-- A to Z;ero -- * 春は来ない *

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7.密やかに……

 未だに彼女が目覚めぬ五日目の晩が更けていく……。

 登貴子と付き添いを始めて、どれぐらいの時間が経っただろうか?
 最初は二人でじっと葉月を見つめていたのだが、たいした会話もすることなく、時間が過ぎていった。

 そのうちに、うとうとしてしまった。あの一軒家で交代だと言われて出向いて横になっても直ぐに目覚めてしまう。そして時間が来る前に、この病棟に出向いてしまっていた。
 だから時々、こうした小さな眠りの波がやってくる。
 葉月がHCUに移ったという安心感もあったのだろうか、今夜は眠い。

 だが隼人がハッとして目を開けると、登貴子はいつも同じ格好、同じ様子で、一睡もしていないようだ。
 そんな母心に、隼人は本当に凄いなと、その偉大さを感じてならない。とてもじゃないが『お母さんも少しは眠っては』なんて、言えなかった。

 時計を見ると、もう四時が来ようとしていた。

「……お母さん」
「隼人君……。いいのよ、休んだままで」
「いえ。もう……」

 どれだけ居眠りをしていたかは分からないが、今のこの目覚めはだいぶすっきりしたものだった。

「もう、朝が来ますね」
「……ええ」

 予定の休暇はとっくに消化し、隼人は休職状態に突入していた。
 その間、一度も小笠原の同僚には連絡を入れていない。達也にさえも……。余裕がなかった。そして自分が崩れていくことで、さらなる心配もかけたくなかったし、逆にあちらの不安や心配してくれている様子に触れてしまっても、きっと隼人は心穏やかでなく、落ち着いて話すことは出来なかったと思う。
 ロイにリッキーが四中隊を支えてくれていると思って、今は全てあちらのことは手放し状態だ。

 きっと達也は、もの凄く心配しているだろう。

 今朝はそんな気持ちが強く押し迫ってきていた。
 葉月が集中治療室から脱したこの時、本日は連絡をしてみようかと隼人は思うことが出来ていた。
 ジョイも弟分として来たいだろうに、ロイに止められているようだった。
 山中も、葉月との付き合いは長い男で、誰よりも連れ添ってきたと言っても良い同僚だ。彼には彼女という上官しかいない。心配しているだろう。
 泉美は……心を落ち着けてくれているだろうか? それともこの事件の事は伏せられているのだろうか? 彼女には安心してもらえるようにしなくてはいけない。おそらく、達也の母親が側にいるから大丈夫だとは思うのだが。
 テッドもきっとショックを受けているだろう。彼にとって葉月という女性、そして先輩は、彼の目標そのものだ。今一番、彼女の側で彼女を支えることに生き甲斐を感じていただろうに……。
 小夜も、とても心を痛めていくれて、誰よりも泣き叫んでくれている気がする……。

 そうだ。彼女が一番の危機を脱したことと、自分もある程度は気持ちが落ち着いて、葉月の目覚めをどっしりとした構えで待つ続ける状態になっていることだけでも、今日、連絡しよう。
 そう思えた六日目の朝を迎えようとしている。

 ──もう、クリスマスの時期だ。
 今年をこのまま、終えてしまう。このまま年を越すのだろうか。

 隼人は膝にかけていた毛布を取り去り、ふと席を立った。
 登貴子が少しだけ『どうしたの?』と肩越しに振り返る。隼人は窓辺に向かいながら、『外を見てみるだけ』と、そこを指さし微笑む。ちょっとした気分転換だ。
 この病室の窓辺へと寄り、重い白いカーテンをそっと手で除ける。窓は曇っていて、そして冬の朝方はまだ真っ暗なままだ。ひんやりとした空気が、より一層、目覚めを助けてくれる。気持ちが徐々にすっきりしてくる。
 そこで深呼吸をして気分を改めた隼人が、カーテンをそっと閉じ、椅子に戻ろうとした時だった。

『あ・・』

 そんな微かな声。その空耳のような感触の声に隼人の胸がドクリと動いた。
 それは……登貴子の声ではなかった! それに登貴子も気がついたのか、椅子から立ち上がり、確かめるように葉月の顔を覗き込んでいる!
 隼人はそれはやっぱり空耳ではなかったのだと、急ぎ足でベッドに戻った。
 登貴子の背から、隼人も葉月の顔を覗き込んだ。
 すると今度は隼人の胸元にいる登貴子がビクッと肩を動かす。そして、彼女がとても驚いたように、肩越しに振り返り隼人を見上げてきた。
 ──指、指が動いたと登貴子が言う!

「葉月……?」

 登貴子が震えるような声で、そっと娘の名を呟く。
 すると、登貴子の手の中にある彼女の指先が小さくうごめいている! 隼人もそれをしっかりと目にして、また登貴子と顔を見合わせた。
 二人揃って、飛びつくようにして、葉月の顔を覗き込む。
 彼女が目を微かに動かして、黒目もきょろきょろと動かしている。そして、唇も──。呼吸器をテープで固定しているために動かないはずの唇が、もごもごともどかしそうに動かしている!

『う、あ・・・』

 そんな声──!

「は、葉月──!」

 隼人が叫ぶと、彼女の瞳がこちらに向いた。
 その目はちゃんと潤っていて、隼人が良く知っている煌めきをちゃんと保っている!
 また、動くはずのない彼女の唇が震えるようにうごめく。

『ママ……。隼人さん』

 そう言っているのだとちゃんと分かった。
 そうして葉月の瞼がしっかりと開いて、登貴子と隼人を熱い瞳で見つめている。

 ──帰ってきた! 目覚めた!!

「葉月! ママよ。分かる? 分かる!?」

 登貴子が懸命に葉月に叫ぶ。
 すると葉月はこっくりと小さく頷いた。

 彼女の意識ははっきりしていると判る!
 頬に紅がさし、そして目は輝き、そして口も動かそうとしている。その上、母の問いかけにもきちんと反応するだけの意識も……戻っていている!!

「ああ……! 葉月、葉月、良かった……葉月!!!」

 それが判った登貴子が、娘の肩に顔を押しつけ大泣きを始める。
 隼人は嬉しいのに、でも夢でも見ているかのように……。彼女との再会をただ茫然としたまま、見つめてしまっているだけになっていた。

 だってそうだろう? ついこの間、彼女は死にかけたんだ。
 『結婚しよう』と『一緒に生きていこう』と二人で新しいスタートを始めようとしたら、それをぶち壊されるかのように奈落の底に突き落とされたあの愕然とする急降下。もう一度、信じて良いのか? これは夢じゃないよな? ここで喜んでまた突き落とされるだなんて事ないよな? 本当に信じて良いんだよな!?

 そう──怖かった。
 彼女が生還したのに、また何処かにいなくならないかと……怖いのだ!
 だから、すぐに飛びつけない。

 だけれど、彼女がこちらをじっと見ている。
 あの綺麗に明るく透き通るガラス玉の茶色い瞳を潤ませて、こちらをじっと……。それこそ二人で愛し合っている時に、彼女がその眼差しで『貴方』と甘く囁いて隼人を捕らえて離さない時のように……。じっと熱く、隼人を呼んでいるようだった。

『葉月』

 心の中で囁くと──。

『貴方』

 彼女の瞳がそう言っている。

 その隼人を見つめ続けてくれている茶色のキラキラしている目から、涙が一筋、流れ落ちた。
 だけれどふっとまた彼女が気を失いそうに目を閉じかける。隼人は驚いて葉月の顔をもっと覗き込んだ。
 するとまたふっと目が開いてホッとする。
 そうして、なんとか頑張って目を開けている葉月が隼人を見つめながら、また唇を動かそうとしていた。
 何かを言おうとしているのが、喉まで押し込まれている呼吸器のせいで聞き取ることは出来ない。
 だが、隼人は葉月の手を取って、それを頬に寄せた。

 手にとった彼女の指先が頬の上で、暖かく動く。
 それを感じて、隼人はやっと信じることが出来る……。
 彼女が帰ってきた! 生きて、また熱く潤む瞳のまま、帰ってきた!!
 その指先に口づけたら、彼女のその指がまた隼人の唇の上でぴくりと動く。
 反応を返してくれる彼女。愛していると言えば、きっとまた微笑んでくれる。本当にそう信じられると思った途端に、隼人の目の奥から熱い涙がどっと溢れ出てきた。

「葉月、待っていたよ……待っていたんだ!」

 彼女の指を握りしめ赴くまま泣きさざめく隼人の頬で、またその指先が儚くともうごめく──。
 彼女が『泣かないで』と言っているよう……。そんな葉月をもう一度見つめると、やはり何かを一生懸命に隼人に伝えようとしている。

 だけれど、何を言っているか分からない。
 なにかもごもごと動かしているのだけど、今のこの処置ではそれは無理だった。
 やがて、それでも葉月が微笑みを浮かべて、隼人をじっと見つめながら何かを言った。
 懸命に叫ぶような息だけの声が、聞こえてきた。

 良く聞き取れない──。
 でも、隼人には判った!
 彼女が笑顔で隼人に囁いてくれた短いその言葉は……。

 ──愛しているわ、貴方。

 そう聞こえた。
 帰ってきた彼女が、一番に隼人に伝えてくれた『ただいま』の声がそれだった。
 隼人はまた涙をこぼし、彼女の指先にその熱い喜びの涙を吸い込ませた。

「おかえり、葉月……。俺も、愛しているよ」

 その指先に口づけると、また彼女が微笑む。
 それを見ていた登貴子が、またおいおいと泣き始めてしまった。

 彼女が、娘が、『笑顔の生還』を果たしたのは、夢でも何でもなく……。
 それは葉月が勝ち得たひとつの勝利なのかもしれなかった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 意識ははっきりしているようだが、それでも葉月の表情が徐々に辛そうになったり、目を閉じそうになったりが目に付く。
 一瞬の喜びも束の間、隼人も我に返って直ぐにナースコールで知らせる。
 担当医と看護師が揃って飛んできた。
 葉月を取り囲み、医師が葉月の頭の側に立った。

「御園さーん、私が見えますか?」

 医師の問いに、葉月がこくりと頷く。

「今、貴女の指を握っています。動かせますか? 御園さん、これは何本ですか?」

 担当医が葉月の指を握りしめ、彼女の顔の上で指を一本立てて左右にゆっくり動かす。
 葉月の指がそれをちゃんと答えたようだ。

「ではこれは?」

 医師が二本、三本と繰り返し、葉月はすべて指先で答えられたようだ。

「では御園さん、右の指を動かしてください」

 医師が握っているのは彼女の右手だ。それもちゃんと動かせたようだ。
 それを見ていて隼人は確信した。彼女の意識は完全に戻ってきていると──。

「痛いですよね?」

 葉月がこっくりと頷く。

「何処ですか? 頭、腕、足」

 葉月が首を振らずにそのまま聞き入っている。やがて医師が『胸』というとこっくりと頷いた。
 登貴子がそれみて、また隼人の隣で泣き始める。今度は安心した涙だろう。

「お母さん! 俺、お父さんと義兄さんに知らせてきます!」

 待機室の側にはエドが控えている。彼に言えば、すぐに外の一軒家に知らせてくれるだろう。
 葉月の意識があれほどしっかりして目覚めたのは予想以上で、それが新たな喜びとなって隼人は安心してそこを離れた。

 HCUの自動ドアを出て、彼がいつも息を潜めるように待機している階段の踊り場まで向かう。
 いつものように黒いスーツ姿の彼がそこでじっとしていた。

「エド!」
「……隼人様。どうされましたか?」

 エドがハッと顔を上げる。
 隼人は叫んだ。

「葉月が、意識を戻したんだ! お父さんと義兄さんに……早く!」
「……わ、解りました!」

 流石のエドももの凄く驚いた顔で、階段を駆け下りていった。
 隼人はまた急いで葉月の元に帰る。すると登貴子が病室の外に出されていた。

「お母さん? どうかしましたか?」
「意識が戻ったから、その為の処置をするって……今」
「そうですか」
「今、先生が言っていたけれど。まだ痛みが激しいだろうからそれを抑える為の点滴を続けるって……。たぶん、麻酔みたいなものね。痛みを抑えるために、葉月はこれからもまだ眠ることが治療の第一だって」
「じゃあ、今からそうしたら……」
「また直ぐに眠ってしまうわ。でも──とても痛そうだったから、そうして下さいって……私、言ってしまったの」
「……」

 それは娘の為とはいえ、今、ここを離れている父親には直ぐには再会できないかもしれない判断だったことを隼人も悟った。
 だが登貴子がちょっと思わぬ事を口走った。

「だって──あの子、また怖がって怯えて、もう生きたくなくなるかもしれないじゃない。きっと、そうだわ。あの時のように……あの時のように……!」

 娘が怯えると繰り返しているが、登貴子の方が『それ』に怯えていると隼人は思った。
 登貴子にとっても、これは『悪夢の再来』なのだろう。
 隼人はそっと、隣にいる小柄な母親の肩を抱きしめた。

「……そんな目じゃなかったと思いますよ。彼女、笑っていたでしょう」
「だけれど、だけれど……」
「でも、先生が言うとおりにまだ傷口は癒えていないのですから、目覚めた彼女には辛いところでしょう。それで間違っていませんよ。きっと、また目を覚ましますよ」
「……そうね、そうよね」

 白いレエスのハンカチを握りしめながら、登貴子が泣きさざめく。
 隼人は自分の母親を励ますように、登貴子の肩をさすってなだめると、やっといつものお母さんになってくれたようだ。

 だけれど、隼人もここで思った。
 そう言えば──葉月は怯えた様子も見せていなかった。
 ……刺された時のことを覚えているのだろうか?

 そう思った時に、もっと押し迫るものが胸にやってきた。

 では? 彼女は犯人の顔を覚えているのだろうか!? と……。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「お先でしたー。親父も入ってきたら?」
「そうだな」
「あれ。じいちゃん、寝たんだ」

 父親より先にシャワーに入れさせてもらった真一。
 リビングに戻ってくると、隣の和室で、祖父の亮介が大の字で眠っていた。
 そして父親の純一が、『静かに』と口元に指を立てたので、真一もハッと口を塞ぐ。じいちゃんは耳が良いのだ。

 この一軒家に来るとジュールが待ちかまえていた。
 お風呂も食事も用意されていた。じいちゃんと親父は『風呂に入れ』と勧めてくれたが、真一は『腹ごしらえが先』にさせてもらった。
 それで、一番に入浴した祖父がリビングに戻ってきて呟き続けていたのが『葉月が目覚めるかもしれないから、目覚めるかもしれないから』だった。
 そこで頑張っているようなので、腹ごしらえが終わった真一は、今度はお風呂に入ることにする。
 真一が入浴している間に、どうやら頑張っていたじいちゃんも力尽きたのか、そこのソファーでぐうぐう寝てしまったのだそうだ。それを見かねたジュールと純一が亮介を何とか起こして、隣の和室にとりあえず敷いた布団の上に寝かせたところだそうだ。

「では、入ってくる」

 いつもの黒いジャケットをダイニングチェアに掛けて、純一がシャツのボタンを緩めながら廊下へと出ていった。

「真一様は、こちらで宜しいですね」
「わー、ジュール。有り難うー」

 真一が愛飲しているミネラルウォーターをボトルごと目の前に置いてくれた。

「甘いものもありますよ」
「プリンとか?」
「ええ、市販品ですが各種取りそろえておりますよ」

 さっすがと真一はにへへと笑いながら冷蔵庫へと向かった。
 いつも寮でも備えている大好きなデザート類が並んでいた。

「あるある。俺が好きなのっ。めっけ!」
「いつもそればかりですね」

 一度見たものは忘れないところが、このジュールとエドの凄いところだった。
 彼等とは日本に来た親父のお供ということで何度か会った。親子水入らずの環境を整えてくれるのだが、真一はいつも『ジュールも』、『エドも』、『一緒に食べようよ』と言ってきた。大抵、二人には断られるが、親父が『たまには良いだろう』とか言ったこともあって、何度かは親戚のようにして仲良くテーブルを囲んだ仲だ。
 ジュールからは時々、『照れ屋でへそ曲がりの親父』からは話してくれない面白い『ボス話』を教えてもらったりしてきた。
 この一年、二ヶ月に一度は会いに来てくれた。
 ……それが今回はこんな形でだなんて。

 真一は冷蔵庫を閉めてしまった。

「どうされたのですか?」

 白いワイシャツ姿にエプロンをしたまま、シンクで食器を洗い始めていたジュールが訝しそうに寄ってきた。

「……このプリン。葉月ちゃんに会いに行く時にお土産に良く持っていったんだ。スーパーとかコンビニで買って。だって、葉月ちゃんもこれ、好きだったんだ」
「そうでしたか。お嬢様も」
「……食べられないや」
「そうですね」

 今は自分だけ食べられないよ──。急にそんな気持ちになった事をジュールも同じように感じ取ってくれたようだった。
 急に若叔母が恋しくなってくる。
 この前まであんなに素敵に微笑みかけてくれていたのに──。

 そりゃ、ここのところ、葉月のことはおざなりにしていたかも。
 訓練校の訓練に勉学も本格化してきたし、純一と会ってばかりいたから。
 でもそれも……葉月にはあまり気にして欲しくなかったというか。ある程度の報告だけしておけば、葉月はきっとそれだけで安心してくれると信じていた。
 それにもう……。彼女には隼人と二人きり、向き合って欲しかったから。今度こそ、二人だけで。

 真一はちょっと切なくなってきた溜息をこぼしながら、ミネラルウォーターが置いてあるダイニングテーブルに戻った。
 その栓をあけて、何回か飲み込む。

 そしてまた溜息。
 切ない溜息は実は親父の分──。

 あれから何度かこの父親と、連休や週末を使って泊まりがけの旅行などに行ったりしたけれど。
 その間も、父は遠い目ばかりしていた。
 その時は真一も黙って、彼の顔を見守るように静かにしていた。
 ある時、そんな真一の顔と目線に気がついた父が、ふと可笑しそうに笑い出す。

『葉月と同じ顔、同じ目で俺を見るんだな』

 そうなんだ? と真一が返すと、その遠い目がちょっと哀しく揺らいだのが焼き付いてしまっていた。
 そうして息子から、その女性を見出してしまった時の親父の顔。
 まだ愛しくてしようがないのだと……。まだ十代の真一でも充分に感じることが出来た。

 真一のその時の気持ち。
 黙って彼の気持ちを見守るように、そっと息を潜めて、形を崩さないように。言葉が少ないその父親から、そんな小さな仕草からも、僅かな瞬きからも感じ取りたいから見つめている気持ち。葉月もそうしてこの父親の隣にいたのだろうか?
 もう、その女性はこの男性の隣にはいない。そして気持ちも、どこかに飛んでいってしまったのだろう。
 実際に、純一とそうして会うようになっていたその頃の葉月は、マンションでたった一人きりだった。隼人の影も何処かに行ってしまい、真一が遊びに行くと、隼人がフランスから来る前を思い出させるかのように、ひっそりと一人で過ごしていた。以前の若叔母の日常が戻ってきてしまっていた。
 だけれど違っていたのは、、誰の気持ちに偏っているのでもなく、そこにあるのは『自分の心』のみ、ただ一人。そんな感じになっているのは以前とは異なっていた。
 さらに、彼女の中にいつでも垣間見ていた重く張りつめた窒息しそうな雰囲気が消え去っていたことだった。彼女は一人の生活でも余裕を持ち、そしてそれを楽しんでいるようだった。色とりどりの洋服が増え、彼女の趣味が目に見えて分かる雑貨が増えて、そんな部屋に変化していた。それを見て、どれだけ安心したことか。

『葉月ちゃん、楽しんで生活しているみたい。お洒落をしたり、本島に買い物に行ったり。この前は俺にドレスを見せてくれたよ。似合う? なんて俺に聞くの。お友達に付き合ってもらったけれど、ちゃんと自分で選んだんだって。それがまた、本当に似合っていたんだ。俺はまだ行ったことないけど、きっと右京おじちゃんの音楽仲間の中でも一等賞だと思うな!』

 真一なりの若叔母の近況報告。
 葉月がどうしているかだけを伝えるものだった。
 それを親父は控えめな微笑みで黙って聞いているだけだった。

『親父も見たいだろう?』

 なーんて、ちょっとだけ意地悪に聞いてみる。
 だけど言ってもきっとそのまま微笑んでいるだけか、時には『別に……』とツンとしてしまう男だ。我が父親ながらちょっとむかつく時があるけれど、真一もこういう性格なんだってもうとっくにお手の物だった。
 だけれど、この時は違った。

『綺麗だよー。葉月ちゃん、ほんと、綺麗になったよー』
『チビはもともとだ』

 え? と、真一が純一の顔を確かめるように見上げた時……。
 彼はまた遠い目をしていた。

『そうじゃなくて、もっと綺麗になったって意味だよ』
『分かっている』
『会いたい?』

 その質問には答えてくれず、彼は真一より先に歩いていってしまう。

『葉月が幸せなら、なんだって良い』

 それが返ってきた答えだった──。
 そして真一もそれ以上、問うことはなかった。
 だって……それが一番の答えだったからだ。
 『会いたい?』だなんて、つい……。絶対に聞いてはいけないことを聞いてしまったと真一は後悔をする。そして二度とそんな事は口にしなかった。

 彼女が幸せならなんだって良い。
 自分の側にいなくても、忘れ去られても──。
 そういう気持ちをこの親父は秘めている。
 彼自身はこんな時だけしか垣間見せないが、息子である真一には常日頃からひしひしと伝わってきた。
 またはそれらを敏感に感じられたのも、幼い頃から若叔母と父親の密かなる繋がりと絆を見続けてきたからかもしれない。
 きっと一生、この人の中では終わることのない想いなのだろうなと思っている。

 ──そうして一年。

 いつかは家族で会えるようになると良いなという真一の密かな願いが、こんなふうにして叶うなんて思っていなかった。

 真一はダイニングテーブルで一人、うなだれる。
 横須賀の医療センターに来た晩の事を思い出す。

 ICUにいる葉月と一緒に対面した時、当然、真一は彼女の悲惨な姿を目にして信じられなくて抱きついて泣いてしまった。
 その時、親父は真一の肩を撫でてくれていたが、やがて彼も愕然としたように膝を床に落としていた。
 真一より先に、彼が葉月の手を握った。

『葉月──。守れなかった……。許してくれ』

 あの親父が無念の表情を刻み、苦悩する震える声で葉月の手を握りしめていた。
 真一も一緒に握りしめて、『親父と一緒なんだよ』と報告し、二人で一緒に『待っているよ』『待っているぞ』と、葉月に語りかけてきた。

 ICUを出るといつもの彼だったけれど。

 そこで真一は密かに気になっている。
 『守れなかった』という親父の一言。

(親父……。犯人を知っている?)

 あの無念そうな顔は見たことがない顔だった。
 自分の何もかもが崩されたかのような悔しそうな顔。
 守れなかったって……。だって、葉月の側に今はいることはない親父が何を守ろうとしていた? まるで葉月がこうなってしまうことを防ごうとしていたようにも感じられた。

 この駆け足の五日間の中。
 若叔母の容態に一喜一憂している中で、少しずつ気になっていくことばかりが増えていた。
 若叔母をあれだけ可愛がっている右京が『このままでは間に合わない』とかいって、『犯人探し』に精を出しているという話にも、真一は違和感を感じている。
 それに隼人も、もっと葉月のためにあれこれと追求して引き下がらないだろう熱意を持っていそうなのに。なんだか知らないけれど、もっと敵対しそうと予想していた純一と、妙に意志が合っているように一緒にいて落ち着いている。何かを聞いたのだろうか?

 そんな違和感が、こうして落ち着いてくるとふつふつと湧いてきた。

「なにを考えている」
「げ。いきなり隣にくるなって、いつも言っているのに! 本当に、足音ないんだから!」
「声、かけたぞ」
「え? 聞こえなかったよ」

 それだけ考え事をしていたらしい。
 真一は悟られないよう、いつもの顔に慌てて戻した。

 いつのまにか隣の椅子に風呂上がりの父親がいた。
 いつものワイシャツ姿だが、汗をかいているようで肌に貼り付いている。
 ジュールが真一と同じミネラルウォーターのボトルをボスに差し出す。それを純一がすかさず手にしてゴクッと豪快にひと飲み。彼もとりあえずはホッと一息のようだ。

「今の内に寝ておけ。朝から昼過ぎまでは伯母さんと澤村に休んでもらうのだからな」
「うん。俺も病室に入れてくれるよね」
「ああ。一緒に行こう」

 彼がそう言って微笑んでくれたから、真一もホッとして亮介の側に行った。

「二階にベッドを用意しておりますよ」
「ううん。ここでいい」

 ジュールがそう言ってくれたけれど、真一は大きな体で豪快にいびきをかいて寝ている祖父亮介の背中に添うように隣に潜り込んだ。
 純一とジュールがそれを見て顔を見合わせ微笑み合っている。
 だって、皆が揃っているって、こんな時だけれど滅多にないことだから。二階で一人で寝るなんて嫌だ。そう思ったのだ
 そのうちに本当に直ぐに眠くなって来た。純一がそっとふすまを閉める姿がうっすらと見えた時は真一も眠りに入っていたようだ。

 ……どれぐらい寝たのだろう?

 なにかふと目が覚めた。
 その目の覚め方が普通でないのが自分でも分かった!
 うっすらと覚めたのでもなく、本当にばちっと急にスイッチが入ったように目が覚めた。
 時々こういう事がある。そんなときは大抵、何かが起こる前だ。

 ──トゥルルル!

 ふすまの向こうからそんな携帯電話の音。
 あの音はジュールの携帯電話の音だ。

『……どうした』

 彼の低い声。部下の誰かから連絡があったのだろうか?

『それ、本当か!? わ、分かった。直ぐに行くように伝える!』

 真一はジュールのその驚きの声に、がばっと起きた!
 もしかして、もしかして……!? なんだか胸騒ぎがする!!
 起きあがって、目の前のリビングの光が漏れているふすまを開けようとした時だった。

『ボス! お嬢様が、お嬢様が……』
『どうした……!』

 どうやら親父はそこにいるようだ。
 『お嬢様が』のジュールの先が言えないような声に、親父純一の声も妙に焦っているようだ。真一も同じだ! 葉月ちゃんがどうしたって!? その勢いでふすまを開けた!

「お嬢様が、意識を取り戻したと──、エドから!」
「! 葉月が!」

 ソファーで横になっていたのか、純一が毛布をがばっとはいで立ち上がる。
 真一は驚いて、そこに茫然と立ちつくしてしまっていた。そんな中、純一がこちらに迫ってきた。

「オジキ! 葉月が意識を取り戻しだぞ!!」

 いつも静かな純一が大声を張り上げたので、真一はびっくりして背筋が伸びた。
 それ以上に亮介は、その純一の一声で急に起動したロボットのようにガバッと起きあがり、下着のシャツとトランクスだけだったのに手早く側にあったワイシャツを羽織りスラックスを穿き始めたのにも、真一は目が点になるほど驚いた。

「ほら、みろ! 葉月が気がついたじゃないか!! だから寝たくないと言ったじゃないか!!」

 え? 今、一番寝入っていた人だよね? と、真一は唖然。
 だけれど、お祖父ちゃんは見る見る間にいつもの将軍のスタイルになって、髪まで整えている。
 どうやら、これが『軍人さん』の性らしい。

「ほら、真一も支度しなさい!」
「は、はい! お祖父ちゃん!」

 呆然としている内に、お祖父ちゃんは軍服姿になり、親父純一も、いつもの黒いスーツ姿に整っていた。
 真一も慌てて、風呂に入る前に着ていたセーターとジーンズを身につける。

 そうして直ぐに医療センターに向かった!!

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 だが病室の前に辿り着くと、そこには祖母の登貴子と隼人が静かに付き添っているだけだった。
 お祖母ちゃんの登貴子が手を握ってじっと眠っている葉月を見つめているだけ。

 駆けつけた亮介と純一が顔を見合わせた。

「すみません──。ちょっと……」

 三人が駆けつけた姿に気がついた隼人が、そっとこちらに寄ってきてそう言った。
 病室の外に出るように促され、登貴子を残して隼人の後についてそこを出た。

「本当に目覚めたのですけれど……」

 隼人が少しばかり申し訳なさそうに報告してくれる。
 目覚めた葉月の意識ははっきりしていて、笑顔すら浮かべていたと言う。だけれど、目が覚めたと言うことは痛みも自覚するということだ。それを患者に感じさせないための鎮痛を施すと、やはり眠らざる得なくなる。そういう処置を医師が勧め、そして母親である登貴子が了解した……と。そんな報告だった。

「……それ以上に、お母さん。葉月が昔のように、目が覚めて怯えたり、取り乱したり、生きる気力をなくしたりするのではないかと非常に心配していて。それならもう少し眠らせてあげたいと。そんなことも言っていました。僕も──お父さんに直ぐに会わせてあげたいとは思っていたのですが、申し訳ありません」

 病室の外で、隼人が頭を下げて駆けつけた亮介に謝った。
 それを聞いた亮介はがっかりしたものの、隼人には頭を下げないよう肩を叩いて労った。

「でも、笑っていたなんて……安心したよ。もう一度目覚めてくれるのを待つよ」
「お父さん、良かったらお母さんと一緒に今からどうですか」
「そうだね──」
「僕も安心したせいか、今度は僕が眠くなってきました。ちょっと早いけれど、あちらで休ませてもらいます」
「うん。そうしておくれ」

 隼人が笑顔でお辞儀をして、亮介と交代をする。
 そうして一軒家に行くというのだ。親子水入らずの再会をさせようとしているのかと真一は思った。
 隼人は登貴子の側に寄っていった亮介を確かめて、一軒家へと向かっていった。

 病室では祖父母の二人が肩を寄せ合って、泣いていた。
 娘の生還を喜んでいるようだった。

「会えなかったけれど。お祖父ちゃんとお祖母ちゃん……良かったね」
「そうだな」

 隣にいる純一も、微笑みながら見守っている。
 二人はそこをそっとして、HCUの外に出る。
 一緒に待機室で次の目覚めを待つことにした。

 

 夜が明けて、日がすっかり昇った頃。
 エドから『安心したのか、隼人様はぐっすり寝入っているそうです』との報告があった。すると純一が『そのままにして昼過ぎに起こしてやれ』と言った。きっと隼人も安心したのだろう。今まで熟睡をしている様子はなかった。それは誰もがそうだろうけれど、隼人は特に、向こうに行ってもすぐにこっちに戻ってきたりしていたから。やっと、眠れたのだろう──。
 エドが朝食を持ってきてくれたとかで、純一と一緒に駐車場の車へと食べに行こうとしていた時だった。
 HCUから亮介が飛んで出てきたのだ。

「純! 葉月が目を覚ましたぞ!! 早く!」

 それに驚いた純一が、真一の腕をがっしりと掴んで葉月の病室へとすっ飛んでいく──!
 亮介もかなりの急ぎ足だったが、親父も一緒だった。この人がこんなに慌てるように歩いているのは、初めて見た気がする。
 それに真一を引っ張る力。『俺とお前は一緒に会うんだ』と言う彼の意志がそこにあるように思えた。……勿論、嬉しかった。

 病室に入ると亮介の顔が笑みでこぼれる。
 そのままベッドへと駆け寄っていく。

「葉月……! お兄ちゃんと真一が来たよ!」

 相変わらず登貴子がしっかりと娘の手を握りしめている。
 そして登貴子も笑顔で『ほら、来たわよ』と葉月を励ましていた。

 登貴子と亮介がそっと、父子のために葉月の側を空けてくれる。
 真一と純一は、一緒に静かに……そのベッドへと寄っていった。

 ──数日前、もう、生きてはいないような顔になっていた葉月。
 その彼女が、ベッドの上で目を開けていた!
 そしてその目を左右に動かしている。それに母親が離した指先も、何かを探るように動かしていた。

 生きている! 俺の叔母さんが生きている!!

「は、葉月ちゃん……!」

 真一は駆け寄って彼女の身体に抱きついてしまった。
 すると、葉月の腕が動いた! その僅かに動いた腕が辿り着ついた真一の身体をそっと撫でようとしている。
 驚いて顔を上げ、彼女の顔を見ると、真一が良く知っているあの素敵な笑顔を静かに浮かべてくれている。
 今、喉元まで入れられる呼吸器を付けているから喋ることは出来ないのだけれど、唇をちょっとだけ動かそうという意志を働かせていた。

『シンちゃん……』

 聞こえはしないのだけれど、そう言ってくれているような気がした。
 真一は彼女の手を握って、その目をじっと見つめた。

「待っていたよ。皆、待っていたんだ……。俺、『親父』と待っていたんだよ!!」

 そう言うと、優しく目元を緩めていた葉月の表情が固まった……。
 きっと『嘘』と信じられない気持ちなのだろう。真一は『嘘じゃない、本当だよ』と純一を呼ぼうとしたのだが……。

「葉月」

 もう真一の背後に彼がいた。
 葉月が表情を固めたのは、その人が目の前に現れた驚きだったようだ。

 暫く二人は、じっと見つめ合っていた。

「葉月。お前のおかげで、今は息子と仲良くやっている」

 純一が真一の肩を撫でて、葉月に幸せそうに微笑みかけた。
 そんな笑顔。俺にだって見せてくれなかったのに!? 真一は、そう思ったけれど、でも……その笑顔を葉月という女性に見せることが出来る父親を嬉しく思った。
 そうしたら、葉月の瞳から涙が幾粒も流れていた。嬉しそうに笑顔を見せて、彼女はずっと父子を見つめて泣いていた。
 彼女の唇がまた動く──。

『夢みたいだわ』

 そう言っているのだろうか? 並んでいる父子を見て、葉月はとても嬉しそうだった。
 やがて純一は葉月の手をしっかりと握り、彼女の顔、目線に合わせてしゃがみ込んだ。

「いいか、今はゆっくりと休むんだ。何も気にしなくて良い」

 近距離で見つめ合う二人の目。
 そこで何かを語り合っているかのように真一には見えてしまう。
 だけれど……暫くして、急に、葉月が激しく首を振った。

「あっ、うう!!」

 何かを純一に言おうとしている?

「ど、どうしたの? 葉月ちゃん!?」

 首どころか、彼女は腕も動かそうとしていたし、徐々に足もばたつかせて暴れ始める。

「葉月! どうしたの!?」
「葉月──! 何処か痛いのか?」

 登貴子と亮介も慌てて寄ってきた。
 両親が心配して駆け寄ってきたのに気がついたのか、そこで葉月が諦めたように大人しくなった。
 でも、一人だけ。純一だけ……葉月の手を握ったまま、慌てもせずにじっと彼女を見ていた。

 そして純一はとても真剣に輝く眼差しを葉月に向けて、こう言った。

「葉月。お前が言いたいこと、判っている」
「……あ、あ、う……!」
「ああ、判っている。だが落ち着け。もうすぐ喋られるようになる。その時、俺が聞く。その準備も態勢も整えてある。それでいいだろう?」
「う・・う──」

 興奮しかけていた葉月も、純一のその言葉に落ち着いてきたようだ。

「澤村と一緒に、お前の側にいるから。安心しろ。俺達が護ってやる」
「う……う……」

 葉月が安心したように、こっくりと頷いた。

「葉月……生きた心地がしなかったぞ。お前が戻ってこなかったら、俺は……。俺も一緒に……」

 あの父親がそんなことを小さく呟いて、葉月の指先をぎゅっと握りしめ頬に寄せていた。
 葉月がまた涙を流し、そして父の目は潤んでいるように見えた。
 二人はそうしてじっと見つめ合っているだけだった。

 だけれど──。誰もそれを不自然とは思わなかったようだ。
 真一も、そして祖父母も、その気持ちを通わせているような再会を、ただ黙って見ているだけだった。

 やがて葉月はまた、目を閉じてしまった。
 義兄に手を握られ、見つめられたまま……また、一時の安らかな眠りへと落ちていけたようだ。

 

 だけれど、それを見て真一はもの凄い不安を新たに抱いてしまった。

 ──葉月ちゃんは犯人を知らせようとした?

 義兄の純一にすぐさま知らせたい程の人間?
 そして葉月もその犯人を知っているのか!?

 

 いったい、何が襲ってこようとしているのだろう!?

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