38.ジャンキー

 

『ジョイ──。お疲れ様、そちらは何事もないでしょうか?

 こちらは隼人さんのプロジェクトに異変がありました。なんと──!』

 

 葉月は午後は父の秘書室にて、ノートパソコンに向かっていた。

秘書官の何人かは外に出かけていて、マイクもいなかった。

勿論──父もお出かけ中だ。

朝、小笠原で留守番中のジョイに返信を送ると、早速返事が返ってきていた。

向こうは夜中だろうに、就寝前にジョイが早速返事を打ち込んでくれたらしい。

『えー! あのマリア姉さんがアシスタントに!? 良く許可したね? お嬢!』

そんなジョイと、いつもの幼なじみの感覚での文通。

ジョイは驚き……でも、葉月が朝書いて送った内容に納得してくれた様だ。

『でも……そうだね。お嬢は昔は避けていたもんね。

俺も、彼女のお節介はちょっと鬱陶しく思っていたけど』

『お節介』とは思ってはいなかったのだが……

葉月に近づくマリアの事を、ジョイは『お節介』と見ていたようだ。

『それで? お嬢……。自分の事を彼女に教える決心が付いたわけ?

無理するなよ。いちいち肩の傷のこと言わなくても、仲良くなる方法はいっぱいあると思うよ。

勿論──お嬢が自分でどうしても伝えたいなら俺は止めないけどね?

でもさ……そういう事、話せば嫌な想いをしたり、苦しい事思い出すのはお嬢自身だよ……!

自分のことを考えて……ね?』

ジョイのいたわりに、葉月は微笑みながらメールを閉じる。

ジョイの言葉に癒されて……今、笑っていたのに……。

心の何処かで……暗くて重くて、そして熱く焼けそうな気持ちが渦巻いた。

『あの日の光景』は……今でも『絶対忘れない』

普段は閉じこめている。

似たような事柄を見たり、聞いたりする事も、避けて通るようにしている。

でも──。

『大佐……? 大佐……? お嬢様??』

葉月はハッとして俯いていた姿勢から顔を上げた。

「如何されましたか? お顔色が……。気分でも悪いのですか?」

留守番をしていた若い秘書官が驚いた様に葉月を見つめていた。

彼が今にも席を立って、こちらに飛んできそうな雰囲気で──。

「いえ……ちょっと考え事を……。大丈夫です」

なんとか笑顔を浮かべると、彼もホッとしたように微笑んで席に座った。

 

(いけない──)

葉月は頭を振った。

ジョイの言うとおりだ。

話そうとすれば、嫌でも……思い出す。

先程も隼人にちょっと話そうとしただけで、気分が悪くなった。

憎くて、悔しくて……どうしようもない。

葉月が『復讐したいイキモノ』は、もう、この世にはいないとは解っていても

この憎しみを何処にぶつければ、気が済むのかも解らない……。

時が経って随分心の中でコントロールも出来るようになったし

忘れる方法も身につけてきたつもりだが

『一生忘れない』とも思っていた。

葉月が忘れたら……誇りを傷つけられたまま死んでしまった姉の代わりに

誰が『あのイキモノ達』を呪うことができようか?

呪わねば……アイツらは魂になっても地獄に行かない。

そう……ずっと思っていた。

呪うべき『イキモノ』は現存しないから、似た男は全部『呪ってやる』!!

心の何処かで、いつもそれがうずく──。

そういう事をしても姉は喜ばないことも解っているのに──

それが出来ない。

葉月はまた……額に汗を滲ませて俯いていたようだった。

「お嬢様──?」

また秘書官が心配する声。

「ちょっと……お茶でもしてきます」

葉月は気分をどうにか切り替えようと、秘書室を出ることにした。

 

結局、葉月は『人混み』を嫌ってカフェテリアへは足を向けなかった。

自然と向かったのは……やっぱり隼人の元だった。

彼が今、忙しいのは解っている。

でも──顔だけでもいいから見たくなった。

遠くからでも良いから……。

 

葉月はふと……足を止めた。

いつからだろう?

いつから……こんなに彼を『必要』とするようになったのだろう?

いつも……毎度の恋のように隼人もきっと困らせて

長続きがしないとも思っていた。

一時でもいい……彼と楽しい時間が過ごせるなら……。

そういう心積もりで一緒に暮らし始めた。

それが……

やっぱりもっと一緒にいたい。 そんな感情に膨れていった。

だから……今までと同じ繰り返しにならないよう……

そうならない努力はしてきたつもりだった。

それでも──今までも随分彼は葉月に振り回されてきたはずなのに。

彼は……いつも葉月の側にいる。

これからだって……もっと今まで以上を追求すれば

葉月自身が殺してきた『本当の自分』と今のように向き合わねばならない。

それでも──苦しくても……隼人は葉月を今までの誰よりも前に押してくれる。

苦しくても、後押ししてくれた通りに勇気を出して得た物は、

この一年でも今まで以上にたくさんあった……。

いつから……彼を真っ先に思い浮かべる様になったのだろう?

こんなに……欲して彼の元へ向かう自分を葉月は初めて知ったように思えた。

 

葉月は再び歩き出す。

まるで急ぐように……メンテ本部へ向かった。

 

 

「お恥ずかしいのですが、これが私のお薦めの隊員達です」

「どれどれ──?」

隼人がマリアと『組み直した計画』は午後から始まっていた。

マリアがバインダーから一枚のプリントを隼人に差し出す。

この『マリア観点』のメンバー推薦は計画書に記した計画の一つだった。

「ふーん……」

マリアが教官として見てきた上で選んでだ隊員達を隼人が眺めている。

「……そうだな」

隼人は赤いサインペンを取りだして、キャップを開ける。

そして──レ点チェックとバツ印をつける。三角印もつけた。

隼人がサラサラとマリアが作った名簿に色々な印を付けるのをマリアは見守った。

「驚いたな──。俺が選んだ候補員が結構入っている」

隼人がチェックをしたプリントをマリアにむき直した。

「……」

バツ印は少なかった。レ点印がやや多く──三角印も同じく数カ所。

キャップを閉めた赤ペンの先で隼人が説明を始めた。

「レ点は……俺が今、引き抜きたいと思っている候補員。

バツ印は……事情があってこちらに来る前に候補員から外した。

けど──元々候補員だったという事だね。

ハリス少佐と俺が選んだ候補員と君が見定めた隊員がほぼ一致している」

「ええ!? 本当ですか??」

「ああ」

「それでは! 私、もうお役に立てないって事じゃないですか!?」

マリアは隼人が知らない隊員を推薦したかったのだ。

そして──隼人に候補にあげた隊員を気に入ってもらう事で

役に立ちたかったから、この計画のためほぼ徹夜に近い状態で、

研修をした名簿やフロリダ側の日頃の人事的情報も含めて

ピックアップしたのに……。

「まぁ──聞いてくれよ」

マリアの狼狽えに構わず、隼人があの冷静な顔つきで淡々と進める。

「この三角印は……俺も知らない隊員だ。女性が多いな?

さすが……フロリダ。女性メンテ員も結構いるんだな」

「あ。はい──彼女達は若いのですけど、新入隊をしてきた時に

空母艦構造などの研修を受け持った事もありますし……。

同じ女性同士なので、教官と研修生という関係以外にも先輩後輩で交流があったりします。

ですけど──私情ではありません。

彼女達も必死に男性について頑張っていますし、他の男性メンテ員から

彼女達の近況などを聞いた上で……数名、選んでみました。

つまり──男性メンテ員にも『信頼され、好評』という所を……」

「へぇ──。それは俺もハリス少佐も気が付かなかったな……」

「やはり──男性はそうだろうと思って。

ただし──彼女達がフロリダを離れてくれるかどうかは……保証できませんけど。

三角印の男性は『新人』や『入隊数年』の若い隊員です」

「ふぅん?」

隼人は彼女達のプロフィールをシゲシゲとチェックを始めていた。

「……お言葉ですが……。せっかく女性パイロットがいるフライトチーム。

メンテチームにも女性がいても良いかと……勝手に思いました」

「……」

隼人がもの凄い真剣な顔で、プリントを見つめて黙り込んでしまった。

(やっぱり──女性は念頭にないのかしら?)

あのコリンズチームのメンテチーム。

サワムラ中佐が、きちんとした男性のみで快いスタートを切りたいと思っているのかと

マリアは……ちょっとがっかりしてため息をついた。

 

だが──

「……彼女らの訓練を見学する手配、取ってもらおうか?

その若い男性も含めて、その三角印をつけたメンテ員、5名全員だ。

しかも明日・明後日中に見学が済むようにスケジュール調整してもらおうか?」

「え!?」

「それがアシスト初仕事だ」

笑わない隼人が中佐の眼差しで、マリアにプリントを差し向けてきた。

「……はい! 中佐!」

マリアが元気良く返事をすると、隼人がニッコリ微笑んでくれた。

「あのさ──さっき、俺達が既に手を着けている候補員ばかりだって

ガッカリしていたけど……。俺は逆に信用を持てたね」

「そうですか……?」

「俺達と同じ見る目と価値観を既に持っているって事だろう?

女性メンテ員は思いつかなかったけどな。自信持って良いと思うよ」

さらに彼が寛大な微笑みをくれたので、マリアもホッとして自然と笑顔になれた。

 

『全然……違う』

マーティン少佐の『後押し』とは全然違う『充実感』をマリアは……

隼人から味わっていた。

「ノートパソコンは持ってきたかな?」

「はい……」

「俺のパソコンは絶対に触らないでくれ。小笠原関係も入っているから、これ鉄則」

「勿論です」

「解らないこと、迷うことがあったら自分で判断しないで、まず俺に相談する事」

「はい──」

「ここはメンテ本部だから、空母艦搭乗許可はここの隊員にお願いする事」

すると、隼人が席をたって、目の前の金髪の男性に声をかけた。

「ドニー」

「なんだい──?」

「悪いけど、彼女が空母艦搭乗の申請を持ってきたら……協力して欲しいんだけど」

「ああ、勿論! 構わないぜ?」

「悪いね……俺達の仕事で」

「全然? 俺達本部の仕事だぜ? 誰が持ってきてもやらなきゃ行けないことだ。

俺の手がふさがっていれば……他の奴に責任持って回すよ」

「サワムラ君、俺も手伝うからドニーばかり頼るなよ!」

ドナルドの隣の席の先輩もそういって協力してくれると言う。

「有り難うございます。助かりますよ」

「ブラウン大尉──遠慮なくね。あ、パソコン繋ぐなら手伝うよ?」

ドナルドがいつもの気さくさで席をたって隼人の近くの席を動かし始める。

「あ、申し訳ありません……」

「なんのなんの! いいなぁ──サワムラ君は女性の上司にアシスタントか」

「そんな言い方ないだろ? 色々大変なんだ、俺も──」

「アハハ──ここ二日、そうだったね。ま、俺としちゃ見ていても羨ましかったな!」

「まぁ……」

男性達の憎まれ口の軽い会話にマリアも思わず笑っていた。

ドナルドが親切に隼人の席の隣になるよう席を作ってくれて

パソコンも……マリアからするとなんなく繋げるのに配線をしてくれたりする。

席も出来上がって、さぁ! 『初仕事』だ!

マリアはざっと段取りを紙にまとめて、まずメンテキャプテンがいる班室へと

訓練見学の『交渉』へ行くことにした。

「ただ単に『小笠原の中佐が見学したい』と申し入れて、あくまでも俺の代理人と言うように。

そろそろメンテ班室でも噂はたっているかもしれないけど、引き抜きの話は絶対口にしない」

「解りました。行って参ります!」

「グッラク──」

隼人に見送られてマリアはメンテ本部を飛び出した。

 

「彼女──活き活きしているね〜。昨日まで、堅いキャリアウーマンに見えたけど……

ああしていると結構、可愛げあるんだな?」

ドナルドがそんなふうにして女性の表情を鋭く見定めるので、隼人は内心驚いた。

「うん、まぁ──さすが、ブラウン少将の一人娘かな……と」

「良かったな。良い方へ転んだようで」

「お陰様で」

隼人もニヤッと満足が隠しきれない微笑みをこぼしていた。

 

 

 マリアの足取りは軽かった。

ここ最近にないこの充実感は何なのだろう?

マリアはそう思い始めて、ちょっと歩く速度を落として……

ハイヒールのつま先に視線を落とした。

 

考えたが……解らなかった。

でも──息が詰まりそうな工学科での日々、

そして……一人で頑張るしかなかった人に後ろ指さされながらの日々とは

違った明るく軽やかな空気が自分を取り巻いたように思えた。

信じていた上司に対する『疑惑』も思い出す。

暫く──あの教官室へ戻らなくて良いことを考えると……

よけいに……隼人と向き合って得た感覚が明るく浮き彫りされた。

 

『銃器以外に空軍の通信も学びたい!?』

三年前……。

達也と結婚したばかりの頃だった。

そう言いだしたマリアの言葉に夫・達也が驚いた。

 

マリアの父親は陸専門の男。

パパを助ける『武器』を最新にする!

それがマリアの『夢』だった。

小さい頃から、父親がしきりに話してくれる『銃』や『潜入器機』

マリアは当たり前のように父から聞いてきた。

『もっと、こんなふうになる便利な道具ができればな』

パパがそう言っていた。

『それが実現したら……パパはやりやすいの?』

『ああ、敵とそんなに接触しなくて済むしな』

リチャードには息子がいない。

元気で好奇心旺盛な娘がいるだけ。

だから……マリアは息子に語りかけるような父親の話を自然と聞いていた。

それがきっと『銃器工学』へとマリアを駆り立てた『由来』だと思っている。

だけど──時代は変わってゆく。

ある時、自分がしている事に『疑問』を持った。

『私は……争いの道具を作っているのかしら?』

人殺しの道具を──武器を……。

いや? 『身を守るための道具。パパを守る道具』

それを研究してきたと言い聞かせてきた時もあった。

パパが任務に赴くと、ママと二人きり震えるように待っていた。

だから──結婚した夫には『現場』を望まなかった。

 

もっと前の段階で、『回避できる事』を発展させたい。

それが『通信』だった。

だが──そうなるとかなり最初から学ばなくてはならない。

『やりたいなら、やればいいじゃないか? 遅いなんて事ないぜ?

まだ二十代なんだから、一からだって良いじゃないか?』

そういって、マリアの新たな『前進』に、何も言わず、

それ以上、後押ししてくれたのは『達也』だった。

銃器科の従来の教官職をしながら……空軍の知識を学ぶ『カリキュラム』を取ることが出来た。

三年──夫の協力の元、マリアは新しい専門を身につけ始めていたのだ。

 

その新しい『専門』がここにきて大きく役に立つようになった事。

この充実感なのだろうか──?

いや──マリアが提案した事は実力で始動した計画ではない事は

先程……痛いほど解ったから。

この事でもないような違和感があった。

 

マリアはまた立ち止まってハイヒールの先を見下ろした。

釈然としないが先を急がねばならず、歩き出す。

 

階段まできて、壁の角を曲がろうとした時だった。

 

「きゃっ!」

「ソ、ソーリー!?」

角で誰かにぶつかった!

階段を上がってきて角から現れた男性の……

背が高い男性の肩にマリアの額が当たったのだ。

「ご、ごめんなさい! ぼんやりしていたのは私で──」

マリアは、金茶毛の前髪をかき上げながらぶつかった『男性』に謝り……

見上げると……

 

「た、達也!?」

「マリア──!!」

空部隊の棟に陸部専門の別れた夫と鉢合って驚いた!

 

「なんでこんな所にいるのよ!?」

こうして顔を合わせて、話すのも……彼が任務から無事帰還して以来だ。

無事に帰ってきたので、それを激励する為に会って以来だった。

その時に『任務の経過』……どのようにして犯人と関わったとか

それで……御園大佐が的になって達也が左肩を撃つ事になった事とか……

そして──『彼の変わらぬ決意』。

フォスター隊への転属を聞かされ、益々二人の心がすれ違って以来。

遠目に見ることはあっても、言葉を交わしたりすることはなくなっていた。

「お前こそ……聞いたぞ。隊長から、澤村中佐のアシスタントについたと」

達也が納得いかなそうにマリアを見下ろした。

マリアはいつものような強気でツンと達也から顔を逸らす。

「それは私の勝手でしょ!」

達也こそ、自分の気持ちの赴くまま家を出ていこうとしていたのだ。

『おあいこ』なのだ。

「そうだな。俺にとやかくいう資格はもうないしな」

「あら? 当てつけだって言いたいの?

そんな『低俗』な事はしないわよ? 私。

そういう意味で、『元妻』があなたの『昔の恋人』やサワムラ中佐に

迷惑をかけていないかと、不安でこっちにきたなら心配ご無用。

私──サワムラ中佐と一緒にお仕事始めて、いろいろ勉強になっているもの」

本当は散々迷惑をかけた後なのだが、マリアは強気で言い切った。

それに……あの二人から、特に隼人から

沢山……初めての良き感触を与えてもらっているのも確かだ。

「……」

すると──いつだってなんでも速攻言葉をハッキリと言う元夫が黙り込んだので、

マリアは不思議に思って逸らした顔を、もう一度達也に向けた。

「……そっか、それなら良かった」

達也が笑った……。

それもマリアが知っている理解あるあの笑顔だった。

「──?」

なんだか拍子抜けした。

「あの兄さんは、ただ者じゃないからな。

きっとマリアも為になること……あの中佐から感じることが出来るよ。

葉月の影に徹しているから地味に動いているけど

よく見ていると、あれは影の実力者って感じだろ?」

「そう──! そう思ったわ!」

「……だろ!」

人差し指で二人揃って差し合って……それが触れそうになった。

お互いにハッとして指を引っ込めた。

「……でも、『彼女』もすごかったわ」

「んん!? 何かあったのか? アイツがしゃしゃり出ると絶対に大事になったりするからな!」

「……」

それが当たっていたので、今度はマリアが黙り込んだ。

やっぱり……この男は『葉月』のやることは沢山お見通しで……

良く解っているのだと……。

だけど──

「……彼女、本当に大佐って感じだわ。素晴らしいと思ったの。格好良かったわ」

マリアがそっと眼差しを伏せて、柔らかく微笑むと

達也もそっと息を引くように落ちついた様だ。

「……安心した。仲良く楽しくやっているようで。それならいいんだ」

『じゃぁな』

達也も穏やかな笑顔を残して、サッと背を向けたのだ。

彼が肩越しに手を振って階段を降りて行く──。

 

『仲良く楽しくやっているようで……』

 

マリアの頭に……達也のその言葉が変にこびりついた。

 

『──!!』

急に目の前が開けたような気がした!!

 

マリアは慌てて、達也の後を追い階段を降りる!

「達也──!」

階段の踊り場まで降りても、足の長い達也は既に下の踊り場を過ぎて

次の階段を半分も降りかけていた。

「なに?」

背も高いから、階段の手すりからでも彼の頭がはみ出している。

「あのね……」

マリアは息を切らしながら、階段をもう一つ降りて

達也のすぐ上の踊り場に駆け降りる。

「どうしたんだよ? 兄さんに言われた仕事に出かける所なんだろ?

兄さんは割り切り厳しいから、甘い事ないぜ? ちゃんとやれよ」

「……」

また、達也が何故か満足そうに微笑んで……階段を降り始める。

 

「良かったら──今夜、一緒に食事をしない?」

 

「──!?」

 

当然……別れた妻からの『お誘い』に達也が驚いて振り返った──。

 

そこに別れた夫妻の間に……シンとした静寂が漂った。

 

 

「ふーむむ。。」

午後のメンテ本部室も慌ただしい雑音で、皆がデスクにかじりつき

電話に耳をあて……

フロリダ基地中の訓練が滞りなく行われるようにメンテナンスチームをサポートする。

ドナルドも、その一人として集中──。

「はぁ──」

そろそろティータイムの時間だ。あと……一息じゃないか?

彼はそう思って、切れそうな集中力をもう一度戻そうと思った。

後ろをフッと振り返ると、窓際の臨時席にいる小笠原の『若中佐』が

眼鏡をかけた顔で、真剣にノートパソコンに向かっている。

自分より少し年下の男だが、この一週間ばかりの短い時間で

彼の素晴らしさは身に染みたほど──。

至って冷静で、それでいて決して冷酷なだけでもなく

穏やかで……そして、優しい笑顔も持っている。

へんな中佐の『威厳』は絶対醸し出さず、どこまでも自然体だ。

「……」

そんな彼の真剣な顔は、今は中佐。

間違ってもいつもの気楽さでちょっかいは出しては行けないと言う

そんな空気を彼が放っていて

その真剣さに負けまいとドナルドもデスクに向かう。

「……おい、ドニー?」

隣の席の男がボールペンで、ドナルドの腕をつついた。

「なんだよ?」

「あれ……大佐嬢だよな?」

「え?」

同僚がさしたのは本部の入り口だった。

 

「あれ……そうだな?」

ドナルドも一目見て……『彼女』かどうか……一瞬迷った。

何故なら……非常に冴えない顔色で、表情も暗くて重くて……。

言い方は悪いかもしれないが『ジャンキー(中毒者)』に見えたほどだ。

堂々とした輝くばかりの大佐嬢であったり、ほんわりしたお嬢ちゃんであったり。

メンテ本部の隊員達は、皆、その不思議な魅力にすっかり引き込まれていた。

 

ただ──ドナルドは御園嬢の、今のその表情に『見覚え』があって胸騒ぎがした。

そう……昔、彼女は時々あんな顔で……

裏庭や目立たない草場に身をひそめている事があり

まるで人目を避けるようにして隠れているように見えた。

一度だけ──草場の影で膝を抱えてぼんやりしていた彼女に声をかけたことがある。

いや──ふらりと校庭に出る彼女を見つけたので

そっと彼女の後を追ったら……草場に隠れたといった所だ。

『どうしたんだい? 予備校生はもう授業が始まっているよ? 気分が悪いのかな?』

『……関係ないだろ』

彼女はむくれてドナルドを睨み付けた。

品の良い顔をしている彼女から、そんな乱暴な言い方がつきだしたので驚いた。

それに何故? そんな憎しみを込めたような眼差しをするのか……

ドナルドはドッキリとしたぐらいだった。

『……気分悪くないなら、それでいいけどね』

すると……彼女がザッと……まるで隠れた所を見つけられた小動物のように

草場から飛び出して何処かに行ってしまったのだ。

 

だけど──

彼女はやっぱり目を引いた。

ドナルドだけじゃない。

皆が良きにしろ悪きにしろ……彼女を見かけると足を止める。

まだ背丈が小さくジュニアスクールの児童のようななりで紺の制服を着て

柔らかそうな短い栗毛を頬に沿わせて、横顔はとても冷たく──

それでもスッとした品の良いたたずまいは遠くからでも目を引いた。

『あの子、綺麗だよなー。大人になったらいい女になるだろうけどな?』

友人の一人がそう言った。

『……ま、惜しいことになりそうもないな。あんな男みたいな風貌じゃ……』

その友人は、そう言って笑っていた。

彼女は、そのころ『暴れ者』として有名だった。

しかも男を恐れさせる腕前と騒がれた。

中将を祖父に持ち、父親は大佐、母親は博士──。

家柄でも目立っていた。

ドナルドも随分気にしていた存在になっていた──。

皆、心にはひた隠しにしていただろうが、本心では結構気になっていた方だと感じていた。

 

彼女を目で追うようになったので、キャンパスで見つけると

出来る限り気づかれないように彼女の後を追うようになってしまったドナルド。

一度だけ──校舎の裏で、彼女がヴァイオリンを

おおきなスポーツバッグから無造作に出したのを目撃。

校舎裏の海が見える土手。

フェンスを越えて、彼女が青々と茂る背の高い草の中に

溶け込むようにして弾いていたのだ。

その時の顔は……草場に膝を抱えて隠れているような彼女の顔ではなかった。

頬に赤味が差し、麗しい眼差しで……

そして……どこか憂いある瞳で優しい音が響いたので驚いた。

本当は──その顔が彼女の本当の顔なんだ。

草場でふてくされている彼女は『麻薬中毒者』の様に病的な顔をしていたが──。

軍人名家のお嬢様……。

色々あってもおかしくない……。

ドナルドはそう思った。

そして……その時19歳だったドナルドは訓練校を卒業。

彼女と同じ校内にいたのは──、一年だけだった。

そしてヴァイオリンを弾いたのを見たのも一度だけ……。

 

そんな昔のことを、ドナルドはサッと思い返し……

今──入り口の影でジッとこちらを見つめている彼女の顔が

『草場』にいるあの時の彼女と一緒だ!と……席を立った。

ところが……ドナルドが席を立ったため……。

入り口にいる葉月もハッとしたようにして、ドナルドと視線が合う。

 

「あ!」

その途端!! また、小動物のように彼女は姿を消してしまったのだ!

「あれ? サワムラ君をジッと見ていたような気がしたんだけどな?

遠慮なく入室出来る立場なのに……変なの」

隣の席の同僚が首を傾げる。

 

ドナルドはフッと隼人の方に、振り返る。

「──??」

隼人も、不思議そうに顔を上げた。

「そこに大佐嬢がいたんだけど……」

「ああ、そうなんだ」

彼女が単に様子を見に来ただけと隼人は思ったらしく

『こっちは勤務中』と取り合うつもりもないようだ。

淡泊に答えて元の姿勢に戻ってしまった。

ドナルドは席を離れて、隼人のデスクの前に立ちはだかる。

「後を追いかけた方が良いと思うよ」

「どうして?」

隼人はキーボードを打つまま、モニターを眺めたまま

またもや、素っ気ない。

「……ジャンキーみたいな顔をして、君を遠くから見ていたからさ」

「──!!」

そんな『例え』は失礼かと思ったのだが、その一言で、何故か隼人の顔色が急変した。

隼人が慌てたように立ち上がった。

「どっちに行った!?」

「あっち──」

葉月が去った方をドナルドは指さした。

「サンキュー!! ドニー」

今日から長袖の薄物上着を持ってきて、脱いでいた隼人が

手早く上着を手にしてメンテ本部を出ていった。

『ジャンキーで通じるなんて……』

ドナルドも少しばかり汗が滲んでいた。

『サワムラ君は……訳を知っていそうだな』

ドナルドは……そう直感した。

探ろうだなんて、思っていやしないが……。

何故? あの時、憎しみを込めた眼差しで睨み付けられたのか──。

ドナルドは、今までずっとあんな眼差しをされたのは

後にも先にも『葉月』だけで……ずっと忘れられなかったのだ。

あんなに綺麗な音を、あんな優雅な表情で奏でる彼女が……。

 

それが──知りたかっただけなのだが。

どうもそれは知ってはいけないと……隼人の様子からそう感じた。

 

ドナルドは溜息をついて席に戻った──。

すると……

隣の男が今の様子を見ていたせいか、ドナルドに一言。

「やっぱり、噂は本当かもな?」

「噂?」

「あれ? 結構情報通のドニーなら知っていると思ったんだけどさ」

「なんの事だよ?」

「……付き合っているらしいぜ? 大佐嬢とサワムラ君」

「──ええ!? 付き合っているって『ステディ』って事で!?」

「ああ、そうだぜ? 将軍もミセス=ドクターも公認だって噂も。

だから、将軍宅から通っているんだろう? サワムラ君」

「……」

いや──?

二人の息の合い方、隼人の彼女に対する敏感さに俊敏さ。

思い返せばそうとも取れるので違和感はなかったが……

皆がまだ『噂』としてとどめているのは、

やっぱり二人がそう見えてそう見えない職務姿勢を保っているからだろう──。

 

「慌てていたな……サワムラ君」

「ああ──」

でも……あれから十何年も経っているのに、

あの少女の時に見た重い表情を彼女がまだ秘めていた事は

ドナルドとしては残念な事だった。

それはきっと、根が深く……。

そして今は……隼人が一緒に支えて闘っているのだとドナルドは直感した──。