-- 緋花の家 -- 
 
* どの花にも毒はある *

TOP | BACK | NEXT  ||HOME||

16.さようなら、薔薇の家

 

 突然の決意表明。『東京へ行く』。

 誰もが驚いているのは、一番、この家を離れたくない緋美子から『東京へ行く』と言っているからなのだろう。
 だがすぐに反応してくれたのは、英治。

「そうだな。俺も家族は一緒にいるべきだと思う。そうではないのなら、拓真君が夢を諦めるか、緋美子さんが薔薇の家を手放すか――。それしかないからね」

 いつも誰よりも冷静に、現実的に話をまとめる英治らしい答え。

「駄目だ。緋美子がこの家を離れたら――。薔薇が死んでしまう! そんなの、死んだお義父さんに申し訳ないじゃないか」

 あくまでこの家に義理立てをしたい律儀な夫、拓真の気持ちも緋美子には嬉しい。

「タク、いいのよ。その気持ちだけで十分よ。考えましょう。この薔薇の家を業者に任すという方法も……」
「緋美子が咲かしているんだ。緋美子の顔と一緒なんだ」

 あくまでこの家は出るべきではないと言う拓真。
 だが緋美子にとっては、もう決意は揺るがない。

「私、鳴海の妻よ。もう正岡じゃない。カズとそしてお腹の子と……。ねえ、拓真。東京でもう一度やり直しましょう」

 そうだ、きっと――。今日、親子三人、いや『家族四人』で、坂の上から砂丘の浜辺を遠くに眺め、私達の街の匂いや私達の大切な季節を思い返したのは、この予感だったのかも知れない。緋美子にはそう思えた。
 この街に私達はしっかり染まっている。こうして家族四人でしっかりと同じ場所で。だから、これからもここを土台にして私達は『四人』一緒にいるべきなのだ。

「私は、貴方に思うままに進んでいって欲しい。私、東京でも薔薇の庭を作るわ」

 緋美子がそこまで言い切ると、また誰もが黙ってしまった。
 ただ英治が一人『そうだなあ、そうだなあ』と腕を組んで唸り始める。そして緋美子を支えるように抱きついていた早紀も――。

「それでいいの? 緋美子ちゃん。だって緋美子ちゃんはここから出て行ったことないでしょう――。東京はとても人が多くて、とても大きな街なのよ。空気だってそんなに良くない。敏感な緋美子ちゃんが毎日何かを目にしてストレスをためてしまうのではないかって、私、心配だわ」

 支えてくれていたはずの早紀が、逆に緋美子に寄りかかるように抱きついてきた。

「それに私。せっかく緋美子ちゃんと同じ奥さんになれたのに。一緒に毎日を過ごしているのに、離れてしまうなんて嫌」

 そんな早紀に優しく抱きしめられると、緋美子はその甘い匂いにも負けてしまいそうになる。
 それほど、早紀が側にいるのは緋美子にとっても心地よいことなのだ。そんな彼女と別れて暮らすだなんて、緋美子もふと不安になってしまう。
 でもそこで夫の顔を見れば、緋美子の心はまた奮い立つ。――タク、拓真。もうそんな苦しそうな顔をしないで。出会った時、結婚した時、ずっと見せてくれていたあの屈託のない笑顔を見せて――。緋美子はそんな思いに駆られる。夫が、明るい彼が苦しんでいる姿は、自分の胸も引き千切られるような痛さがある。

「今更なんだけれど――」

 急に英治が切り出す。

「拓真君に怒られたことがある話なんだけれど。どうせ業者に任すというなら、この家を俺と早紀に譲ってくれないかな」

 再び浮上した『売り』の話に、拓真が過剰に反応した。

「俺、怒りましたよね。この家は正岡の娘である緋美子が、お義父さんと丹誠込めて守ってきた家と庭なんですよ。それを彼女から奪うだなんて――」

 だが英治はいつもの落ち着きで『まあまあ、拓真君』と、今にも飛びついてきそうな拓真を手で制す。

「なにも『売って権利を手放してくれ』と言っているのではないよ。この家を『早紀に貸す』ということでどうかな」

 『貸す?』と、拓真と緋美子はそろって首を傾げた。

「そう。『貸家』として契約させて欲しい。これならどうだろう」

 拓真と緋美子は顔を見合わせた。
 売りでない、貸すと言うことであれば、手放すわけではない。しかも一番信頼できる夫妻に貸すのだ。

「妻の早紀は元々この家に住みたいと憧れているわけだし、俺も、住むとなったら緋美子さんに劣らない管理をしたいと思う。それにこの薔薇の庭を潰したとあっては、誰がここに住んでもこの界隈では悪者扱いにされるよ。住人となったらその覚悟。分かってくれるね」

 だが鳴海夫妻はまだしっくりしない……。
 でも、早紀がもうすっかりその気になって頬を染めている。

「私も! もしこの家に住めるなら一生懸命に薔薇のお世話をするわ。それにここなら近所だから、父と母から離れて英治さんと二人で暮らすことも出来るし――」
「と言っても、早紀も俺も最初から上手くできるとは限らないから、数年の間はちゃんと庭師を雇うよ。そういうバックアップ、長谷川なら出来ると思う」

 英治の手抜かりない提案に、緋美子の心は益々『東京』へと傾いていく。
 だが拓真はまだ……。それだけの話なら納得しようかと大人しくはなったが、まだ、飲み込めない様子だった。
 そんな夫に、緋美子は呟く。

「拓真。私は薔薇の家より、家族を取ったの。それでは駄目?」
「駄目だ。緋美子の薔薇じゃなくちゃ――」
「貴方が立派なレスキュー隊員になったならば、沢山の命のお役に立てると思うの」

 そして緋美子は大きく膨らんだお腹を撫でた。

「この子も、貴方が救ったんですもの。薔薇よりも貴方はなにが大事か、自分の使命はなにか分かっているわよね」

 この夫には運気と才能があるのに。それを摘む妻であって良いものか。
 彼は大きな向日葵のように、オレンジ色のレスキュー隊員の制服を着込んで、きっとあたりに光を撒いて走っていく人。

「私は貴方という消防士の才能を持っている人の花を摘んでしまうような人間にはなりたくない」

 そのひとことに夫が泣きそうな顔になった。
 英治も神妙な顔になり、早紀はもう泣いていた。
 大人達の気配を感じたのか、一馬もちょっと泣きそうな顔。

 今夜のところは、この話はここで留まった。
 だが緋美子の決意も変わりそうになかった。

 夫は夜の薔薇を、寝室の出窓からずっと眺めていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「久しぶりに、一緒に寝ないか」

 その日の夜、出窓で薔薇の庭を始終眺めていた拓真が床敷きの自分の布団へと誘ってきた。
 ベッドで拓真に背を向けて眠っていた緋美子も。今夜は眠気がなかなかこない。

「いいの。そっちに行って。お腹、大きいわよ」
「いいよ。その子もこっちに連れてきな」

 その返事がつい嬉しくて、緋美子はベッドを降りて夫の布団へと横になる。
 夏掛けの薄い羽毛布団を拓真がそっと緋美子の身体にかけてくれた。
 お腹が大きいし、久しぶりに寄り添って横になったので、緋美子はつい背を向けてしまったのだが。

「ミコ……。有り難うな」

 拓真がその背にぴったりとひっついて抱きついてきた。

「ううん。私、貴方に守ってもらってばかりだったわね」
「いいや。俺もお前が側にいてくれる毎日は、幸せ――」

 そこで言葉がとぎれた。『だった』と言いそうになったのだろう。
 妻を先輩に奪われてしまうまでは、彼の世界は毎日が真っ白だったに違いない。
 このことは二度と言わないと決めた拓真だけあって、彼から掘り起こすようなことは決してなかった。本当にそうと決めたら夫は逃げないし、潔い。今回のことで身にしみた。
 だから妻も逃げない。そして――今度は自分が夫の為に頑張る番だと覚悟を決めた。

「緋美子――。いいかな」

 なんて物思いをしていると、マタニティ用の薄いネグリジェの胸元に、拓真の大きな手が滑り込んできた。
 久しぶりで緋美子はどっきりとしてしまった。あれ以来、初めての。そして……今日の夕方、あれだけ夫にときめいてしまった自分を思い出し、急に胸が焦がれてしまった。

「わ。でっかくなってる。カズの時と一緒だ」
「うん。重いのよ」
「でも、緋美子の……肌だ」

 背中から伸びてくる夫の手が、膨らんだ乳房を柔らかく揉みだし、そしてもう片手は下腹の方へ……。
 それだけじゃなく、夫は緋美子のうなじをすっと舌先で撫でていったので、ついに緋美子は『はあ』と切ない声を漏らしてしまった。

「そっとする。いいだろう」

 耳元で囁かれた声に、緋美子は頬を染めてこっくりと頷いた。

 いつかの愛しい大きな手が、緋美子の肌を愛撫する。
 いつかの愛しい唇が、緋美子の肌を滑っていく。
 いつかの愛しい舌先が、緋美子の喘ぐ口をふさいで熱い息を吹き込んでくる。
 いつも愛しいと緋美子が切望していた夫の熱い固まりが――。

「くっ……はあ・・。た、たくま……」

 背中に抱きつている夫が後ろから静かに入ってきた。
 いつも待ち望んでいたのはこの人の荒れ狂う熱と愛だったのに。

「もどかしいな。全速力でお前を奪いたいよ」

 じれったそうに妻の背で腰を動かしている拓真は、もう額に汗が光っている。

「はあ、ミコ。ミコ、また……今夜から俺たち……。ミコ、この子は俺たちの……な、俺たちの……」

 夢中で行為に耽る夫のつぶやきが、緋美子の耳元で熱く響く。
 妻に話しかけているようだが、それは拓真が自分に言い聞かせてる呪文のようで、緋美子はちょっと切なくなった。

「俺のミコ……。俺の娘……」

 だけれど拓真は必死にそう呟きながらも、ついに緋美子の膨らんでいるお腹をさすってくれた。

「きっと、娘だ。俺の娘……」

 はあはあと息を切らしながら、妻を愛しながら、そしてその手は愛おしそうにお腹を撫でてくれている。

「たく、拓真……。私、ずっと貴方についていく」
「ミコ。俺にはお前が必要だ。ずっと俺の側にいてくれ」

 深い口づけを暫く繰り返すうちに、そのまま夫が静かに果てた。
 唇を離して、二人は互いを見つめ合う。やがて、夫妻はいつかのように微笑みあっていた。
 妻を満足そうに抱きしめる夫と、夫に愛おしそうに抱きつく妻。

「東京へ行こう。俺たち」
「行って、新しい家を造りましょう」

 言葉にはしなかったが、この日、夫妻はまた強く結ばれ生まれ変わったのだと――少なくとも緋美子はそう思った。

 そんな夫と静かに抱き合っていると、拓真が急にぎょっとした顔になる。

「ミコ。お腹が……!」

 拓真が指さすので、緋美子も見てみると、膨らんでいるお腹がふんわりと可愛らしいピンク色のもやに包まれていた。

「ああ。この子、お腹を蹴るようになったらこんな光を時々出すの。あら? 拓真……見えるの?」
「み、見える……って、ミコはもう見えていたのか?」
「うん。お腹を蹴り始めた頃から。カズは白色だったし――」

 『まじかよ』と、拓真が絶句してしまった。

「あ、消えたぞ」

 でも拓真はもう一度それを確かめるようにお腹を撫でる。
 もう光はしなかった。緋美子にはもう分かっていた。

「パパが優しく撫でてくれたから、嬉しかったんだよね」

 緋美子もさすった。もう光はしないけれど。
 それが拓真に見えたことも嬉しかった。

「幻? 俺、嘘だろ?」
「人はね。不思議な生き物なのよ。いいえ、きっとどの生き物もね」

 だから、この子が貴方と繋がった。
 だから、貴方とこの子が繋がった。
 血の繋がりがなくても――。

「そうか。パパって分かったんだ」

 もう嬉しそうな拓真の顔。
 彼はしばらくはそのお腹を撫でていた。
 でももう光らない。でももう繋がった。

「拓真の予想通り、私も女の子だと思っているわ。だってこの子、早紀さんと同じような可愛い色を出すんだもの」
「じゃあ、美人だな。叔母さんの華やかさとママのしとやかさを備えた良い子だ、きっと」

 薔薇の香りの中、二人は抱き合い微笑み合う。
 最後の夏の薔薇に埋もれるように、二人は寄り添う。

 

 薔薇の盛りが過ぎ、緋美子は秋の半ばに、女の子を出産する。
 名前は『美紅』。父親が付けた名前だった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 また薔薇の季節が巡ってくる。今度こそ、お別れの薔薇が――。

「緋美子ちゃん、これは置いていくの?」
「うん。早紀さん使って。本当に気に入っているものと必要なものはもう荷造りしたから」

 キッチンの棚にしまってある食器を荷造りする。
 季節に合わせた食器をいくつか、そして日常的な使い慣れたもの。
 あとはこの家に置いていく。今度はいつ使ってあげられるか定かではないが。

 少しばかり暑くなってきた頃。庭の蔓薔薇がぽちりぽちりと咲き始める。
 あとは日を追って次々と咲き出すだろう。

「緋美子さーん、美紅ちゃんが泣いているよー」
「ママー、ミクがないてるー」

 二階にいる英治と一馬の声。そして可愛らしい娘の泣き声が聞こえてきた。

「そろそろ、おっぱいの時間ね。早紀さん、私達も少し休憩しましょう」
「そうね……」

 早紀がちょっと気分悪そうに立ち上がる。
 そんな彼女に緋美子は微笑む。

「うちの美紅とひとつ違いね。早紀さんももう妊婦なんだから、引っ越しの手伝い、無理しなくて良いのよ」
「ううん。私もこの家でこの子の人生をスタートさせてあげたいの。この子にも薔薇を通してなにかを大切にする心、知って欲しいわ」

 早紀は妊娠四ヶ月。
 長谷川家はそれはそれは大喜びで、この薔薇の家でゆったりと育児をしたいという早紀の願いも聞き入れてくれたようだった。

 昨年の夏。『東京に行こう』と鳴海夫妻が決めてからすぐに、英治が弁護士をつれてきた。
 親しい仲でもきちんとした契約をしようと言う話に決まったのだ。
 でも緋美子はここで最後の我が儘を口にする。

『生まれてくる子にも薔薇の家にいた時間が欲しいの。家を明け渡すのも東京に行くのも、夏でもいいですか』

 この家の子だから。薔薇の家を知らないとは言わせたくない。
 もちろん、物心ついていないのだから記憶などないだろうけれど、記録は欲しい。たとえば『庭での記念撮影』とか。

『それがいいな。俺もそれだけはちょっと残念だと思っていたから。いいんじゃないか。俺も東京に転属したら、全寮制の『レスキュー隊員訓練』にはいるんだ。四十日間、地獄の訓練。生まれたばかりの子供とチビ息子と一緒に知らない土地に母親だけ。寂しいだろ。最初は単身赴任と行こうか』

 拓真の提案に、緋美子も納得し、そして英治も早紀も同意してくれた。

 拓真は三月に東京へ転属。
 地獄のレスキュー訓練を終えた頃。
 まだ結果は聞いていない。その訓練を受けたから全ての訓練生が合格するわけではないらしいのだ。本当に過酷な訓練をやり遂げたほんの一部の消防士があのオレンジの制服を着ることが出来る。

『結果が出て部署が落ち着いた頃、お前達を薔薇の家まで迎えに行くよ』

 そんな連絡が十日ほど前にあったきり。
 とりあえず、引っ越しの準備を進めていた。
 こうして早紀と英治がよく手伝いに来てくれる。

 実家の兄と義姉には、この土地を出て行くことをとても惜しまれた。
 兄の大には『もう一度考え直せないか』と何度も言われた。だが、拓真より緋美子が頑として譲らなかったのだ。
 薔薇の手入れとなると、兄と義姉では事足りない。しかも病弱の義姉にあの高台に通わせるのは酷だった。
 その点、既に緋美子が長谷川の婿養子と薔薇の庭を守るという条件で薔薇の家を貸すという契約を成立させたことには、兄は安心したようだった。
 そんな兄もちょっとした本音をこぼしていた。『俺も、ここから出て、東京の方で学びたいことがあるんだよな』と――。家に縛られる地方の男はここにいることしかできない。そんな兄の小言。それを思ってか、妹と義弟の新しいスタートを最後には後押ししてくれた。
 最後まで嘆いていたのは義姉の里佳子だった。緋美子が一番良くしてくれたのに、いなくなると困ると最後まで泣かれてしまい、緋美子もこればかりは困惑せざる得なかった。最後は夫である兄の大と共に見送る笑顔になってくれた里佳子。でも……この義姉に頼りない少女の頃とても優しくしてもらった緋美子はそれだけが心苦しくなる。やせ細った義姉の腕に掴まる小さな凛々子もまた、それほど顔色の良い女児ではなくなっていたことも、緋美子は少し気がかりになった。

 

 美紅の授乳に合わせ、店屋物を頼んで緋美子達は昼食を取ることに。

「拓真君のオレンジ制服姿、楽しみだね」

 英治は我がことのように楽しみにしているのだ。
 消防士である拓真の大のファンと豪語している英治。そんな彼を見て、同じようにざる蕎麦を食べる早紀と娘にお乳を飲ませる緋美子も顔を見合わせ笑った。
 お兄ちゃんになった一馬は、もう自分一人でせっせと蕎麦を食べている。

「カズちゃん、お箸が上手になったわね」
「うん。お兄ちゃんになって急に自立心が出たみたいで。一人で試行錯誤、まだお箸は握って使うことが多いけれどね」
「いやいや、大進歩だよ。カズは本当に妹思いのお兄ちゃんになったもんな」
「とーきょーにいっても、おそとで遊ぶ時はミクをつれていくんだ。ね、ママ!」

 しっかりしてきた息子を見て、緋美子も『そうね』と笑う。

「英治さんと早紀さんも、ついに来年はパパとママね」

 そう言うと、二人そろってどうしてか俯いて照れあっている始末。
 結婚して一年ちょっと。早速に子供が出来て二人は益々幸せそうだった。

「うちも。緋美子さんや拓真君のように、立派に子育てが出来るように頑張りますよ。本当に貴方達はまだお若いのに、本当になにからなにまで立派だと俺は尊敬しているんだから」
「そんな……。ただ必死にやってきただけで……。決して器用にこなしてきたわけではありませんよ」
「緋美子さんも学校は辞めてしまったけれど、立派な二児の母、そして立派な奥さん。しかもこの薔薇の家を継いだ者としてこのご近所では若いけれどしっかり者のお嬢さんと評判だ。なかなかのものですよ」

 もうすぐお別れだからだろうか。英治がそんなに褒めてくれるので緋美子は戸惑ってしまったのだが。

「どうだろう。もし緋美子さんさえよければ、子育てと平行しながらもう一度大学を目指してみてはどうかな。聞けば、亡くなった教授だったお父様や、今は研究室にいるお兄様と劣らない優秀な成績だったそうじゃないですか」
「いえ、もう……。学問への意欲は……」
「もしですよ。その気になったら、俺に一声かけてくださいね。なんでも協力しますから。それにこの家も、このご近所での婿養子の評判を落とさないよう、俺も頑張りますから」

 英治の急な提案に緋美子は驚いてしまったのだが。
 この話はここですうっと立ち消えたのだが、それでも緋美子の心の何処かにずっと引っかかっていくものとなっていく……。

「あら。雨……」

 ざあっと激しい雨が降り始めていた。
 咲き始めの薔薇が大粒の雨で、ぴょんぴょん跳ねている。
 庭の土と緑の匂いがふわりと遅い昼食を取っている緋美子達の元に舞い込んできた。

 するとお乳を飲み終えて、緋美子の胸でくつろいでいた美紅が急にぱたくたと激しく動き出した。

「パパ?」

 そして息子のその声につられて、緋美子は外を見た。
 垣根に人影が――。

 オレンジ色の人影が。

「ただいま。緋美子」

 雨の中、その男性はいつかの場所に立っている。

「タク、拓真――!」

 雨の中、緋美子は美紅を抱きかかえたまま庭に飛び出した。

「タク、いきなりどうして」
「えへへー。どうだ、オレンジの! 驚かそうと思って黙って帰ってきた」

「うわーー。パパ、オレンジのもらったの!?」
「おー! カズ、ただいま。見ろ、お父さん、オレンジのもらって帰ってきたぞ。約束通りだろ!」

「やっぱり拓真君だ、流石だ。一発で取ったんだ。おめでとう!」
「お帰りなさい、拓真さん。待っていたのよ!」

 家の中にいた者達は一斉に、庭へと飛び出し、オレンジの制服に紺色のキャップをかぶっている消防士の青年へと駆けていく。

「おー! 美紅が笑った。お父さんが帰ってきたって分かったのか」

 嬉しそうな拓真に、緋美子はすぐにその腕に娘を託した。

「えへへ、益々可愛い顔になっているじゃないか。流石、早紀ママと緋美子ママの子だ」

 いつしか拓真はそう言うようになっていた。
 その時誰も『正樹』のことは口にしないし、様子にも出さない。
 この二組の親しい夫妻は、いつしか本当にそうなのだと思うようになっていたのだ。それは緋美子でさえ……。

「あれ、雨やんだ」

 息子の声で空を見上げると、もう青空が。
 どうやら通り雨だったようだ。

「拓真、お帰りなさい。そして……おめでとう」
「うん。引っ越し休暇もらってきたから……」

 そして輝く笑顔の夫が言う。

「今度こそ、一緒に東京だな」

 娘を抱いたまま、オレンジの制服を着込んだ夫がいつかのように、その垣根を逞しく越えてきた。
 この家の夫。そして父親。大黒柱。何度もその垣根を越えて彼はやってくる。緋美子にはそんな気がした。

 

 初夏。薔薇が一斉に咲き出した頃、鳴海一家は東京へと向かう。
 最後の薔薇を背に、沢山の愛を胸に、家族そろっての記念撮影を最後に、薔薇の家を出て行った。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 十年後、東京。

 

 今年も庭の薔薇が咲く。
 砂丘の故郷ほどの華やかさはないけれど。
 東京都下のある街に、中古の一軒家を買った鳴海一家。
 この街の狭い住宅地では仕方がない。

 緋美子はそう思いながら、朝の水やりをしていた。

 

 

※参照※
3章最終話(10話)では、拓真が緋美子と死別したのは十四年後と記しております。これは拓真と緋美子が結婚した時点からの年数です。
今回の十年後は、美紅が生まれて鳴海夫妻が薔薇の家から東京に出て行ってからの年数になります。
計算したのですが、それでもちょっとずれているかも^^;
拓真が緋美子の遺体に遭遇した時と、この十年後は同じ時間です。年代的に2005年ぐらいだと思います(あやふーや)ヾ(ーー )ォィ

 

 

 

Update/2008.7.30
TOP | BACK | NEXT  ||HOME||
Copyright (c) 2000-2008 Yuuki Moriya (kiriki) All rights reserved.