・・Ocean Bright・・ ◆光と影の羊達◆

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2.鏡の中の彼女

 連隊長室を出た廊下──。
 アリスの目の前を、栗毛の彼女が淡々と歩いている。

 アリスはこれだけ感情を露わに、燃えさせているのに!
 彼女『レイ』と来たら、本当に憎たらしいぐらいに、平坦なのだ!

 箱根の別荘で、あの純一をあれだけ『骨抜き』にしておいて、『軍人として帰ってきた』と言う事が信じられないっ。
 アリスがあれだけ、純一を想っても手に届かなかったのに、当然のように純一の気持ちを手にしていた彼女が、あっさり彼の愛を捨てた事も許せない。

 アリスは彼女の背に向かって、燃えた眼差しを、黙って送っていた。

 カフェテリアへと向かうエレベーター前に来て、そんなアリスの視線に気が付いた彼女が振り返る。
 そして、とても綺麗な発音のフランス語で話しかけてきた。

「あなたの日常に割り込んでしまった事……ごめんなさい。なんて、言わないわよ」
「あったりまえじゃないの! 言ったら殴るわよ!!」
「そうね」

 彼女がクスリと笑ったじゃないか!
 それでも余裕たっぷりの彼女に、アリスの感情はさらに逆撫でされたように燃え上がった。

 だが、彼女が大人のように落ち着いて微笑んだのは、そこまでだった。
 エレベーターのボタンを押しそうで、押さない彼女は、その扉の前で、急に哀しそうな影を瞳に映していた。

「私達──確かに『異性』として愛し合っていたけれど、でも、義兄妹でしかなかった。……そういう事よ」
「! ……どうして!? それでも良いと思うわ。ジュンが……あんなに!」

 そんなはずはない。
 純一は彼女を、それは愛おしそうに抱きしめていた。
 アリスに見せつける為に抱きしめると言う『わざとらしさ』もあったが、それ以外でも、彼女が動く方向へと、常に……どことなく熱っぽい眼差しを、離すことなく見つめていた彼の姿は『本気』だった。

「本当に──『それでも良い』と思う?」
「え?」
「ずっと、それが良い事とか悪い事とか……周りが囁いていても、私は『どっちでも良い、義兄様と一緒にいられるなら』と思っていたわ」
「……」

 彼女は、なかなかエレベーターのボタンを押そうとしない。
 その上、そこで……アリスとは面と向かって初めて言葉を交わし合っているのに……まるで長い知り合いに問いただすような、すがる眼差しで見つめ返したかと思うと、その扉の前で泣き崩れてしまった。
 さすがにアリスもドッキリした……。
 それに、彼女が言っている意味も──なんとなく考えさせられる。

 何故なら──アリスも『一緒』だったからだ。
 純一にすがって生きていた事が『良い事とか悪い事』だなんて、考えなかった。
 彼女が言っている『周りの囁き』が『ロイ』であったのなら……アリスの場合は『ジュールとエド、ナタリー』と言った第三者の事になるのだろう。
 彼等が、『目を覚ませ』と言うようなきつい説教をしてきても、アリスは聞く耳を持たなかった。

 そう……彼女と一緒なのだ。

──『どっちでも良い。彼と一緒にいられるのなら』──

(同じ……だったの!?)

 アリスの中で何かがぴきんと弾けたような……?
 彼女に対して持っていた『関心』が、何であったかが埋まりそうな──でも、まだ胸に隙間感はあるようなもどかしい状態。
 だが、『反応』はあった!
 そう……彼女が『燃える鳥』のように、あの過酷な上空で懸命になっていた姿を目にした時に、アリスが彼女に興味を持ってしまった『何か』だ──。

 泣き崩れた彼女が、また──意を決したように、凛と背筋を伸ばした。
 その『なんとか立たねば』といった風の彼女の確固たる表情に、アリスはまた、気を奪われる。

『彼女は──越えてきた!』

 何を越えてきたかなんて、頭の中に詳しくは浮かばないのに『直感』がそう言っていて、アリスとしては、これにも心を強く打たれた感触があり、そこでただ硬直してしまっていた。
 彼女がまた──涼やかな平坦さを取り戻し、アリスに向き直る。

「──義兄から、貴女の事を少しばかりうかがったわ」
「!」

 彼女のその言葉にもアリスは『ショック』を受けた!
 純一に出会うまでの自分は、女性としては哀れで、そして顔向け出来ないような堕落的な生き方をしてきた。
 それを──! 否定は出来ない過去であるとはいえ、『反省と後悔』をしてるのに、一番に信じていた純一が、愛しい女ならば? それとも、信頼している義妹だからとて、易々とアリスの事を喋ったなんて……!

「……それで……」

 淡々とした表情の彼女が、アリスを見つめる眼差し。
 アリスは拳を握った!!
 彼女の口から自分を語られるなら、自分で言った方がマシだと思って……!

「なに!? 私を哀れんだの? 男達に虐げられて、挙げ句に堕落していった私の事を! そうよ!! 私は、ライバルプロダクションの社長が、自分の所の女優を売る為に、私を騙して『ポルノ女優』に陥れた……いえ、『撮影は本物のレイプ』そのものだったわよ!! それで事務所を解雇されて。でも……売る為、女優生命を保持する為に作った借金を返す為に、そのポルノの世界に足をつっこんでしまった……その後は堕ちていくだけ! パトロン付きの生活、愛人にまで堕ちたって? そう聞いた事でなぁに? 私を哀れんで? それで──!?」
「──!?」

 信頼していた純一が、たとえ、義妹でも──五年間、一緒に生活をしていた女の過去を軽々と喋ってしまっていた事に、やぶれかぶれに叫んだ。
 すると、『レイ』が過剰な反応を示した。

「なんですって──!?」
「え?」

 彼女が険しい表情に変貌した。  その上、『ギリッ』と彼女の口元が強く軋んだ。

「──!? ジュンは……そう言ったんじゃないの?」
「……」

 彼女がとても複雑そうな顔のまま、アリスをジッと直視して黙り込んでしまった。
 アリスは、急に冷静になり『しまった』と思った。
 頭に血が上って──『ジュンが暴露していない事』を自分で暴露してしまっていたのだと。
 彼女がジュンと、深い会話をしていると思っただけで『悔しくなって』──つい、逆上し、平静さを失っていた自分を呪った。
 彼女が平静なのに対して、自分がこんなに逆上しているのが子供っぽい格好悪さのように感じてしまった程。

 今度こそ──アリスは、自分自身がいたたまれなくなり、そんな『レイ』の眼差しから逃げたくなったのだが……。

「純兄様は……ただ、『私と貴女は似ている』と。過去に辛い事があって死にたくてたまらない、けど……何処かに生きる希望を見つけたくてもがいている。だから、どうしても『生きて欲しくて拾った』と……」
「へ? それだけ……?」
「ええ。まぁ……その、生きて欲しい上で、同居に至ったと……同居に至ったが故に異性関係が生じたと」
「それを聞いて、『レイ』はどう思ったの?」
「──『純兄様らしいな』……と」
「そ、それだけ!? あなたの愛しい男性が、他の女と暮らして、異性関係も成立していたのよ!?」
「それは──私側も同じ事よ。知っているんでしょ? 私が同僚と同棲して、婚約をしようとしていた事──」
「──? そりゃ? そうだろうけど……? 悔しくないの!? 嫉妬はないの?」

 アリスの不思議そうな質問に、『レイ』はまたふと、黙り込んでしまった。
 けれど、一時、何かを躊躇った末、なんだか可笑しそうに一言。

「ない──『そう言えば』……なかったわ」

 急に、それに気が付いたとばかりに……彼女が微笑みながら俯いた。

「でも──たった一人、嫉妬していたかもしれないわ」
「え? それ、誰?」

 アリスが知っている女性かどうか──胸が高鳴る。
 だけれど、彼女の眼差しが、ふっと宙に切なさそうに漂った。

「私の姉。兄様の息子の母親……よ」
「!」

 死んでしまった実姉に抱いていた気持ち。
 彼女はそれを初めて認めたのか、致し方なさそうに微笑んで……静かに俯いてしまった。

「……解る気がする」

 アリスはふと呟いていた。

「え?」
「だから──解る気がする。嫉妬してもどうしようもない感情を自分で感じてしまっている事も解っているのに……どうにもならないの。だけれど──『どうにもならない』事を認めると苦しいから……『なんでもないふり』をしてしまうの……」
「──! 貴女……も?」

 『レイ』の、驚きながらも──何かを確信したかのような視線が、アリスの眼差しと合わさった。

 何故か、そこにお互いに何かが『一致』したような、奇妙な感覚が生まれていた。
 アリスが感じているだけではない、見つめ合っている『レイ』にも確実に、同じ気持ちが生まれていると言う確信が持てた程の……。

「来て……」

 『レイ』の表情が、また涼しげで落ち着いている平静顔に戻る。
 そして、やっと彼女がエレベーターのボタンを押した。
 下に向かうようだった。

 アリスも頷いて、彼女の後に続いた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 『レイ』が連れていってくれたのは、ロイがいる棟の隣──そこの三階だった。

(うわー。若い隊員がいっぱい……!)

 そこは数十人も詰めている大きな事務室。
 業務が開始される寸前なのか、皆──慌ただしそうにデスク周りを行き交っていた。

「……! お嬢……!!」

 『レイ』がその入り口に立つなり、一番近い席にいる金髪の青年が声をあげた。

(あ……ロイの従弟! ここで働いていたんだ……)

 アリスとは面識があった。
 何故なら、アリスがこの基地にロイと行くようになってから直ぐに、ロイが連隊長室に彼を呼びつけて紹介してくれたのだ。
 紹介もあったが、『親戚同士の口裏合わせ』と言った方が良いかもしれない。

『暫くは、俺の所の遠縁となるからな』
『わかったよ』

 その時、このロイを若くしたような初々しい彼は、アリスを見てなんだか拗ねていたように見えたが、アリスと目が合うと『よろしく』と、気の良い笑顔を見せてくれていた。
 その彼が目の前にいて、『レイ』とアリスが一緒にいるのを見て、驚いているのだ。

「迷惑をかけたわね……ジョイ」
「いや……その。さっき、大佐室の二人に帰ってきたと聞いて驚いて……」
「話は後でいい?」
「いいけど……彼女……何故? 一緒なの!?」
「知っているの? どこまで?」
「ジュン兄の『ごにょごにょ』なんだってねぇー? ロイ兄も何を考えている事やら? って! お嬢もなんでここに連れてくるの!?」

 二人が日本語でなにかを言い合っているから、アリスには内容は解らないが。
 それでも彼女と自分が一緒である事に、従弟が驚いているような気がした。
 従弟の質問攻めに、彼女は静かに苦笑いをこぼしただけで多くは返答していない様子。

「彼女と大事な話があるの。先に通常の朝礼をしておいて……。私からは、後ほど改めて知らせたい事があるから、また集合してもらうわ」
「わ、解った……」

 そんな『レイ』は、途端にロボットのような表情もない顔つきになり、スッと金髪の彼の前を通り抜けていこうとしていたが……通りすがりに一言。

「おかえり……お嬢。おかえりなさい」
「ありがとう……ジョイ」

 二人が肩越しに微笑み合ったが、一瞬で──二人ともすぐに神妙な顔つきに戻ってしまった。

『お嬢!』
『た、大佐だ……!』

 彼女が現れた事で、事務室内全体から、そんなざわめきが生じた。
 それでも彼女はなんら反応することなく、そのロイの従弟のデスク後ろにある大きな扉の前に立った。

「テッド、お客様よ。お茶を差し上げて」
「イエッサー……」

 彼女は、従弟の前の席にいる若い栗毛の隊員に、平坦顔でそう言うと、開いた自動扉の中へとアリスをエスコートしてくれた。

「私の仕事場よ」
「そうなの」

 制服を着て凛としている彼女がアリスをエスコートするその手は、本当に青年のように優雅で、安心感がある。
 その彼女に促されて入った大佐室には、また二人の青年が待ちかまえていた。

「葉月──」
「どうだった!? 連隊長!」

 黒髪の青年が二人。
 一人は細身の背が高い『若中佐』。
 そして、眼鏡をかけているもう一人は!

『サワムラだわ……!』

 そう、アリスが純一に見せてもらった履歴書のような調査書で見た『若中佐』だった。
 ロイに『サワムラは何処にいるの?』と聞いても『甲板か大佐室だろう。忙しくて、そうは会えないよ』とあしらわれてたし、ロイとカフェにランチに行く時間帯に彼を見かけた事もなかったので、これが初めてだった!

(やっぱり! 『レイ』とは、こんな側で仕事をしていた仲だったんだわ!)

 そりゃ、『恋人』になるだろうし……挙げ句に『婚約』まで行くだろうし……。
 アリスはそう思いつつ、でも最後に思いついた一言は、心の中の呟きでも静かにそっと囁く──『子供が出来た仲』だったのだと……。

 そんな『若中佐二人』が、慌てるように彼女に駆け寄ってきた。

「話は後よ。悪いけど……ロイ兄様のお客様と大事なお話があるの」
「あ、ロイ中将の親戚……だろ?」

 背の高い彼が、ふとアリスを見つめた。

「フランスに住んでいる遠縁だってジョイも言っていたよ。今、彼女は基地中の注目の的だ。うちのメンテ班室でもその話で盛り上がっていたし……」

 サワムラも日本語で何かを囁きながら、アリスをチラッと見つめた。

「そう……なるほど? そう言う事ね」

 それでもレイは、淡々とした顔で頷いただけ。

「悪いわね──。こちらとすぐにお話をしたいの。悪いけれど、私が『良い』と言うまで大佐室には入ってこないで」

 冷たい横顔で、素っ気ない声の『レイ』
 二人の青年が、なにか不満そうに顔を見合わせている。

「絶対よ──。私と彼女にとって『大切な事』なの」
「!」

 キッとした確固たる鋭い眼差しに、二人の青年が急に顔色を変えた。
 アリスも彼女の眼差しの変貌に、ヒヤッとしたぐらいだ。

「……イエッサー」

 二人の若中佐は、そう答えるとサッと大佐室をあっさりと出て行った。

(すごい威厳──!)

 アリスもすっかり圧倒されてしまった。
 それも──なんだか、その『気圧されてしまう品格』のようなものが、なんだか『純一とロイ』に似ている気もしてきた。
 そう……『ああ、彼女は彼等の義妹だ』と、納得してしまうような……そんなよく知っているオーラの様な物だ。

「あの、大佐……私は……」

 彼女の指示でこの上官室に入室してきた先程の青年が、先輩中佐が追い出されたのを見て、自分はそこにいても良い物か? という戸惑いで彼女にうかがっている。 

「お茶をいれなさい」
「……あの」
「聞こえなかったの?」
「いえ……かしこまりました」

 これまた彼女が、無表情に素っ気なく言い放ったのにもかかわらず、栗毛の青年も彼女を畏れるようにして従った。
 その青年がキッチンに入っていく。

「お座りになって」
「メ、メルシー」

 彼女に促され、アリスはソファーに腰をかけた。
 向かいにも彼女が腰をかけたのだが……暫く、ジッと考え込むように黙り込んだまま。

「あの……」
「ええ……解っているわ。先程ね、『貴女と私が似ている』と義兄が言った事だったわね……」
「ええ……」

 いったい何処が? と、アリスは首を傾げる。
 目の前の彼女は、今は青年達をいとも簡単に従える程の『威厳』を持ち、尚かつ、アリスがよく見てきた『黒猫のボス』と同じようなオーラを持っている女性だ。
 それも働く女性。
 だけれども──愛する男性の前では、あんなにしとやかになれる愛らしい女性になって、あのボスを翻弄させられる女性。
 今ならジュールが言っていた『彼女はシャム猫』と言う例えも、頷けてきた。

 そんな『シャム猫嬢』が、なにを思いあぐねているのか? アリスは黙って見ているだけ。
 アリスの背側に位置するキッチンから、薫り高いコーヒーを淹れる香りが漂い始めていた。

 その時、だった。
 アリスの目の前で、彼女が意を決したように、詰め襟の上着の金ボタンを外し脱いだ。

『え?』

 アリスが戸惑っているうちに、彼女は着ている白いシャツのボタンまで外し始めた!?

「ちょっと? なにしているの!?」

 キッチンには彼女の『若い部下』が見える位置にいるのに、『レイ』は、あれよあれよと言う間に、カッターシャツを肩から滑らせ、スリップドレスの胸元をはだけさせ、ブラジャーの肩ひももはね除けてしまった!

「ちょっと、ちょっと!? いくらなんでも、まずいでしょ!」

 アリスは、キッチンにいる『彼』を意識して、肌をさらけ出した『レイ』の前に立ちはだかった。

「見て、これよ──『義兄』が、私を『必要以上』に大事にしてくれる訳は……」

 立ちはだかったアリスを、彼女が険しい覚悟をした眼差しで見上げてきた。
 その時──視界に写った物!

 左肩から胸元にかけて、稲妻のようなくっきりとした傷跡があった!
 白くはなっているが、浮き上がっている皮膚の太さは遠目に見ても判りそうな程の──!
 それ程の傷跡が、彼女のしっとりと滑らかそうな柔肌に、張り付いているのだ。

「……なに……それ……」
「姉が襲われた時、側にいた私も犯人達にナイフ遊びの道具にされた。十歳だったわ。その晩、姉は『子供が出来たから来て欲しい』と義兄と約束をしていたけれど、兄様はそれが信じられずにこなかった。兄様が来ていれば、男に襲われる事もなかったかと。だけれど、私達、姉妹は義兄様の性格を解っていたから来なかった事は一度も責めた事はないわ。でも、解るでしょう? 義兄様は、もう……ずっと何年も自分を責めているのよ」

「約束を破った……晩に……? お姉さんが襲われ?」
「この傷があるかぎり、義兄様はいつも自分を責める。そして、私は消す事が出来ない憎しみにいつも悶えて、そんな義兄様の所に逃げては『甘えていた』のよ」

 アリスは茫然とし、腰から力が抜けて、そのままソファーに座りこんだ。

──ガッチャン!!──

 キッチンから、そんな食器が割れる音が響いた。
 だが、アリスはその音に振り返る余裕がなかった。
 反応したのは『レイ』で、彼女はサッとはだけさせた胸元をとりあえず閉じると、キッチンへと向かっていった。

 『サッチ』は、男に襲われた。
 その上、小さかった『レイ』は、死ぬ程の傷を負わされ生き延びた?
 ジュンはその晩、行くべきだったのに行かなかった?

『息子の母親はもうこの世にはいない。結婚はしなかった。いや……するつもりだったが、その間もなく……俺が……死なせた』

 いつだったか純一が話してくれた事。

──俺が死なせた──
(そうだったの……! ジュン!)

 アリスは両手で顔を覆い、唇を震わせた。
 そして、目頭が熱くなり、涙が溢れてきた。

(私……私……)

──どうすれば、彼を救えるの?──
──そんな義兄の所に逃げては『甘えていた』のよ──

 自分が彼にしたかった事。
 自分が彼にしてきた事。

 それが頭の中に様々に交錯し始めていた。
 そして、いつもただ無表情にしているだけの『彼』が、本当は何を思って生き続けてきたかも──やっと、分かった気がして!

 そんな茫然としているアリスを置いた彼女の声が、背後のキッチンから聞こえた。

「……聞こえたわよね?」
「いえ。も、申し訳ありません──。大佐のお気に入りのカップを……割ってしまい」
「テッドでも、そんなに動揺するのね」
「──大佐?」

 そんな彼女と部下である青年の英語でのやりとりが聞こえ、アリスはふと振り返った。
 キッチンでは、割れた食器の側に跪いている彼が、入り口で腕を組んでたたずんでいる彼女を神妙に見上げたまま、唖然と固まっていた。
 レイと言えば、例の如く──表情も崩さず、ただ淡々と部下の彼を見下ろしているだけだった。

「──ワザと? 俺に? 何故?」
「そうよ。これから信頼ある『仲間』として、知っておいて欲しかっただけ」
「! じゃぁ……他の中佐達は……!」
「知っているわよ。でも、『自分から』言うという事は今までしなかったの……。だけど、これからは……自分の事は自分から。そう思って」
「それで……? 俺に──」

 緑色の瞳をした青年が、急にハッとしたように彼女を見つめ返す。

「だから、貴女は──いつも……どうしようもない無茶を?」
「そうね。『いつ死んでも良い』──いつも、そう思っていたわ」

 『いつ死んでも良い』──その言葉に、アリスはハッとさせられる。
 そして、レイは後輩を見下ろしたまま続けた。

「──いつ死んでも良い。そう思っていたのに……なのに、私はいつも『墜ちては戻ってきてしまう』。つまり──『生きたい』と思える自分を見つけたかったのではないかと、この前の『墜落未遂』で思ったわ」
「大佐……!」

 『墜ちては戻ってきてしまう』──その言葉にもアリスは金縛りにあったように固まった!
 そうだ! アリスが彼女に感じた『エネルギー』はそれだったに違いない!
 あの火の鳥のような『飛ぶパワー』も、『墜ちても戻ってきた』迫力も……!
 なんだかものすごく引っ張られた気がした──あの時から、彼女に抱いた『興味』が……それだったのだと。

『ちゃんと……お前は自分で生きるという事が出来るはずだ! どうした? これで……終わりなのか──葉月!!』
(ジュン!?)

 あの時、純一が我を忘れて叫んだ事を思い出す。

『ちゃんと、お前は生きる事が出来るはず……』
(出来るはず──?)

『貴女と私は似ていると──』
(彼女と似ている?)

『アリス……生きてくれ。お前は生きれるはずだ!!』
(ジュン!?)

 急に『彼』の声がアリスの脳裏に響いた!

『アリス……生きてくれ』

「ジュン……」

 アリスの瞳から、涙が熱くこぼれた。

「……レイ……」
「?」
「レイ……」
「どうしたの? アリス……?」

 ただ彼女の名を呟いていると、『レイ』が心配そうにアリスの顔を覗き込んでくれる。
 彼女のその時の眼差しは、別荘で見た『愛らしい女の子』だったような彼女の目になっていた。

「……メルシー。私、あなたが『そこまでして話したかった事』が、なんだか解ったわ」
「え? 本当に……?」

 言いたい事を、まだ多くは語っていないのに通じた様子に、彼女が半信半疑の顔をする。

「あなた……『ジュンが安心できるように、自分で生きる』為に帰ってきたんでしょう?」
「! え、ええ……」
「だから、似てると言われた私にも『ジュンの為に生きろ』と言いたいのでしょう?」
「そう、そうよ──アリス」
「私達……似ているのね。似ていたのね……!!」

『あ、アリス……!?』

 アリスは泣きながら叫び、思わず『レイ』に抱きついていた。
 宿敵だったはずの、彼の愛しい義妹に──!

「アリス……似ているのなら、あなたも義兄様の願うままに生きて……。お願い、義兄様の願いを無駄にしないで? それが言いたくて……。私が言う立場でないとは分かってるけれども……」
「ええ、分かっているわ」

 もう、多くを確かめ合わなくても、彼女とは沢山通じ合ったような気がしてきた。
 彼女がそっとアリスを抱き留めてくれる。
 彼女が先程、アリスを昔から知っているようにすがるような眼差しで見つめた感覚が、こういう事であったのだと分かった。

「そして──義兄様に喜んでもらえる『愛し方』を……見つけるわ。私……」
「そうなの、そうだったの……」

 だから『別れてきた』──アリスもそれで納得する事が出来た。
 この義兄妹は、確かに異性であるが故に愛し合ってきたのだろう。
 それも本物の思いであったのだろうが、『それで良くない事』が──『事件という繋がり』で、強く結ばれている事だったのだと。
 純一は自分を責め、彼女はそんな彼の所にひたすら逃げて甘えてきた。
 それが『良くない』と、二人は認識し、その『事件という繋がり』で結ばれている『男女関係』ならば解消しようと理解して離れたのだと。

 『新しい愛し方』──レイは、純一を愛する事をやめないだろう。
 だけれども、そこは『最愛の義兄』として……家族としての『愛し方』をこれから努めていく事にしたのだと。
 それとも? 事件という繋がりを廃して新たに生まれる『異性愛』も可能性はあるかもしれない。

 そう思って、アリスは急に涙を拭いて、彼女から離れた。

「私も! レイと一緒にする! 『助けてもらった繋がり』に頼る事はやめて、新しい愛し方、見つけるんだから!!」

 熱の入った『決意』をするアリスを見て、『レイ』は驚いた顔でおののいていたが……。

「そうね」

 静かに厳かに微笑んでくれた。
 その笑顔──。
 ただ静かに自分を見守ってくれていた『彼』とまた重なった。

 彼女は──『彼』の『義妹』
 彼女は──鏡に写った『私』

 アリスも彼女に微笑み返す。
 すると、ふと『レイ』が呟いた。

「義兄様から、あなたが飼い始めた『黒子猫』の話を聞いたわ。その後、エドに見せてもらったの」
「あ……えっと……」

 その話は、してしまったのだと──純一がそんな話を義妹にした事、もう、怒る気にはならなかったが、今度は逆に恥ずかしくなって俯いた。
 彼女と、彼女の姉の愛称を、当てつけのようにして子猫に名付けた事が知られた気がして。
 だけど──彼女は柔らかに、そして、優雅に微笑んでいる。

「サッチに赤いリボン、レイには青いリボン──付けてくれたのね。有り難う」
「え!? えっと──ただ、ジュンがそう言ったから!」
「でも分かっていても──『私達』を『もう一度姉妹』にしてくれた気がして……」
「そ、そんなんじゃ……」
「見せてもらって……とても懐かしく思ったわ」
「……」

 彼女の遠い眼差し。
 だけれど、彼女がまた、アリスに微笑んだ。

「──『じゃぁ……彼女は何色?』と、義兄に尋ねてみたわ。純兄様、なんて答えたと思う?」
「!」

 アリスは『ドキリ』と胸が強く打って、そのまま硬直した。

『私は、何色に例えてくれるの?』

 彼女達を羨んだ時に、何度かそう思った。
 また、彼女が──アリスの身代わりのように、ジュンに問いただしてくれていた事にもアリスは絶句してしまっていた。

(な、何色だったの……?)

 胸がドキドキする。
 黒? 彼等と一緒で『黒』?

「──『虹色』ですって」
「虹?」
「レインボー……『どんな風にも輝ける女性だ』ですって。貴女、綺麗だものね」

 彼女がにっこりと輝く笑顔で教えてくれた。

「──レインボー……?」
──どんな風にも輝ける女性──

 彼が、そんな風に『思っていてくれた』だなんて!?
 『七色』に例えてくれたのは……『女優』だったから?
 それとも……彼のアリスへの願い?

「……ジュン!」

 アリスは今度こそ、顔を覆って、泣き崩れた。
 彼にとっての『最愛の女性』には成り得なかったけれど、『愛されていた』のは確かだった。
 それを今、ここで、やっと実感した。
 異性とか同居人とか……そんな『括り』で愛されているだなんて、もう、そんな『愛され方』などにこだわる気持ちも、吹き飛ばされていた。

 ただ──『生きて欲しい』
 ただ──それだけの為に……。

「アリス? 義兄様なら、まだそこらへんにいると思うわ……。今なら、まだ」
「!」

 ソファーで泣き崩れたアリスの背を、跪いている彼女が撫でながら呟く。

 だけど……アリスは首を振る。

「それで……いいの? これからもこのまま、ロイ兄様の所で?」
「……」

 レイの問いかけにアリスは、正直、迷っていた。
 『戻りたい』、『帰りたい』──私が初めて得た『キラキラした日常』に。
 だけれど、アリスは優しくなだめてくれる『レイ』の顔を見つめた。

 彼女のその静かな綺麗な顔。
 でも、その静かに凪いでいる海を思わせるような、光と影を含ませている微笑みは……とても超越した、何かの激しさを通り抜けてきた後の、おおらかな穏やかさ感じさせる。
 アリスは両手の拳を握った……。

「帰るなら──『自分で帰る』。自分で、彼等の所に帰る」
「そう……」

 誰かに頼ってではなく、『イタリア』までは自分で帰ろう──そう、決めた。
 『レイ』は、まだ何かを言いたげな、残念そうな顔をしていたが……でも、それ以上は何も言おうとしなかった。

「失礼致します。マドモアゼル」

 そこで、栗毛の彼がアリスの前にコーヒーカップを差し出してきた。

「大佐もどうぞ」
「ご苦労様」

 部下の彼がアリスの向かいにも同じカップを丁寧に置く。
 そこへ、彼女も座り直した。

 『レイ』と彼が、静かに見つめ合う。

「大佐、お帰りなさいませ──。『鎌倉でのご療養』は、成果があった様ですね」
「そうね。『鎌倉での療養』だったわね。『療養』は、結構、神経を使ったわ。ここにいるより……」
「──『そういう事』にさせて頂きます」
「これからも、宜しく。ラングラー大尉」
「──お任せ下さい」

 彼のれっきとした落ち着いた顔。
 『レイ』は、彼が淹れたコーヒーを一口、口にした。

「──美味しいわ。大尉」
「有り難うございます」

 二人が微笑み合う。
 どうやら……『彼女の企み』のような物は彼に通じたようだった。

「美味しい……」

 アリスも一口……。

 だけれど、ちょっと涙が浮かんだ。
 本当は、慣れたエスプレッソの味が『懐かしい』──。
 黒いコーヒーに涙が一粒、こぼれ落ちた。
 向かいには『鏡の中の私』でもある、彼女がいる前で──。

 

──私達、彼の願いの為に、自分で生きていく──

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