-- 緋花の家 -- 
 
* 薔薇と大和撫子 *

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1-4 愛の知恵熱

 二日後、なんとか熱が下がった。
 ここ数年、こんな高熱を出したことなどなかったのに、奇妙な感覚だった。

 今朝、母が笑った。

『大人の愛の知恵熱でもでたんでしょう。可愛いーっ』

 馬鹿にするなと幸樹は吐き捨てて、二日も休んでしまった学校へと出かける。
 知恵熱なんて子供が出す物だろう? なにが可愛いだと幸樹は息巻きながら家を出た。

 五月の風は爽やかで、下る坂道の向こうに見える海も変わらず青い。
 坂を下りる途中、幸樹は薔薇別宅へと通じる小道の前に来て立ち止まる。
 彼女の熱は下がったのだろうか?
 腕時計を見下ろすと、まだ少し時間がある……。

 だけれど躊躇う心。
 母が遠回しにほのめかしたせいだけでなく、幸樹の『勘』も『深く関わらない方が良い』という警鐘を鳴らしている気がする。
 熱が出て暫くしてから思った。

『あのね。幸樹さんは元々『火』とは相性が悪いの。今日は特に、性が合わないみたいね』

 彼女のあの言葉がふっと浮かんだ時、その日、確かに煙草の火で危なかなしいことはあったけれど、幸樹はそれが『原因』ではなかった気がしたのだ。
 幸樹がこうして熱を出してしまったのは、あの熱血に燃える男が現れたからだ。
 あの男が燃えるように凛々子の元にすっ飛んできたからだ。大人のくせに、あんなに取り乱したりして。その上、彼は火に関係ある仕事もしている。つまり『火の男』なわけだ。

(彼女が言うことが本当なら、俺の調子を狂わせたのは、『性が合わない奴』が現れたからだ!)

 なんとなく、首関節がまだ痛む気がする。
 風邪をひいた時によく見られる関節痛だと思うが、熱が下がったというのにまだ重たい。
 本当に風邪のせいなのだろうか? そうじゃない。きっと本当に『気が良くない』状態であるような……。彼女が『盛り塩』をしたくなる気持ちがちょっとだけ分かったような気もする……。
 幸樹は首をこきこきと左右に振りながら、足は自然と薔薇別宅に向かっていた。

 すると、例の白いアールヌーボーの門が見えると、丁度、そこからオレンジ色の繋ぎを着ている男性が出てきた。
 幸樹はどっきりとして立ち止まった。やっぱり、もう……あの薔薇の家に近づくには、あの『性が合わない火の男』に会うことは避けられないことになったようだ。それどころか、彼女のことさえ……。
 そうだ! 彼女のことなど、ここで忘れてしまえばいいんだ。そうすれば、面倒なことにならずに済む。もしかすると二人が仲直りでもして、彼女が出ていき、薔薇の家は幸樹の元に戻ってくるかも知れないじゃないか。少しの間、少しの間だけ、我慢していれば。じっと我慢していれば、薔薇の家への執着を少しだけ抑えれば、いつかはきっと、きっと……。
 そんな風に、幸樹は立ち止まり、あの男と会うときっとろくな事がないのだから、『薔薇の家に近づきたい気持ちを、なんとか抑えよう』と懸命に葛藤と闘っていた時だった。

「幸樹君……だよね?」

 オレンジ色の消防服を着込んでいるその男性が、はたとしたようにそこで立ち止まり、少し驚いた顔で幸樹を見ていた。
 先日、彼は母親の早紀には気がついたが側にいた幸樹には目もくれず、そこに存在しないかのような様子で『若妻』の元にすっ飛んでいったのだ。
 本当に、幸樹など……。彼女と目の前にいるおじさんの世界には、姿が映っても存在感はないかのように。子供という立場の幸樹が知らなくて当然で、大人である母が知っているだろう彼等の世界には、『子供である以前に、存在すら無関係』と言いたそうに……。

 だが、その幸樹には目もくれなかった彼だけれど、今日は幸樹を一目見て、その存在を見つけてくれたようだった。
 それなのに。幸樹にはまた大きな違和感が生まれている。
 あの日、彼女が薔薇の家に越してきたあの日。幸樹と彼女が初めて瞳と瞳を合わせたあの日のあの感じ……。

『こ、幸樹さん……?』
『! なに? 俺の事……』

 彼女との出会い。
 初めて会ったはずなのに、彼女は幸樹を一目見て、それが誰であるか判ったかのような驚きと口振りだった。
 その彼女と揃ったような反応を、彼女の夫も目の前で見せているのだ。

 何故なのだろう?
 一目で幸樹と判る。そして数日前にあんなに慌てていた最中、目の端にちらりと映っただけだろう幸樹のことを、彼は今日は一目見て『幸樹』と言うのだ。

 結局はそこから動けなかった幸樹の目の前に、拓真が既に近づいてきていた。
 彼はゴミ袋を両手に持っていた。
 と、いうことは……やっぱり、妻である彼女とあの家で過ごしていたと言うことになる。しかも二日も。二日もあれば、夫妻がどんなふうに過ごしていたか、もう十八歳になった幸樹ならすぐに想像できる。久しぶりに再会したかのような二人、お互いのことを想い合っていた二人。若くて綺麗な女性が愛していると叫び、その口づけを惜しみなく贈られた夫。それを思い返すと、また幸樹の頭は『ふわん』としてきて、気が遠くなりそうだった。

「ええっと。あの時は、驚かせて申し訳なかったと思っているよ。紹介、遅れましたが……僕は『鳴海・・』──」
「──『鳴海拓真』さん。母から聞きました。それに彼女が倒れていたのを見つけたのは『偶然』だし、越してきたばかりだったから疲れたんでしょう」
「……そうみたいだね」

 拓真がにっこりと穏やかに静かに浮かべた微笑みに、何故か幸樹の方が顔を火照らせてしまった。
 あんなに彼女のことで慌てていた彼だけれど、こうして真っ正面から向き合ってみると、本当に幸樹の両親と変わらない雰囲気の男性だ。そんな彼に向かって、彼が自己紹介をしようとしているのに、幸樹は『俺だってアンタ達のこと知っているんだ』とばかりに彼の言葉を遮ったのだ。……だが、彼はそんなこともなにもかも分かってしまっているだろうに、分からなかった振りをして、すんなりと柔らかい大人の笑顔を見せてくれているのだ。

 どうして? 彼女だけでない。この男性にも酷く心をかき乱される。
 いつも連んでいる仲間の中でも、幸樹は慌てることだって、そして心を乱すことだってなかった。クールで頼りがいのある奴と言われている。だけれど、彼女と目の前の『火の男』に出会ってから、幸樹はどうにもそのペースが保てていない。しかも、それは彼等が幸樹に向けているのではなく、幸樹自身が彼等に勝手に近づいて、幸樹自身が勝手にペースを乱しているのだ。

 ……こんなこと、初めてだった。
 何故、彼等にこんなに引き寄せられてしまっているのか。
 それはもう、『薔薇の家への執着』だけではないような、そんなエネルギーを今、薔薇の家、一歩手前でゾクゾクと感じ取っているのだ。
 そして、そのゾクゾク感は寒いのではなく、血脈がドクドクと激しく動く程に熱い気がする。

 先ほどは『近づこうか、近づかまいか』と葛藤していた幸樹だが、その拓真と向かい合ってすぐのその感覚にすっかり支配され……。
 幸樹自身も決意をした。

 勘は『近づくな』と言っているが……。
 心は『そこに行ってみたい』と言っている……。

 それに従おう。

 そう決めた幸樹の身体から、熱がサッと引いたようにヒンヤリとしたいつもの落ち着きが取り戻せたような気がしてきた。
 温度が下がったような頬にあたる風も、ひんやりとしている。そして幸樹の表情も、いつもの『俺』へと戻っていく感覚。その感覚で、幸樹は拓真を真っ直ぐに見据え、静かに尋ねた。

「あの、凛々子さんは良くなったのですか?」
「ああ。昨夜、やっと……」
「昨夜? 彼女も、そんなに長く……」
「早紀さんに聞きましたよ。幸樹君も熱を出したと……。良くなったみたいだね。二人とも、流行の風邪だったのかな?」
「流行の風邪……?」

 幸樹は『そんなはずはない』と言いたかった……。滅多に熱など出さない幸樹が高熱を出した。その感覚は風邪でもなんでもなかった。確かに風邪特有の関節痛はあったけれど。だけれど、喉が痛くなったとか、鼻が出るとか、咳が止まらないとか、そんなことはなく、本当に熱だけだった。
 それこそ母がふざけて言った『愛の知恵熱』とかなんとかいう不可思議さの方が、今の幸樹には原因としてしっくりくるくらい。
 なのに、それが『流行の風邪』として、同時に熱を出してしまった彼女と一緒に片付けられたような気もして。
 それに彼女はあの熱を出した日の朝──。乱れた格好で倒れていて、色っぽかったけれど……『奇妙』だった。むしろ、あれが熱の原因かとさえ思っていたのに。
 夫である目の前のおじさんは、それにも気がつかずに『流行の風邪』で済まそうとしているのだ。

 そうだ。あの時、彼女が朝から倒れていたことを彼に言うべきだろうか。
 いや、彼女が話しているだろうか。
 もし話していないのなら、彼女は知られたくなくて話さなかったのだろうか?
 それなら幸樹が今、彼に言うべきなのだろうか!?

 ああ、本当に色々と頭の中で、今までにない事柄で思い悩んでいる気がする。
 ぐるぐる回って、また熱でも出して倒れてしまいそうだ……。
 ──いや! やっぱりダメモトで言っておいた方が、良い! 幸樹がそう判断した時だった。

「タク……? まだそこにいるの? ねえ、これも一緒に捨ててくれる?」

 白い門に小さなゴミ袋を掲げている凛々子がそこにいた。

「幸樹さん……!」

 彼女はすぐに幸樹に気がついてくれ、そして微笑みかけてきてくれた。
 もう……それだけで、幸樹は身体がかあっと熱くなってしまった!
 こんなこと、幸樹にとっては『思わぬ事』だ!
 自分の意志に反して、コントロールしようとする前に、身体が先に反応してしまったのだ。

 彼女が近づいてきて、夫である拓真の隣に並んだ。
 背の高い彼と、小柄な彼女。そうして並んでしまうと親子にも見えそうなのに……やっぱり幸樹にはきちんと『夫妻』に見えた。

「リコ。幸樹君も熱が下がったそうだ。良かったな」
「早紀さんに聞いてびっくりしたのよ。私のがうつってしまったのかしら」

 穏やかな笑みを浮かべる夫と、麗しい撫子のしっとりとした微笑みを見せてくれる彼女。

「ち、ち、違うに決まっているじゃないか」

 まるで、あの日、夫がいない彼女の側にべったりとくっついていたかのような言い方をされたような気がして幸樹は即反論をしていた。
 だが、二人は揃ってそんな幸樹の反応に首を傾げ、顔を見合わせているのだ。

「アンタも下がって良かったな! 俺、学校だから……!」

 それだけ言うと、幸樹はくるっと回れ右。先ほど、なんとなく来てしまった道へと駆けだしていた。

「いってらっしゃい、幸樹さん。車には気を付けてね」

 『うるせえ。俺は子供じゃない!』──いつもなんだか見下されているようなことを言う彼女に腹をたてつつも、その柔らかい声が耳にこだましてしまうだなんて。

 そんな駆けだした幸樹の背中に、遠く聞こえる携帯電話の着信音。
 するとそれは拓真の携帯電話だったようで、幸樹の背に『鳴海です』という声が聞こえた。

「なに? 何処の高速道路だ? 解った! すぐに行く。とにかく先に出場を(消防の出動のこと)しておいてくれ!」

 拓真の消防官としての凛々しい声に、幸樹は立ち止まり、また夫妻へと振り返ってしまっていた。
 拓真の顔からは、あの穏やかで柔らかい表情は消え、とても引き締まった怖い顔をしていた。
 その横には、彼を見上げている心配顔の凛々子がいる。

「タク……。出場なの?」
「高速道路で玉突きの衝突事故だ。車体に挟まれているらしい……」
「まあ……、大変!」
「すまない、凛々子」
「何言っているの。貴方の使命だわ。早く行って!」

 凛々子が拓真の手からゴミ袋を奪い取り、彼の背を押した。
 彼は一時、凛々子の顔を見下ろし、直ぐに駆けだしていく。駆けだしたのだが、立ち止まり妻である彼女に振り返っていた。

「リコ……。すまない、すまない、本当に」
「たく……ま」

 彼が何度も彼女に詫びて、そうして坂道を下っていく。
 彼女がそんな夫を、見送っている背中。
 だが、彼女は夫の背が小さくなると、ゴミをサッと捨て泣き崩れていたのだ。

 そうして彼女は暫く、立ちつくしたまま泣いている。

 そして幸樹は、そんな彼女に言葉をかけたいのに、ちっとも足が動かなかったのだ。

 彼女のその顔。
 彼はもう戻ってこない。
 そんな泣き方のような気がして。

 あの男にどうしてか腹は立つのだけれど、でも、今の幸樹はどうして良いのかも、ちっとも分からないのだ。

 ひとこと──彼女に『泣かないで』と、言ってあげたい。
 だけれど、そのひとことが……彼女の涙を止められる物ではないのだと、幸樹には分かっていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

『早く治して、久しぶりに街に出ようぜ』
『そうそう。幸樹が仕切ってくれないと、なんだか駄目なのよね〜』

 ここ暫く幸樹は放課後を彼等と共にしていない為、ぶうぶうと文句を言われた一日。
 だけれど、幸樹が熱で二日も休んだのは高校生になってから初めてのことだったので、彼等は今日は早く帰れと解放してくれた。

 今日、一日……。奇妙な気分だった。
 授業なんていつも適当だったが、今日は最悪だった。今までも、教師の講義は流し聞きしていたのだが、指名されて答えられないなんてことはなかった。ある程度の予習と、講義の流れをなんとなく掴みつつ小耳に挟む程度で、答えることが出来ていたのだ。なのに、今日は、教室中の誰もが驚いて振り返るほどに──。『解りません、聞いていませんでした』と言ってしまっていたのだ。当然、教師も目を丸くし、暫くは幸樹を不思議そうに見つめているという有様。

『長谷川、調子が悪いなら無理をするな』

 教師は、幸樹がまだ風邪で本調子ではないと心配してくれたようだ。
 そうじゃないのに──。
 そうじゃない、幸樹は朝から凛々子と拓真の別れ際を何度も思い返していたのだ。
 そして彼の『すまない』とか、彼女のあの涙とか。いったい、どういうことなのか、どういう気持ちなのか。悔しいけれど、幸樹など関わり得ない大人の事情であろう彼等の事を考え、そうして『夫妻』の心を推し量ろうとばかりしていた。

 そうしてまた──幸樹は帰り道に、今度は迷いなく『薔薇の家』に向かっていた。

 彼女はあれから、ずっと泣いて一日を過ごしたのだろうか?
 また倒れていないか、熱は本当に下がったのか……。
 そんな事ばかり考えながら歩いていると、あっと言う間に白い門の前に辿り着いている。

 今日も芳しい薔薇の香りが漂う庭先。
 白い門の横には、白い小皿にこんもりと盛られた『盛り塩』が置いてある。それも、幸樹が置き直した場所にちゃんとそのままに。
 きちんと訪ねれば、招き入れてくれると母は言ってくれていたが、でも、幸樹の指先に呼び鈴を押す勇気はなかった。
 ただ、そこにたたずんで彼女の姿を探しているばかり。
 やがて、それほどに想い入れている自分に驚き、そして……格好悪く感じてしまいながらも、そこにたたずんでいた。

 だけれど、時間は短かった。
 何故なら、暫くして彼女が玄関を開けて出てきたからだ。

「……誰かがいると思ったら。お帰りなさい」

 紺と緑のチェックのワンピースを着た彼女が現れる。

「俺が、窓から見えた?」
「いいえ、気配よ。ずうっとそこにいたそうな気配。だから気になって出てきたってわけ」

 幸樹はそんなことを真顔で言う彼女に驚くと同時に、『ずうっとそこにいたい気配』と言うのを読みとられてしまったことにまた頬を染めてしまっていた。
 だけれど、朝の決意で幾分か覚悟が固まり始めていたのだろうか……。今度はすぐに落ち着け、すぐに彼女と話すことが出来た。

「凛々子さんも、勘が良いのだろうけれど。俺なんか、適いそうもないな」
「まさか。貴方、盛り塩のお皿、置き換えてくれたの?」
「うん。俺の閃いた場所に」
「勘が良いわ。あれから気分が良いし。あのね、やっぱりあるのよね。気とか空気とか。良くない気が充満していると気分が優れなかったりとか本当にあるの。ほら『病は気から』と言うでしょう。勿論、自分の気力もあるけれどね。自分の周りの空気もあるの。そういう話、信じられる?」

 前なら、『信じられない』と即答だ。

「うん、信じられる。俺、今なら」
「本当に?」

 彼女に『恋をしている』からの同意じゃない。
 今、目の前に現れた彼女の顔色が、ほっと安心できるほどに良かったからだ。
 もし、彼女がこんなに出会った時より綺麗に健康そうに見えるのが、幸樹が置いた盛り塩のお陰と言ってくれるなら、『その話、信じる』なのだ。

 地味な色合いで、良くあるオーソドックスな古風なワンピースだけれど、日本的で撫子のような彼女にはとてもよく似合っていた。
 その裾が風に揺れると、彼女から清楚な香りがやってくる。華やかではないけれど、彼女は庭の薔薇にも負けない庭の片隅でそよ風に健気に揺れている綺麗な撫子。

 でも、幸樹の中では……。
 夫に愛していると突進していく彼女の『心』は、この庭のそこら中に幾重も重なって咲き誇っている真っ赤な大輪の薔薇に勝るとも思っている。

 彼女のそんな熱い愛に、俺は触れてみたい。

 幸樹の心が、生まれて初めて燃え上がった瞬間だったと思う。

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