× ワイルドで行こう【ファミリア;シリーズ】 ×

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 1.どんなに眠れなくても 

 

 近頃、ずっと眠りが浅い。ぐっすり眠ったことなどあまりない。でも……。
『ふぎゃあ』という泣き声で、琴子はバチッと目を開ける。
 すぐ隣に寄り添って眠っていた息子が、琴子の胸元にしがみついてぐずぐず泣いている。ママが着ているパーカーとその下のタンクトップをめくりあげようとする仕草。
「ううん……。聖児くん、オッパイ?」
 寝ぼけ眼で、琴子は自分からお腹から胸元まで服をめくりあげていた。それを見つけたはずなのに、息子の聖児が吸い付くこともしようとせず、ギャンギャン泣き始めてしまい、琴子はやっと起きあがる。
「うーん、ごめん。すぐにオッパイが見つからなくて……ご機嫌損ねちゃったね」
 もうすぐ一才になる息子を抱いて、琴子は急いで寝室を出る。
 ドアを閉める時、夫と娘の様子を確かめる。『お前のためのベッド』と、つきあい始めた頃に英児が即決で買ってくれた大きなベッド。とても大きかったので、親子四人川の字になって眠れるほど。その窓際に静かに眠る夫とパパの背中にピッタリくっついて眠っている娘『小鳥』の姿。
 夫の英児は明日も仕事だし、娘の小鳥も起こさないように……。そっとドアを閉めようとしたのだが。
「琴子、大丈夫か」
 夫が目覚めてしまった。
「大丈夫。あっちでオッパイを飲ませてみるから。パパは眠って……」
「泣きやまなかったら言えよ」
 それだけ言うと、彼は自分の背中にひっついている娘を見つけて嬉しそうな顔。彼女を今度は胸の中に抱きしめ、満足そうな笑みのまま寝転がった。
 リビングのソファーで泣きやまない息子に、とりあえずオッパイを吸わせてみる。なんとか吸い付いてくれ徐々に泣き声がやんだ。琴子もホッと一息。
 小さな息子の黒髪を撫でながら、胸に吸い付いて小さな手で掴まっている姿を見ただけで微笑むことが出来る。どんなに眠くても……。そして、先ほどの夫の嬉しそうな顔。娘がくっついて眠っているぬくもりに。あの寂しそうだった兄貴が、いまは幸せそうなパパの顔。娘が可愛くて仕方がなくて、彼女が『パパ、パパ』とひっついてくると、もうどうしようもないほどの笑顔。
 そう思うと、琴子も『産んで良かった』と思える。二人目の息子が生まれた時も、英児はとても喜んでくれた。
 だから、どんなに、眠くても……。
 息子もおっぱいに吸い付いたまま、うとうとしている。そして琴子も……。
『うわーん、ママ!』
 はっと目覚める。だけれど胸元の息子は静かに安らいでいる。気がついたのは寝室。今度は娘が泣いている?
 聖児を胸に抱いたまま、琴子が立ち上がろうとした時だった。
 寝室のドアが開き、英児が娘の小鳥を抱いて出てきた。
「ほら、小鳥。ママはここにいるぞ」
 うわーん、うわーん。いやいや!!
「小鳥ちゃん、ママここにいるわよ」
 だけれど娘も泣き叫び止まらなくなる。むしろ乳飲み子の息子より、反抗期にさしかかっている娘の方が融通が利かない時期。
 一度、ぐずったらなかなか泣きやまない。側にママがいなくて怒って、本当にママを見つけても、『その時にいなかったこと』でずっと泣いているとわかっている。
 パパの腕の中でギャンギャン娘が泣く。
「ふえ、えっ、」
「あー、セイちゃんが起きちゃった」
 琴子の胸元の息子も、せっかく落ち着いたのにむずがり始める。
 こんな時だ。いつも夫の英児が、パパの英児が、夜なのに目をきらっと光らせる時。
「いくぞ、琴子」
 泣き叫ぶ娘を抱いたまま、迷いなく夫は玄関へ向かっていく。
 そして琴子も。
「はい」
 ぐずる息子を抱いたまま、自分も迷わず夫の後をついて行く。ダイニングテーブルにいつも置いているママバッグを手にして。
 英児が向かったのは、ガレージ。夜中だというのにシャッターをあげて、大型のランドクルーザーへ向かう。小鳥が生まれてすぐにパパが家族用にと探した車だった。
 その後部座席のチャイルドシートにぐずる娘を乗せ、琴子も後部座席に乗り込みもうひとつのシートに息子を乗せる。
 英児が運転席に。琴子は子供達の横に。エンジンがドルルンとかかると、何故か娘がピタッと泣きやむ。
「もう、やだ。小鳥ちゃんったら」
 いつもそう。どうして? これがパパの子供ってこと?
 だけれど、英児は運転席でライトを点けながら笑っている。
「しかたねーや。赤ん坊の頃から車に乗せてあちこち走っているもんな」
 大きなハンドルを回し、バックでガレージを出て行く。
 夜中の二時。静かな龍星轟から、白いランドクルーザーが一家を乗せて飛び出していく。
 英児が適当に走り始める。夏が近い真夜中。雨が降ったのか、空気が梅雨らしくむっとしている。しかも雨がぽつぽつ降ってきた。
 それでも英児は黙って真夜中の道を、子供を乗せて走る。
 でももう。子供達はパパが運転する車の振動が心地よいのか、すやすやと眠っている。
「英児さん。二人とも眠ったわよ」
 だから、そこそこで引き返しましょう。貴方も明日、仕事でしょ。そう言いたかったのに。
「気晴らしに走っていいか」
 帰るより、彼は運転したいらしい。
「うん、私はいいけど……」
 雨なのに。天気も良くなく、だから景色も良くない。なのに英児が海沿いの道へ向かっていくのがわかった。
「おかしいよな。車に乗せると黙るんだ。親父としては先輩のシノから聞いていたけどよ、『夜泣きで車に乗せるのもひとつの手』だって。『まさか』と思ったけど、うちは効果覿面だな」
「そうね。特に小鳥ったら。エンジン聞いただけで泣きやんじゃって」
「そんなとこ。面白いな、子供ってさ」
 フロントミラーに映る英児の目。あの優しい目尻のしわを浮かべて、やっぱり嬉しそう。琴子も笑顔になってしまう。
「英児さん、いつもありがとう。こうして、一緒に夜泣きに付き合ってくれて」
 本当に子供達に同じように手をかけて、この夫は一緒に子育てをしてくれる。
 だが次にミラーに見えた彼の目が、笑みを消していたので琴子はドキリとする。あの、ガンとばすみたいな怖い顔。
「一人きりだった頃を思えば、なんでもねーよ。うるさくてもよ、思い通りになってくれなくてもよ、ぐっすり眠れなくてもよ」
 孤独を抱えていた彼だからこそ。どんなに思い通りにならなくても『これが幸せ』。その生活を営んでいるだけのこと。そう言いたいらしい。
「気にすんなよ。俺、好きでやっているんだから」
「うん」
「だから。お前も少し眠っておけ」
 ……やっと解った。どうしてすぐ家に帰らずに、ドライブをしているのか。私を休ませるため?
 車で寝付いたばかりの子供達は、暫くはぐっすり。パパが車を走らせている間は眠っている。『その間に寝ておけ』という彼の……。
「あ、ありがとう」
「どっか適当なところ停めて、俺も少し休む。外の空気を吸いたかったからちょうどいいや」
 出会った頃から変わっていない気遣い。自分もそうしたかったから、自分がやりたかったから、だから助けただけ。だから気にするなって。
 小さな子供ふたりの子育ては楽しいだけでも幸せなだけでもない。苛立ちもあるし、疲れてしまうこともある。それを解ってくれている。
 涙が滲みそうだった。
「じゃあ……、お言葉に甘えて」
 隣ですやすや眠っている聖児のシートにもたれかかり、琴子は目をつむる。
 でも……。夫の気遣いが嬉しくて。泣きそうで。眠れそうにない。だけど、琴子が休む姿を確かめるまで、彼も真夜中のドライブをやめそうにない。だから、嘘でも寝たふりをする。
 ディーゼルエンジン音を響かせる大型四輪駆動車は、初夏の雨の中、海辺を走っている。
 不思議。雨の音って。車の中でもなんだか心地よい音。ウィンドウに流れる雨、タイヤが散らす水飛沫。
 あ、もうすぐ。漁村……。
 うっすらと暗闇に見える海、それがどんどん薄れていく。
 やはり、琴子も眠ってしまったようだった。
 
 ――バタン。
 そんなドアを閉める音で、琴子は目が覚める。
 あんなに激しく降っていた雨が小降りになっているようで、窓の外の景色がはっきり見える。海辺。一目で漁村だとわかった。
 しかもすっかり夜が明けている。
 うそ。どれだけ眠っていたの? 英児さんは? 私が眠っている間、何をしていたの?
 彼を探すと、運転席を降りた外で煙草を吸っていた。小振りの雨の中、それでも子供達のために外で。
 琴子もそっと後部座席のドアを開け、外に出た。
「英児さん」
「おう。目覚めたか。ちょっとは眠れたか」
 出会った頃から変わらない、目尻が優しく緩む笑顔。
「うん。眠らせてくれてありがとう。まさかもう朝になっているなんて……」
「俺も、うっかり寝込んじゃったんだよ。わりい。夜が明ける前に家に帰ろうと思っていたのに」
 ほんとに? うっかり寝ちゃったの? それとも私が目覚めるまでそっとしておいてくれたんじゃないの?
 琴子はそう思った。でも……黙っておく。どちらにせよ、問いただしたところで、英児は『だから俺も眠っていたんだ』と言い張るに決まっている。
 そんな彼を、煙草を吸っている彼を琴子は見上げる。やっぱり目元が疲れているような……。
「英児さん。車屋の社長であることも忘れないで。お願い」
 ちゃんと眠って。お客様の車に不備など出さないで。車屋こそ、貴方の生き甲斐。家族も大事。でも家族が出来る前に、貴方がここまでやってきたのは『車』でしょ。そう言いたい。
 だけど案ずる琴子を見下ろした英児が、煙草を口の端にくわえたまま、腕を伸ばして琴子を抱き寄せてくる。
 霧雨の中、彼が胸に強く抱きながら、やっぱり微笑んでくれている。
「あったりまえだろ。車屋でお前ら守っていくんだから」
「お願い。貴方もちゃんと眠って」
 今度は琴子から抱きしめる。
 雨雲が覆う海辺は、朝でも薄暗い。波の音もいつもより激しくて、不安をかき立てるような音。
「大丈夫だって。いつもはお前が俺に気遣って、寝室を出て行くだろ。眠りたい時は、俺がお前に甘えて眠っているよ」
 さらに抱きしめてくれる長い腕。琴子の身体はすっかり彼の腕に囲われ、ぴったりと胸元にくっついている。
 海の匂い、彼の寝汗の匂い。煙草の匂い。いつも変わらない男の匂い。そうして琴子も安心する。
 彼の指先が黒髪を愛おしそうに撫でてくれるのも変わらない。そうして彼も、琴子の黒髪に頬ずりをしながら匂いを確かめているのが解る。
 お互いの匂いを感じて、確かめ合って、安心したら……。目が合う。そして、目をつむれば、熱くて柔らかくて、甘いものが静かに重なる。いつだって。
「琴子」
 彼の唇は煙草の匂い。舌先はちょっと苦くて甘い。そうして愛してくれるから、琴子も負けずに彼を愛す。
 そして変わらない彼の手。
「もう、ここ、外……だめ」
 と抗議したところで、夫の英児は恋人の頃から変わらず。琴子にキスすれば、それも『ワンセット』をばかりに琴子の乳房を目指して手を突っ込んでくる。
 パーカーとタンクトップの下へ滑り込んだ手が、琴子の肌を伝ってのぼり、大きな手が乳房を柔らかに掴んで揉む。そんな相変わらずの手。
 キスをしながら、彼の肌への愛撫。海辺の人も通らないような漁村の影で。小雨の中ひっそり交わす夫妻、ううん、男と女のひととき。
 だけれど途中で英児が唸った。
「うーん、うーん。俺が好きなオッパイじゃない。早くあのふわふわオッパイに戻って欲しい」
 また言いだした。これは最近、彼が琴子の乳房に触れると必ず言うことだった。
「しょうがないじゃない。授乳が終わるまで待ってよ」
「わかってるけどよー。ママのオッパイなんだよなー。すげえ張っていてでっかくかんじるけど、ふわふわな女のオッパイじゃなくて、パンパンのママオッパイなんだよなー」
 そう言いながらも強く揉むんだりするので、琴子はちょっと睨んでしまう。
「もう、おしまい」
 不満そうな英児の手首を掴んで、無理矢理離した。
「怒るなよ」
「怒っていません。母乳のオッパイは優しくしてくれないと、張っているから痛いの」
「悪かった。うん、悪かった」
 ぷんとそっぽを向く琴子を、英児が捕まえるように背中から抱きしめてくれる。
「もうちょっと待って。セイちゃん、あと少しで母乳から離れると思うから」
「うん。楽しみに待っている」
 そうしてまた目を合わせて微笑みあっていると、後部座席からジッと見つめる視線に気がつく。
 娘が目覚めていた。それをふたりで気がついてハッと我に返る。
「帰るか」
「そ、そうね」
 今度の娘は大人しく目覚めてくれたようで……。
 再び車に乗って、小雨の海辺、国道に英児の運転する車が出て行く。
「ママ、あめ」
 娘が外を見てそう言った。
「うん。雨だね。小鳥ちゃん」
 息子はぐっすり。娘は車に乗っているので、もうご機嫌だった。
 海沿いを走っている中、琴子はもうすぐさしかかるあるところを気にして、外に目を向ける。それは運転席にいる英児もおなじ。
 ――マスターのお店。もうすぐ。
 私達夫妻が披露宴をした喫茶レストラン。海辺にある白い木造の小さなお店。
 小雨の中、そこをさしかかると――。
「あ、いま、おっさんがいたな」
 通りすがり、店先をほうきで掃除しているエプロン姿の白髪の男性。琴子も見た。
 英児が車をUターンさせた。
 白いランドクルーザーが、朝早い海辺の店へ。
 店先にそのまま車を停めた英児が、運転席のウィンドウを開け身を乗り出す。
「おっさん。おはよう」
 マスターも一瞬びっくりした顔。でもすぐに笑顔を見せてくれる。
「また『夜泣きドライブ』?」
「そう。俺達もそこらですっかり寝入っちゃって」
「しようがないね。せっかくだから朝ご飯を食べていきなよ」
「うん、食ってく!」
「マスター。おはようございます」
「おはよう、琴子さん。夜泣き、大変だね」
「昨夜もダブルで。でも小鳥ったらやっぱりエンジンを聞いただけで泣きやんじゃったんですよ」
 マスターがそこで笑う。
 実はもうこのパターン、けっこうお馴染み。毎回ではないが、夜閉店前とか開店前などに出くわすと必ずマスターが『食べていきなよ』と言ってくれる。
 そして。琴子の隣でもう娘がジタバタしていた。
「いちご、にゅうにゅっ」
 『苺牛乳』と言っているのだが。
 そんな小鳥を見て、マスターがこのうえなくにっこり。
「おいで、小鳥ちゃん。じっちゃんが『いちごぎゅうにゅう』作ってあげるよ」
 娘のお気に入りのメニュー。白髪のエプロンのおじいちゃんが目印。マスターの顔を見たら『いちごにゅうにゅ』が飲めると知っているから。
 じゃあ、朝飯を食っていくか。
 パパの声で白い車から降り、一家は、お馴染みの店に向かう。
 マスターが小鳥をだっこして、嬉しそうに店の中に連れて行くのもお馴染み。
 思うように眠れなかった夜、思わぬ夜明け。小雨の朝。でもそこに『孤独』なんてものはない、そんな柔らかな朝。

 

 

 

 

Berry's Cafe先行掲載/2012.1.4
Site・Update/2012.2.17
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