-- 緋花の家 -- 
 
* どの花にも毒はある *

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4-6 花も咲き終わりの頃

 

 近頃、父が頻繁に薔薇の家で寝泊まりするようになった。

「お父さん、お父さん。こんなところで寝ないで」

 書斎に籠もると一向に出てこなくなる父を案じ、緋美子はたまに覗いてみる。
 夜遅くまで机に向かっていることが殆どで、一息入れてもらう為のお茶や夜食を持っていく事もある。
 この時も熱い緑茶を持っていったのだが、この夜、父は初めて机に突っ伏して眠っていた。こんな姿の父は初めてだった。

「お父さん。せめてベッドで寝てちょうだい」

 父の身体を揺すり、緋美子は訴える。
 やっと父が目を覚ました。

「あ、ああ。眠ってしまったのか」
「そうよ。近頃、朝晩も涼しくなってきたから気を付けて。大切なお仕事なのでしょう」

 父もうんと頷きながら、乱れた前髪をかき上げ我に返っている。

「夢中になるのも分かるけれど、最近のお父さん、ちょっと頑張り過ぎよ」

 今までは薔薇の家にやってくるのは週に二日ほど。それなのにここのところ、毎日と言って良かった。
 本家の義姉の体調も気分も落ち着いたようで、父は安心してこちらの仕事に精を出している。
 毎日、訪ねに来てくれる事はとても嬉しいのだが、毎晩これだけ根を詰めている姿を見せられると流石に娘として心配になってしまう。

「ふう。それもそうだな。もう今夜は寝るか」

 限界なのか。父は素直に書斎にあるベッドで横になった。緋美子もほっとする。
 すぐに眠ってしまった父の身体に毛布を掛ける。明かりがついたままになっている机、ライトスタンドのスイッチを切り、部屋の明かりも消して緋美子は部屋を出た。

 

 一日の家事が終わり、入浴を済ませて寝室に入ると、拓真の床敷きの布団で父子が寄り添って眠りについていた。
 夫の寝る時間は割と早い。彼はまた明日の朝早く消防署へと出向き、次の朝までは帰ってこない。市民を守る為の使命感。彼の日々は規則正しい。
 自分のベッドに入って、緋美子は足下で仲良く眠っている夫と息子を見下ろす。同じ顔を揃えて眠っている姿を見るととても微笑ましい。
 近頃の息子は、消防自動車などの救助車が大好きだ。男の子だからなのか、それとも既に父親の背中を見ているからなのかは判らない。でも父親の拓真も嬉しそうにして接している。
 ──『お前の死んだ祖父ちゃんも、消防士だったんだ』。まだ言っている意味など分からない息子に拓真はしょっちゅうそう言っている。彼にとっても若くして殉職した父親の背は偉大なのか。目標なのか。息子も消防士になってくれたら嬉しいだなんことはまだ口にしないが、それでも、父親とは少しは息子が後を追ってくる事は嬉しい事なのだろうか。それとも、自分がどれだけ危険な仕事をしているか判っているからこそ勧められないから口にしないのか。そこもまだ緋美子には判らない。

 だが拓真は確実に父の背に近づいてきている。田畑小隊長の夫人とたまにお茶をする時に、職場にいる拓真はどのようなものなのかを良く聞かせてくれる。なんでも拓真の父親はオレンジの制服を着たレスキュー隊員で、県内大会ではいつでも優勝をしていた『県内一の救命消防士』だったのだとか。
 ──『うちの田畑は、拓真君のお父様が先輩だった時期もあったのよ。だから、大事に育てたいのよ。それにやはり鳴海消防士の息子だと、近頃では本庁でもかなりの噂だとか……』──。そんな田畑夫人から聞かされた夫の状況に、緋美子は驚いた。殉職した父親の話もだ。
 あの無邪気な夫。父親が使命を果たした消防官であることは誇らしそうに話してくれる事はたまにあるが、父親が県大会で常に優勝した男だったなんてことは一切教えてくれなかった。小倉の義母聡子もだ。この母子。こういう『謙虚なところ』がある。それは母の教えなのか、亡くなった鳴海の義父の心構えだったのか。
 夫人は『きっと優勝とかそんな肩書きなんて、あってないようなものなのよ。ご夫妻も息子の拓真君もきっとそうなんだわ』と教えてくれた。
 緋美子もそう思った。さらに田畑夫人は、そんな拓真が県大会に初出場したことも教えてくれた。入賞こそなかったが若手で一番だったということも知り、緋美子はとても驚いたのだ。

 知らぬ夫の姿を耳にした緋美子は、薔薇の家に帰ってから拓真にさりげなく聞いたほど。
 ──『タク。田畑の奥様から聞いたのよ。県大会で頑張ったんですってね』と。だけれど拓真はいつもの無垢な顔で『ああ、うん。そうだな。それが?』と、きょとんとした顔。それを隠していたわけでもなく、そして、それを改めて問いただされる事の方が不思議そうな顔だった。元より彼の中で『話題に値することではない』のだと緋美子は感じた。だから妻にも話さない。格好つけて謙虚にしている訳じゃない。そして彼の中でも『あれは結果が出たという成績ではない』という無意識のプライドもあるのかもしれない。改めて思った……。『本当にこの人は、救助する事しか頭にないのだわ』と。
 きっと亡くなった義父もそうだったのだろう? 救助という使命感で前に進んでいるうちに、いつのまにか誰よりも精進していた結果が『優勝』だったのだろう。

 それを思うと、この邪気のない夫をとてつもなく愛おしく感じてしまう。
 本当に真っ白な、純粋な人だった。
 『大好き』。『大好きよ』──。こんな夫に出会うと、緋美子は今だって胸がきゅんと締め付けられる。
 出会ったあの日より。この夫が見初めてくれて声をかけてくれたあの頃より。初めてのデート、初めてのキス。初めての……肌。あの頃のなにもかもが今だって眩しくてそして思い返せば狂おしくなる素敵な想い出。それがあっても、今でもあの時以上に狂おしくなる。まだ夫に充分恋をしている。

 そんな夫はまた子煩悩で、息子とも可愛らしい姪とも無邪気に戯れる日々。

 そんな夫が眠っている顔を見て、緋美子はとてつもない幸せを毎度噛みしめる。

「愛しているわ。拓真……」

 今夜、彼に誘われていたら、また燃えていただろう。
 間違いなく、彼を欲するが為の情熱で……。赤い花を胸に咲かせて……。
 もう、十五歳のあの日々は遠い。今は夫が全てを受けとめてくれている。彼が存分に愛してくれるから、もう、あの毒々しくも甘い瞬間は要らない。そして緋美子も、彼が大好きだ。愛している。彼と愛し合っていく日々だけがあればいい……。

 暖かな空気が緋美子を取り巻いていた。
 夫と息子の寝息を耳にしながら、緋美子はまた、カナリヤ色の日だまりに包まれて深い眠りにつく。

 拓真という夫がきっと、このカナリヤの色、一色に染めて守ってくれる。
 そう信じていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 翌日も、鳴海家の慌ただしい朝がやってくる。

 緋美子はキッチンで、父親と夫を仕事へと見送る為の朝食を作る。
 息子の一馬も、パパとママと一緒にとりあえず目を覚まし一緒に一階に降りてくるのだが、まだ毛布にくるまってリビングでうとうとしている。パパを見送る日もあれば、そのまますやすやと眠っている日もある。

 本日の食卓は和食。
 焼き魚に、卵焼きに、海苔ごはん。そして味噌汁。
 いつものよう一番に食事を取るのは拓真。父親はいつもゆっくりして出ていく。その頃に、緋美子は一馬と一緒に食事をする。

「ごっそうさん。じゃあ、行ってくるな。明日の朝までよろしく。戸締まりをきちんとしろよ」
「ええ、いってらっしゃい」

 紺色の消防作業服姿で拓真が席を立つ。

「ふう、今日のカズはねんねのままか」

 リビングで毛布にくるまって動かない息子を見て、拓真が溜息をつく。
 やはり毎朝、息子が可愛らしく見送ってくれる事を楽しみにしているようだった。だがこの日は諦めて、拓真が玄関へと向かう。

「お義父さん、今日は遅くないか?」
「そうね。そろそろ起こした方が良いわね」
「なんかここのところ根を詰めているようで心配だよ。せっかくの出版話でも体調を崩したら元も子もないだろう? 気をつけておけよ」

 こんなところ、救命に関わっている拓真は敏感だった。
 きっと毎日毎日、体調を悪くする人々に不遇の事故や事件に遭遇した人々に接しているからなのだろう。
 だが、緋美子もここ最近、それは気にしていた。嫌な予感という訳でもないが、いつもは拓真を玄関先まで見送るのに、この日はまず父親を起こしに階段を上がる。

「俺、時間がないから行くからなー」

 緋美子の背にいつもの元気な声が届く。

「いってらっしゃい。今日も気をつけてね!!」

 これを言わねば気が済まない。
 ただでさえ、拓真自身も危ない状況にいつ遭うか分からない仕事をしているのだ。だから見送っているというのに……。でも緋美子の足は父の書斎へと急ぐ。

『行ってきまーす』

 拓真の明るい声が聞こえたと同時に、緋美子は書斎のドアを開けた。

 明るい朝の日射しが、床にいる男性に降り注いでいた。青ざめた顔の、父の顔に、柔らかな晩秋の光が……。
 緋美子の目がゆっくりと見開く……。心の中にあるなだらかな砂丘が、さらさらと音を静かに立ててゆっくりと崩れていく感覚。しかしそれはやがて一気に砂が崩壊していく感覚に変わり、緋美子を襲った。

「お、お父さん! お父さん!!」

 父が倒れている。
 昨夜、確かにベッドで寝たはずの父が、床に倒れている。
 音? 聞こえなかった。いつ? 倒れた?

「お父さん! 起きて……! どうしたの、ねえ!!」

 空かしてある窓の隙間から入ってくる秋の風に、父が昨夜開いたままにしていた本のページがぱらぱらと激しくめくられている。

「やだ。いやよ。何とか言って!」

 顔が青ざめているだけじゃなかった。息をしていないのが分かった。そして──緋美子が叩く父の頬は既に、冷たい。

「いやあ、お父さんーー!」

 何をするべきか、どうするべきかなにも直ぐには思い浮かべられなかった。
 ただ信じているのだ。娘の緋美子の声が届かないはずはない。こうして叫べば、父がきっと目を覚ましてくれると。だから緋美子は必死になって父の身体を揺さぶった。

「どうした!」

 その声に、緋美子ははっとし、父親の身体から顔をあげた。
 出かけたはずの拓真がそこにいた。緋美子の叫び声を耳にして戻ってきてくれたのか。

「お義父さん!」

 当然、拓真も書斎で起こった光景を一目見て叫んだ。
 だが、この夫は娘の緋美子とは違った。

「どけ、緋美子」

 父親の身体を揺さぶるばかりの緋美子の間に、拓真が素早く割り込んだ。

「お義父さん、お父さん。聞こえますか。お父さん!」

 拓真が頬を叩く。いわゆる『意識の確認』だろう。
 それと同時に拓真の手は素早く脈を取っていた。その顔が強張った。消防官としての慣れている手順を見せる夫の顔を見て、緋美子は後ずさる。分かっている。父はもう……。

「ミコ、何している。直ぐに救急車だ。119! 急げ!」
「は、はい!」

 夫のピンと張っている大きな声に緋美子も再度、我に返る。
 そうだ。救急車! それが何故、先に思い浮かばなかった!?
 緋美子は立ち上がる。それと同時に、拓真が父の身体にまたがった。

「早く行け。いいか、落ち着いてちゃんと住所を言うんだ」
「わ、分かったわ……!」

 拓真はそう言いながら、手早く心臓マッサージを始めた。

「お父さん! お父さん! 俺だよ、拓真! 緋美子もいる。お父さん!」

 そう呼びかける夫の切なる声に押されるように、緋美子は階段を駆け下りる。
 震える指で119番を押す。電話に出てくれたオペレータの男性の声はとても静かで落ち着いていた。症状を聞かれる。意識なし、脈なし。今、夫が心臓マッサージをしていると伝える。住所のところで、あれだけ夫に言われたのに無言になってしまう。『大丈夫ですか。おちついて、ゆっくりと……』電話口の男性になだめられる。頭が真っ白とはこのことか。一番良く知っている自分の住所が出てこなくなるだなんて──。でも、なんとかしどろもどろに。

『分かりました。直ぐに救急車が向かいます。奥さん、よろしいですか。出来れば、わかりやすいところに立っていてください』

 無言で頷いた。
 電話を切った後、直ぐに二階に駆け戻ったが、まだ拓真が父にまたがったまま心臓マッサージを繰り返している。

「タク、タク……。お、お父さん、息していないわ」
「ミコ、しっかりしろ! 娘のお前が呼びかけなくちゃ駄目だろ。しっかり呼べ!」

 拓真の声は本当に良く通る。響くという意味じゃない。心を貫くということ。だから緋美子は拓真に言われたとおりに、父の耳元に懸命に呼びかけた。『お父さん、お父さん』と。その間、拓真も決して手元を緩めない、諦めない。消防官の顔になるのに、時折、泣きそうな顔で父を呼んでいる。そして懸命に心臓マッサージを続けてくれていた。

 やがて救急車が辿り着く。サイレンが近づいてきたので、緋美子が玄関まで出ていくと、庭先に停まった救急車から見慣れた面々が飛び出してきた。
 拓真の出張所の救命士と田畑だった。

「緋美子ちゃん! お父さんが倒れていたのか?」
「た、田畑さん……。タクが、タクがいま……」

 情報はすぐに伝えられているのだろう。
 そしてきっと住所と名前を聞いて、驚いて田畑まで駆けつけてきてくれたのだろう。
 グレーの作業着を着ている救命士と共に田畑も二階へと駆け上がっていく。
 先に駆け込んだ救命士と拓真も顔見知りだからだろう。拓真と目が合うなり、息が合ったように改めての処置を始めた。

「タク」
「隊長……」

 妻の前ではあれだけ頼もしい夫の顔、婿の顔で、気強くしていた拓真の顔が、田畑を見た瞬間、一時だけ崩れた。
 だが彼は救命士に任せて立ち上がる。そして田畑の側に近寄ると、なにかをそっと耳打ちしていた。それがなんであるか……緋美子は悟ってしまった……。

 涙が溢れてきた。

 父の身体は冷たく、脈はない。
 身体が冷たいと言う事は、倒れてからかなりの時間が経っていると言う事だ……。

「搬送します」

 『とりあえず』、病院にということなのだろうか? 
 それとも望みがあるのだろうか?
 とにかく、早急に病院で処置してもらうしかないそうなのだ。

 これだけの騒ぎなのに、リビングにいる一馬はいつもの可愛らしい顔で毛布にくるまったまま眠っていた。
 緋美子はそのまま毛布ごと抱き上げて、拓真と一緒に救急車に乗った。目を覚ました一馬は、なにがなんだか分からない顔をしていた。

 

 だが、間に合わなかった。
 父はそのまま帰らぬ人となった。

 薔薇が開ききって、その花びらをゆっくりと散らそうとしている季節に、父はそのまま逝ってしまった。 

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 人が亡くなると、こんなに慌ただしい別れが待っているものなのかと緋美子は思った。
 このまま父の遺体を、このままここに置いておく事は出来ないのだろうか。本気で思った。
 まだ残暑の名残もある日中を考慮してか、父を寝かしている白い布団の中には沢山のドライアイスが積まれた。なるべく傷まないようにということだった。

 こんな時は葬儀屋に任せるに限る。
 彼等があっという間に本家に駆けつけてきてくれ、なんでもサポートしてくれる。
 そして親戚の叔母や伯父があれこれとやってくれる。

 朝、薔薇の家に戻って摘んできた薔薇を数本、父の側に活けてあげた。

「ママ、じーちゃん、おきない?」
「ミコおばちゃん、じいじ、いつ起きるの?」

 父の遺体の側から離れない緋美子の背に、一馬と凛々子がひっついて交互に聞いてくる。
 緋美子はそれだけで涙が溢れてしまい、二人を一緒に抱きしめた。『もう、さよならなのよ。おじいちゃん、お疲れさまと言ってあげて』。そう子供達に言いたいのに、言葉も出てこない。
 そんな緋美子を見て、仏間の入り口にいる里佳子もまたすすり泣いていた。

「こんなにあっけないものだなんて……。私よりお義父さんの方がずっと活動的で元気だったのに」

 義姉里佳子の納得できないという嘆き声。
 急性の心筋梗塞だった。

「……歳だったんだわ。本当は。もっと気をつけてあげれば……良かった……」

 いつまでも元気だと思っていたから。
 いつだって穏やかに静かに傍にいてくれたから。
 だから、全く気に留めなかった自分の事を緋美子は呪った。なんの親孝行も出来なかった。まだしていないのに……。
 また涙が溢れた。もうずうっとこの状態だった。

 

 通夜が終わり、翌日は告別式。
 この本家で行われる。既に親戚がザワザワしていた。父は当主であり、当然、跡目は兄の大になるだろう。
 だが、分かっている。若い兄妹を残して、母も父も逝ってしまったのだ。伯父叔母が守ってくれるだろうが、つまりそれは、後見人で留まるのか留まらないのかという話になってくる。それで親戚がざわざわと落ち着かないのだろう。
 だが実際、兄にとっても緋美子にとっても『財産』などどうでも良いのだ。財産をくれるくらいなら、両親を返して欲しい。あんまりだ。母が亡くなった時も兄と散々泣き明かしたが、まさか父親までこんなに早く奪われるだなんて。
 だが、父がそうしていたのか。はたまた兄がそこまで機転が利いたのか。きちんと弁護士がやってきて、大と緋美子は法で守られた。この本家とそして薔薇の家を父がきちんと守ってくれていたのだ。それだけは後で兄と感謝していた。

 なんとか落ち着いた告別式を迎える事が出来た。
 叔母に黒い喪服を着せてもらい、緋美子は兄の側で父を見送る。そして隣には黒いスーツを着ている拓真が常に寄り添ってくれていた。
 だが、いつもはあんなに賑やかな拓真は、あれからずっと無口で俯いて溜息ばかりこぼしていた。

 拓真もかなり気落ちしている。
 助けられなかった事もそうなのだが、なによりも、父との思い出ばかり振り返ってしまうようだった。
 病院で父の臨終を決定づけられた時、誰よりも大きな声で泣いたのはこの夫だった。
 せっかく親父が出来たと思ったのに。こんなに直ぐに行っちゃうだなんてお義父さん酷いよ酷いよと、泣き崩れた拓真。それを見て、緋美子も号泣してしまった。俺が家にいたのに、倒れたのに気が付かなくてごめんと何度も拓真は謝る。そんなの仕方がない事だと慰めたいところだが、消防官としてのプライドが許さなかったのだろう。
 さらに拓真は、薔薇の家に戻ると緋美子に教えてくれた。庭に出て、鰯雲が流れていく空に伸びる蔓薔薇を見上げて言った。

「この前、台風が来る前に、お父さんと補強をした時。お父さん『拓真君とこうして補強をするのは何度目かな。だいぶ慣れたね。これからも薔薇を頼むよ』と、初めて言ってくれた。この薔薇の庭を守る男として認めてくれたんだと、俺、すごく嬉しかった」

 緋美子と出会った夏。拓真は進んで父の手伝いをしてくれた。初めての補強。
 結婚してからも、拓真は庭仕事も手伝ってくれ、この薔薇の庭を大切にしてくれた。台風が来る前は、父と一緒に補強するのも恒例だった。
 それが遺言だったのかと、拓真は咽び泣く。緋美子も……実父と夫が本当の親子のように信頼を深めていくことに幸せを感じていた。

 なのに──。
 やはり、そうは続かないものなのか。

「……でも、お母さんに会えるね。お父さん、寂しがっていたもんね」

 僧侶の経が響く中、緋美子は父の遺影に向かって、小さく囁いた。

 大学関係者。父の生徒。そして部下。中には同じように遺跡を調査していたというパートの主婦も来てくれていた。
 そして拓真の出張所からも、大隊長が代表で駆けつけてくれたようだ。そして田畑夫人も来てくれた。緋美子の大学時代の友人も。

 気を落ちしている緋美子をそっとして、この日はただ、皆が父に別れを告げていくだけ。
 緋美子も皆の気遣いに甘えて、ただ過ぎゆく告別式をぼんやりと眺めているだけだった。
 だがやがて、緋美子はある人がやってきたのを目にして、目が覚めたかのように気が改まった。

 黒い喪服のスーツ姿で、あの正樹が焼香に来てくれたのだ。
 彼の後ろには、黒いフォーマルスーツを着ている早紀もいた。そして彼女の隣には婚約したばかりの『英治』もいたのだ。
 兄妹で駆けつけてくれたようだった。
 あの正樹が。緋美子の目の前に来ている。緋美子はひやっとした。
 だが、彼の顔は悲しみの色を湛え厳かだった。その顔で、父の遺影をじいっと見つめている。

 彼と父は庭先でよく話していた。他愛もない雑談だったようだが、父にとっては話甲斐がある若者だったようだ。
 緋美子が結婚してから正樹が姿を現さなくなった事を、父は何度か嘆いていた事もある。だがそれも後輩の拓真が夫になったことで少しは遠慮しているのだろうとは分かっていたようだった。

 だが父は知らない。本当の理由は、側に寄ると私達はおかしくなってしまう事を。
 だから彼は緋美子との縁を次々と断って、家族からも同僚からも離れてしまった。それが本当の理由。
 緋美子が早紀と仲が良くなければ、緋美子が拓真と出会わなければ、彼はなにもそこまで自分で自分を追い込む事はなかったのだ。
 片や緋美子は、そんな正樹が犠牲を払っている事に気が付きながらも、本当に幸せな日々を送っていた。『彼ばかりが捨てている』のに『緋美子は得るばかり』。それを分かっていて、なんとかならないかと思いつつも、それがどうすればよいか分からないから、そのまま彼の犠牲に甘んじたままの形で──。
 そんな酷い関係なのに。彼は父との別れにはきちんと来てくれたのだ。

 凛とした佇まいで焼香をする彼の姿は、緋美子が昔、ほんの少し憧れていた大人のお兄さんの姿だった。それこそ今は、凛々しい男性の姿だった。
 彼が現れた瞬間、人々がほんの少しだけ、正樹に視線を留めるのが緋美子には見えた。正樹もそうだが、妹の早紀にも誰もが視線を留めた。やはり長谷川の兄妹はそんな雰囲気を備えているのだ。どこにいても華やぐ空気を。
 そんな正樹が父の遺影に合掌をする。微かに目元が震えているのが見えて、緋美子もまた込み上げるものを感じてしまう。自分達の忌々しい縁がなければ、それこそ親しい近所の間柄。近所のおじさんと近所の男の子、そして幼馴染みの女の子で過ごしていたはずなのだ。

「ご愁傷様でした」

 喪主である兄と義姉が並ぶ前へ、正樹はきちんと正座にて挨拶をしてくれた。
 兄も静かに礼をする。義姉も共に礼をした。正樹も頭を上げると、兄と義姉の後ろに座っている妹夫妻へと目を向けてくれる。
 彼は拓真と目を合わせると、兄にしてくれたように深々とした礼をしてくれた。そして……緋美子の胸の鼓動が早くなる。こんなところで彼と目を合わせることなど、どうにもならないかと……。

「お父様を亡くされた悲しみはいつまでも癒えぬ程のものとは思いますが、それでもどうぞ、あまり気落ちしないよう。お父様を安心させるように頑張ってください」

 緋美子とだけは、目を合わせてはくれなかった。
 さりげなく、目を合わせてくれたかのような仕草をさっと見せ、でも緋美子の顔を見たか見ないかぐらいで頭を下げ、彼はそれだけ言ってくれた。……しかし、その言葉すらも、緋美子に言ってくれたのか、この残された兄妹夫妻に言ってくれたのか分からないような動きで言い残していった。

 でも、伝わった。

 緋美子が良く知っている『長谷川のお兄さん』の声だった。
 暖かみのある声、思いやりのある言葉。悲しみをほんのりと和らげてくるかのような慈愛に満ちた清々しい励まし。兄にもよく伝わったのか、再度頭を下げたほど。

 そして緋美子も、そっとお辞儀をする。

『有難う。正樹さん』

 父もきっと、貴方が来てくれて、喜んでいるわ。

 決して触れあう事が出来ない二人でも。こうして、『普通の知り合い』として心を交わす事が出来ると、緋美子もとてつもなく救われる気持ちになる。

 彼とは『もっときちんと付き合える方法』があるはずだ。避けるばかりじゃなく、上手く避けて付き合える方法が。
 そう、今日のように──。
 緋美子は急にそう思い始めていた。

 

 

 

Update/2008.3.24
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