-- 緋花の家 -- 
 
* 薔薇と大和撫子 *

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1-3 それが愛ってやつ?

 母が飲ませた薬も効いてきたのか、彼女はよく眠っていた。

「手伝うよ」

 その母が薔薇別宅のキッチンで、彼女の夕飯をこさえていた。
 幸樹は落ち着かずに、コンロの鍋に向かっている母の横に立った。
 母はただ微笑んだだけで、幸樹に青菜を刻むようにと頼んでくれる。包丁を手にして、幸樹は青菜をざっくざっくと均等な長さになるように刻んだ。
 その後もちょっとした雑用的な手伝いをしているうちに、リビングには夕日が入り込んできていた。

「旦那、見つからないのかな」

 幸樹の独り言のような呟きに、お互いに黙って台所仕事をしていた母も動きを止めた。

「本当ね。パパ……駄目だったのかしら」

 『駄目だった』──。
 その駄目だったとは『見つけられなかった』とか?
 まさか。消防署にいると解っているなら、ある程度はいる場所ぐらいは分かるだろう?
 それで『駄目だった』とは、どういうことなのだろう? と、幸樹はふと腑に落ちなくなり、母に尋ねようと口を開いた時だった。

 広い間を取っているこのキッチンで母と二人。そのキッチンの勝手口のドアノブが、ガチャガチャと音をたてている。
 そのドアノブに鍵が差し込まれているのだと分かり、幸樹は驚愕する!

 所有者である母と、越してきた彼女、そして合い鍵を持っている幸樹。
 『俺達以外』にも、鍵を持っている者がいる!?
 その時、幸樹の脳裏に母が言っていたある一言が脳裏に過ぎった。

『やっちゃうまえに、誰かがやっちゃうかも? 凛々子さんはそれを望んでいたりして』

 あの訳の分からない母の言葉を思い浮かべたと同時に、それが『誰であるか』もやっと分かった気がした!

(だ、旦那!?)

 そう閃いたと同時に、勝手口が開いた!
 ドアがバンと勢いよく開くと、黒い半袖ティシャツとオレンジ色の繋ぎ服を着ている中年男性が飛び込んできた。
 消防官の格好だ!!

「リコ!! リコ!!」

 その中年男性は、勝手口にはいるなり、そんな女性の名を叫んだのだ。
 そしてブーツのような靴を乱暴に足から抜き取り、勝手口に叩きつけ、どかどかと上がり込む。それだけでも、今の幸樹なら『俺の家!』と怒り心頭になりそうなところなのだが、なんていうか、彼の目の前には今は『リコ』しかいないと言った慌て振りに見え、幸樹は驚くを通り越して唖然としてしまっていた。それは隣にいる母も同じようだ。

「た、拓真さん? 大丈夫?」

 やっと母が声をかけると、どかどかと上がり込んだ男性がピタっと立ち止まり、やっと母へと振り返った。

「さ、さ、早紀さん! いたのですか」
「ええ、いたわよ」

 母が素っ気なく返答すると、その中年の男性が顔を真っ赤にして後ずさったのだ。
 きっと誰もいないと思って上がり込んだのだろう? なのにそこに人がいて、自分の狼狽振りをばっちり見られていたことに彼は慌てているようだ。

「り、り、凛々子がここに越してきたって本当ですか!?」
「えーええ、本当ですわよ」
「まじ!?」

 彼はしまったと言ったように、額をぱちんと手で叩き目元を覆い、かなり狼狽えているのだ。
 見れば見るほど、幸樹としては眉をひそめてしまう落ち着きのなさ……なのだが。

「で、それで、凛々子が高熱を出して倒れたって……!」
「それも本当よ」
「リコは何処に!!」
「二階の部屋にいるわよ」

 母がそういうと、彼はバタバタと階段を上がっていった。
 もう彼女の元へ一目散と言った感じだ。
 彼が凛々子の元へ一直線に向かったのを見た母が、『もう』と怒ったように大きな溜息を落としていた。

「あれだけ慌てるなんて。馬鹿ね」

 何故か母はとっても呆れているようだ。
 大抵は大らかに済ませてしまう母が呆れるだなんて、よっぽどだなと幸樹は思ってしまったのである。

『リコ! 大丈夫かーーっ』

 二階から聞こえた大きな声にも、母と揃って唖然とし目を丸くしてしまった。

「まったくもう! 相変わらずなんだから! 病人なんだから、そっとしてあげてよ!」

 母が『もうもう』と文句を言いながら、業を煮やしたように二階へと向かっていく。
 幸樹も思わず、あのドタバタ亭主とおかんむりな母の後へと続いて、階段を上がった。

(リコ、リコってなんだよっ!)

 どうやら『リコ』というのは、凛々子彼女の愛称のようだ。
 それが分かるとなんだか幸樹の胸に、訳の分からない苛立ちが生じていた。だが、それがなんなのか今の幸樹には分からない。
 それよりも、突然現れたあの男! 幸樹より背が高く、そしてがっちりとしている逞しそうな身体。黒いティシャツの半袖から見える腕の筋肉の逞しいこと。だからといって如何にもというマッチョな体格でもなく、程良く鍛えているというのが分かる。肩幅も広く、そして程良くスマートだ。
 なによりも、一目で『中年』と分かっても、彼のエネルギッシュな熱血ぶりに、若い幸樹の方が圧倒されていた。つまり若々しいことこの上なかった。
 しかしだからといって、それはあの大らか天然嬢のまま奥様になった母も同じような物で、おそらく二人は同世代だろうが、同じように若々しい……。年の割には若く見えるという事になるだろうか?

 そんなこと考えながら階段を上がると、母が凛々子の部屋の開けっ放しになっているドアを覗こうとしていた。
 だが、母は覗くとはっと驚いた顔をして固まっていた。

「タク、拓真! 会いたかった!!」
「り、りこ・・・」
「私、私……貴方とは別れない。絶対に別れない!」

 そんな彼女の声が聞こえて、幸樹もつい覗いてしまった。
 すると覗いた瞬間だった。
 オレンジの繋ぎを着込んでいる中年オヤジに、ベッドで寝ていた彼女が起きあがり、大胆にも抱きついていたのだ。

「リコ……何故、何故、東京から? 仕事はどうした」
「辞めたわ。当たり前じゃない!」
「……や、辞めた!?」
「仕事より、私は貴方との暮らしを取るわ! 何処までもついていくんだから!!」

 凛々子は泣き叫びながら、その男に抱きついて離れなかった。
 だが抱きつかれている男性は、彼女を抱き返す訳でもなく……。よく見ていると、その手が彼女を抱き返そうかどうか迷っているように幸樹には見えた。
 それにも訳の分からない苛立ちが……!

「駄目だ、リコ……。俺なんか、駄目だ。あの大学研究室──お前の夢だっただろう!? 何故、辞めてしまった! すぐに戻るんだ!」
「違う! 私の夢は、貴方と子供達と毎日を一緒に過ごしていく事よ!!」
「なにを。子供達は独立したんだ。お前はもう好きなように……」
「嫌──!! 独立してもあの子達は私の子よ!! 貴方と一緒に見守っていきたいだけなのに! それだけが、どうしていけないの!?」

 感情的になっている彼女にも、幸樹は圧倒されていた。
 今にもなにもかもを失いそうで必死になっているというのが伝わってくる。彼女のその目が、命を懸けているかのような目をしていて、幸樹はある意味ゾッとした。そんな全てをかけているかのような目は見たことがなかったからだ。

 やがて彼女は、だいぶ歳が離れているだろうその中年の夫を撫子の瞳で、愛おしそうに熱っぽくみつめる。そして大きな涙を浮かべ、ふっくらとしている赤い唇で彼の名を囁く。

「拓真──。愛しているの!」

 彼女は彼の首にしなやかな腕を巻き付け、そして迷うことなく彼の唇を塞いだのだ。
 それには母も飛び上がったように驚き、手にしていたドアノブをギュッと握りしめて、バタリとドアを閉めてしまった。
 幸樹も茫然だった。

「い、いけないわ。ええっと。うちに帰って夕ご飯の支度をしましょっと」

 母は幸樹の手前なのか、それとも何も聞かれないようにするためか、そそくさと階段を降りていってしまった。
 幸樹も『夫妻の熱気』に当てられて、暫し茫然としていたが……。まるで母親の後をただ着いていく幼子のように、ふらりと階段を降りる。

 その合間も、その部屋からは彼女の声が聞こえてきた。

「拓真……。貴方こそ、『隊長』が夢だったじゃない。ううん……パイパーに所属することが……。それを何故? 何故、捨ててしまったの!? 私のせい? 私のせいなら、私がここに残るから、貴方が東京に戻って、『ハイパーレスキュー隊』に戻ってよ! 次期隊長と言われていた貴方なのに、それをあっさり捨てるなんて……」

 私のせい!

 彼女はそれだけ言うとわあっと泣き出したようだ。

 それで、あの中年オヤジと彼女がどうなったかなんて。
 俺、しらねえ……。幸樹は心の中で吐き捨てていた。

 一階に降りると、母がキッチンでエプロンを解いている。
 鍋に蓋をしただけで、あちこち散らかしたままなのに、もう帰ろうとしているのだ。

「作った飯は?」
「いい大人同士なんだから、どうにでもするでしょう」

 母はちょっと苦笑いをこぼしていたが、たたんだエプロンを小脇に抱え、階段を見上げた顔はちょっと安堵した微笑みを見せていた。

「彼が来たから大丈夫よ。さあ、二人きりにしてあげましょう」

 『うん』とは言えなかったが、でも、それしかないし。それが良さそうだった。

 

 短い自宅までの道。
 茜色が漂い始めた空と日射しの中、幸樹は無言で母の背をついていく。
 そして家に着く前にやっと……堪らなくなってしまい、母に一気に尋ねた。

「なんで、旦那があの家の鍵を持っていたんだよ! それに東京の子供はどうしたんだよ! 彼女、身体が弱いのにあの男は彼女を放って、こっちに来たって事なのかよ!!」

 前を歩いていた母が、面食らった顔で振り返る。
 暫く幸樹を眺めていた母は、息子の今の心理を推し量っているようにも見えてしまい、幸樹は思わず母から顔を背けてしまった。
 だが、横目で確かめた母は、幸樹が良く知っている……いや、敬愛している慈愛溢れる微笑みで幸樹を見つめてくれていた。

「彼は『鳴海拓真』さん。凛々子さんの旦那様。東京の子供さんは、先妻の子供さんだからもう大きいの。上の子は男の子で成人してお父様と同じ消防官の道を進んで今は寮暮らし。下の子は女の子。大学生で家を出てちゃんと一人暮らしをしているの。だから、もう凛々子さんの手はいらないってことなんじゃないかしら。彼女が身体が弱いのに、拓真さんがこちらに来てしまったような話が聞こえてしまったわね。それは私達が詮索することではないのよ。二人が決めて、二人が解決することなの。なにを聞いても、そっとしておくことね」

 東京の子供が、自分と同世代というのにも幸樹は驚いた。
 しかしそれは当然で、母・早紀が高校生の息子がいるように、あの拓真にも同世代の子供がいることは自然なことだ。
 だが、そこでもっと驚くのは、幸樹と同世代らしい彼女が、彼の子供の面倒を見ていたということだ。
 母がいうように夫妻の事情は、今は混乱していて噛み砕くことも、呑み込むことも出来ない。
 そんな幸樹の疑問に、母は丁寧に答えてくれたが、まだ、大事な疑問への答えが残っている!

「アイツが鍵を持っていたのは!?」

 幸樹の激突するような勢いの尋ね方に、優しく微笑んでいた母が少しばかり表情を曇らせた。
 そして黙り込み、いつまで経っても口を開かないかのような間で、母は息子にする返答を迷っているかのよう。
 だが、やがて母や意を決したように幸樹をまっすぐに見つめてきた。その目──母が母親として真剣に息子に向かう時の目で、幸樹はどっきりとした。

「あの薔薇の家を結婚した私に譲ってくれたのは、凛々子さんの叔母様なの」
「叔母さん……? じゃあ、彼女の親戚と俺の家族って……」
「そうね、ご近所さんだったわ。ただし、あの家はその叔母様のお父様の別宅だったのよ。そのお父様が亡くなって、叔母様が譲り受けた。彼女も結婚して、結婚したご主人と暮らしていたの」
「叔母さんが、家庭を築いていた家……。それで姪である彼女があの家に来たのは、判った。じゃあ、彼女の旦那である拓真って奴も時々来ていたって事かよ」

 母が首を振る。
 そしてまた、あの目で幸樹を見つめて言った。

「違うわ。彼は凛々子さんよりもっと前にあの家に住んでいたの」
「住んでいた? 嫁さんの叔母の家に……? 彼女より前……」

 そこまで首を傾げながら呟いた幸樹の中で、何かがさあっと現れたようにもやもやとした物が消えていき、見えた物に驚愕した!!

「も、もしかして……! 叔母さんの旦那さんって……。彼女が面倒を見ていた子供って……!?」
「そうよ。凛々子さんの叔母様が拓真さんの前の奥様。そして、二人の子供はその叔母様の子。子供達と凛々子さんはつまりは従姉弟同士。拓真さんとは義理の叔父と姪。だけれど、二人は結婚したのよ。あの通り、事情があっても愛し合っているの」

 ものすごい衝撃が頭に響いた。
 どんな表情をしていいのかも、言葉にすればいいかも……分からなかった。
 ただ、目を見開いて、教えてくれた母を見ていた。
 母の何か覚悟を決めたような顔を。なんだか妙に頼もしそうなその真剣な顔を。
 息子の中で巻き起こっている衝撃波を受け止めようと構えているかのような母の顔を。

 そして何も表現できない幸樹に母が言った。

「彼女のことは、そうっとしておきなさい。彼女には彼女が決めた生き方があるの。それがたとえ、同世代の幸樹には分からないことでも」

 それだけいうと母は背を向け、自宅へと向かい始める。
 幸樹には母の今の言葉がこう聞こえた。

『彼女には深入りするな』

 それはつまり……。あの薔薇の家にはあまり近寄るなということなのだろうか?

 そこから一歩も動けなかった。

 

 そしてその晩、どうしてか幸樹も熱を出して寝込んでしまったのだ。
 熱にうなされている間、彼女のあの追いつめられた故の命がけの熱い眼差しとか、夫に激しくぶつかって『愛している』と言ったこととか。
 そんなことばかりが、一晩中、頭の中に駆けめぐって離れやしなかった。

 あんな事、本当にあるんだ。

 愛って、愛って、愛しているって……。
 それが愛ってやつ? なのか。

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