◇・◇ 愛シテアゲル ◇・◇

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 1-5 エンゼル、ごめんなさい。 

 

 鳴り続けていたスマートフォンが静かになった。
 目の前は曲がりくねった暗い峠道。いつのまにか、よく知っているよく走っている馴染みのコースを飛ばしている。
 平日だからか、知っている車も見かけない。本当に夜道に一台。
 いつもの道をたった一人で走っている内に、小鳥も落ち着いてきた。
「バカだな、私。お兄ちゃんが、そんなふうに思っていないこと、私がいちばん良く知っていなくちゃいけないし、知っているはずなのに」
 落ち着いてくると徐々に、アクセルを踏む足が緩まってくる。
 慌てて飛び出してきたことを、いまになって後悔する。訳があるでしょう、訳が。
 でも。やっぱり元恋人が馴染んでいるみたいに彼氏の部屋にいるのは衝撃的。しかも、もう別れたはずの女性にいきなり噛みつかれて……。
 正直いえば『だったら。なんで翔兄にずうっとしがみついていなかったの。信じて待っていてあげられなかったの。車のこと、少しでも歩み寄ってくれなかったの』。そう思う。
 なのに、その考えにも至らず、飛び出していた。やっぱり子供だ。
 
 もう少しで峠の頂き。ダム湖に到着する。そこの駐車場がいつもの溜まり場で、今夜も誰かいるかもしれない。
 ひとまずそこに着いたら、翔兄に連絡をしてみよう。
 バックミラーがチカリと光ったので小鳥の目線がそちらへ向く。背後から白い車がやってくる。
 窓を少し空かして、車のエンジン音を確かめる。
 走るためにいじったエンジンだと直ぐにわかった。だけれど、見覚えのない車。
「白のランエボ?」
 三菱のランサーエボリューションがひとカーブ後ろにいる。
 赤と黒のランエボ乗りなら、数名知り合いがいる。いま集まる同世代仲間に白のランエボはいない。
 いるとしたら親父世代? エンジンの音も違和感がある。聞き覚えのないエンジンのような気がする。
 英児父のように週末に走りにやってくるお父さん達も少数だけれどいる。だけれど今日のような平日に現れることは滅多にない。
 けたたましいエンジン音から、向こうはかなりのスピードと馬力で峠を駆け上がってきている様子で勢いと気迫を感じた。
 そんなに走りたいなら、ただ走っている車は邪魔だろう。近づいてきたらやり過ごそうと思っていた。
 夜道に白く浮かぶランエボが背後に迫ってきた。小鳥はスピードを落とし、ウィンカーを出して路肩に寄る合図を出した。
 ブウンと唸るランエボがどんどんどんどんMR2の後部に迫ってくる。
「なんで。追い越してくれてもいいのに」
 冷や汗が滲んだ。もしかしてという小鳥の予感が当たる。
 後ろのバンパーあたりを巧みに『ごつん』と突いてきた。それで確信した。『煽られている』!
 意地悪い走り屋がすることだった。遠くに走りに行けばたまに会うことはある。だがこの峠では初めて。つまり『余所者』!
「そっちがその気なら――」
 仕方がない。もうすぐ頂上の駐車場。そこに逃げ込めば、この車も走り去っていくだろう。ほんの少し付き合ってあげればいい。
 窓を閉め、小鳥はハンドルを強く握りしめる。ギアを入れ直し、アクセルを踏んだ。
 案の定、小鳥がスピードを上げて離れると、追いつくようにして向こうが追い抜きにかかってきた。上手く土俵に乗せられたことになる。
 峠岩肌が直ぐ側のインカーブ。そこで向こうがどう出てくるかドキドキしながら、でも、小鳥の心は燃えていた。こんな時にこんな血が騒いでしまう。
『おめえ、やっぱ俺の娘だわ』
 父が助手席に乗って、悪い車のやり過ごし方を教えてくれたことがある。悪い車の役を清家のおじさんがわざわざやってくれた時の小鳥の切り回しを見て、そう言っていた。
『嫌なヤツには、ぜってえ負けねえ。俺の根性そっくりだわ。やりすぎんなよ』
 悪い車はな――。ハンドルを握り直すと、隣に父がいるかの如くその声が蘇る。
 インカーブ。小鳥の目線は前、そして一瞬だけ右をかすめる。思った通り、アウトラインから並んで抜きにかかってくる。こっちは争う気はない。アウトから楽々抜けるなら、今すぐここで勝ち誇って抜いていけばいい。それで済むなら……小鳥は祈った。
 しかしその願い虚しく、最悪の予測通り、向こうから幅寄せをしてきた。外側から白いランサーエボリューションが、MR2を岩崖へと追いつめる。
 父ちゃんがあの時、こうだって言っていた!
 その言葉が小鳥の身体の隅々まで指令を下す。ブレーキ、クラッチ、ギア、アクセル、ハンドル。一瞬で駆使し、小鳥はインカーブを抜けた。
 思いっきりアクセルを踏んで走り抜ける。
 バックミラーに白いランサーエボリューション。向こうが唸りを潜め、後退していく。ほっとして小鳥は駐車場を目指した。
 本当なら向こうを勝たせて満足させた方が、後々面倒なことにならないような気がする。父が言うところの『ムキになるな。負けて勝て』という言葉が、ああいう輩には最適な気もする。
 やっとダム湖の駐車場に来て、小鳥はひっそりと片隅に停車させる。ランサーエボリューションがそのまま気がつかずに走り去ったのを確かめたら、翔に連絡をしようと……。
 だが小鳥は恐怖を覚えた。白いランサーエボリューションが駐車場に入ってきたのだ。
 しかも徐行してこちらに向かってきている。小鳥がこの駐車場に入ったことも見逃さず、なおかつ、逃がさない。徹底的にやりこめようとしている?
 ――狙われている。
 走りで気が済まなかったのか。闘争心のコントロールが効かない質の悪い走り屋がやることは『車を潰す』こと。
 ヤンキー男達が、勝った負けただけのプライドをかけてやりすぎることがあるのはよく聞くこと。だが、小鳥の知り合いは皆、車が好きで走っている生粋の走り屋だけ。
 鬼ごっこのように、追いかけっこをするみたいに抜き抜かれつ走りっこをすることはあっても、相手の車を潰して勝ち誇るような闘争心剥き出しの仲間はいない。
 近頃、この峠に龍星轟顧客を中心としたグループが集まっている。それを聞いて他の走り屋が集まってきて、また逆に英児父の店へとやってくるというそんな良い流れができていた。
 それを良く思わないヤツの仕業?
 気を抜かず、小鳥はそっとサイドブレーキを落とし、ギアを握り、いつでも走れるようスタンバイをする――。
 MR2を見つけたランエボが、真っ正面にいる。
 小鳥は窓を空かす。向こうのエンジン音を聞くため。
 真っ正面にいるランエボが、激しくエンジンをふかした。
 ブウン、ブウン、ブウンブンブン、ブウン。明らかにこちらを威嚇している。
 後ろ足で砂を蹴り、いまにも走り出しそうな馬のよう。
 小鳥もパニック寸前になりそうだった。いま停車しているMR2の背後はダム湖。コンクリートの壁。バックをすることができない。進めばランエボと衝突する。なのに向こうはいまにもこちらに向かってきて、衝突しようかと脅かしている。
 つっこんできたら、向こうだって車体が潰れる。それをわかっていて何故こんな勝負を仕掛ける?
 こちらはホンマものの『背水の陣』。前へ進むことしかできない。こっちから衝突させて、賠償金でも払わす『当たり屋』?
 とにかく、質が悪い車に絡まれている最悪の状況だった。
 ブウン、ブウン――。エンジンを唸らせてばかりかと思えば、きゅっと発進してはぎゅっと停車して、小鳥を惑わしている。
 だけど小鳥は考えている。右か左か。アクセルを踏んだらハンドルを切って横に逃げるしかない。だけれどそれはランエボもわかっているはず。
 きっとランエボも賭けている。MR2が右に出るか左に出るかと。出てきたら頭からぶつかる気満々なのが伝わってくる。
 とにかくMR2を潰したい。その意志がひしひしと伝わってきた。
「右か左しかないなら。行くしかない」
 ブウン! 小鳥も負けじとエンジンをふかした。夜の駐車場に、白いランエボと青いMR2がエンジンをふかして威嚇する。
 行くよ。小鳥はハンドルを握る。ギアを動かし、アクセルを踏んだ。
 キュルキュルとタイヤが鳴り、MR2が直進する。右にも左にも行かなかったことが予想外だったのか向こうが慌ててバックした。隙ができた。小鳥はハンドルを右に切ろうとした。
 瞬間、あちらがドライバーとしては一枚上手か! ランエボも咄嗟にハンドルを切り、小鳥と同じ右に頭を振ってきた。MR2とランエボのバンパーとパンパーがぐしゃりと当たった!
 やっちゃった!
 ガンという衝撃の中で、ボディがへこんだ感覚!
 危機を感じた小鳥は咄嗟にギア切り替え、MR2を素早くバックさせた。
 今度は、MR2の後部から『がしゃん!』という激しい音が響き、小鳥はさらなる衝撃に襲われた。
 嘘だ。嘘! 小鳥は泣きそうになって、後ろに振り返った。
 ぶつけた。後ろのコンクリートの壁にぶつけちゃった!
 前と後ろ、どちらもぶつけた! お兄ちゃんから引き継いだMR2を、初めてぶつけた!!
 もう頭が真っ白だった。ランエボのことなど……。
 ハッと気がつくと、目の前のランサーエボリューションがゆっくりとバックをして暗闇へ溶け込むように遠のいていく――。
 フフフと嘲笑うように。まだ運転が未熟な年少者の無様な姿を確かめて、悦に浸って余裕で去っていくその姿に小鳥は怒りを覚えた。
「待て!」
 ムキになるなよ。父ちゃんの言葉も、かき消えていた。あんのランエボめ、とっつかまえてやる! 恐怖もすっ飛んでいた。
 だがそこで、助手席にあるスマートフォンが鳴った。翔からの着信音だと気がついた小鳥の熱がさっと冷める。
 ハンドルから手を離し、小鳥はそのままシートに身を沈め、深く息を吐いた。
 ランサーエボリューションが下りの峠道へと消えていく。高らかに響かせるエンジン音が憎たらしいほど。
 脱力。カレシの部屋に元カノが子供連れで戻ってきているし。こちらはこちらで、初めて質が悪い車に絡まれた。しかも、車……。大事なMR2が傷ついた。
 スマートフォンを力無く取り、小鳥は耳元にあてる。
『小鳥、どこにいるんだ』
 その声を聞いただけでホッとする。
「お兄ちゃん、私、あのね、いま……」
 やっと涙が出てきた。大事な車を壊された。質が悪い車に絡まれたのは、悪い男に襲われたような嫌な気分。
『お前はなにも気にしなくていいんだから。帰ってこい』
 そして小鳥は気がつく。翔が電話しているその向こうで、まだ赤ちゃんの激しい泣き声がした。
「瞳子さん。まだいるんでしょう。私が行ったら、変にこじれるよね」
 翔の深いため息。疲れ果てた彼の声が届く。
『よほど感情的になっていたのか、子供を置いて飛び出していったんだよ。そうでなければ、小鳥を探しに俺もスープラに乗っている。だけど赤ん坊を置いて行かれたから、いま出て行けないんだ』
 え、子供を置いて出て行った!?
 そっちもかなり衝撃的展開!
「な、な、なんてことなの。じゃ、あ、お兄ちゃん……、もしかして、いま、赤ちゃんと?」
『ああ、二人きりだ。もう泣きやまなくて困っているんだよ』
 それは大変! 小鳥はすぐに背筋を伸ばす。
「お兄ちゃん。私、すぐ行くから。待っていて!」
 スマートフォンを助手席に放り、小鳥は再びMR2のハンドルを握りしめ、アクセルを踏んでいた。
 走り始めて気がつく。片側のライトがやられている。片方しか光っていない。
 ……惨めだった。前も後ろも、エンゼルを傷つけてしまった。
 だけど、もう小鳥の心は、翔へと向き直っていた。
 なんてこと。お兄ちゃんの元カノが精神不安定で訪ねてきて、赤ちゃんを放ってどこかに行ってしまうだなんて。お兄ちゃんが一人で困っている。自分になにができるかわからないけれど、小鳥はもう真っ直ぐに港町へと傷ついたMR2で向かっていた。
 カーブを曲がるたびに、ライトが照らす光が片側だけで胸が痛む。
「ごめん、エンゼル……。守るためだったはずなのに。こんな守り方しかできなかった」
 悔し涙に、情けない涙。なにもかもぐちゃぐちゃにして、でも小鳥は彼の元へと向かっている。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 急いで翔の部屋に戻ると、ふぎゃふぎゃと泣きわめく赤ちゃんの声が響き渡っている。
 玄関からリビングに駆け込むと、疲れ切った翔がそれでも赤ちゃんを抱いて、部屋の中をうろうろと歩いていた。
「お兄ちゃん」
「小鳥。大丈夫だったか」
 大丈夫じゃない。MR2が壊れた。ううん、壊された。でも小鳥はそう言いたいのをぐっと堪えて、赤ちゃんへと駆けつける。
「どーしよう。きっとお母さんがいなくなったことをわかって泣いているんだよ」
 翔の腕から自分の腕へと抱き変える。それだけでも翔兄がほっと人心地ついた顔をした。
「わ、オムツぱんぱんじゃん」
「俺、買いに行ってくる。どんなのを買えばいいんだ」
「うーん。このぐらいの子だと、いちばん小さなオムツでいいんじゃないかな」
「いちばん小さなオムツ? サイズ表示はなんだ。SとかMとかLで表示されているのか? それとも月齢? 行ってみたらわかるものなのか」
 流石のお兄ちゃんも、こればっかりは知識なし。見たこともない顔で唸っている。
 小学五年生の時、母の親友で武ちゃんの奥さんでもある『紗英ちゃん』が出産をした。四十歳を超えていたというのに『これが最後のチャンス』と高齢出産をして、しばらくはその一粒種の男の子が龍星轟で小さなアイドルになったことを思い出す。
 自営業だったので、父親の英児が良く預かって不慣れな武ちゃんに先輩パパ面大全開で面倒を見たりしていた。歳が離れた弟がまたできたと、小鳥も良く面倒を見ていた。
 といっても。あれってもうだいぶ前。いまはその小さな武ッ子は生意気な小学生。小さなママ気分でオムツを替えたのも遠い昔だった。
「ネットでわかるんじゃないの」
「そうだ、そうだった」
 冷静さも失っているのか、いつもならお兄ちゃんがテキパキ思い付きそうなことを、年若い小鳥に言われて気がつく始末。相当、気が動転していると見た。
 だけれど翔は苛立った様子で、いじっていたスマートフォンをいきなりソファーへと放り投げた。
「むちゃくちゃ非効率だ。だけどこのままでは……」
 らしくなく黒髪をくしゃくしゃとかいたかと思うと、翔はまたスマートフォンを手に取った。
「くそ。母さんに聞いてみるか」
「え、お母さんって。桧垣のお母さん?」
「ああ。詳しい人に来てもらうのが一番だろ。俺が実家にこの子を連れて行ったら二十分くらいでなんとかなるだろ」
「ま、待って。その前に瞳子さんは? 探さなくていいの?」
「携帯の番号を変えられていて、俺は知らないんだよ。そのうちに帰ってくるだろうと待っていても、もう小一時間帰ってこないんだぞ。こっちも宛にならない」
 確実に行く。それが桧垣のお母さんを頼ることだった。
 だが小鳥は咄嗟に、翔の手からスマートフォンを取り上げてしまう。
「ダメだよ! 元カノの子供を押し付けられて息子が困っているだなんて。お母さん、びっくりしてショックを受けるよ。しかもこんな夜に突然赤ちゃんを連れて行っても、桧垣のおうちでもすぐに準備できる訳じゃないでしょう」
「じゃあ。とにかく、ドラッグストアで片っ端からベビー用品を買いに行ってくる」
 効率的にできないなら、非効率でも良い。とにかく行動をすると翔がいきりたった。
 そんな彼を見て、小鳥も一生懸命になってなにか良い方法がないか考えた。そして――。小鳥は自分のスマートフォンをデニムパンツのポケットから取りだし、赤ちゃんを抱いたまま電話をしてしまう。
「小鳥?」
「おなじお母さんなら、うちのお母さんでも良いよね」
 翔が戸惑った顔をする。それもそうか。上司の奥さんにこの状態を知られることになるのだから。しかも娘が部屋に来ているだなんて。
「どちらかというと、桧垣のお母さんより、うちのお母さんの方が、お兄ちゃんと瞳子さんの事情は知っていると思うんだよね」
 男の子はまったく近況を教えてくれない。琴子母が時々そう言う。そして英児父は『男はそんなもんだ』とも言っていた。だから翔兄もきっと、瞳子さんは紹介していても、何故どうして別れたかなどは男として、特に母親には言えていないはず。
 それよりかは、彼の日常を間近で見ている『親父さんとオカミさん』の方がまだ事情を把握している。そう思ったのだ。
 そして翔も、小鳥の決断に戸惑いはあっても、それは確かだと納得してくれたのかもう止めはしなかった。
「お母さん。小鳥だけど……あのね、実は……」
 簡単に事情を説明した。小鳥の腕にはぐずぐず泣きっぱなしの赤ちゃん。きっと母の耳にもその声は届いているだろう。
『ごめんなさい。小鳥ちゃん。お母さん、いま締めきりの依頼が重なっていて、今日も夜遅くまで残業で帰れそうにないのよ』
 母の仕事は、昔から不規則な業務時間が特徴で、残業期間になるとほんとうに帰ってこなくなる。ちょうど、その時期だった。
「じゃあ、お母さん。教えて。どうしたら泣きやむのかな」
『わかったわ。なんとかするから。十五分だけ時間をちょうだい』
 え、たった十五分? 首をひねってどうしてか問い返そうとしたら、もうそこで琴子母が電話を切ってしまった。
「え、切れちゃった」
「オカミさん、なんと言っていたんだ」
「十五分だけ時間をちょうだいだって」
 十五分? 翔兄も首をひねった。
「オカミさん、まだ三好堂印刷にいるんだろ。ゼットを飛ばしてきたとしても、あそこからこの港町まで早くても三十分はかかる」
「だよね。なにか調べて教えてくれるのかな」
「調べなくても、オカミさんなら子育てベテランだろ」
 それでも赤ちゃんはふぎゃふぎゃ泣いてばかり。
「すごいね。赤ちゃんって。こんなに泣いても疲れないのかな?」
「もう、全力で一時間だぞ。そのうちに気絶するんじゃないかとか、死んでしまうんじゃないかと生きた心地がしなかった」
 小鳥が来るまでは――。翔兄が小さくそう呟いたのが聞こえ、小鳥はふと……お兄ちゃんを見上げてしまう。
「戻ってきてくれて、良かった。本当に瞳子とはあれ以来連絡だってしていない。ただ、俺がここから引っ越していないだけで」
 大きな手が小鳥の頭をそっと男の胸へと抱き寄せてくれる。
 もう一つの長い腕が、今度は小鳥の背をぎゅっと抱きしめてくれる。
「お兄ちゃん……。私こそ、深く考えないで見ただけで飛び出しちゃってごめんね」
 飛び出したその先で、酷い目にあったよ。きっとお兄ちゃんから簡単に逃げた罰だったんだね。
 彼にそれを伝える前に、涙がこぼれた。
「ごめんな、小鳥。巻き込んで」
「ううん。大丈夫」
 彼が何度も何度も黒髪を撫でて、側に抱き寄せて離れてくれない。
 おかしいな。そうしていたら、赤ちゃんの声が少し小さくやんできた。でもまだ指をくわえてぐずぐずしている。見ていると胸が痛む。
「ママ、ちょっとだけ疲れていたんだよ。すぐに帰ってくるよ」
「うん。そうだな。あいつ、昔から完璧主義で、自分が思い描いたとおりにならないと、ああやって癇癪を起こすタイプだったからな」
 そうだったんだ。とてもきちんとした大人の女性で、だからお兄ちゃんは彼女を八年も愛すことができるんだと、小さな小鳥は思っていた。
 でもあの姿が、とてもムリをして作られていたものだったのなら。女性として自分自身の管理は上手くできても、結婚はそうではなかったのかなとふと感じてしまった。
 ちょっとだけ、お兄ちゃんも小鳥も赤ちゃんも落ち着いたように、張り詰めていた空気がほっと柔らかに緩んだような気がした。
 その途端だった。チャイムが鳴る。
 二人はその素早い母の対応にギョッとした。
「え。まだ十五分も経っていないよね」
「ああ。十分も経っていない。七、八分?」
 どういうことかと二人で顔を見合わせる。
 揃って玄関へ出向いた。勿論、家主である翔が玄関ドアをそっと窺うように開けた。
 ドアが少し開いただけ。なのにその隙間から大きな男の手がガッと入ってきて、二人揃って後ずさった。しかもその手が翔の手を跳ねとばすようにして、勢い良くドアを開けた。
「こんの、お前ら、なにやっとんじゃー!」
 さらに二人は大きく後ずさった。そこに迫力満点ライオンのように吠えて現れたのは、龍星轟のジャケットを羽織った『お父ちゃん』!
「しゃ、社長……!」
「と、と、と、父ちゃん!」
 カレシの家に、父ちゃんが来た。しかも男の部屋に娘がいる。そして元カノの子供までいるこの状況。

 

 

 

 

Update/2013.9.6
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