-- 緋花の家 -- 
 
* 君は僕の白い花 *

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3-10 白き花は緋に散る

 その日、拓真は朝一番に直属の上司に当たる田畑小隊長に声をかけた。

「小隊長、話があります」

 田畑はいつもの強面で『なんだ』と一言。
 この出張所は割と平均年齢が若く、田畑も若くして小隊長を任された一人だった。
 大隊長ぐらいになると拓真の父親ぐらいになるが、田畑は歳が離れた兄貴という感覚……。
 そのせいか、拓真は彼に一番に声をかけていた。

「えっと。あの、今から俺、大隊長に知らせなくてはいけないことがあって……。一緒に聞いてもらえたらと思います」
「なんだ。俺も一緒ではないと駄目なのか。直接大隊長に言い難いことなら、その前にここで言ってみろ。聞いてやるから……」

 彼の表情がちょっとだけ心配をしているような不安顔になった。

「お前、数日前、またひどく落ち着きをなくしていたな。やはり、何かあったのか?」

 拓真は、はっきりと答える。

「ありました」

 田畑の表情がさらに険しくなった。

「どうした。現場業務に差し支えると困る。言ってみろ」
「いえ、本当に直ぐに報告しなくちゃいけないので、大隊長と聞いてください」

 やはり田畑は怪訝そうに首を傾げながら、拓真と共に大隊長席までついてきてくれた。
 正岡の父に申し入れをした時は、大いなる覚悟があったせいか、前へ突き進むことしか見えていなくて……。でも、今度はこの上司二人に報告することも拓真は緊張していた。むしろ、こちらの方が自分にとっては数年の付き合いがある分だけ厳しく鍛えてきてくれた畏怖もある。それを振り返ると、筋の通らないこと、責任ある重大さ、それらを軽んじていた場合は、拓真には、ぶん殴られる程の叱責が待っていることだろう。

 昨日は既に、母が帰郷し、正岡の父と対面済み。
 だから報告は、『ここ、職場』が最後だった。

 拓真は田畑と一緒に、大隊長のデスクに来て並んだ。
 朝の大交替、申し送りが終わったばかりで、大隊長は事務作業をしているところ。

「おはようございます。大隊長」
「鳴海が、話があるそうです」
「おう、どうした? 揃って……」

 小隊長とその部下が並んでいる姿に、大隊長が少しだけ訝しい顔。
 彼は先ず、上司の田畑を見上げる。その目が『拓がなにかしたのか』と窺うような目。だがその田畑も同じく訝しいままに拓真についてきただけなので、その顔を知った大隊長が拓真を見た。

 そんな大隊長に拓真は申し出る。

「今いる独身寮を出たいので、その手続きをお願いします」
「ほう? 外で自活するのか?」

 まあ、それも有りだろうという大隊長の顔。
 拓真のさらなる自立には、それならば賛成と言ってくれそうな落ち着きだった。これなら許可はしてくれそうだが、まだ言わねばならぬ事がある。
 拓真は、ここで深呼吸。さあ、本番だ。

「いえ、結婚をすることになったので」
「……結婚?」

 大隊長と田畑が揃ってぎょっとした顔。
 自活する自立をすっ飛ばし、拓真が妻を娶るというのだから、無理もないだろう? そして予想していた彼等の顔だ。
 そしてやっぱり彼等が慌てだした。特に、田畑。

「た、た、タク……! 冗談もほどほどにしとけよ……!?」

 大隊長はそれでもなんとか落ち着いていて、拓真に何を問うべきか戸惑っている顔のまま黙っていたのだが。

「それは本当か? まさか、いつかの彼女と?」
「はい。夏の……」
「ご両親……いや、九州に行ったお母さんは? あちらの親御さんは? まさか、彼女と勝手に決めた事だなんて言わないだろうな?」
「いえ。俺達だけでなくって……。昨日、母が帰ってきてくれ、あちらの親父さんと話しました」

 そこまで話がまとまっている事を知った大隊長は、今度こそ『本当の話』とやっと実感してくれたのか、彼は茫然と席を立ち上がった。

「……彼女は幾つだ」
「……十九の学生です」

 そう口ごもりながら答えた拓真を見て、大隊長も田畑もここで何かを悟った顔。
 隣にいた田畑がその悟った理由が本当ならとばかりに、拓真の襟首を掴みあげてきた。

「タク、まさか……お前っ!」
「よせ、田畑!」

 ここでついに、事務室にいる誰もが大隊長席へと視線を向けていた。
 だから田畑はそこで隊長に止められて手を離してくれたのだが……。拓真はきちんと報告をせねばと、再び二人に向かう。

 後ろめたい事など何もない。
 彼女を本当に愛している。
 結婚だって『自然』な流れ……。その結果、『子供』を授かったのだ。
 順序は逆でも、間違っていない。拓真はそれを信じて疑っていない。それはこらから生まれてくる子供の為にも、そして妻になる緋美子の為にも、真っ正面から向かって言えること!

「そうです。彼女の中に、俺の子がいます。でも、俺はすごく嬉しくて堪らなくて、直ぐに嫁さんになって欲しいと彼女に言いました。俺、幸せです」

 そう言いきった拓真の顔を、田畑も大隊長も、唖然とした顔で見ていた。
 そしてそれは、事務室の先輩達にも聞こえてしまったのか、拓真の後ろからざわめきが聞こえた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 昨日。母親が、義父と一緒に小倉から出てきてくれた。

 数日前に、母に電話で報告した時は、やはり非常に驚き、声を出すことを忘れていた程だ。彼女が我に返って電話受話器の向こうで発した第一声が『あんた、なにしよるの!!』という怒り声だった。

 母には、それまでの緋美子との経緯をじっくりと話した。それでも母は、まだ未成年に当たる大学生の『娘さん』の将来を台無しにしたかも知れないという説教を繰り返していた。『あんたは本当にストレートすぎてなんでも馬鹿っ早くて……。でも、そこまで急ぐ子だったなんて、母さん、信じられないわよ!!』と、始終怒っていたかと思うと最後には『あんたは、ほんっとうに……。いつも言っていたでしょう? ひとつのこと、慌てずにじっくりしなさいと……。どこかあわてん坊で、それで……』と、ここの大隊長や田畑がいつもするような説教を延々としていたかと思うと、最後はそんな涙声。
 やがてその受話器の向こうから落ち着いた男性の声が聞こえてきた。『拓、本気なんだよな』と問う義父の声だった。
 勿論『本気だ』とここはしっかりと答えた。すると義父は『明日は無理だ。明後日、そちらのご両親に母さんと挨拶に行くと伝えてくれ』という返事が返ってきた。拓真は義父も出てきてくれる事に礼を述べ、正岡の家がどのような家か、または母にも述べた同様の事、緋美子との出会いから拓真の気持ちもきっちりと彼に説明した。彼は最後に『わかった』と一言だけ言ってくれ、お互いに話を終えた。
 母とはそれっきりだが、きっと義父がなだめてくれ、正岡の家に来る時にはいつものドンと構えている母になっているだろうと拓真は思った。

 そして昨日、母と義父があの薔薇の家にやってきた。
 JR線の特急で帰郷してきた両親。非番に合わせて来てくれたから、拓真自ら駅まで迎えに行った。
 正岡父娘は、あの薔薇の家で待っている。そこまで拓真がタクシーで連れて行く。
 その間、案の定、落ち着きをきちんと取り戻していた母が『正岡家』について話し始める。

 母は、正岡の家の事を噂で知っていたらしい。つまり、長谷川の家のような名が知れている会社の家とかではないのだが、古くからこの町に住んでいる旧家……と、までは行かないが、知る人は知っている一家ということだった。
 母は、やはり女性なのか『高台の薔薇の家』のことを知っていた。その昔から女性達の間ではそれなりに知られている『花の館』ということらしく、母はまさかそこの娘と自分の『がさつな息子』がこんな仲に発展するなど夢にも思わなかったと、こぼした。
 だからか、その薔薇の家の前にタクシーが着くと、いつだってドンと構えているあの母でさえ、ひどく緊張していた。側で義父が『大丈夫』と言ってくれなければ……。もし、まだ母と息子二人だけだったなら、この時の母の緊張や不安という物はどれだけのものだったのだろうかと、拓真はここで自分が『愛している』だけのことで、起こした結果の重大さを噛みしめた物だった。

 よく大人達は『結婚は、家と家』と言うが、それがよく分かった気がした。
 二人だけで愛し合って結婚を夢見る事なら、それはそこまでのことで構わないのだろうが、本当に『結婚』となると『これだけの人々が動くことになるのだ』と。
 やはりそこは成人したての拓真には考え及ばなかったところだったと痛感だ。
 それでも勿論、緋美子との結婚を悔やむなんて気持ちは一つもない。
 社会的に周りに対する影響がどれほどのものか、考えが足りなかった事は認める。だが、最後の最後にちゃんとした本心として残るのは『今だろうが、もっと後だったとしても。やはり彼女とは結婚したい』だった。

 タクシーが両親を降ろして走り去っていくと、先ほどまで誰もいないと思った白い門に、緋美子が立っていた。

「正岡緋美子です。鳴海のお母様、はじめまして」

 黒髪の、拓真の白き撫子が、夏の日に惚れ込んだしっとりとした姿で立っていた。

 やはり、それが緋美子の魅力なのか……。
 初めて対面した母が、驚いたように緋美子に釘付けになって立ちつくしていた。

「この度は遠方から来てくださいまして、本当に申し訳ありませんでした。でも……お待ちしておりました。私から言うのはおこがましいと思いますが、いつか拓真さんのお母様にお会いしたいと思っていましたので……」

 緋美子の大人びた挨拶にも、母は目を丸くしていた。
 きっと、予想以上の『お嫁さん』がそこにいたからだと……。息子の拓真には『本当に、あんたの彼女なの?』と言う声が聞こえてきそうに思えた。しかも、母の背で見守っていた義父までもが、隣にいる拓真に『素敵な娘さんじゃないか』と耳打ちをしてきたぐらいだ。

 母はそうして薔薇の家に現れた撫子の彼女を、暫く黙って眺めている。
 そして緋美子は毅然とした顔で、ただその母から何かしら返ってくるのを、ひたすら待っていた。

「薔薇の季節ではなくて残念。私も学生時代、同級生達とここの薔薇の家の事は良く話題に出るほど、『憧れ』でもあったのよ……」

 母から出てきた言葉は、緋美子に対する挨拶ではなく……彼女を嫁として認める言葉でもなく……。ただ、そんな地元に住んでいた者としての世間話だった。

「有難うございます。代々続いていますが、特に母がよく手入れをしていたのを幼い頃から見ていましたし、私はこの花に囲まれて育ちました。今日は季節柄、その花達と出迎えをすることが出来なくて、私も残念です」

 本当に俺の彼女は、いざというときは年上で社会に出ている俺より、どっしりと落ち着いていると、拓真は感心。そして、そんな彼女に助けられていると思った。
 隣の義父なんか、既に頬が緩んで、そのしっかり者のお嬢さんに、気の良い挨拶でもしそうな雰囲気。だがそこは自分の嫁さんが、まだまだ気を緩めていないので、そこを堪えて見守っている。そして、それは拓真も……。
 やはりここは『女同士』の初対面で起こる『駆け引き』のようなものが始まっているようにさえ思えた。もっと言えば、ちょっとした『バトル』かもしれなかった。
 緋美子は拓真をこれから夫として愛していきたい女性として、母は拓真を息子として愛している女性として。
 そこは拓真と義父は揃って固唾を呑んでいたぐらいに……。
 だがやがて、母の方からにこりと微笑んだ。

「拓真の母、聡子です。初めまして」

 母の自己紹介に構えていた緋美子の顔が、いつもの可愛らしい彼女の笑顔に崩れた。
 それを見た母も何かを感じたのか、彼女もいつもの明るい気さくな笑顔を浮かべている。

「素敵なお庭ですね。息子から、貴女が亡くなったお母様の代わりに精一杯お世話していると聞きました。あれだけのお庭を守るのは大変な事でしょう。貴女のような若いお嬢さんが、一生懸命に土いじりをしている姿も息子から聞きました」
「いいえ。庭は私だけじゃなく、父と兄も義姉も守っています」
「では、息子にも今後は庭を守るようにさせてください」

 その言葉には拓真も驚いたが、緋美子も目の前で驚いていた。

「あの……お母様? 私……。あの、本当はこのように急ぐことになったこと、私も、本当は……」

 実はこのようなことになって『うちの息子となんてことをしてくれた』と叱られる覚悟は緋美子にもあったのだろう。
 先ほどのしっかり者の精神力で自分を律していただろう緋美子が、そこは十九歳の女の子らしく、不安を抱えていた姿をさらけ出していたのだ。

「年齢なんて関係ないわ。私だって二十歳そこそこで拓真を産みましたから。それに私は息子を信じていますもの。この子が心より望んだからこその結果だと信じていますよ」

 そんな姿をさらけだした『嫁』となる彼女の肩をそっと抱いた母は、次には緋美子の腹部に手を当てた。

「ここに、もう……いるのね。こんな若いお祖母ちゃんにさせられるとは思わなかったわ。でも元気な子に会えるのを楽しみにしているからね、緋美子さん」
「お母様……」
「駄目よ。もう、お母さんよ。出産間近になったら、手伝いに押しかけるからね。覚悟していてね」

 本当の許しが出て緊張が解けたのか、そこで緋美子が泣き出す。
 義父に背中を叩かれて、拓真はやっと緋美子の側へと駆け寄り、彼女の肩を抱いた

「拓、まったく……あんたにはもったない程、可愛い子じゃないの。しっかりやんなさいよ!」
「分かってるよ……!」

 母子としてのやりとり。そんな姿を緋美子と義父はもう、うち解け合ったかのように目を合わせて笑い合っていた。実は一番敵わないのはこの母なのだという姿を見られてしまった拓真は逃げたくなる思い。

「いらっしゃいませ。遠方からはるばる、ご苦労様です」

 いつの間にか、そこには正岡の父が、いつもの普段着である着物姿で立っていた。
 そして一番に、母に深々と頭を下げてくれる。

「この度は……」
「いえ、お父様。もう、やめましょう。生まれてくる赤ちゃんの為に……」

 もう割り切った母に先に言われてしまい、あの落ち着いている正岡の父が少しバツの悪そうな顔をしていた。

「お父様も、奥様亡き後、二人のお子さまを……」
「いえ、助けられたのは私でした。兄のマサルといい、緋美子も。子供ながら頑張ってくれましたので、勤めもつつがなく」
「私も同じです。うちの子は『馬鹿な分だけ、明るい』ですから……。それで励まされました。うちの子は『馬鹿』ですが、亡くなった主人同様に身体だけは丈夫です。どんどん使ってください」

 互いに連れ合いを亡くしている者同士。
 その二人が、拓真と緋美子、それぞれの子供が寄り添い合っている姿へと振り返る。

「そうですね。きっと、この子達も──」
「ええ、きっとそうですわ」

 『子供が支えになる』。
 二人の顔はそう言っていた。

 穏やかな対面が滞りなく済み、薔薇の家の中で、新しい家族となる者達の団欒で賑わう。

 

 拓真の目には、緋美子と母が微笑み合いながら庭を散策する姿。
 来年咲くだろう薔薇の蔓を手にしている緋美子が、なにかを一生懸命に説明している。母はそれを楽しそうに聞いている。
 二人は後に良き嫁姑になっていくのだが……。その『良き幸せ』さえも、粉々になる時がやってくる。

 『幸せだった』と振り返ってしまう時、幾つかの懐かしい時が思い浮かぶ。この時の緋美子と母の仲むつまじく庭を散策する姿も、拓真の中では思い出深いものの一つだった……。

 この後、母の聡子はいったん義父と一緒に小倉に帰ったのだが、女親がいない緋美子を案じ、度々、この街に帰ってくる事になる。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 再度、大隊長に問われる。

「親御さんと、あちらのお嬢さんの家と、決まった事なのだな」
「はい」

 拓真の結婚報告に戸惑っていた上司二人。
 学生の彼女を妊娠させ、致し方なく結婚を決める事になったのかという心配をしていただろう田畑も、やっと険しい表情を収めてくれた。
 それはきっと、拓真の真っ正面から言い切れる結婚決意が、決して『妊娠させたから、致し方なく責任を取る』というものではないのだと理解してくれたからなのだろう。

 やがて……。二人の顔が、笑顔に崩れる。

「この! やりやがったな、お前! それでこの前、落ち着きがなかったんだな? まさか、そこまで慌てん坊だったなんて、もっとしつけておくんだったな!!」

 また田畑に襟首を持たれ、今度はゆっさゆっさと揺すられる。
 今度の彼は祝福の笑顔。でも何故か、彼の方が照れくさい顔をしている感じだった。

「鳴海、おめでとう。そうとなれば、お前も一人前になるよう頑張らないとな」
「はい。大隊長!」

 ここの長にも激励され、拓真はやっとほっと一息。

「おーい! 拓が嫁さんをもらうことになったぞー。来年は、生意気に親父になるんだってよー!!」

 田畑が事務室中に叫ぶと、こちらの様子を窺っていた先輩達が一斉に騒ぎ始める。
 だがそこは、体育会系の男ばかりの職場。驚きの後は、あっと言う間に悪ふざけ満載の祝福と激励の嵐。拓真は次から次へと先輩達に、どつかれ、からかわれ、もみくちゃにされた。

 本当は、この後、きちんと大隊長に『仲人になって欲しい』と頼みたかったのだ。
 それも正岡の父と拓真の母を交えて『それがいいだろう』という話し合いの結果だったのだが……。
 しかしこの後、新郎が若いなら仲人も若くても良いのではという大隊長の考えで、田畑が推薦された。当然、まだ三十代の田畑は滅相もないと逃げ腰だったが、まだ若い拓真には沢山の悩みに突き当たるだろうから、年寄りよりかは兄貴的な方が良いという説得で、最後にはこの田畑が仲人を引き受けてくれる事になる。
 彼との付き合いは一生の付き合いとなる。そして、拓真の激変していく家庭を、ずっと見守っていく事になる……。

 沢山の祝福を受けた拓真。
 だが、一人だけ。拓真を茶化すばかりの先輩達の輪から外れている男性がいた。
 ──正樹だった。
 彼はこちらを静かな目で見ている。
 元々、無口で冷静で、賑やかな男達ばかりの中では静かな彼。……らしいといえばそれまでだった。
 だが、祝福の賑やかしい輪が解かれていくと、最後にその先輩が歩み寄ってくる。

「夏の彼女か?」
「はい。あの時、先輩が行けと言ってくれたから」
「やっぱりな。お前、まだあわてん坊だけれど、あれからもの凄い集中力が出てきたもんな」

 『おめでとう』。
 いつも彼女をつくれとか、恋人がいた方が良いとかからかっていた先輩から、そんな静かな祝福。
 彼の手が、そっと拓真の肩を叩いた。
 それだけで、彼なりの気持ちが拓真にも通じてきた。

 だから……『もう、言っても良い』と拓真は思って、正樹に告げる。

「実は相手の彼女。先輩も知っている女の子なんですよ」

 そう言っただけで、何故か、正樹の顔が強張った。
 拓真もどっきりとした……。何かをすぐさま察する事が出来るのが、この先輩の凄いところ。まさにその顔をしていたのだ。

「俺が知っている……? 誰だ」
「あの、薔薇の家の彼女ですよ。あの火事の後、ちょっとしたきっかけで」
「なんだって!?」

 静かで無口で、いつだって冷静沈着な先輩が初めて出したような吃驚の声に、拓真もおののいた。
 だが、それはそれだけで、彼自身も驚いたのか、さっとその思わぬ己の反応を抑え込もうとしているよう……?
 そんな正樹も我に返りながらあたりを見渡し、『外に来てくれ』と拓真は事務室外の廊下に連れ出されてしまった。

「い、妹の早紀は知っているのか?」
「勿論です。彼女、留学から帰ってきてから、俺とも親しくしてくれるようになって。……彼女の妊娠が判った時も、いろいろと気遣ってくれましたよ」
「そ、そうか。そうだったのか……」

 まだ正樹の様子は、いつもの彼じゃなかった。
 それでも彼はなんとか落ち着こうとしているようなのだが。

「あの……何か?」
「い、いや。まさか、お前が俺の知り合いと、いつの間にかそうなっていたから、流石に驚いただけだ」
「ああ、そうっすよね。いつ言えばいいかなって俺も思っている内に、こうなったので」

 と言っても、正樹はあさっての方向を凝視し心ここにあらずといった感じで、拓真は益々首を傾げた。

「そうか、あの緋美子さんとね……。彼女、ちっともそんなふうには……」

 まるで何か自分に言い分けているかのような彼の口調に、やっと浮かべているような頬を引きつらせているような笑顔が余計に気になったのだが……。

「でも、彼女。確かに人見知りの分、大人しく見えますけれど。そんなに引っ込み思案で大人しい訳でもない、自分をしっかりと持った明るい子ですよ。俺も初めの頃は大人しい無口な子かと思っていたんすけど、割とお喋りだし、『赤い花』ばかり選んで描くだけあって、彼女も熱っぽいところもあるし……」

 ちょっと『のろけかな』と思いつつも、先輩ならと思って口にしてしまっていた。
 そうしたら。どうした事か、正樹がもの凄い衝撃を受けた顔を一瞬……。それには拓真も胸騒ぎがした。
 でも。次にはまた一瞬にして、いつもの凛とした落ち着きある彼の顔に戻っていた。

「そうか。だろうね。早紀からもそう聞いているから」
「早紀さんといると、なんだか彼女もお転婆っぽくなるのですよね」
「……早紀め」
「え?」

 一瞬、正樹の目が窓の外へと光った。
 小さく聞こえたから良くは聞き取れなかったが、何か妹に怒りを持っているかのようにも見えた……。

「いや、あの我が儘な妹が近頃、顔を見せずに何も知らせてくれなかったものだから」
「あ、ああ……そうっすか……」
「おめでとう。緋美子さんにもそう言っておいてくれ」

 彼はそこは妙に無感情に言い切って、さっと拓真を置き去りにするように去っていってしまった。
 拓真の中に、少しだけの黒い雲が小さく心の中に出来た瞬間。

 『緋美子さん』にも……。妙に慣れた風な言い方。
 それが気になった。

 数日後、緋美子に正樹からの祝いの言葉を伝言すると、彼女の方はなんとも思っていない普段の顔で『そう』と淡泊に反応しただけだった。
 正樹とは近頃、話していないのか……なんて、聞いている自分がいた。だが、緋美子はいつもの笑顔を拓真に見せてくれ『話した事なんて。あのお兄さんが家を出てからはちっとも。ただのご近所さんだから』と言った。

 妹とはあんなに仲が良いのに。
 兄の正樹とは、まるで縁がないかのように緋美子が言い除けるのも、この時やはり違和感となって残った。

 しかし、そんな事は、スムーズに進む結婚の話で直ぐに消え去っていく日々。
 なにもかもが、あまりにも順調で、幸せに包まれていく二人だったから……。小さなひっかかりは、心の片隅へと追いやられていった。

 拓真と緋美子の結婚が決まると、正岡家はとても慌ただしくなる。
 雪が降り始める年の瀬に、正岡の義姉が無事に『凛々子』を産んだ。
 そのほんの僅か後、取り急いで準備をした拓真と緋美子の結婚式が行われる。

 厳かに神社での神前式を望んだのは緋美子で、彼女の白無垢姿は、本当に凛と咲き誇った白い花だった。
 市内にある有名寿司店の宴会会場で、僅かな親族と、彼女の学友に拓真の職場の上司に先輩だけを呼んで、ささやかに披露宴をした。
 その時、拓真は消防官の紺色正装、そして緋美子はもう着られなくなる振り袖をこの日に着て、皆に祝福をされた。

 翌年の夏、長男が生まれる。
 名は『一馬』。
 拓真が付けた名だった。

 それから第二子が生まれるまでは、拓真と緋美子は、夏の日に出会ったままの変わらぬ愛を育んでいた。
 育んでいたのだが……。緋美子の中に第二子がいると知った時、鳴海家は奇妙な渦に巻き込まれていく事になる。

 

 拓真の白い花は、永遠だった。
 何が起きても、彼女は拓真の妻だった。
 彼女が『奇妙な運命』とやらに巻き込まれ苦しんでいく事になって、赤く染まってしまっても……。拓真は白い花のままだと疑わなかった。
 あの日までは──。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 十四年後、東京。

 良きにも悪きにも諸々の事情を含め、鳴海拓真の一家は、その時は東京にあった。
 拓真、三十四歳。若き頃から積み重ねてきてた実績が認められ、ハイパーレスキュー隊に推薦され引き抜かれたのだ。
 妻の緋美子も『子供達』もとても喜んでくれ……。まあ、子供達が知らないところで、大人達には色々あったのだが、それもなんとか乗り越え、平穏に暮らしていた。やっと得たものだと思っていた矢先だった。

 とあるビルの火災が発生し、それがかなりの規模ということで、ハイパーレスキュー隊に出場指令が出た。
 都下にある繁華街のビルが、昼間から大火事となっていた。
 逃げ遅れた者がいるとの情報。さらに『非番の消防士が、消火活動をしながら脱出誘導をしてくれた』という無事に逃げ出してきた人からの情報も。もっと聞けば、『その男性、何故か奥へと逃げ遅れた女性と一緒に消えてしまった』という奇妙な証言だった。

 その非番の消防士と、共にいた女性が見つからない。
 消火活動の中、精鋭のレスキュー隊員達が総出で捜索しても、その証言の『二人』が見つからない。
 ついに撤退命令が出るほどの火の広がり。何故、見つからないのか、そのジレンマのまま……。

 数時間かかった消火活動の末、なんとか鎮火。
 だがかなりの被害が出る大きな火事となってしまった。
 死亡者が数名。レスキュー隊にとっては、悔しい結果となった。

 鎮火後、遺体捜索が行われる中……。
 後輩の慌てる声が、拓真を捜している。

「どうした」
「……き、来てください。俺、俺……たぶん、違うと……」
「落ち着け。何があった」

 その後輩の後、強張った表情の上司も拓真を捜しに来た。

「鳴海……悪いが、来てくれないか」

 彼の顔も青ざめている。
 拓真に胸騒ぎ……。

 その後輩と上司に連れられていったのは、だいぶ奥まった場所。
 だが、そこだけ火の手が止まっているかのように、焼失具合はそれほど酷くはない空間に、寄り添って倒れている男女の姿が……。
焼けこげた遺体も見つかった中、あまりにも綺麗な、火傷も少ない遺体だった。
 顔は二人とも綺麗に、眠っているかのよう。呼吸が出来なくなってそのまま……というのが死因のようだった。

 それを一目見て、拓真の心臓がドクリと動いた。
 横たわっている女性は、見覚えのある……。いや、毎日、目にしている女性?

「お、奥さんに、に、似ていると思って……」

 後輩のうわずった声。
 そして上司の、既に何かを認めてしまった苦い顔。
 彼等は拓真の最愛の妻を良く知っている者達……。

「ミコ……?」

 倒れている女性の顔を覗くと、そこには確かに、息絶えている『緋美子』がいた。

 

 彼女の頬は赤く焼けて、その上には男が覆い被さって。
 拓真の白い花が、赤く焼けて散っていた……。

 

 何故──!?
 お前はこの男に身体を奪われ、美紅を宿し、あんなに苦しんだじゃないか?
 二度とこの男とは会わないと、あれだけ拒否し続けていたじゃないか!?

 なのに、何故──!!! この男と死んでいるんだ?……

 あの夏の日、白い花を手折ったのはこの拓真だった。
 だが、艶やかに赤い花となって咲き誇っていた彼女を手折り、あろうことか散らせたのは『正樹』だった。

 

 拓真の目の前で、無惨に散り終わる緋の花!

 

「タク……愛しているのよ。許して、私を……許して」

 

 どれぐらい日が経った頃か……。
 同じく東京に出てきていた緋美子の兄『大(マサル)』に呼ばれて、彼の自宅に来てみれば……。
 まだ茫然失意の拓真の目の前に、そんな事を言う姪の凛々子がいた。
 その喋り方は妻にそっくり……。拓真を見つめる眼差しも、表情さえも。姪ではなく、その面影は愛した妻に……。
 だが拓真は直ぐに信じた。いや、そうでもしなければ、自分がどうにかなりそうだった。

 世の中、信じられない事が起きても良いじゃないか。

「ミコ、帰ろう。子供達が待っている」

 不運な彼女に残っていた救いだと拓真は思った。

「ミコ、もう一度、やり直そう」

 世間がなんと言おうと構わない。
 拓真は、二年後、姪を後妻として迎える事になる。

 

 

 

To be continued.→ 4章『どの花にも毒はある』 
緋美子生前ヴァージョン過去編です。結婚後、二人を襲った出来事……。正樹が絡んでくる章です。 お楽しみに!?

Update/2007.5.8
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