―◆・◆ 裸婦 ◆・◆―

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雪降る街の住人 10

 

 夫妻なのに、なにやら互いに躊躇っている多恵子と充を見て、さらに拓海は察したようだ。充を見ながら、多恵子に言った。
「まさか、旦那さん。心配で来ちゃったとか」
 言葉にはしなかったが、多恵子の戸惑う笑みがそれに応えていたらしい。
 その途端だった。拓海が目線をこちらに向けない充にはっきりと言った。
「えっと。三浦謙の息子です。初めまして」
 青年のきっちりとした挨拶に、流石に年長の男性である充も顔を上げた。
「初めまして、佐藤です。こちらも、妻がお世話になっております」
 そこはやはり大人の顔だった。でも、充の顔が強ばっている。本当は関わりたくないという顔。目線だってまだ拓海にすら向けようとしない。ただ妻を迎えに来ただけなのに、何故、こんなことになるんだと言いたげな顔。
「こ、こちらこそ。うちの父親が、た、た、多恵子さんにお世話になっています!」
 なんの世話になっているんだと、そんな充のふてくされている様子に多恵子は苦笑い。でも、仕方がない。多恵子からは何も言えない。そして拓海も、そんな『裸婦モデルが妻である夫』の複雑な男心を良く見抜いているようだった。
「俺、今日――親父さんが描いた奥さんの絵を見たけれど。身内だけど、でも、綺麗でしたよ。親父さんらしい裸婦画で」
「はあ……」
 せっかくこちらに向けてくれた充の顔が、また横に逸れた。そして不機嫌そうな返答。多恵子もハラハラする。拓海は多恵子と充の仲を助ける為に言ってくれているのだろうが、それが今ある状態で結果で事実でも、充にとっては妻が確かに裸になって見知らぬ男の目に留まっていることを表すことは、どんなに『美しいこと』でも苦痛なんだと。拓海の心遣いは有り難いが、多恵子は額を覆ってのけぞりたくなる思い。でも拓海は妙に必死だった。
「それにうちの親父さん、裸婦モデルとは絶対に寝ないってことで画壇では有名なんです。俺もガキの頃から良く知っているし。えっとその理由については、今、奥さんにお話しましたから!」
 そこまで青年が言い切ったので、今度の充は面食らった顔でこちらをやっと見てくれた。拓海とやっと目が合う充。それに安心したのか拓海が席から外れた。
「じゃあ、俺はこれで。多恵子さん、また」
「え、ええ……。あ、有り難う」
 茫然としている多恵子を横目に、拓海はそそくさと行ってしまう。充とすれ違う時、軽い会釈を残して。
 静かな空間に、今度は佐藤夫妻だけになる。暫しの沈黙と、妙に解け合うことが出来ない空気。でも多恵子も解っていた。互いにちょっと照れくさいのだと。
「急にどうしたの。仕事は……?」
 多恵子から小さく呟くと、やっと充が向かいの席に来た。先程まで拓海が座っていた、拓海の飲み残しのカップがある席に。その青年は今、風を凌ぐ格好で藤岡画廊に向かっている。そんな姿が多恵子がいる窓辺に見えた。
「いや、ちょっと。その、興味が湧いて」
 そして目の前の夫も、ぎこちないまま、今度は多恵子と目を合わせてくれない。でも、充はコートを脱ぎながら、そこに座ってくれた。それを確かめ、多恵子も着たばかりのコートを脱いで、再び座る。
「興味って……。先生の絵に?」
「いや。ただ絵画に」
 本当かしらと多恵子は思った。そう誤魔化しているだけなのかも知れないが、そこはこれまた男心。素知らぬふりをすることにする。
 互いに向かい合って座っても、充は外を眺めているだけで黙っている。
 ああ、また窓辺を見て、なにやら思い耽る男と向かい合っているんだわ……なんて、拓海と充の不機嫌な顔が重なって、多恵子は溜め息をつきたいが、どこか笑い出した気持ちもあって、今は喉の下に押さえ込んだ。
 そこの客が向かい合って座り、落ち着いたと判断したのか、ここのマスターがオーダーを取りに来た。
「ブレンド。お前は……」
「いえ、私は」
 自分は既にご馳走になったから、もういいと思ったのだが。それを言おうとしたところ、充に遮られた。
「紅茶を。レモンもミルクもいりません。ダージリンで」
 マスターの『かしこまりました』という静かな声。でも多恵子はびっくりして目を丸くした。多恵子の好みそのまま、頼もしい声で気を利かせる姿。まさに確固たる夫の姿をしてくれている充がいた。
 ちょっと珍しいことだったので、ただ驚くまま言葉が出てこない多恵子。そしてそんなことは意に介する様子もなく、何事もなかったように窓辺を見つめるだけの充。そんな夫と二人きり。ただ暖かな灯りの中、互いに向き合っているだけだった。
 だけれど、やっと彼が口を開く。
「せっかく来たから、暖まってから帰ろう。お前も俺につき合えよ」
「う、うん」
 心配してきてくれたの? そう言いたいけど、言っても、彼にその言葉を避けられそうで、やはり多恵子の口は動かない。でも。
「入り口にあるでっかい裸婦画。先生の絵だったな」
 このギャラリーの入り口に、確かに先生の絵はある。大型のちょっと渋めの色合いの――。
「あるわね。先生が北陸の日本海を転々としている時にお世話になった旅館の女将さんとか言っていたかしら」
 ふくよかな体型、もう年配である女性の後ろ姿。渋い苔色の背景に、裸婦の手には朱色の長い帯。その帯がするりと床へと垂れ下がり、女性の足下には、脱いだばかりと思わせるように無造作に広がっている辻が花の着物。とても渋い画風のものだった。眺めているととてもしみじみとする絵で、多恵子も一目で気に入っていた。年配の女性らしく、既に女神のような女体裸線は存在しない。でも、ふくよかで柔らか、そして穏やかなその線は、まさにその女性の生き様を表してるように見えたものだった。その歳まで自分らしく生きてきたからこそ、女将さんも先生の前で、身を包み込んでいる着物を素直に脱げたに違いない。同じ裸婦モデルになった多恵子にはそう思えた。そして、女将さんに憧れた。そんなふうに、女性の美のなんたるかを、美線ではない何かで、訴えるのでなく、優しく教えてくれたような絵だった。自分もあんなふうに……。そう思っているのだけれど。
「いいな、あの絵。味がある。先生の表現がそう見せているんだろうけれど、その年配の女性の身体の線がその人となりを見せてくれているようで凄く良い。惹きつけるものがあるな」
「そんなふうに思えたの」
「なんだよ。俺だって絵を見て感想ぐらい言えるぞ」
「ううん、そうじゃなくて。私もそう思えた絵だったから。素敵よね。女将さんの、生き方が出ている気がして」
「ああ。強くて優しい。そっか、裸婦画はそういうもんなんだって、感じたよ。来て良かった」
 やっぱり先生の絵を見に来たんじゃない。と――多恵子は言いたくなって、でも堪えた。そしてひっそりと多恵子も微笑む。夫の気持ちに負担はかけているだろうけれど、でも、今、多恵子が自分自身を表現している場にそんな共感を持ってくれたことは、とても嬉しいことだった。
 充はそれっきり、また窓辺を見て黙ってしまう。そして多恵子も、そんな夫をそのままにしておく。
 それでもまだ、珈琲がなかなか来ないので、多恵子は今だからこそ、思い切って聞いてみた。
「迎えに来てくれたの?」
 返事など期待していない。でもそれしかないと思いつつも、夫の口からそれを聞かせて欲しいのも妻心。我慢しないで、だから聞いてみた。
「うん」
 そんな一言が返ってきて、多恵子は驚き半分、でも願ったり叶ったりの反応に喜びに溢れてしまう。
「有り難う」
「別に」
 やがて二人の手元に、カップが運ばれてくる。
 外はまた雪――。夫はずっと外を見ている。
 その間、多恵子は紅茶を味わいながら、無言の夫に一人で話しかけた。今日の先生の状態。充が言ったとおり根を詰めていたこと。そしてスケジュールのこと。息子の大輔にちょっとした基礎レッスンをしてくれること。父親の充の許可がいること。そして、拓海から聞かされた先生の過去も。だから裸婦モデルは先生にとっては異性ではないことを。
 だが充は珈琲を飲みながら『ふうん、ふうん』と素っ気ない相槌を打つだけ。でも言い返してこないなら、全ては聞き入れているのだと多恵子は思っていた。

 共に雪の中、また夫妻は肩を並べ地下鉄で自宅に帰る。
 言葉は少なくとも、二人はずっと並んで同じ歩幅で帰宅した。
 多恵子にはそれで充分。今の充を愛している実感。

 家に帰るとまた、息子が待ちぼうけだった。
 後で知ったが、自宅の電話には充からの『多恵、帰っているのか』という留守電が入っていたことを大輔から聞かされた。でも、多恵子の携帯電話にはなんの着信もなし。そこまで直接的に介入することは出来なかったようだった。
 それでも。午前中に出かけるとしっかりと告げた妻が、午後になっても帰ってきていないのを案じて……。アトリエ近くまで、早退して来てくれたのだと知った。

 妻が今、裸で描かれているのか。それとも……。まだ拭えない疑念。そんな焦燥と葛藤を抱え、夫は仕事よりも妻を案じてきてくれたのだと、多恵子は思った。そしてそんな夫の気持ちを有り難く思い、そして内緒で始めてしまったことでこんな気持ちにさせてしまったことにも、心でそっと詫びる。
 でも、そこで妻を迎えに来たギャラリーカフェで出会った裸婦画。それに見惚れた充は言う。――『お前も裸婦モデルになった以上、自分が納得できるようにやれよ』。カフェを出る間際、女将さんの絵を見ながら充がそう言ってくれた。
 多恵子もそっと頷く。夫の『なった以上』という言葉の向こうに、裸になってまで納得できない中途半端なことをするな。女将さんのように潔く……。そんなふうにも聞こえた多恵子。都合の良い解釈だろうか。
 夫のその言葉で、なんとなく良いヒントをもらった気もした。『裸になる』とは、もう逃げ場がないことでもあるのだと。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 その日の晩、佐藤家の夕食は『すき焼き』だった。
 迎えに来てくれた夫の充と、地下鉄の駅を降りて直ぐのところにあるスーパーで共に買い物をしたのだ。
 カートを押す夫と、食材を吟味する妻。こんなふうに二人で買い物をするのもいつ以来だろうかと多恵子は思ったほど。だが充はどこか嬉しそうな顔。多恵子が勝手にそう思い描いているだけの、気のせいなのだろうか。
 そんな充が『暖かい鍋にしよう。そうだ。すき焼きだ、すき焼きだ』と、精肉売り場で勝手に上等の牛肉を選んでカートに放り込んだのだ。主婦としては『なんて値段のものを選ぶのよ!』と、美味い物を食いたければ、少しは値が張るのは当たり前――なんていう男の勝手な主義に眉を吊り上げたくなった。でもそこはそこ。今日のような日を台無しにしたくない気持ちもあった多恵子は、『仕方がないわね』と、なんとなく……寄り添う幸せな実感に負かされてしまい充の好きにさせた。
 喜んだのは夫だけじゃない。帰宅を待ちわびていた大輔も『今夜はすき焼き』と知ると、大はしゃぎだった。

「大輔。父さんも三浦先生と同じで、高校に行くまでは絵画教室は必要ないと思っている。冬休みの間もきちんと学習塾に行くこと。宿題をすること。それを約束するなら、三浦先生の個人レッスンに行ってもいいぞ」
「え。個人レッスンって?」
 すき焼きが出来上がりそうな食卓。充と大輔は、多恵子がすき焼きを作り終えるのを待つ食卓でそんなやり取りを始めていた。
 ビーナス像の約束を忘れていなかった大輔。しかしまだ母が裸婦モデルをしていることを、父親にばれないようにじっと黙っていてくれた大輔。なのに急に、何も知らなかったはずの父親がなんの前置きもなく『三浦先生の個人レッスンに行っても良い』なんて言いだしているのだ。
 途方に暮れている大輔の顔が、助けを求めるように母に向けられている。多恵子も、今まで黙ってくれていた息子の健気な心に詫びるようにして、静かにこっくりと頷いた。
「お父さん、モデルのお仕事を許してくれたの。それから先生も一段落ついたから、またスケッチに戻ることになって。その合間に、大輔の基礎レッスンもしてくれることなったの。でも先生は、お父さんの許可がレッスンの最低条件だって仰るから、お母さん、今日、お父さんに相談したところなのよ」
「短期間でも画家から手ほどきを受けられるだなんて、滅多にないチャンスだろう。大輔、先生にしっかり教わってこい」
「ほ、ほんとうに!」
 息子の嬉しそうな笑顔が、リビングの光の中、ぱあっと散るように広がった。
 多恵子と充もそっと顔を見合わせ、微笑み合う。
「父さん、有り難う。でもお母さんのモデルの仕事、よく許可したなあ。裸だよ、裸。妻が裸」
 息子の途端のツッコミに、流石の充もちょっと苦笑いを見せたが、それも一瞬。
「バーカ。母さんの今の仕事は、芸術なんだからな。今日だって三浦先生が描いた、旅館の女将さん裸婦画を見ていいなーと思ったんだからな」
「父さんに芸術が分かるの」
「あったりまえだろ!」
 うそ。と、多恵子は言いたくなったが、でもそこは息子の手前、気前の良い夫で男であろうと強がっている充が可笑しくて、多恵子はそっと笑いを噛み殺していた。父親として男としての威厳をみせようと必死な充。彼の為にも大輔の為にも、そのままにしておこうと、最後には笑っていた。
 食卓には小さいながらも暖かな鍋。それを親子三人でつつく。佐藤家の小さな食卓。でもそこには暖かさと笑いと幸せが確かにあった。 

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 長い一日だった。
 風は止み、降り続ける雪は静かにゆっくり、スローモーションのように降りしきる。白い花びらが夜空の中、息を潜めるように咲き乱れているようだった。
 そんないつもの優しい気配を感じながら、多恵子は既にベッドで一人、横になっていた。

 男達は相変わらず、宵っ張り。
 うとうとしていると、いつものように充が隣にやってくる。
「多恵、起きているのか」
「……うん」
 眠り半分、目覚め半分。夫の声が聞こえたから、ただ返事をしただけだった。
「おやすみ」
「うん、ミチ」
 多恵子の傍らに、やんわりと忍び込んできたぬくもり。返事があっても、既に眠り半分の妻を気遣ってか、今夜の充はただ多恵子の傍に寄り添って眠るだけだった。
 だが多恵子は、一人でうとうとしていた時以上の暖かさに包まれ始めているのをしっかり肌で感じていた。だから今度こそ、深い眠りに落ちていく。
 しんしんと多恵子の周りに降り積もる雪は、真っ白で冷たいようだけれど、ふわりふわりと羽毛のように包み込んでくれる。そう、ミチがくれたファーの髪飾りのような感触。柔らかでくすぐったい……。そんな夢を見ていたのだろうか。夜の底へ心地よく落ちていく。

 

 紺色の空に羽のように舞う牡丹雪。
 ふんわりと自分を埋め尽くそうとしていた真綿のような雪の中から、女はそっと静かに立ち上がる。  真っ白な肌は、夜空に良く映えた。衰えを僅かに見せるようになったと嘆いていたはずの肌が、そこではとても綺麗に白く輝き、我ながらうっとりとする。
 まだまだ、自分の肌を愛せる。女はすっと立ち上がり、あちこちにまとわりついている羽毛を雪を払いのける。
 なにもまとわない素肌を、その紺碧の空の中、迷わず晒す。
 気が付くとそこには、黒いセーターにジーンズ姿の男性が白い裸体に微笑みかけている。
「こっちだよ」
 彼の言葉に誘われるまま、その白い裸体を向かわせる。
 なんにもありません。私には。
 女の唇が、静かに囁いていた。
 手を差し伸べるその男性の手を取って、女は迷わず歩く。裸体で。なににも囚われず、そして、なにもまとわずに。そして迷いもない。
「そこに座って」
 男性の手には真っ白なコンテ。
 雪の上に座る真っ白な裸体を見つめながら、彼が夜空に描き出すのは――。
 空に浮かび上がった白い線の裸婦は、決して均等がとれた美しいものではない。どこかが必ずいびつでアンバランス。
 でも二人は空を見上げて、微笑んでいた。
 そんな夜空に浮かんだ裸婦は、まるで真冬の空に君臨する星座のようだった。ああ、この男性だから、こんなふうに誇れるのだろうか。満足げに空を見上げていると、いつのまにか自分の肌の目の前には、そのコンテを手にしている男性がいた。
 彼の鼻先がすぐそこに。女の肌と乳房の目の前。でもその鼻先は決して触れようとはしない。唇も今にも口づけてくれそうなのに、それだけ。そして彼は肌の匂いを確かめている。
 どのような匂いがするのか聞きたいのに、声が出なかった。そして彼も教えてくれない。でも、うっとりといつまでも触れそうで触れないところで、堪能している穏やかな顔。
 指先もすっと肌に向けて伸ばしているのに、寸前で止まっている。まるでそこに一枚のベールがあって邪魔をしているようだった。
 もどかしそうな鼻先、唇、そして指先。そして女の肌も、ベールを通して男の温かみを感じ取るだけで、それが自分の肌をどのように感じ取ってくれるのか知りたくて、もどかしく思っている。
 なのに急に……。赤や黄色、緑色の絵の具で汚れている長い指先が、乳房の頂きに伸ばされる。ベールに避けられるかと思ったら、何故か、その指先がつんと赤い頂きに触れてしまった。
 男の人がしたのは、触れたのはたったそれだけ。指先のキス。それだけ。彼はただそれだけのことが何であるか分かっているように、とても落ち着いた笑みでそれを見つめている。
 甘やかな痺れと、ぽっと灯った熱さが、乳房に、そして肌全体へと広がっていく……。
 つんと空に向けて尖ってしまった胸先はまるで、直ぐそこで微笑んでいる男の人に愛らしく挨拶をしているようだった。

 

 はっと目が覚めると、多恵子の目の前には真っ白な天井。
 いつもの寝室。そして隣にはいつもの暖かさを感じさせてくれる男が眠っていた。
 もう朝だった。
 多恵子は一人、額に滲んでいた汗に気が付いて、そっと拭った。
 淡い桃色のパジャマが、しんなりと湿っている。そして多恵子の息は少しだけ荒かった。
 半身起きあがった多恵子は、額の黒髪をかき上げ、茫然とした。
 どことなく甘い余韻が身体を包み込んでいる……。はっきりしない男の人が、自分を懸命に見つめてくれていた夢?
 しっとりと湿気ている黒髪、そしてうっすらと汗が滲んでいる首筋、熱い体温がふわっと胸元から立ちこめ、昨夜、身体を洗った石鹸の香りが多恵子の鼻先に届いた。
 やがてどうしてそのような夢を見たのか、多恵子もうすうす自覚し始める。
 汗が引いて、少しだけぞくっとした身体を多恵子は抱きしめる。寝室の暖房がタイマーで動き始めたばかりなのか、暖かい空気が届くけれど、また部屋もひんやりしていた。
 それでも。多恵子は急に、居ても立ってもいられなくなり、その場でパジャマを脱ぎ始める。下着代わりに着ているキャミソールも、そしてショーツも脱いだ。
 隣にはまだ寝息を立てて眠っている充。なのに多恵子は彼の隣で全裸になる。脱いだ衣服を放って、多恵子は毛布から飛び出すようにしてベッドを降りた。
 寝室のクローゼット。その傍の壁に立てかけている姿見に向かう。
 その鏡の前に多恵子は立つ。なにも身につけていない格好で。寝起きの格好で。
 そして自分自身を改めてまじまじと眺める。
 癖のついた黒髪。まとまりなく広がっている寝起きの頭。化粧をしていない顔。そして首……。多恵子の指先は、ほんの少し頼りなくなった乳房に触れる。そしてその丸みを指でなぞった。決して、まあるくはない。まったく崩れているわけではないが、それでも張りがある丸みではない。少し変形した丸みで、乳頭がほんの少し上向きになってしまった乳房。
 でも多恵子はそれをそっと労るように両手で包み込んだ。少し丸み帯びている腹、そして下腹部の黒毛。そのまま背を向けると、今度はこれまた頼りなくなった尻を鏡に映し、多恵子は真向かい眺めた。
 これが全て。
 それを多恵子はこの目に焼き付けようとしていた。
「多恵、なにしているんだ」
 ベッドからそんな声が聞こえ、多恵子は急に我に返る。そっと振り向くと、気怠そうに起きあがった充がこちらを訝しそうに見ていた。
 多恵子は飛び上がりたいほどびっくりし恥ずかしくなり、すぐそこのベッドに潜り込みたくなった。
 でも充は寝ぼけ眼で黒髪をかき、ゆっくりと欠伸をしている。間延びした顔でまた全裸で鏡の前にいる多恵子を見た。
「それ、モデルの練習なのか」
「ち、ちがうけど」
 自分の身体を、もう一度良く見ておこうと思って。
 でも何故、そんな気持ちになったのか。自分でも唐突だったから上手く説明が出来ない。
 そんなふうに躊躇っている多恵子を見た充が、ベッドから降りてしまう。そして彼は多恵子が寝ていた足下にある妻のガウンを手にしてこちらにやってきた。
「まだ部屋が暖まっていないじゃないか」
 多恵子の肩にそれがふわりとかけられた。全裸の上に、ふわりと暖かいガウンが身を包む。すると多恵子の肌がふっと緊張から溶けたようだった。
「なに。お前、自信がないの」
 鏡にガウンを羽織ったばかりの裸の多恵子。その後ろに夫の充。彼がそっと妻の肩を両手で包み込んだ。
 それだけで、多恵子は充の手に甘えるようにして頬を預ける。
「ううん、そうじゃないの。もう一度、知っておきたかっただけ」
 自分だけの身体の線。それをもう一度良くみて、直視して。
 気が付くつと、充がそっと背中から多恵子を抱きしめてくれていた。一気に暖かくなる多恵子の裸体。ほぐれるようにして、多恵子も充の腕の中へと力を抜いた。
 鏡は寝室の窓の側にある。この日の朝、今まで以上に深く雪が降り積もったようで、外は真っ白に染まっている。灰色の雲が立ちこめている空からは、まだまだ、ふわりとした牡丹雪が舞い降りてきていた。
 徐々に暖かくなる寝室。でも、もう多恵子の肌は暖まっていた。
 何も言わない、言葉に不器用な夫に包み込まれて、多恵子からそっと彼に口付けていた。
 私の身体の線の中に、貴方もいるから。
 そう呟きながら。 

 

 

 

Update/2009.3.1
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