-- 緋花の家 -- 
 
* 君は僕の白い花 *

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3-8 白花に天使?

 時間がやってきて、拓真は早速、中央署近くの白い喫茶店へと向かう。
 最初はどこか渋っていた拓真だが、緋美子が言ったとおりに他の隊員を見かけることなく、灯台もと暗しというか、いつの間にか平気で通っていた。
 拓真が非番の日は、彼女の学校が終わる時間に合わせて落ち合う。その喫茶店で本を読みながら待っている彼女を見つけ、いつもの挨拶を交わし、拓真は珈琲を頼む。そこで一杯を味わい、ひとしきりの会話を楽しんで、二人は店を出る。そしてやはり自転車に乗り合って、薔薇の家へ向かうのだ。

 季節はいつのまにか、秋。
 緋美子の大学講義が始まっても、二人は夏の頃のまま会うことを重ねていた。
 そして、あの薔薇の家でひっそりと息を潜めるように二人きり、深く愛し合うことも……。

 今日は風が強い。朝の天気予報では、数日中に台風が上陸するのではないかと言っていた。

「なあに? 風、強いわね」

 荷台に乗っている緋美子も、長い髪を乱されて大変そうだ。
 この日は、台風が接近しているせいか、風が強かった。
 今回の台風は九州を通り、西日本に上陸し、この日本海の街も通るのではないかと予想されている。
 自転車をこぎ始めると向かい風で、拓真は腰を浮かせて必死に前進をした。

「今朝の天気予報、台風だって言ってたぜ。くっそー、こっちに来るなよ」
「本当ね。この季節のお天気って嫌いよ。庭のお花が散っちゃうから」

 彼女の怒る声。
 夏の間中、誰よりもあの庭の手入れに勤しんでいた彼女。
 拓真も一緒に手伝って、二人で泥まみれになったことも何度もある。
 彼女があの庭を愛しているように、拓真もあの庭には既に愛着が生まれている。
 だから、彼女が怒る気持ちが拓真にもよく分かった。

「台風、こないといいな」
「本当──」

 もしかすると、今晩あたり庭木の補強が必要かも知れないと思った。
 それと同時に拓真の頭の中には、『非番招集』がかかるかも知れないということも……。

 強風のあまり、高台住宅地の麓まで来て、ついに緋美子が自転車の荷台から降りてしまった。
 彼女は『もう、すぐそこだから、たまには歩きましょう』と言った。
 そんな彼女とたまに並んで歩きながら坂を上がるのも悪くはなかった。
 正岡の別宅は、この高台のほとんど頂上と言っても良いところにある。目の前になると視界が開けて、遠く海が見える。今日はその海岸のあたりもどんよりと鼠色に曇っており、そして遠目にも海の波は荒れていた。

「ああ、これでは庭の花も散っているわね。もう季節が終わりといっても、最後だからこそ、少しでも長く咲いていて欲しいのに……嫌ね」

 歩いている途中も緋美子は余所の庭木が激しく揺れているのを見て、顔をしかめている。
 薔薇の他にも花を育てている緋美子が、我が子のように花を大切にしているその真剣さに、拓真も同調するように頷いた。
 その途端だった。急速に空が暗くなり、雨がざあっと降り始め、歩いていた二人は共に驚き、走り出す。

「参ったな! 緋美子、いいから後ろ乗れ!」

 拓真に促され、緋美子は素直に彼の背にしがみつくようにして後ろに乗ってくれる。
 ……と、言ってもあと百メートルかという距離なのだが、拓真は一生懸命に自転車を漕いで、薔薇の家を目指した。
 それでも突然の土砂降り。白い玄関の軒先に飛び込んだ二人は、ずぶ濡れになってしまっていた。

「もう〜! なあに、前触れもなくっ」
「本当だ。でも……これは今夜は荒れそうだな」

 二人で濡れた頭を振りながら、文句を言う。
 緋美子はまだ濡れてしまったブラウスにスカートを見てはぶつぶつ言っているが、拓真にはその濡れ姿はドキッとときめく姿。肌に貼り付くまだ薄手の秋物のブラウス。いつも白を好んでいる緋美子。雨にすっかり濡れたそのブラウスの下はすっかり透けてしまい、彼女の清楚な白いランジェリーが見えてしまっていた。別に……恋人となって数ヶ月。この手で幾度となく彼女を素肌にしてきたのだから、初めて目にするわけでもないのに。やっぱり、息を呑むほど色っぽく見えてしまう。

 そんな緋美子の胸元に釘付けになっていると、気が付けば、少し頬を膨らませて怒っている彼女の顔が目の前に。

「タク、今、エッチな目をしているわよ」

 彼女に睨まれて、拓真は一瞬、慌てたのだが……。

「仕方がないだろう? こんなに見えているんだぞ」
「あ、開き直ったわね!!」

 本当に開き直った拓真を見て、緋美子が食ってかかってきた。
 いつの間にか遠慮のない仲。そして、いつの間にか、何よりも愛おしい間柄。だから、拓真は緋美子に有無も言わさずに、その濡れている艶っぽいブラウス姿をがっしりと土砂降りの玄関先で抱きしめた。

 お互いの雨で冷えた肌に、すっと暖かい感触。
 それが分かったのか、緋美子も抱きしめられた途端に大人しくなってしまった。

「……駄目よ。ここじゃあ」
「分かっている。でも……決して、いやらしい目で見ていたんじゃない」

 拓真は口元より下にある緋美子の耳元に身をかがめて囁いた。

「……綺麗だから、みとれたんだ。分かるだろう?」
「拓真……ったら……」

 彼女がきゅっと頬を染め、拓真が着ているダンガリーシャツを両手で握りしめて顔を埋めた。
 本当ならこんなこと口にしない。今までだったらこんな照れくさいことを口にする自分なんて絶対に想像できなかった。そんなに女性を喜ばす術だって、雑誌を見て研究したなんて事もない。だけれど、『緋美子』と言う恋人の前なら別だった。本当に感じたことをそのまま彼女に伝えているだけ。
 そうして拓真の率直で真っ直ぐな愛の囁きは、彼女にだけに届く。そして彼女はそれを受け止めて、益々綺麗になっていくのを実感していた。
 『俺の緋美子』。拓真はそう心で強く念じている。いつだって……。
 目の前で通じたように目をそっと閉じている彼女がいる。
 玄関先だから『ここは駄目』と言いながらも、今はもう、土砂降りの雨と風に激しく揺れている蔓薔薇の木に囲まれている『二人だけ』の静けさ。そんなに人も通らない旧道。そしてこの雨。だから、抱き合う二人の唇はそのままそっと重なった。
 肌も冷えてきているのに、お互いの触れあっている部分はとても暖かい。以上に、今、愛し合っている唇は……もっと、熱い。

「た、タク……。駄目よ、中、入りましょう?」
「そ、そうだな。う、うん……」

 そう言いながらも、もうひととき。二人は深い口づけを交わして、やっと離れた。
 それでもまだ指先と指先は僅かに繋がっている。一緒にいる時は、一時も離れたくないというお互いのそんな気持ちの表れ。
 それが見事にシンクロしているようで、それは拓真から緋美子へ、緋美子から拓真へとお互いにお互いの気持ちが通じ合っていることを実感させてくれていた。

 

「緋美子……ちゃん?」

 

 この土砂降りの雨の中、人も通らないだろうと思っていた門からそんな女性の声。
 抱き合って口づけを交わしていた二人。その愛し合う姿は既に解かれていたものの、その直後だっただけに二人は飛び上がるほど驚いて、ついに最後に結ばれていた指先も離れた。

 そのアールヌーボー調の透かし彫りがある白い門に、華やかな花柄の大きな傘をさしている女性が立っていた。

 拓真は、目を見開いた。
 そこには、時々、勤務先に兄の陣中見舞いに来る『お嬢様』。先輩の妹、長谷川早紀が唖然とした顔で立っていたのだ。

「早紀さん! いつ、帰ってきたの?」
「ただいま。昨日帰ってきたの。さっきも緋美子ちゃんがいるだろうと思って訪ねたら留守だったから……」
「おかえりなさい。留学、どうだった?」
「どうだった……って。緋美子ちゃんこそ、どうなっちゃっているの?」

 夏の間、早紀はお嬢様らしく『海外留学』に行っていると拓真は聞かされていたから、恋人になったという報告はまだしていないことも知っていた。
 だが、なにも……こんな台風直前の、誰も訪ねてこないだろうと思う日に、先輩の妹、または彼女の一番親しい友人が来るとは予想外だった。
 そしてやっぱり早紀は、緋美子よりも、見覚えあるだろう拓真の方へと歩み寄ってきて覗き込んできた。

 ……思わず、面識ある彼女から顔を逸らしてしまった拓真。勿論、そんなの『遅い』と分かっていてもだ。
 だがそれは緋美子も同じようで、拓真とここでもシンクロするように顔を背けてしまっていたのだ。しかも緋美子の顔は、拓真の目の前で照れている時より真っ赤だった。
 先ほどの口づけが見られたか見られていないかの焦りもあるだろうが、それでなくても、この濡れ姿でこのように親しげに寄り添っている男女を見て、何も勘ぐらない方がおかしい。

「あの……鳴海君でしょ?」

 ついに声をかけられ、拓真は観念をして、早紀へと顔を向けてしまった。

「えっと。お久しぶりです、早紀さん……」

 早紀が真っ正面から拓真を確かめると、やっと驚いた顔。
 そして緋美子も観念したように、拓真の隣に並んで恥ずかしそうに俯いていた。
 下着が透けるほどに濡れている女性を隣に従えている男性。そして二人が立っているのは、その彼女の自宅と言っても過言ではない家の玄関。これだけの状況と、この雰囲気と姿を見て、大人になる女性なら直ぐにぱっと察してくれるだろう。
 だから、早紀は驚いた顔を見せて直ぐに、二人を交互に指さして言った。

「い、いつの間に!? 緋美子ちゃんって、鳴海君を知っていたかしら?? 鳴海君も、緋美子ちゃんのこと……?」

 早紀は、拓真と緋美子が知り合う前から、この二人をそれぞれ知っている。
 なのに、全く知り合いではなかった二人が目の前で『恋人同士』になっているのは、かなりの偶然で驚きであっただろう。
 しかし、早紀には一つ『可能性』があることに気が付いたようで、今度は拓真を指さして問いつめてきた。

「もしかして、うちのお兄さんの『お節介』?」

 緋美子のご近所である兄の正樹が、後輩の拓真に緋美子を紹介した。それなら頷けると思ったのだろう。
 しかし不正解なので、拓真だけでなく緋美子も揃って首を振った。
 するとやはりそうでなければ、かなりの偶然? と、早紀はまた驚きの顔を見せた。

「早紀さんが、海外留学に行って直ぐに、そこのお宅が火事になって……」
「聞いたわ、うちのお母さんから。直ぐそこで怖かったけれど、お兄さんの出張所が出てきて直ぐに消してくれたって。まさか、その時?」
「うん。次の日、現場調査に来ていた彼が見回りの時に……絵を描いている私に『もう大丈夫ですよ』と……」

 拓真が声をかけてくれたと、そこは緋美子は初めて拓真と出会った時のような大人しそうな女性の顔で恥ずかしそうに早紀に告げていた。
 だが、拓真もその時のことを思い出して、顔が熱くなってくる。もう、女性二人のお話し合いとして、男子禁制にして逃走させてくれないかと思ってしまったほどに。
 だが、気が付けば、早紀はもうそれ以上は言わず……。その代わりに、もの凄く目を輝かせて二人を交互に見つめていた。

「素敵! 『夏の恋に落ちて』って言うの!? 私、鳴海君がそんな男の人には見えなかったのに!」
「え。いや……その通りのはずだったんだけれど……」
「出張所でお会いしていた時は、すっごい奥手そうに見えたのに。だって兄さんが心配していたのも。お前の短大の友達、紹介してやれよって、冗談で言っていたぐらい」
「いや〜! 早紀さんのお嬢様学校のお友達だなんて、俺には……」

 そうなのだ。早紀はこの市内でも有名なお嬢様短大学校に通っていたのだ。
 だから周りは華やかな友人が多いというのも緋美子から聞かされている。それでも早紀はいつも一番に緋美子のところに来てくれると……。そして今日も帰国後、真っ先に緋美子を訪ねてきたと言ったところだろうか。

 だから、気が付けば、そこには早紀の満面の笑顔があった。

「お似合いよ。おめでとう。私の知り合いがこんなことになっていたなんて」

 彼女のその屈託のない笑顔は、いつだってそこを明るくする。そしてやはり華やかだった。
 彼女は緋美子より艶やかな花になりそうなほど、この時から華やかだった。
 そしていつだって彼女が微笑んだら、そこにいる誰もが不思議と笑顔になってしまう。彼女の笑顔ひとつで、照れも気恥ずかしさも、他の言いたいこともどうでも良くなってしまうかのように。そしてそんな屈託ない彼女だからこそ、その祝福の言葉が、すうっと胸に響いた気がして、拓真と緋美子は顔を見合わせて微笑み合っていた。

「こんな雨の中、有難う。上がっていって、早紀さん」
「もっちろんよ。邪魔と言われても、お邪魔していくわ。ごめんね、鳴海君」

 『邪魔じゃないっすよ』と拓真が笑い返すと、ほっとした早紀が直ぐに緋美子の腕を捕まえて玄関へと一緒に入っていってしまう。
 どっちが恋人か分からないぐらいに、早紀は緋美子にひっついているのだ。

(はあ〜。なるほど、仲が良いワケだ)

 どちらかというと、早紀が緋美子が好きで堪らないというように見えてしまった拓真。
 その通りで、早紀は拓真以上に、この薔薇の家に慣れていた。本当に緋美子と将来一緒に住みたいと言っていただけあって、我が家のようにしてくつろいでいるのだ。

 緋美子の部屋で着替え、二人一緒に一階のリビングに待たせている早紀の元へと行く。
 すると早紀は先ほどの明るさもどこへやら。雨が殴りつける窓から、泣きそうな顔で庭を眺めていた。

「この夏は、ここのお花を楽しめなかったのに……。これじゃあ、散っちゃうわね」

 本当に泣きそうな早紀の声に、拓真が戸惑っていると、緋美子は致し方ない顔で微笑み、早紀の隣へと行ってしまった。
 そして明るい栗色に髪を染めている華やかな早紀の隣に、黒髪のひっそりとしている撫子の緋美子が並ぶ。

「いつも大事に思ってくれて、有難う」
「私、知っているわ。おば様が亡くなってからも、一生懸命にこのお庭を守ってきた緋美子ちゃんのこと。だから、ここのお花は余所のお花よりとっても綺麗なんだもの……。ここの家はとっても優しい。だからとっても好きよ」

 早紀がそっと緋美子の手を握った。
 拓真はちょっとどっきりとしてしまう。
 女同士なのに……。本当に通じ合った恋人のよう? それはまるで先ほどの自分と緋美子のような錯覚。
 拓真なんかよりもずっと先にある『女の友情』のようだった。

 しかし、嫉妬はなかった。
 並んでいるその姿はとても対照的なのに、まるで姉妹のように寄り添って、同じようにこの薔薇の庭を愛する女性が二人。
 拓真は微笑ましく、黙って後ろで見守っていた。
 そしてどこか『同志』のような気持ちにもなってくる。

 この庭を愛する者は、自分だけじゃないという気持ち。
 そして同じように庭を通して緋美子という女性を愛する同志のような気がしたのだ。

 

 だからこそ──。
 拓真は後に、この家を『早紀』に預けた。
 妻の緋美子も、任せられるのは『早紀』しかいないと。

 

 それもだいぶ、後の話になるが……。

 

 暫くすると、この雨の中、正岡の父が帰ってきた。

「ひどい雨になったね。台風が近いとか聞いて、気が気じゃなくて帰ってきたよ」
「お父さん、お庭を補強する?」
「勿論だよ。その為に、早めに切り上げて帰ってきたんだから」

 どうやらここにも一人、この庭を愛する人間がやってきたようだ。
 正岡の父が帰ってくると、緋美子の顔つきが変わる。まるで戦闘態勢のように、いつにない凛々しい顔になったのだ。
 彼女は合羽を着込むと、いろいろな道具を手にして、玄関へと向かっていった。そして彼女の父親も、二階の書斎で直ぐにジャージ姿に着替えて降りてくる。
 どうやらこの強風、雨の中、父娘で庭木の補強をするつもりのようだ。

 それを知って、拓真は緋美子の元へと慌てて走った。
 そして彼女が手にしているビニールロープや、軍手を取り上げた。

「俺がお父さんを手伝うから。緋美子は中で待っていろよ」
「でも……」
「いいから。お父さん、行きましょう」

 そういいながら靴を履くと、その隣に彼女の父親が肩を並べていた。

「よし。行こうか、拓真君。緋美子は、早紀ちゃんと待っていなさい」

 父親がそう言ったのに、緋美子はとても驚いた顔をしていた。
 それはこの恋人の男が、娘の手の代わりになっても良いという許しのようなものに聞こえたのではないだろうか……?
 少なくとも、拓真にはそう聞こえた……。それは拓真にも一瞬の驚きを含めた、感動でもあった。

 そんな正岡の父と一緒に、強風が吹き荒れる雨の中へと向かう。
 正岡の父の指示に従って、拓真は薔薇以外の庭木の補強を手伝った。
 庭が見えるリビングの窓では、緋美子と早紀が心配そうにこちらを見ている。

「なんだね。あの子達は……。別に命懸けの仕事をしている訳じゃないのに、あの顔……」

 正岡の父が、窓辺に揃っているお嬢さん達の顔を見て、吹き出していた。
 拓真も言われてみればと、少しだけ笑う。

「でも、彼女達は本当にこの庭が大好きなんですね」
「そりゃね。中学生の時に仲良しになった彼女達の憩いの庭だったんだ。花の中で、女の子だけのひそひそ話という感じだったよ。彼女達にはきっと夢のようなひとときだったんじゃないかな。手放せない宝物なんだろうね」
「……生意気ですが。俺、今なら、彼女達と同じ気持ちです。勿論、二人が積み重ねた時間には、ちっとも敵いっこないっすけど……」

 そう言うと、正岡の父がふっと静かに笑った。
 余所から来た、しかも……娘を手にしている男が、『この庭を僕も愛しています』と言ったからだ。
 それが呆れられた笑いだったのかもと……。生意気と覚悟をしていたが、その顔をされても致し方ないかと拓真は思った。
 だが、その正岡の父は拓真と木にかけたロープを力一杯に引っ張っている必死な時に呟いてくれた。

「この庭は、死んだ妻が大事にしていた。その前は、私の母。その前は私の祖父母、その前は……」

 つまりは、正岡家代々の庭と言うことらしい。
しかし、緋美子にしても、この正岡の父にしても、『代々引き継がねばならないから』という責務を背負って手入れをしているようには見えなかった。
 本当にこの庭を愛しているから、だから惜しみなく手入れをしている。拓真はそれを見届けていた。だから……。

「この家には男手がやっぱり必要なんだよね。こんなふうに……。頼むよ、拓真君」

 それに驚いて、拓真はもう少しで目一杯引っ張っているロープを握っている力を抜きそうになった。
 しかしそれは『今』、この作業をしている時だけの『頼む』だと……取ることにしようと思ったから……。

「この家にはお父さんが、ずっと必要ですよ。俺、いつでも手伝いますから!」

 そう叫ぶと、隣で同じようにロープを引っ張っている彼女の父親が『よし!』と叫んだ。
 その『よし』がロープを引っ張る為の気合いのかけ声だったのか……。それとも……?
 だが、拓真にはどちらでも良かった。ただ手伝うという気持ちさえ通じていればそれで。

 庭の補強が終わると、風は東西南北、不規則に吹き荒れ始める。

「大学の研究室で見てきたニュースでは、やはりこちらに上陸してくるらしいよ」

 玄関へと一緒に入ると、正岡の父がそう言った。

「お疲れさま。お父さん、拓真」
「お疲れさま。おじ様、鳴海君」

 そこには労いの微笑みで迎えてくれるお嬢さんが二人。
 拓真と正岡の父は、顔を見合わせ微笑み合った。

 しかしこの時点で、拓真の脳裏には、この家以上の不安が頭を占め始める。
 拓真は正岡の父と着込んだ合羽を脱ぎながら、玄関を上がらずに緋美子に告げる。

「緋美子、ごめん。非番の日でも、招集がかかることがあるんだ。俺の連絡先、寮だけだから。俺、帰るな」

 そう言うと、寂しがるだろうかと思ったのだが。

「そうね。いってらっしゃい」

 それこそ先ほど、庭を守ろうと凛々しい顔つきで出ていこうとした彼女のように、潔く送り出してくれる顔をしていたのだ。逆に拓真が驚いた。

「貴方は市民を護るお仕事をしているんだもの。このお天気を見て、そう思えて当然よね」
「また、明後日な」
「気を付けてね。いってらっしゃい」

 その顔は既に、消防官の恋人の顔になってくれているという拓真の感動があった。
 でもきっと……。その潔い顔の下に、寂しさを隠しているに違いない。そう思う。彼女の目が少しだけそう言っている気がしたのだ。それでも、それすらも緋美子は見せないようにしているのも。

「拓真君、無理は禁物だよ」
「そうよ。うちの兄さんにもそう言っておいてね。勿論、鳴海君も、気を付けてね」

 正岡の父と、早紀にも激励される。
 拓真は笑顔で頷いて、この家を後にする。

 雨は先ほどより酷くはなくなったが、風は徐々に激しくなってきている。
 いつもならまだ明るい時間だろうに、もう、暗くなっている。
 その空の下、拓真は自転車で、現在の我が家である寮へと向かう。

 だけれど、心はどこか清々しい。

 あの庭を愛する一体感を味わったというのだろうか?
 そして愛しい恋人の、消防官としての自分を送り出してくれる顔。
 あの元気づけてくれる顔、そして彼女の笑顔、庭を愛する絵を描く横顔。それさえ心に留めていれば、どんなことも乗り切れる気がしてくるのだ。

 

 朝方ではあったが、非番招集が本当にかかった。
 海に近い河川敷に、土嚢を積む防災作業だった。

 

 台風一過。
 薔薇の庭は少し荒れただけで、まだ最後の彩りを残してくれていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 早紀はあれから、しょっちゅう薔薇の家に遊びにやってくる。
 しかし緋美子にとってはそれは当たり前との事だった。

 つまりは……。拓真と緋美子がこの家で一夏中、二人きりで急速に親密になったのは、この早紀が海外に出かけていたというのも、大きな要因だったのではとも思えた。
 それほどに、緋美子と拓真が喫茶店で落ち合ってから、この薔薇の家に帰ってくると、決まってタイミング良く早紀がやってくるのだ。
 かといって、毎日ではない。早紀が来ない日は、相変わらず二人で愛し合っていた。

 今日もリビングで、対照的でも仲良しのお嬢さんが二人、笑いながらお喋りをしているところ。
 拓真は台所にあるテーブルで、一人、新聞を拝借して読んでいたら、向こうのリビングの部屋から早紀がティーカップをぶら下げて拓真を呼んでいる。

「うふふ! ねえ、鳴海君、おかわりー」
「勘弁してくれよ、早紀さん」
「あら。この一杯をご馳走になったら、私、帰るわよ。その方が鳴海君だって、緋美子ちゃんとゆっくり出来るでしょう。早く、早く!」

 確かに、緋美子と二人だけの時間だって欲しい。この、人の弱みにつけこんで、なんという人使い……と、拓真はふて腐れるのだが、それも一瞬。
 早紀はこうして押しかけてくるが、割と直ぐに帰っていく。そしてある時、拓真に耳打ちをしたのだ。
 『私を邪険にしないで、仲間に入れてくれて有難う』と。一見、お嬢様にありがちな奔放で我が儘な性格に見えるのだが、彼女は最後のきちんとした一線は守っていて、何処か憎めない我が儘なのだ。
 男としてふと思うのは、こういう女性に振り回されていつの間にか虜になっている奴もいるのだろうなあと。拓真はタイプではないのだが、そう思える可愛らしさが早紀にはあるのだ。
 だから、つい、早紀の言うとおりに、彼女のティーカップを取りに行って、キッチンで緋美子が用意したティポットを片手に紅茶を入れている始末。

 それに二人が顔を突き合わせて、他愛もない女の子のお喋りをしているのは、どこか幸せな気持ちにさせてもらえた。不思議なことだった。そうして二人がお喋りしている内容は耳に入っては来るが、拓真にはあまり印象にのこならいまま、耳を通り過ぎていく。その間、拓真はこうして社会勉強。新聞を読んで時間を潰す。二人の女の子の付き合いは、自分がいても、彼女達の自由にさせていた。

 そのティカップを早紀に届ける。

「鳴海君、良い旦那さんになれるわよ」
「余計なお世話っすよ!」

 まったく硬派で通したい拓真は、この家の中では、あの二人にやられっぱなし……。いや、早紀が来てから薔薇庭姉妹にやられっぱなしなのだ。
 こんな姿。絶対に消防署の知り合いには見せられないと思っていた。

 今日も、お嬢様の早紀が持ち込んできた『流行の菓子』の品評会のようなお喋りをしているようだった。

「最後のひとつ。緋美子ちゃん、食べて」
「いいの? 有難う。すごく、美味しかったわ。今度、お義姉さんにお土産に買っていくわ」
「赤ちゃん、もうすぐでしょう?」
「うん。来月なの。クリスマスかもしれないって言っているの」
「クリスマス!? 素敵〜」
「女の子らしいわ」

 二人の次なる楽しみは、緋美子の姪が生まれること。
 早紀はそれはまた緋美子と同じように、楽しみにしているようで、本当に二人は姉妹のようだった。
 そうして笑いながら、緋美子は最後のひとつまみを手にして、頬張ろうとしていたのだが……。急に顔をしかめ、指でつまんでいる洋菓子を眺めていた。

「緋美子ちゃん、どうしたの?」
「……急に……」

 拓真も、あんなに美味しそうに食べていたのにどうしたのだろうかと、突然、顔色を変えた恋人を眺めていると、彼女は急に菓子を皿に戻し、急ぐようにしてリビングを出て行ってしまった。
 残された早紀と拓真は共に顔を見合わせた。
 しかも少し離れたこの家の風呂場から、彼女の嘔吐するような声が聞こえてきた。それにも拓真と早紀は顔を見合わせ、揃って眉をひそめた。

 そこは女性同士というのが早紀と通じてしまい、彼女が様子を見に行ってくれた。

『どうしたの? 緋美子ちゃん』
『ご、ごめんね。お菓子のせいじゃなくて……』
『急に気分が悪くなったの?』

 そんな会話が聞こえてきて、拓真はそっと洗面所がある風呂場へと行ってみる。

「緋美子、大丈夫か?」

 拓真が声をかけると、緋美子はまだ洗面所で俯いたままだった。
 早紀が心配そうに、その背を撫でていたのだが……。彼女はなんだか拓真を確かめるように不安な顔になり、次には緋美子の顔を覗き込んで、今度は洗面所の鏡に映る拓真をまた見ていたのだ。
 そして、今度は早紀のその顔を、緋美子が鏡の中で見つめていた。そこで今度は、女二人が同じ事を思っていることを確信しているかのように、鏡の中で視線を合わせ、お互いを窺っているように……。

「大丈夫よ。やっぱり……そうなのかしら……」
「緋美子ちゃん、いつから分かっていたの?」

 早紀のその言葉に、拓真は首を傾げた。

「一昨日、かしら……」
「病院へ行くのが怖いの?」

 緋美子がそこで首を振る。
 拓真はまだ分からなかった。

「まだタクに言っていないから」
「だったら、ちゃんと言わなくちゃ」

 本当に姉妹のようなテンポで会話を交わしている。
 二人の間には既に『何かが判明し合っている』のに、拓真には分からなかった。
 だが、早紀に背中を押された緋美子が、拓真の目の前に何かを決したように立っていた。

 彼女の潤んだ瞳。泣きそうな目?
 でも、口元はどこか幸せそうに緩み、そして頬も愛らしく染まっていた。
 その熱っぽい眼差しで、彼女が拓真に言った。

「赤ちゃん……いるみたい……」

 緋美子がそっと、淡いベージュのセーターを着ているお腹を両手で包み込んだ。

「え?」
「だから、拓真と私の……」

 拓真は聞こえていたのに、もう一度、聞き返していた。
 なんだって? 俺と緋美子の……?

 この時、彼女はまだ十九歳の大学生で、拓真はまだ二十歳の駆け出し消防士だった。

 

 

 

Update/2000.4.30
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