―◆・◆ 裸婦 ◆・◆―

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愛しい人は 4

 

 午前11時半、羽田行き。その便のために、今からJR線の新千歳空港行きの急行に乗らなくてはならない。

「謙、忘れ物はないか」
「ああ」
 藤岡氏がアトリエに見送りに来てくれていた。
「なんだ。車で千歳まで送ろうと思っていたのに。この時間の急行は混んでいるぞ。指定席でも買わない限り、立っていることが多いのになあ」
「じゃあ、指定席にするよ」
 名残惜しいのはお互い様なのだが。
「JR線の車窓から見える札幌と千歳の北海道らしい情景を見ながら出て行きたいんだ。ここに来た時の感動を思い出しながらね」
「そうか」
 彼もやっと諦めてくれたようだ。
「世話になったな、藤岡。居心地が良すぎて三年も居てしまった」
「玲美ががっかりしている。お前、本当に可愛がってくれたもんな。礼を言うよ」
 いやいや。と、いつもは口悪い彼からの礼に照れつつ、三浦も肩を落とし溜め息。
「レミちゃんの明るさに、どれだけ楽しませてもらったか。流石、君の娘だよ。バイタリティがあって、どんなときも誰とでも上手く雰囲気を読んで和ませるところもね。我が子ながら、あの気難しいうちの拓海とも上手く遊んでくれて」
「あはは。拓海君も札幌を気に入っていたみたいだから、がっかりしているだろ」
「してる、してる。もう何処にも行くあてもないオヤジなんだから、老後のために友人がいる札幌に落ち着いたらどうだと懇々と説得されたが。あれは自分が遊びに行けなくなると思って一生懸命なんだな」
「また、うちの画廊を頼りに来ればいい。彼もいい絵を描きそうだ。なんなら今度は息子をお抱えにしても良いぞ」
「あまり甘やかさないでくれよ」
 藤岡氏なら本当にやってしまいそうで、三浦もついに親として釘を刺してしまった。まあ、自分も三年間随分甘えさせてもらったものだ。だから三年も。もし彼女に出会わなかったら、三浦は自分の奥底に眠らせて忘れたふりをしていた『後悔』に気が付かず、この札幌でぬくぬくと終えていたかもしれない。
「時間だ」
 腕時計を目にして、三浦は僅かな荷物を詰めたボストンバッグを手にする。
「札幌駅まで送るぞ」
「いや、本当にここで。これでもな。君との別れだって辛いんだ」
 それは藤岡氏も同じなのか、小さく唸るように頷くと何も言わなくなってしまった。
 
 山積みにしている段ボール箱に、イーゼルや画材道具は、住むところが決まったら送ってもらうことになっていた。
 ひとまず、息子がいる東京へ向かう。暫くはホテル暮らし。その後のことは決まっていない。何故なら――。
 アトリエ部屋をあと一度だけ見渡し、三浦はマンションを出た。
 画廊屋の店先に、藤岡の妻と玲美も見送りに出てくれていた。藤岡の妻にもだいぶ世話になった。三浦は彼女に心からの礼を述べ、涙顔の玲美とも別れを交わした。そのまま直ぐ前の通りでタクシーを拾う。
「では、またな。藤岡。拓海が来た時には頼むよ」
「またいつでも来いよ。次の作品も楽しみにしている」
「あの、多恵子さんのこと。頼んだよ」
 言いにくそうに告げると、藤岡氏はなにもかも分かっているとばかりに『任せてくれ』と言ってくれた。
 いつまでも別れを惜しんでばかりでも。そう思って三浦はタクシーに乗り、藤岡氏はそこから家族がいる店先へと退いていく。
 店先で手を振る藤岡一家に見送られる中、ついにタクシーが走り出す。今はもう三月の雪解けの時期。道脇に積んでいた雪山が蕩々と溶け出し、どんなに天気がよい日でも札幌のどこの道も水浸しになっている。タクシーもたまに水溜まりに入ってしまい、水飛沫をあげていた。
 これで札幌の街ともお別れだ。
 この凍る街の雪が溶け始めたように、僕の心も溶けて、後悔が姿を見せた。そう今の水浸しの道のように。根雪の中に隠してしまったものが、姿を現している。はっきりと。三浦も今、心の底を浚う雪解けのようだった。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

「指定席を、大人一枚」
 みどりの窓口で、千歳行きの切符を買った。
 窓口事務所からコンコースに出る。
 仕事で来ているのか、観光で来ているのか。あるいは広大な北海道の地方へ向かうのか。JR札幌駅はいつも人で溢れている。
 ただ分かるのは、全国では既に桜の時期を迎えようと言うのに、まだ冷気が漂っている札幌で、春コートを着ているのは地元の人間。この寒さに耐えられず、しっかり着込んでダウンジャケットやコートを羽織っている人間は、おおよそ観光客だ。
 三浦が辿り着いたホームも人の列。やはりコートを着ている客が多いように思えた。
 そんな三浦は既に慣れたのか。羽織っているのは淡いグレーのトレンチコート。その下は黒ジャケット、ノーネクタイでも今日はきちんとワイシャツとスラックスで身なりを整えた。東京へ向かうという心構えもあったが、背筋を伸ばす思いでこの街と別れたかった。
 周りのホームにも、大きな車両の特急が待ちかまえている。札幌を中心に、道北、道東道南へと繋がっている。いつでも列車の汽笛に走行する音、人々の行き交うざわめきがある駅。
 やがて新千歳空港行きの列車がホームへと汽笛を鳴らしながら入ってきた。人々の列が空へと繋げてくれる列車を心待ちにしている。
 このホームからも。まだ札幌の街が見える。札幌ドームはどの方角か。そこにいるあの人は、今はどうしているのだろうか。雪解けの季節なのに、こんな時に、何故か小雪が僅かにちらついた。

 
  モデル最後の日から、多恵子とは会ってもいないし、連絡もしていない。そして彼女も画廊に来ない。モデル事務所も辞めていた。
 大輔とのレッスンは最後まで続けた。彼の口から『モデルが終わって、母さんは暇そうにしている』と聞いたことも。『その反動なのか、家の中のことをいっぱいやって、部屋の模様替えまでしちゃった』とも聞かされた。とにかく外に出る気はまだないが、家の中で出来るだけのことを出来るだけ懸命にやっているようだった。そのうちにまた、外に出たくなれば出て行くだろうと大輔も笑い飛ばしていた。
 レッスン最後の日。三浦は大輔とのお別れにと、新品のパステルコンテのセットとスケッチブック、そして自分が張った小型のカンバスを数枚『いつかこのカンバスに油彩を描いて欲しい』と、餞別に持たせた。大輔はとてもびっくりし躊躇していたが、戸惑う彼に『なかなか上手くいかなくても挫けずに、しっかり描いていくんだよ』、これは先生からの応援の印と言って無理矢理持たせた。ずっと先生に教わっていたかったと大輔にも泣かれてしまった。
 だが多恵子からは、なんの反応もなかった。勿論、三浦ももう一度彼女の声が聞きたくて、話したくて、大輔に渡した訳じゃない。礼を言って欲しかった訳じゃない。それはきっと多恵子も分かってくれているだろうし、三浦も礼など言ってくれなくても構わなかった。だが逆に、多恵子はきちんとしている母親だったから礼が言えないことで心苦しく思って迷っているかもしれない様子も目に浮かんだ。それでも僕らはもう……。あのままで、終わりにしておきたい。それがいい。そんな別れまで僕たちの気持ちは通じ合っている。それでいいじゃないか。
 
 ついに『雪子』が仕上がり、いよいよ札幌の街を出る支度を始めた頃。雪子は藤岡画廊に展示される。彼の画廊の中でもひときわ大きなカンバスの裸婦画。淡い色調と淡い風情の白い婦人。それでも圧巻だった。流石の藤岡氏も『素晴らしい』と感嘆のため息。『あの存在感がなさそうだった奥さんの、そんな存在感がなさそうなところが良くでているのに、なんだい、この存在感!』。そして藤岡氏も言った。『ああ、早く彼女にも見せたいよ』。これほど、三浦画伯とモデルがぶつかり合って出来た作品なのだから。是非にと。
 まだ雪が深い季節に彼女と別れた。もう雪解けになって、三浦が札幌を出る頃合いだと気が付いてくれているはずなのに、三月も半ばになったというのに多恵子は一向に藤岡画廊には訪ねてこない。
 痺れを切らした藤岡氏が『連絡をしよう』と強く提案をしてきたが、三浦にはなんとなく多恵子が思っていることが分かるような気がした。
 ――『今ではなく、もっと……こう自然に自分自身に再会したいんじゃないかな』。
 もっと心が澄んでから。心の底に沈んでいた澱が舞い上がって、いまはまだ濁っている。そんな目で見たくない。多恵子のそんな気持ちが聞こえてくるようだった。
 それでも藤岡氏は『あの絵は直ぐに何処かに行ってしまいそうな気がする』と心配しているのだ。売れても売れなくても、いつまでも藤岡画廊にあるわけではない。そんなことを言っていたら、いくらモデルでも二度と巡り会えなくなるかもしれない。それでも良いのかという藤岡氏のジレンマ。
 だから三浦は彼に頼んだ。――『もし、彼女が見る気になった時。その絵がなかったら。僕に知らせて欲しい』。その時が来たら、その時の所有者に頼んで多恵子のために絵が見られるように手を尽くす。その手はずにしておいた。
 それで藤岡氏も渋々と納得してくれた頃。彼がアトリエを片づけている三浦の元に、奇妙な知らせを持ってきてくれた。初めて見る男の客が雪子をずっと眺めていたと。その男性はひとしきり雪子を眺めた後、『何故、雪子というタイトルなのか』と、もの凄い不満顔だったと。
 すぐにピンと来た。充さんだと。自分の妻が、裸になった妻がどのように描かれているのか気になって仕方なく、彼だけは見に来てくれたのだと直感した。
 藤岡氏に確かめると、確かに黒いスーツ姿の自分達より若い男性だったとのこと。
 そして藤岡氏はそんな男性の問いに『描いた画家が言うには。彼女の本当の名前を知っているのは、僅かな人間で充分だと思ったそうです。彼女の本当の名前を知っている僅かな人間だけが彼女を良く知ってくれているだけで、彼女は幸せだから。この絵を見る彼女を知らない大多数の人間には、誰もが知っていそうな北国の白い雪子さんでいいんだと言っていました』と。三浦が込めた思い、そのままを告げてくれたそうだ。それを聞くと、男性はとても驚いた顔をして、『絵の中の女性がどんな女性か良く伝わってきた。いい絵だと先生に伝えて欲しい』と言い残して出て行ったそうだ。
 当然、藤岡氏も『多恵子の夫』だと気が付いたそうだが、客に深入りは出来ず、そのまま見送ってしまったとのことだった。
 『それでいい。そっとしておいてあげてくれ』。これで三浦が多恵子に連絡をするのではないかと思って報告をしてくれた藤岡氏は、がっくりしていた。
 でも三浦には予感があった。充さんも妻の気持ちを良く知っているだろう。きっと『今は見ない』と言い張っているに違いない。今回は彼が夫としてどうしても仕上がりを見たくてやってきたのだろうが、今度は妻が見ないうちに売れてしまわないか気になって、何度も確かめに来るだろうと。その時も彼女の夫が名乗るまでは、そってしておいて欲しいと藤岡氏に頼んだ。そして売れそうな時は、それとなく彼に『売れそうだ』と伝えてやってくれとも頼んだ。藤岡氏もそれで承知してくれた。
 これで札幌に思い残すことはなくなった。
 あとは佐藤夫妻が決めることだった。
 
 走り出した列車は札幌の街並みを横に、郊外へと一気に走り抜ける。都会の風景が途切れると北海道らしい牧草地が広がる。
 その時になって、やっと三浦の胸が痛んだ。あの白い街が消えた。ボストンバッグから小さなスケッチブックを取り出すと、急いであの日のスケッチを探した。
 小さな黒目の、精一杯の背伸びのお洒落をしていた彼女。三浦の目の前に迷い込んできた彼女。あの頃の、迷っている彼女がとても愛おしかった。
 だが全て、もう終わったのだ。彼女は三浦の前に留まらず、自分を痛めつけながらもずっと彼方に通り抜けていった。そして今、まだ目に見えていた彼女の街すら一緒に消えた。その瞬間に男の胸に去来するもの。泣ける歳でもないが、こみあげるものがあった。
 しかし、彼女が見つけたように、きっと三浦もこれが最後だろう。『恋』。恋は何もかもが不完全で、いつまで経っても形を成さない。恋に終着はない。だから成さないものなのだ。形にならないから人は愛に変えようとする。でも人々は気が付かない。恋が愛に変わったら、二度と恋には戻らないのだと。他の恋をしない限り、心を激しく揺さぶられながらも甘美に浸れるひとときとは無縁になる。だが、そんな恋を楽しんでいるうちは、或いは未だに恋を恋しく思っているうちは、愛など手に入るはずもない。そして愛はあまりにも安定しているので退屈になる。愛は恋より見え難い上に、甘美も薄れるから直ぐ見失う。幾多の誘惑も欲望も長い間乗り越え、形を成していく。その間にどれだけの者達が、なんとも容易く挫折することか。僕も多恵子も、そう。そうは成るまいと思っても、欠けている心の冷たい隙間に男と女という熱い毒がゆっくり静かに回っていた。
 だから、もう一度見つけた多恵子はもう、二度と恋をしないだろう。彼女の目にはもう見えている。二度と見失わないで欲しい、そのままお幸せに。三浦は祈る。そして自分自身も、……もう恋はいらない。
 牧草地沿線を走る線路の路肩に僅かな雪。まだらに現れた黒い土の上に、淡い緑色の小さな点が幾つも幾つも顔を出している。
 ころんと小さな春の息吹、蕗の薹。鮮やかな小さな緑が車窓を通りすぎ、どこまでもどこまでも三浦を見送ってくれているようだった。
 緑色、ころんとした小さな存在。でも春一番に懸命に顔を出す。どれもこれもが、彼女に見えてどうしようもなかった。
 やはり泣いても良いだろうか。これが最後なら泣いても良いだろうか。
 ただ唇を噛みしめた。

 

 それでも新しいページには、長い黒髪の女性ばかりが描かれている。
 雪子を手放した後から、三浦の手はこの女性を描くばかりだった。
 懸命に思い出して描いた。もう十何年も会っていない女性だから、あの頃の若く気高く美しいままの彼女しか知らない。

 

 

 

Update/2010.2.14
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