-- 緋花の家 -- 
 
* どの花にも毒はある *

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10.花の生業

 

 それは、夫以外の男と交わってしまった緋美子の言い訳か。
 ――獣の儀式。
 それがやっと終わったと確信していた。

 

 だけれど自分の身体の上には、まだ生殖の使命を諦めていない雄がいる。
 元の分別ある『男性』に戻って欲しいと、緋美子は身体を揺すりつづける。だが自分より体格の良い男性が力を抜いて身体の上に乗られているのはかなりの重さで、ほんの僅かしか揺らせなかった。
 それでも正樹の指先は、緋美子の乳房をゆっくりと揉みほぐそうとすることをやめない。

 もういい加減に目を覚まして! と、緋美子は苛立った。『雌』である緋美子はもう正気に戻っている。取り返しが付かないことになったのは重々承知の上で、正気に戻っている。だから、これ以上はもう……!
 だが、正樹がこの時なにかを力無く呟いた。

「やわらかくて、うんと優しい。緋美子ちゃん」

 この時ふっとした違和感が緋美子に湧き上がった。
 『緋美子ちゃん』。彼がいつものように妹の友人としての親しみを込めて呼んでくれていたあの声。彼も正気に戻っているのかと思ったのだ。

『正樹さん、正樹さん! もう終わりにしましょうよ!!』

 たが塞がれている口では言いたい事が言えず、ただくぐもった声が響いただけだった。
 するとどうしたことか……。胸の辺りで熱い濡れた感触……。緋美子は動くのをやめ、また胸元へと視線を落とした。

 正樹が、泣いていた。

「覚えていない。こんなに綺麗な乳房に触れて愛していたはずなのに、覚えていないんだ。緋美子ちゃん」

 え?

「いや。最初のちょっと覚えている。でも……後は覚えていない」

 ……私もよ。

 うっすらと薔薇の家で誰かと向かい合ってお茶を飲んでいた光景が緋美子の脳裏に浮かんだのだが……。はっきりと思い出せなかった。
 だけれど、それは眠っている時に見る夜の夢のように、緋美子はそんな夢を見て意識を閉じこめられていたのだと感じていた。
 それを思うと、その『夢の内容』がはっきりと思い出せないのに、その夢でとても良い事があったような気持ちになっていた。だからなのか、意味もなくとても切なくて哀しい気持ちにさせられ、緋美子も涙が滲んできた。

「随分と酷い事を俺は……君に……」

 緋美子の裸体を見渡せば、とんでもない有様になっているのだろう。
 だけれど緋美子はどうしてか怒る気にもなれなかった。……夫がある身を、奪われたのに。惹かれている魅惑の身体を求めないようにと頑なに抑えてきたのに、いきなり引きずり込まれ拉致されたようなもの。なのに、悔しい涙というよりも、どうしようもない虚しい涙しか感じられなかった。

 泣かないで、正樹さん。

「死にたい」

 彼のそんな唐突な一言に、緋美子の胸が凍った。
 それだけ切実で切羽詰まった声だった。しかも、誰もが頼りがいあるお兄さんで先輩と思っていた正樹の弱々しい涙に混じった声。

「俺にはもう、なにも残っていない……。欲しい物もこうして手に入れたつもりでも、それがなんだと言うんだ? こんなに君を傷つけてまで俺は何を得たと言うんだ?」

 緋美子の乳房の間で、正樹が泣き崩れた。
 緋美子も涙が蕩々と流れてきた。どうしてこのような忌まわしい体質を持ってしまったのか。またはあまりにも強すぎる縁を持った男性が側にいた事か。ついにこんなことになってしまって……。

 この時、ふと思った。
 もし、この人と結婚していたら。毎夜、このような狂気の夜を誰に憚ることなく過ごしていたのだろうか?
 そして二人はどこまでも抱き合って、やがて……いつか正樹が言っていたように愛欲と肉欲に溺れて死んでいったのかもしれない。
 もしかすると……。その方が誰にも迷惑をかけずに終われた縁だったのかもしれない。
 だが、緋美子の目の前に、緋美子の毒を浄化してくれる清らかな男性が現れて、彼がとても深く緋美子を愛してくれた。そして緋美子はとても幸せだった。
 それが……『間違いの縁だった』とでも言うのだろうか? いや──と、緋美子は頭を振る。受け入れざる得ない狂気の縁であるこちらをなんとかして回避するべきだったのだ『人として生きてきたいのなら』。こんなことになっても緋美子は断言する。自分が選ぶ縁は、夫拓真との夏の真っ白な出会いだ。どんなに運命付けられていても、この『赤い運命』から逃れられない生まれでも。緋美子は死ぬまで、『白い出会い』を手放すつもりはない。

 だから、きっと。甘い毒を味わい抜け出せずにいた狂気の一時から、こうして帰ってこられたのだ。

 そう思うと、涙がどうしようもなく溢れ、止まらない。
 すすり泣く緋美子を、正樹が申し訳なさそうな情けない顔でひたすら見つめている。それも悲しい……。
 あの素敵なお兄さんが、そんな……打ちひしがれた顔。誰にすがる事も出来ずに、一番弱い相手を目の前にして途方に暮れている。どこか許しを懇願するばかりの、プライドを失った顔。

「緋美子ちゃん……。許してくれ」

 緋美子は首を振った。
 そして、悲痛な面もちの正樹がふっと手を伸ばし、緋美子を縛り付けている手首に触れてきた。
 ひりひりして赤く腫れているすり切れた手首を労るように、正樹の指先が優しくそこをさすってくれた。

「信じてくれるだろうか? あの夕暮れから俺の身体が君を欲していたのは浅ましい本能がそうさせてたのだろうけれど──」

 そこで正樹が黙ってしまった。
 どうしてか。緋美子の胸が訳もなくざわついた。
 それは何処か甘い……感覚。そして緋美子はそれを否定したくなった。

「いや。言わない方がいいな……。きっとこうなったからこそ。大人の女性になっていく緋美子ちゃんに……」

 半分だけほのめかして、正樹は言葉を止めてしまう。
 そして緋美子も期待半分、そして、知りたくない思い半分。宙ぶらりんにされながらも、そこまでで良いとそっと目を閉じる。

 そうよ。きっと貴方の言うとおりだわ。
 貴方がもし、『正樹』という素敵なお兄さんとして私の事を気にしてくれたというなら……。私の身体を欲していたからなのだろう。そのきっかけがあったから、『鳴海の妻』となった女性をずっと眺める事が出来たのだろう、気にする事が出来たのだろう。ただそれで情が湧いただけ……。
 そうでなければ、貴方はきっと、貴方に相応しい素敵な女性に夢中になって、私のような年下の目立たない地味な女は、ただ可愛い妹と仲の良い友人で終わっていたはずなのだ。
 ただそれならば。素敵なお兄さんとして、笑い合っていたと思う……。

 私達は、一から十まで──。あの夕暮れに出会った突発的な『忌まわしい縁』で結ばれているだけなのだ。

 だけれど、緋美子は思った。
 このように彼に無惨に身体を奪われ尽くされた一夜だったかもしれない。でももし……正樹と心を通わせたというならば、この一時なのだろうと。

 彼が哀しそうに泣きながら、緋美子の赤く腫れた紐の痕を撫でてくれる。
 たったそれだけの行為が、正樹の最大の愛情のような気がしていた。

 もし、今、両手が自由であるなら、緋美子は自然な思いで正樹を抱きしめていたかもしれない。
 だが、このような想いも『情』でしかなく。そしてその一欠片の情こそが、緋美子の『罪』なのか。
 真夜中の月。その仄かな明かりの中、二人は避けられなかった情事に涙を共に流す。

 二人の情はただ悲しみと哀れみ。

 荒れ狂う獣の生業の感触を身体のあちこちに感じながらも、二人は今、悲しみを分け合う。
 『運命』だなんて、簡単な言葉では絶対に片づける物か。緋美子はそう強く思った。『運命』と呼んだその時点で、甘えている、そして頼っている、逃げている。
 本当の『運命』だったのなら、分かっていたはず。それが如何に『破滅』を意味するか。避ける術を徹底するべきだった。それを乗り越えてこそ勝った時こそ『運命』だったのではないか。

「終わりにしよう」

 目的は達成したのか。
 正樹がゆらりと起きあがり、緋美子の口元に指を伸ばす。そこに貼ったガムテープを剥がしてくれるようだ。
 だが、正樹の指先が緋美子の頬に触れた時。二人は同時にハッと目を合わせ、共に青ざめた。

 階段から人の気配がする!

「兄さん?」

 緋美子は驚愕した。この夜中に、早紀の声。
 目線で正樹に訴える。『早紀は旅行に行かせたのではないか』と。だが正樹も動揺した眼差し、青ざめた顔。どうやら、企みの主である彼にも予想も出来ない状況になっているようだ。
 今、緋美子からはどうにも逃げることが出来ないこの状況を目にされたら――。緋美子は目をつむった。『破滅』だ。この状況は誤魔化しようがない! どんなに早紀が親友でも、絶対に信じてもらえない、嫌悪されるに違いない!
 もし正樹が正気でなければ、どんなにしてでも早紀に助け出して欲しいところだったが、今は違う。正樹は正気に戻っているし、緋美子を解放しようとしていたし、なによりも……二人は最後に情をかわしてしまった。緋美子の心のどこかで、正樹も共に逃がしたい気持ちが生じている。
 罪は消えない。事実は消えない。でも、秘め事で済むならば。そんな自分勝手な思いと分かっていても。――今はまだ! 誰にも知られたくない。こんな情事が終わったすぐ後の有様など!

 だが無情にもドアが開いてしまう。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「にい……」

 容赦なく早紀が現れ、彼女の表情が一瞬固まった。
 そして息づかいがゆっくりと引いていく……。そして彼女も見る見る間に青くなる。
 それと同時に、緋美子を解放しようとしていた正樹の目が、どうしたことかまた獰猛に光ったのだ。当然、緋美子はまた悪夢に引き戻されると思い、一気に震えあがった。
 その通りに、正樹は妹の目撃にかまわずに、緋美子に襲いかかってくる。それこそ、また淫獣の如く飛びかかり緋美子の身体に吸い付いてきたのだ。
 緋美子は首を懸命に振って抵抗した。もう自分の身体を鈍らせていた薬の効果も切れている。だから今度は緋美子として精一杯の抵抗。手は拘束されているが、足は自由だ。それで緋美子は思いっきり正樹を蹴ってみようと試みたが、男の力には敵わない。やはりいとも簡単に正樹に押さえ込まれてしまった。それこそ、やっと緋美子は男に襲われた女そのもの。今度こそ、パニック状態に陥ったと言っても良いほどに暴れた。

 そんなベッドの上の異常な光景。
 それを茫然と見ていただけの早紀が、やっと甲高い悲鳴を上げた。

「だ、誰なの! 兄さん、なにをしているの!」

 そこで現実を否定するかの如く、背を向けて出て行くのかと思ったら、彼女は果敢に兄の犯行現場へと突進してきてくれた。
 それもものすごい形相で、裸の兄の肩を掴む。

「やめて! やめて!! 女の人が嫌がっているじゃない!! 兄さん、兄さん!!」

 早紀もパニックに陥っているようだった。
 彼女も無我夢中、ものすごい顔で兄を緋美子から引き離そうとしている。

「こんなことをする為に、私を旅行に行かせたの!! どういうことよ!!」

 彼女も訳が分からないことだろう。
 兄の正樹が……。品行方正で理知的で頼りがいある兄と信じていたのに、彼が女を奪う為に『我が家』を占領しようと、妹を旅行に行かせたこと。
 なによりも、彼女は相手の女性が誰であるか今は判らない様子だった。それほどに緋美子が乱れ荒れていて見分けが付かない有様になっているのだろう。
 もし、それが緋美子だと判ったなら? それに何故? 正樹は緋美子と逃げるような行動を選択しなかったのか。再び、獣になって緋美子に襲いかかるだなんて! 当然、誤魔化しなど既に効かない状況だが、それでも、こんな時は言い訳のひとつやふたつ、人ならば逃げたくなるだろうに?? 何故? だが。やがて緋美子はそれを知る。

「邪魔するな、早紀! やっと彼女を手に入れたんだ。待っていたんだ」

 性懲りもなく女体に襲いかかる兄と、それを半狂乱で止める妹。
 だがやはり兄の男の力には敵わなかったのか、ついに早紀はベッドの外へと突き飛ばされてしまう。
 その妹に、兄が恐ろしい笑みを湛えて叫んだ。

「目論見通り、彼女が来た。だから、俺が彼女に薬を飲ませて、自由を奪って」

 緋美子は気が付いた。
 先ほどは『終わりにしよう』と、いつもの凛々しく毅然とした正樹の顔で緋美子を解放してくれようとしたのに、またこの仕打ち。そして悪態のまま逃げようとせず、破滅へ向かっていく彼の姿。

(……全部、自分のせいにする気なんだわ)

 緋美子はなにも悪くない。
 彼女は満中陰の挨拶に来ただけ。そこで手ぐすね引いて待っていた男が薬を混ぜ、自由を奪い、一方的に彼女を貶めた。
 緋美子に非はない。すべては俺の凶行。

 確かに、正樹が先手を打ったからこうなったのだけれど。
 だが、一部始終の中、緋美子がすべて奪われたかというとそうではない。
 それは正樹と緋美子だけが知っている『引き合い』で起きてしまったこと。そして緋美子は正気でなくなっていたとはいえ、正樹と合致した行為を受け入れていたのだ。
 あの夕暮れの、薔薇木立の影で睦み合ってから分かっていたこと。二人は肉体的に引き合う縁。だからそれを阻止しなくてはいけない。そんな連帯感を持って互いに阻止してきたのだ。だが雄には耐え難い試練だったのだろう。ついに正樹は『本能』に食われてしまったのだ。
 なのに。『理性』である彼は、それを否定しない。そして逃げない。そして覚悟している。

「俺はどうしても彼女を手に入れたかった。抱きたかった。だから、彼女が四十九日の挨拶に来る日を待っていたんだ!」

 そこで床にうちひしがれている早紀がハッとした顔を上げ、緋美子を見つめた。

「……四十九日? 薬を……」

 彼女の目が、また瞬時に驚きの色に変わる。
 そして早紀はへたり込んだまま、後ずさっていった。

「ひ、ひみこ……ちゃん?」

 その声に、緋美子はさっと顔を背ける。
 兄がめちゃくちゃにしている女性が誰かやっと判った顔。そして最悪の、信じがたいその女性の正体。
 緋美子はぎゅっと目を閉じる。なにもかもが終わったという、消えていなくなりたい、死んでしまいたい気持ちになった。
 そんな絶望の深みへ落ちた緋美子にかまわずに、正樹はまだ緋美子に取り付く。

「お前は知らなかっただろうけれど、俺はずっと彼女を好きだったんだ。なのに、鳴海がいつの間にか彼女をさらって……。あっという間に子供を産ませ、結婚をしてしまった」

 そして正樹は緋美子の唇をテープの上から舐めながら叫んだ。

「ずっと我慢していたんだ。もう限界だったんだ。だから、彼女をどうやって手に入れようかと。あいつ、今、神戸に行っているし、絶好の――」

 もう抵抗する気も起きない緋美子は、そのまま正樹に身体を任せてしまっていた。
 そして早紀が大声で泣き崩れる声。

 早紀ちゃん。もう、いいのよ。
 こんな汚い私など、打ち捨てて。
 だから、ここからすぐに出て行って良いのよ。

 早紀の泣き声を耳にしながら、正樹に身体を弄ばれ……。いや、正樹の手が止まっている。身体はぴったりと肌を密着させているが、凶行は終わっていた。
 そして目を開けた緋美子は見た。正樹が泣き叫ぶ妹に申し訳なさそうに悔いている顔を、そっと覗かせていたのだ。
 だから緋美子は確信した。彼はなにもかも捨てる覚悟を既に決めている。きっと……緋美子を手の中に貶めようと決意した時から。彼は破滅を決意していたのだと。
 だけれど、緋美子だけはなんとか逃れられるように少しだけ。だから緋美子は『無抵抗で襲われた』。その形を残しておこうと、そして目撃された妹にもそう思いこませようと。すべて、正気に戻っても『狂った男』を貫き通す為の演技すらも……。

「緋美子、君はなにも悪くない」

 彼の目が、黒い目が緋美子を慈しむように見つめた。
 そこにはもう、獣の輝きはない。
 彼の、全てを終えた、苦々しい達成感を思わせる眼差し。

 形や経過はどうであれ。正樹という男が、緋美子に残してくれたほんのちょっとの想いだったような気がした。
 早紀が泣き叫ぶ中、正樹は淡々と緋美子の手首を縛った紐を外し、口元のテープも剥がしてくれる。最後にはそっと、毛布で裸体を包んでくれた。

 この後、早紀の泣き声を聞きつけてきた英治にも目撃されてしまう。
 英治はそのまま背を向け、部屋には入ってこなかったが立ちつくしていた。

「あとはどうにでもしてくれ」

 それはまるで死を覚悟しているかのような、正樹の顔。
 でも緋美子には見えていた。彼はまだ死なない。きっと死ねないのだ。

 そして緋美子は既に感じていた。
 下腹の奥が熱くうごめいているのを。
 それはまさに、生のエネルギー。その熱さを既に宿していると。

 雄の目的は達成された。
 あとは雌が残すだけだ。
 そんな営みの一夜だったのだから。

 私たちは、やはり、ただの生物なのだ。
 それならば、緋美子に残された生業は『命』。

 

 

 

Update/2008.7.14
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