49.心の津波

 

 人もまばらになってきた『ランバートメンテナス本部』──。

この本部に、マリアは気になって戻ってきてしまっていた。

だが、戻ってきた時には既に隼人の姿はない。

 

(葉月が来て……一緒に帰ったのかしら?)

 

マリアは時計を見て……そして、赤いバッグから携帯電話を覗いてみる。

 

『お前は、いつも通りに接したら良いよ。

もし、兄さんと話せたら連絡するから──』

 

達也がそう言ってくれ、あの後、別れた。

 

(中佐……。葉月に対して冷静に接しているかしら?)

 

あの隼人でも『それは無理』と思って、マリアは溜息ばかりをこぼしていた。

何故か……帰れない。

『バスで帰る』なんて、咄嗟に出た『言い訳』

車は昨日の夕方、ブルースに捕まったので、基地に一晩置いてきているのだから。

それすらも隼人は解っていたのじゃないかと……。

マリアは余程に自分が動揺していたのだと……落ちついてみると改めてガックリとする。

 

「あら? マリアさん……。中佐は?」

うなだれている所に葉月が現れて、マリアはビックリして顔をあげた。

「ハ、葉月……。てっきり、中佐と一緒に帰ったのかと?」

「え? ちょっとマイクと話し込んでいて……それで遅くなってしまったんだけど?」

「──!!」

それを聞いてマリアは『やっぱり!』と、確信した。

隼人は、マリアの話で勘づいてしまって……

それで『やっぱり』葉月とは顔を合わせられない状態に陥ってしまったのだ!……と。

 

「どうかしたの? 顔色……悪いようだけど?」

怪訝そうに葉月がマリアの顔を覗き込んだ。

「……ううん? 大丈夫よ。なんでもないわ……」

「そう?」

葉月はまだ怪訝そうにマリアを見つめていたが、

マリアはなんとか平静を保って微笑んだ。

「そう……帰っちゃったのね」

葉月は残念そうに隼人の席を見つめていた。

「マリアさんは? 中佐に何か言い付けられて残っているの?」

「え? いいえ……? もう、帰るわ」

これ以上、ここにいてももう仕様がないし。

ここに残っているままだと、葉月が余計に不思議に思うだろうと

マリアは思い切って腰をあげる。

夜、自宅に戻って……達也の連絡を待つことにした。

 

「じゃぁ……お疲れ様」

「お疲れ様」

気だるそうに挨拶をしたマリアに、葉月はいつもの控えめな笑顔で挨拶をしてくれた。

 

マリアが本部前の廊下に出て暫く後──。

葉月が反対側の入り口から出てきて、マリアとは反対方向へと向かっていた。

自転車を駐輪場に停めているなら、確かにその方向。

マリアは……自宅に戻った葉月が隼人と対峙して……

どんな気持ちになるだろうかと思うと、またいてもたってもいられなくなった。

 

「葉月──!」

解っている。

もう事を自分が動かしてしまってどうしようもなくなっている事も。

そして、これ以上……余計な事で波風は立ててもいけない事も。

だけど、マリアとしてはジッとしていられなかったのだ。

彼女と『あの話』をするつもりもない。

だけど──マリアは自然と葉月の後を追ってしまっていたのだ。

「──?」

おかっぱ頭の彼女が振り返った。

「どうかした?」

また控えめな笑顔でマリアに微笑む葉月。

「……その」

「? なに?」

葉月はそのまま微笑みながら、マリアの瞳を真っ直ぐに見つめてくれる。

今まで……彼女とこうして目を合わせた事もなかった為か……。

マリアはちょっと戸惑って、眼差しを伏せてしまった。

「自転車で帰るのでしょう?」

「ええ。学生時代に乗っていた自転車で、毎日、通っているの」

「よかったら……送るわよ? フェニックスの海岸まで結構な距離はあるじゃない?」

「……え? でも、慣れているわ」

「……それならいいのだけど」

いつも通り、葉月はそんなには距離を縮めようとはしてくれない。

でも、だからといってマリアの愛車に乗せて

『自分は何を話すつもり』なのかとマリアは自問自答した。

 

「……じゃぁ、乗せてもらおうかしら?」

「え!?」

葉月がニッコリ、警戒なく微笑んでいた。

逆にマリアが固まった。

「……その……マリアさんが良ければだけど」

マリアの思わずの反応に、途端に葉月が何か察したかのように引いて行く。

「ううん? 勿論よ! 行きましょう!」

マリアは変に明るく叫んで、張り切った振りをして進み始める。

(びっくりしたわ)

勿論、ダメモトで誘ったのだが。

今まで避けられていた葉月が、こうして受け入れてくれた事はマリアには驚きだったのだ。

 

二人は駐車場へと方向転換して向かう。

 

 

 夕なずむ海岸沿いを、マリアの真っ赤な車が走る──。

 「私も赤い車なのよ」

助手席には、葉月……。

入り込んでくる潮風に、短い髪がそよいで彼女の頬をくすぐっている。

「そうなの?」

「うん。何故か車だけ赤色になってしまったの」

「そういえば? この前、『姉様は赤色』って言っていたわね?

ウキョウさんが、決めた姉妹の色だって」

マリアは、ちょっと恐る恐る尋ねてみた。

「そう。従兄が決めたの。

兄様がそんな言を言う物だから、姉様が真に受けたのよね。

私には青っぽい色ばかり合わせるの。葉っぱだから青色って──」

だけど、葉月はいつもの落ちついた雰囲気でサラッと答えてくれた。

「リーフという漢字が付くから?」

「たぶん。姉様の場合は……洋名は『アザレア』だけど

日本ではサツキという名前の花なの。赤とかピンクとかが多いでしょ?」

「そうなの〜。名前のイメージってすごいわね?」

「そうね? だけど、車は『赤』って決めていたの。昔から──」

「なにか訳があるの?」

「……ないわ? 何故かそうなってしまったの。一つだけ赤があっても良いかしら?って。

マリアさんは赤がいっぱいね?」

葉月が微笑みながら、ハンドルを握るマリアの左腕を指さしてきた。

赤い腕時計──。

そして、赤い車、赤いバッグ、赤い携帯電話……深紅の口紅。

なにかしらとマリアは赤を幼い頃から好んでいたのは確かだ。

「そうね……何故かしら? 私もどうしてか覚えていないわ」

マリアも自分の事が不思議に思えて笑っていた。

葉月も横で、楽しそうにひっそり微笑んでいる。

 

こうしているとマリアも、葉月とは初めてと言って良いほどの

対話をしているから……気が紛れていた。

だが──車は徐々に葉月の自宅があるフェニックス通りに近づいてくる。

(帰ったら……中佐と……)

またそんな暗い物がマリアの頭の中で渦巻く──。

もしかすると……隼人は帰っていないかも?しれないが……。

でも──。

 

「ねぇ? せっかくだから……ここら辺で涼んでいかない? 夕日が見れると思うのよね!」

マリアはすぐに葉月を帰したくなく、またもや咄嗟にそんな事を言いだしていた。

「え?」

葉月はすぐに帰れると思っていたのだろうか?

思わぬ事を言ったマリアに躊躇した声……。

「ね? せっかくフロリダに帰ってきたんだもの!」

なんて……小笠原だって海に囲まれた日本南の島じゃないか?と

マリアは自分で気が付いて呆れたりした。

「……」

葉月が不思議そうに首を傾げて、何か考えている様子に

マリアは益々、焦ってしまう。

「も、もっと……葉月と話したいの!!」

本心であるが、今すぐというものとは思っていなかったマリアは

自分が言い出している事にまた……自己嫌悪に陥りそうになった。

「そうね? 夕飯まで、まだ時間があるし」

葉月がにこりと柔和に微笑んだ。

マリアはホッとして……

(無駄な抵抗かもしれないけど……)

これで隼人と葉月がすぐに顔を合わせる事もなく、

多少は隼人が落ちつく為の時間稼ぎが出来ると思った。

マリアは、砂浜に降りられる路肩に車を駐車した。

 

夕方の風はやや強く、砂浜に降りるとさらに二人の女の身体に向かってくる。

「浜に出ると……強いわね」

マリアはまとめていない髪が、頬やまぶたにまとわりつくので

払うのに必死になりながら先へ行く葉月の後を歩く。

 

「マリアさん、大丈夫? パンプスに砂が入るでしょう?」

不安定なヒールでよろめきながら砂浜を歩くマリアに気遣って

葉月が振り返った……。

葉月はと言うと……足首を少し隠すほどの黒いアンクルブーツ。

夏だというのに妙にがっしりした足元だった。

だから、葉月は砂に捕らわれることなく歩いていたのに……。

そんなマリアに気遣ってくれる。

その上──。

波打ち際が目の前に見える、波がこない砂の上に

そっと葉月が大判のハンカチを敷いてくれたのだ。

「汚れるから、どうぞ」

「……」

マリアは目の前の年下の女の子が……『紳士』の様なので

目を丸くしてしまった。

「何言っているのよ? 葉月だって汚れるわよ?」

マリアはさっとスカートのポケットから、自分のハンカチを取りだした。

「素敵なハンカチね? 汚れるわよ?」

シビラの赤いハンカチ……。

「マリアさんはシビラの洋服が似合いそうだわ」

葉月が急に……女性らしい事を言う。

その差にマリアは一瞬戸惑ったのだが……

「そうなの! 私、シビラ好きなの!」

本当の事だった。

シビラの真っ赤なワンピースにカットソーは沢山持っているし……

それに、達也と住んでいた家の内装にもシビラのアイテムを沢山、使っていた。

「ふふ……」

葉月が『そうだろうと思った』とばかりに、得意そうに笑った。

「赤が好きだと言う事は、そんな『スペイン風』の雰囲気が好きだと思ったの」

「そうね。シビラはニューヨーク生まれだけど、スペイン育ちだもの」

 

「知っている? 私にはスペインの血が流れているの」

「ええ……パパから聞いたわ? お祖母様がスペイン人だって。

だからリョウ先輩は、スパニッシュな陽気な部分があるハーフだって──」

だが、マリアから見ると葉月は『氷』のようで、『情熱的』な血筋には見えなかった。

「そう、お祖母様はまったくそのままの人で、とても華やかだったもの。

恋には情熱的で……お祖母様からお祖父様に猛アタックして日本に押し掛けてきたんだって。

お祖父様の『無骨な日本男児的』な所にベタ惚れしたって大人の皆が言っていた。

ほとんど駆け落ちに近い状態だったらしいわ?」

葉月は、そんな話を楽しそうにしながら、ついには……砂の上に直に座ってしまった。

マリアはせっかくだが……葉月のハンカチを下に敷くのは気が引けたので

それをサッと除けて、自分も直に砂の上に座る。

「そして……姉様もまさに……そういう人だったのよ。

一直線に好きになった男性に想いをひたむきにぶつけていたの。

たくさん悩んではいたみたいだけどね?」

「皐月姉様らしいわね? 逞しくて、とっても綺麗な人だったもの。

レイチェルお祖母様にも何度かお会いしたけど……とても素敵な美人だったわ」

マリアはあの頃の華やかな御園家をふと思い出して、膝を抱えた。

葉月がまだ日本に預けられている頃の事──。

幼いマリアは父に連れられて御園家に行くのがとても楽しみだった。

そこにいるだけで煌めく華やかさをどこまでも放つ、レイチェル。

立派で逞しそうな武道家の源介。

優雅で陽気で……そしてとてもハンサムな亮介。

『やまとなでこ』である控えめで知的な気品を放つ登貴子。

そして──若いのに妖艶な雰囲気を祖母に負けずに放っていた皐月。

その周りにいつもいるゴージャスな品格の『金髪青眼ファミリー』のフランク一家。

まるで『お城』に来たかのような華やかさ……。

マリアが憧れるファミリーだった。

そういえば……近頃、あの御園家が華やかという事がなくなった事に気が付いた。

『いつ頃からなのだろう?』

マリアは膝を抱えて……ふと思い巡ってしまう。

「なのに……私はそうなれないの。日本人の血が強いのかしら?

せっかく姉様が、お祖母様にちなんだ愛称を付けてくれたのに……」

『自分は華やかでなく、日本的な控えめさで育って来た』と言いたいのだろうか?

日本の御園家は亮介の弟である准将が取り仕切っていると聞いている。

なんでも芸術家で、日本芸術に精通しているのだと父がよく話していたから。

その家の子として育ってきた葉月が『日本寄り育ち』という事に、

マリアは違和感は持たなかった。

 

だが、葉月も膝を抱えて……急に哀しそうな眼差しで水平線を見つめていた。

風の音が強く耳で鳴り響き……さざ波の強い音がうねって流れ込んでくる。

マリアは……ここはジッと黙って葉月と同じように遠くを見つめた。

そうすることしか出来なかったのだ。

何処に、どう触れて良いか途方に暮れていたのが本当の所。

『姉の話はタブー』

葉月が帰省してきてから、周りの人々がマリアに送ってくれていた『信号』

 

「違うわね……。日本人の血が強いのではなく……。

私自身が……あるべきだった自分を捨てて閉じこめてしまったからなのね」

 

風や潮騒だけが流れていた沈黙の後。

葉月の声が急に凛として、独り言のように言った。

 

マリアは緊張した。

もしかして──? 葉月は……葉月は……?

『私に話そうとしているのかしら?』と……。

 

また戸惑ってしまった。

『聞くには覚悟がいる』

達也がそんな事を匂わせていたから。

あの達也の重い顔。

天真爛漫で、なんでもサバサバとしているあの達也が

あんな顔をするなんて滅多にないことだ。

それほどの事。

 

御園夫妻の『涙』

 

そして……サワムラ中佐の彼女を綿で包むような接し方。

 

どれを取っても……皆が葉月にはかなり気を遣っていると解った。

それもマリアが、認めている人達皆が……。

甘やかしでない事は解っていたのだが……。

解っているが、あの人達が何を考えてそうまでしているのはまったく理解できない。

 

「私ね?」

葉月が夕日の中……涼やかな眼差しを和らげて

少女のようにマリアに向けてニッコリと微笑んできた。

そんな彼女の顔──。

彼女が帰省してきてから、何度か見たけど……

それは今までマリアが知っている彼女からは見たことがない笑顔だった。

「なぁに?」

マリアもそっと微笑み返す。

 

「……ごめんなさい……今まで、色々」

「え?」

 

なにを謝られているのかマリアはさっぱり見当が付かない!

むしろ──マリアは言えるなら、今日、うっかり口を滑らした事を彼女に謝りたいぐらいなのに!

 

「昔の事よ……。あなたに優しく声をかけてもらったのに。

随分と、素っ気なく接していた事。謝りに来たの」

「──!!」

マリアは驚いて、一瞬……息が止まりそうになった。

「本当は……嬉しかったんだけど。どうして良いか解らなかったの。

それに……どうしても……ダメだったの。──本当にごめんなさい」

 

『アロー、ハヅキ……皆があなたのこと、レイって呼ぶのは何故?』

『……知らない』

 

 

『あなたもドレス、着ないの? 着たら素敵なレディだとおもうわ?

いつも制服なのね?』

『……私には必要ない』

 

マリアの中に……ずっと残っていた場面、こだわってきた場面が蘇る。

初めて人から『拒絶』されたのは葉月が初めてだった。

それまでは、皆の方からマリアに声をかけてくれ、マリアの所に集まってくるのに……。

葉月ほどの『お嬢様』で、『優秀な訓練生』は他にいなかった。

皐月の妹という以外にも……

一番……話し合えそうな、解り合えそうなそんなマリアが欲しい『ランク』を持っていた。

だから……どうしても彼女と話してみたかったマリアの欲求──。

自分が何を悪いことをしたのか、皆目検討が付かなかった。

訳を聞くと、大人達や彼女の兄様分達は口を閉ざす、曖昧に濁される。

思い余って、あの『ジョイ=フランク』にまで尋ねたことがある。

あの明るくて人気者で誰にでも愛嬌あるジョイまでもが……。

 

『レイが素っ気ないのなら、それを受け止めるべきじゃないのかな?

俺はそうおもうし……』

葉月が拒むように、彼にまで素っ気なく言われたのだ。

それが余計にショックだった事もある。

あのアンディ達も……。

『お前はせっかいが過ぎるんだよ。欲しくない親切だってあるとは思わないか?』

ダニエルは、いつも葉月とくっついていたから……まったく持って、マリアを避けるし

アンディとケビンは口を揃えてそう言った。

十代のマリアには本当に、何が悪いのか本当に解らなかった。

『ねぇ? マリア……。あなたのパパとミゾノって仲が良いんでしょう?

フランクの御曹司ってどんな感じ? あそこには素敵な年上の男の人たくさん集まるじゃない?

親しくしているなら、チャンスがあったら紹介して?』

『え? でも……そんなに沢山は話さないわよ。それに結構、年上じゃない?

私みたいなティーンは眼中にないわよ……』

ある時、色めく年頃の同級生達に言われてハッとしたのだ。

ロイにジョイに……マイクや、リッキー。

ある程度……マリアを社交的に相手をしてくれるだけ。

だけど、皆……葉月には素敵な兄様の顔をする、ジョイに至ってはまるで姉弟のような親しさ。

その時の葉月の顔は固かった物の、彼等に対する『距離』は自然であった。

だけど──彼女はいつも途中でいなくなってしまう。

時にはジョイと一緒に、パーティーを放って抜け出したり……。

それが『仲間はずれ』に思えた。

初めての事だった……。

今なら……少しだけ……触れてはいけない所を触ったのだろうと思うことは出来る。

だけど……『原因』が解らないから理解は未だに出来かねた。

 

「……」

忘れかけていたのに──。

忘れかけていても、心には深く残っていたから鮮烈に思い出した。

昔の事──。

とやかく葉月を追求する気など、とうの昔になくなった。

いや──? 周りの人間にまで素っ気なくされて『やめさせられた』とも思っていた。

だから……『なんの事よ? やめてよ……知らないわ』と……

いつものような『穏やかで寛容』な態度が自然に出なかったのだ。

かなり顔が強ばっていたのだろうか?

 

「失礼な事をしたと……ずっと思っていたの。本当にごめんなさい」

 

葉月が……つかえる様な声でまた、そう言った。

 

「……そこまで、悪かったと思うなら。教えて? どうしてあんなだったの?」

マリアは葉月とは目が合わせられなかった。

あの時の『悔しさ』が蘇って、そしてそれを彼女にぶつけたくなくて必死に押さえていたのだ。

 

「……解ったわ。全部、理解して……とは言わないから。

それでも……言うわ。それぐらいの覚悟はしてフロリダにきたのよ」

 

葉月の声に力がこもった。

マリアは膝を抱えて……葉月とは目もあわせられないから、パンプスのつま先を見つめていた。

すると……

視界の端で……『言う』と言っている葉月が、制服の金ボタンを外し始めたのが解った。

「……? 何しているの?」

不思議に思って、顔を上げると……葉月は詰め襟の制服を脱ごうとしている。

「……お願い……。暫く、黙って聞いてくれる?」

葉月は力無く微笑んでいたが、瞳は何故だか潤んでいた。

彼女がそういうから、マリアは黙って待っていると……。

上着を砂の上に置いて……さらに葉月はカッターシャツのボタンまで外し始めたではないか?

「ね? なんのつもりなの??」

怪訝そうに問いかけると、今度は葉月から返事はない。

葉月の指は……腹部のボタンまで外していった。

そして……葉月はなんだか躊躇っているように開いた襟をそっと握って閉じる。

 

「……側に来てくれる?」

消え入りそうな声……? 震えているようにも感じた。

マリアは……そっと腰を浮かせ、葉月に寄り添うぐらいに近づいた。

「……これ」

葉月が……また、つまった様な声で呟きながら……ゆっくりとカッターシャツを開く。

 

白い肌──。

マリアほどない小さな胸の谷間。

美しい繊細なレエスのスリップが目に入って、マリアは……戸惑った。

何を見せたいのかさっぱり解らなかったのだが……。

マリアが葉月の胸元に気を取られていると……。

葉月が左側の襟をそっと肩半分ずらした。

 

「──!!」

『ひ……』と、思わず声を出しそうになって、マリアは噛み殺す!

いや? 声にならなかったのだ。

葉月のきめ細かい……マリアでも吸い込まれそうに見えた美しい肌。

左肩、左胸の少し上まで……まるで稲妻のような線が走っている!

マリアが取り乱さないようにする為か、葉月は逆に落ちついていた。

そして彼女が左肩の付け根を指さした。

そこには、まだ浅黒い……でも乾き始めている円形に近い新しい傷がある。

「聞いているでしょう? 達也から……。これはこの前の任務で

達也が私を助けるために『撃ってくれた』時の傷よ」

そうじゃなくて──!

マリアはその傷も痛々しく感じたが、その新しい傷より、

『稲妻傷』の方が『悲惨』に見えて青ざめる。

声が出なかった。

何を聞いて良いのか解らない。

達也が撃った跡など目に入らず、その悲惨な傷の方に釘付けだった!

 

「……姉様は、自殺したの。ううん! 殺されたの」

「──!? 嘘! パパから身体が衰弱しているのに男の子を産んで

出産で死んだと聞いているわ!」

それを聞いただけでも、マリアはひどく哀しかったのに。

そんな言葉、信じられなくて思わず葉月に突っかかった!

「確かに、その時……甥っ子が生まれたわ。

でも──それは『表向きの理由で』……」

葉月はサッとシャツの襟を閉じて、下から慌てるようにボタンをとめはじめる。

だけど!?

「姉様と……私は……」

葉月の声が、尋常でないほど震えていた。

さらに……ボタンを留める指まで!

なかなか留まらない様子で、葉月の指先はカチカチと貝ボタンに触れては離れてを繰り返している。

寄り添っているマリアの腕にも葉月の肩の震えが伝わってきた。

そして葉月の顔色は青白く血の気を失っている。

「……パパとママを……待っていた別荘で……襲われたの」

「──!!」

頭が真っ白になった──!

その先の話は優に想像が出来た。

葉月は『殺されかけた』

でも姉妹は生き延びた。

だけど……皐月が自殺したと言う事は……!?

 

「やめて──!!」

マリアは両手で頭を抱えて、振り乱した。

自分が想像したことに耐えられなかったのだ。

「……私は武芸達者の姉様の腕封じで人質にされて……

私とお腹の甥っ子を守って……姉様は……なんでも言う事を聞かされた」

マリアは『嫌!』と叫びながら激しく頭を振る!

あの勇ましかった皐月が『従えられた』

あの美しかった皐月が『汚された』

故に、マリアの中で一番美しかった『象徴』が『壊される』!!

「最後に私は子供だから、口封じの為に……いたぶられるように

ヴァイオリンを弾けないように……妹も道連れだって!

アイツらの楽しそうな顔は絶対! 忘れない!!」

今度は葉月が、狂ったように栗毛を掻きむしり始めたので

マリアはそこでやっと我に返った!!

「アイツら、生き返ったら殺してやる!!」

訳の解らない筋が通っていない事を葉月が叫び出す!

葉月のその言葉で犯人は複数で、さらにもう生きていないという事を悟り

マリアはさらに衝撃を受けて硬直した。

「なんでアイツらは私が知らないうちに死んだのよ! 大きくなったら殺すつもりだったのに!!!」

そこにいるのは『氷の令嬢』ではなかった。

駄々をこねる子供に返ったようにジタバタと

足を暴れさせている想像もつかない女の子がそこにいたのだ。

 

「も、もう……いいから! ね!!」

マリアは横から葉月を抱きかかえた。

それでも葉月は足をジタバタさせていたのだ。

「ね!! お願いだから! そんな怖い子にならないで!!!」

マリアはなりふり構わず、砂の上に葉月を押し倒し

覆い被さるようにして、葉月を押さえ込んだ!

暫く、葉月はジタバタと癇癪を起こしたように、マリアの胸の下で暴れていたが

やがて……

「誰も……助けにきてくれなかった。パパもママも兄様達も……」

大人しくなった葉月が力を抜いたかと思うと……

顔をクシャクシャに涙で濡らして静かにそう呟いている。

 

マリアはそっと顔を上げて葉月の瞳を勇気を出して見つめる。

まだいつもの彼女ではないが、葉月の瞳には今まで以上にない感情が宿っているかのように

熱く潤んで、熱い涙をひたすらこぼしている。

頬に、彼女の栗毛がべったりと張り付いていた。

マリアはそっと……恐る恐る、その頬に指で触れてみる。

そして、その髪の毛を指で静かに除けてやる。

胸を荒く動かしている葉月、ふと何かに気が付いたように、マリアを見つめた。

葉月の瞳から刺々しさがスッと消えたように感じた。

その柔らかく崩れた葉月の表情は、弱々しい子供のようだった。

 

「誰も来なかったし……ヴァイオリンも弾けなくなったじゃない……」

「そう……」

 

「……オーケストラに入って、……姉様と兄様達が観に来て、花束をもらって……

ご褒美にレストランに皆で行く約束だったのに……」

「……葉月」

 

やっとマリアの瞳にも熱い涙が浮かんできた。

 

なにもかも……。

もう、説明はいらない……。

 

 

『アロー、ハヅキ……皆があなたのこと、レイって呼ぶのは何故?』

『……知らない』

 

姉が美しくなるようにと付けた愛称。

その願いを思い出すのも辛かったのかもしれない。

彼女は『女性虐待』が出来る男性をどれだけ憎んできたのだろうか?

女性らしくなる事は、男を惹くこと。

男の為になる事は『絶対、やらない!』

 

『あなたもドレス、着ないの? 着たら素敵なレディだとおもうわ?

いつも制服なのね?』

『……私には必要ない』

 

着れるわけがない……。

あんな傷を残したままでは……。

 

綺麗な女性になりたかっただろうに。

ヴァイオリンを弾きたかっただろうに。

彼女が選んだのは『破滅』だったに違いない。

入校当時の彼女の暴れ振りを考えると。

『復讐』の為? 『心の闇の発散』として?

色々考えられるが、沢山の新しい理解がマリアには出来た。

 

だけど──哀しすぎる『代償』だった。

マリアの美しい夢は……葉月の夢が壊された様に……

今まで通りの形は失った。

 

マリアは葉月に覆い被さったまま、葉月の頭を抱えて一緒に泣いた。

葉月の泣き声が、急に『嗚咽』に変わった。

でも──葉月の頬には赤味が差して、マリアの頬に触れる肌には暖かさが戻っていた。

 

砂の上に重なるように抱き合う二人に夕闇が迫る。

風の音、大きな波の音、葉月のたがが外れたような泣き声。

そして、自分のすすり泣く声。

 

それが重なって津波の様にマリアは感じた。

 

目の前の氷の令嬢も、津波に襲われたかのようにずっと子供の様に泣いていた──。