◇・◇ 愛シテアゲル ◇・◇

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 1-4 お兄ちゃんに限って、そんなこと。  

 

 じんわりと彼の肌の体温が、小鳥の身体のあちこちに残っている。
 その温かみを実感しながら、静かに衣服をまとう。
 背中合わせにして、翔も元の姿に戻っているのを振り返った肩越しに確かめた。
 
 まだまだ恥じる小鳥を知ってくれているのか、裸からの着替えを見ないように気遣ってくれている。彼はいつもそんな接し方がとても丁寧。ずっと昔からそう。何事にもお兄ちゃんは丁寧に接してくれ、乱暴にしない。
 それは上司の娘だからだと思っていたこともある。そして、いまのこれも……結局、最後は、上司の娘だから? 乱暴に貫けなかったのも、結局は?
 落ち着くと、ふいにそんなことが頭に過ぎった。
 タンクトップにデニムパンツ、最後にシャツを羽織っているところで、ふわっと慣れない匂いに包まれた。
 翔の肌の匂いか、髪の匂いか。よく知っている彼の匂いだった。それが今日は小鳥の傍にまとわりついている。小鳥はひとしれず、そっとその香りを抱きしめてしまう。
 身体が熱い。身体の奥がうずいたまま。あのまま貫かれても良かったのに。でも今夜はもう、小鳥がベッドから落ちてからはそのムードが壊れてしまった。
「ケーキ、食べるだろ」
「うん」
 翔がベッドルームから出て行った。
 初めての夜は、肌の触れあいだけで終わった。

 

 誕生日のケーキを食べる時には、もういつものお兄ちゃんと小鳥だった。
 でも小鳥は嬉しかった。お兄ちゃんからケーキを切り分けてくれ、小皿に取ってくれて、紅茶までいれてくれた。
 一緒にお祝いのケーキを食べながらの会話も、いつも夜遅くまでドライブをしているふたりのままだった。
 ――そうだった。いつのまにか、こうしてお兄ちゃんはとっても近い人になっていたんだ。この二年で、いつのまにか。
 恋人と別れてしまってから二年。そして小鳥が免許を取ってから二年。お互いに『車が生活のど真ん中』にあるだけあって、小鳥が大学生になると夜は翔兄と過ごすことが多くなった。
 二十歳まで、決して小鳥に手荒く踏み込んではこなかった翔兄。いつからなんだろう? 私のことを、『裸にしたいほど好きな女』だと思ってくるようになったのは?
 そんな疑問がずうっとつきまとっていた。
「ご馳走様でした。じゃあね、翔兄」
 もう門限もない。今夜の帰宅は日付が変わってしまった。お兄ちゃんが玄関で見送ってくれる。
「門限がなくなったとはいえ、たぶんオカミさんは、心配で待っているだろうな」
「きっとね……。うん、もう真っ直ぐ帰るよ」
「生意気な走りをして、目をつけられるなよ」
「もう、お兄ちゃんまで心配性だなあ。走って十分もしないところだよ。古い国道だしやんちゃなことしないよ」
 小鳥自ら『やんちゃ』と言ったので、翔が笑い出してしまった。
「じゃあ。心配性なお兄ちゃんの、心配性なお守りに『やんちゃな小鳥もいいけれど、さらに女の子らしくなりますように』と願をかけておこう」
 そう言って。彼が急に小鳥の手を握りしめた。小さな水色の箱に、銀色のリボン。何処かで見たことがある箱――。それを知って、小鳥は驚いて翔を見上げた。
 彼が照れたのか目を逸らした。
「後で開けて、ゆっくり眺めてくれたらいい。おやすみ」
「お、お兄ちゃん?」
 玄関まで見送ってくれたのに、まだ小鳥が玄関のドアを開けて出て行ったわけでもないのに、彼はそのままリビングのドアの向こうへと姿を消してしまった。
 え。こんなお兄ちゃん、ちょっと初めて? 小鳥は唖然としていた。
 
 お兄ちゃん、おやすみなさい。と一声かけてから玄関を出た。
 エレベーターを降りて、急いでMR2に乗り込んだ。
 運転席に座っても、エンジンもかけず、小鳥はその箱を急いで開けた。
 見なくてもわかる箱。でも信じられなくて。だって中身はそうとは限らない。この箱なら、ピアスかもしれないし、ネックレスかもしれないし、ブレスレットかもしれない。
 なのに期待している自分はやっぱり女の子だと思った。その箱を見て、女の子が一番期待するもの……。
 包みを助手席に放って、リボンも放って、白い箱が出てきて紙の蓋を開けて、最後にやっぱり出てきたビロードの箱!
「待って。落ち着いて。そんなわけないじゃない」
 車の中で一人、小鳥は馬鹿みたいに笑い飛ばした。
 ばっかみたい。私ったら、こんな時だけか弱い女の子の発想になっちゃって。馬鹿みたい。
 そんなこと、あるはずない。だって、まだ想いが通じて五日の、まだ二十歳になったばかりの子供みたいな女の――。
 きっと最近集めているピアスやネックレスだと思って蓋を開けた。
 ビロードの箱の真ん中に。夜明かりに光る銀色のリング――。
「う、嘘。嘘だあ」
 小鳥はMR2のハンドルに額を押し付けて脱力した。
「こんな私に、指輪……」
 逆に泣けてきた。
 もしかして。お兄ちゃんこそ、ものすごく力んでいたのかも?
 恋人に対してこれまでクールだっただろうお兄ちゃん。そんなお兄ちゃんが、歳が離れている女の子だからこそ、とっても気遣ってくれたり、『今度こそ、女の子の気持ちを無碍にしない』と意気込んで、買いに行ったこともないバースデーケーキとか、二十歳の誕生日だからと気合いを入れた大人っぽいプレゼントとか――。
 あんなに照れて。怒ったみたいな顔で最後まで小鳥と一緒にいることが居たたまれずに素っ気ない態度になって。
 あれって、すっごく頑張ってくれていたのかも。スマートな大人の男、優しいお兄ちゃんだったけれど、男としてはすごくすごくらしくないことをやっていたのかも――。小鳥にはそう思えてきた。
「ありがとうお兄ちゃん。大切にします」
 彼の部屋へと両手で掲げて、小鳥はぺこりと礼をする。
 さすがに、指にはめるまでは照れくさかったのかな?
 そう思いながら、小鳥はMR2のエンジンをかける。
 
 助手席に、指輪の箱。
 嬉しくて、嬉しくて、もうこのまま海までアクセルを踏み倒してぶっ飛ばしたい!
 
 でも。小鳥の耳に蘇る彼の声。
 ――やんちゃするなよ。
 『やんちゃな小鳥もいいけれど、さらに女の子らしくなりますように』。
 彼の願い通り、この夜は大人しく『龍星轟』まで真っ直ぐ帰った。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 新たな悩みがひとつ。『指輪、いつつけたらいいの?』
 だって。うちの男共に見られたら、うるさいじゃん!?

 午後、雨が降る。
 会えると思った花梨に会えなかった。学部が違うので、すれ違うと一日会えない日もある。
 彼女に報告したいことも、教えて欲しいこともいっぱいあるのに。学食でも会えなかった。この日は堪え、小鳥はキャンパスを後にする。
 駐車場まで傘なしで走った小鳥は、急いで運転席に乗り込む。
「やだな。今日は雨なんて」
 羽織っていた紺色のジャケットが少し濡れた。袖に龍と星のワッペンが縫いつけてある。父親が経営する車屋の制服。車の運転をするようになると、父親が『俺が手入れする車に乗る娘なら、これを着ろ』と許してくれたものだった。
 このジャケットを羽織って、同じロゴのステッカーを貼り付けた往年の国産スポーツカーを乗り回す『車屋の娘』。それはまたこの女子大ではことさらに目立つようで、小鳥は相変わらず大学生になっても校内では有名人のままだった。
 キーをひねり、エンジンをかける。可愛らしい車に乗っている女子大生が多い中、親父世代が好んで乗ってきた90年代のスポーツカーのエンジンをふかす。
 あちこちにカラフルでお洒落な傘。駐車場にいる女の子達が振り返る。だけれど小鳥がハンドルを回して発進させると、顔見知りは手を振ってくれ、知らない女の子達は笑顔で会釈をしてくれる。
 『滝田先輩、いってらっしゃい』。
 どこからともなくそんな声さえ、聞こえてくる。
 車屋のお嬢さん、滝田さん。パパ達が乗っていたスポーツカーを走らせる『走り屋姉貴』――なんて、言われている。
 
 大学は隣市の郊外にある。市街から通う子も多いが、バスや電車通学になる。車で通う子もいれば、この近くに下宿を構える子もいてそれぞれ。
 ただこの女子大。構内はとても静かで綺麗で広いのだが、一歩外に出るとけっこう田舎。おっとりとした女の子や堅実で落ち着いた女の子が多く『お嬢様学校』と言い継がれてきた穏やかな環境は良いのだが、『街でイマドキの女子大生』とは言い難いところだった。
 雨が強くなる中、小鳥は農道に近い一本道を抜け、やっと大きな国道に出る。走っているうちに国道の側は海になる。
 せっかくの海の色が、雨で濁る。空も暗くくすんでいる。波も高く、青いMR2が走っているすぐ下まで打ち寄せてくる、ガードレールの下はすぐ海という古い国道。
 忙しく動くワイパーを目の前に、狭い道幅と車線をスピードを抑えて走る。
 その途中、オールドアメリカンをイメージした老舗のレストランが見えてきて、小鳥のMR2はそこに入った。
 駐車場にはすでに見覚えのある黄色のSUV車、トヨタのFJクルーザーがあった。
 その隣にMR2を駐車させ、小鳥は雨の中、店内へと急いだ。
 このレストランは小鳥が子供の時からここにある。内装もオールドアメリカンで統一されていて、どこか懐かしい雰囲気で溢れている。
 この近くに、地元の人間が集まる海水浴場があり、その帰りに父と母がこのレストランに入って一家で食事をした想い出があった。
 とても雰囲気のある目につくレストランなので、平日は若い男女の出入りが多い。男性との待ち合わせとか、デートとかで入る若者も多い。
 そう、今日の小鳥のように……。
 赤いギンガムチェックのテーブルクロスがかけてあるテーブルで、ひとり、珈琲を飲んでいた男性が小鳥を見つけて微笑みかける。
「雨、大丈夫だったか」
「宮本先輩、早かったですね」
 浅黒く日に焼けた肌に、白い歯を見せ、溌剌とした笑顔を見せるその人の向かい席へと小鳥は向かう。
 向き合って座ると、スタッフがオーダーを取りに来る。
「紅茶と、……」
 メニューを眺める。なんといってもここのイチオシは『アメリカンタルト』。サイズも少し大きめ、ストロベリーにチェリー、パンプキン、そしてオレンジ、こちらもオールドスタイルのタルト。
「ストロベリーパイを一緒に」
 かしこまりました。と、スタッフが去っていく。
「ここのタルトパイ、デカイだろ。俺はムリ」
 目の前の先輩がため息をついた。
「そうなんですよね。アメリカンサイズ。美味しいんだけど、最後、ちょっとお腹が苦しくなっちゃう」
「で。最後に『食べきれない〜。お願い、食べて』と言ってくれると、そこが可愛くて、それなら食べちゃうかな。俺」
「宮本さんは、ほんと相変わらずですね〜」
 非常に慣れた調子で軽くいう。既によく知っている先輩の言いぐさだが、小鳥は苦笑いを浮かべてしまう。
「小鳥は、そうは言ってくれなさそうだな。うん、でも、小鳥はそのままがいいな。それが小鳥って感じ。甘えているお前なんか想像もつかない」
「そんな私だから、先輩とこうして話し合えるんですよね」
 はいはい、私は女らしくありませんよ。と言い捨てながら、小鳥は肩にかけていたトートバッグからスケジュール帳を出して広げた。
 そうでなければ、話し合いなんかそっちのけ。この先輩はすぐに女の子の手を握って、こうだよね、ああだよね、君可愛いねとやり出すのだから。
 小鳥も最初は『挨拶』として、それをされたことがあるが、この先輩をMR2の助手席に乗せて峠を走ってから、がらっと態度を変えられた。『小鳥は女じゃない』とハッキリ言われた。でもかえって好都合、さっぱりした。
 それからこの先輩が、本当の意味で、小鳥と真っ正面向き合って付き合ってくれるようになった。
 宮本圭介、国大経済学部の三回生。今春、四回生になる。こちらは『レジャーサークル』の部長。キャンプをしたり、サーフィンをしたり。とにかくアウトドアで楽しもうというサークル。彼はいまサーフィンに凝っていて、それでいつも男らしく日焼けをしている。
「さーて、さっさと話を済ませよう。このあとバイトだろ」
 挨拶代わりの冗談言い合いもそこそこに、二人はすぐに話し合いを始める。向かいの先輩もどっしりとした黒革のスケジュール帳をテーブルに広げる。ちゃらけて軽く見えるが、やるべき事はきちんとやりこなす几帳面さもあって、だから皆から頼られるリーダーでもある。
 こちらの国大のレジャーサークルと、小鳥の女子大サークルとが提携して、まとまった人数で出かけて楽しむという流れになっている。
 アウトドアサークル『ネイチャー』が大勢でわいわい出かけたい(女の子と!)という希望と、女子ばかりの女子大の『ドライブサークル』(通称、おでかけサークル+男子もいるよ)の希望が一致し、今年で提携三年目を迎える。様々なイベントをこの先輩と企画し、二校交流を含め、楽しんできた。
「小鳥ももう三年生か。そろそろ就活を意識する頃だな。小鳥と花梨も忙しくなってくるだろうな」
「先輩も就活大詰め、そして卒業準備ですね」
「そろそろスミレや後輩に運営を頼もうかと思うんだけど、そちらの『ナナコ』はどう考えているんだ」
 『ナナコ』とは、小鳥と花梨が立ち上げた『ドライブサークル』のこと。小鳥の親友、花梨が名付け親。偶然だったが、MR2のナンバーの一部が『775』。それを見た花梨が、キャプテンの車のナンバー、そしてラッキーセブンの『7』を並べる女の子達という意味も含め『ナナコ(775)』と名付けた。
 車屋と走り屋兄貴に親父達には『エンゼル』と呼ばれ、サークルの仲間内では『ナナコ』と呼ばれる車になってしまった。
「花梨は地元に残るのか」
 先輩の問いに、小鳥も答える。
「花梨ちゃんは地元狙いでお目当ての企業もしぼっているんだけど、私は、まったくのんびりかな」
 宮本先輩が笑う。
「これまた小鳥らしいよな。『目指すところはひとつ、もうずっと前から決まっている。絶対にぶれない』だよな。だからいまのバイトをしているんだから」
 そう言いながら、先輩がいつになく優しい眼差しで小鳥を見て黙ってしまった。小鳥も訝りながら、何を思っているのだろうと首を傾げる。
「いいな。小鳥のその真っ直ぐなところ。誰もがそこに惹かれてしまう。俺も好きだよ。小鳥とサークルの提携をした時、そこがいいなと思ったのは本当だし」
 『好きだよ』。ストレートに言われても、小鳥は驚いたり照れたりはしない。この先輩とは既にお互いの何もかもをわかって『男と女にはならない』という結論を出している間柄。それでも『好きだ』と言ってくれるのは、恋などではない、それはもう既に『友情』だと小鳥は思っている。
 ――友情か。
 そう思う時、小鳥には宮本以外にもうひとりの男性が思い浮かぶ。
 高校の同級生、竜太を。
 今年は帰ってくるのかな。彼はいま、県外の大学にいる。
「少し早いけれど『花見イベント』の計画を立てておこうか」
 カントリーレストランでお茶を挟んで向かい合う国大生の彼と、待ち合わせた本題はそれだった。
「そうですね。開花はいつかもうわかるかな」
「調べてみよう」
 さらに宮本先輩が持っていた鞄から、タブレット端末をさっと取り出して手際よく検索する。
「例年通りみたいだな」
「三月末から四月の初めですね。では、そのころに狙いを定めて……」
 スケジュール帳に予定を書き込みながら、話し合いを進めた。
 小鳥のスケジュール帳はこうして常にいっぱい。真っ白な日なんて一日としてない。
 近ごろは自宅にいる時間の方が短い。夜帰ってきて寝るだけと言っても過言ではない。
 だけれど、忙しい両親には一日の始めと終わりぐらいは顔を見せておきたい。そしてそれは小鳥も同じ。自分もそれだけで、どこか安心して外に飛び出していける。
 それをひしと感じるようになったのは、車に乗るようになってから。
 あの車バカな親父さんが、娘の愛車まで、これまた娘のように手入れをして送り出してくれるようになってから、強く感じるようになった。
「誕生日会、どうだったんだ」
「いつもどおりでしたよ」
 でもふっと花梨と勝部先輩が親しげに二人きりで帰った様子を小鳥は思いだしてしまう。しかも、なんだか避けられてるかと思いたくなるほど、今日は一切、彼女の姿を見なかった。
「だろうなあ。また小鳥に仕切や面倒を任せて、自分たちは気ままにってやつだろ」
「そうでもなかったですよ。なんだか知らないけれど、昨日は日付を越えなかったし」
 『へえ』と意外そうな顔をする宮本先輩。だが彼もふと眼差しを陰らせた。その手にはスマートフォンが。
「……花梨のやつ、最近、なにかあった?」
 小鳥はドキリとした。昨夜、お兄ちゃんに払拭してもらった不安が蘇ってしまう。
「いえ。なにも」
 そして、嘘をついてしまった。先輩に。
「それならいいんだけどなあ」
 いつもの陽気さで先輩が笑い飛ばす。
 だけれど、小鳥の心臓はドキドキしていた。目の前の、食えない先輩に悟られないよう素知らぬ顔をするのが精一杯。
 この先輩こそ。花梨のハジメテの男性。そして花梨が恋している人。
 先輩だって花梨を抱いたはずなのに。なのに二人は恋人同士ではない。
 それには訳もある。この宮本先輩の実家は西の京といわれる山口市内にある、何百年も続いている老舗和菓子店。そこの跡取り息子という重ーい条件をひっさげている男子という……。  それさえなければ、国大生、イケメン(お坊ちゃんでお金持ち)、リーダーシップ抜群のモテ男なのに。女の子達は『いまだけ』ならときめくけれど、結婚は御免と口を揃える。
 それをこの先輩は『俺は呪われている』と言ったりする。さらに口癖が『どーせ俺は見合い結婚。いまのうちに一緒に遊んでくれる子大募集』だから、ほんと軽い。そこも花梨にとっては悩みの種のよう。恋する彼が『遊んでくれる子、誰でもカモン』なんて平気で言っている以上、自分もその一人なのだと彼女も思っている。
 本当は、とてもとても好きなのに。小鳥はそんな花梨をずっと傍で見てきた。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 やっぱり、嫌な予感がするなあ。
 宮本先輩と別れた後、いつも通りのアルバイトを終え、小鳥は今日も翔のマンションへと向かっていた。
 
 毎日行ったら、鬱陶しいかな? とは思ったものの。『今日も行ってもいいかな』とメールをすると、『遠慮はいらない。いつでもOK』という簡素な返信が届いていた。
 そのお言葉に甘えて、またあの部屋に向かっている。
 でも。あの部屋に行ったら、またお兄ちゃんとああなってこうなって……になっちゃうのかな。小鳥は釈然としない想いを抱えていた。
 複雑だった。お兄ちゃんと裸で寄り添って抱き合って囁きあうのは、とても素敵なことだった。でも、セックスになると……。
 やっぱりまだ怖いのか。上手くいかなくて、また大失敗をするんじゃないかという不安が膨らむばかり。
 
 なのに会いたいから行ってしまう。
 これまでは男共が集合する峠やダム湖で落ち合っていたけれど、周囲に走り屋野郎共が必ずいて、二人きりになれるとは限らなかった。
 
 それにお兄ちゃんに、また花梨ちゃんのこと聞いて欲しい。
 
 宮本先輩のあの様子だと、小鳥が感じているとおりに、近頃の彼女は彼女らしくないのは間違いがないのかも。そう思えてきた。
 ということは。自暴自棄になって、彼女がいる勝部先輩と?
 やっぱりダメだ。その方向に小鳥の心配は向かっていってしまう。
 花梨が本気になりたくても、なればなるほど困ってしまう悩みもまだまだある。
 
『ヤダよ。古都の老舗和菓子屋の嫁だなんて。皇室御用達なんだよ。あそこのお母さん跡取り娘でお父さんは婿養子。姑最強な家に嫁ぐだなんて、相当な覚悟がいるよ』
 
 花梨の悩みはそこもある。なんとなく好き合って付き合って楽しいキャンパスライフ――の、つもりが、本気で好きになるとあんなに苦しむことになるだなんて。
 自暴自棄にもなるのかな。まだ男性と付き合うようになったばかりの小鳥にはわからない。わかったつもりで言葉もかけたくない。役立たずだった。
 
 お兄ちゃん、また聞いてくれるかな。
 そう思いながら、カモメの鍵を手にする。今日はチャイムなしで鍵を開け、ドアを開ける。
 というのも、駐車場に既にスープラが停まっていたので、先に帰ってきているとわかっていたから。
 だが、玄関ドアを開け、小鳥は立ち止まる。彼がいつも履いているスニーカーの隣に、女性のブーツがある。かかとがない、でも、大人の女性が好んで選びそうな上品なデザインの――。
 誰? 翔に兄弟はいない。女性の家族が来るとしたら母親しかいないはず。でも、お母さん達が選ぶような靴でもない。
 嫌な予感がした。靴を脱いでリビングの廊下へと歩き始めた時、奥から囁くような翔の声が聞こえてきた。
 リビングに入ると、彼のベッドルームが見えた。ドアが開いていて――。
 まだ龍星轟のジャケットを羽織ったままの翔が、『赤ちゃん』を抱いている!?
 だ、誰? お兄ちゃん。その子、なんなの?
 しかも、部屋から女性が泣きさざめく呻き声まで聞こえてきた。
 彼のベッドルームに当たり前のように入っていて。しかも、お兄ちゃんが大事に小さな赤ちゃんを抱っこしているだなんて――。異様な光景。
 お兄ちゃん。なにかあったの? 私とこうなる前に、なにかあったの?
 大人のお兄ちゃんが、夜のドライブをする以外、なにをしていても小鳥は知ることもできなかった。でも小鳥は自分の目で見えているお兄ちゃんが全てだと信じていた。龍星轟で丸一日めいっぱい働いて、その後は仲間と車で走る。女性との付き合いはなし。ただし、小鳥とは兄妹みたいにして一緒にいることはある。それ以外は――。
 でもそれも、小鳥の勝手な思いこみ? ううん、お兄ちゃんに限って、そんなこと!
「もうイヤなのよ! ダメなのよ!!」
 翔兄の思わぬ姿に驚いたのも束の間。そのベッドルームから女性が飛び出してきて、小鳥はさらに驚き足が動かなくなった。
 しかもその女性がこちらに一直線に向かってきて、小鳥とぶつかった。
 長い黒髪を振り乱した涙の顔が、背丈がある小鳥を見上げた。
 その女性を見て、小鳥は息を呑む。
 そして彼女も――。
「こ、小鳥さん?」
「瞳子さん、どうして」
 だが彼女は、大人になった小鳥を見て、憎々しい顔で翔へと振り返った。
「子供に手を出したの? それで私に帰れと言ったの! やっぱりこの子とこうなったわね!」
「誤解するな。小鳥のことは、お前と別れた後からだ」
「違うわよ! 子供子供って翔は言っていたけれど、この子だってあの時から立派な女だったわよ! そう貴方が大好きな車のこと、一緒に話してくれて、社長さんの娘さんで、そりゃあ、面倒がなくて楽よね!」
 そして、彼女が髪を振り乱して叫んだ。
「こんな子がいなければ、私は結婚しなかったし、こんなに苦しまなかった! まだまだ翔と一緒にいた! あの頃の私に戻して!!」
 頭の奥で、なにかが砕けるような感触。
 え。子供だった私を、瞳子さんは気にしていた?
 もしかして、お兄ちゃんと瞳子さんが別れたのは、私も原因?
 私の、せい――?
 あの時、彼がMR2で狂ったようにスピードを出して怒りを吐きだしていた痛々しい夜を思い出す。
 一緒にその痛みを分け合えたらいいのに。そう思い、小鳥は彼の傍にいた。その痛みを一緒に感じたいと。
 でもあんなに彼を痛めつけた別れは、わたしのせいだったの?
 小鳥が翔にまとわりついていなければ、二人は上手くいっていた?
 あの時、お兄ちゃんの大事なものを壊したのは。私?
「いい加減にしろ。瞳子」
 静かにお兄ちゃんが諭すと、彼が腕に抱いている赤ちゃんが急に泣き出した。
「お前、母親だろ。しっかりしろ」
「いや。もう帰らない。ここにいる! 翔と一緒にその子を育てる、いいでしょ」
 なにがあったかわからない。でも、八年もお兄ちゃんと付き合ってきた女性の言葉は、まだ裸しかみせられない小鳥には衝撃的だった。
「小鳥!」
 お兄ちゃんの声が背に届いた時には、小鳥はもう玄関ドアを開けて飛び出していた。
 マンション側の路肩に止めていたMR2に乗り込むと、小鳥は強くアクセルを踏み込み、激しくふかした。
 助手席に置いたスマートフォンが鳴り響く。でも小鳥にはもう聞こえない。ハンドルを大きく回し、アクセルを踏みタイヤをぎゅっと鳴らして国道へと飛び出した。
 
 MR2のエンジン音が、今夜は空高く唸る。
 どこに向かっているかわからなかった。ただアクセルを踏んで走っていた。
 違う、違う。私じゃない。翔兄のあるべき幸せを壊したのは……。私、なの?
 それに。車屋の娘だから、理解があって楽って……。子供の私を好きになってくれたのは、そういうことなの?

 

 

 

 

Update/2013.9.5
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