-- 緋花の家 -- 
 
* どの花にも毒はある *

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4-9 獣的ラブタイム

 

 『愛撫』という行為は、もしかすると人間が睦み合う時の特異の行為なのかと緋美子は思った。

 

 彼の燃え上がった肌が自分の上に重なった時、夫とは当たり前である唇と唇の挨拶に、互いの肌を確かめ合うような触れあいを正樹は一切行わなかった。

 夕闇の中始まった行為は、急速だった。
 それこそ、いきなりだ。
 『前戯』が一切、ない。いや、正樹が少しだけそこに指をあてて、上下に数回こすっただけだった。
  緋美子は少しだけ、塞がれている口の奥で甘い声を漏らした。

 もしこれが『まともな行為で関係』であるなら、なんて物足りない、思いやりのない男性である事か……。だが、正樹がそこで淡泊に打ちきってしまったのは、既に緋美子の身体が受け入れ態勢を整えていたからだ。

 すごい、すでに、こんなに、カンジテイルンダネ。

 緋美子の頭にそんな……恥を感じさせる、男性からの屈辱的な言葉が思い浮かび、それを浴びせられる事を覚悟していた。

 だが、正樹は緋美子が既に濡れている事に対して、なんの感情も表さない顔で一言もなく覆い被さって中に入ってきたのだ。
 その侵入の感触に、異物感はなかった。本当にするりと柔らかくつるんといとも簡単に夫ではない男を受け入れていた。
 そして正樹は。緋美子と繋がると、そのまま一時動かず、緋美子を見下ろしていた。

「不思議だよ。この二年、不能になったと思ったけれど予想通りだ。やはりもう、緋美子しかいなかったんだな」

 淡々としているくせに、その時彼は欲に煮えたぎっている目を夕闇の中爛々と輝かせいていた。
 今の緋美子なら、そんなことは既に恐ろしくもなんでもない。でも意識の下に沈みそうになっている『本当の緋美子』は怯えていた。

 自分が感じたとおりに、本当に『生物の生殖』にしか思えなかった。
 彼は、自分の遺伝子を残すが為に見初めた『交尾の相手』をやっとこさ手に入れて喜んでいる。そうとしか思えなかった。

 ついに彼の腰がくいっと動き始め、緋美子を突き上げる。
 緋美子はふいに『あうっ』と切ないくぐもり声を漏らしてしまった。

 自然と身体が弓なりに反り、甘い痺れが瞬速に身体中に走り抜け、緋美子の胸も切なく焦がれ、それに駆られるままにきゅっと甘く眉を寄せる。
 前戯もなく、愛の囁きもなく、口づけもない。陵辱もなく、女性の性をくすぐりだされるいたぶりもなく、本当に『それ』だけだった。
 なのに、なに? この灼けるように突き抜ける感覚! 緋美子は驚愕していた。正樹が理性に負けて、手ぐすねを引くように緋美子を貶めた気持ちが分かってしまうほどに……。それは緋美子の感覚、精神、神経を全てとろけさせてしまうほどに、劇的な物だった。
 そして緋美子がいつしか体験させられた『あの波』がつま先からざざざっと押し寄せてくるのを感じた。

 たったこれだけ。相手の男と繋がっただけ。前戯もなにもないのに。愛の囁きも陵辱の言葉さえもないのに。

 ──来た。
 身体中ががくがくと大きく震えたのが分かった。
 そして緋美子がなんとか守ろうとした理性が粉々に砕け散りそうになるのを、歯を食いしばってなんとか阻止しようと堪える。
 だが身体は、快楽の波にあっという間にさらわれ、中に正樹がいる事さえ忘れてしまい、緋美子はどっぷりのその波に溺れていった……。

 緋美子には分からなかったけれど、正樹が『ぐ、うっ』と不意打ちを食らったかのように呻いていたようだった。

 そして正樹も一瞬だったようだ。

 さあっと第一波が静かに引いて静かになっていくのを感じながら、緋美子はぼやけていた意識を取り戻し、うっすらと目を開けた。

 これだけ?

 ふと緋美子は複雑な思いに駆られる。
 これで目的が達してくれたのなら解放してもらえるかもしれないと言う理性から来る願い。
 だが、緋美子の身体は急激に沸騰点まで持ち上げられたにもかかわらず、そこで余韻無く意地悪に捨てられたような気持ちにさせられた。それこそこの瞬時に終えてしまった一回目の行為こそが、女に落胆とした不満を持たせ次をせがませようとする為の陵辱ではないかと思ったほどだ。

「ふうっ。これほどとは……」

 正樹が顎の汗を手の甲で拭って項垂れている。
 だが微かに垣間見えた口元が、やはり悪魔のように冷たく笑っていた。彼が雄として満ち足りている笑み。
 そんな性欲を満たされた彼の笑みを見て、緋美子は覚悟した。たったこれだけ終わるはずはないのだ、と。

 緋美子の霊的な感がなにかを言っている。
 “終わらないよ。彼が『その時に達した』と思わないと解放されないよ。もし、万が一だけれど、このたった一回で予感した雄ならきっとここでやめるよ? でも、大抵の雄はそんな不確かな事はしないよ。確実に必ず生命を残す為に、きっちりと『仕事』をするんだ。その為に何回も……”
 そんな声を信じるならば、まだこれは序章に過ぎない。これこそがきっと『前戯』だったのだ。

 その通りに、ふたたび、正樹の目が光った。それこそ動物的に。
 そしてやっと彼が緋美子の身体のあちこちを探り始めた。驚く事に、彼の欲望で煮えたぎっている悪魔のような笑みとは逆に、その手つきは『人間的』だった。

「次まで。緋美子をじっくりと知りたい」

 彼の大きな手が、さわっと緋美子の汗ばんだ腹部を円を描くように撫でた。
 その手つきがとても慣れているように緋美子には感じられた。柔らかい加減が色々な女性を体験し、どうすれば悦ばせる事が出来るか知っているような手。決して力任せではないその柔らかさが、正樹の経験を語っている。彼のその手がふわりと肌の上を滑り、小高い乳房へと向かってきた。
 だが正樹の手が乳房へ向かっていたはずなのに、途中でピタリと止まった。彼の目線が緋美子の腹部へと釘付けになっていた。
 その目線に緋美子はハッとした。

「神秘的な黒子がある」

 緋美子の臍の周りをとりまく三点黒子。大きな黒子がひとつと小さな黒子が二つ。星のように散らばっている。
 それに気付かれてしまい、緋美子はそっと顔を背ける。
 別に見られて困るものではないし恥じるものでもないはずなのに……。

 でも、緋美子の心が哀しく震えていた。
 ──見ないで、触らないで。そこだけは!
 そこは夫と初めて睦み合った時に彼が初めて目にして、その後も彼だけが目にすることが出来る『印』だった。
 今でも拓真はそこを徹底的に愛撫してくれる。それこそ自分だけしか知らない妻の身体にある『秘密』を『俺だけの物だ』と確かめるかのように……。
 それを『他人』に知られてしまった今の気持ちは、まるで夫妻の秘密を覗かれたような、夫妻の睦み合いの一部をもぎ取られてしまうかのような哀しい気持ちだった。

「やはり緋美子の身体には、何かが宿っているのだろうか」

 正樹が静かにそこにゆっくりと唇を寄せていく……。
 それだけではなく、彼も夫のように三つの黒子を指先でひとつひとつ確かめ、舌で味わい口先で吸っていく。
 抵抗する術のない緋美子はただ、涙を流し、なにもかもこの男に与えなくてはいけないのだと観念しそうになった……。
 拓真との大事な秘密さえも奪われた脱力感は計り知れない。その略奪は、この後も緋美子には逃げる術がないことを証明するかのような行為だった。

 そして絶望に打ちひしがれている緋美子に構わずに、正樹の手はついに乳房に辿り着き、ぴたりと五本の指がそのまま静かに吸い付いた。ここでも彼は決して五本の指で鷲づかみになどしない。数本だけの指先で必要なだけの力加減で、緋美子の乳房をやんわりとゆっくり締め上げてきた。
 柔らかい手つきと、優しい指の力加減。絞り込まれた乳房の頂きで尖ってしまった紅色の胸先を、正樹はそっと指先でつまんだ。

 泣きたくなってしまうほどの灼けるような感覚を突きつけられ、緋美子は『あ……』とくぐもる儚い声を漏らした。

「覚えているよ。あの時は本当にまだ可愛らしい少女の膨らみだった。それが……こんな艶っぽく膨らんで……」

 嬉しそうな彼の瞳。それは緋美子が良く知っている友人の兄の目だったので緋美子はふと違和感を覚えた。
 こんなになってしまったのは『友人の兄のせい』とは思っていない緋美子。正樹であって正樹でない何かに襲われているという……そして自分も緋美子であって緋美子でないという『言い訳』のようなものが存在していた。
 でも。緋美子の女性としてふっくらと大きく実った乳房に触れて、どこか愛おしそうに見つめている優しい眼差し。先ほどまで緋美子を怯えさせるばかりの、獰猛な獣のような恐ろしい目つきだった男の顔ばかり見せつけられていた緋美子は、かえって困惑させられた。

 彼の女性の柔肌をふんわりと愉しむ手つきは丁寧だった。
 緋美子のふっくらとしている乳房を、何度もやんわりと下から上へと押し上げ、つんとそそり立った紅色の胸先に唇だけで触れてくる。
 その触れたか触れないかのような、彼の息だけがふりかかる僅かな感触に緋美子はじれったさをかんじさせられた。
 先ほどは指先できゅっときつく摘み上げられたそこに甘い痺れを覚えさせておいて、今度はそれを感じさせながら感じさせないように愉しんでいるのだ。

 もしこれが本来の正樹が女性達に施してきた事ならば、なんて……意地悪なんだろうと緋美子は思った。
 そこは女が甘さを切望するいくつかの箇所のひとつ。時には夫にそこをうんと愛して欲しくて、あられもなく求めてしまう事もあるのに。それを分かっているかのように、正樹は彼の息遣いを感じさせるだけで、女を緋美子を焦らしているのだ。

 やがて待ち構えている緋美子の心を見透かしているかのように、正樹がやっと唇に小さな果実を含むようにチュッと吸ってくれた。
 それは先ほどよりもずっと甘美でじんわりと広がっていく痺れ……。
 一度吸ったそこを、正樹は何度か同じように角度を変えて丁寧に静かに吸い付いてくれる。だがそれが徐々に狂ったように激しくなっていく……。その変貌にも緋美子は掻き乱された。

「ふっ……う、はふ・・・っ、あっう!」

 抵抗の声か、興奮してしまった声か緋美子には分からなかった。 
 柔らかくいたわるような愛撫。そして時にはまた雄になってしまったかのような意地悪い荒っぽい行為。それが繰り返される。まるで二人の男に愛されているかのような錯覚に陥った。友人の兄である彼が『これぐらいは彼女にしてあげて少しは喜ばせてやらないと』という理知的な正樹が詫びているような優しい一面と、やはりここまでの狂気に走り本能に飲み込まれてしまった獰猛な男が交互に表面に現れて葛藤しているかのような愛撫だった。
 それがまた緋美子にとっては気が狂ってしまいそうなほど刺激的なものだった。

 しっかりとくくられてしまった手首に、ビニール製の細い白い紐が食い込む。
 彼の手が何処かを撫でる度に、彼の唇が何処かを弄ぶ度に、緋美子の身体は大きく波打つ。その反動が固定されている両手首へと集中する。二本縒りの紐で皮膚が擦れて赤く腫れても、構うことなく緋美子はその紐を解こうとした。──抵抗する為の動きではなかった。泣きたいほど灼ける感覚に身体が悦んでいる為。受けきれなかった身体が、有り余った快感の逃げ場を探すかのように暴れているのだ。そして、この手を自由にして彼に抱きつきたいのだ。

(そんなことしてはいけない)

 緋美子も正樹のように交互に出てくる二つの自分と戦っていた。
 まだ僅かに『緋美子本人』が残っている。
 だが、緋美子は脳の湖底に沈められてしまって、今はそこから微かに見える光に叫んでいるだけだ。

 口元も苦しかった。息が出来ないからではない。声を出したいのに出せないからだ。いや、出している。それはもう、あられもなく『あうあう』と大声で。でもくぐもった声しか聞こえない。それにガムテープの上から彼が時折、狂気に取り憑かれた男らしい卑猥な口づけを繰り返すのだけれど、それを直に触れられないこと感じられないこと、味わえないことに苛立ちを感じた。

 とってよ! この紐も、テープも!
 私にも触らせてよ。私にも舐めさせてよ!

 なんてことをこの身体は口走っているのだ!
 湖底にいる緋美子は、我が身体のはしたない叫びを聞き届け怒りに震えていた。
 こんな運命を焼き付けられた身体など、今すぐ放り捨てたくなった。
 魂だけなら、まだ夫の物だ。しかしそれも存在はしているのに、奥深くに沈められ封印されそうだった。
 身体と意志は既に『雌』になっている。

 緋美子が湖底で仰いでいる光も、徐々に薄らいでいく。
 身体だけが一人歩きを始めていく。
 そして正樹の緋美子をひたすら愛撫する行為も徐々に激化していく。

 緋美子の奥に突き立てられた長い指が、こぼれるばかりの白蜜をかきまわし、何かを引き寄せようと懸命に誘い出しているよう……。
 彼の獰猛な顔が緋美子の耳元でせせら笑っていた。

 ああ、ああ……。くぐもる声が徐々に儚く掠れ、益々甘み帯び、熱い吐息が塞がれた口の中でせめぎ合っていた。
 胸先を愛撫された時は、まだ何処かで『正樹』という男性に少しだけ人として女性として愛されているような気になったけれど。しかし今はもう……。『お前も早く俺と同じように狂って雌になってしまえ』と、正樹に、いや、見初められた雄に次なる交尾に備えて激しい求愛をされ『そちらの世界』へと誘われているようだった。
 そして緋美子の身体は徐々にそちらに傾き始めている。いや……堕ちようとしていた。湖底に降り注いでいた僅かな光が消えていき、緋美子は真っ暗な闇の中へと閉ざされてしまった。

 その瞬間だったと思う。
 身体も意識も、空と光の中へと水飛沫が弾けていくような高揚感と恍惚感。

 ── 随分と気持ちよさそうに。

 男の、満足そうな声が微かに聞こえ、緋美子は眠るようにして意識を失ってしまったようだった。
 正確に言うと、『緋美子』という理性が眠りについてしまったのだ。
 そこに現れたのはきっと。正樹という獰猛な獣が待っていた、緋美子という発情している雌、『生物』だったに違いない。

 彼が引き抜いた熱い指。甘い女の匂いがまとわりついたその指が緋美子の前に差し出される。
 男が女になにかを確かめるような顔をしている。そして緋美子は迷うことなく、自分の匂いがする彼の指へと唇を寄せる。口元が塞がれていなかったら、きっとすっぽりと彼の指を唇に含んで夢中で愛撫していた事だろう。虚ろな目になった女は、男の意のままに、自分の匂いがする男の指を愛撫したがるような仕草で頬ずりをした。それは服従を誓う儀式のようだった。

 男が勝ち誇ったように高らかに笑っている。
 彼はついに『お望みの雌体』を手中に収めたのだ。そんな男はすっかりその気になっている彼女の中へと、また迷うことなく突き進んでくる。

 二度目の交わり。

 今度の交わりは先ほどの物とは違った。
 男も女も、まるで息があったダンスでもするかのように、腰と腰を付き合わせて揺れ合う。
 懸命にひとつの何かを共に勝ち得るかのように必死に──。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 女は男に従順に従うだけだった。
 そして男は差し出されたものは全て食い尽くしていく。
 そんな行為の繰り返し──。

 本当に動物のようにして、女は四つん這いになり尻を高々と突き出して男に差し出した。
 男もそれが当たり前のように貰い受け、女の中へと果敢に挑み行為に耽る。
 女はシーツに頬を押しつけ、不自由にされている両手の戒めを引きちぎろうともがき、塞がれている口であっても構うことなく、くぐもった歓喜の喘ぎを繰り返す。そして男も、ぐっと歯を食いしばり力の限りにただひたすら女の身体の中に打ち込むだけの行為。
その光景は人としてみたならば、あまりにも汚らわしく狂った姿なのかもしれない。
 しかし生物としてはどうなのだろうか? 

 

ねえ、正樹さん。知っている? ライオンが交尾をする時は食べるのも寝るのも惜しんで、丸一週間ただひたすら愛し合うのよ。
ふうん。すごい精力だね。まるで今の俺達みたいに──。
誰かが『ラブタイム』と言っていたわ。
だったら俺達も、愛し合った事になるのかな。
なるのかしら。

 

 どうしてか。あの薔薇の家の庭で、薔薇に囲まれて、正樹を正面に笑い合いながらお茶を楽しんでいた。
 だけれど周りの緋色は、どこかかすれたセピア色。
 でも正樹は楽しそうで、緋美子も笑顔を満面に浮かべていた。

 そして二人は揃って空を見上げていた。
 そこは茜色の空。

 

俺達、ずうっとここにいさせられるのだろうか。いつになったら終わるのだろう。
誰かが来たら困るわ。どうやったら終われるの?

 

 二人は共に途方に暮れながら、仕方なく紅茶を飲み合う。

 

破滅だな。
ええ。そうね。
いいよ。緋美子ちゃんと一緒なら。
本当に?
一人じゃない。それだけでいいじゃないか。俺は嬉しい。
それもそうね。一人だったら寂しいわ。

 

 なにが寂しいのか。緋美子は漠然と振り返った。
 その途端にとてつもない焦燥に駆られた。

 

いえ、駄目だわ。私、帰らなくちゃ。
え? どこへ? 
どこへって……。

 

 二人は顔を見合わせる。
 互いに『どこへ』がうっすらと存在していることを意識し始めているのに、それが『どこか』分からないから、お互いに確かめ合うのだが。
 どこか食い違いを感じた瞬間。

 

戻ったら最悪だ。俺達にはもう未来はないよ。もう俺達は終わったんだよ。閉じこめられて二人きりなんだ。
それも、そうね?
帰ったら、君は苦しむよ。戻ることなんかない! ここにいれば、俺達だけは安全だ!

 

 なにが安全なのか。緋美子はそこだけはどうしてか正樹に同意する事が出来なかった。
 空になったティーカップ。いつまでも暮れない茜の空。そして薔薇の中。

 緋美子は立ち上がった。

 

 ──私、帰る。

 

 どこへ? ここは自分の家ではなかったのか。
 薔薇に囲まれている我が家ではなかったのか。
 だが緋美子はここではない何処かを切実に欲していることを自覚し始めていた。

 ついに緋美子は哀しそうに見つめるばかりの正樹を、いとも簡単に置いて薔薇の庭を飛び出していた。

 

 ──待ってくれ、緋美子!

 

 正樹が悲痛の叫びで、緋美子の背を追ってくる。
 彼の指先が緋美子の肩に触れた。それを感じながらも緋美子は懸命に走り抜け、家の白い門を飛び出していた。振り向くと、緋美子の肩を掴み損ねた正樹も、薔薇の庭の門を飛び出して……。

 そこでぎゅんっと何処かに引っ張られ、緋美子の目の前にいた麗しい友人の兄の姿も消えていた。

 

 ハッと気がつくと、月明かりを湛えている窓辺が見えた。
 真っ暗で静かで、そしてむわっとした熱気を感じた。

 紺色の夜空に煌々と輝く月がとても澄んで見える。
 意識もはっきりしていた。
 そして緋美子は目が覚めたように気が付く……。

『ま、正樹さん?』

 声に出してみたが、実際にははっきりと発音が出来ていなかった。
 そうだ。と、緋美子は口をガムテープで塞がれていたことを思い出した。
 自分の胸に重みを感じて、手を縛り付けられ寝そべったままの姿勢から自分の胸元へと視線を向けた。
 それを見て緋美子は息を呑んだ。
 そこには息も絶え絶えの正樹が、力尽きたようにして休んでいたのだ。それで驚いた訳じゃない。僅かに見える彼の目元。明らかに精を使い果たしたかのように、薄黒いくまが浮き上がっていたからだ。
 あの麗しい正樹の顔ではなかった。疲れ果てやつれ果てたその顔は、なにかに取り憑かれてしまったゾンビのようで流石の緋美子もぞっとさせられた。
 死者に近い顔だった。このままでは彼は『あちらに持って行かれる!』。緋美子の感がそれを察知していた。それはまるで、精根尽き果てるまで生殖の業に精一杯勤しんで果てて死んでいく魚のよう……。厭な予感が緋美子を煽り立てた。

『しっかりして。正樹さん!』

 それでも尚、緋美子の両乳房の間に頬を埋めて、まだ女体になにかをしようとしているその疲れた手。彼はそこで休んでいるだけで、まだまだ『仕事』と『使命』を果たしていないかのような不満そうな顔をしているのだ。
 緋美子の肌はどこもべたついていたし、下腹部には冷たさを感じた。つまりそれだけ肌も彼のベッドのシーツも湿らせてしまったのだろう。それが自分だけのものでないことを、そこらに漂う『たまに嗅ぐ匂い』で悟った。それだけ正樹に注ぎ込まれていたのだろうか。腿の間に特に不快感を感じた。
 胸の先は痛いし、あちこちも噛まれたのか吸われたのか、ずきんと軽い疼きを感じた。手首にも擦れた痛みがある。それだけ自分も暴れたのだろうか? ひりひりとした。肩の下まで伸ばしていた黒髪も、じっとりとし、所々、変にかさかさに乾いている。いったい何が付着したのかと思うと、おぞましいものを感じてしまった。

 不思議な時間を過ごしていたという表現では収まらないほど、理性を奪われて、本能で突き進んでいたらしい。
 それも『相棒』である正樹に散々に良いように許しまくって与えまくっていたようだった。

『これをほどいて! 口も自由にして!!』

 今度は緋美子として正気だった。

 早く家に帰して欲しい! こんなに暗くなって、きっと兄と義姉は帰ってこない緋美子を不思議に思って心配しているだろう。ケーキを買ってくると約束した姪の凛々子も待ちくたびれているだろう。そして──最愛の息子の一馬が、きっと……泣いている。父親に似て天真爛漫でいつでも元気いっぱいのあの子が、小さないたいけな身体を丸めてしょんぼりしている姿が浮かんで、緋美子はここから直ぐに駆け出したい気持ちになった。

 そして夫の、明るい笑顔。
 ──『ただいま! 帰ったぞ、ミコ!』
 彼の笑顔を迎えたい。そして彼に、あの暖かくて優しくて柔らかくて、でも広くて大きくて逞しい、あの清らかな胸にめいっぱい抱きしめられたい!

 このように汚れても、緋美子の心は一直線に『我が家』を切望していた。

『正樹さん、正樹さん!!』

 乳房の間で休んでいる彼に訴えようと、緋美子は正樹を裸体に乗せたまま身体を揺すった。

 

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 今宵は、妙に月の光が冴え冴えとしていると、早紀はそう感じていた。

 暗い日本海の海沿いを、婚約者である英治の車が走っている。
 前から訪れてみたかった下関にあるリゾートホテルへと、この婚約者と足を運んだのだが。どうも釈然としない気持ちが心の奥で渦巻いていて晴れる事がなかった。

『親父達には内緒にしておくから、二人で泊まりがけの旅行でも行って来いよ』

 近頃、疎遠になっていた実兄の正樹が、急に……。父親の留守を嗅ぎつけてきて、留守番をいいつけられていた早紀にそう言ったのだ。
 どうしたことか、少し前から早紀が『行ってみたい』と常々口にしていた下関の豊北町にあるリゾートホテルの予約もしてくれていたのだ。

『お前、英治君とまだなんだろう。婚前旅行ぐらい今は普通だろ。確かめてみたらどうだ?』

 なんてことを勧める兄かと思った。
 だけれど、それは早紀が密かに心配していた事でもあった。

 なにせ隣でハンドルを握っている生真面目なこの男性は、本当に律儀で婚約をしても早紀に少しも触れてくれなかったのだ。
 大人で優しくて頼もしくて、眼鏡を外せば、これが割と素敵な顔をしていることに気が付いてしまったのだ。というより、顔はもうどうでもよいかも?
 とにかくエスコートが完璧だった。スマートで、そして礼儀正しい。ただ、やはり真面目すぎるのがどうも……ひっかかっていたのだ。

 結婚してから性的に合わなかったらどうしよう?
 そんなこと女の自分から言えるはずもなく、誰にも相談する事も出来ず。いや、一人だけ相談できる女性がいるが、彼女は今、実父を亡くしたばかりで、とてもじゃないがこんな相談は出来なかったのだ。

 そうして日々が過ぎていく中。誰も知らない早紀のマリッジブルーが始まってしまったのだ。
 それを察していたかのような兄からの提案。

『俺が留守番しているから、行ってこい』

 その言葉に乗ってしまったのだ。

 ただ、家に寄りつかなくなった兄が、不仲になった父が不在とはいえ、あの家で一晩過ごしてくれる気になったというのがどうも……。そこが『釈然』としなかった。

 ホテルは日本海と瀬戸内海がちょうどぶつかる砂浜にあるという、ここ近辺では有名なホテルだった。
 ホテルの庭のようになっている白いプライベートビーチには、白いチャペルもある。式場は既に決まっているが、そこも素敵だったら二人だけの式を挙げてもいいわねなんて思っていた早紀は密かに下見も兼ねていたのだ。だから到着した時は、いつもにこやかな婚約者の英治をひっぱって楽しくはしゃいでいた。

 夜になって食事が終わり、さあ……いよいよ?
 勿論、英治もそのつもりで来ていたのだろう。彼も無口になってどこか緊張しているようだった。
 互いにシャワーを浴びて静かに迎えた夜。

 早紀は幸せを感じる事が出来た。
 これで彼と心おきなく結婚が出来ると、ふと泣いてしまったほどだ。それを見て、英治が『どこか嫌だった?』なんて、まるで処女を扱うように優しくしてくれた。本当はそうではないことぐらい、英治だって分かってくれているのに……。
 彼と肌と肌を合わせてこの上ない優しい夜を互いに抱きしめ合い愛し合った。

 その睦み合いの後、早紀は気になって自宅に電話で連絡をしてみたのだ。

 だが、兄が出ない。

 一度だけでなく時間をおいて、何度か。
 でも、出ない。

「帰ろう」

 きっぱりとした判断を迷うことなく下したのは英治だった。
 彼は裸になっていた肌に直ぐさま白いシャツを羽織って、帰り支度を始めたのだ。

「あのしっかり者のお兄さんが、こんな夜中に留守を放棄しているというのがおかしいと思わないか?」
「そうなのよね。あの兄さんは責任は果たす人だもの……」

 だから親の言いつけを破って、兄を頼って、どこか釈然としなくても彼との愛の旅を選んでしまったのだ。

「また一緒にここに泊まりに来よう」

 夫となる男性に優しく口づけをされ、早紀も帰る決意をした。
 夜中だったが二人は山口県を飛び出し、日本海をひたすら走る。時々目についた公衆電話で連絡をするのだが、やはり兄は出なかった。

 おかしい。本当に奇妙だった。
 そして早紀に胸騒ぎが……。

 夜中。燦々と降り注ぐ月明かりの中、早紀は自宅がある高台に辿り着いた。
 その時、家の手前にある緋美子の家の前に差し掛かったが、どうしたことか、夜中だというのに煌々と灯りがついていたのだ。

『時々ね。タクが留守だと怖くてね。一晩中つけている事もあるのよ』

 いつか彼女がそういっていたことを頭に掠め、電気をつけたまま、息子の一馬ちゃんと二人で眠っている事だろうと……。

 早紀も自宅に辿り着いたが、その実家を見て、やはり奇妙な空気を感じ取った。

「俺、ここで待っているよ。お兄さんを確かめておいで。何かがあったら直ぐに呼ぶんだよ」
「分かったわ」

 車の運転席から、英治がそっと見送る中、早紀は家の門を開け、バッグから玄関の鍵を手にした。
 鍵穴に差し込み、そっと鍵を回した。ドアノブを引くと、どうしたことか逆に鍵がかかってしまったのだ。
 やはり──! これはおかしい! あの兄が戸締まりもせずに眠るだろうか!?
 早まる胸の鼓動を堪えながら、早紀はもう一度鍵を開けて玄関のドアを開けた。

 そして息を呑んだ。

 そこには割れた茶飲みの破片が散らばり、女物のパンプスが左右バラバラに廊下に転がっていた。

「に、兄さん?」

 早紀に厭な予感が走る。
 すると二階から、女性のすすり泣く声が聞こえたのだ。

 

 

 

Update/2008.5.21
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