* 遅咲き *

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【WEB拍手 御礼SSシリーズ】
 
遅咲き[4]

 

 今日も憧れの博士は、ぼんやりとしていた。
 いつもなら、やらねばならない室長の仕事なんて無頓着でも、目の前にある『自分がやりたいこと』にはもの凄い気迫で向かっていたのに……。それすらも放棄していた。

「どうしたんだよ。イザベル」
「……別に。なんにも思い浮かばなくなる事だってあるわよ」

 元は親しかった同僚であるだけに、アダム先輩とテイラー博士がそんな慣れた会話を──。
 彼女の『生態』を良く知っているアダム先輩も『実験や計算をしていないイザベルなんかおかしい』と思ったようだ。
 それほどの状態だった。

 しかしサミーが気になっていた事は、直ぐに判明した。

「すみません! 暫くの間、ここにいさせてください!!」

 白衣じゃない、制服の女性がこの班室へ飛び込んできた。
 テイラー博士や他の班員と共に、データーを裏付ける実験をする支度をしている時だった。 
 それだけでも驚いたのに、駆け込んできた女性は前が見えているのか見えていないのか分からないような勢いで、テイラー博士に助けを求め抱きついたのだ。

「ど、どういうことなの?」

 当然、博士もびっくり。
 以上に、飛び込んできた女性が『ブラウン中将の娘』であるマリア嬢であることにも、周りの皆は驚いていた。勿論、サミーも『なんで? 何が起きた?』のだと。しかしその後すぐに、今度はあのジャッジ中佐がなりふり構わない様子でこの班室に飛び込んできたのだ。
 サミーはそれを見て、直ぐにピンと来た。この二人は既に『恋仲の噂』がある。彼女が逃げて、彼が追いかけるって……。『なんだ痴話喧嘩じゃん?』と直ぐに思う事が出来た。
 だが事態はサミーを最悪の気分へと導いていく。
 マリア嬢が飛び込んできたことには『驚き』だけだったテイラー博士。だがジャッジ中佐が飛び込んできた瞬間に、彼女の顔が見た事がない厳しい顔つきに変わったのをサミーは見てしまった。

 そのいつにない怖い顔になった彼女がサミーに唐突に言った。

「サミー。あの男を追い出して頂戴。私、女性の味方なの。彼女の言うとおりにしてあげて」

 低い声。彼女が室長として赴任してきて初めて響かせた威厳ある声。
 しかも彼女が睨んでいるのはあのジャッジ中佐。
 先日からなにやら嫌な予感を持ち続けてきたサミーは、さらに嫌な予感を渦巻かせながら、ジャッジ中佐には直ぐに敵意を持つ事が出来た。

「ジャッジ中佐。ここの室長はテイラー博士です。なにかご用でしたら、きちんと筋を通してからご入室願います」

 俺の室長の気持ち。俺には直ぐに分かる!
 そんな思いで、基地で有名なエリート男に真っ正面から果敢に向かっていた。
 こんな俺、初めて! なんて、内心で驚くほどに、サミーは堂々としていた。
 そのジャッジ中佐も自分がどれだけ情けない事をしてしまったか分かったのだろう。直ぐに出ていってくれた。

 だが、サミーがどん底に落とされたのはこの後だ。
 女性の味方なのと、他部署が業務中にも関わらず非常識にも痴話喧嘩で逃げ込んできたマリア嬢をかばったはずのテイラー博士。しかしジャッジ中佐を追い出した博士は、今度はマリア嬢を同じように怖い顔で睨んでいた。

「貴女、中途半端ね」

 すげえ。将軍の娘でジャッジ中佐の恋人と言われているマリア嬢にそんなきっつい一言。
 普段、マイペースに無頓着に日々を過ごしている可愛い顔の彼女とは思えない気迫。

「貴女、あの人がいらないなら、私に返して頂戴!」

 サミーはぎょっとした。
 サミーだけじゃない。アダム先輩を始めとする周りにいた班員が皆、後ずさったように見えた。
 そしてサミーの頭には大きな衝撃! ジャッジ中佐の恋人と噂されるマリア嬢に『あの人を返して頂戴』!?
 それって、それって!? サミーの胸の鼓動が衝撃のあまり早く打つ。

「言っておくけれど。一度別れた私ですから、今度、あの人を捕まえたら絶対に離さないぐらいの覚悟はあるわよ。わかるわね。私のその気持ち」

 ぎゃーーーーーーっ! やっぱり、嫌な予感、当たった!
 サミーは心の中で、『ムンクの叫び』のような心境に陥っていた。
 そして他の班員も『ええ!?』と驚くどよめきが……。

 なんと二人は『元恋人同士』だった!?

「絶対に貴女から、あの人を返してもらいますからね!」

 なに! 貴女はあの素敵男をまだ諦めていないと?? 
 まさか、まさか。離婚の原因は、あの男への未練!?

 サミー、撃沈。
 それは彼女に振られたにも等しいほどの、衝撃発言だった。

 元恋人(?)の博士に一蹴されてしまったマリア嬢がすごすごと出ていった。
 なんてお騒がせな奴らが乱入してきた事か。しかも知りたくない事を知ってしまった。彼女が離婚したという過去より、もっと敵わない過去を突きつけられた! よりによって、あのジャッジ中佐が『貴女の恋人だったなんて!』。

 サミーの心の叫びは、マリア嬢を追い出す時に突出。
 『博士を煩わせないでいただけますか。大変、迷惑です』。
 こんな騒ぎを見せつけられなかったら……。知らないままでいられたかもしれないのに。

 いや、いつかは知るべき事だったのかもしれない。

「驚いたなあ。イザベル、あのジャッジ中佐と付き合っていたのかよ? まあ二人のボスはあの御園夫妻だから道理かもしれないけれど……」

 アダム先輩も知らなかったようでとても驚いていた。

「まあね。結婚する時に捨ててやったのよ。あの人も仕事男だから。私達、結婚とか向いていないでしょ」

 淡々と答える博士。だがアダム先輩は絶句していた。
 それはサミーも同様。
 この人、結婚とか望んでいたんだとか。以上に『結婚したかったから捨てた』と、はすっぱな言い方。実験以外には興味がないような可愛い顔をみせてくれる女性の言葉、姿とは思えなかった。

 ある意味、幻滅。

 憧れのままで良かったのかも。
 そう思わされた出来事だった。

 

 

 その日の夜だった。
 一度、自宅に帰ったサミーだったが、ふと気になって基地の研究室に戻ってきてしまった。

 何故だろう……。彼女の過去をあんなに突きつけられて『やっぱり俺には無理』と、挫折感を味わったのに。だから、あまりにも気が抜けてしまって今日は早々に退出したのだ。いつもなら、なんだかんだと理由をつけて自分の気が済むまで研究室に残って、自分の仕事をしたり、さりげなく彼女の仕事のフォローしたりしていた。
 でも、今日は駄目だった。本当にがっくりしたのだ。いや、がっかりか……。

 でも自宅に帰っても落ち着かない。なにかが欠けてしまったような喪失感に襲われた。
 気が付けば、基地に向かっていたという次第だった。

 それで思った。それほどにもう……彼女の事が好きになってしまっているのかと。
 そうだ。ジャッジ中佐の事など過去じゃないか。彼女が別れた見知らぬ旦那はなんとも思わなかったんだ。それと同じじゃないか。しかも、彼には今、最強の恋人がいる。将軍の娘、直属上司の娘だ。出世を狙うにしても好条件の恋人が。……きっとあの二人は噂通りに、いつかゴールインする気がしていた。

 だったら。部下の目の前でもなりふり構わずに『私が愛した人を返して』と突き返した彼女はどうなってしまうのだろう?
 そう思うと、これまた居ても立ってもいられなくなった。

 そしてサミーの心配は的中した……。
 研究室に入ると、女性のすすり泣く声がしたのだ。
 明かりが消えている研究室。彼女は珍しく室長席にいて、デスクの明かりだけをつけて、そこで泣いている。

 きっと彼女も分かっていたのだろう。
 ジャッジ中佐はもう取り戻せない。彼が懸命に追いかけていた姿を見てしまったから……。
 サミーはそのまま彼女には声をかけずに研究室を出た。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 不思議と、次の日からのテイラー博士も今までと変わらずにマイペース。
 室長の仕事も程々で班員達をはらはらさせつつも、部下達を驚かす実験を始めたり、それを成功させたり。ドーナツを頬張りながら、ノートとペンと実験装置を薬品に向かっている。

 なんら変わらぬ、彼女らしい日々を送っていた。
 ダメージは一晩泣き明かしただけで終われたのか? と、サミーはどこか腑に落ちない。その程度のことだったのかと……。
 アダム先輩も暫く様子を見て案じていたようだが、ここ最近、彼の中でも『終息した』と判断をしたようだった。

「噂ばかりで決定的な仲ではないジャッジ中佐とマリア嬢に業を煮やしたんじゃないか? 元恋人としてもどかしかったんじゃないのか。元より、ジャッジ中佐を捨てて結婚して、それも失敗したんだから。イザベルだって分かっているだろう。自分にとっては何が一番だったかと──。寄りなんか戻す気なんてないさ。見ろよ、彼女の一番はあれだ」

 マイペースの日々を送っているテイラー博士は、いつにない大きな装置を作っていた。
 皆は『今度はどんな実験か楽しみだ』だなんて言っているが、サミーの目には『ただなにかを淡々と無頓着に組み立てているだけ』にしか見えなかった。

 それはまたまた当たっていた。
 彼女の大きな装置は三日もすれば、がちゃりと全てを取り払って解除される。
 一番最初に取り壊した時は誰もが『なんだやり直しか』と思ったのだが……。それが何度も繰り返された。
 ──ここ半月、一向に彼女の実験は進まなくなった。

 それを眺めている班員達にも、重い空気が直撃し始めていた。
 でもそこを年長者でもあるアダム先輩が『そっとしておけ。前にも似たような事があった』とフォローして収めている。
 しかしサミーには『あれは結構、ダメージ食らっている』と分かっていた。

 そんなサミーを知ってか知らぬか。アダム先輩からの一言。

「結構なダメージだったのかもな。マリア嬢も大きな仕事が軌道に乗ったみたいだし。しかもジャッジ中佐のバックアップだろう。何も思うな感じるなと言う方がおかしい。どんなに無頓着なイザベルでも、女の気持ちがあるならあれが当たり前だって──」

 彼のアドバイスは変わらずに、そっとしておけだった。

 

 夜になっても彼女の無意味な実験装置の組み立ては続く。
 そしてサミーも研究所に詰める事が多くなった。
 ついに彼女は定位置の椅子から動かなくなった。今度の実験装置はかなり大がかり。彼女は計算をしながら薬品を選びながら、淡々と淡々と向かっている。

 彼女の目に付かない位置で、サミーは軍が持ち込んできた調査書の裏付けをしたり、データーの処理をしたり。時々、彼女の様子をそっと見守り……。
 ドーナツがなくなりそうだったら、買いに行く。ミネストローネもフルーツもちゃんとつけて。そっと彼女の側に置く。時々室長の業務が残っている事を知らせ、手伝える事は手伝った。

 そしてまた半月。サミーは彼女と過ごす夜を繰り返していくうちに、『噂のすごい女性』をついに目にした。
 見る見る間に肌の艶がなくなり、髪がぱさつき、ばさばさになり、白衣は薄汚れ、そして──汗くさくなった女性を見たのだ。
 サミーが一目で『可愛い』と思ってしまった女性の面影がうすれ、本当に『おばさん』になっていく彼女に遭遇したのだ。

 どんな『ボサ女』かと恐れていたが、今はもう……そんな彼女を見ても嫌悪感などちっとも湧かなかった。
 むしろ、姿が荒れていくほどに、彼女の目が鋭く光っていくのだ。それを毎日毎晩見守ってきたサミーはぞくぞくしたほどだった。
 これが『イザベル=テイラー博士』なんだと。

 クリスマス前。世間はどこのパーティーに行くとか帰省するとか家族とどうするかとざわついていても、彼女は淡々と実験装置に向かっていた。
 ここ数日、彼女が取り壊す事はなくなった。

 そしてある晩、パソコンでデーター処理をしていたサミーがふと彼女を確かめると、彼女の手が静かにその実験装置を片づけ始めていた。

「そ、それ──。もう、いいのですか?」

 端から見ていても、今度の装置はただ事じゃないと思っていたのだ。
 今度は彼女の思うところが表現されているのだと。だから取り壊さないのだと。
 なのに彼女は片づけている。今度は思うところにヒットしている装置だと思っていたのに、それすらも今までと同じ憂さ晴らしの勢いだけで作ったものだったのかと──。

「ええ。もう、いいのよ。しっくりしないから──」

 だが、彼女の様子も今までとは違った。
 取り壊す時、荒っぽい手つきで壊していたのに、今度はひとつひとつの器具を丁寧に取り外し、どこか感謝の意を込めているかのような静かさで片づけている。

「ああ、忘れていたわ。サミー、あれを、あれを持ってきてくれる。えっとあれよ、あれ……」

 彼女には良くある事。没頭しすぎて、すぐに的確な言葉を思い出せないのだ。
 『あれ』、『それ』で問われる事が良くある。サミーは小さく吹き出しながら、テイラー博士の側に行く。

「これですね」

 ひとつの書類を差し出すと、彼女がそれを見て驚いた顔。

「そういえば、貴方って……私が言いたい事頼みたい事、良く察してくれるわよね。本当に助かるわ」

 そりゃあ。もう……貴女が来てから、貴女しか見ていないから。
 いつのまにか、分かるようになってしまいました。

 そう言えたらいいのにと、サミーは力無く微笑み、俯くだけ。
 目の前にはどうしようもない薄汚れた『ボサ女』がいる。潤いも色気もなくなってしまった四十の女性。サミーがすれ違い様に感じていた爽やかで微かな香りもない。どことなく脂ぽい汗くさい匂いがしている。だけれど、サミーの目には、サミーが見てきたままの彼女がいた。

「博士。気が済みましたか」

 サミーの一言に、博士は少し驚いた顔。
 でもそれももう、どうでも良いかのように彼女も笑った。

「ええ。もう……お終いよ」
「気分転換に、女子寮でシャワーでも借りて浴びてきたらどうですか。俺、なにか美味いものを買いに行ってきますから」
「そうね……サミー……」

 途端に泣き顔に崩れた博士──。
 サミーも手を添えたいが、そうじゃない気がした。
 まだその肩に手を置いて欲しいのは、サミーじゃなく、あの青い目の男性なのだと。

 ただ部下であるだけの男に、恋心の涙をみせてしまったせいか。テイラー博士はそのまま背を向け研究室を出ていった。

 どうしようもなく切なかった。
 抱きしめてやりたいのに。自分が抱きしめたぐらいでは、ちっとも役に立たない、彼女には不必要なものであることが……。
 車のキーを握りしめ、サミーも外に出た。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 街はクリスマス。どこの店に行ってもクリスマスに合わせた惣菜ばかりだった。
 いくつか買いそろえ、サミーは研究室に戻った。

 中にはいると、そこにはもう彼女が戻ってきていた。
 今度は室長席で、いつもは面倒くさがっている室長の書類に向かっていた。

 彼女を一目みて、サミーは笑顔になる。
 パリッとした新しい白衣。綺麗にブローされ、いつものしなやかさを取り戻した栗毛。そして艶を取り戻した肌、顔色。唇にはほんのりと薄いグロスもつけていた。
 そしてなによりも。書類を眺めている彼女の目が柔らかくなり、口元には温かな微笑みを携えている。

「さっぱりしたようですね」

 イザベルが顔をあげた。

「ええ。さっぱりしたわ。なにもかも」

 サミーの目の前に、またぱっと可愛らしい花が咲いた。

「腹減ったでしょ。俺も減っているんです。食べましょう」

 買ってきた料理を広げる。彼女も嬉しそうに室長席から立ち上がってやってきた。

「あら。クリスマス……だったのね」
「あれ。やっぱり外の事は気が付いていなかったんですね」

 そう言うと、彼女がちょっとバツが悪い顔に。

「いつもこうなの。昔からよ」
「みたいですね。でもだんだんと分かってきました。それがテイラー博士なんだって──」
「そう? 扱いにくいでしょうけれど……。それが私だと知ってくれるのは嬉しい事かもしれないわ」

 そして今度は、はにかむ笑顔。

 彼女はきっと、いつだって自分をとことん追い詰めて向き合っているのだ。そう思えた。
 ボサボサに荒れていく一方で、心の中頭の中はどんどん磨かれているのかもしれない。
 そしてまた綺麗に身なりを整えて戻ってくる。

 そう、今日、彼女は戻ってきたんだ。
 サミーはそう思う。
 直ぐ隣にいる女性は、清々しい石鹸の香りを漂わせている憧れの人。しっとりとまとまった栗毛を頬に沿わせて、愛らしく微笑んでいた。淡いグロスで艶を戻した唇も、普段はなにもしていないだけに今日はとても目に付いてしまう。

「ドクター」

 ふいに彼女の顔を覗き込んでしまっていた。
 彼女のしっとりと蘇った姿に、香りに、引き込まれるかのように──。

「なに、サミー」

 その声が、サミーを後押しさせた。

「サ、サミー?」

 彼女の肩を掴んで、突然に自分の胸に引き寄せていた。
 小さな身体──。初めて思った。こうして触れて抱き寄せると、サミーの胸の中にすっぽりと収まってしまう華奢な小柄な女性だったのだと。
 いつも自分より出来る女性として見ていたから、大きく見えてきたけれど。本当はこんなにか弱い……。
 そう思ったら、抱きしめるだけではいられなくなった。サミーの中にある彼女にぶつけたい何もかもが解き放たれる。小さな頭を抱き寄せ、艶めく彼女の唇をサミーは吸っていた。

 しっとりとした石鹸の香りに包まれる。
 触ってみたかった栗毛は、まだふんわりと湿っていて、想像以上に柔らかい……。
 そして唇は。気のせいかな。ドーナツの味がした気がする?

 彼女が『なにをするのか』と両手で押しのけようとしたが、サミーはそれを許さずに力一杯抱き寄せる。当然、唇から言葉を発する事を許さなかった。
 儚い呻き声が時々漏れるのだけど、やがて彼女の唇も柔らかく溶け……。

 とろけきってしまったのはサミーが先だったか。
 はっと気が付いて力が抜けた瞬間に、テイラー博士の方から静かに離れていった。
 我に返ったサミー。自分も彼女から離れ、背を向けてしまった。

 でも。後悔はしていない。

「ドクター。つまり、俺の気持ちはそういうこと……です」

 誤魔化しようもないだろう。
 本当の気持ちをぶつけたのも嘘じゃない。

 サミーの背に、彼女の静かな眼差しがゆっくりと突き刺さっているような気持ちになってくる。
 言葉もなく、空気も動かない。そんな……逃げたくなってしまうような間だったのだが。

「そう。あ、そうだわ。貴方、料理とか得意?」

 ん? それだけ?
 いきなりキスで襲った男に対する反応が『料理得意?』

 サミーは呆気にとられ、振り返る。
 そこにはいつも上司として、そして先輩として、サミーに余裕げに微笑みかけるテイラー博士がいた。

「い、いちおう。それなりに出来ますが?」
「そう。いいことね」

 さらに彼女が微笑んだ。
 どういうことなんだろう??

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 ある日、中庭の渡り廊下を博士と二人で歩いていると、高官棟へ向かう道筋にジャッジ中佐を見つけた。
 サミーの隣にいるイザベルが立ち止まり、そして目が合ったのか向こうの麗しい男性も立ち止まった。
 緊張の一瞬。おそらく二人はマリア嬢が研究室に駆け込んできて以来のはず……。久し振りに互いに見つけて立ち止まったはずだ。

 ここのところ、ジャッジ中佐の事で基地ではちょっとしたざわめきが起こっていた。
 それを思って、サミーはふと彼女の事が心配になったのだが。
 でも今、隣にいる彼女の横顔を見て、サミーは微笑んだ。『大丈夫だ』と。

 隣にいる彼女、イザベルから歩き始めた。
 すると向こうにいるジャッジ中佐も、帰り路を逸れてこちらの理系棟へと向かう渡り廊下へと歩み寄ってきた。

「お久しぶり」
「ああ、元気そうだね」

 二人は微笑み合う。
 かつては、愛し合った恋人同士。前ならそれを見ただけで撃沈していたサミーだが、今は落ち着いて見ていられた。

「ご結婚、おめでとう」
「有難う。なんだか、ばたばたしちゃってね」
「彼女らしいと言えばいいかしら?」
「まったく、その通りだよ。小笠原で倒れたと聞かされて、本当にもう……。俺のクビをかけるほどの騒ぎだったよ」

 いつもはシビアなだけの横顔を崩さない彼が、照れくさそうな顔に崩れた。つまり、それだけ本気を出してマリア嬢を捕まえたということなのだろう。
 前の恋人にそこまで言えるのだろうか? でも、サミーは黙って二人を見ている。なによりも彼女が『先に行って』と言わない。今回はサミーを側に置いて、前の恋人に、泣くほどに愛してしまった男に再度向かっているのだ。だからサミーは見守る。

「貴方は、きっと彼女ぐらいのパワーがある女性に振り回されていないと駄目なのよ」
「どうやらそうみたいだな。もう、全てが彼女の思うつぼだよ」
「まあ。貴方が降参するなんて。よっぽどね!」

 さりげないのろけ。イザベルが笑い飛ばした。
 ほら、大丈夫だと思った。……でも、笑顔が少しぎこちないかな。仕様がないかなとサミーは思う。
 年が明けて、この元恋人のジャッジ中佐が将軍の娘と電撃結婚。基地中が騒然とした。何故なら、このジャッジ中佐がついに結婚するからだ。しかも、花嫁は既にご懐妊。将軍の娘を疾風のように仕留めたのだ。中には、やっと彼の出世の目論みに見合う花嫁が現れた。だから彼は四十でやっと結婚を決意したんだという僻みも聞こえてきた。
 それほどに、基地中で今、一番の話題だ。それをサミーも彼女も耳にしている。
 だから……。笑顔が上手く浮かべられないのもどうしようもないことなのかもしれない。もしそうならば……後で、自分が……。

「実は、最近判ったのだけれど。双子らしいんだ」

 ジャッジ中佐のさらなる近況報告に、隣にいるイザベルが固まった。勿論、サミーも。電撃結婚の上に、花嫁がご懐妊、その上『双子』!
 イザベルの呆けているその顔。口をぽかんと開けて、あらまあ……可愛い顔がとっても間が抜けた顔になっているよ。と、サミーは指でつついて教えてあげたくなった程だった。
 だけれど、彼女が高らかに笑い声を上げた。

「まあ! 貴方、奥さんが出来ただけじゃなくて、双子ちゃんのパパにもなるの!」
「そ、そうなんだよ。ほんと、参った」
「本当ね。信じられないわ!」

 もうどうしようもなく照れまくっている冷徹な秘書官男を、彼女が笑い飛ばしていた。
 やがて、そんな彼女も笑い声を収め、なにかを諦めたかのように笑顔で呟いた。

「本当。貴方だけじゃないわ。私も降参よ。彼女ってすごいわね」
「だろう。誰もきっと敵わないね。ブラウン中将の驚いた顔も基地の皆に見て欲しかったよ」
「彼女って最強ね。もう、貴方はお終いだわ」
「終わった、終わった。確かにお終いだ」

 イザベルの言葉。別れた彼氏への当てつけに聞こえたのに、でも、対するジャッジ中佐は彼女の言葉を当たり前のように受け取って楽しそうに笑っている。
 ああ、そうか。こんな二人だったのかなとサミーは思った。

「見たいわ。貴方の双子ちゃん」
「君さえよければ、是非。……懐かしいママの家に見に来てくれ」
「ええ、行くわ。奥様、お大事に」

 うん、有難う。──ジャッジ中佐はそう言うと、背を向けた。
 去り際、中佐がサミーを一目だけ見た。あの中佐に微笑みかけられて、サミーはちょっとだけ微笑み返す。

 彼の背が高官棟へと消えていくのを、隣にいるイザベルはいつまでも見ていた。

「さあ、行きましょう。サミー」

 彼女の笑顔が輝いていた。
 きっと、完全に吹っ切れたんだなと思った。

 輝く芝生を傍目に、二人は緑の香りがする外廊下を並んで歩く。

「ねえ、サミー。あれ、食べたくなったわ」
「ああ、あれね。いいよ。来る日だけちゃんと教えてくれよ」

 イザベルが不思議そうにサミーを見上げた。

「あれで判ったの?」
「うん。きっとラザニアだ。そしておまけにラディッシュのサラダをつけて欲しいと、思っている……」
「正解!」

 実は、少し前からサミーの部屋にイザベルが通うようになった。と、言うか……ご飯をもらいに来る猫みたいにやってくる。

「ねえ、イザベル。たまには遠くへ二人で行ってみない?」

 まだステディとは決まっていない。
 でも彼女はサミーに懐いてしまったようだから……。もう、自信を持ってもいいかと思うサミー。

 彼女が笑う。可愛い笑顔が咲き誇る。

「そうね。私、そんなことしたことがないから、サミーにお任せだわ」

 勿論。任せて。無頓着だってよーく知っているから、そこは俺がちゃんとやる。
 もしここが誰もいない場所ならば、小さな彼女を直ぐさま抱きしめていたと思う。そして彼女の小さな耳に囁くんだ。

 もう一度、咲いても良いと思うよ。
 俺の目の前で、咲いて。

 きっと、そう囁いているはず。

 

= 遅咲き 完 =

 

 

 

Update/2008.3.28(完結ヴァージョンとして、書き下ろし)
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