-- 緋花の家 -- 
 
* どの花にも毒はある *

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 ※【警告】※
当作品は、[性R18][反社会的R]指定を設けている作品です。 
特に『倫理』とは多少ずれた展開がある為、苦手な方は閲覧にご注意下さい。

 

11.女獣として生きる

 

 今週、ついに夫が帰ってくる。
 緋美子は冬の庭を眺める。

 あれからどれぐらい経ったのだろうか。

 

「ママ、読んで」

 ソファーでぼんやりしていると、昼寝から起きた息子が緋美子の膝に絵本を持ってきた。

「いいわよ」

 緋美子は笑顔で息子を膝に抱き上げて彼の手元で絵本を開いた。
 そしていつも通りに読み聞かせる。
 大好きなものは何度でも持ってくる。それを何度でも、変わらずに、緋美子は一馬に聞かせる。

「つぎ、もってくるね!」

 隣の部屋にある自分専用の本棚へと息子が走っていく。
 息子との日々は変わらない。いや、決して変えてはいけないと、緋美子は努めている。

 そして不思議なほどに、緋美子は落ち着いていた。
 ただひとつだけ、どうしても心が落ち着かなくなることがある。
 それはやはり……夫の帰りと『その時』がくること。
 緋美子のインスピレーションが言う。お前は既に生命を宿している。その為の営みだったのだと。
 ただの『レイプ』とは訳が違う。だが、それを分かっているのは、緋美子と正樹の当人だけ。周りの、それを知ってしまった人間に、特に緋美子が深く関わっている家族には、そんな言い訳は通用しない。

 それが証拠に、あれから毎日続くことが……。

 昼下がり。緋美子は今日もそろそろ来るのだろうかと、掛け時計を眺めた。
 今日は日曜日だ。もしかすると、彼も一緒に来るのではないか。そんな予感。
 案の定、息子が次の絵本を持ってきたところで、チャイムが鳴った。

『早紀です。今日は英治さんも一緒なの……。いいかしら?』

 玄関ドアの向こうからそんな力無い声。
 むしろ現場を目撃してしまった早紀の方が、憔悴している。
 だから、緋美子はドアを開けた。

 きちんと身なりを整えているスーツ姿の英治に守られるように、ワンピース姿の早紀が立っていた。

「今日はどう? 緋美子ちゃん」

 早紀は今にも泣きそうな顔で緋美子にほほえみかける。
 彼女の方がやつれている。あんなに大輪の黄色い薔薇のように華やかな彼女が……。それを見ると、緋美子の方が痛々しくなってしまう。

 

 あの後、早紀がすぐさま緋美子を長谷川の家から連れ出してくれた。
 正樹から救出された緋美子は、早紀と英治に連れ出され車に乗せられた。その後、そのままただぼんやりと、夜空に傾く砂丘の月を見上げていただけだった。
 後部座席に、早紀と二人。彼女は緋美子の肩を抱きながら、泣いていた。緋美子の顔も髪も汚れていたし、手には赤い筋が残っていた。そして嫌な匂い。そんな生々しいものを、兄が女性に容赦なく残した爪痕を目の当たりにして、でも妹は傷つけた女性を優しく包み込もうと必死だった。
 そんな早紀を見て、緋美子はそっと彼女に言った。『私は大丈夫。泣かないで、早紀ちゃん』。子供頃のように彼女を呼んだ。その途端、早紀の方が緋美子を抱きしめながら泣き崩れてしまった。
 英治と会うのは、父の葬儀以来だった。しかし今回は最悪の再会だった。だが眼鏡をかけている落ち着いた横顔が、彼の全てを物語っていた。彼はその頼もしさをにじませた姿で、ハンドルを握って海辺へと車を走らせてくれた。
 彼に『申し訳ありません』と謝ると、彼もどこか泣きそうな顔で首を振るだけ。後に早紀と滞りなく女の友情を維持出来たのは、この英治のお陰だったと緋美子は常に彼に感謝をすることになる。見ただけで、早紀が結婚への決意を固めたことが頷けるほどの、男性だった。早紀は見る目があると言うことだ。
 その英治がハンドルを回しながら言った。『とにかく、落ち着く場所を探そう』。誰にも知られずに、夜中にこっそりと入れる場所などたかが知れている。だが英治は迷わずにそこに車をつっこんだ。
 英治がとにかく辿り着いた場所は、海辺のモーテル。奇妙だが、三人そろって妖艶な部屋へととにかく入った。
 そこでやっと身体を綺麗に洗い流し、やっといつもの『緋美子』に戻れた。

『薔薇の家、明かりがついていたわ。きっと、マサルお兄さんが心配して様子を見にいって、そのまま帰ってこないことを心配しながら待っているんだと思う』

 早紀からその話を聞いて、やっと現実を感じ取ることが出来た緋美子は悲鳴を上げそうになった。
 そこでやっと緋美子は、自分がどんな窮地に陥っているかを痛感したのだ。

『ど、どうしましょう。一馬が、一馬が泣いているわ……! 私、今日、義姉さんに預けたまま出かけて、夕方には帰るからって……。市内の実家の方から出て行ったのよ』

 取り乱したせいか、今度は早紀が毅然とした顔で、緋美子に向かってきた。

『なんとしても誤魔化すのよ。私に任せて――!』
『早紀さん……?』

 そういうと、早紀は迷うことなく電話機へと向かった。
 そして薔薇の家へと電話をかけてくれたようだ。
 英治はとにかく、部屋の隅にあるソファーに座って、幼馴染みの二人の様子を見守っているだけだった。

 もうかなりの夜中だ。
 たとえ兄が出ても、早紀の言い訳が通用するのか?

『夜分遅くに申し訳ありません。大お兄様ですか? ええ、早紀です』

 緋美子の心臓がバクバクと大きく脈打つ。
 だが早紀の顔はとても落ち着いていた。それはある意味開き直ったかのような顔。

『本当にごめんなさい。いつもの私の我が儘で……。満中のご挨拶に来てくださった時に引き留めてしまいましたの。それで我が儘ついでに結婚の相談に乗って欲しいと、外に連れ出してお酒まで飲ませてしまって。』

 緋美子はハラハラした。あれでいて兄は父譲りなのか、長男の自覚なのか、若い割にはとても厳格だった。
 家庭ある女が子供を放って夜の街に飲みに行くなど言語道断。どんなに早紀が我が儘なお嬢様と知っていても、そればかりは許してくれまい。
 でも確かに夜中まで帰らない妹が、どうして何処にいるかで安心させるには『怒らせても、それしか理由はない』とも思えた。

『本当にごめんなさい! でも、緋美子ちゃん……。お父様が亡くなって、とっても元気がなかったみたいで、ずうっと泣いていました。拓真さんもずっと留守だし。まだ若いのに一人で満中陰のご挨拶を回って、彼女も疲れていたんだと思います。すぐに酔ってしまったから、いつも私が泊まるホテルに連れて来ちゃったんです。本当にごめんなさい』

 上手い嘘か否か。
 緋美子には分からないが、もうそれしかないと思えた。
 妥当だと思う。きっと緋美子自身が言い訳を考えてもそうなるだろう。
 早紀は電話の前で、散々頭を下げて兄に謝っている。緋美子は酔いつぶれて眠っているということにしてくれた。

 早紀がいてくれて、良かったのか。
 彼女も傷つけてしまったのには変わりないが……。
 早紀が大きなため息をつきながら、受話器を置いた。

『早紀さん。うちの兄、すごく怒っていたでしょ』
『ええ。怒鳴っていたわ』
『ご、ごめんなさい。貴女にそんなことさせて……』
『やめて! なにを言っているの? 貴女をここまでにしたのは、私の兄よ! 妹として心苦しくて……今にも死にそうだわ!!』

 毅然としていたテンションが切れてしまったのか、早紀はいつものように緋美子の胸の中に甘えるように泣きついてきた。
 緋美子も、早紀を抱きしめて泣いた。
 二人は暫く、抱き合って泣いた。

 正樹がどうなったかは三人には分からなかった。
 ただ落ちついた早紀が家に電話しても誰も出なかったと言う。

 緋美子も一抹の不安が漂った。 
 彼が死なないと言う確信はあったが、確信だけだ。彼は悲痛の顔で『死にたい』と言っていた。そして彼は全ての責任は自分にあるとばかりに『一方的に襲った』というレイプのリスクを自ら背負っていた。それは『破滅へのプレリュード』だったのではないだろうか?

 だが三人の心配を余所に、その後、正樹は一人暮らしをしている自宅にちゃんと戻って、なに食わぬ顔で仕事に出ていることが分かった。
 それを知って怒ったのは、緋美子ではなく英治。そして、妹の早紀だった。

 

 それから早紀は毎日、訪ねてくる。
 緋美子が生きているか、まだこの家にいるか、抜け殻のようになっていて息子の世話まで手が回っていないかどうか。
 だが、それらの全てを覆すかのように、緋美子は淡々と前と同じ日常を繰り返していた。
 それを早紀が不思議そうにしている。
 ただ、緋美子も自分で不思議には思っている。だけれど、心の中は急激に襲ってきた『運命』の大波に溺れまいと必死だった。
 これからどうするべきか。自分が、夫と、息子と、家族と、友人と、知り合いと。そして正樹と。そして……行為の後に必ずやってくる自然の摂理に。
 それをひたすら考えていた。それだけのことを、とにかく溺れないように把握するには数日を要した。

 早紀ともかなりの押し問答を繰り返した。
 彼女は結婚を控えている。それも彼女としてはもう愛してやまない男性との結婚が。
 なのに。兄が『犯罪』と等しい行為を親友に強いて、なおかつ、その現場を婚約者に見られてしまったのだ。
 このご時世。婚約破棄になってもおかしくない。だからとて、早紀は『なかったことにして欲しい』と訴えているのではないのだ。その逆だ。『緋美子ちゃん、これからどうするの? 兄を訴えるの?』――訴えるなら、妹の自分も覚悟するから、ちゃんと本心を、傷ついているのだと叫んで欲しいと毎日訴えてくるのだ。

 やがて、緋美子も、早紀との押し問答の中で決意を固めていた。
 それには彼女の婚約者にも言う必要がある。
 無駄でも。

 そして日曜日、緋美子が思った通りに、早紀は英治を連れてきた。
 英治と会うのは、あの時以来だった。

 

「どうぞ。英治さんと来てくれるのを待っていたのよ」

 そう言うと、二人は不思議そうな顔を見合わせた。

「お加減、いかがですか」

 まずは緋美子を労ってくれる英治の声。
 彼はとても紳士だ。緋美子は英治と接する度にそう思った。
 身体がとても優しく包まれるような、暖かさを感じる。
 拓真とは違う白さだった。背後が優しいアイボリーの。

「大丈夫ですよ。英治さんも巻き込んでしまい、私、心苦しく思っています。あの夜は、なにからなにまで私の家族に配慮してくださいまして、感謝しています」

 緋美子が礼をすると、英治は『とんでもない』と申し訳なさそうだった。
 あの夜の後、朝方、身なりを整えて薔薇の家に帰った緋美子は待っていた兄に散々叱られた。横っ面を叩かれたぐらいだ。
 兄がこれだけ怒るのも無理もない。両親に早くに先立たれ、兄妹だけになってしまったのだから。妻と娘がいても、兄にとってはたった一人の兄妹、妹だ。その妹が今までやったことのない無断外泊。しかも外泊と知らなかったのだから、その心配は緋美子の予想を遙かに超えていたに違いない。
 だが英治はそんな兄に向かい、送ってくれた早紀と共に『僕も羽目を外して早紀と緋美子さんを連れ回したんです』と、彼はそんな役をかってくれたのだ。
 自分と同年代の大人の男が言うこと、さらに彼が長谷川家の婿養子となる男性であることを知った兄は、そこでとにかく『二人に免じて、今回は許す』と、まだ怒りながらも収めてくれた。
 当然、その後も緋美子は延々と兄の説教を聞かされたのは言うまでもない。義姉の里佳子は青ざめた顔で待っていたが、緋美子が事故や事件に巻き込まれた訳ではないことを知って、無事ならそれでいいと泣いてくれた程だった。

 そんな日も、もうだいぶ前のよう。
 荒々しい一夜に遭遇した三人は、薔薇の家の玄関先で、しんみりと俯いてしまった。

「サキちゃんが、きた!」

 お客様が来て嬉しくて仕方がない息子一馬の声に、大人達は顔を上げる。
 近頃、早紀が毎日やってきて美味しいお菓子を置いていくので、それはもう彼女が来たら大興奮だった。

「カズちゃん、今日はサキちゃん、ゼリーを買ってきたの。食べてね」
「ありがとっ、サキちゃん」

 相変わらずの元気と無邪気さで、大人だけでは沈んでしまう空気を、一馬が一瞬だけぱっと明るくしてくれる。
 そんな時だけは、大人達も、素直に微笑むことが出来るのだ。

 いつものようにリビングでお茶を挟んで、ソファーで向かい合う。
 午後の紅茶を味わいながら、向かいで黙り込んでただ俯いている婚約者同士の二人に緋美子は切り出した。

「本当に、早紀さん心配しないで。お兄さんを訴えるようなことはいないわ」
「でも……! それでは緋美子ちゃんにも、なによりも、拓真さんが……」

 ここ数日、早紀が毎日訪ねてきているのは『兄の謝罪』の為だった。
 そして今後のこと。私たちの友情のこと。家族のこと。彼女の結婚のこと。正樹の今後を――。

 だが緋美子の主張は一点だけだ。

「私と正樹さんの問題なの。貴女は関係ないわ」

 これを毎日、口にしている。
 するとそこで英治が口を挟んだ。

「しかしながら、貴女は……。その、傷つけられたのですよ。容赦なく。貴女には訴える権利がある」

 そこで緋美子は英治を睨んでしまった。
 自分よりずっと大人の英治が少しばかり怯んだ。

「では、訴えても、貴方達はかまわないとおっしゃるのですか? このタイミングで?」

 緋美子がなにを言いたいか、そこはやはり大人なのか英治もすぐに察してくれたようだ。

「筋を通さねば、早紀との未来はありません。ただそれだけのことで、それは早紀も分かっているから、こうして毎日貴女のところへ……」
「早紀さんからの謝罪は必要ありません。ですから何度も言っておりますように、私と正樹さんの問題なんです。さらに今後のことも、私と夫である拓真の問題です。それに私が訴えを起こすと言うことは、長谷川家との絶縁を意味します。そう早紀さんとのお別れが……」

 現実的なこと。だから早紀が懸命になって謝罪に来ているのだ。
 緋美子ちゃんに嫌われたくない。緋美子ちゃんとサヨナラをしたくない。でも、兄さんがやったことを忘れろとも言えない。
 どうしようもない状況。そして早紀は居ても立ってもいられなくて、こうして毎日、緋美子のところにやってくる。

 それは緋美子が死んでしまうからと思っていたから。
 だから、緋美子は『どんなに苦しくても、一馬を置いては死ねない』と安心させ。
 緋美子が何処かへ行ってしまうのではないかと心配し。
 だから、緋美子は『夫が帰ってくるまで、逃げない』と毅然とした。

 さらに早紀と英治二人の間でも、散々話し合ったはずだ。

「緋美子さん。私はですね。早紀と貴女に、別れて欲しくないんです」
「私も、英治さんと早紀さんには結婚して欲しいと思っています」
「もちろんです。私は、もし貴女が正樹義兄さんを訴えて裁判を起こすと言っても、早紀とは別れませんよ。実家に反対されてもです。もう彼女を愛しているんです。それは早紀にも言いました。だからこそ、早紀と決めたのです。『世間からどんな仕打ちがあっても、二人で乗り越えよう』と。ですから、貴女が筋を通してもまったくかまわない」

 私たち『夫妻』は、既にその覚悟です。

 英治が言い切ったのを、早紀が隣でとても感動した顔で見上げていた。
 それを確かめ、緋美子も……こんな時だが嬉しく感じ、笑顔になっていた。

「そうですか。それをお聞きして安心しました」
「ですから、緋美子さん――」
「では、私が信頼する早紀さんの旦那様になる方と信じて、私も話したいことがあります」 

 英治が主張しようとする先を遮り、緋美子は彼を見つめる。
 『無駄』と分かっていても、もう決意をしている。だから、全て『素直に』話そうと思う。
 彼ならきっと……。緋美子はそう信じたいと願いながら、口を開いた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 まず、早紀を見つめる。
 数日、泣きはらしたのだろうか。彼女の目は赤くなり腫れてしまっていた。あんなに綺麗で明るい表情が見る影もない。
 緋美子は目を背けたくなったが、早紀をまっすぐに見る。泣かない緋美子の代わりに泣いてくれているような彼女の為に、緋美子は話す。

「早紀ちゃん。貴女は信じてくれたわよね。私が『見えてしまうこと』。今でも、信じてくれているわよね」

 一瞬、早紀は『どうして今、そのような話を』と言わんばかりに惚けた顔になった。その上、英治を見上げて少し困った顔。
 緋美子が言っていることを信じてはいるが、それを信じている自分を、英治は信じてくれるだろうかという顔だと緋美子には分かった。
 中学生の頃から真っ直ぐに緋美子という不思議な体質を持っている人間を信じてくれただけでも嬉しかったから、それは仕様がない反応だと思う。
 早紀が英治に緋美子の体質を説明するには負担がありすぎる、だから、緋美子から説明する。その為にも、今日、彼が来るのを緋美子は待っていたのだ。

 そして緋美子は英治に向かって毅然と言う。

「英治さん。私、霊感が強くて、よく見える人間なんです」

 当然、英治は驚いた顔。早紀の顔を見下ろして戸惑っている。無理もないから、緋美子から続ける。

「それだけじゃないんです。人の背後でいろいろと『色』が見えたり、生気とか精気とか、生きるエネルギーのようなものもたまに見えるんです。常時目にしているわけでなく、本当にふっと突然」
「そのような人がいることは良く耳にします。なので信じないわけではありませんが、目の前でお会いしたのは初めてです」

 彼の目が真摯に受け止めてくれているのは、緋美子にはちゃんと伝わってきた。
 なにもかもを真っ正面から信じると、出会ったばかりで言うのは嘘っぽい。だが、まったく否定できる事柄でもないと……。そうして彼は自分なりの言葉でちゃんと緋美子の目を見て言ってくれる。
 本当に誠実な男性だと緋美子はつい微笑んでしまう。このように突拍子のないことを言い出しても、彼の背後にある柔らかいアイボリーの光と波長が乱れることはなく、とても穏やかだった。

「受け止めてくださって有り難うございます。滅多に人には言いません。家族と、そこの早紀さんだけが理解し、知っていることです。ですので、旦那様になられる英治さんにも知っておいて欲しいと思いましたので」
「そうですか。有り難うございます。早紀が知る貴女が人にはなかなか言えない体質を、私を信じて告げてくださったのでね。今はまだ、実感ありませんが。これからの長いつきあいできっと私も実感していくことが増えることでしょう」

 本当に、なんて紳士なんだろうと、緋美子はちょっと早紀が羨ましくなるほど、英治の物腰と懐の広さに安心をしてしまった。

「早紀ちゃん、素敵な旦那様を捕まえたわね。英治さんなら間違いないわ。だって、背中の光が白色なの」
「本当に? やっぱり! いつか緋美子ちゃんに英治さんを見せて、こっそりと何色か聞いてみようと思ったの!」
「うわあ、君たち。怖いなあ。でも、合格みたいでホッとしたなあ」

 沈んでいたはずの三人が、ちょっと打ち解けたことで、ふと本題を忘れて笑い合ってしまった。

「そうですか。早紀がそう信じているなら、私もお返しに聞いてみて良いですか? 彼女は何色なのですか?」

 すると早紀がどっきりとした顔になる。
 緋美子はちょっと笑ってしまう。あんなに強気で自由奔放だった早紀は、大人の英治には本当に弱いようだった。

「見た目通りですよ。早紀さんは色が二つあって。そうですね……英治さんのような優しい白色をもっと明るくした黄色、時々、柔らかいピンク色も見せてくれます。つまり溌剌としている華やかな女性というわけです」
「イメージ通りではありませんか。人を見た時の雰囲気とオーラは深い関わりがあるのですね」
「そうです。だから私がこうしてお二人を見ても色合いの調和がとても良いので、末永く素敵なご夫妻になられると思います」

 早紀は頬を染め照れてしまい、英治はとても嬉しそうな顔になる。
 まるで鑑定をしてもらい、それも良い結果でこれから何の問題もなく結婚が出来ると安心し幸せをかみしめているかのようで。だが、そうはいかない『本題』がある。
 英治がその本題を連れ戻してきた。

「貴女が特異体質であるのは分かりました。では、それと今回のこととは……どのような関係があると?」

 また早紀の顔が青ざめてしまう。
 兄があのような悪さをしなければ、たった今、英治とは間違いない結婚が出来ると安心したように、幸せを噛みしめたままでいられるのにと……。
 だけれど、話は進めなくてはならない。緋美子も意を決して本題に突入する。

「早紀さん、知っていた? 貴方のお兄様も……正樹さんも霊感が強いと言うことを」

 早紀が驚いた顔を上げた。
 どうやら知らなかったようだ。
 緋美子もそうだろうと予想していた。あの正樹は、家族にもあまり自分がなにを考えているか言わない息子だと聞いていたから、いつから目覚めたかは知らないが、その特異体質を隠したままでいるのだと。そうでなければ、早紀が親友の緋美子と同じ体質だと真っ先に教えてくれていたはずだ。でも、早紀はまったく、そのような体質の知り合いは緋美子しかいないという様子しか見せていたなかった。

「知らないわ……。兄さんが?」

 早紀はとても不思議そうだったが、一時考え込むと何かに気が付いたようだった。

「そう言えば。ある時から兄さんは、無口になったし。それに部屋の中にもあまり入れてくれなくなって。時々、何処を見ているのか分からなかったり。様子が変わったことがあったわ。そういうことだったのかしら?」
「かもしれないわね。ついでに言うと、早紀さん、貴女にも少しばかりその体質があると思うの」
「え? 私、見たことなんてないわよ?」
「なくても。第六感が強いのよ。自分で、上手く物事を選択できる。そう思ったことはない? 自分にとって都合の良い方向へ自然と選択できるようになっていて、それで貴女は明るく生きてきたのだと私は思っていたわ」
「そう……かしら?」

 早紀は信じがたいようだったが、『運が良い』という一言にはどこか納得できているようだった。
 まさに彼女はそんな人生を歩んでいる。自由奔放にそつなく明るく生きているのは、そういうことなのだと実感しているに違いない。
 それで納得してもらった上で、緋美子は……常人には信じてもらえないだろう核心へと切り出す。

「つまり。すごいの。私達が近寄ったりするとね、異常な『引き合い』が起こるの」

 やっと早紀と英治がはっと何かに気が付いた顔になる。
 言いたいこと否定したいこと、問いたいこと、いっぺんに湧き起こったことだろう。
 だが緋美子は、彼等がそれをぶつけてくる前に続けた。

「初めて正樹さんに触れた時、私、十五歳だったわ。その時に、意志とは関係なく……目覚めてしまったの、その……性的なものに」

 また二人が驚いた顔。早紀はもう口を開けてなにも言い出せないほど驚いているようだった。
 だから、英治が代わりに問いただしてきた。

「つまり。その時に既に、貴女と正樹さんは?」
「いいえ。その時は『未遂』でした。私、あの時初めて正樹さんとお話ししたんです。正樹さんは既に大学生の大人でしたし、私はまだ身体も未発達の少女でした。互いに異性として惹かれ合ったプロセスが生まれるような接点はありませんでした。ですから、突然――」

 そこでやっと早紀が入ってきた。

「それっていつなの? 確かに兄さんと緋美子ちゃんが親しくしていることはあまりなかったと思うわ。挨拶程度――よね?」
「そうよ。貴女とはいつも一緒でも、正樹さんは年が離れすぎていて、ただのご近所のお兄さんぐらいだったもの」
「そう、兄さんには年が近いガールフレンドがいつもいたわ。なのに?」

 早紀の疑問。緋美子は正直に告げる。

「だから、本当に突発的だったの。正樹さんも知らなかったし、私も知らなかった」

 そして緋美子は窓辺の、薔薇が咲いていない冬の庭を見つめた。

「あまりにも衝撃的な『快感』が、私たちが如何に『性的に』、いえ『身体が上手く合っているか』を証明していたわ。つまり、セックスをするには絶好の、この上ない『最高の相手』だって……。処女でも分かった」

 曖昧な言い回しではなく、あからさまに『セックスをするには最高の相手』と緋美子が告げたせいか、目の前の二人が息を引いた様子が緋美子には分かった。
 二人が言葉を失ったようだから、緋美子は隙間を埋めるように繋げていく。

「でも、私の初めての男性は間違いなく『夫』なの。それは拓真に聞いてもらったら間違いないと彼は言うわ。本当に未遂だったの。正樹さんが言ったわ。『俺達は触れたらいけない。二度と近づかない』と。私たちの霊感は、お互いがとてつもなく強い縁を持っていたことを初めて触れたことによって知ったのだけれど、それは身体にとっては喜びであっても、人間の世界では『破滅』を意味することを、ちゃんと瞬時に悟っていたわ」
「だから? だから、貴女と兄さんは……私が間にいるのに、親しくなろうとしなかったのね?」
「そうよ。ワザと避け合っていたの。近づくと、彼は私をめちゃくちゃに手荒に抱きたくなるし、私もめちゃくちゃにされても良いから、あの男に全てを投げ出したい気持ちになるの。ずうっとね、高校生の時ももやもやしていたわ。そんなどろどろした気持ちから救い出してくれたのが、拓真との出会いだったの」

 緋美子は英治を見た。

「そう、英治さんと同じなの、夫は。真っ直ぐで白くて、懐が深くて。ちょっと慌て者だけれど、おおらかで。私のどろどろとした毎日を、とっても綺麗にしてくれたの」

 そして、迷わずに言う。

「緋美子という女は、夫の拓真を愛しています。私は、こちらの自分を貫きたかった……」

 目の前が涙で霞んだ……。
 なのに、自分は『運命』に負けたのだと。

「聞いて、早紀さん。私と貴女のお兄さんは、男と女でもないの。本当に生物そのもの。サバンナで生殖を営む獣と同じなのよ。私はそう思っているの。あの人が自分の遺伝の為に、私に強いものを感じたの。だからあの人は、『本能』で私を捕らえることに懸命になってしまったのよ」

 だがここで緋美子が案じていたことを、英治が真顔で呟いた。

「それを、私と早紀に信じて欲しいとおっしゃるのですか?」

 来た――と、思った緋美子の涙が止まる。
 理知的な大人なら、こんな『確証もない作り話』など容易く信じようとは思うまい。
 英治はそんな容赦ない厳しさを見せていた。だが、緋美子はこっくりと頷く。

「貴方達だからお話ししました。信じてくださらなくても結構です。ですが、私に言いたいことがあるかどうかと聞かれましたら、『霊的に引かれた、本能のパートナー』ということです」

 案の定、早紀は青ざめて震え始めていた。
 おそらく、今までにない『おぞましさ』を感じていると緋美子は予想する。
 緋美子の言い訳でもなんでも。緋美子が兄と『本能で抱き合った』ことを認めたからだろう。そこに夫拓真の存在は一欠片もない。信じていた親友が、そんな倫理を捨てた本性を隠し持っていたことを受け入れられないと言いたそうな顔。それは兄に対してもだろう。だから、彼女の代わりに英治が厳しく追求をする。

「その説を信じたとしましょう。それならば、サバンナの生物と同じ営みを『人となりを捨てて』行ったと言うならば、やがて貴女の身には大変なことが起きてしまいますよね?」
「はい。覚悟、しています」

 迷いない緋美子の返答に、今度は落ち着いていた英治も固まってしまった。
 やがて、彼もうつむき、拳を握って震えている。それは怒りのようだった。

「残念ながら、理解できません。貴女は夫以外の男性に襲われて傷ついた。妊娠する恐れを備えている。なのに、貴女はとても落ち着いていて、夫に申し訳ないという顔をひとつもしない! それどころか、訳の分からない言い訳を吐いて、なおかつ、『産むことを覚悟する』と言った! それは本当は、貴女が昔から正樹さんを好いていたから起きた密通を誤魔化しているとしか思えない!!」

 静かな男が怒る時は、烈火の如く。
 それでも彼の背後の白色は濁らない。初めて英治が息を荒くしていた。それでも緋美子は淡々としている。

 本来なら、もっと泣いているべきで、もっと怒りを露わにしているべきで、もっと嘆いているべきであって、落胆しているのであって、もっと正気を失っているのであって……。
 だが、緋美子の素直な気持ちの中で、どれも感じられないものだった。そしてそれは何故か緋美子はもう分かっていた。
 ただ淡々とした日常をいとも簡単に取り戻し、何事もなかったように過ごしている自分。それは緋美子自身にとっても意外な心境だったのだ。それはおそらく……。

「私の、本能的な強い縁を持つ引き合いだったという話を信じて頂けるならば……」

 荒立っている英治に恐れず、緋美子は告げる。

「私、たぶん妊娠していると思います。正樹さんが残したかった子供が。それを産まねばならぬので、どのようなことがあっても私は日々を乗り越えていかねばなりません。嘆いている暇はないんです。守らなくてはなりませんから」

 襲われて犯されたはずの女が、その男の子供を産む決意でいる。
 それが常人にはどれほど『異常』に見えることか。

 衝撃的、かつ、異常な緋美子の発言に、流石に理解を寄せてくれようとしていた二人は絶句していた。
 やがて、緋美子が恐れていた事態になる。英治が怒りを露わにした顔で立ち上がったのだ。

「貴女のように、夫に申し訳ない状況になっているというのに、他の男性との関係を正当化するような人間とは関わりたくありません。もちろん、『私の妻』とも関わって欲しくありません!」

 そう言うと、英治は早紀の腕をひっ掴むと、強引に彼女と一緒にリビングを出て行った。
 早紀はショックのせいか、緋美子にはもうなにも言わない。
 ただリビングを出て行く時、小さく『緋美子ちゃん』と呟いたのが聞こえただけ……。

 二人が玄関を出て行った音。
 緋美子は、リビングに一人取り残された。
 薔薇のない庭に、木枯らしの音。

「ママ? サキちゃんは?」

 キッチンのダイニングで、お気に入りのおもちゃを持たせてゼリーを食べるように遠ざけていた一馬が戻ってきた。

「ママ、ママ! ないているの?」

 息子に言われて、初めて涙を流していることを知る。

「パパ、おそいね。パパ、おそいね」

 最近、息子が頻繁に言う言葉。
 そして緋美子が寂しそうにしたり落ち込んだりしていると、一馬はそうしてママの為に拓真パパを呼ぼうとするのだが、パパがいないからそう言う。
 緋美子がいつもそう呟くから、いつの間にか息子が覚えてしまったのだ。

「うん……。パパ、遅いね」

 緋美子と違和感ある女が同居し始めているのを感じていた。
 緋美子は拓真の帰りを切望し、そして新しく住み始めた女は与えられた命を守ろうという決意に燃えている。

 この子は私の子。
 父親は種だけつけて、知らんぷり。
 そう、野生の生き物がそうであるように――。
 だから母親は必死になる。
 今、そんな心境がついて離れないだけ。

 ただ『人』として、これからどれだけのものを失うのか。
 だから、緋美子は泣いている。

 

 

 そのままの日々を、緋美子は過ごした。
 なるべく自分の心に波風立てないように努めているのだが、心は夫の帰りを待ちわびている。
 ついに、その日がやってきた。

 覚悟が出来ているとか、告白するとか、そんなことは一切決めていない。
 ただ夫の帰りを待っている。このような事態になっても、緋美子は拓真を待っている、求めている。

 そしてついに、玄関のチャイムが鳴った。
 ただひたすら待っていた緋美子は後に起きる悪いことを忘れ去り、笑顔になって玄関へと駆けた。

「先日は失礼いたしました。あの……もう一度、お話しさせて頂けますか?」
「えいじ……さん?」

 そこに現れたのは夫ではなく――。申し訳なさそうにたたずんでいる英治だった。

 

 

 

Update/2008.7.16
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