-- 緋花の家 -- 
 
* 君は僕の白い花 *

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3-9 僕の愛が走り出す

「俺と緋美子の、『子』……」

 少し照れるように俯いている彼女は、もう既に母親の顔だと拓真は思った。女とはそういうものなのかも知れない。
 そして拓真にもその実感はしっかりと湧いていた。何故なら『身に覚え』があったからだ。

 どんなに愛しても止まない緋美子への熱愛。そんな彼女の身体の中に『一度だけ』、自分の痕跡を残す行為をしたことを拓真はちゃんと覚えている。
 それまでしっかりとしていた避妊がたまたま出来なかったとか、世間で良く聞く直に繋がる感触を感じてみたいとか、そんな興味本位で避妊はしなかったとか、そんなことじゃない。
 あの時、本当にそのまま自然に愛したかったからだ。悪く言うなら『勢い』とも言われる行為かも知れなかった。でも、彼女と愛し合うようになった毎日の中、『確かめたかった』のだと思う。その『自然』という行為が自分達の中に存在し得るのかどうか……。
 だが、その時、ちゃんと緋美子と無言でも『合意』したという確信がある。彼女を一気に奪った訳じゃない。その時に、その前に、ちゃんと彼女の目を見た。動きを止めて彼女を見た。その時の彼女の目は、真っ直ぐに拓真を見つめ、怯えてなんかいなかったし、拒否もしなかった。
 本当に、自然だった。……そしてその後も、拓真も緋美子も、その可能性があることは解っていて一言も何かを確かめるようなことは言い出さなかった。
 それこそ、いつもの睦み合いをいつものように終えた満足感で。でも同時に拓真としては、男特有の性欲から彼女の生身を愛したかったという欲求を満たした感触があったことは否定しない。それに緋美子も。その日その後、もしかするといつもより無言だったかもしれないが、絶えず柔らかに微笑んでくれていた記憶がある。だから……彼女も『幸せなことだった』と信じていた。
 その後も、あの時のことについてはどちらも口にしないまま、また同じように抱き合う日が戻った。ただし……その次からはいつも通りに避妊した。
 そんなことにはならないだろうと思っても、心の何処かには『もしかすると』という覚悟はあった。

 だから……。
 拓真は頬をほんのりと染めているさせている緋美子を見下ろして、拳を握った。
 そして彼女を真っ正面に捉え、はっきりと言い切った。

「俺は、緋美子を直ぐ嫁さんにしても良いと思っている。子供も欲しい」

 拓真の突然の『答』に、先に覚悟を決めていただろう緋美子がとても驚いた顔で見上げてきた。
 緋美子だけじゃない。彼女の後ろにいる早紀は、予想外だったのか唖然としていた。

「今夜、直ぐにお父さんに報告しよう。ぶん殴られる覚悟なんて、とっくの前に出来ていたんだ。いつかは……緋美子を……俺のって……」
「タク……! いいの? 本当に、いいの?」

 当時の結婚とは、まだ順序が重視されていた。
 昔ながらの形式も、何か一つを省くことすら、それこそ『きちんとしなかった夫妻』の烙印でも押されるかのように……。
 そこまで気にするなんて、大袈裟だと言われるかも知れない。しかし、理解して欲しい人々が解ってくれたらそれで良いと最終的には思えても、そうでない何処かの影で後ろ指をさされていることも有り得るのだ。何処かで、それすらも『あってはいけない』という世界。ましてや、伝統が色濃く残っている地方ではなおさらだった。

 現代で言う『できちゃった婚』。
 このご時世の中で、拓真は潔くその決意をしたのだ。

 彼女はまだ十九歳で、大学生になったばかり。拓真はまだ成人したばかりか、消防士となって二年、三年目の駆け出し。
 まだ『大人』という安定した年頃でもない二人が、子供を挟んで夫妻になるというのだ。ここで男の責任がどうこうとなる前に、男側に多少の戸惑いに揺れが生じても不自然ではないと思う。
 だから、拓真の潔い決意に、緋美子すらも予想外だったから驚いているのだろう。
 しかし、拓真は違う。
 その『行為』を自覚しながらも彼女が同意したことで、どこか『回避してくれているだろう』という女性任せの判断を頼りに『あるはずがない』と安心をしていたのだって否定できないし、反面、こうしてちゃんと『あったとしたら』の覚悟だってしていた。
 拓真の中では当然のこと。そして、拓真という男は、ぐちゃぐちゃと迷うのは好きじゃない性分だった。拓真が今、愛してやまない彼女に言いきったことは、今日まで彼女を愛してきた『すべて』と言いきっても良い気持ちそのもの。
 出会ってから短期間だった? そんなことは関係ない。そのうちに冷める? そんなことも関係ない。彼女をずっと愛していく自信があるか? そんなことだって全く関係ない。拓真にとっては、今、ここにある気持ちが真実で現実で『すべて』なのだ。そんな『ものさし』は、あとからひっついてきて、その時に答を出していけばいい。

 なによりも、拓真を今、一番幸せにさせているのは、彼女の中に自分の分身が息づいていることだった。
 そう思うと、今、目の前にいる彼女に自然と跪いて、拓真は彼女を抱きしめていた。

「俺、二人を一生、守る」
「拓真……」

 彼女の柔らかな腹部に、そっと頬を寄せた。
 返事なんていらない。
 子供がいると告白してくれた後の、彼女の聖母のような顔。それで充分だった。
 それに彼女は、涙ぐんでいる。彼女の中にも覚悟はあっても、多少の不安はあったに違いない。
 だけれど、これで安心してくれたと拓真は思っている。でも、緋美子も答えてくれる。

「私も……。貴方とずっと一緒に生きていきたい……」

 そして彼女はそのまま拓真の頭を抱き返してくれた。

 暫くすると、そんな二人の『誓い』の側から、すすり泣く音が聞こえてきて揃って振り返る。
 そこには緋美子以上に、泣いている早紀が立ちつくしていて、二人はハッと我に返った。
 だが、早紀はその途端に、緋美子にがばっと抱きついてきた。

「いやーん! 今、凄いの見せてもらっちゃった!! 感動ーーっ」
「さ、早紀さん……」
「鳴海君、すっごーい! 私、絶対に男は驚いて、怖じ気づくと思っていたのに。素敵だったーっ!」
「ええっと、ええっと……どうも……」

 早紀がいることも忘れた『求婚』になっていたようで、拓真は急に気恥ずかしくなって俯くしかない。

「なんだか、私、見届け人になった気分。私、貴方達を応援するからね!!」

 鼻を真っ赤にした泣き顔で激励してくれる早紀。その頼もしい言葉に、やはり少しは行く先が不安である二人はほっとした顔を揃えていた。

「有難う、早紀さん」
「うん、これから大変だと思うけれど、今までのように何でも相談してね。絶対よ!」
「うん、頼りにしているわ」
「凄いー。正岡のおじ様、今年と来年で一気に二人の孫のお祖父ちゃまになるのね。絶対に喜んでくれるわよ」

 緋美子が不安に思うだろう部分を、早紀がそうして明るい方へと持っていってくれるので、拓真も心が明るくなってくる。
 本当に、緋美子にこのような頼れる同性の友人がいて、頼もしい限りだった。

 二人だけじゃなく、三人で幸せな瞬間を噛みしめあっていた。
 この瞬間があったからこそ……。この早紀がこれから先の二人の人生を、大いに支えてくれることになっていくのだった。

 

「じゃあ、私、今日は帰るわね。今夜、頑張ってね」

 その後直ぐ、早紀は二人きりで噛みしめたいだろうと気遣ってくれ、自宅に帰ると言いだした。
 緋美子に『一人の身体じゃないからね。ちょっとしたことでも無茶は駄目。明日も私、お手伝いに来るからね』と、言い残して……。
 玄関先まで見送ろうとした緋美子を、早紀は『つわりがあるんだから、座っていて』とリビングに残して玄関に向かっていく。その彼女がリビングを出る時に、さりげなく拓真に目配せを送ってくる。それに気が付いて、拓真はそれとなく早紀を見送る振りをして玄関へとついていっった。

「鳴海君、病院へ付き添いたい?」
「行きたいけれど、明日はどうしても」

 明日も二十四時間勤務で、抜け出すことは出来ない。事情を話せばあるいは。だが、その事情はまだ明日の時点では職場では言えるはずもない。
 だが、こうして判明したからには一刻も早く、産婦人科へ確認しに行くべきなのだろう。
 するとそこの拓真がどうしようかと思い始めていた先を、彼女がさっと察してくれた。

「鳴海君さえよければ、私、明日、緋美子ちゃんに付き添っても良いわよ。やっぱり私達の歳ではより一層不安だと思うのよね。私がもしそうだったら、そう思うだろうし、きっと……彼についてきて欲しいと思うもの。ましてや、緋美子ちゃんには頼りになるはずの女親がいないし、お義姉様は身重で大事な時期だし……」
「確かに……。俺としても付き添いたい気持ちはあるけれど、やはり、明日の内にちゃんと確認するのが先決だと思うから。お願いできると助かるな」
「うん。じゃあ……お節介だけれど、明日、緋美子ちゃんを連れて行くね」
「お節介だなんて……。あいつをこんなに心配してくれて。本当に有難う」

 拓真の心よりの感謝に、早紀がにっこりと笑い返してくれる。

 お嬢様かと思ったが、緋美子以上にしっかり者で拓真は驚いた。
 今時のちょっと派手目のブラウスに、身体にぴったりとしているタイトスカート姿。明るく染めた髪にくっきりとしたメイク。その流行最先端の姿で、彼女は煌びやかなハイヒールを履きながら、そんなしっかりしたことを言ってくれるのだ。
 緋美子が懇意にしている訳を痛感した気がした。

「有難う、早紀さん」
「ううん。本当に素敵な瞬間を見届けさせてもらって、私、嬉しかった。私の場合は結婚なんてまだまだと思っているけれど、でも、悪くもないわねと思っちゃった。鳴海君、すっごく格好良かったわよ」

 どこか茶化されてばかりいた彼女から、ちょっと尊敬するようなキラキラとした眼差し。拓真は再度、照れて俯いてしまう。
 その早紀が、『じゃあ、明日。また来る』と言い残して帰ろうとしていたのだが……。玄関のノブを握った早紀は、何か躊躇っているようにそこで止まり振り返ったのだ。

 その時の、ちょっと不安を抱えているような早紀の顔。
 後に『この顔』が拓真を不安にさせていく原因の始まりだったかと思い返す瞬間となる。

「……兄さんは、貴方達が付き合っていることを知っているの?」

 この時の拓真には、先輩の妹がそう聞くのは当然のことかと、それぐらいにしか思わなかったから何も考えずに『知らない』と答えた。

「そう。もう暫く、言わない方が良いかも」
「どうして?」
「……なんとなく。妹の勘」

 まだ拓真の中には芽吹いたばかりの『違和感』。
 この時、妹の早紀にはしっかりと根付いていたことを後から知ることになる。
 しかし早紀もそんなことを、まだ親しくなったばかりの拓真にこぼしたことにハッとしたようだった。直ぐにいつもの明るさで繕ってきた。

「ほら。同じ職場なんだし、やっぱりどんなに親しくても『結婚』がきちんと決まるまでは言わない方が社会的には良いと思うのよ」
「あ、なるほどね。うん、そうするよ」

 それでも言うことは、若さを謳歌しているお嬢様学生とは思えないしっかりしたもので、拓真も納得……いや、教えられた気がして頷いた。
 それで早紀はほっとした顔で帰っていった。

 でもやはり拓真に、新たなる違和感が息吹く。
 何故。あの先輩に知られると妹が不安な顔になるのかと……。

 この時、リビングの入り口から妻となる緋美子も不安そうに覗いていたことは……。拓真は気が付かなかった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 そこに、この家の家長である正岡の父と、若い二人が顔を突き合わせていた。
 台所にある食卓テーブル。帰ってきたばかりでスーツ姿でいる正岡の父と向き合っているところだ。彼は渋い表情を浮かべたきり無言で、それからも腕を組んで黙っている。
 そして向かいの席に並んで座っている二人は、ひたすら、父が言葉を発するのを緊張しながら待っていた。

 緋美子がそれぞれに入れた緑茶。それが入っている湯飲みを、正岡の父がやっと手に取った。

「分かってはいたけれどね。だけれど、まさか、『そこまで』とは……。いや、それも私の甘さだったかね」

 『そこまで』とは、拓真が緋美子を妊娠させることをしたと言うことだ。
 若い年頃の二人を、昼間留守の間、好きにさせているも同然の許可をしたことを、正岡の父は分かっていた。しかし、まだまだ若いから『妊娠』に至るようなことは、これからを謳歌したい二人は気を付けるとたかがくくっていた……。それが正岡の父が言っている『私が甘かった』ということだ。

 そして父は緑茶を一口だけ飲むと、また湯飲みを置いて黙り込んでしまった。

 

 この正岡の父が、スーツ姿で帰ってきて直ぐに『話がある』と緋美子が切り出した。
 彼がテーブルについて、若い二人と向き合ったその時、直ぐに拓真は告げた。
 『彼女の中に、俺との子供がいます。結婚させてください』と──。
 案の定、正岡の父はとても驚いた顔で両目を見開き、先ずは娘の緋美子の顔を確かめていた。そして次には拓真の顔を。
 それからこの状態、正岡の父は渋い顔をしたまま黙っているのだ。
 その間、二人はじっと黙って緊張に耐え、父親からの反応を待った。

 正岡の父がやっと口を開いてくれる。

「まだ若いと思わないかね? 緋美子」

 まず娘に問う父親のその声は、意外と怒りはなく、いつもの彼らしく穏やかだった。
 しかしいつか拓真にしっかりと釘を刺した時のような静かな気迫は込められている声だった。
 その声に緋美子は、娘だからこそ、いつにない父親への緊張を見せている。その時、隣に座っている拓真の膝の上に、そっと彼女の手が置かれる。その指先が、拓真の手を探していた。……彼女の不安。父親への突然の報告をせねばならなくなった緊張。それが窺え、拓真はそっとそのテーブルクロスの影で緋美子の手を握りしめる。すると彼女の顔が、確固たるものへと変化し、父親に向けられる。

「思わない。私はこの先もずっと『この人だけ』と言えるわ。だから……」

 緋美子のその言葉に、拓真は再度、感動をしていた。
 愛されている喜びを実感し、やはり少し早くはなったが妻にするなら彼女しかいないと、確信できた。
 だが、正岡の父は、まだ渋い顔のまま……。

「大学はどうする。勉強をしたかったのではないのか?」
「休学するわ。この先、子供を抱えてどうなるかわからないけれど。でも、諦めた訳じゃない。それにお父さんは言っていたじゃない。『勉学は一生』だって。大学で勉強することは、なにも二十代だけの特権じゃないでしょう? 私はそう思う。だから迷わず、今一番大事なのは『子育て』だと選択できる」

 拓真はこの父娘の会話に、初めてハッとする。
 今日の出来事で、いきなり彼女の父親に『結婚します』と申し入れているのだから、この先何が起こるかなんてちっとも考えていなかった。
 緋美子の大事な学生生活を、無にしたことになる。それに拓真は初めて気が付いたのだ。
 その時、やっと生まれる『事の重大さ』。『彼女を安心させたい』、だから『迷わず、結婚』と、あまりにもストレートにこの数時間で事を運んだ。しかしこの今のお互いの環境で結婚すると何が起こるかというと、そう言うことになるではないか? それは緋美子にはマズイと拓真は我に返ったのだが……。

「その点、拓真君はどう思うのかね?」
「タクにその責任は……」
「ある、ね。お父さんは、そう思うよ」

 緋美子がかばってくれたが、初めて正岡の父の責める眼差しが拓真へと注がれた。
 それは……確かに……。何も考えていなかった。熱愛一つ。彼女との愛を確かめたいという『それだけのこと』で、緋美子の貴重な大学生活を無にしたことになる。
 今、自分の膝の上で、彼女を不安にさせまいと握りしめていたその手。その男の手から力がほどけそうになるほどに愕然とした。
 その時、ふと緋美子の顔を見下ろせば、彼女は『そんなことは気にしないで』と言いたそうな顔で、涙を浮かべている。それと当時に、彼女はとても大切そうに自分のお腹をまた手で覆っているのだ。

 そこにほぼ間違いなく、いるだろう『俺達の子』。
 拓真はそれを感じた途端に、緩めてしまった緋美子を握る手に再びぎゅっと力を込めた。

「責任あります。ですが、俺は今はなによりも子供の為に出来ることをしたいと思います。彼女を妻にし夫として、そして産まれてくる子供の父親として守っていく家族になるのが先だと思っています。だから、結婚します。反対されても……。大学のことも、彼女が言うようにどうなるか分かりませんし断言は出来ません。でも、このために犠牲にはしたくないと思っています! 子育ても協力します。彼女がまた学校に通えるように頑張ってみます!」

 保証はない。
 気持ちだけだ。
 でも、今ある正直な気持ちだった。

 また正岡の父は、息子の緋美子へとその厳しい視線を持っていく。

「緋美子。若いからと許されないこともあると、この前も拓真君に言ったがね。それはお前にも同じ事だよ。これから同級生達のような気ままさもなくなり、あるはずだった若さを謳歌出来る時間を犠牲にするかも知れない道なのだぞ」
「……だったら! お父さんは、この子を駄目にしろって言うの? 私は嫌! そんなことするぐらいなら、学校なんてどうでもいい。勉強する方がこの子を駄目にするより大事なんて絶対におかしいわよ!!」

 ついに緋美子がわっと泣き出す。
 正岡の父は、変わらず厳しい眼差しで娘を眺めていた。
 だが、今度は今までの手厳し責めを突きつけていた固い声とは少し違った、ほんのりと柔らかくなった声で父が娘に問う。

「緋美子、消防官の妻としてやれるな?」

 泣き出した緋美子の声が、ぴたっと止み、少し驚いたように父親を見つめ返していた。
 そこには責めは終わり、この先を認めようかどうかという入り口に父親が立っていることを感じさせる言葉だった。

「拓真君におんぶに抱っこばかりでは、お前達の家庭は成り立たないだろう」
「勿論よ! 子供を抱えて一人になる夜があることだって……覚悟している。それに私だって、拓真が安心して市民を守れるように頑張りたいと誓えるわ!」

 いつにない落ち着いている彼女の熱い叫びに、拓真の胸はまたまたじんわりと感激していた。
 その分……俺も、しっかりと彼女を守って行かねばならないと痛感させられる。

「だったら、やってみなさい」

 その言葉に、二人はハッとする。
 急にぽろりと許されたその言葉が突然転がり込んできて、唖然としてしまっていた。
 だが、それでも正岡の父は渋い顔のままで、ついには溜息混じりに席を立ってしまった。

「それにしてもなんだね。まだ産婦人科で確かめてもいないのに、私に報告とはまったく……。そんな安直な判断を下す前に、先ずは何をすべきかじっくり考えるようにしなさい」

 その父親の言葉にも、二人は一緒にハッとした。
 それもそうだ。ただの吐き気だったとか、生理が遅れているだけだとか。それだけの事だったとしたら、この父親に対する報告は確かに『安直な判断』となって馬鹿になってしまう!

「私はそれが安易な判断とも思えてしまって、そのことにも、ちょっと怒ってるのだがね」

 正岡の父が静かに怒っているのは『それ』もあるようだ。
 急に、拓真の頬がかあっと熱くなった。もし妊娠していなかったら……。『結婚しよう!!』と彼女の手を引っ張って父親の前に出てきた自分は、本当に馬鹿な男になってしまう!!
 拓真の心の中でぐるぐるとそんなお馬鹿な焦りが生じている時だった。

「ううん。絶対にここにいるから……いるもの」

 隣にいる緋美子は、またあの聖母のような顔で、お腹をさすっている。
 その彼女の顔に、拓真の中でぎゅっと上昇した体温がすうっと下がっていったぐらいに……。緋美子は信じて疑っていないようだ。
 それを見て、拓真はちょっと呆れているような正岡の父に再度、告げた。

「もし、妊娠していなくても彼女と結婚させてください。妊娠していないから結婚をやめるなんて。俺はもう彼女が欲しいのですから」

 すると流石に正岡の父が驚いた顔をした。
 どちらにしても、拓真は緋美子と結婚をしたいと決意していたから……なのだろうか?

「その時は、彼女には学生のままでいてもらいます。勉強を頑張る奥さんとして、俺に下さい!」

 やっと、テーブルに手を付いて拓真は正岡の父に頭を下げていた。
 テーブルに額をこすりつけ、彼の声が聞こえるまで上げなかった。
 そして隣の彼女も、また涙を流して同じように頭を下げている。

 また聞こえる、彼の大きな溜息。

「拓真君、独身寮を出られるかね? それならなるべく早く、緋美子とここで暮らすようにしなさい。その代わり、私も変わらずにここには通わせてもらうよ」

 『この家に住む男になれ』と言われたのだ。
 拓真はそこまで言ってくれるとは思わなくて、驚いて顔をあげる。
 だが、その時にはもう……。正岡の父の背はこの台所から出ていくところ、二階へ行く階段へと背を消そうとしていた。

「お父さん! 有難うございます!!」

 拓真は席を立ち、姿を消した正岡の父に深々と頭を下げた。

「お父さん、有難う。私、彼とならきっと幸せになれるから」

 そして娘の涙声も……。
 彼女ももう姿は見えないのに、父親に頭を下げていた。

 その後の、二人きりの静けさ……。
 どこか厳かに思え、二人は喜び合う抱擁なんて忘れていた。

 ただ、今から自分達がやろうと決意していることは、とても『大きなこと』なのだと、噛みしめることしかできなかった。

 

 次の日、緋美子は早紀と共に、産婦人科へ行った。
 妊娠六週目──とのこと。その連絡が出張所にいる拓真へと、早紀が密かに届けてくれた。
 拓真は一人静かにガッツポーズ。

「どうした拓。風呂掃除済ませたのか?」

 一日落ち着きなかった拓真を気にしていたのか、田畑小隊長が声をかけてきた。

「ういっす! 風呂掃除でもトイレ掃除でも、車庫掃除でもなんでもします! 鳴海、行ってきます!!」

 敬礼をしてすっ飛んで行くと、田畑が『こら! 落ちついてやらんかい!!』と叫んでいた。

「おっとこかな〜おんなかな〜」

 デッキブラシで風呂場を掃除する中、やっぱり子供が出来たことは嬉しいことで、拓真の頬は緩みっぱなしだった。

「俺、もう……一人じゃないんだな」

 唐突に、そう思った。
 母子二人だった。その母に少しでも楽になって欲しくて、迷っている様子だった再婚を、息子の拓真から勧めた。
 自分はこれから消防官として忙しくなるから、母ちゃんのことなんかもう構ってられないよと生意気を言って。母は泣きながら拓真を置いて、この故郷を初めて出ていった。
 それで良かったと思っている。母は本当に良くやってくれたし、父親が死んだ後の彼女の悲しみだって、側でずっと見てきたのは息子の拓真だ。哀しむのはもう充分だし、哀しんでいる分、死んだ父を忘れられずに愛しつづけた事だって、もう充分だと思う。そしてそれは決してなくならない消えないもの。……拓真だけじゃない。再婚相手となった義父も同じ事を言ったのだ。だから、拓真は彼なら大丈夫と母を任せた。
 この若さで偉ぶっているように聞こえるかも知れないが、それは拓真なりの親孝行とも思っている。親父は職務中に死んでしまって残してくれたのは、いつもオレンジの服を着ている大きな背中だけだ。だから、母には生きている内に、彼女なりの幸せを…。そして消防官の道を選んだ拓真も、生きている内に。
 消防官という職に就くことで、拓真はとりあえず形ばかりだが『自立』が出来たから、母の背を押して見送った。
 ……でも、やはり、故郷に一人残ったのは……どこか寂しかったのかも知れない。
 いつか、俺にも『家族』ができるかもしれない。そんな漠然としたことは幾度か思い描いたものだけれど、まさか、こんなに早く……。

「俺に家族。俺、大事にする……」

 一気に二人も、拓真の側にやってくる。
 彼女と赤ん坊が、これからの拓真の毎日を明るくしてくれると思うと、拓真の心は自然とじんわりと温まってくるばかりだった。
 その思いを噛みしめながら、丁寧に出張所宿舎の風呂掃除をする。

 さて……。その母と義父、そして上司や先輩達にどう報告しようか?

 拓真はデッキブラシを床に押しつけたまま、考える。
 勿論、この後、新人消防士の早婚に出張所が湧くことになるのだが……。

 

 

 

Update/2007.5.2
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