないだろうし、言いたくはなかった。

 しかしだからこそ──『これは個人的事情』であると言う事を強調したかったのだ。

「実は、俺も……送り出したよ。何故なら『葉月』と言う女性が『長年、願っていた道』と言う物があった事をずっと知っていたから」

 今度は『ジョイ』だった。
 ここの誰よりも葉月をずっと見てきた『幼なじみ』の発言。

「それは『女の幸せ』とはもっと別問題。お嬢がパイロットになる前から『引きずっていた事』──それに対して、お嬢は『気持ちに対するケリ』をつけたかったんだと思う──それは彼女が過去から這い上がって、現在という場所で思い切り生きていくには、必要な『試練』でもあると思ったからだ」

 ジョイの青い眼差しは、いつもの無邪気な陽気さは消え失せ、真剣な重みを持って煌めいた。

 『大佐の過去』と言う言葉が出てきて、さらに皆が戸惑い始める。
 その中、またさらにテッドが前に出てきた。

「側近に補佐である中佐達のお話をお聞きしていても、どうあっても『個人事情』の様ですね。それ以上、私達に報告して下さっても無意味かと思います。そちらの先輩方の『プライベート』は、職務には関係ありませんし、海野中佐の意見が一番もっともだと思います」

 そのテッドが、葉月の正面に向かい合う。

「ここにいらっしゃるという事は……それら、『長年のわだかまり』を乗り越えて、帰ってきたという事ですね?」
「……」
「連隊長の判断が『続行』であるならば──」

 そして、テッドが葉月に向かって敬礼をする!

「お帰りなさいませ、大佐。私達、いえ……少なくとも私は、あなたにただ従うまでの事です」
「テッド……」

 葉月の瞳が熱く潤んでいくのを、隼人は見た気がした。
 そして、隼人はそっと微笑み、一緒に敬礼をした。

「同じく──お帰りなさいませ。あなたに従うまでの事です」
「そうそう。ただ、配属されている上官に従うまでの事。お帰りなさいませ、大佐嬢」

 隼人に続いて、達也も葉月に向かって敬礼をする。
 さらに、それほど事情は通じてなさそうだったが、山中も通じたように真顔で敬礼をしてくれる。
 その彼も厳しい顔つきで葉月に向かって来た。

「また、新たなる配属と思って……お互いに精進していきたいと思います。大佐嬢──ただ、私からも一言。職務遂行中の突然欠勤が『不適切』であった事は否めない事かもしれません。ですが、大佐が不在の中でも、特に問題もなく職務が全う出来たのは、やはり『貴女の今までの成果が成したもの』であると私は思います。『裏切り』と償いを求めていらっしゃるなら、今まで以上の『遂行』を私は望ます」

 そして、山中はそこまで言うと一時黙ってしまった。
 彼の大きな黒い瞳が潤んでいたし、何か言おうとしている息づかいが震えていたのだ。
 その山中がやっと一言。

「いつだって『命がけ』だったじゃないですか。貴女は……誰よりも……。それは嘘じゃなく、私はそれにいつも引き込まれ、そしてついてきただけの事。貴女がもし、『他の事で生きたい』と言っても止めはしませんよ……! だから、『もう一度、ここで生きたい』と言う事も私は止めません」

 補佐の中で最後にジョイが敬礼をした。

「──もう、彼女に『逃げ』は二度とない。今度こそ、本当の隊長として……。お帰りなさい、お嬢……大佐嬢!」

「……中佐方……」

 葉月は補佐一同の揃った敬礼に感極まったのか、ついに泣き出していた。
 すると──テッドの横にいた柏木を始めとする総合管理官の青年達が静かに、敬礼を並べ始める。

「大佐が今まで、どれほどの気持ちと気力で隊を支えてきたか、見てきたつもりです」

 本部員の中心である管理官の青年達に続いて、空軍管理班の青年達も次々に敬礼を並べる。
 それが陸部班にも広がって、ついには経理班の女性達にまでにも……。

 もしかすると、上層部の男性補佐一同が一致したが為に、ただ全員が敬礼をしてくれているだけかもしれない。とも、葉月には思えたかもしれない。
 だが、それを見渡した隼人も、そう思いつつも──それでも達也が言う通り『誰が上官であっても、従うまで。ロイが続投を許したならば、その上官にまた従うまで』と言う者あるだろう?
 でも……隼人は今、柏木が述べた『一言』に尽きると思って微笑む事が出来た。

 何故なら……そう。
 『彼女がどれほどの気持ちと気力で生きようとしていたか』──誰よりも知っている。
 本当は、『生きたい』のに逃げ出したい程の『絶望』に向き合っていた事、それがどれほど辛い事か……『絶望』を感じた事がない者には想像が出来ない彼女だけの辛さ。
 『逃げ出したい』というエネルギーは、逆に言えば『生きたい』と言う熱い気持ちを打ち消す為の反するエネルギー。それ程に生きたいと願っていた事、彼女は『希望』と『絶望』の間で誰よりも揺れ続け、そして、その『生きる』と言う意味を見いだす為に『命がけ』で無茶に生きてきたにしても、その懸命さ。このような『強い想い』を抱く事のエネルギーは誰もが抱えられるものではなかった。
 それを、隼人や達也、そしてジョイに山中──そんな直ぐ側の仲間だけじゃない。彼女が従えてきた後輩にも伝わっていた様だ。
 そして、彼女はそこから『生還』する事が出来たのかもしれない?
 少なくとも、『リスタート』という地点に立つ事が出来たのだと隼人には思えた。

 そして、そんな彼女の台風に巻き込まれてしまった男どもの一人だったから。

「大佐嬢、是非……」
「ジョイ……」

 ジョイがやっと葉月に木箱に登るように進めた。
 だが、葉月がやはり首を振って拒否しようとしていた。

 隼人と達也は顔を見合わせて、溜め息をこぼす。
 本当は望んでいるくせに、そこまで頑固に隊長を辞退するか?とか、さて、今度はどのようにして、彼女を『過酷な軍人人生』に引き戻してやろうか? なんて、考えた時だった。

「──先程、フランク中佐が言いましたが、『逃げ』は二度とない。その『背水』の縁でつねに踏み耐えていく。そうしてまた『ここを守る』事、そして皆さんの道の前を開いていく努力をさせて頂きたいと思っております」

 そして彼女は木箱の下で、深々と部下達に頭を下げた。

「ここでの『隊長』という職務を続行する上で、今回の『大きな不届き』を返させて頂きたいと思っております!」

 それだけ言うと、葉月の泣いていた顔がいつもの涼しげな表情に引き締まる。
 その変化と、相も変わらない『感情を表さない顔つき』に急に変貌した彼女を見て、誰もが息を呑み込んだような気がする。
 そして、葉月が木箱の上に片足を乗せた!

 その木箱の上に、スッと高々と君臨する闘志の女神が立ったように隼人には思える。

「それでは皆様……今後も宜しくお願い致します」

 彼女の凛々しい敬礼姿が帰ってきた!
 隼人だけでなく、隣にいる達也もその姿に眩しそうに目を奪われ、一時、彷彿としているようにも見えた。

『敬礼──!』

 自然と発せられた山中のいつもの号令。

 それに一同の切れの良い、ばっと揃う敬礼動作の音。

 隼人も再び胸を張って、帰ってきた『闘志の女神』に敬礼をする。

 胸が熱く……また、泣きたい気持ちにさせられた。
 それは感動か、戻ってきた喜びか……それとも、『彼女を遠く感じるから』か……。
 どの気持ちが勝っているかは分からないが……。

 とにかく、熱かった。

 ただ、大佐に戻った彼女があまりにも眩しい事は確かだった。
 彼女の眼差しは、見た事がない眼差し。
 どこかで見た宗教画の女神のように──凄絶な心のカオスの波をくぐり抜け、絶望と言う血を味わい、慈愛という景色にも出会えたのだと言う『光と影』を同時に含めたなんともいえない壮大な眼差しだった。

 彼女はもう逃げない──
 隼人が望んだ通りではないか?

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

『ねぇー? どう思う?』
『良く分からない。でも、中佐達が事情をよく知っていた上での欠勤だったみたいだし……』
『それにしてもね……』
『私達如き、口出しなんて出来ないわよ。それに海野中佐があれだけ言い張っちゃ、誰が言い返すの? あの口達者の中佐が言い張ったら誰も太刀打ち出来ない気がするわ。そうね、出来るとしたらそれこそ御園大佐か澤村中佐ぐらいよ。その澤村中佐が黙っていたんだから』
『だけれども、もしよ? 大佐が本当に“かけおち”みたいな事をしたのだとしたら、なんだか澤村中佐が可哀想──。それなのにこういう事は許されるの? 同じ女として許せないと思わない?』
『さぁ? どうなのかしら? でもそう言う事なら、海野中佐とテッドが言った通りに私達がどうこう言う事じゃない、首を突っ込めない世界だと思うけれど。言えるとしたら職場を放ったって事じゃないの? それだって、あんな大技をやった後に気弱になって、もう仕事はしたくないと思ったのかもしれないし? 弱気になった所に、“恋人とだけの生活”を決心したのかもしれないし? そういう心理、同じ女として分からないでもないけどねー私としては。それに、“かけおち”とは限らないわよ。中佐達、そこはハッキリ言わなかったじゃない』
『でも、本当に澤村中佐以外の男だったら、どうなのよー!? あのお嬢様大佐はなんなの? 信じられないっ。補佐を味方につけて、結局、許されちゃっている気がしない!?』
『でも、連隊長だって続けて欲しいと言ったみたいだし──』

 廊下に出たら……そんな囁きが化粧室から、ひそひそとでも聞こえてしまった。

「でも!──澤村中佐は『送り出した』と言って、大佐は『ただの女になりたかった』と言ったのよ? それって……」
「ちょっと!」

 彼女達が出てきたと同時に、黙り込んだ。
 隼人がそこにいたからだ。

 だが、隼人は何食わぬ顔で、喫煙をする為に置かれている廊下の長椅子に腰をかけた。

「あ! まただ!!」

 今度はそこに達也がやって来て、彼女達はそそくさと本部室内に戻っていってしまった。
 隼人は溜め息をついて、胸ポケットに忍ばせていた煙草を一本取り出す。

「吸わなかったんだから、今から吸う事もないと思うけどなー」
「うるさい。俺は元々吸っていたんだ」
「でも吸うキッカケがよろしくないよ?」

 ここ数日だった。
 達也と一緒にいる内に、『一本くれ』となにげなく吸っていたら、手元が落ち着かなくなってしまい、ついに自分で買い込んでいた。
 それを知った達也が、隼人が喫煙で廊下に行く度にジョイの報告を受けてはこうして『諫め』にくるのだ。

 唇の端に煙草をくわえ、火を点け、一息つく。
 その時には、目の前で達也も一本、口にして火を点けていた。

「さっきの経理班の女の子達が……」
「あー。まぁ、『女の子』は仕方がないんじゃないの〜? 『言いたがり』は普通だって、フ・ツ・ウ。葉月だって『言われ慣れている』だろうし」
「馬鹿だな。連隊長が続行を許してくれているのに、自らあんな事言わなくても──」
「いいんじゃないの? 『批判』を受ける覚悟だったんでしょ? 葉月ちゃん。これからだって女の子達や批判的な隊員にケチョケチョ言われて痛い思いしても、それが『当然である私の償い』とか言いそうだぜ?」
「うーん……」

 隼人は一時唸って……。

「そうだな。どうでもいいか」
「……」

 火を点けたばかりの煙草を、側のスタンド灰皿に放った。
 投げやりな言い方をする隼人を見て、達也も一時、黙り込んでしまったが、次には彼も可笑しそうに笑い出す。

「そ、どうでもいいさ」

 投げやりなんかじゃない。
 『どうでも良い』──それはもう、今までのように隼人が必要以上に『関与』しなくても良くなっただけの事。
 これからは、彼女の事は彼女自身がやっていくだけの事。

「なぁなぁ! 兄さんは、帰ってきた葉月の事、どう思っているんだよ?」

 煙草をくわえた達也は、妙に落ち着きなさそうに隼人の隣に座りこんだ。

「どうって? 別に」

 宗教画の女神のよう──だなんて、口が裂けても言いたくなかった。

「俺はー。結構、来ちゃったね」
「? きちゃった?」

 そして隼人の横で、達也はもうなにやら我慢が出来なくてうずうずしているといった感じで、一人で興奮しているのだ。

「やっぱり、俺──アイツの事、諦められないわ」
「!」
「あんな顔、されちゃぁねー」

 『あんな顔』が、達也という男の中で、どのような表現をされているかは判りかねるが、『俺と一緒だ』という直感が隼人に走り、ドキリとさせられた。

「ここで兄さんが退くなら、俺、“一気に”本気出しちゃうよ」
「……」
「ほら、『やっかいな兄貴』もどうやらカタがついたみたいだしさ」
「……ご自由に」
「あら? いいの〜? 葉月がああなって帰ってきた『功労者』が諦めちゃって……」
「……」

 隼人は妙にイライラしはじめて、また指先は胸ポケットに向かっていった。

「俺は俺でやる。だから、達也だってそうすればいいだろう?」
「そ。じゃぁーそうする。『今まで以上』にな──覚悟しておいて」
「だから、ご勝手に」

 苛ついて、煙草を口の端にくわえた時だった。

「そこにいたの?」
『!』

 そこへ、葉月がひょっこりと廊下に出てきた。

「隼人さん、さっきの『企画』の……」

 葉月の視線が、隼人の手元に……。
 そこには煙草をくわえている隼人の姿。
 しかし彼女はその視線を一時止めただけで、すぐに話し始めた。

「さっきの企画、どう思う?」
「ああ、宜しいと思いますよ。あれならコリンズ中佐もウォーカー中佐も張り切るだろうね」
「それで……」
「解っている。考えておいたよ──空軍管理班から、『クリストファー』を推すけど、どうかな?」
「クリストファー……ダグラス中尉ね」
「若いと言っても、ジョイとテッドと同い年だ。近頃、本部内ではこの三人の連携が上手く見えてね。それにクリストファーは、遠野時代からこの本部にいる。そろそろ、大きな事をやらせても良いだろう?」
「解ったわ」
「じゃぁ、了解と言う事で、俺から彼に伝えておく」
「後で、補佐官と補佐官候補を大佐室に集めて、改めて、告知するわ」
「了解──」
「では、私は……コリンズ中佐に挨拶してくるわ」
「……ああ」

 隼人の変化にも目もくれないと言った葉月の様子。
 だが、その彼女の様子に対して隼人はなんとも思わない。
 そして、隣にいる達也もシラッとしていた。

 葉月が背を向けて歩き出したのだが。

「私には……良くないって言っていたのに」

 肩越しに、致し方ない笑顔を浮かべ、煙草をくわえたままの隼人に小さく一言。

「ああ、コリンズ中佐──もの凄く怒っていたから、覚悟しておいた方がいいぞ。ばれたから」
「そう……解ったわ」

 ちょっとした小言に全く反応をしてくれない隼人を見て、葉月も諦めたように俯いた。

「達也──厳しい事を言ってくれていたけど、助けてくれたの? 有り難う」
「これでフロリダの借りは返したぜ」
「借り?」
「誰だって、一度や二度はどうしようもなく『背を向けたくなる事』もあるだろうさ。だけれど、一度は逃げてももう一度立ち向かう事だって大変な事だと俺は思う。それ、お前が教えてくれて、お前が向かせてくれたんじゃないか。俺の事もマリアの事も──『その借り』。お前だって同じだろう。今からやればいいじゃん」
「達也──」

 葉月の瞳が感激で熱く潤む。
 それを見て、達也が気恥ずかしそうに視線を逸らしてしまった。

「さって、今日も忙しい」

 隼人は立ち上がる。

「俺も俺も。大佐嬢から与えられた新しいお仕事、後輩達の新育成の計画立てなくっちゃ」

 達也も立ち上がった。

「じゃぁ、私も──行ってくるわ」

 葉月も歩き出す。

 三人それぞれが行くべき所に足を向ける。
 隼人の素っ気なさ、そして、それを受け流す葉月の淡泊さ。
 有利になるはずだが、達也は溜め息をこぼす。

 だが──隼人と葉月が同時に立ち止まった。
 そして、通じ合ったように肩越しに振り返り、まったく同時に視線が合った。
 その為に、二人も思っていなかった事に驚いた顔をしているのを達也は見た。

「また、楽しみな事を考えてくれたな」
「楽しみと言ってもらえて光栄だわ──」

 二人はそれだけ言って微笑むとまたお互いの進行方向に向き直った。

「ああ。また退屈にはなりそうにないなー」

 隼人が笑いながらのびをして大佐室に戻っていった。

 本当は言葉はなくとも通じ合っている。
 だけれども──つい最近までの『幸せそうな恋人同士』の匂いは、もう……しない気がしていた。

「なんだかな。ああいう所は適わない気がする。負けない!」

 達也も拳を握って、気合いを入れ直す。

 今日も小笠原は快晴。
 突き抜ける真っ青な空に、輝く海。

 あるべき風景が戻りつつあるようで──。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「はぁぁ……何日目だー」

 この日の夕方。
 真一は夕暮れの芝道を一人で歩きながら、馬鹿みたいに口を空に向けて開けていた。
 親友のエリックは、今日は両親がいるアメリカキャンプに用事があるとの事で、門限までは一時帰省という事で、先程別れたばかりだ。

「葉月ちゃんー。絶対に連絡をくれるって言ったよね〜?」

 一人、空に呟く。
 あの日、真一は若叔母の幸せを願って、送り出した。
 彼女の『絶対連絡をする』と言う言葉を信じて待っていた。

 でも、叔母が小笠原から気配を消して、数日後──寮に連絡が入った。

『真一か』
『右京おじちゃん? どうしたの?』

 その連絡は、葉月は『親父』の元にいるという事と、まだ国内にいると言う事だった。

『もう少し、時間をくれないか? 今、二人でこれからどうするか……決めようとしている』
『それって、もう葉月ちゃんは小笠原に帰ってこないって事でしょ。それならそれでも良いから──日本を出て行くなら、その前に連絡を絶対してと伝えて!!』
『……分かった。辛いだろうが……』
『辛くない! だって、親父と葉月ちゃんの方が、もっと辛い目に遭ったんでしょ!!』
『真一……。大丈夫だ……葉月はお前の事を、忘れやしないよ。何処に行ってもだ。それに真一とは連絡がちゃんと取れるようにおじさんからしっかり伝えておく。……おじさんだっているじゃないか。おじさんは日本を鎌倉を出て行く事はないよ──』

 右京の優しい声。

 まったく辛くないわけでもない。
 やっぱり葉月が傍からいなくなるのは寂しい事、この上ない。
 でも、だからと言っても『今だけ』の事。
 葉月が小笠原にいてくれても、数年後、真一の『目標通り』に行くならば、真一はフロリダ本部へと旅立つ日がやってくるし、そうしたい。
 だから……葉月が『行きたい』のなら、もう行かせてあげたかっただけ。
 そしてクソ親父の事も、気に入らない事はあるが、ちょっと可哀想に思っている事もある。

 そんな右京の連絡が時々入ってくるが、『何が話し合われている』かは、伝えられる事もなかった。
 当然──式典後、隼人や達也にも会ってはいない。

(それにしても、親父が言い残した事……気になるなー)

 何度かロイの連隊長室に足を向け……でも、やっぱり何かを知るのが怖くて踵を返した事が数回。

(葉月ちゃんに相談できないことだもんなー)

 葉月が落ち着いたら……『右京』に問いただそうかと心に決めているこの頃だった。

『シンちゃん……お帰り』

 空を眺めながら、そんな葉月の声を思い出してしまっていた。

「真一、お帰り」
「シン、お疲れ」
「?」

 しかし、寮の前に来て、聞こえてきたの『男性の声』
 ちょっと素敵な物思いを邪魔されたような気がして、真一が正面を向くと……。

「ロイおじちゃん! リッキー! 珍しいね!!」

 寮の正面玄関前に、黒塗りの車が停めてあり、そこからロイとリッキーが降りてきた所だった。

「そりゃね。『護送』ってところかな」
「ひどい例えだな、ロイったら……」

 ロイはニヤニヤと笑っているし、リッキーはそんな金髪のおじさんの悪い例えにちょっと困った顔。

「──『護送』って何?」

 真一が首を傾げた時だった。
 後部座席の扉が開いて、そこから黒いスーツを着た男性が姿を現す。

「よう、ボウズ」
「お、親父!?」

 いつもの鉄仮面のような顔の父親が、なんと! 今まで父親との接触は、葉月と揃ってひた隠しにしてきた『ロイおじさん』と一緒にいる!!

「こいつから『自首』してきたんだ」
「自首!?」

 ロイの愉快そうなケラケラ声。
 だが、父親純一は『何が可笑しい、それがどうした』とばかりに眉一つ動かさない。

 でも、真一を真っ直ぐに見つめていた。

──どうして!?──

 信じられない光景だった。

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