―◆・◆ 裸婦 ◆・◆―

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雪降る街の住人 9

 

「俺もこの年齢になって初めて思ったんだけれど。親父さんって若い時はすごい情熱的で、なんていうかー夢見がちだったというかー。母を溺愛しすぎていたというかー」
 ますます拓海が気恥ずかしそうにして、とうとう少年のように『ダメだ』と顔を覆ってしまった。あんなに威勢良く生意気な青年だったのに。
 そして多恵子としては、どうも想像しづらい。画壇が『駄作』と判を押した夫妻の作品がどのように『ファンタジック』だったのかと。すると拓海がまた懇々と語り始める。
「ええと。俺、知り合いにもあんまり話さないんだけれど」
 恥ずかしそうにしながらも、拓海は『佐藤さんだから話してみる』と言いだした。父親にあのタッチを使わせたモデルとしての威力なのか権威なのか。それだけで多恵子は生意気な画伯の息子から、ある程度の信頼を得てしまったようだった。
「俺がちっこい時の記憶でも、母は家の中ではほとんどガウン一枚で過ごしていたこともあって……」
「常に先生のモデルをしていたということね」
 『素敵なご夫妻だったんだわ』と多恵子は思う。絵描きの夫に『お前だけだよ』と言われながらその裸体を描かれるだなんて、女として幸せではないかと。同じ女としてそう思う。
「アトリエにしていた部屋に、両親は良くいたから、ちっこい俺も二人が恋しくなるとアトリエまで、時々覗きに行っていた。二人は、その、」
 拓海の歯切れが悪くなる。そして益々頬を染めた顔。多恵子の目も見られないようだった。
「その、俺はその時はよく分からなかったんだけれど――。まあ、なんていうの。妻の裸を描く過程には、その、夫妻には、いや、男と女には不可欠なことを、それはそれは飽きることなく……」
 あ、分かった。と、多恵子も途端に拓海と同調するよう頬を染めてしまう。
「ほ、本当に情熱的だったのね」
 拓海がこっくりと降参したように頷いた。
 なんと、先生にもそんな若さに溢れるままに情熱的な時期があったのだという驚き。今の三浦先生からは想像できなかった。どちらかというと現在の作風通りに穏やかさを保って、モデルとは冷徹なまでにその一線を引いて、すれすれのところで女性の裸体を描き出せる人だと思っていたからだ。それが気持ちが赴くままに生身の女性を愛欲で抱きしめながら、作品を描き出していた時期があっただなんて……想像できない。
「裸で抱き合って眠っている時もあった。ソファーやベッドでシーツにくるまって。親父さんも裸のままで、同じように裸で眠っている母をスケッチしていたり……」
 そんな睦み合いながら創作に取り組んでいた両親の姿、数々の記憶。でももう、その時の拓海の顔は照れていなかった。どこかうっとりとした目で窓辺を見つめている。
「夕暮れのアトリエに二人。父の肌に、裸のまま寄り添っている母の姿が俺の記憶では一番鮮烈で――」
 深く愛し合う両親を、彼は美しい光景として刻んでいる。幼心にもきっとそれは、良き思い出となって焼き付いていたのだろう。そして多恵子もその情景を美しく思い描いていた。先生の素肌と知らない女性が夕暮れに寄り添っている姿を――。
「でも。あんまりにも激しいから、ガキの教育に良くないと、俺の面倒を見てくれていた家政婦のおばちゃんや、時々来てくれた祖母ちゃんには、すぐにアトリエから連れ去られていたよ。祖母ちゃんは、すんごく呆れていたけれど、容認だったみたいで」
 なんと、まあ――と、流石に多恵子も呆れた。でもその反面、どうしてか自分の身体が熱くなってきていることも感じ取っている。何故なのかわからないけれど、そんな抱き合う夫妻を想像した途端だった。
「父は、母を溺愛するあまり、母を神格化していたんだと思うんだ。簡単に言えば、女神とか聖母とか、そういう類のものを思わす裸婦画。裸婦なのに、あまりにもファンタジックに描かれていて。藤岡のおじさんも『生身の妻を無視した作品』と痛烈だった」
 多恵子も懸命に、その烙印を押され世に出てこなかった夫妻最愛の作品を想像する。妻をそこまで持ち上げてしまった作品だからなのか。それとも愛しすぎるが故に、生身を描けなかったのか。どことなくそんな愛しすぎるからこその男心が……。いや、違うと多恵子は首を振る。きっとあの先生は今だからこそ冷徹に見えるけれど、若かったその当時は、今でも時折垣間見せるちっとも汚れていないような純な青年の心のままに、妻を美しく描きたかっただけだったのではないか。そんな気がした。
 でも、それだけ愛し合っていて、何故別れてしまったのか。いや、それも……疑問に思った途端、多恵子には直ぐに想像が出来た。愛し合いながらの夫妻共同の作品を否定された二人にとっては、自分達の愛を否定されたようなもの。それが何故か、夫妻で苛む日々――。それを拓海から話してくれる。
「一生の絵画パートナーである誓いを先に破ったのは、親父だったと聞かされているんだ」
「先生から?」
 さらなる三浦先生の過去が明かされていく。外はすっかり暗くなってしまっても、もう多恵子を急かすことなく、画伯の息子の目の前に釘付けにされていた。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 驚愕に塗り固められた無言の主婦と、冷めた顔をしながらも口調は懸命な青年が向かい合う窓辺。
 二人を僅かに象っていた日は落ち、柔らかで暖かいカフェの照明に包まれ始める。
 ゆったりとしたクラシックのBGMが流れる店内。でも二人の間を埋めるのは青年の声だけ。それが窓辺の席にぎっしりと並んでいく。まるでカタカタとタイプを打つように。先生の過去が打ち出されていく。
「そう。悪評の烙印を押された後、父は母を描けなくなったから。とうとう他のモデルで絵を描くようになってしまったと聞かされているんだ」
 拓海の話は続く。ただそこに茫然とするしかなくなった多恵子を目の前に、拓海は言葉を次々と並べていく。多恵子は目の前からさっと通り過ぎていってしまうそれらを、拾い損ねないよう捕らえることに精一杯。
 
「母は今まで通りに、専属モデルを切望していた。もっと自分を見て描いて欲しいと」
 二人だけの愛を紡いできた熱気のアトリエ。そこに他の女性が来るようになる。そこは三浦謙とその妻だけの場所だったところ。そこへ他の素肌の女性が……。
 夫の目が視線が妻から外された日。そして妻は言ったそうだ。『どうして生身の私を描いてくれなかったの』と。妻は気が付いていた。でも彼女は夫の風変わりな作風をその時は止めなかった。神格化されたような偶像のような女性は自分であって自分ではない。画家の妻ながら、それが分かっていて。でも夫が表現するまま受け入れた。その結果が『駄作』という悪評。
 妻の苦悩はそれだけでは終わらなかった。妻から離れた途端に、夫の作品が再び評価を得る。『やっと元に戻った』と言いだす仲間もいたとのこと。まるで妻が夫を貶めていたかのような、そんな評価の一切を、三浦謙の最愛のモデルだった女が背負うことになってしまう。
「そして別れを切り出したのは母――」
 拓海の絞り出す悲哀に満ちた声。自分も裸婦モデル。もし先生の作品が『モデルのせいだ』なんて世間に言われたら……。妻ならなおさらなのこと。多恵子は身につまされる思いで、拓海の口元と眼差しを見守っていた。
 拓海の話では、三浦先生は『別れない。モデルが一時期変わっただけ。またお前を描く』と言い張ったと聞かされているとか。でも妻は『もう限界だ』と離婚を望んだそうだ。
 やがて先生も疲れ、離婚を承諾。そのまま広島の家を出てしまい、放浪の創作人となってしまったとのことだった。その後の女性遍歴も、大人になった今の拓海はうすうす気が付いているようで、でも、彼にとっては『どれも一時期の気休め』としか感じ取っていないようだった。つまり……。
「拓海さんは、まだお父様とお母様は愛し合えると信じているのね」
 多恵子はどことなくそう思った。それだけ愛し合っていたなら、今でも忘れていないはずだ。愛し合ったまま壊れたのなら、今まではお互いに手放してしまっただけで、どんなに時が経ってもまた繋がることが出来るのではないかと。だが、多恵子よりずっと年若い青年は思った以上にドライだった。
「信じる? なにを? 壊れたものは壊れたもの。それだけじゃないか。元通りなんてあるものか」
 多恵子は面食らう。子供なら、どんなに大きくなってもそれを願っているものだと信じたかった。しかしそれは、ありきたりな多恵子の、恋愛の経験など一匙ほどの多恵子には、あまりにも綺麗事なのだと思い知らせるかのよう拓海に証明されてしまう。
「親父さんだけじゃないよ。母も、その後何人か。うち一人とは結婚したんだけれど――今はバツ2」
 奥さんも、先生以外の人と関係が! と、多恵子は驚愕した。それでその間、拓海はどのような少年期を経てきたのかと、出会ったばかりだがつい息子を持つ母心が働いてしまったのだが。
「別に。俺はもう途中から慣れっこだったし。男と女が肉体で愛することも、見ちゃっていたから。離れたり、壊れたりしたら、その後もなんとなく違う相手で生きていけるもんなんだって思ったからさ」
 もう多恵子も何も言えなかった。言えるはずもない。多恵子なんかよりもずっと、若い拓海の方が現実を見て体験してきている。
 多恵子は肩の力を落とし『そうだったの……』と、やっと自分も珈琲カップを手元に寄せる。
 拓海と同じように砂糖を一匙、フレッシュミルクを注ぎ入れる。真っ白なミルクが静かに輪をくるくると描く。カップの中の黒色を暖かそうな色合い変え、ほんのり甘そうに溶け込んでいく。でも多恵子の心は、そんな優しげな色合いを醸し出したカップを見つめても、どこも和まない暖まらない。どうしてか、先生のあの黒い目が多恵子の中に浮かび上がった。真っ黒い目の無言の視線。――『先生は独り』。多恵子は密かに小さく呟いて、カップを口元に寄せた。珈琲は苦いはずなのに、砂糖とミルクを入れさえすれば、ほんのり甘く優しくなる。それでも多恵子の心は優しくほぐれることはない。むしろ落ち着つかない。ざわざわと少しずつ波立っていた。
 精一杯に言葉を並べ立てていた目の前の青年も落ち着いていた。静かに珈琲を飲み始めた多恵子を見て、ちょっと申し訳なさそうな顔。そしてバツが悪そうに、落ち着きなく身体を揺り動かし始めていた。
 怒濤のように両親の過去を話してしまったこと、そして、初対面で多恵子を疑って掛かったことを気にしているのだろう。
 だから、ここは年長である多恵子から手を差し伸べてみた。
「気にしないで。でも、先生のことが少し知れて良かったかも。何も知らないでモデルを続けていくことになっていたわね」
「そうかな。画家とモデルはそんなもので良かったのかも」
 徐々に拓海が項垂れていく。そして後悔をするように苦い表情を浮かべ、ギュッと唇を噛んでいた。
「母との痛手で封印したはずの手法を、親父さんがまた垣間見せていたから。あの絵を一目見て、俺、かあっとなっちゃって……。えっと、もし本当に違うなら疑って悪かった。謝ります」
 多恵子はもう一度『ちっとも。気にしないで』と、今度は優しく微笑みかける。そうするとあんなに多恵子を警戒していた青年の表情が、やっと和らいだ。
 その顔は、三浦先生とよく似ていた。目元は先生よりずっと涼しげだけれど、こういう男性の笑顔は幾つになっても憎めない類の笑顔なんだろうなと思わす程の。そんな父親と似ている笑顔。それを目にしたら、多恵子も思わず頬が緩んでしまう。
 気心知れたのか、拓海も肩の力を抜いてカップを手にした。
「なにも俺が札幌に来る時に、こんな嵐みたいな雪にならなくてもいいのにさー。もうちょっとで新千歳空港に降りられないところだったよ」
 途端に他愛もない話題に話しぶり。雪は止んだが外の風の様子を眺める拓海の笑顔。そこにもう、多恵子に対しての疑念が晴れていることをそっと伝えてくれているかのよう――。
「これだけ風が強い日はよく欠航になるものね」
 多恵子も力を抜いて微笑んだ。もう……先生の話は終わったのだ。
「佐藤さんは道産子?」
「うん、道産子。ずっと札幌。道外に出たことはあまりないわね」
「旅行くらいあるでしょ」
 多恵子は首を振った。
「ううん、修学旅行ぐらいかしら。子育てに主婦に追われているうちに、そんな暇はなかったわね。家族との旅行もだいたい道内だったし」
「ふうん、なんか勿体ないなー。でも、うちの母も広島近辺かな。東京とか知らない遠い土地は嫌いだって言うもんな」
 カップを傾ける動きが、一瞬止まってしまう多恵子。そこになんとなく、妻だからこその強い拒否が込められてるような気にさせられたのだ。
「その土地に馴染みがあるのでしょうし、穏やかな気候と共にあると都会は暮らしづらいのかもね……」
 なにげなく会話に応えていた。でも多恵子は行ったこともない温暖であろう瀬戸内の風情を頭の中に懸命に描こうとしていた。でも、なにも描けない。未知の世界。
 ただ瀬戸内が未知なのではなく、そこであっただろう男女の姿が未知であるのだと、多恵子は気が付いていた。
「子育てが終わったら、私も瀬戸内に行ってみようかしら」
「俺から見たら、札幌は別世界だよ。特に冬ね。それと同じように感じてくれるかな。向こうの冬でも俺達には寒い冬なんだけれど。札幌に比べたらやっぱり穏やかだと思うな。特に春になったらぱあっと咲く黄色い菜の花が……」
 和やかに緩んだ拓海が教えてくれる遠い土地の世界を、多恵子も頭に浮かべる。――黄色い菜の花が一斉に咲く。三月の瀬戸内の青々とした海とのコントラストが凄く良い――。美大生らしい、色彩を上手く想像させる表現に、多恵子も思わず感嘆してしまう。そしてそれが、いつかは、先生の日常だったのだと。
 今は、真っ白に凍える色に染まり始めている札幌で、独り。
 何故、こんなに溜め息が出てしまうのか。多恵子はふと自分を不思議に思った。
「あのさ。ちょっと質問なんだけれど。佐藤さんのご主人は、奥さんが裸のモデルをしていることを知っているの。知っていたとして、どうして許してくれたのかな」
 やっぱりそこは気になるわよねーと、多恵子は苦笑いを浮かべながら珈琲カップを傾ける。
「つい最近なの。旦那さんに打ち明けたのは」
 これまた先生が驚いた時とまったく同じ顔を拓海がする。今度の多恵子は笑い声を立てていた。
「大喧嘩になったとか!」
「うーん。いつもの喧嘩の、ちょっと長い期間ヴァージョンかしら。でも、解ってくれて……」
 ほんの少しの罪悪感はまだ多恵子の中に存在している。充は承知してくれても、自分が知らないところで妻が裸になるのを想像しては、ひっそりと胸を痛めているに違いないと――。
「よく解ってくれたね。すげー旦那さんだなあ」
「うん、そこはね……。でも彼も普通の旦那さんよ」
「いやー。それが十何年も一緒にいることが出来た夫婦ってやつなのかなー」
 そうして驚くばかりの拓海が、ふいに呟いた。『だから元々、うちはダメだったのかも』と。
 思わず多恵子は固まった。違うと心の中で大きな声が聞こえる。多恵子には解る。自分が平凡だからこそ――。
 いいえ、そうじゃないのよ、拓海君。乗り越えられなかったから、お父さんとお母さんは別れた訳じゃない。違うの。もっともっと激しいものだったの。他にはどこにもない二人だけの激しさを、お父さんとお母さんは共有していたの。だからよ、だから……だからこそ、別れる時も激しいままに離別した。壊れる音はとても激しく鋭く大きな音だったに違いない。激しく求め合ったからこそ――。
 多恵子はそれを次々とこの口から連ねて、先程の拓海のように隙間なく言葉を並べて伝えたいと思った。なのに、言えなかった。そこが彼の真っ直ぐな若さとは違うところなのかもしれない。何事にもワンテンポ置いて躊躇い、唇を噛んで止めてしまう自分にがっかりしたりしている。
 何故、言えないかと。どうあっても多恵子など他人。蚊帳の外にいる人間。それを思うだけで、ボンとどこかに爪弾きにされる気持ちになってしまう。
 そのうちに、何も話すことがなくなったと思ったのか拓海から動いてしまった。 「俺、そろそろ行かないと」
 拓海のその言葉で、多恵子ははっと我に返る。
「俺の無理強いでここに来たから、俺のおごりね」
 さっとオーダーの紙を手にした生意気な仕草。多恵子は思わず笑いをこらえてしまったが、そこは甘えることにした。
「ご馳走様。拓海さん。今夜はお父様とごゆっくり」
 そんな青年の生意気でも女性を気遣う背伸びに甘えてみるのも悪くはないと、ちょっと得意な気分でマフラーを首に巻いた。
 向き合っている間、窓辺の席には他に誰が来ることもなく、ずっと二人だけで終わった。夕方の中途半端な時間、帰ろうとしている今も客が入ってくる様子もなく、とても静かだった。
 なのに、二人が帰るのを分かっていたかのように、そんな静かな空間に男性の来客。どの席に座ろうかと迷っている後ろ姿。その気配を感じ取りながら、二人はこの静かな空間を次の客に譲るが如く、コートを手早く羽織って身支度を整えた。
「多恵?」
 聞き慣れた声に多恵子は驚いて、一瞬だけ固まる。支度をしていた手を止め、奥まった空間に現れた男性へとゆっくりと目線を移し確かめた。いつもの黒いコートを羽織っている夫、充がいた。
 外は暗いが、冬の札幌の日暮れが早いだけで、まだまだ男達は働いている時間帯。なのに、そこに夫がいる。
「ミチ、どうしたの」
 多恵子も驚いているが、充も驚いている顔。だが充から多恵子の視線を避けるよう顔を背けてしまった。
 目の前の拓海も訝しそうだったが、『あ』と声を漏らし、直ぐに察したよう。
「も、もしかして。旦那さん?」
 多恵子は『ええ』と拓海に頷いた。
 充は顔を背けるだけでなく、もうちょっとで背も向け、ここから出て行きそうな姿を見せている。とても居心地が悪そうだった。
 そんな夫を見て、多恵子も察した。心配して来てくれたのだと。迎えに来てくれたのだと。

 

 

 

Update/2009.2.26
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