-- 緋花の家 -- 
 
* どの花にも毒はある *

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4-5 姪・凛々子

 

 突然、市街地の本家に住まう義姉がやってきた。
 いつもなら電話一本の連絡があるのだが、それもなく、本当に突然だった。

「里佳子姉さん、どうしたの」

 玄関のチャイムが鳴り、インターホンをとったら義姉の消え入るような声を聞き届けた緋美子。妙に嫌な予感がして、慌てながら玄関の扉を開けると、案の定──青ざめた義姉が立っていた。
 彼女の顔を見て、緋美子は息を呑む。彼女の顔が、背後が……。緋美子にしか見えないものが見えてしまったからだ。

「緋美子ちゃん。私、きっと駄目なんだわ」

 彼女の何か悟ったような言い方に、緋美子ははっとし表情を整える。勿論、笑顔に。
 しまった。義姉は、緋美子の体質や天性的能力に理解を寄せてくれている一人だった。そして彼女はそれを信じてくれている。だからこそ、緋美子の一瞬の驚きが何であるか察してしまったのだろう。
 しかしここでは是が非でも『そうではなかった』という笑みを浮かべるしかない。

「何を言っているのよ。義姉さんは。どうぞ、あがって。一馬は昼寝しているけれど、すぐに起きてくるわ」

 しかし義姉の表情は強張ったまま変わらなかった。
 少しだけ歳が離れている義姉とは本当の姉妹のようにして暮らしてきた。
 美しい黒髪の女性。しっとりとしている落ち着いた、そして甘い顔付の女性。兄の大に、よくこれだけの美人が嫁に来てくれたものだと妹でありながら、そう思うほどに出来た人だった。

「ママ。かずちゃん、いる?」

 そんな里佳子と手を繋いでいる黒髪の愛らしい幼子も一緒におり、大人しく無言で緋美子を見上げている。
 目が合うと、やっと彼女が無邪気に笑った。

「ミコおばちゃん、かずちゃん、いる?」

 姪の凛々子だった。
 緋美子も彼女に笑いかける。今度は心よりの笑顔で。

「うん、いるわよ。また、遊んでいってね。おやつたべた?」

 小さく首を振る姪は本当に可愛らしく、緋美子はいつでも笑顔になってしまう。
 そして姪は、青ざめた顔の母親から離れ、慣れたふうにこの家の玄関をあがった。
 緋美子の息子、一馬より半年早く生まれた凛々子。もう器用に靴を脱いで自分であがっていく。

「あら、上手になったのね」

 歳が近い子供を持つ事になった義姉妹。いつも子育ての話に花が咲く。そして二人で協力し合ってきた。
 この日もそんなつもりで義姉の里佳子に笑いかけた緋美子だったのだが、今日の彼女は青ざめたままでその余裕もないようだった。

 余程だと思った。

 緋美子が手を添えて、玄関の中に誘っても、彼女は力無く歩くだけ。
 そのまま黙って、迎え入れる。

 凛々子は元気にリビングへと駆けていった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 いつもなら、明るい笑顔で訪ねてきた里佳子と可愛らしい凛々子をリビングに招いて、お茶を準備するところなのだが。
 この日、緋美子は客間に直ぐに寝床を作って、義姉を横にさせた。

 義姉は元より虚弱体質で、直ぐに体を壊す。
 それを承知でこちらに嫁に来た。いや、兄や父からすれば『お嫁に来てくれた』と言ったところだろうか。
 古い家系の旧家というだけで、兄は女性から敬遠されることがあったそうで、義姉はそこも承知で来てくれたのだと、結婚当初の兄の喜びようを緋美子は今でも覚えている。
 そして緋美子も。まだ大人になりきれていないうちに母と死別し、いろいろと不自由に感じていた十代。この里佳子がやってきてからは、少し歳が離れたお姉さんとしてよく面倒を見てくれ、義理の妹としてとても嬉しかった。
 ただ、ほんのちょっとのことで寝込んでしまう事がある。元気な時は本当に普通の健康な人と変わりないのだが、それが襲ってきた時、姉はがくんと崩れてしまう。

 どうやらそれが来たようだった。
 それにしても、そんな身体でこの丘まで訪ねて来るだなんて──。緋美子は不思議に思った。

「連絡をくれたら、実家まで泊まりに行ったのに……」

 義姉が体調を崩した時、緋美子はいつもそうしていた。
 既に家庭に入っている為、その点は融通が利いた。兄と父は今になって、緋美子が主婦で良かった──だなんてちょっと都合の良い事を呟いて、感謝してくれることもある。

「こんな体調で、どうやってきたの? まさか、バスで?」
「いいえ。タクシーで……」

 声も儚い……。
 少し休ませないと、このまま息だけの声になってしまいそうだった。

「遠慮しないで休んでいて。今日、拓真は非番だけれど、お友達と防波堤まで投げ釣りに行っているの。だからとっても静かでしょう」

 そう言うと、里佳子が『本当ね』と少しだけ笑った。
 非番の日に遊びに来た時などは、拓真が騒々しく息子と姪の凛々子と遊ぶので、母親二人は助かるやら、ちょっとハラハラするわで賑やかなのだ。

「兄さんにはあとで連絡するから。凛々子も、面倒を見ているから安心してね」
「ありがとう……。緋美子ちゃん」

 それだけ言うと、義姉はそれを待ち構えていたかのように眠りについてしまった。
 緋美子が襖を閉める時には、もう、寝息が聞こえた。
 寝不足だったのだろうか──。廊下に出た緋美子は振り返る。

 いや、寝不足も本当だろうが。もっと違うものだと緋美子は判っていた。
 玄関で一目見た時の義姉。覇気のない顔、そして背後の気が弱くなっていた。
 しかし、一瞬。だから確信はない。でも、とてつもない嫌なものが緋美子の中に渦巻いた。

「おばちゃん、ママは?」

 客間の廊下まで、凛々子が覗きにやってきた。
 なにも分かっていない姪の顔を見ると、なんだか切なかった。

「うん。ママは今、お昼寝」
「すぐおきる?」
「うん。起きるわよ」
「かずちゃん、起きたよ」
「それでは、おやつにしましょう。おいで」

 笑顔でこっくりと頷く凛々子の手を握って、緋美子はリビングまで連れて行く。
 そこには既にテーブルをいっぱいに散らかしている息子が元気いっぱいに遊んでいた。

「ママ、おやつ!」

 この子だけは父親に似て、いつでも元気いっぱいなのだなと、緋美子は少しその元気を義姉に分けてあげたい気持ちになった。

 

 

 夕方まで、子供は子供同士で好きなように遊ばせ、緋美子は夕食の準備に取りかかる。
 その頃、義姉が目を覚ましたのか、キッチンに立った凛々子の背に声をかけてきた。

「義姉さん、まだ横になっていて良いのよ」
「いいの。眠たいのはほんの少しだけ。あとはだるくて、だるくて……」

 彼女はそのまま力無くダイニングの椅子に座り込んでしまった。
 とくにこれという原因がある体質でもなく、病気でもない。ただ抵抗力がなく、風邪なんかひけば、こじらせてしまい横にならずにはいられない程、力を奪われると、義姉がいつもの口癖のような文句を儚い声で呟く。

「近頃、本当になにもかもやる気がないの。やりたいのに、やれないの」
「体力がなければ、そんな気持ちにもなるわ。精神的にもきつくなるわよ。お姉さんが悪い訳じゃないわ」
「わかっている……。貴女、いつもいうものね。病は気から、気さえしっかりしていれば、少しずつでも元気になるって……」

 確かに、緋美子がいつも里佳子に説いている事だった。
 時には不思議なものを見てしまう緋美子にとって、そんな『気』というものは幻想的なものではなく現実的なもので身近なもの。
 それが弱ると、小さなものが寄りついたりすることもある。実際に、町中でそんな人を幾人か見た事がある。そのうちに払える人もいるだろうし、あのまま……死相が出ていた人などはどうなったのか。後になって気になってしまう事がある。一言いってあげれば、その人を救う事ができるのだろうか……と。しかしそれをして良いのか悪いのか緋美子には分からない。今でも。だから見なかった事にして終わってしまう。それでも後味が悪いものなのだ。そんな時、このような素質を持つ自分を呪ってしまう。
 義姉の里佳子も、今日はまさにそれだった。

「緋美子ちゃん。正直に答えて。貴女、私がどうなるか見えているのでしょう?」

 答えに詰まる緋美子。
 しかし、『正直』に答えた。

「気が弱っている以外、なにも見えないわよ」
「嘘!! なにかが側にいるとか! もうすぐ、私は駄目になるのだとか!! 言ってちょうだい!」

 姉の背後から、ぐわっと何か光ったように見えた。ほんの一瞬……。
 だから、それを見た緋美子は大笑いをする。

「やだ、里佳子姉さんたら! それだけ怒ったり大声が出せるなら大丈夫よ。今、お姉さんの背中からなにかエネルギッシュなものが光ったわよ。それだけの気があれば、やっぱり気の持ちようよ」

 本当にそう思った。
 里佳子には特に何かが憑いている様子もないし、ただ時たま気が弱くなるだけ。だから緋美子はいつだって『病は気から』と義姉に説いている。彼女の治療法はそれしかない。そんな体質と気長に付き合っていく気力だけが頼りなのだといつもそう言って、安心させてきた。

 緋美子が笑ったせいか、やっと里佳子の表情が柔らかくなった。

「ほんとうに?」
「ええ、本当よ。お姉さん。……でも、分からないでもないわ。力が出ないたびに、母親として口惜しく思うのよね。それも精神的ダメージなんだわ」

 そう言うと、今度の彼女はテーブルに突っ伏すように泣き崩れてしまい、緋美子は驚いた。

「……凛々子も、そんなに丈夫じゃないみたい。私にそっくりだわ」
「まだ小さいじゃない。これから成長したら抵抗力も」
 と、緋美子も願っているのだが。
「二人一緒に具合が悪くなって、病院に行くのも……。もう、疲れたわ」
 どうやら、ここ最近、自分を含めた二人分の看病で疲れてしまっていたようだった。

 それを知って緋美子は安堵する。今回は、精神的なものが大きいのかと思えた。

「私達がいるじゃない。兄さんがいつも言っているでしょう。娘の為だと思って、遠慮しないで私達を頼ってと──」
「だから、ここに来てしまったわ。あの家に一人でいたくなかったの」
「それでいいわ。夕食までゆっくりしていて。兄さんも仕事が終わったらこちらに来ると言っているから」

 里佳子はまたそのまま泣き崩れ、いつまでも緋美子に対して『有難う、有難う』と繰り返していた。

 そんな彼女が、ぽつりと言った。

「心配で堪らないの。自分より凛々子よ。緋美子ちゃん、何かあったらお願いね」

 彼女の今回の一番の不安はそこだったのかもしれないと、緋美子は思う。
 母親としてその気持ちが痛いほど判る。

 でも、緋美子はうんとは答えなかった。

「凛々子は私の姪よ。これからも家族で守っていきましょう」

 そうとしか言えなかった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 今夜の夕食はカレーライスになった。
 子供が二人。そして大食らいの夫が一人。さらには父と兄もやってくるだろう。家族大集合。これで済ます事にした。
 特にキッチンを覗きに来た凛々子が大喜び。

「ミコおばちゃん。からいのいやよ」
「分かっているわよ。凛々子。カズと一緒に辛くないカレー、ちゃんと作ったわよ」

 少しばかり元気が出たのか、義姉の里佳子もリビングで一馬と向き合って楽しそうに遊んでいる。
 凛々子も子供心に分かるのか。母親が笑顔になった途端に、こちらも訪ねてきた時より、ご機嫌になったようだった。

 やがて、一日中外出していた拓真が帰宅する。
 どうしてか、勝手口から帰ってきた。

「やった。今日、カレーだな! あ、うんと辛いの作ってくれよ。カズに合わせたのは絶対に食えないからな!」

 毎度の如く、帰ってきただけで、なんだか騒々しい空気にしてくれる夫。
 まったく。ほんの少し前、姪の凛々子が言った事と同じ事をいうところが、いつまでもこの人も無邪気と言おうか。少し呆れてしまう緋美子なのだが、結局はそんな夫の明るさが、この家を照らしてくれているので、最後には微笑んでしまう。そしてなによりも、結局はそんなところが、愛おしい……。

 そんな拓真は、真っ黒で汗くさい。まだ夏の日射しも強いというのに、日陰もない防波堤で一日中、友人と釣りをしていたのだろう。出かけた時よりも、また一段と日に焼けた肌になっていた。

「あら、タク。何も釣れなかったの?」

 勝手口をあがった夫の手にあるバケツを覗くと、なんにもはいっていない。
 一日中、釣りに行ってなにもなかったのかと緋美子は驚いた。

「ああ。どれもこれもちっこい魚で食べられるというもんじゃなかったからさ。今流行の『チャッチアンドブルース』したんだぜ」

 ──『チャッチアンドブルース?』
 緋美子は眉をひそめた。そんな言葉聞いた事がない。しかし、この状況で言えそうな言葉を緋美子も最近雑誌で目にしたので思いつく。

「それって『キャッチアンドリリース』じゃないの?」
「え。そうなのか? だってこの前テレビで特集していた最近流行りだした『バス釣り』ではそうするんだって。そう言っていたんだぜ?」

 絶対にそれ聞き間違いだと、緋美子は確信した。
 この夫はそういうところがある。確かめないで前に進むというか。ちょっと慌てん坊でせっかちなところがある。
 なのに。そのぱっと気になったことを自分の内側に留めておくこと、些細なことでも気にしておく事。それがこの日のとんでもない聞き間違いのように的を射ていないことも多々あるのだが、それが的を射るともの凄い成果を出す気質を備えている事を緋美子は知っていた。
 その天性の気質が『救命消防士』という仕事に大いに発揮されている。拓真はいまや、若手で注目される隊員に成長していた。

「あら、拓真さん。お帰りなさい。お邪魔しています」
「タクおじちゃん!!」

 明るい笑顔になった義姉と凛々子が、拓真の帰宅の声に気が付いたのか、キッチンにやってきた。

「いらっしゃい。里佳子姉さん。わ、凛々子も。こっちおいで!」

 里佳子はこの薔薇の家に良く訪ねに来ているので、彼女がそこにいることなど拓真はそれほど疑問には思わなかったよう。いつもの屈託のない笑顔を見せている。
 そしてそんな拓真の元に、黒髪の小さな姪が抱きついてきた。

「おじちゃん! 今日はカレーなんだって!」
「やったな。おじちゃんも、カレー大好きだ」

 背が高く、体格良い拓真が軽々と凛々子を抱き上げる。
 凛々子はいつだって、そんな拓真が高く抱き上げてくれると、まるでなにかの遊具に乗せてもらったかのようにご機嫌になる。

「おじちゃん。今日はしょうぼうしゃじゃないの?」
「うん。消防車に乗るのは明日な。ううん。消防車に乗れない方がいいな」
「どして? どうして?」
「え。あ、ちょっとむずかしかったか。うん、消防車に乗って困っている人を助けに行くよ。凛々子が助けてーーと泣いたら、おじちゃんが行くからな」

 近頃、凛々子は『どして、どうして』が口癖なのか、大人達をちょっと困らせている事がある。
 拓真も困っている事があるが。でも、これも彼が無邪気なせいなのだろうか。誰よりも直ぐに子供達がすんなり納得してしまうような答をぱっと口にしている。
 彼の素直な心がそんなとき、緋美子にはよく見える。そして見ているとこちらも幸せな気持ちになる。

 いつまでも。いつまでも。こんなふうに幸せでいられると思っていた。
 この夫が来てから、この家はとても明るくなった。

 そうだ。彼が幸せを持ってきたんだと緋美子は信じて疑わない。
 そんな彼と積み重ねていく毎日、毎夜。
 出会って直ぐ、早すぎると言われた結婚をした自分達だったけれど、今では紛れもなく『夫妻』。
 胸を張って言える。私は夫を愛しているし、夫は私を愛している。私達は固く結ばれた夫妻になれたのだと──。

「わ、凛々子! そんなこと、誰に教わったんだよ」
「パパとママ。こうしてちゅーってするの。パパ、リリにもしてくれるよ」

 二人を見ていると、緋美子の目の前で、凛々子が拓真の頭に抱きつくようにしてほっぺたにチュッと小さなキスを繰り返していた。
 おませな凛々子のする事が可愛らしくて、緋美子は『まあ』と笑ってしまった。それに拓真が子供のキスなのに、妙に照れまくって慌てている姿も結構、見物。だが、義姉はちょっと困った顔。

「凛々子。もう〜駄目じゃない。ごめんなさいね、拓真さん」
「義姉さん。いつもマサル義兄さんとこんな熱々なんですかー? もう、子供は結構、見ているんだから気を付けないとーー」

 義姉は真っ赤になり、離れないで甘えている姪っ子が繰り返すキスに拓真も照れてばかり。
 そんな姪が覚えた事を目に出来ると兄夫妻も愛し合っているのだと、緋美子も微笑む。

 小さな可愛らしい姪。
 いつも豪快に快活に陽気に遊んでくれる『タクマおじちゃん』を、彼女は慕っている。
 そして拓真も。『次は女の子が欲しいな』と言い出すぐらいに、息子とはまた別の可愛らしさを小さな女の子から感じているようだった。

 小さな姪を軽々と片手で抱き上げている夫。

 

 いつか。その小さな姪の身体を愛す日がやってくるなど……。
 彼も緋美子もまったく予想などしていなかった、幸せな日々。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 父と兄も薔薇の家にやってきて、食卓は賑やかになる。
 この時には義姉もすっかり顔色が良くなり、心配して駆けつけてきた兄の大もほっと一安心。義姉と愛娘を本家へと連れて帰る事になった。
 この晩は、いつもは訪ねてきたら泊まっていく父も、里佳子の様子を気にしてか共に帰ると言いだし、本家の家族は帰り支度を始める。

「緋美子。書斎の机にある茶色の表紙になっている本を取ってきてくれないか」
「はい。お父さん」

 近頃、父は書斎に籠もってかなり集中的な仕事をしている。
 なんでもこの地方の歴史として残るようにと、発掘した場所や出土したものをまとめる本を出版しないかと、この地方の出版社から依頼を受けたのだそうだ。
 父は『良い機会』と、今までこの土地で調査した発掘現場や出土品の資料をまとめている。
 きっとその資料にしている本だろうと、緋美子はそれを取りに二階に上がった。

 自分達の寝室の前を通り、二階突き当たりの父親の書斎へと入る。父が言ったとおりに、机の上に分厚い本を見つけた。
 古い本。それを手にして、緋美子はふと目を閉じた。
 自分も同じ人文科の勉強をしていた。発掘現場の手伝いを学校でしたこともある。発掘作業はとても繊細な作業。しかし一回生の緋美子にはそこまでさせてもらえず、ただ周りの土を掘りおこすというまるで工事現場の土木作業のような大仕事が手伝いだった。
 父のような、中核を担うチームは熟練の人々ばかり。ひも付きの画板を首にかけ、そこに掘り起こした地形を書き記す。こと細かく。もし、なにか出土したら丁寧に、極細の竹の枝先で土を一枚一枚剥がすように除けていくという、細かくて丁寧な作業が要求される。さらには記録、記録、記録、なにごとも記録という根気のいる仕事。余程の歴史価値がない限り、発掘した状態で残す事はない。調査が済んだら、その上に近代の建築物が建ち、二度と先人達が土の下に残した『生きた証』を再び太陽の下に、そして人々の目に触れさせる事はできなくなる。それどころか存在さえも土の中……。
 だからこそ、必死に残す。ひとつ残らず、二度と触れられなくなる歴史を刻む。そんな仕事。
 室内で知識を積んできた大学実習生より、県や市が雇ったパートの中年女性の方が熟練されていたりするという、現場での積み重ねがものを言う。初心者扱いで大まかな穴掘りしかさせてくれなかったことが、悔しかった。炎天下での土いじりは庭仕事で慣れている。父が立っている足下で、父が記録する画板の下で、竹の枝先を持って、出土した古来の品々をこの手で掘り起こしてみたい。

 夢、だった。

 この土地の古い歴史が記されている本を抱え、緋美子は忘れようとしていた夢に思いを馳せた。

 でも……今は。
 夫と子供と家族が、夢。
 嘘じゃない。何にも代え難いものだ。

「緋美子」

 独身の時の夢。
 妻になってからの夢。
 それを交差させていると、部屋の入り口から兄の声が聞こえた。

「兄さん。ああ、ごめんなさい。これ、お父さんに渡さなくちゃね」

 我に返った緋美子は、その本を抱え、家族との帰りを急いでいるだろう兄の元へ向かったのだが。

「聞きたいんだけれど──」

 暗がりの中、兄マサルの眼鏡の縁が光っている。レンズの向こうにある兄の目が、なんだかとても思い詰めているような気がした。

「なに、兄さん」
「……率直に言ってくれ。うちの里佳子、なんともないのか? お前が見えるようなもの、見えていないよな?」

 詰め寄ってくる兄の顔がとても真剣で、緋美子は息を呑んだ。

「そ、そんなに悪いの? ……義姉さんも、今日、訪ねてきたのは……それを、私に聞きに来たかったみたいで……」
「それで、どうなんだ」

 まるで尋問でもされるかのように、大(まさる)も里佳子同様に強く緋美子に食い付いてくる。
 里佳子と向き合った時には、楽観した緋美子だが……。彼女が訪ねてきた時に感じた『嫌な予感の渦』を急に思い出し、それに途端に取り巻かれるような感触を覚える。

「なにも、見えないわ。本当よ! いつも言うように、ちょっと気が弱っているようにしか見えないもの。里佳子姉さんにもそう言ったわ」
「本当なんだろうな。お前しか見えないんだから、黙っていたら承知しないぞ。何かあったら、俺にだけはきちんと相談してくれ!」

 兄の迫力に圧され、緋美子は『分かった』と頷いた。
 それを見た兄の顔が、いつもの穏やかな顔に戻る。
 彼も我に返ったのか、少し、荒っぽく妹にぶつかった事を後悔した様子……。

「わ、悪い。こういうの、お前しか分からないだろ」
「そうね……」
「同じ血を分けている兄妹だけれど。俺はちょっとした勘が備わっているだけで、お前は母さんの性質を色濃く引き継いだもんな」

 そうだった。実は母がそのような体質だったと聞いている。
 母が『緋美子』と名付けたのも、生まれた緋美子を見た途端に『私と同じ娘になる』と感じたからなのだそうだ。

「それで、強そうな名前にしておかないと、負けてしまうとか言って……。巫女の卑弥呼にかけて『緋美子』だもんな。でも、その名前。やっぱりお前を守っていると思うよ。お前は母さんみたいに、急に具合悪くなったりしないもんな」

 兄は、母の早死にの原因は病気でもなんでもなく『霊』の仕業だと本気で信じていた。どちらかと言うと、緋美子の方がそこは半信半疑。
 でも緋美子は母に何かが憑いているのは見た事はない。それとも見えない程の上手なものだったのだろうか。

「大丈夫よ。凛々子も同じ体質で自分の事も疲れているのよ。ここは兄さんが元気づけてあげるのが一番の薬だわ。そのうちに気が強くなって元気になるわよ。私も協力するから、なんでも連絡して──」

 兄の目が、緋美子を感謝するよう優しく滲んだ。

「いて欲しい人がいきなり居なくなるのは、もう嫌だ」

 兄の言葉に、緋美子は母を亡くしたその時を思い返してしまう。きっと目の前の兄もそれを同じように思い出しているのだろう。彼の顔はこんな時、母を亡くした少年の顔に戻ってしまうのだ。
 同じ気持ちを分かち合った兄妹。そんな兄の顔をみると、緋美子も居たたまれなくなる。

「私もよ。兄さん──。里佳子姉さんも凛々子も、もう、私の大事な家族だわ。もう誰もなくさない」

 そうだなと、兄も安心をしたようだった。
 緋美子が胸に抱えている父の本を『俺が渡す』とそっと手にした兄。彼と共に階下で待つ家族の元へと、笑顔で向かう。

 笑顔であるように、笑顔で向かう。

 

「それでは。おやすみなさい」
「おばちゃん、おやすみー」

 兄の車に乗り込んだ里佳子はもうすっかり明るくなっていた。
 そして凛々子も可愛らしい笑顔を振りまいて、ママの胸にしがみついている。

「リリちゃん、ばいばい」
「かずちゃん、ばいばいー」

 歳が近い従姉弟同士も、毎度の賑やかしい声で手を振り合う。
 一馬は父親の拓真に抱き上げられ、懸命に手を振り走り去る車を元気いっぱいに見送った。

 拓真と緋美子の夫妻も、丘の坂を下りていくテールランプが消えるまで見送る。
 そんな時、夫がぽつりと言った。

「気のせいかな。里佳子姉さん、やつれて細くなってきている気がして」

 緋美子はまたドキリとする。
 気のせいのまま過ぎて欲しい。なのに誰もがそんな事を言うから気になって仕方がない。

「大丈夫よ。見えないから」
「緋美子がそう言うなら、きっと大丈夫だな」

 夫も既に、緋美子のこのような言動を日常として受け入れてくれるまでになっていた。

 静かな丘の住宅地。晩夏の風が少し荒っぽく吹き付ける晩。
 二人の足下に薔薇の花びらが地を這うように吹き飛ばされていく。

「台風、また来るみたいだな。薔薇の補強しておかなくちゃな」
「そうね。助かるわ」
「この庭は、俺達家族の象徴だ。絶やしたくないからな」

 時折強くなる風に煽られる蔓薔薇に、拓真が視線を馳せる。
 彼も既に薔薇の庭に深い愛着を持ってくれる薔薇の家の家族。

 

 この夜も──。
 息子が寝付いた後、夫妻は夜風の音に紛れて睦み合う。

 緋美子は夫に呟く。『二人目、もう少し待って』と。
 そう言ってしまったのも、拓真がこの晩は、意を決した行為を見せたからだ。それを止めてしまった妻。だが夫はいつもの屈託のない笑みを見せ『そうだな』と言っただけ。
 今はまだ駄目。自分の手をいっぱいにしてしまうと家全体のバランスが崩れていくような嫌な予感があった。義姉の具合が悪い時は凛々子の面倒を見てあげたい。だから……今はまだ。息子がもう少し大きくなったら……。夫拓真の肌と自分の肌が擦れ合う中、緋美子はそんなことを懸命に呟いていた。
 愛されている最中、もっと違う事に集中したいというのに、まるで食事の時に向かい合って話し合っているような事を妻が呟く。夫の胸の下で──。それでも拓真はちゃんと聞いている。

「……いいさ。まだ俺もお前も若いから」

 まだこれからもチャンスはある。
 拓真がそう思ってくれたように、緋美子もそう信じていた。
 こうして愛し続けていれば、また息子が生まれたように、ふっと舞い降りてくる……。そう思っていた。安易に。

 愛されていく中で堪えられずに漏れる濡れ声で『拓真』の名を呟き続ける。ついには掠れるほどまでに……。
 彼に届いて。心には貴方の為の赤い花が咲いている。
 スケッチブックに取り憑かれたように描き続けた赤い花は、緋美子の中で持てあましていた愛欲。
 十五歳の時の衝撃的な経験など……。望んでは……いない。望む事は破滅を意味している事を緋美子の意識全体が確定していることのように認識済。
 欲しい愛欲は、この夫との、薔薇の家の、薔薇の夜。優しいカナリヤ色の花びらが舞う、燦々とした真っ白い情熱で良い。

 そうよ。あの人の為じゃない。あの人を思って描いていたんじゃない。
 いつか出会う誰かの為に。出会ったこの人の為に私は赤い花を、……赤い花をずうっと一人で描き続けてきたんだわ。

 これは言い聞かせなのか。
 それとも本心なのか。
 緋美子は本心と自分では言い続ける。死ぬまできっと言い続ける。

 晩夏の嵐の前の静けさ──。
 花の香りが二人を仄かに包み込む日常は、いつまでも咲き続ける事ができない花と同じく、そうは続かない。

 

 

 

Update/2008.3.18
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