51.発火夜

 

 「じゃぁな」

 「お邪魔いたしました」

夜更け……達也とマリアが揃って御園家を出ていった。

なぜに? 夜更けかと言うと……二人の仲が自然にまとまっているのを

感じ取った亮介がまたもや夕食に誘ったのだ。

達也もマリアもそれは大喜びで、和やかな席となった。

 

「びっくりしたなぁ? もう……」

葉月は両親と隼人と供に、二人を見送ったのだが。

赤い車と黒い車は同じ方向に発進して見えなくなると、亮介が

ぐったりしたように呟いたのだ。

亮介の『びっくりした』は一つしかない。

亡き娘の如く成長したマリアが、皐月の如く……彼女の大胆な服を着こなしていたからだ。

「宜しいじゃありませんか? ああして皐月が残した物を

着こなしてくれて嬉しいわ。それも私達の友人のお嬢さんがよ?

皐月と約束をしていたみたいよ? 綺麗なレディになったらドレスをあげるって」

登貴子が場に構わず、亮介にそう告げた。

「……!? そうだったのかい?」

「ええ……皐月が残した美しさだわ」

「……あいつ、今日は何処かにいるような気がする」

亮介がまたぽっつり呟いて、背中を丸めてリビングへと戻っていった。

「亮介さんは『第六感』が良いから……あの人があんな事言うと時々、どっきりするわ?」

登貴子が身をすくめて、ぶるっとひとしきり震えあがり……

でも……

「いてくれたら、ママは嬉しいけど。お帰りって言ってあげたいわ」

そっと寂しそうな笑顔を浮かべて、夫の後を追っていった。

 

「上、あがろうか」

そんな夫妻の様子に気を遣って、隼人が葉月にそういった。

「そうね……」

 

隼人と葉月は、二階の白い部屋に籠もった。

 

海辺に昇った月は。今夜も明るく葉月の部屋を照らしていた。

あんまり綺麗な明かりだったので、部屋の灯りは点けずに

葉月は自分のベッドに腰をかける。

 

そして、隼人も何気なく一緒にベッドに腰をかけた。

「お父さんとお母さん、寂しそうだったな」

「うん……でも……話す姿は自然で、懐かしそうだったわ」

「そして、お前もね。ついにやったか」

「……」

なにもかも解っていて、微笑みで迎えてくれた隼人。

「……隼人さん!」

「わ……なんだよ? いきなり!?」

葉月は隼人を突き飛ばすぐらいの勢いで、彼の胸に抱きついていた。

隼人はぐらっとよろめいたが、身体が倒れないようにグッと葉月を受け止めてくれた。

彼の笑顔を見上げて……葉月はなんだか急に涙がこぼれてきた。

「やっと……言えたわ。ごめんなさいとか色々!」

「そうか……すごいな。自分で言えたんだ」

「どんなになっていたのか解らないけど……自分が怖かったけど……!」

「随分……取り乱したのかな?」

葉月は隼人の胸元で『うん』と頷く。そして──

葉月は、言葉少な目に『ずぶ濡れ』になるまでの過程を隼人に詳しく伝えた。

すると隼人がそっと栗毛を撫でてくれる。

「それでも……彼女が受け止めてくれたって事だろう?

お前と彼女……並んでいてとっても良い感じで良かったよ」

葉月は泣きながら頷くだけしか出来なかった。

 

そして……隼人の手に妙な力が強くこもった。

葉月は不思議に思って顔を上げると……隼人がなんだか神妙に

葉月の頬に頬ずりをしてきたのだ。

 

「今までが……どんな葉月だって。今、目の前にいるのが俺の葉月だから。

今までの事なんて……とやかく言わないよ」

「……?」

「葉月……俺を信じてくれ。お願いだから──」

「どうしたの?」

葉月が感極まって飛び込んだのに、隼人の方がせっぱ詰まっている様にも見えて

葉月は一瞬、戸惑った。

 

「……いや、それだけ。言いたかっただけ」

隼人が気まずそうに、すっと離れて隣で俯いた。

「……」

葉月はそんな隼人を見つめながら、暫く……黙り込む。

 

「……達也から……何か、聞いたの?」

「!」

隼人が少しだけ、表情を変えたような気がした。

「聞いたのね?」

「……そうだ。達也の事だけどさ!」

隼人は、葉月の神妙な眼差しを避けるかのように、変に明るく話題を変えようとしている。

だけど……葉月は、聞き入れない。

「解っているのよ。……今、達也と一緒にいるフロリダじゃなくても、

いずれ……一緒に仕事をすれば『達也と別れた理由』を知られる事ぐらい……

覚悟していたんだから。

近い内に……話しておいたほうが……ショックが少ないかと思っていたけど……」

葉月はそっとうなだれた。

本当なら──あの『ロザリオ』の話をした時に、いっぺんに話すべきだったのかもしれない。

そうしておけば……『自分から説明が出来た』のに……。

達也から聞いたのであれば、きっと……達也は自分を責めて、葉月をかばったに違いない。

そうじゃない!

『悪いのは私』

それを隼人に言いたかったのに。

いつまでもずるずると……言えなかった。

 

「今、俺……いっただろう? 今、目の前にいるのがお前だからって……。

その話をお前から聞いたからって……『あの日の意味』の話をした時と一緒だよ。

葉月はその日があって……俺の目の前に現れて、俺が一緒にいる事を決めたんだから」

「隼人さん……」

「悪いとか、責めるとか……そういう話は俺に説明する話でなくて

達也と葉月がするべき『話題』だろ?

俺が何に対して嫌悪したり絶望したりしなくちゃいけないんだ?

それに……岬の任務で達也と葉月は自然に話して笑顔で別れた。

二人がお互いの心の整理をつけて、納得したんだ。

今更、俺が掘り返すのは……筋が違うと思うけど……」

「……でも、気にならないの?」

「……お前の心の中の事は、気にならない。

だって……お前の中で、もう終わっているんだろう?

だけど……俺にどうしても話したいというなら、それが葉月の欲求であるなら

受ける覚悟はあるけど?」

だけど……隼人は膝の上で、もどかしそうに指を組んでいて目を合わせてはくれなかった。

でも、一時……何かを考え込んだ様子で、やっと葉月の瞳を見つめた。

「ただ──気になるとしたら、お前が密かに一人きりで逃走しない事かな?」

「……逃走?」

「……『こんな私はダメなんだ。こんな私は人を不幸にするだけ。重荷なのだ』と

お前から諦めて……去っていく事、逃げていく事。

だから……『俺を信じてくれ』と言っている。

重荷になるだけなってみたらどうなんだ? 俺を信じてくれているなら出来るだろう?

それともう一つ……。

『ものわかりの良い女でいなくちゃいけない』とかね?」

今度は隼人は膝の上で頬杖……悟りきった眼差しで葉月を見下ろしているだけ。

「どこが? 私は結構、我が儘よ?」

「日常的にささやかなお前の一つの性分に過ぎないだろう?

俺が言っているのは『女として』──」

「?」

葉月は解らなく眉をひそめると、隼人が可笑しそうにそっと微笑んだ。

「解らないだろうな〜? ま、リトル・レイにはまだまだ難しすぎたかな?」

ニヤリと意地悪い兄様顔で隼人が急に得意気になった。

「……」

その顔……。

その顔と言い方で……いつもの様に葉月らしく拗ねたりムキになる様に

隼人が差し向けているんだ……。

葉月はそう解って俯いた。

涙が溢れそうになった。

もう、なにも言わなくても良いじゃないか……と。

あの事とは本当に『さようなら』が出来そうだと思った。

 

「な? それでも、まだ……俺に話したい?」

俯く葉月のうなじ……。

そこをくすぐっている栗毛の先を隼人がそっとつまんだ。

葉月は首を振る。

「じゃぁ……もう、良いだろう? 終わろうぜ……」

葉月もこくりと頷いた。

「それで……俺がさっき話したかった事だけど……」

「隼人さん?」

ホッとした様な隼人が話し始めようとした言葉を葉月は止める。

「なんだよ?」

「私を見て──」

「え? なに?」

熱く潤んでいる眼差しを葉月は、不思議そうな隼人にジッと向けた。

隣に座っている彼にそっと寄り添って、そして葉月は腰を上げる。

 

「は、づ……き?」

葉月は瞳を閉じて……首筋を伸ばし隼人の唇を塞いだ。

「……」

一瞬だけ、彼の熱い弾力ある唇に重ねて……そっと離して

もう一度、隼人の顔の側で彼の瞳を覗いた。

「……それだけ?」

隼人は……妙に挑発的で真剣な眼差しで葉月を見下ろしていた。

今度はそのまま……隼人の膝を葉月はまたぐようにして乗っかった。

水玉のワンピースの裾が大胆にまくれあがった。

だけど……葉月はそのまま隼人の首に抱きつく。

「……それだけじゃないわよ」

隼人の耳元でそう呟いた途端──。

『ジャッ!』とした金属的な音が背筋を走った。

背中のジッパーを隼人が素早く解いた音だった。

 

「どれだけ俺が平気か試してみる?」

「私がどれだけ今……あなたに抱かれたいか試してみる?」

既に隼人の大きな手は、はだけた葉月の両腿をスッと腰まで沿うように撫でている。

 

『望むところだ』

彼が勝ち誇ったように微笑みを浮かべたかと思うと、

抱き上げられて、そのままベッドに……結構、乱暴に葉月は投げ出された。

乱暴に投げ出されたのだが、隼人はそっと静かに舞い降りてくるように覆い被さり

葉月の眼差しをジッと見つめている。

熱い彼の視線に、暖かい愛情を感じながらも……

彼の手は、葉月のスカートの裾をまくり上げてそのまま腿の上を這い

もっと上……生地の下をくぐって胸元を狂おしい手つきで掴んできた。

葉月の手……。

それは、彼の制服のスラックスのベルトに自然と手が伸びていた。

そのベルトを外そうとする。

隼人はそれをちょっと驚いたように確認して……

そしてまた……勝ち誇ったようにニヤリと微笑んだかと思うと

それが堪らないといった様に葉月にそのまま口付けてきた。

彼と一緒に、熱いくちづけをむさぼるように味わっていたのだが……

「えっと……」

その隼人のベルトが、なかなか外れないのだ。

「……これ、外れないんだけど」

葉月がバツが悪そうに呟くと、葉月の鼻先で隼人が可笑しそうに笑う。

「……そういう所が葉月らしい。手慣れていたらお前らしくないか」

葉月はそっと頬を染めた。

「こうだよ」

覆い被さったまま隼人が片手でいとも簡単にベルトを外した。

その上、ボタンだけ外して……『後は任せた』といわんばかりに

全部は自分の手で解かない。

再び葉月が手を伸ばすと……彼の熱い吐息が耳元にかぶってくる。

 

その熱い彼の息で、葉月の胸がキュンとしまったような気がした。

彼が感じているんだと思うと、とてもせつない感触だった。

 

お互いの腕が絡み合って、お互いの衣服を急ぐように解き合う。

最後に残ったのは葉月のショーツだけ。

それだけは……隼人が焦らすように、ゆっくりと、そっと引き下ろす。

もどかしいほどゆっくり脱がしながらも……

月明かりの中、すっかり素肌になって横たえている葉月の身体を

隼人は確かめるように……堪能するかのように……

ジッとまとわりつく眼差しで見下ろしていた。

葉月のつま先に彼がいる。

最後の一枚は静かにゆっくりと剥がされて、彼がベッドの下に落とす。

『いいかい?』

そんな事を隼人は言いはしなかったが、そんな事を語りかけられるかのような

真剣な眼差しで、葉月のつま先に……くちづけてきた。

 

「……う」

つま先から、ゆっくり……隼人が所々口づけながらあがってくる。

本当にゆっくり、途中で長い寄り道をしながら……

唇が通った後は指がスッと後を追ってくる。

「……あ・ん」

ゆっくりすぎて……葉月はじれったく感じたぐらいだ。

やっと……彼の顔が、葉月の唇まで辿り着いた。

「そろそろ……いいかな? 早すぎる?」

「……お願い。もう、いいから……」

隼人の頭を抱えて、葉月は彼の唇をもどかしそうに噛んで訴える。

「そう?」

隼人がニッコリと……余裕げに微笑んだ。

そのすぐ後──!

葉月の身体の中に狂おしいゆるい衝撃が走る!

「あぅ……ッ!」

いっぺんに、身体中が熱く燃え上がったような奇妙な感触が葉月を襲った。

瞬間的に火を点けられた様に──!

葉月は、唇を噛みしめながら必死に声を堪えた。

「す、すごい……葉月」

隼人が何に驚いたのか葉月には解らない。

『急に汗が……ほら』

彼が葉月の背中を触ってそう言っていたのは聞こえたような気がする──。

彼は急に興奮したかのように、先程の余裕はもうないようで

葉月の身体に何もかも押しつけて覆い被さってきた。

 

「あ──!! 隼人さん!」

葉月も必死になって隼人に抱きつく。

身体の温度がいつも以上に急速に上がっていくのを葉月は自覚した。

燃えるように熱いだなんて……。

どうしてしまったんだろう? と思った。

だけど──そんな自分がどうしてかなんて考える間もないほど

激しく彼に愛され……そして、愛したくて。

「ハァ……どう・・し・たんだよ? なんか……大胆だなぁ?」

彼の途切れ途切れの息づかいの声。

夢中になっていたから──自分が今どんなに大胆かなんて

葉月にはもう振り返る間もない程、開放的になっていたらしい──。

「あ、あなた、だって……すごいわよ?」

まるでおいかけっこのように……葉月が絡むと隼人がもっと絡んでくる。

まとわりつくような二つの線がシーツの上に影となって重なり合っていた。

 

「……あ、あ……いして いるの……」

「聞こえないよ」

「あいして……いるの──」

「……もう一度……」

「好きなの……こんなに、本当よ」

「……さっき言ってくれた事だよ」

 

どうしても声が上擦るのに……まるで虐められているかのように

隼人が何度だって問い返してくる。

 

『愛しているの』

 

さざ波の音。

柔らかい月の明かり。

白く揺れるカーテン。

潮風にそよぐ窓辺の水色リボン──。

 

すべてがとても柔らかくて、どれもが葉月を迎えてくれる。

目の前の彼も──。

それが今の自分の『すべて』なのだと──。

葉月はこんなに熱くなる胸の中でふとそんな風に感じて、一筋だけ涙をこぼしていたようだった。

 

 

「……顔、真っ赤なんだけど」

「私?」

「うん……頬が火照っている」

葉月がチラリと、机の上にある時計を見ると深夜だった。

途中で両親が部屋に入る音が聞こえたけど……

彼と夢中になっていて気にはしなかったが、ちょっと我に返った。

聞こえていない事を祈った。

燃えるような一時を終えて……

隼人が葉月を抱きかかえて起こし、枕を背に置いて、シーツを腰まで引いてくれた。

そこで今、落ちついた所だった。

すると……隼人が言うには、葉月の頬が真っ赤だというのだ。

「とても熱かったわ」

「ふぅん……」

彼に胸に頬を寄せながら、葉月はそっと呟く。

隼人はなんだか素っ気ない反応だ。

「……燃えていたんだ」

そこでニヤリとまた勝ち誇った笑いを葉月に見せるのだ。

「……意地悪ね。本当……時々、そう思うわ」

解りきっているくせに、そうして『そうなの、燃えていたの』と言わせたいが為の

隼人の『意地悪』な言葉の並べ方。

胸元で葉月がプイッと拗ねて離れようとすると、隼人に引き戻される。

「……すごかったね。お前」

「……」

耳元でささやかれ、葉月はまた頬が熱くなったが

もう『照れた』と隼人には解らないだろう。

もう既に赤いらしいから。

「……私も良かった」

小さく呟きながら、側にある隼人の指に自分の指をそっと絡めた。

それを見ていた隼人が嬉しそうに微笑む。

そんな顔をされたら、また……胸がせつなくしまる。

 

「私、もう一度……やり直すからね?」

「……やり直す?」

「うん……。フロリダに帰ってきて色々と昔の事を思い出したけど。

嫌なこととか、自分がしてきた事に嫌悪感を感じる事ばかり。

でも……隼人さんが行くって言うから……。

一人だけじゃないから……見守ってくれる人がいるから……。

だから……こっちに来ちゃったの。

取り戻したいこと、いっぱい取り戻せたような気がして」

「うん……そうだな。帰りづらい訳がいっぱいあった様だけど。

今回は葉月自身が納得できる形になった様で、俺も嬉しいよ。

俺だって……葉月が一緒にいてくれて横浜に帰れた訳だし」

「途中で……逃げ出しちゃったけどね」

葉月はクスリと笑った。

「……あれはあれで……後になって考えたら可愛らしかったけどな。

葉月にもあんな感情表現があったって事がね」

「……あなたと……やり直すから」

 

もう一度そういった葉月の顔を隼人が不思議そうに覗いた。

 

「もう……いいの。私、これからずっと隼人さんといるから」

「葉月?」

「もう……いいの」

そっと眼差しを伏せて葉月は微笑む。

「葉月──!」

隼人ががっしりと葉月の肩ごと……きつく抱きしめてきた。

葉月の首元に頬を埋める隼人を見下ろすと……

隼人が涙は見せなくても、とても泣きそうな顔をしている。

「ごめんね……今までも……そして、これからも」

葉月は彼の腕にぽってりと頭をもたげた。

彼の腕をさすりながら……葉月も涙が浮かんでくる。

「あなたの事もきっと沢山、苦しめていたわ」

「いいんだ。これからだって──ずっと今までのお前でいいんだから」

「でも──私、もっと頑張るから。またいっぱい迷惑かけると思うけど」

葉月が涙声でいうと……もっと彼の腕に力がこもった。

「いいんだ」

隼人の顔は見えなくなってしまうほど……彼は葉月の胸元に顔を埋めていた。

だけど……その声が震えている。

「あなたに会えて……本当に良かったと……今夜思ったの」

「俺だって……思い切ってフランスを出てきて良かったと思っているよ」

「あなたが私に取り戻してくれた事は本当に沢山あるって……」

「俺もそうだよ」

「……あなたの為にやり直すの」

「……無理しなくていいのに」

「やり直すの──」

頬を伝う涙が隼人の腕にも流れていった。

こんなに熱い涙を流したのはいつ以来だろう?

 

流しても……その涙が熱いだなんて記憶があっただろうか?

 

「俺……こんなに幸せな事……初めてだよ」

黒い大きな瞳が煌めいて……葉月を見下ろした。

そして彼のまつげにちょっとだけ雫がついている。

「……本当に有り難う。私は今夜……ちょっとだけ綺麗になったと思ったわ」

どこかで自分は汚れてばかりの行為を繰り返してきたと思っていた。

どうやっても、抜け出せない。

今だって抜け出せていないかもしれないけど。

少なくとも……あの任務で犯した自分の過ちを、彼が消してくれた気がした。

「いつだって、綺麗だよ。葉月が立ち向かう姿は特にね」

「今度は『女』として……立ち向かうから」

「ふぅん? それはすんごく楽しみだな」

隼人がまた意味ありげにニヤリと微笑んだ。

「なによ。なれないみたいな言い方ね!」

「あはは……まぁ、期待せずに楽しみにしているよ」

「なーによ、もう!」

せっかくしんみりと語っていたのに、最後にいつものように茶化されて

結局、葉月はいつもの様にふてくされた。

でも……そんな葉月の拗ね顔をみて、隼人は嬉しそうだった。

 

いつだって……彼が私を見てくれている。

 

そんな気がして葉月も一緒に微笑みをこぼしていた。

 

 

 『グッモーニン』

 『グッモーニン』

この日も、海辺の基地街は快晴だった。

 

「おはようございます!」

マリアが元気良く出勤してきた。

「ああ……おはよう……」

「あら? 中佐? どうかされましたの?」

既にノートパソコンを開いて、早くも作業中の隼人。

その隼人が気だるそうに、意味もないような『あの速度』で

ゆっくりマウスを動かし、頬杖したままぼんやりと画面を見つめていたのだ。

マリアから見ると……ちょっと『中佐らしくない』。

 

「……あの葉月はまた午後からですか?」

「……だと、思うよ」

マリアが『葉月』と言っただけで……なんだか眼鏡の奥の黒い瞳が

急に輝いて……そして嬉しそうに緩んだ気がした。

ううん……。

というか……彼の口元が変に緩んでいた。

いつも『ピリ』としている彼らしくないように見えてマリアは眉をひそめる。

だけど……なんとなく解ったのでそのままにして席に座った。

 

「そうだ……。今日、いっぺんに候補者自身に告げようと思うんだ」

隼人がパソコンを見つめながら急にそんな事をいいだした。

「いっぺんに……ですか!?」

随分と思い切った事を言いだしたのでマリアはビックリして振り返る。

「ああ。そうだよ?」

「中佐? どうされたのですか?」

どちらかというと、マリアから見てもこの中佐は『確実・慎重派』だった。

実にじっくり『攻めて行く』と思って、マリアも賛成だったのだが。

「まぁ……なんていうのかな? 断られたのなら……残った数日でなんとかする。

いつまでも様子見ていてもね。今日の『申し入れは』第一段階。

これこそ『本人への打診』って所。断られても、受け入れられても……。

まず、彼等の反応を見るって事にしたんだ」

「なるほど……? それも一つの手ですね」

いつにない彼の思いきりには、ちょっと不思議をかんじさせたが……

一度に答を出すのではないのだと解ったのでマリアもニッコリと納得した。

 

なんだか今日の彼はとても清々しく……。

何かに満たされているようだった。

とてもゆったりしていてほんわりとした色香が滲み出ているようで……。

そんな彼の色気にちょっとまた飲み込まれそうになってマリアは頭を振る。

(私、最近──どうかしているわ)

これは隼人に限った事ではなかった。

昨夜、御園家で夕食をご馳走になった時も……

いつもは『陽気なおじ様』であるあの亮介にすら感じた事だった。

ワインを一杯だけいただいたのだ。

亮介がどうしてもマリアに注ぎたいと、優雅にワイングラスを差し出して。

その眼差しがいつもの『陽気』さでなくて……

マリアを一人の女性としてこのうえない上等のサービスで接するという

あの貴族的雰囲気で亮介がもてなしてくれた。

その時──今は彼の鼻の下にはフサフサとした栗色のヒゲがあるのだが

昔、ヒゲがなかったとても若々しくハンサムだった大人の男性を思いだした。

それだけで──マリアはぼんやりと亮介を見つめてしまったのだ。

それだけじゃない。

「マドレーヌ……行ってくるよ」

今朝──母親の頬に毎度の如く、くちづけていった父親の事すら……。

変に『男性』に見えてしまってマリアは戸惑った。

毎日、見ている光景だから何も気にしていない当たり前の事だったのに──。

「なんだか、パパって素敵ね」

「なにいっているんだ? おかしいぞ? マリア」

パパは訝しそうに眉をひそめて、ジョンのお迎えで出かけていった。

(私……変に男性を意識しているわ!?)

マリアは今までの自分が子供のように思えてきたのだ。

夫であった達也が見送ってくれる仕草ですら──新鮮に感じたほどだった。

 

この中佐に出逢ってから……男性ってなんだろう?

そんな事がマリアの中で新しく疑問となるほど……。

今日もそんな色香はいつも以上だ。

清潔感は溢れているのだが特にお洒落に気遣っている訳でもないし

それといって目立ちそうもないこの日本人の男性。

でもよく見ると……眼鏡の奥の瞳は大きくて長いまつげ……で。

そしてなんと言ってもいつだって煌めいているのだ。

その彼が今日はもっと男っぽく見えてしまう。

マリアは昨日の自分の事と重ねてしまった。

 

それで……葉月ととても良い夜を過ごした事を悟った。

なんだかそれが解ってホッとした。

マリアが夕方、隼人に対して犯した失敗も……彼は予想以上に上手く乗り越えて

さらに、思った以上の結果を手に入れることが出来たのだと。

(ああ……中佐は昨日はこういう感じで私の事、見抜いちゃったのね)

マリアはニンマリと唇の端をあげたが……でも、そっとしておく。

 

「あ……中佐? 今日ですね?」

「うん……なに?」

ニコリと微笑むその笑顔すら……今日の隼人は輝いている様に見える。

そんなに良いことがあったのか? と思うほど。

マリアは一時戸惑って、気を改める。

「私、今日はお弁当を作ってきたんです。一緒に外でランチでもしませんか?」

「──え?」

女性が手作りのお弁当を持ってきた。

隼人が一瞬、怪訝そうに表情を固めた。

「いえ、下心なんてありませんわよ? そんな葉月を差し置いて。

ただ……ちょっと色々とご迷惑をかけたのでお詫びです」

「いや……迷惑だなんて」

「達也も誘っているんです。彼が訓練から上がる時間を見計らってどうですか?」

「達也も? そう……じゃぁ、ご馳走になろうかな?」

達也が来るとなって隼人は今度は何も疑うこともなく了解してくれた。

 

実はマリアはある企みをしていた。

勿論──達也は既に『巻き込んでやった』。

 

『いやー、それは……どうかな? 勝手には出来ないと思うな?』

達也は最初渋っていたのだが。

『だから! 協力してよ! 達也が協力してくれたら中佐だってその気になるはずよ!』

『……また突っ込み過ぎるなよ?』

達也は『了解した』というより、突撃マリアがうっかりスピードを出しすぎないよう

『見張る』つもりで了解したこともマリアは解っている。

 

とにかく──やりたい事があるのだ。

 

『ほんっとうにお前は……”思い立ったら吉日”だな』

一部分だけ日本語で言われて、マリアは『なに!?』と達也を睨み付けたのだが

『いや──思い切りが良いって言いたかっただけさ』

『今しかないの!』

『そうかなぁ?』

昨夜……達也と浜辺で少しだけそんな話をして、ランチの『計画』を承知させたのだ。

 

「さて──そろそろ始めようか? まず、各隊員のキャプテンに会いたいんだ。

アポとってスケジュール立ててくれる?

出来れば配下の隊員に今週中に面談できるよう──」

業務が始まる。

「はい。中佐──」

マリアは早速、メンテチームの訓練時間割をオンラインでチェックする。

今日はランチの後に、昨日残した訓練見学もある。

忙しくなりそうだ、公私ともに──。

 

『ふふ──。葉月、待っていてね』

 

マリアもニンマリと微笑んだ。