39.大人の階段

 

 ドナルドのちょっとした進言で、本部を飛び出した隼人──。

階段を降りても……葉月がいなかった。

隼人はとにかく、一階まで階段を駆け降りた。

一階には、結構な人数が往来している。

降りきった階段から隼人は左右を見渡す。

何処にも……栗毛の……大佐の肩章を付けた女性は見あたらない。

「──!!」

いた!

それは、廊下の窓の向こう……アメリカらしい芝の大きな中庭だった。

木陰の白いベンチで休憩をしている隊員達。

そのゆったりとした風景の中を、急ぎ足で……

広い広大な芝中庭を葉月が横切ろうとしている。

隼人は、出口を探した。

そして、日差しが強い昼下がりの芝庭に出る!

 

「葉月──!」

走りながら叫ぶと、葉月がフッと振り返った。

隼人と気が付いて、葉月はかなり驚いた顔。

そして、また前を向いてしまった。

だけど……歩き出さない。

なんだかそっと俯いて、泣いているように見えた。

 

『ジャンキーみたいな顔をして……』

 

ドナルドのあの一言が、どうして通じたかというと……。

『姉さんの事で深みにはまっている』

なんとなく朝から……いや? 昨夜からそんな『予感』がしていたからだ。

ドナルドが言う『ジャンキー』……『中毒』

葉月は日頃必死に押さえている『憎しみ』などを……

今、『何かを達成させるために』思い出し、そして、『憎しみの中毒者』になっている。

そう過ぎったから、飛び出した。

 

「葉月……」

走って追いついた隼人を……葉月はいつものあっさりとした平淡顔で見上げた。

「どうしたの? そんなに慌てて……」

「……」

いつだったか小笠原の中庭で『こんな自分、壊れたい、消えたい』

そう言い出した彼女を中庭で見つける前、もの凄い鬼気とした顔で

泣きながら駆け降りていたのに……。

人目に付く廊下に出ると涙を拭って『いつもの顔』にすぐに戻った。

その後、すぐ目の前の中庭に姿を消して……

彼女は紫陽花の植え込みの中で素で泣いていた……。

隼人はその時の葉月と、今の葉月の『平淡顔』が重なった。

「ちょっと……」

隼人は強い日差しの中、上着を小脇に抱えて葉月を引っ張り始める。

「な、なに──? 仕事はどうしたの?」

「いいから!」

葉月の手を引いて、空いている木陰のベンチに向かった。

「座って」

「……」

隼人の強い言葉に、気迫負けしたのか葉月は素直に従って座る。

隼人もその隣に座った。

「どうした? 本部に来ていたみたいだけど……」

「……別に」

何かあって来たはずなのに、やっぱり葉月は打ち明けてはくれない。

いつもなら……隼人も『言いたくないなら、言うまで放っておく』という主義なのだが……

『ジャンキー』みたいな顔つきで、自分を遠くから見ていたという事は

それなりに自分に助けを求めに来たと強く感じたのだ、この日は──。

「そんなはずないだろ? 俺に……何を言いたかったか……言ってみろよ」

隼人は、そこにある葉月の白い手をギュッと握った。

葉月が……いつもらしからぬ人々がいる前での隼人の行為に

ちょっとばかり戸惑った顔をしたのだが……。

「葉月──。黙っていたけどな……」

「なに──?」

隼人がさらに葉月の手をきつく握ると、葉月が顔を上げる。

「俺、確かに……闘うのは葉月本人だと言ったぜ?

だけどな……自分一人でどうしようもないときは、頼ってくれてもいいんだぜ?」

「何の事よ? 何も……ないわよ」

葉月が怒ったように、隼人の手を振りほどいた。

だけど、隼人は振りほどかれた手をもう一度握り直す。

「俺に何か助けを求めることで、『迷惑』をかけるとか、『負担』になるとか……

そういう遠慮はいらないって解るだろう?」

「……」

「お前の事だ。いつも振り回しているじゃじゃ馬だから、これ以上は迷惑かけたくないと

思っているだろ? 迷惑とか負担なんてあって当然で、当たり前の事じゃないか? お互いに!」

「……」

隼人が握っている葉月の冷たい手……。

握っていても手の中の彼女の手は……ぎこちなく拒んでいるように固かった。

なのに……少しずつ、ほぐれて行くようにしんなりしてきた。

「葉月。俺だって結構、お前に助けてもらっているし……。

お前がそう思っていなくても……それから……」

一生懸命、葉月の心の中を引き出そうとしていると……

 

「……私」

「──!? なに?」

「……」

葉月はまだ、躊躇っていた。

「フロリダに来ることも……。忘れ物がなんなのか……。

俺には何も言ってくれないな? 俺ってそんなに頼りない?」

隼人が力無くうなだれると、葉月が驚いたように顔を上げて頭を振った。

「黙って……みていてくれるだけで。私、充分なの」

「だったら……何故? 俺の所に来た?」

「ただ……顔が見たかっただけ」

「そうなんだ。ちょっと嬉しいな。お前、なんでも一人でやってしまうから。

俺も少しは、お前の中で頼られているんだ」

「……当たり前じゃない」

葉月が俯いて小さく呟いた。

「それで──何を頼りに来たんだ?」

「ずっと……怖い」

「……なにが?」

「今まで通りの方が……楽だって思ったの。でも、それだと私は良くても

周りをずっと困らせたまま。勿論、隼人さんもね?」

「でも……壊れて消えてなくなりたいと、また思うなら、それは今の葉月には限界なんだ。

そんな事、望んでいないっていっただろ?」

「でもね! 隼人さん」

葉月が強い口調で……そして意志を込めた眼差しで顔を上げ、隼人を見つめる。

「……それでも、私が壊れるんじゃなくて消えたいんじゃなくて……

『変わりたい』と思ったのなら、苦しくてもちょっとは痛いことは解っているの」

「うん……なるほど? それで、今、『痛い』のか」

「うん……」

「どこらへんが?」

隼人がさっと葉月のふっくらとした胸に手を当てると

「な、なにするのよ!?」

人前とあって、葉月が顔を真っ赤にして隼人の手をつまみ上げる。

隼人は何喰わぬ顔で、ベッと舌をだしてふざけた笑顔。

「いや……そこらへんがと思って」

「外じゃなくて、中!」

いつも通りに葉月がムキになって、隼人はそっと笑う。

「……中は俺も触れないから」

「……」

「言ってくれないと、ある程度しか解らないから、それぐらいしかフォローできない」

隼人の微笑みに……葉月が捕らわれたようにジッと隼人を見つめたままに固まった。

そして──

 

「昔ね……」

「うん──」

葉月がそっと話し出した話は『少女マリアと少年葉月』の話だった。

葉月はこういう。

彼女は自分よりとても大人に見えて眩しかった。

ドレスを着た彼女に『葉月は何故着ないか?』と言われたと……。

「着れるわけないと思っていたの。私──。ううん、着たくなかった」

「肩に傷があるから?」

「それもあったけど、着ない理由は……私自身が女性になることを拒否していたんだわ」

こんな話は……初めてかもしれないと思った。

葉月の不可解な行動も、葉月の頑なな態度も……

薄々解っていながらも、隼人も追求は出来なかった。

右京が言わないと綺麗な洋服も拒んで、いつも軍服。

本当は『綺麗な女の子になりたい願望』は、葉月にだって当たり前のように持っている。

だけど──肩の傷の劣等感もあるが、

何よりも……『男を惹くための女性』へと自分を磨くことを拒んできた。

男の性にすべての『幸せ』を奪われた葉月にすれば、

女性になることは、すべて、男に対する『対抗』だったのだと──。

隼人は……薄々は解ってはいても、『本人』からそう打ち明けられるのは初めてで

そして──葉月がこうして面と向かって語ってくれるのも初めてのような気がした。

 

「マリアさんに……その訳を言えたらと何度も思ったわよ?

だけど──言ってどうなるの? 彼女が驚くだけだわ……。彼女、優しいんだもの……。

お互いに若かったから、『打ち明けた』としても私は頑なに拒否しただろうし

彼女は若いまま、躍起になって骨折ってくれたと思うわ?

あの時……お友達になっていたらね?

でもね……そうして傷つけあって別れるなら、言わない方が良いと思ったの。

それに──彼女のようになれない自分を恨めしく思ったり……

結局──素敵な彼女が羨ましかった。

彼女のせいじゃないから……素直に綺麗に成長する彼女をみて……

避けることしか出来なかったの……」

「そうだったのか……」

葉月にも恨んだり羨ましがったり……そんな感情があったと知って

隼人は少し驚いたが……ある意味良い傾向にも思えて何故だかホッとした。

驚くのは……彼女が人が持って当たり前の感情を

ものの見事に『平淡な顔』の下に上手く隠して殺してしまう『セルフコントロール』を

何年もかけて身につけてしまった事だ。

なかなか出来ることではない。

それをしなくては、自分が『狂う』

『狂ったら』……『加害者である憎き男達に負ける』事になる。

だから──葉月は精一杯、憎しみを殺して……辿り着いたのが『無感情』だったのだろう。

そんな事、隼人だって解っていた。

それが──隼人が選んだ『御園葉月』

そして──『愛すべき女性』なのだ。

別に変わろうとしなくても……。

でも──隼人も彼女の『変化』は望んでいた事だ。

今以上をより良くするためにはやっぱり『変化』しかない。

だけど──今の葉月でも充分だから……無理強いはしなかっただけだ。

 

「どうしてかしら? 変わらなくても良いと思っても……

やっぱり……あなたの為にも私は『変わりたい』と思うの。心が痛くても……。

おかしいわね? そのままで良いと言われてホッとした反面……

でも──人は今以上良くなりたいと思って生きているんだって……初めて思ったの」

その時の葉月の顔はとても穏やかだった。

目を閉じて……午後の木漏れ日の中、微笑んだ葉月は……

とても綺麗に見えた。

『あなたの為に変わりたい』

それはある意味……葉月らしい『愛している』という言葉に隼人には聞こえた。

「マリアさんに……昔のこと、謝りたいの。

それが……私の『忘れ物』」

「無理して……話さなくても。今の手応えだと充分……距離は掴めると思うけどな?

それに、謝るってお前が何、悪いことをしたっていうんだよ?

仕方がないことだろ? 向こうが何も知らないだけの事じゃないか?

気に病む事じゃないぜ?」

「でも、私がそうしたいの……」

「そっか……」

葉月がそこまで、固く心に決めているなら、隼人も止める気はなかった。

「今まで……随分、私の意固地な姿で色々な人、困らせていたんでしょうね?」

「……だから、仕方がないことで」

葉月がまた首を振った。

「いいの。皆が今、充分私を許してくれても、私がそうしたいの」

「……急に、どうしたんだろうね? このウサギさんは!」

フロリダに糸解きと忘れ物を取りに来た葉月は、今までと違うようで……

なんだか、隼人は戸惑った。

そこで、前に進もうとしている姿は立派だと思うが……

無理して壊れそうになる葉月も……本当のところは見たくもなく

隼人も……実際、憎しみを刻む彼女を見届けるのは勇気がいるし、怖いのだと……

急に、そう思った──。

だけど……こうして彼女を追いかけてきて、今、心を無理にこじ開けてしまったけど

彼女は隼人と話せば、話すほど……いつもの落ちついた笑顔に戻ってきてホッとした。

「俺って解毒剤かな〜」

「なに? それ??」

「え? ああ、独り言」

そういう自分で少しでもあるならば……隼人も葉月の側にいる一番の男として誇りに思えた。

傲っていてもだ──。

「……隼人さん、有り難う」

「え? いや……何のことだろう?」

葉月の笑顔が急に輝いたので、隼人は急に照れくさくなってとぼけた。

 

「だって……隼人さんがいるから、私、今フロリダにいるんだもの。来ちゃったんだもの」

「そ、そう? ええっと、恋しかったとか?」

「ううん? 一緒に──前を向きたくなったから」

「──それがマリア嬢との関係修復?」

「それは通過点で必要と思っただけで……。

隼人さんが達也が欲しいって言うから……そうして前に行こうとしていたから。

だから──私も前に行くために、忘れていた事取り戻さなくちゃって思ったの。

だから──フロリダに帰省して、パパに……ヴァイオリン聞かせたり

小さかった頃の想い出を、辛いままでなくて、辛く残してしまった事も

今、変えられるだけ、変えたいと思ったの」

「リョウタのこと?」

「うん──それは、リリィの素直な10歳の姿を見て触発されたんだけど。

全部、全部……悔しい形に残した事は変わりないけど、でも……

嫌だった事は、今、変えられる事も出来ないこともないって。

リョウタをリリィにあげて、それでパパと向き合う事も出来たし──。

そんなふうにして、変えることも出来るってあれで自信ついたわ」

「そうか──じゃぁ、葉月のティーンエイジ精算って所?」

「自分がしたことは消えないけど、許してもらえる分だけ……」

そんな葉月の笑顔はやっぱりとても綺麗だった。

彼女がやっと帰省の『諸事情』を話してくれた事で、隼人も『形』が見えてきた。

やっぱり一人で抱えすぎて、動けなくなっていた様だ。

 

「……大好きよ。本当よ? 信じてくれる?」

「え? お、お前……どうしたんだよ??」

葉月の笑顔が木漏れ日の中で煌めいた。

「きっと隼人さんの所にも、一番大きな忘れ物とってきたら一番に戻るから……」

「……!!」

それが『忘れられない男』との『決着』だとほのめかしているのを──隼人はすぐに悟った。

「そう……やっぱり、俺の所にはまだ、葉月はいないんだな」

力が抜けそうになった。

隼人ががっくりうなだれて、力無く微笑むことしか出来ない。

「……でも、今はあなたが一番好き。一番最初に……あなたが浮かぶ」

さざめく緑が風に揺れる音の中……。

葉月が穏やかな笑顔で隼人に輝く瞳を向けてくる。

「ほ、本当にお前、どうしちゃったんだよ??」

葉月がクスクスと……余裕で笑う。

先程までの重みは何処へ行ってしまったというのだろうか?

 

「その……一つ、聞いて良いかな?」

「な、なに?」

葉月も実際、隼人に悟られて『その問題』について聞かれるという戸惑いを持っているようだ。

「その……お前が言っていたあの……男の事なんだけど」

「……なに?」

「……ここにいるのかな?」

「ううん」

「そう──」

複雑だった。

ここ、フロリダにいれば葉月は今回、その男とあって『決着』をつけるかもと期待した。

だが──まだ隼人も決心が付かなかった。

その男と葉月を向き合わすことが……。

会えないなら会えないまま、そのままずっと葉月が手元にいれば良いとも思う。

これは……隼人にとって『逃げる』事になる事が解っていても。

向き合って……もし? 葉月を奪われたら……。

隼人は眼差しを伏せて……ベンチの上でうなだれた。

 

「彼は……私の事なんて愛していないもの」

「え──?」

「……」

今まで以上に葉月が語るので、隼人はどうして良いか解らず

ただ……遠い目で芝庭を見渡す葉月を見つめるだけ。

 

「あの人は……ずっと『姉様』だけを愛しているんだもの。

私は……ただの『妹』」

「──!!」

すこしだけ、その男の形が現れて隼人はなんだかショックを受けた!!

「……その人、姉さんの……恋人だったって事かよ?」

「──うん、ずっと昔の事だけどね」

「じゃぁ……大人だな? 俺達より」

「……だから、私の事は子供なの」

「そ、そうなんだ……」

変に隼人の口の中が渇いてきた。

言葉も……いつも以上に上手く出ない。

やっぱり突きつけられるとショックだ。

たとえ……その男が葉月の事を『女』と思っていなくても……

形が明確になると変に不安だった。

「何処にいるかも……私は、知らない」

「……」

葉月が虚しそうに眼差しを伏せる。

『でも──そんな男でも、忘れられないんだろう? それでも待っているんだろう?』

そう彼女に言いたいが……言えたのは心の中がやっとだった。

「私のそんな想いが……恋なのか恋じゃないのか……。

そんな事は考えた事がないって……前に言ったわよね?」

「あ、ああ……任務が終わった時に」

「その時も、言ったわよね? 隼人さんと付き合うようになって……

隼人さんに全てを任せたいと思ったら、その人を忘れなくちゃ行けない。

そう思ったときに……忘れるのが怖くなったと……。

その時……初めて『兄様』を男性として感じていたのか? 感じていなかったのか……

初めて向き合ったと……」

「……俺とその人。今、一緒に並んでいるって事だな?」

「でも……解っているの。だって……兄様はずっと姉様のものだもの」

葉月がなんだか悟りきった瞳を輝かせて木陰の隙間から覗く青空を見上げた。

その眼差しが麗しく美しく……そして、とても澄んでいた。

それは『愛』からくる眼差しにも見えるが……

そのどうしようもない『想い』と闘ってきた葉月の『女性としての極み』を垣間見せる

『大人の眼差し』にも見えて隼人は驚いた。

そんな女性の眼差しをする葉月を……隼人は見たことがない。

かなり……切なくて、そして……

そんな葉月を美しく思うと同時に、やっぱり『彼女を欲しい』と……

『愛しているんだ』と思うことしか出来なかった。

その眼差しが……『俺の物』であったなら……。

隼人が手に入れたい彼女の眼差し──。

 

その男と今度会うとき、葉月は『決着』を付ける気なのだろう……。

『お前は妹』

彼の口から……そう言わせたいのだろうか?

それとも──

『お前は妹じゃない』

そうなったら……葉月は……何処へいるとも解らないその男の所に行ってしまうかもしれない。

何もかも捨てて──。

そんな『予感』がしてきて、隼人は暑い日差しの中なのに『震えた』

 

「隼人さん……。でも、いつも一緒に前を向いてくれて……

側にいて、『実質』的に一緒に頑張ってくれるのは……一緒に頑張りたいと思うのは

今は隼人さんだもの……私、隼人さんといる」

葉月があの眼差しのまま、空を見上げたまま……強く言いきった。

先程の眼差しのまま……瞳が輝いていた。

『葉月の決意』──?

だが……そうは言ってくれても、その男が葉月を『女性』としてみている事となり

葉月がそれを受け止めたら……

隼人といる事を、望むのだろうか?

そんな不安しかない──。

「どうして? その男がついて来いと言ったら?」

「言わないわ? きっとね──。現実的に考えても……

あの人と私は……『住む世界が違う』 今、そう考えているの。

私は、私がいるべき『世界』で、一緒に頑張れる人の所にいるべきと……。

そう、『頭』では考えているから……隼人さんといる」

 

「そ、そう……勿論、大歓迎だけど」

だけど──隼人は釈然としない。

やっぱり……葉月とその男が会わない限り、全てが自分の物とも思えなかった。

「本当よ……。愛しているって信じてくれる?」

葉月の瞳は真剣だった。

隼人には解る。

「信じるよ……」

そういわなくちゃ……いけない。

でも──その言葉がいつものように明確で自分を納得させていない……

自信のない言い方だったのは……隼人自身も自分の言葉なのに『ショック』だった──。

「……いいの。そう言われても」

葉月が切なそうに瞳を揺らした。

『嘘』は彼女にはすぐに見破られた。

「言わせているのは、私だから」

「……でも、俺もお前を愛しているよ。信じてくれる?」

「それは、痛いほど刻まれてる……。だから──」

ガラス玉の茶色い瞳が急に潤んで、葉月がピンク色の唇を噛みしめた。

そして、葉月は隼人の手を取って……そっと胸にあてた。

「もうここに沢山……焼き付いているの。だから……私」

「そう、それならいいんだ……」

受け止めてくれているならそれでいいと……隼人はそっと微笑んだ。

「無理する事ないよ」

「あなたを愛することを?」

隼人は頭を振る。

「その男を忘れること。……俺が時間と一緒に忘れさせてあげたら一番良いんだけど」

「──ごめんね」

「俺だって、つい最近まで美沙さんにこだわっていたんだ。同じさ──」

「いつか……きっと……」

葉月の涼しげな瞳の切れ目からキラリを涙がこぼれ落ちそうに珠になっていた。

「うん、いつかきっと──」

隼人はそこに口付けた。

人目があっただろうが……なんだかお互いの事だけしか目に映っていないかったようだ。

隼人の唇に、しょっぱい味が染み込んだ。

そして何故だかその涙の味は甘かった。

いつもどの男も『陽炎』

葉月にとっては実態を持たない『影』

皆、同じに見える『影』

だけど──隼人にだけは……葉月は『実態』を持ってくれている。

持ってくれようとしている。

それだけは──今、ここで解った。

『待っているよ、俺──』

言葉には出来なかった。

哀しすぎて言えなかった。

自分の気持ちも惨めだったが──。

だからといって……葉月は隼人と出会う前からずっとその男を胸に秘めたまま。

誰も追い出せなかった男。

そして葉月が認識できなかった『恋』を、浮き彫りにさせたのは……

葉月の心に色を灯した隼人が原因なのは変わりがない。

誰が彼女と付き合っても、誰かが何時かは『その男』を越えなくてはいけない。

隼人はそれをしないと『いけない男』なのだ。

そして──葉月も……その男を越えなくては、誰とも永遠に一緒にはなれないと

そこまでは心の整理がついているようだから……。

「葉月──」

瞳の涙の味は……そのまま彼女のピンク色の唇に移す。

葉月はその味をどう感じたのだろうか?

 

それは……解らない。

だけど──葉月はそっと隼人の口づけを受け入れてくれた。

何処までも柔らかく……甘く、熱く──。

 

木漏れ日が閉じたまぶたの中でもユラユラと揺れて照らす。

葉がさざめく音が響き渡る。

 

『ヒュゥ♪』

『まだ、勤務時間中だぜっ』

 

そんな通りすがりの『冷やかし』に気が付いて、

隼人と葉月はハッと我に返って、サッと離れた。

 

「ど、どうしよう──!」

葉月が慌てて、上着を脱ごうと金ボタンを外し始めた。

「アハハ……俺も……うっかりだった」

隼人は上着は着ていなかったが、もう手遅れのようだった。

「もう、遅いよ。いいさ、この際、フロリダでも『公認』にしてやれ!」

破れかぶれに隼人が言い捨てると、葉月もボタンを外すのをやめて、そっと笑い出した。

「そうよね? いつかは……皆、知ることになるものね?」

「そうそう。丁度よい、いいや──。大佐嬢に手を出すなって事にしておこう」

隼人がベンチから立ち上がって伸びをすると、葉月もそっと立ち上がった。

 

「広くて青くて綺麗──」

輝く芝庭を葉月は、穏やかに見つめていた。

「輝いているな……芝生」

「うん──草原みたい……」

二人の目の前に広がる青々として広い庭。

そこの木陰に羽を休めている小鳥のように、二人はジッと芝庭を眺める。

いつか二人で……こんな風景を心に得ることが出来るだろうか?

お互いに……そう考えているように隼人には思えた。

葉月がずっと昔から描いている、求めている『安らぎ』なのだろうか?

いつの間にか、お互いに手を繋いでいた。

 

「気が楽になったら……小腹空いちゃった」

「そうだな。俺も丁度良くティータイムの前だったから、このままカフェに行こうかな?」

「私、シナモンドーナツ、食べる!」

「まったく、お前。本当に調子良いやっちゃな?」

隼人が冷ややかに葉月を見下ろしても……

葉月は『なによ?』と急にいつものじゃじゃ馬に戻っていた。

「じゃぁ……行こうか?」

「うん……行きましょう」

二人で木陰を出る……。

 

葉月が、ふわっと隼人の腕にしがみついてきた──。

誰もいないところでは時々そうしてくる彼女だが……

今日は変に素直。

そして……隼人も……なんだかそれで心が軽くなったりする。

隼人もそのままにして微笑み返した。

 

『今朝のレモンシュガーフレンチトースト、美味しかった♪

なんで、丘の家では作ってくれないの?』

『とっておきだからな。毎朝は面倒くさい』

 

木陰を出ると、急に風が頬に当たって、葉月の頬を栗毛が隠した。

その栗毛を、葉月がサッとかき上げる仕草──。

煌めく眼差し、柔らかい眼差しで隼人を見上げて微笑みかけてくる。

 

隼人はちょっとだけ……

彼女が『大人の階段』を登り始めている様に見えて……

変に眩しく見えた。