-- 緋花の家 -- 
 
* どの花にも毒はある *

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17.ラスト・インスピレーション

 

「母さん、行ってきます。今日も俺、部活で遅いから」
「カズ、お弁当を忘れないでよ!」

 十三歳の息子は中学生。今年十四歳になる。
 体格は父親にそっくりなのか、近頃、急に背が伸び始め、あっという間に声も変わってしまった。しかも大食漢。徐々に逞しい少年に成長している。
 入学当初から剣道部に所属しているが、その身体能力も買われてしまい、大会前ということで陸上部の顧問直々にお誘いがかかってしまったらしい。今はその掛け持ちの時期。それでもこなしてしまう息子の運動能力はかなりの評判のようだった。しかし、勉学の方も父親に似たのかこちらはイマイチ。
 近頃は無口になって、昔の愛らしさもどこへやら。いったいなにを考えているのかちょっと分からなくなったりして自信をなくしてしまう母親だったりする。

「ママー、行ってきます!」
「美紅、今日のプリントは持ったの?」
「持ったわよ」

 長い髪をひらりとさせ、彼女がお気に入りのティシャツにイマドキのファッショナブルなデニムパンツ。裾は可愛らしいフリル。全て美紅自身が選んだもの。母親の緋美子が選ぶと『ママはスタンダードすぎて地味』と文句を言われる。この時から彼女はそのセンスがあったようだった。
 それどころかまだ十歳のくせに、妙な色気があるのだろうか。変な大人に声をかけられたとか、スカウトされたとか、そんなちょっとハラハラするものと遭遇しやすいようだ。

 でも、緋美子は娘へと振り返って思う。
 美紅は自分とは違う顔立ちだ。それに緋美子は娘の顔を見ていると、少女だった早紀を思い出してしまう。それだけ品のある華やかな顔つき。

「ん? ママ、どうしたの」
「いいえ。美紅、知らない大人の人には気をつけるのよ」
「OK〜。そのへんの回避スキルは、私、結構、ばっちりよ」

 まあ、その生意気な口の利き方も、貴女の叔母さんである早紀さんにそっくりだわ――と、緋美子はいつだって言いそうになってぐっと堪える。

「美紅、早く来いよ!」

 玄関から一馬の声。

「一人でいけるよ!」

 それでも美紅は兄の背を追って出て行った。
 水やりをしている庭の塀の向こう。息子と娘が肩を並べて出かけていくのを緋美子はそっと見守る。
 あれでいて、一馬は正義感が強い。妹が要らぬものを寄せてしまうのを兄なりに心配しているのだろう。彼女が友達と合流するまでさりげなく側にいるつもりなのだ。そんなところは美紅も本当は分かっていて、だから二人はいつも一緒に出て行く。

「一馬も、根っからのお兄ちゃんになったわね」

 緋美子は庭に咲いたクリーム色の薔薇を、満足げに指で弾いた。
 この薔薇は緋美子にとっては、夫の色。
 小さな庭だが緋美子は変わらずに庭には薔薇を植えていた。上手く咲かせるのでまたもやご近所でも評判に。
 あの街の薔薇の家は今は……。

 長谷川若夫妻にも男の子が生まれた。『幸樹』という名前にしたという。
 今も変わらずに夫妻はあの薔薇の家に住んでいて、もちろん、薔薇の庭は健在。緋美子は安心して東京で過ごしている。
 早紀はあちらでは社長夫人。それなりに裕福であるため、年に数回上京してくる。その度に二人は会っている。
 二人の近況報告に、そして、薔薇の家のこと、子供達のこと、夫のこと、将来のことを沢山話し合う。二人の姉妹のような仲は変わることはなかった。
 ただ。二人の会話に『正樹』のことは、一度とて話題にならなかった。いや、出来なかったのだろう。

 庭の水やりを終えて、緋美子も腕時計を見る。
 ため息をついて、家の中に入った。

 ある程度の片づけを終え、仕事用のブラウスとスカートに着替えた緋美子は『書斎』にしている部屋と向かう。
 二階は子供部屋にしている。一階にはその書斎と和室と、夫妻の寝室が――。
 その書斎に向かう途中にある寝室へと気が向いて、緋美子はドアを開ける。

 この家へ越してきて、夫妻用のベッドを置くのはやめにした。
 夫がどうしても『床じゃなくちゃ落ちつかない』などと古風なことを言い張ったからだ。
 だから緋美子もそのまま床に布団を敷いて眠るようになった。自分の布団は既に上げているのだが……。隣の夫は大の字になっていびきをかきながら豪快に眠っている。

 それを見て、緋美子はため息をつきながらカーテンを開けた。

「タク、そろそろ起きなさいよ」

 強烈な白い朝日がさああっと部屋の中を明るくした。それと同時に大きな身体の夫がごろんと動く。

「ううーん、もう朝なのかー」
「そうよ。私、今日は十一時までには研究室に行かなくてはいけないの」
「えー、俺も午後からだよー。昼飯なしかよー」
「じゃあ、寝坊しないように今のうちに起きて。お昼ご飯はつくっておくから自分で食べてね」

 夫が未練がましくしがみついている綿のケットを、緋美子はがばっと引きはがした。
 またまた、季節も暑くなってきたせいか、トランクス一枚で寝ている。

「シャツぐらい着なさいよー」
「子供達は?」
「もう出かけましたよ」

 呆れて緋美子はそのまま部屋を出ようとしたのだが。
 どうしたことか足首が動かない。寝ている夫の勇ましい手が、緋美子の足首をがっしりと掴んでいた。

「へへ。ゲット」

 夫が布団の上でにやっと笑う。
 緋美子がハッとした時には遅かった。その足首をひっぱられ、彼が横になっている布団に引き込まれる。下着一枚、素肌の夫に抱きつかれ、ねじ伏されてしまった。

「ちょ、や、やめてよ!」
「やだね。お前、ここのところ書斎に籠もりきりで夜が遅いだろ。なに、俺を避けてんの?」
「ち、ちがうわよ。忙しい……」

 ついには唇を強引に塞がれ、緋美子が言いたかった言葉は夫の熱い息でかき消された。
 結婚十年、互いに三十代を迎えた大人になった。その夫の手は新婚当初より手慣れている。
 緋美子が着ているブラウスのボタンを外す手が早い――。

「ちょっと、丁寧に外してよ。タク、この前、新品のブラウスのボタン、いっぱい破いたんだから」
「お前のブラウスどれも生地が柔すぎるんだよ。あー、でもいいなあ。ミコの、おでかけブラウス――。大人の女の匂いがする」

 東京に出てから、もう一度大学に通った。
 大学院も通って、今は研究室勤めになった。
 出かける時は、ブラウスにスカートがほとんど。それを夫がいつからか喜ぶようになって。それに妻がまた大学に行ってその道を進み始めたこともとても喜んでくれたし、非番の日に子供の面倒を見てくれるなど全面的な協力もしてくれた。

「でかけるの……。早くして……」
「分かっている」

 消防官の夫と、研究所勤めの妻。少しすれ違いの生活。
 でも十年経って、二人はまだお互いを強く求めていた。

 時間がなくても、夫はちゃんと緋美子の肌を一通り愛し抜いてくれる。
 少しだけ急ぎ足でも。ブラウスのボタンを外しては、緋美子の臍にある三点黒子を唇で愛し、ブラジャーのホックを外しては乳房を口に含んで遊んで、スカートのホックを外して足から脱がせ、ストッキングも――それをもどかしそうに妻の足から滑らせながらも、柔らかい足の内側を舌でなぞって。最後のショーツだけもったいぶって、そのまま。大きな口でクロッチの溝に吸い付いて、暫くは緋美子をじらしている。

 自分でも分かる。もうそのショーツは替えていかないと穿いていけなくなるほどに、自分と夫の蜜で濡れてしまっていた。
 緋美子も朝日の中、目を細める。
 ああ、あれとはまったく違うけれど。すごくいい。もうこの夫ではないと自分は駄目だ。もうこのまま時間を忘れてもいい。いつまでもこうして感じていたいし愛されていたい。
 その延々と続く快楽の中、夫の黒髪を握りしめて、緋美子は満足そうに微笑むだけ。

 朝日の光の中、どんなに自分の肌が露わにはだけても、緋美子は隠そうとは思わない。――この夫の目の前ならば。

「たく……ま……」
「はあ。俺、もう駄目だ」

 拓真の手が急ぐようにして、妻の濡れたショーツを引き下ろし足から外し堪えきれなかったのか一気に緋美子の中を貫いてきた。

「っん、く……ぅう」
「ミコ、緋美子」

 拓真は相変わらずに熱い男。
 ずんずんと緋美子の奥に突き進んでくる力は今も衰えていない。
 鍛えた逞しい胸に、割れている腹筋に、そして太い腕。どこも無駄な肉がなく、そして鍛え抜かれた男の輝く目。彼は素敵な大人になった。
 その男が力一杯、緋美子だけを愛してくれる。
 そして緋美子を愛し抜いてくれるのは、その逞しさだけじゃない。

「ああん、そこ……あん、タク……」
「わかってるよ。ここ、だろ。強くていいよな?」

 夫は緋美子のあらゆる性感を把握している。好みの強弱も知っている。妻の中に熱い固まりを杭打ちながらも、その不器用そうな太い指が今は巧みに妻を悦ばす。
 緋美子は我を忘れて喘ぎ、夫の手先を欲しいところに押し当て、そして夫の素肌に自分の全てを密着させる。
 拓真の熱い肌も汗も吐息も、ささやきも、眼差しも――。すべてが緋美子のもの。そして緋美子はその全てに満足をしていた。

「あっ。タク、すごく、すごく……いい」
「あったりまえだろ。はあ、俺も、俺も……すごく、いい」
「あ・・・タク、愛しているわ」

 俺もだ。ミコ、愛している。

 そのひとことを聞いて、緋美子は気を失いそうになる。
 耳で囁かれても、口元で囁かれても。これだけ愛され愛撫され翻弄されたらもう粉々になっても良いと思いながら、身体を震わせて儚い声を上げる。
 やがて夫も、緋美子を追うように夢中になって、一緒に戻ってきてくれる。

 汗ばんだ肌を寄せ合う夫妻。

「ブラウス、やっぱり駄目になったわ。ぐしょぐしょよ」
「今度は、あのヒラヒラの可愛いのを着て起こしに来てくれよ」

 全く反省なしの夫を緋美子はひと睨み。もちろん、明るい夫は反省の余地なし。
 でも二人はすぐに笑い合って抱きしめ合う。

「ごめんね、タク。夜、資料を眺めていたら夢中になっちゃって」
「いいよ。やっぱりお前はお義父さんの娘だな。でも無茶しないでくれよ。根を詰めている姿、心臓に悪いしさ」

 正岡の父が亡くなった時のことを思い出してしまうとのことだった。

「今度は夜、ゆっくりしようね」
「ああ、緋美子。今度はじっくりな……」

 鳴海夫妻は、東京での十年ですっかり熱いままの夫妻を続けている。

「ううん。もう一休み」

 頑張って疲れてしまったのか拓真が再び、眠る体勢。
 緋美子は仕様がないなあと思いながらも、自分も少しだけ……。迫っている時間を忘れてぼんやりとした。

 寝室から見える東京の狭い空。
 切り取られたような葉書のような空。

 あれ以来。二人が砂丘の故郷に帰省したのは数えるほど。
 でも緋美子は、時々、こうして思い出している。薔薇の庭の上にいっぱいに広がっていた青空を。砂丘を。

 

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 もうすぐ夏休み。梅雨も明けて街中はより一層にむしむししている。
 かあっと晴れ上がった天気。ビルからの反射がとてもきつい。

 日傘を持ってこなかったことを緋美子は後悔しながら、日光を手で遮りながら歩いている。

「暑い、暑いわ。なんか人工的に暑い気がするわ」

 毎年、この季節になるといつのまにか呟いている言葉。
 これが出たら緋美子の中で『夏到来』。
 そしてこの時同時に思うこともある。

 故郷の夏は爽やかだった。
 暑くても風があって、自然の匂いがした。
 海の匂いに、草の匂い、花の匂い、土の匂い。

 ああ、でも自分で決めてここまで来たのだ。
 家族は幸せだし、これ以上望むことなど……。

 しかし緋美子の中では、時折、郷愁が起きる。
 でも我慢できるのは、夫も同じように故郷を恋しがることがあるから。
 ――『薔薇が咲き誇る夏が恋しいよ』。拓真は時折そう言って、大きな薔薇園を探して家族でドライブに行くこともあった。でも、あの庭に勝る物はないと分かっているくせにがっかりしている。
 それに故郷の砂丘も。ふたりにとっては思い出の。初めて口づけをした……。その時を思い出すと、緋美子も胸が切なくなる。あの時、自分はすごく大胆だった。思い返すと今でも頬が熱くなるぐらいに恥ずかしい。本当に『赤い少女だった』と、物欲しげで……。でも拓真は今でのあの時のことを嬉しかったと大切に思い返してくれる。緋美子だって今でもドキドキする。あのデート、本当はとても緊張していた。なにをどうすればよいかさじ加減さえ分からなくて。

 でもそれも、夫妻の大事な素敵な思い出。

 緋美子はそれさえあれば――と、最後はいつも明るい気持ちに立ち直り、街の雑踏を行く。

 今日は向こうの図書館へ調べ物へ行く。
 来週は新しく出土した発掘調査が待っている。また日焼け対策を万全にして臨まなくてはいけない。
 ――近頃、少し気になることがある。どうも頭が重いのだ。時々頭痛は常人的に起きるが、これは少し長く。緋美子的に例えるなら『私の波長が乱れている』と言えばいいだろうか。そのサインが頭痛として出ていると思っているのだ。
 だから緋美子はふとした嫌な予感にここ最近、ずうっと包まれていた。そしてちょっと思い当たることも……。

(まさか、凛々子が――)

 だが緋美子は頭を振る。そして、今は病院のベッドに寝たきりになっている姪を思い出す。

 薔薇の家を出て数年後、あの病弱の義姉里佳子がついに儚く亡くなってしまったのだ。
 娘を残された兄はとても困惑していた。そんな兄に『家のことはもう、親戚に譲って、兄さんも東京に出てきなさいよ。凛々子は私が子供達と面倒を見るから』と勧めてみた。
 元々若い頃から家に縛られることにうんざりだった兄は、すぐに決断してくれた。親戚も幼い凛々子を押しつけられるよりかは家督を譲ってもらい、近しい身内の緋美子が引き受けてくれた方が願ったり叶ったりなのだ。その通りになり、兄はやっと身軽になって東京にやってきた。
 あそこはそんな土地。家督をもらって喜ぶ者にあげてしまえばいい。ただ、薔薇の家は譲らない。それが条件だった。もちろん、凛々子一人面倒くさがる親戚なのだから、薔薇の家の管理など当主になってもやりたくないところだったのだろう。そこもほいほいと喜んで緋美子の所有のままにしてくれた。
 だが姪は、東京に出てきても、大きな病院にかかっても良くならない。義姉と一緒で医者も生まれつきとしか言ってくれない。ただ精が出るように気力をもたせるようにと、姪を励まし続けるしかなかった。
 だが緋美子は、そんな姪に何かが起きるのだろうかとふと感じてしまったのだ。

(いいえ。凛々ちゃんにそんなことは起きないわ。私が守らなくちゃ)

 そんなことを思いながら、緋美子は昼間のオフィス街を駅へと歩いている。
 半袖のサラリーマンに、制服姿のOL、そして流行のファッションで闊歩する若い女の子達。その波が次から次へと絶え間なくやってくる。
 こちらに来たばかりの時はただただ圧倒されていたし、早紀が心配したとおりに『見える物』が増えてしまい、それを如何にスルーするかに神経をとがらせていた。今は都会ではおなじみの『無関心』でさっとやり過ごせる。その人にどんな色が見えても、余程でない限り見えていないと思うことにした。この世でない物と目が合いそうになっても余所を見て見えてない振りをした。都会の方が沢山いる。人の行き着く場所を緋美子はいつも考えてしまう。

 今日もそうして素知らぬふりの歩行をする。
 駅に近づくと益々人が増える。しかも駅前の横断歩道など本当に人だらけ。
 信号が青になり緋美子は雑踏の中、しっかりとした足取りで歩く。やや小柄な為、沢山のサラリーマンとすれ違う緋美子は埋もれそうになる。
 そんな時、すれ違いざまに誰かの爪と緋美子が後ろに振り払った右手の爪が『かちり』とぶつかった。手の甲と手の甲ではなく『爪と爪』。しかも数本まとめてかすったのではなく、本当に指一本の爪。たぶん、向こうの人も同じように指一本の爪に当たったと思う、そんな感触――。ちょっとそんなぶつかり方ってあるのかしらと、緋美子はふいに振り向いてしまった。
 すると、向こうもこちらへと振り返っている。肩章付きの薄い水色の半袖のシャツ。紺色のスラックス。手には制帽、そしてアタッシュケース。中年の男性。向こうも緋美子を見てとても驚いた顔をしていた。

「緋美子ちゃん?」
「ま、正樹さん!」

 都会の人混みの中。
 横断歩道の真ん中。
 二度と会わないはずの二人が今、ここに。

 でも緋美子は手を見た。
 触れたのに。あんな気分にならないし、なにも襲ってこなかった。

 それは正樹も同じようだった。
 彼も手を見て緋美子を見て、驚愕した顔をしていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 きっとそれはあってはいけない時間だったのだ。

「びっくりした。十年ぶりかな」

 向こうは十年前になにもなかったかのような笑顔で、緋美子は戸惑った。
 しかも十四年前、夏の公園でそうであったように、彼は今、緋美子の目の前に冷たい缶ジュースを差し出してる。
 駅前広場の、あいているベンチで隣に座り合う。少しだけ距離を置いて。

「有り難うございます」

 そして緋美子もその差し入れを受け取ってしまった。
 でも心臓がドキドキしている。でもまたおかしい。怖いという気持ちが何処にもないのだ。
 あれだけのことをされて、あれだけ夫妻の仲を掻き乱され、もう少しで崩壊するところだったというのに――。あの拓真という夫でなければ緋美子は今、どうなっていたのか。そんな夫の為にも会うべきではないはず。そんな罪悪感に包まれている。なのに、腰があがらない。足も、動かない。

(しまったわ。身体じゃなくても、気持ちが――)

 既にこの人の包囲網に入ってしまったのだと緋美子は青ざめた。
 そして隣の男性はどこか嬉しそうな顔。

「二度と会うことはないと思っていたのでね」
「いえ、私も……」
「えっと、『お子さん』も元気かな?」

 そのひとことが何を意味するのか分かった緋美子は硬直した。
 彼はちゃんと娘のことを――気にしている。

「げ、元気です」
「早紀によく似ているらしいね」
「とても。ちょっと『おしゃま』なところまで、そっくりなんです」

 緋美子はつい。自慢の娘を人に嬉しそうに話す母親の顔で笑っていた。
 もちろん、すぐにはたと我に返ったのだが、正樹はとてもにこやかに緋美子を見ていた。

「貴女も、綺麗になりましたね。でも一目で分かりましたよ」

 急に……。そんな大人の落ち着いた口ぶり。
 確かにこの人も、もう四十歳手前のはずだが、良い男ぶりだった。
 水色の夏制服の凛々しいシャツには、いくつかのバッジが付いている。それは夫も持っていないもの。つまりこの人は出世しているのだ。それは早紀からもちゃんと聞いている。兄は広島からなかなか帰省してこないが、それなりの出世をして今は広島のお偉いさんの補佐をしていると。だから、父親も『やはりお前はこの街で終わる奴ではなかった』とかなんとか言って喜んでいるのだとか。娘の早紀は家のことは婿養子の英治に押しつけて『調子の良い父親』とぶつぶつ言っていることを思い出した。
 そんな彼は以前より本当に立派な大人の男性になっている。ただすこし、頬がこけて疲れているような顔が気になった。

「お仕事、こちらに上京してきたりしてお忙しいのですか」
「いや、たまたまね。上司の意向で東京消防庁の視察の最中で――」

 なるほど。と、緋美子も唸る。
 それにしても。あんなに近づいては危ない関係で、果てに触れあって奪い合って子供まで作ってしまったのに――。
 この穏やかな再会はいったいなんなのだろうと、緋美子は戸惑っている。しかも違和感など何処にもないのだ。本当に十年も会うことがなかった、ご近所のお兄さんと遭遇したという感じで……。
 それともやはり。緋美子が感じたとおりに、子供を産み落としたから雄と雌としての縁もばっさりと切れてしまったのだろうか。そうとしか思えない穏やかさ。先程、爪先が触れたのに、お互いになにも感じなかったではないか。

 そんな戸惑いの中、ちょっと躊躇って黙っていたふうの正樹が口を開いた。

「視察の中で、鳴海の部隊にも行ったんだよ」

 それを聞いて、緋美子は驚いて正樹を見上げた。

「いつ……?」
「一週間ぐらい前に。噂に聞いていたから、そこにいることは分かっていたんだけれど。昔、二人で目指したとおり、いやそれ以上の、レスキュー隊員になっていて。なんか、嬉しかったな」

 本当にそう思っているの? と緋美子は勘ぐってしまった。
 だが、正樹の笑顔に影はない。それこそあの夫とおなじ屈託のない笑顔だった。

 それにしても。それならば拓真はどう接したのだろう。
 緋美子としてはちょっと冷や汗が出てくるような話だ。

「その時、鳴海がね。ちゃんと良い子に育っているとひことこだけね。俺も分かっているから、『よろしくお願いします』とそれだけ」
「それだけ。ですか?」
「まあ、あと少しだけね。職場だから、少しだけしか話せなかった。といっても同じ出張所にいた者同士と知れ渡っていたみたいで、あいつ、顔に出るからすごくぎこちなかったよ」

 それは目に浮かんでしまい、緋美子はそんな素直な夫が拓真らしくてもうちょっとで笑いたくなったが――堪えた。

「気になっていたから。鳴海に頭下げて謝った。あいつ『誰もいなかったら、今日も殴っている』と怒っていたけれど」

 それにも緋美子は驚き――。

「鳴海らしい、彼という懐がでっかい男らしい。俺はただただそんな鳴海に救われてきたんだ、きっと。そう思っているよ。それに感謝している、『娘』を受け入れて育ててくれて。その分、俺は一切を断ち切った父親で在るべきだと益々誓ったよ」

 神妙な正樹は空を眺めながら、缶コーヒーを傾けた。

「実際。それほど父性を感じたことがない。そんな残酷な人間だったのかと愕然とさせられた」

 でも緋美子はそれを責めようとは思わない。

「私と貴方の子作りとは、そのようなものだったと私も感じていましたから」
「たぶん、同じことを感じていただろうね。『獣的な』――」
「まったくです。同じように感じておりました」

 そんな男と女。果ては雄と雌。でもインスピレーションはこの上なく合致している。不思議な縁。

「俺の視察を知って、鳴海は密かに待っていてくれたのかな。一枚だけ、最近のという『美紅ちゃん』の写真をもらったよ」

 それにも緋美子は驚いて――。

「黙って渡してくれたから、黙って受け取った。それだけ。でも嬉しかったとご主人にお伝え下さい」

 仰々しく頭を下げる正樹に、緋美子は当惑した。

「では。これで」

 正樹からすぐに切り上げてしまった。
 彼だけ喋るだけ喋って立ち上がってしまう。緋美子は置いて行かれるように顔を上げ彼を見上げた。

「一度でも貴女に再び会えて、心が晴れました。お幸せに」
「いえ、私も――」

 あの不遇の夜からそれっきり。
 裸で抱き合ってめちゃくちゃな格好で別れてそれっきり。
 でも凛々しい男性になった彼と、綺麗になったねと言われる女性になった彼女として最後にこうして――。
 それで良かったのかも知れないと、緋美子は触れても何も起きなかった手を見て、運命は濃い縁は切れたのだと思えた。

「もう二度と会うことはないでしょう。さようなら、緋美子ちゃん」

 正樹の笑顔――。

「さ、さようなら。正樹さん」

 それしか言えない。
 きっと。そうでなければ、まだいろいろと話したかった気もする。
 でも緋美子はもう、拓真から離れたくない。家族四人。美紅は鳴海の娘。正樹が言うように、そうであるべきならば、もう二度と関わってはいけないのだ。彼が実父であっても。
 最後に正樹が一礼をしてくれる。その凛々しい制服消防官の姿で。端から見れば、消防のハンサムなエリートさん。それならば、彼も今まで通り女性には困っていないだろうと……変な心配をしている緋美子も頭を下げた。
 でも緋美子の予感。結婚――していないわね。生活感が一切ない雰囲気だった。
 でも彼のあの笑顔はとてもすっきりしている。年齢を経て、そればかりが男の生きる道ではないと、そんな悟りの道を開いたのだろうかと思った。

 背を向けて去っていく正樹。
 緋美子はただその背を見送る。それしか出来ないから。
 でも。正樹が途中でぴたりと止まった。緋美子もハッとする。
 彼が振り返る。その顔を見て、緋美子は息を止めてしまった――。

 肩越しに振り返る正樹の目が、とても泣きそうな目に見えたからだ。
 彼は孤独なのだろうか。ふとそう感じた緋美子。そして彼はただ緋美子をじっと見ている。やがて緋美子はいつしか感じた『恐怖』を察し、腕に寒さを感じる鳥肌が立った。あの獣の目? いや、違う!

「まさ――」

 彼を呼び止めようとして伸びかけた手。だが緋美子はそれをふいに止めてしまう。何故なら夫の拓真の顔が浮かんだからだ。
 やがて正樹も、どう緋美子を眺めても何が変わるわけではないと言いたそうな諦めの笑顔を見せて、歩き始めた。
 そうか。あのすっきりしていた笑顔は『諦め』だったのかと緋美子は思った。だが緋美子はまだガタガタと震えていた。この暑い炎天下の駅広場だというのに、何故、こんなに寒い?

「……りなさい、収まりなさい……!」

 自分で自分の震えを止めようとした。
 でも訳もなく震えている。

「あの人、し、死ぬわ」

 時々見る、あの顔。

 そう正樹には死相が現れていたのだ。
 そんな彼を見送ってしまった。ただ二度と関わりたくない人だからと見送ってしまった。これでは見殺しではないか? それで終わればそれでいいのだろうが。緋美子は、そして正樹も良く知っている。死んでも終わりではないのだと。でも『人』としては終わってしまうのだ。それを緋美子は見送ってしまった。
 美紅の、本当の父親。早紀の兄。夫もそれとなく、娘の様子を知らせてくれた元同僚の……。

「ま、正樹さん――」

 緋美子は走り出す。
 だが、彼は何処にもいなかった。
 もうそこは人混みの中――。

 それでも緋美子は当てずっぽうに走った。
 なんとなく感じる方へ走った。走っているのは駅からそれほど離れていない通りばかり。
 感じていた――。きっと正樹を見つけられる。それで一言危ないと言っておけば……。
 だが、緋美子はそこで走っていた足が止まった。はあはあと息を切らし、首元から流れてくる汗の筋をハンカチを宛てて拭う。ノースリーブのフリルシャツが汗でぺったりと肌についてしまう不快感。そこで緋美子は集中力が切れて、一時、そこで項垂れた。

「馬鹿ね。必要ないわ。あの人だって、判る人なんだから」

 だから、なんとなく巡り会ってしまったのだろうか。
 それとも『まさか』。予感していた彼がそれとなく緋美子が暮らしているテリトリーに足を運んでいたのかも知れない。
 それなら――。緋美子がどうしても無駄に決まっている。

 そう思った時だった。緋美子が立っている通りの向こうがとても騒がしくなる。
 緋美子がハッと空を見るとかすかな黒い煙が立ち上っていた。
 そして誰かが「火事だ。かなり燃えているぞ」と叫んだ声――。

 それを耳にして、緋美子は青ざめる。
 正樹の死相が何であったのか。あの人『火に飛び込みたくなる』と昔言っていたと。
 しかも今日は消防の制服を着て――。いや着ていなくてもあの人はきっと、正樹なりの正義感で。

「正樹さん――」

 また緋美子は走り出す。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 おかしな光景。
 驚きながら逃げていく人もいるのに、逆に緋美子と同じようにそこへ駆けていく人もいる。
 ビルの前に着くと入り口は既に野次馬が集まり始めていた。だけれどビルの入り口からスーツ姿のサラリーマンや制服姿のOLも飛び出してくる。高層ではないが中規模のオフィスビル。かなりの高所から煙と炎が既にもうもうとガラス窓から飛び出していた。

「さっき、消防の制服を着た男の人が中に入っていったわ」
「じゃあ、この避難はその人が誘導を?」
「でもあの人一人では、このビルにいる全員に声をかけるのは無理よ」

 その会話を耳にして緋美子は固まった。
 間違いない。制服を着ていたのなら、きっと正樹だ。

 人混みをかき分け、緋美子は迷わずにビルに飛び込んでしまう。
 誰かが『危ない』と叫んだが、それを振り払って危険を承知でエレベーターに乗り込んだ。
 何階か判らない。でも、先程見上げた時に感じた階をボタンで押した。

 もしかすると途中で停まるかもしれない。
 エレベーターはそんな火災を感知して停まるように出来ていたはず。
 それでもまだ動いていた。緋美子もガタガタと震えている。心臓もドキドキと爆発しそうだった。
 それはこの火災の中、取り残される恐怖でもなんでもなかった。あの男を見殺しにすることが出来るか出来ないかの選択を迫られていることでもなかった。
 ただ単にガタガタ震えている。この震えに緋美子は嫌な予感を募らせた。この震えはまさか、まさか――。

 エレベータの扉が開いた。
 飛び出すとそこは煙ばかり。それでもまだサラリーマンにOL達が悲鳴を上げながら階段を駆け下りる光景がある。
 その中でひときわ頼もしい声を張り上げている消防の男性がいた。彼は消化器を片手に、既にその制服が泡で濡れていた。どうやらある程度の消火活動もしたようだった。

「急いで。早く! すぐ上の階が燃えているんだ。口と鼻をハンカチで塞いで煙を吸わないよう、低姿勢で。階段で下りるんだ」

 消防官直々の声を頼るように、そのフロアのビジネスマン達がそれほどパニックになっていない様子で迅速に階段に向かっていた。
 そんな彼と目が合ってしまった。

「ひ、緋美子――」

 彼の驚きの顔。先程、二度と会わないでしょうと今生の別れのように離れたばかりなのに。
 しかも緋美子も――。感で追いかけて、感で何階かのボタンを押したが全て、一発で正樹に繋がっていた自分の感に驚くばかりだった。

 

 

 

Update/2008.8.4
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