―◆・◆ 裸婦 ◆・◆―

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愛しい人は 1

 

 いつの間にか、髪が伸びていた。
 先生が『切らないで欲しい』と言ったから、ずっと切らずにいた。前髪も、自分で揃えて。
 癖のまま広がる毛先はもう、乳房の先に届きそうで、そこをふわりふわりとくすぐる程に。
「窓辺がいいな」
「今日は眩しいですね」
 あの日の天気のようだと、先生が笑った。
 もうあの時の男性でもなく、あの日の『恋』を口にした三浦謙という人でもない。多恵子が良く知っている『三浦先生』だった。
 先生が、ケヤキの椅子を窓辺に置いた。そこに多恵子は座る。すぐ目の前に、大きなイーゼル。そこに先生が座った。
「多恵子さんも座って」
 言われ、多恵子は座るのだが。あまりの陽射しに、むき出しの皮膚がちりちりした。
「駄目だ。明るすぎる」
 多恵子が『先生、ここは辛いです』と言う前に、三浦先生が顔をしかめる。こちらに向かって来て、多恵子に触らず、ケヤキの椅子を手にした。
「立って、こう窓辺に手をついて。肌に日が当たらないよう、壁に沿って……」
 いつかのように。丁寧に手と腕を手に取る先生の指示に多恵子も従う。どこか懐かしかった。
 優しくポーズを望む先生に、なにかをリードしてもらっているような錯覚に陥るほど。それはいつだって多恵子を心地よくさせたものだった。
 それが単に画家とモデルの間にあるだけの、触れ合いだとしても。
 そして多恵子はそんな随分と前の自分を思い浮かべ、唇を噛む。なにも知らない、知らなさすぎる弱い女だったと。そんな軟弱な自分を思い返すと、情けなくてしようがない。いくら、男と言うものを夫しか知らなくても。男性を知る方法はもっと他にもいっぱいあったのだろうに。
 充の声が聞こえた。
『いつもそうだ。お前はなにもやり遂げずに最後に必ず尻尾を巻いて逃げてくる。今回ほど、そんなお前に腹が立ったことはない』
 彼の叱責が多恵子の耳の奥で響く。
「なにを考えている。いまの顔は良くない」
 気が付くと、窓辺にこう手をついて――と指示していた先生の顔がすぐそこにあった。
「すみません。気を付けます」
 先生は『うむ』と頷くと、多恵子からはらりと離れ、あっさりとイーゼルに戻っていく。先生はもう、画家として他のことなど一切感じていないのだろう。
 だが先生は、イーゼルの椅子に落ち着くと、窓辺に手をついて壁に寄り添う多恵子を見ていった。
「でも、いいよ。今日の顔はそのままで」
 どうしてですか。と、多恵子は訝る。
「いままでそうしてきたように、ある世界観を作り出そうとしなくても良いと言っているんだ」
「どんな顔をしても、どんな考え事をしても?」
「そうだなあ。言ってみれば、集中するより、散漫していても良いというか」
 また難しいことを言いだしたと、多恵子は眉をひそめるのだが。
「まあ、肩の力を抜いて。いまの貴女の雰囲気を知りたいだけだから」
 先生が言いたいことが、多恵子には解る。……だからだった。だから先生とタエコは、寄り添いすぎてしまったのだと。
「先生、ありのままって。本当は難しいものなのですね」
 それが素晴らしいことのはずなのに。実際には、いつだってなにかしら力んでいるもの。なにが自分らしいかなんて、今でも多恵子にはさっぱりわからない。
 それが、答え――でもあった。
「いいんじゃないの。わからないままでも」
 そして先生も。多恵子のことを良く知ってくれている心地よい返答をいつだって。
 窓に手をついて、多恵子は自分なりのポーズを整える。
 自然体を目指しても、多恵子には多恵子のスタイルを。そうすると、先生の顔つきも変わった。彼の手に黒コンテ。それがカンバスの上を走り始める。
 外は雪の街。今日の陽射しは多恵子には明るすぎる。少しだけ曇ってくれないだろうか。多恵子の頭の中にある自分はそんなイメージ。
 鮮やかすぎる空を見上げる。直ぐ傍には画家の息づかい。カンバスの上を滑るコンテの音。そして先生の、三浦謙の視線が多恵子をなぞっている。
 それだけでも、既に心地よかった。
 青い空と雪を降らせそうもない白い雲を見て、多恵子は一人呟いた。
「充だけだと思っていたんです。でも先生も私をじっと見つめてくれる人。だから……」
 でも、それが多恵子をおかしくした。それはたった一人の人に求めるべきだったのに。わかっていたのに、三浦謙という男の人の眼差しに吸い込まれてしまった。弱い女。誇りのない女。
 先生の息づかいが止まった。多恵子がふと視線を画家へと戻すと、先生はとても力無い笑みを浮かべ、肩を落としていた。
「それはね、多恵子さん。買いかぶりだよ」
「買いかぶり?」
「僕はアトリエでのタエコしか知らなかった。僕がそれ以外で知った貴女は、すべてが『充さん』と一緒にいた貴女だったよ」
 そう、多恵子もやっとそれに気が付くことが出来たのだ。だから、今日、ここに来た。
「貴女の裸婦の背景には、彼と大輔君がいる。そう描こうと思っているよ」
「……ありがとうございます」
 そして。先生は多恵子と同じ答を出していた。それがやっぱり嬉しいシンクロであるのに、だからこそ、どこか哀しかった。
 そんな先生が、ふと言った。
「ご主人、いや『充』さん……だね。今日はいつまで大丈夫かな。彼に心配をさせたくないから」
 『何時でも大丈夫』と、多恵子は答える。だがあとになって、知らぬ間に教えたこともない夫の名を自然と先生に呟いていたことに気が付いた。

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 カンバスの下塗りは、水色が混じった灰色だった。その上に先生がざっとモデル多恵子の立ち姿を下書きする。
 大型のカンバスだから、下書きが始まると、三浦先生は椅子から立ち上がり、身体をいっぱいに使ってコンテを振るう。
 コンテの下書きが終わると、先生はすぐにパレットを手にした。久しぶりに、先生の手元から油の匂いが広がっていった。
 テレピンでの下書き。コンテ同様に、絵筆を手にしても三浦謙は大きく手を振り腕を振り、あの画家の眼差しで多恵子の裸線を追っている顔。
 いつかのように、時間を忘れたアトリエになっていく。陽射しを避けたはずの多恵子の肌に、傾いてきた午後の陽射しが乳房を明るく照らし始める。
 そこでやっと先生が気が付いた。
「一歩、下がって」
「はい」
 日が当たらない壁際に多恵子も下がる。
 先生は、またカンバスに戻っていく。
『多恵子さんも、遠慮せずに言ってください。僕は集中するとこんなになってしまうし。貴女が疲れてしまったら、これから困りますから』
 集中してカンバスに向かっている真顔だけの先生を見て、多恵子はそんなある日を思い出していた。
 裸婦画家にモデルとしてスカウトされながら、なのに脱ぐことが出来ないまま、先生の言葉に甘えてモデルをしていた多恵子。それだけでも、画家に自分の姿を書いてもらっている嬉しさでいっぱいだった。だけれどある日、目が覚め『このまま服を着たままのモデルで許されるわけがない』と気が付き困惑した。もっと先生に描いてもらいたかったから。だけれど『脱ぐ』ことは、夫の充を裏切る行為だと思っていたから、多恵子は『脱げません』と断る決意だった。なのに――。決意をしたその日に、多恵子は脱いでいた。脱がずに先生との出会いを終わりにすることが出来なかったのだ。『本心』は『もっと見つめて欲しい』。日々、何かに埋もれていく不安を投げかけたのは、先生だった。
 裸婦モデルの決意も新たに、ついに先生がカンバスに油絵の具で多恵子を描き始めた時。そう……、今日のようにカンバスに下書きをしていた時。先生は、やっぱり今日のように真顔で多恵子の裸体をその目から離さなかった。夢中で描いているから――多恵子は休憩も望まず、そのまま先生に描いてもらっていた。今日も同じだった。先生は時間を忘れて描くだろう。
 あの日は先生も『僕が夢中になって時間を忘れても、疲れない程度に声をかけて欲しい』と、裸に慣れていない多恵子を気遣ってくれた。
 優しかった。裸になった女に、先生は優しく。そして、描こうとする女性の肌の奥にある物を真っ直ぐに目を逸らさずに見つけようとしてくれるその目に、いつしか――。

「もっと下がって……!」

 厳しい声が飛んできて、多恵子はもの思いから我に返る。よく見ると、また乳房の先に昼下がりの陽射しが辿り着いていた。言われたとおりに日陰に一歩下がる。
 先生は真剣で、もう時間を忘れている。そのままにしておきたい。どんなに日が傾いても、多恵子はポーズをとり続けた。休憩など、一匙も欲すことなく。いや、多恵子も止まりたくない。苦ではない。こうしてずっと先生に見つめられて描かれたい。だから、多恵子からも絶対に言わない。先生と疲れ果てるまで、描き続ける描かれ続ける。
 だが、終わりがあることを多恵子は分かっていた。そして、それがもうすぐで、これが最後だと言うことも――。
 その通りに。久しぶりに訪ねたアトリエは、タエコがすっかり慣れた部屋ではなくなっていた。がらんとして、床ばかりが輝いている味気ないただの部屋になっていた。多恵子と描くために揃えたという洒落たソファーもテーブルもなくなっていた。あるのはケヤキの椅子だけだった。壁に無造作に何十枚も立てかけられていたカンバスもなくなっている。イーゼルも数台でひとまとめに紐でくくられている。そしていくつもの段ボール。それを見れば、誰だって分かる。
 ―― 先生は、このアトリエを出て行く!
 この部屋でモデルの多恵子を待っていたのは、大型のカンバスとそのイーゼルと、絵筆と画材にパレットと油。そして三浦謙という画家だけだった。
 描く人と描かれる人だけ。もう余計な飾りも小物もない。画家という男と裸の女というだけの関係から、いつの間にか派生していた『男と女』とか『恋なのか恋じゃないのか』、『独り身の男と人妻のしがらみ』……そんなもの全てが消え去って。本当に裸、それだけの空間。
 多恵子の肩先に、また陽射しが迫ってきた。先生の目に止まらぬ内に、多恵子はそっと静かに後ろに下がっておいた。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 筆先が白くなっていた。そして、そこが夕の茜に染まる。まだ多恵子の裸体も下塗りの段階だったが、そこで先生が筆を置いた。
「お疲れ様。外で待っているよ」
 筆を置くと、先生はなにもかもを割り切っている横顔で、あっさりと多恵子を置いてアトリエを出て行った。
 これは本当の『三浦謙』という画家なのかも知れない。前の多恵子なら、そんな素っ気ない先生を見たら寂しく思っただろう。だが今はそうは思わなかった。
 ポーズを崩し、書きかけのカンバスを見上げる。ぼうっと浮かび上がる白い裸体には、まだ表情がない。本当に輪郭だけ。しかし多恵子はそれを見ただけで、既に感慨深い思いがあった。今までがあってその裸体があるのか、それとも……。多恵子はそっと首を振り、今は深く考るが故に起きる苦い思いで落ち込まないよう努める。
 やがて、裸のまま一人でいる多恵子の鼻先に紅茶の香り。――『多恵子さん、お茶になるよ』。いつもの先生の声が聞こえ、多恵子も外に出る。あれだけ晴れていたのに、じんわりと夕闇が差す雲間から、小雪が舞い降りてきた。

 

 ティーカップに紅茶を注ぐ先生の背後で、多恵子は服を着る。身支度も整ってソファーで座っていると、先生が向かいのソファーに座り、トレイに乗せたカップを静かに多恵子に差し出してくれる。
「多恵子さんとのお茶も、久しぶりだね」
「そうでしたね」
 暮れに。肌を触れ合って以来、もうずっと。何ヶ月? 先生とこうして何事もなく穏やかに『お茶友達』のようにして語らっていた時が一番楽しかったような気がした多恵子。それも、もう懐かしく、そして多恵子の手の中から煙のようにしてなくなった物だった。
 カップを手に取ろうとすると、先生がまだ多恵子の前になにかを並べ始める。金色の缶をひとつ、ふたつ、みっつ。並べ終えると先生がひとつの缶の蓋を指先でこつこつと突き始めた。
「これこれ。こればっかり無くなっていくんだ。もうすぐ空になる。多恵子さんはこれが好きだったね。だから今日もこれにしたよ」
 手元のティーカップからは林檎の香り。そして先生の指が突いているのは、アップルティーの缶だった。
「その次はこれ、桃のお茶。これは半分ある。このオレンジペコとやらはあまり減らなかったな。夏が終わる頃には多恵子さんも良く選んでいたけど。ダージリンも良く減ったね。あとアールグレーもたまに選んでいたね。アッサムは減らなかった」
「私、ストレートが好きなので。香りがあるのも好きですから。アッサムはミルクティー向きで、冬の寒い時でないと滅多に選びません」
 お茶をするなら紅茶になる多恵子の為に、慣れていないデパートに出向いて、若いスタッフの女の子に勧められるまま沢山揃えてしまった先生。
「僕は、これからもきっと一人では飲むことはないから。多恵子さんにもらって欲しいのだけど」
 少しばかり気後れしたふうに俯いた先生の言葉に、多恵子も固まった。
 もう紅茶は飲まない。貴女が一緒だったから楽しんでいた。それにもうこの紅茶は……。
 多恵子の視線は、アトリエのドアの向こうで静かに積まれている段ボール箱に向かう。
「いらないならいいんだ。こっちでなんとかする」
「いえ、頂きます。有り難うございます」
 並んでいる缶を、多恵子はひとつずつ手元に寄せる。心が軋んだ。言葉の端々に、この男性との別れが近づいていることが現実になっていくのが身に染みてきた。
 『良かった』と微笑む先生も、やっと一息、いつもの気が安まった顔で紅茶を口にしている。
「大輔君、どうしている」
 それが多恵子の一存で、息子があんなに楽しみにしていたレッスンを行かせなかったことを暗に尋ねていることが分かり。
「大事な仕事が入ったから、先生は暫く、ゆっくりレッスンは出来ないと――。とりあえず。私のモデルの休業もそう言い分けています」
 情けない大人の嘘を、多恵子はそのまま先生にも告げた。だが先生は黙っていた。多恵子を蔑むわけでもなく、共感するものでもなく、ただカップを見つめて紅茶をすすっている。
「仕事は終わったから、来るように言ってくれるかな。これでは心残りだ。子供の期待を裏切ることは、もうしたくないしね」
「申し訳ありません。本当に……いろいろと」
「レッスンの中断は、僕にも非があるから気に病まぬよう。それから、もう大輔君一人で来させても大丈夫だね」
 それまでは心配してくれていたのか『お母さんも一緒に、保護者同伴』と慎重な先生だったが、やはり多恵子とはもう、モデルとして来てもらう以外に会いたくはないのだろう。
「分かりました。先日のとおり、大輔は一人で通うことも大丈夫ですから。よろしくお願いいたします」
「お母さんは、次は五日後、来週にモデルに来てください」
「はい。分かりました」
 まだ次があった。でも、あと数回だろうと多恵子は予想している。
「ご主人には?」
「大輔と同じ理由を告げていましたが――」
 そこで口ごもると、目の前の先生がとても驚いた顔をした。
「まさか……。疑われた?」
 そのまま、多恵子はこちらの先生にも誤魔化す気も気力もなく、こっくりと頷いてしまう。
「どうして。心苦しくても、ここはなんとしても誤魔化した方が今後のため――。それに僕たちは、触れあっただけで、その、ほら……」
 身体を結んだわけではないのだから――。先生が言い難そうにしている先も、多恵子には通じた。
 しかし。結んでいないから罪ではないとは言えないと多恵子は思っている。触れあったことは、充への裏切りだったのも分かっている。だけれど、それ以前に。夫以外の男性に密かに惹かれていた。もうこの時点で罪のような気がした。そして充は、夫は、そんな妻の密やかな変化にしっかり気が付いていたのだから。
「彼は……。誤魔化せませんでした。彼にとって、先生と肌を触れたとか触れないとか、そんな問題じゃなく。彼は私の気持ちを良く見抜いていました」
「え――」
 益々、驚愕した先生の顔。目を見開いて多恵子を真っ直ぐ見つめている。その顔が多恵子に問うている。『貴女も僕のことを慕ってくれていたのか』と。
 だが多恵子は絶対に言葉にしない、明かさない。そうしたら、そうしてしまったら。
「もちろん、先生が仰るとおりに。私は先生が仕事だから休んでいるだけだと言い続けてきましたが、すぐに彼は見抜いていました。あんなに喜んで美術の仕事に関わっていたはずのお前が、何で今頃になって尻込みしているのかと――。どんなに『そうではない』と言っても。最近では『お前は裸婦という創作からも逃げ出したんだ』と叱責されました。俺は……あの先生が俺の女房をどう描くか楽しみに待っていたんだと」
「彼が、裸婦をそんなふうに……」
 そこで先生は、急にいつにない険しい顔になり、見たこともない激しさで指を噛んだのを見た。
「やはり、彼にはとても苦しいことだったに違いない。寛大だなんて、嘘だよ」
 多恵子もそう思っている。多恵子を送り出してくれたのも、充は精一杯、取り繕ってくれていたのだと。
「妻が裸になるだなんて、やはり耐えられなかったんだ。だから、心配で迎えに来る。でも、快く見送る男を努める。裸婦画家に出し惜しみをする、そんな了見が狭い男にはなりたくなかった、だから」
 まさにその通りだったのだろうと、今になって多恵子もやっと充に甘えきっていたことに気が付いたのだ。
「それだからこそ、彼が勇気を出して貴女を僕に送り出したんだから、真っ当に仕事としてやってくれると信じていたんだろうね。そしてきっと……それが出来れば出来たことで、貴女のことを誇らしく思えると、心を痛めながら待っていたのに」
 なのに……。男と女の匂いに溶けきってしまった二人は、そのまま共にいられず、全てを無駄にして別れた。
「先生。五日後にまた来ます」
 それ以上。なにが悪かったとか、これからどうすればいいだなんて、話し合いたくなかった。もう多恵子が二人の男性に出来ることは、ひとつしかない。だから、ここに戻ってきた。迷いのない多恵子は頂いた紅茶缶をバッグにしまい始める。
「そうだね。待っているよ。大輔君に、よろしく」
 先生の諦めた顔。多恵子は直視出来なかった。もうそれ以上『佐藤夫妻』のことに、もう僕が口出しをするべきではない――。そう思ったことだろう。
 マフラーを巻き、コートを羽織り帰り支度が整った多恵子に、先生が別れを告げる。
「では、気をつけて帰るんだよ。僕は続きをすぐに描きたいから、ここで」
 いつも玄関まで見送ってくれた先生だったが。今日はソファーで向き合って互いに別れた。
「お疲れ様でした、先生」
「うん」
 それだけ応えると、また先生はあっさりと多恵子を置いてアトリエに戻ってしまった。
 ことりと椅子に座る音、かたりと絵筆とパレットを手にした音。しゅっしゅとカンバスを撫でる筆の音。それを耳に聞き届け、多恵子はこの部屋を出た。

 日が長くなり、空の色だけは春の気配。そんな明るい夕の道だけれど、いまはまだ雪。その中を多恵子は歩く。
 帰る場所など、こんなことになってもひとつしかない。そこで口をきいてくれない夫がいても。
 いつもなら、ほの明るい夕空の時期になると春が間近だと多恵子の心は躍る。だけれど、今年は胸が苦しい。灼けるように痛い。
 今もし『恋』という文字を目にしたなら、多恵子は『つみ』と読むだろう。

 

 

 

 

Update/2010.1.15
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