-- A to Z;ero -- * 春は来ない *

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8.ゴーストの影

 何度目が覚めて、何度眠りに落ちたのだろう?
 それともまだ夢の中なのか?

『葉月、しっかりしろ!』

 目を開けると、眼鏡をかけている彼がとても心配そうな顔でそこにいた。
 手を握られていて、彼がまた泣きそうな顔をしている。
 ……苦しかった。なにもかもが。

『熱が出ているんだ。頑張れ……!』
『葉月、葉月。パパもここにいるぞ!』

 そう、私はまだ生死を彷徨っているのだろう。
 きっと高熱に違いない。胸が焼けるように痛いし、呼吸をしたくてもその胸が重いので思うように息が出来ないのだ。
 熱? そんなこと分からない。だけれど……そうね。なんだかぼんやりするわ。傷と身体が戦っている気がする。その為の熱なのだろうか……。
 そうして苦しい目覚めはすぐに去っていく。また──眠ってしまうようだ。

『──気がついたか? 良かったな。熱は下がったそうだ』
『良かったね、葉月ちゃん!』

 次には義兄が甥っ子といた。
 やはり夢なのだろうか? 彼が自分のすぐ側にいるだなんて。
 彼もとても心配そうな顔で、葉月をじっと見つめているのだ。
 そうして彼のひんやりとした手が額に当てられると、また……ふっと眠たくなってくる。

『……は、──日で──曜日。時間は、午後二時』
『今日は良いお天気よ。先生も、熱が下がったから一段落……もう少し頑張りましょうね』

 また……。眼鏡をかけている彼が、そして今度は母もいた。
 彼が葉月の目の前に時計を持ってきて、降り注ぐ日差しの中微笑んでいた。
 でも、葉月は苦しくて仕方がなく、そして息が出来なくて瞼をじっと閉じている内に、いつの間にか眠っているようだった。
 彼が何度かそうしてくれている。その時にはどれぐらい時間が経っているかその時だけは認識する。大抵は、そんなに時間は経っていないようだ。葉月としては眠っている間はもの凄い長い旅をしてきて目覚めている気がするのに。だけれど、その認識した時間感覚は眠れば消え去ってしまう……。時間なんて今は意味がない。ひたすら眠ってこの痛みが過ぎ去るのをじっと待っている。

 ただ、目が覚めるたびに思うことがある。

(どうして? 直ぐに私は眠ってしまうの? 話したい、話したい──!!)

 彼の名を呼びたい。
 貴方と呼びたい。
 指と指を合わせて、一緒にはめた銀の指輪を重ねたい。
 あれは夢なんかじゃない。私の人生で起きた、もっとも最高の現実だった!
 彼に愛していると言いたい。言いたくて言いたくて──。
 そしてあれは嘘じゃなかったと、もう一度、確かめたい。

 だって、私が生きてこうしているのは、あの『愛』があったからだ。
 あの天使がいたからだ。
 あの真っ白な花が降る中で愛し合った一夜があったからだ。
 ──そうでなければ、きっと、あのまま。

 でも、甘美な愛の現実を確実に胸に焼き付けているように。
 焼けるような胸の激痛と息苦しさも、また現実。

 そうだ。あの男のこと。知らせなくちゃ!
 お兄ちゃま達に、知らせなくちゃ!!

 負けるものか、今度こそ、負けるものか!!!
 あの男──私をいたぶったあの男!!

 そうするとまた、あの殴られたような頭痛が起こる。
 それが『もう一度、忘れろ』と言っているかのように、あの男の顔が揺らいで消え入っていきそうだ!
 忘れるものか、今度こそ!
 もうこの頭痛が何のために起きていたか、葉月はちゃんと理解していた。

(私、ずっとずっと忘れていたんだわ!!!)

 空母艦で殴られた時、ふと浮かんだ『悪夢の光景』。

 ──『ぎゃあぎゃあ、泣きわめくな!! もっと痛い目に遭わせるぞ!』

 床に何度叩きつけられたことか。
 何度、髪の毛を引っ張り上げられ……殴り飛ばされたことか!

『そーうだ。俺の言うことを聞けば、痛い思いなどしなくて済むんだよ。お嬢ちゃん』

 子供心にそうだと信じた、大人の言葉。
 だがそんなの『嘘』だった!
 言うことを聞いても聞かなくても、彼の思うままに殴られたじゃないか!!!

 

 ──やめて!!!

 

 ハッとまた目が覚める。
 ──病室はまたほのかな明かりだけが灯っている。夜のようだった。

「どうした──」

 今度は義兄がそこにいた。

「葉月、大丈夫か」

 ううん! お兄ちゃまだけじゃない!
 ……今、一番、手を握って欲しい人がそこにいる。
 どうして? 二人一緒にいるの?
 それも聞きたいのに聞けない……。

 けれど、二人が一緒に葉月を見守っている。
 その二人が一緒に葉月のことから目を離さずに、見守ってくれている……。
 そう思ったら、涙が滲んできた。

「う、ううああ……」

 思い切り泣いていた。
 怖くて、寒くて──。
 でも、自分が心の中でずっと拠り所にしてきた二人の男性が揃っていて、すぐ側で見守ってくれていた。
 だから安心して、泣いてしまった。

「葉月、どうしたんだ……? 何処か痛いのか? 苦しいのか?」

 隼人が手を握ってくれていた。
 それを義兄が彼の背から黙って見ているけれど、ちゃんと覗き込んで葉月を見てくれている。

「なにか嫌なことを思い出したのか?」

 そこはやはり一緒に苦しんできた義兄から察してくれて、葉月は素直にこっくりと頷いた。
 すると隼人が痛々しいとばかりに、苦い表情を刻んで、葉月の頬を『大丈夫、大丈夫だ』とさすってくれていた。
 その大きくて温かい手が……葉月の冷えかける心を温め、痛い涙を熱い涙へと変えてくれる。

『怖かったの』
「こ  わ ……かった」

 葉月はハッとした。
 掠れている声が聞こえた。まだ、自分が良く知っている声ではないけれど?
 唇が動いたことを、今、知って驚く!!

 葉月がその一言を言うと、隼人と純一が一緒に顔を見合わせる。
 二人は嬉しそうであり、でも、同時に辛そうでもある複雑な表情を交互に交え、また葉月を見た。

「人工呼吸器が外されたんだ。気がつかなかったのか? その時、少しだけ目を覚ましただろう?」

 隼人の穏やかな微笑みを交えた説明に、葉月は『わからなかった』と首を振った。
 時々、看護師が床ずれが起きないようにと寝ている体勢を変えに来る時は、なんとなく目が覚めて『あれ?』と気がついたことは覚えている。

「きが・・つかなかった」

 僅かな声が混じる息だけの声。今は、それが精一杯のようだ。
 それに酸素マスクがまだ口を覆っているのにも気がついた。

「暫くは、酸素マスクらしいよ」
「そ・・う……」

 葉月が楽に目が合わせられる位置に、隼人が椅子をずらし手を握ってくれる。それで幾分かホッとして暫くまた目を閉じた。それは少し現実に戻ってきた自分を落ち着かせるための深呼吸のようなもの。何度か息を静かに続けて、胸の痛みはあるがまだ我慢が出来るぐらいに落ち着いている事にも気がついて、また目を開ける。

「・・なんにち?」

 葉月のその問いに、隼人が何日かと答える。
 聞けば、葉月が意識を戻した日に教えてもらった日から、さらに四日ほど経っていて驚いた。隼人が言うには、暫くその高熱が続いて、葉月の意識は混濁していたそうだ。それは覚えがある。だけれど、そんなに日にちが経っていたなんて?
 時間も聞くと今は夜の十時で、両親は今揃って、遅い夕食に出ていっているところ。それで隼人と義兄が一緒にいるのだそうだ。

「しんちゃん……は?」
「今、近くに義兄さんが用意してくれた家で眠っている」
「……そう」

 皆がそれぞれ落ち着いた行動を取ってくれているようで、葉月もホッとした。
 ふと気がつくと、隼人と一緒にいたはずの純一の気配がなくなっている。

「に にい……様 は?」
「ああ、今……外に行ったよ」
「へいき な の?」

 葉月が唐突に聞いたその言葉。
 だけれど、葉月が熱と戦っている間、交互に顔を見せていた二人の男性がどうして一緒にいるのか……。一番聞きたくて堪らなかった事だったから、聞いていた。そして隼人もその質問には少しばかり面食らっていたが、直ぐに葉月が良く知っているとても落ち着いた寛大な眼鏡の笑顔を滲ませていた。

「実はめちゃくちゃ仲良しだぜ」
「う・・・そ?」
「本当、本当。俺なんか兄さんに頼りっぱなし! 葉月が頼りにしていたのがよくわかったよ……」
「……」

 そこはちょっぴり致し方ないという残念そうな緩い笑顔を見せていた。
 だけど葉月はその彼の笑顔を見はしたが、心の中に留めるだけにした。

「いっしょ いるなん て……」
「だよなあ。俺も信じられない。でも、もう慣れちゃったよ」

 隼人がなんだか可笑しそうに笑う。
 葉月も『そうみたいね』と笑うと……隼人がそれを見て、とても嬉しそうに微笑みを広げた。そして隼人は急に、葉月の手をきつく握りしめ額に押しつけて俯いた。

「──葉月。本当に……本当に……!」

 震える声。そして熱い涙を彼がこぼしていた。
 『良かった。本当に戻ってきたんだ』と彼が何度も呟いていた。
 葉月の笑顔を見て、感極まってしまったようだ。

「な なかない で……あな た」

 握りしめてくれている手の指で、そっと隼人の額をつついた。
 そんなちょっとの仕草でも、隼人がそれで涙を止めて、葉月を見つめてくれる。
 だから葉月もじっと見つめた。
 そして言いたいことを、言う。

「あの 愛 あったから わたし 死にたく なかった……とおもう の。 愛して いる。 また 愛せるわ──」

 隼人がとても驚いた顔をする。その顔で葉月をじっと見ている。まるで夢でも見ているかのように、ちょとばかり茫然としているようにも見えた。

「お前を……。愛して良かったと、愛し続けて良かったと、今まで以上にそう思えた」

 隼人の黒い瞳が熱く揺らめき、彼も涙ぐんでいる。
 その眼をそっと閉じ、隼人の顔が近づいてきた。
 ──葉月のまぶたに。そっと熱くて、柔らかいとろけそうな感触。そこがふわっと熱くなる。
 隼人がそこに口づけていたのだ。
 ……嬉しくて、葉月もそっと眼差しを閉じて、その口づけの余韻に浸る。

 その時、隼人が言った。
 葉月の手をしっかりと握って、そして目を開けると、彼のとても真剣な眼差しが葉月を捉えていた。

「元気になったら、すぐに……結婚したい。せめて、入籍だけでも」
「──!」
「お前が元気になってから、もっと落ち着いてから言うことだと思っていた。さっきまで──。でも、もう、待てない。もう、我慢できない!」

 彼のその切羽詰まった顔と声。
 だけれど、葉月もその彼の急ぐような気持ちはよく分かるつもりだ。
 あんなに二人で誓い合った旅の後、こんなふうに引き裂かれてしまい……。危うくなにもかもが砕け散り、葉月に至っては全てを失うところだった。
 だから……葉月も答える。

「……わた しも。やく そく……よ」
「本当に? いいのか」
「いま さら。もう わたし も ……まてな・・・い。やくそく よ。 ぜったい に……元気に……な る……か……」

 胸が痛くなってきて、葉月は言葉が出せなくなり顔をしかめる。
 隼人が驚いて、「ごめん──。無理をするな。もう喋らなくて良いよ」と言いながら、その痛みを少しでも和らげようとするためか、胸の上、鎖骨のあたりを撫でてくれていた。

 だけれど、葉月はそれでももう一度言う。

「や く そくよ……あな、た」
「ああ、絶対に約束だ」

 二人一緒に微笑み合う。握り合う手と手、そして絡み合う指と指。彼の手は左手、大きなリングがちゃんと光っている。自分のリングも見たいけれど、今は反対の手で、そして思うようには動かせなかった。
 でも、それで充分。彼のその嬉しそうな微笑みを見つめているだけで、葉月も幸せな気持ちになれる。
 だが、身体はそうではなかった。喋りすぎたのだろうか? 徐々に苦しくなってくる。葉月は暫く、荒い呼吸で胸を上下に激しく動かす呼吸を繰り返していた。

「ごめんな、俺、喋らせすぎたな」

 葉月は首を小さく振って『わたしがしゃべりたかった』と言ったが、途中までしか言えず、さらに隼人には酸素マスクの上から『もう喋るな』と手で覆われてしまった。

「先生を呼ぼうか?」

 少し話しただけで、こんなに苦しくなるなんて。もっと話したいのに。でも葉月は『約束』を思い浮かべ、もう我慢なんかしないで身体が悲鳴を上げるままに従い、医師に診てもらおうと、こくりと頷いた。
 隼人がナースコールを押し、看護師に『目を覚まして苦しそうにしているので来てください』と告げた時だった。

「──葉月!」

 そこにとても慌てた声の男性が現れた。
 座っている隼人の頭の上にその顔が近づく。
 その男性は無精ヒゲで、見繕いもしていないような荒れた顔で……。そして真っ黒いセーターにジーンズという地味な格好。
 そして、その『彼』の後ろには黒いスーツ姿の純一が戻ってきていた。

 その男性……一目見て、葉月は誰だか直ぐには分からなかった。
 でも、一瞬だ。直ぐに誰だか判った。

「う きょう ・・・にい 様」

 葉月は目を見張った!
 いつだって、清潔感あふれる貴公子のように輝いていた従兄が……!
 無精ヒゲを生やし、さらにものすごく地味なシンプルな服を着ていたからだ。その服にはなんの特徴もない。ただハイネックの黒いセーターに、本当に特徴のないジーンズ。絶対に右京が選ばないだろう格好だったからだ。

「葉月、許してくれ。意識が戻ったと聞いて安心した。なのに直ぐに駆けつけなくて──」

 隼人が静かにそこを退くと、今度は右京がそこの椅子に座り込み、とても情けない泣きそうな顔で葉月の手を握りしめる。
 その心配顔は、いつも見てきた頼もしいお兄ちゃまの顔に変わりはなかった。
 そして……葉月は、右京が何故、側に直ぐに現れず、そして何故、そんなに荒れた格好なのか直ぐに察することが出来た。

「にい さま。みみ、かして」

 だが右京は泣きそうな顔のまま、首を振った。

「苦しそうだ。後にしよう」
「いや ! いま よ!」
「苦しくてナースコールをしたのだろう?」
「ええ。今、僕が──」

 右京が肩越しに振り返り、隼人に確かめているが、葉月は純一に告げられなかった時のように首を激しく振った。

「いま よ! いま……! わたし みた……!!」
「見た?」

 葉月のその息だけに近い声でも、その言葉に右京が激しく反応し、そして向こうに控えていた純一も側に身を乗り出してきた。そして隼人も……。

『御園さーん、大丈夫ですか?』

 医師と看護師の声が聞こえてきた。
 葉月は早く言わねばと、右京の顔を眼をしっかり見据えて、はっきりと言う。

 

「わたし の 肩を ──した 男 だった……!」
「!」
「──ほ っかい どう かざん……むらで 見──」
「なに? 葉月──。なんて言った!?」

 駄目だった。もう胸が痛くて言えない。

 

『申し訳ありません。診察と処置をしますので、病室の外に出ていただけますか?』
『は、葉月──。葉月……今 ……』
『行きましょう、お兄さん』
『右京、行くぞ』

 色々な人の声と言葉が遠くで交差している。
 だけれど、とても苦しくて仕方がない。言いたいことが言えないもどかしさ!

『北海道で見たの! 火山村の土産店で鮮魚の仕入れをしていて、漁師のような格好をしていたわ!』

 きっと右京は、知っているのだ。
 葉月が忘れている男がいることを、きっとずっと前から知っていたんだ。
 それは純一も、ずっと私に言わずに隠してきたんだわ。
 隼人は? 隼人は知っているのかしら?
 ともかく──。右京兄様があんなになってまで、死線彷徨う私の側にいなかったのも、きっと、逃げたあの男を追ってくれていたのだ──。葉月は直ぐに分かった。
 だから、言いたかったのに!!

 あの兄様が。光り輝く花の兄様が……。
 あんなに荒んだ姿になって、きっと……血眼になって探しているんだわ。

 涙が出てきた。
 何も出来ない自分。またお兄ちゃま達が必死になって動き回って……!
 こんなこと、早く終わらせたい!!

 だから、だから……。

『御園さん、大丈夫ですよ──。直ぐに痛みがひきますからね。でも、少し眠くなりま……す……よ』

 医師の顔が微かに見えたけれど、痛みが和らいだのと同時に──。
 また、葉月の周りは柔らかで安らかな無の世界に引き戻されていった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 夜が更けた待機室は、今は御園一族専用のように使われている。
 病室を出された男達はそこに揃って入った。

 するとそこには金髪の女性がひっそりと座っていたのだ。
 隼人はその女性を見て、驚いた。

「マルソー先生。どうして……」

 白衣姿ではないラフな格好をしている彼女が、ふと顔を上げて隼人をみると、静かに立ち上がって哀しそうな表情に歪んだ。

「澤村中佐──。大変でしたね。大佐嬢が助かって本当になによりでした」
「はい……」
「実は、軍の非常勤医を辞めてきたの」

 その言葉にも隼人は驚いたが、だとして──この女医さんが小笠原センタを辞めてきたからとて、何故、ここにいるかがよく分からなかった。
 すると横にいた純一が前に出た。

「初めまして、マルソー先生。仲間は私のことは『ジュン』と呼びます。うちのジュールから事情を聞きました。どうぞ、宜しくお願い致します」
「──『ボス』ですね。では、『私の新しいボス』ということになりますね。こちらこそ、宜しくお願い致します」

 二人がすんなりと握手を交わしたので、隼人はただ唖然とするばかり。
 いったい、どういう事か! と、叫びたいところだ。また、そうして兄さん達の間でやり取りがどんどんと進んでいて、隼人は蚊帳の外にされている気がしたのだ。
 もう、今度こそ! この兄さん達の中に入って、『知らされていないこと』なども『オチビな葉月』の為にもどんどん把握して、置き去りにはされなくはないのだ!
 だが、そんな隼人の中でぐわっと湧いた感情も、隣の落ち着いている義兄さんにはお見通しのようだった。

「澤村は良く知っていのるだろう。こちらの先生、今回のことで軍非常勤医を辞めてまで、今後の葉月のケアに協力したいと。葉月の付き添い専属医としてジュールが雇用契約をしたんだ」
「え……? 葉月の為に……?」

 隼人はもっと驚いて、ジャンヌを見た。
 彼女が少しだけ微笑み返す。

「勿論、彼女に関わっていた人間としての気持ちもあるわ。だけれど、はっきり言っておきます。『私の都合』なんです」
「都合……ですか?」
「ごめんなさい。言えないの」

 どんな? と聞きたいところだが。先生の顔が、そして口が、何かを躊躇っていた。
 あの先生が何かがあって『黒猫傘下』に入ったということなのだろうか?

「私の部下の判断でしたが、私は先生を歓迎致します。どうぞ、義妹のこと、宜しくお願い致します」
「有り難うございます。ボス」
「ジュンで結構ですよ」

 隼人には疑念がたくさん渦巻いたが、それでも──隣の義兄さんが『歓迎』と言ったのだ。
 それにあのジュールの判断。そして隼人も良く知っている先生で、葉月の為に空母艦まで付き添ってくれた信用できる女医さんだ。
 彼女が何が目的で『御園と黒猫』の傘下に身を置く決意をしたのかは、よく分からないが、それでも『葉月の専属医』と言う点だけで言えば、ジュールが引き抜いてきたと考えてもおかしくはない流れにも見える。実際はそうではないようだが。
 それにジャンヌは始終、待機室に入るなり椅子に座り込んで黙っている右京を気にしていた。

「右京……。お話しできたの?」
「ああ……」
「良かったわね」

 二人のその会話の雰囲気に、隼人はドキリとした。
 とてもじゃないが、ただの知り合いという感じではなく……むしろ……と、隼人がそんな予感を強めた時。それを決定づけるかのように、ジャンヌが右京の隣に座り込んだ。
 そして隼人は目を見張る。ジャンヌがしっとりと右京の腕にもたれかかり、彼の肩に頬を寄せたのだ。

「良かった……」
「……」

 そして右京もただ黙ってじっとしているが、そんな彼女を邪険にせずに側にと受け入れている。
 隼人は目をこすった。『え? い、いつのまに!?』──そんな叫びが心の中で起きていた。
 すると純一がそっと耳打ちをしてくる。

『どうも、今──そういう仲らしい』
『!』
『そこも見守っていてくれないか』

 純一はジュールから何か聞かされているようだった。
 隼人はそれはもう、こっくりと無言で頷くしかなかった。

 それにしても──。右京の変わり果てた姿には隼人も言葉を失っていた。

 

 彼は葉月が意識を取り戻した次の日に帰ってきた。
 その時も今と同じような目を疑うような身なりになっていて、隼人も絶句したぐらいだ。
 だが純一は違った。

『ほうー。お前もねえ、そうなれるんだ』
『うるさい』

 無精ヒゲは黒猫の義兄さんのスタイルだったが、右京もそれに劣らずのワイルドさに変貌していた。
 しかも彼の輝きをすべて奪うような地味な服装。その格好でこの医療センタに駆けつけてきたのだ。
 だけれど、一歩遅かった。意識が戻った葉月はその晩から高熱を発してうなされていた、意識も混濁していた。だから右京はうなされている葉月と対面をしただけだった。
 それでも、呼吸器が外れて自分で息をし、そして熱と戦っている呻き声を聞いて、それだけでも右京は『葉月が生きている』と言って、彼女の側で泣き崩れたぐらいだ。

 そうしてまた、彼は出かけてしまったのだ。
 だけれども、一日一回はこの病棟に顔を出すようになった。
 タイミングが合わず、やっと今夜──。彼は可愛がっている従妹と再会出来たのだ。

 だけれど、右京は葉月の病室を出てきてからずっと無言だ。握り合わせた両手を眉間にひっつけてそうして何処に定めたともわからぬ視線で、じっと何かを考えているよう……。
 ジャンヌが彼を労るように側にいるけれど……右京には彼女が側にいていないような態度だった。

 隼人は彼が今、何を考えているのか判っている。
 だが隼人自身、一緒に耳にしたとはいえ、頼りない彼女の声からやっと聞き取れた言葉はまだ否定したい気持ちでいっぱいで、自分からは口に出来なかった。
 すると純一からその口火を切った。

「──チビが『見た』と言っていたな」
「間違いない! 『肩を した男』と言っていた!」

 歯をぎりっと強く噛みしめた顔で、右京が拳をテーブルに叩きつけた。
 ジャンヌは驚きもせずに、そんな右京をなだめるように背を撫でている。そしてとても残念そうな表情を刻んだのだ。
 この時、隼人は『もう先生も何もかも知っている』と直感した。やはり二人はいつからかとても親密な仲で、そして今日まで一緒にいたのだと確信した。もしかすると、一緒に北海道の『調査旅行』にも同行していたのではないかとさえ思えてきた。

 そして右京がやや興奮気味に、純一に叫んだ。

「それにこう聞こえなかったか? 北海道の火山がなんとかって……!」
「聞こえた。葉月が北海道に行って火山と言えば……『有珠山』しかないだろう。そこで何かがあったみたいだな」

 兄達の会話に、隼人はドキリとする。
 隼人にも聞こえた。葉月が『ほっかいどうのかざん』──と。だとしたら、隼人が恐れていた事が確定してしまう!

(俺達のあの旅の最中に──?)

 今回のようなことが起きる『何かがあった』事になってしまう。
 そして、その『事実』に怯える隼人を──二人の兄が隼人を確かめるように振り返って見ている。
 つまり、こうだろう。──『澤村、なにか気になることはなかったか?』──彼等の目がそう言っているが、彼等は既に隼人が『動揺』していることを見抜いている顔だった。だから、直ぐには触らずに、じっと窺っているのだ。

「……あの」

 ──何かなかったのか。
 そう純一に聞かれた時、隼人の答えは『無かった』だった。
 しかし質問がこう変われば、答えることがある。
 それを純一が静かにそっと隼人に尋ねてきた。

「有珠山に行った時、葉月に何か変化とかなかったのか」
「……あ、あった」

 隼人のその気後れした返事に、右京がもの凄い勢いで立ち上がり、それ以上に隼人を掴みあげて食ってかかってきた!

「なんだ! 何があったんだ! 何故、それに早く気がつかなかったんだ!!」
「右京、やめろ!」
「そうよ、右京──!」

 純一とジャンヌが揃って止めに入り、ジャンヌは彼の背を引っ張り、純一は隼人の首元を締める右京の腕を引っ張りあげ解こうとしていた。
 右京がなんとか離れた隙に、純一が急ぐように隼人にまた聞いてくる。

「澤村。何があったんだ!」
「──『そこ』で、何があったと言って、何がと言えば、葉月が『激しい頭痛』を起こしたことぐらいで」

 隼人が締められた喉から掠れた声で言うと、今度はジャンヌが一番に反応した。

「頭痛? 激しかったのね! その時の彼女はどんな感じだったの?」

 急に話の中に入ってきた女医先生に、右京も純一も意外な顔になる。
 だが、隼人はハッとする。

「そういえば、彼女の頭痛──。先生は空母艦から見ていたんですよね? 彼女、有珠山に行く日の朝食でもちょっとした頭痛が起きたみたいで、それで先生から処方してもらったと言うアスピリンを服用して──」
「心配はしていたのよ。その頭痛がもしかして『記憶の蓋』になっているのではないかと。だけれど『きっかけ』がなければ、そんなに激しくなることはないし、慌てることではないと私は判断していたのに。でも、それが何故? そこで──?」

 『記憶の蓋』の話は隼人もこの先生に重々聞かされた話だ。
 だが、それで『あの症状』ならば……!

「間違いない。葉月はそこで、『あいつ』をみたんだ!」
「そうだな。それならば向こうは葉月のことは忘れてはいまい。『あいつ』が『顔を見られた』と思い、それで犯行に及んだ可能性に繋がる──」

 右京は『間違いない』と確信し、そして純一までも『大きな可能性』があると確信したようだ。
 そうなると、隼人は益々……自分が連れて行った場所でそんな『偶然』のような『運命』があっただなんて! と、どうしようもない気持ちが押し迫ってくる。
 だが、そうであるならば、きちんと思い出さなくてはならない。今、喋りたくても喋られない彼女のために──。右京が必死になっている『早急な対処』の為に。
 隼人は気持ちを落ち着けて、『あの時』のことをゆっくりと思い出した。

「有珠山の山頂、展望台で景色を眺めて、『火山村』に降りて。その後は二人で土産店の前を歩きながら、焼いている蟹に目がついて『食べよう』と言うことになって……。それを買う時に実家に土産として蟹を送りたいと、その店の人と相談をしているほんのちょっとの間、彼女と離れていた時だったと思います」
「その時に? 葉月さんが激しい頭痛を起こしたのね? どんな感じだったか……思い出せる?」

 ジャンヌはその時の葉月の様子をしきりに知りたがる。
 その頭痛具合によっては重要なてがかりになるようで、隼人はあの時の葉月の様子をもう一度思い出そうと、暫く黙っていた。そして、また話し始める。

「その相談をしている間に、彼女の気配が側にないのに気がついて、ふと店先から振り返ると……隣の店先で彼女がしゃがみこんでいました。すぐに駆け寄ろうとしたら彼女は自分で立ち上がっていて、落としたハンカチを男性に拾ってもらっていたところで。俺が彼女に『大丈夫か』というと、彼女は『寒い』ととても震えていました」
「その後はそれで、彼女はなんでもなくなった──。そうなのね?」
「はい。俺も空母艦であった話を聞きました。もう一度、精密検査をした方が良いのではないかと旅の予定を変更しようと思うぐらいに心配はしたのですけれど、ホテルに帰ると彼女はいつも通りに元気で、帰りたくないと。彼女のその意思を尊重しつつも、また同じ事が起きればすぐさま帰ろうと密かに決めていました。だけれど……それっきり彼女は元気で」
「それで。今、意識を戻した彼女が『火山で見た』と言ったようなことを口にしたのね?」

 そしてジャンヌがはっきりと言った。

「それを考えると、ほぼ間違いないわ。その激しい頭痛は『今まで以上のきっかけ』である何かを彼女が見たという可能性は大きいわ。それで、彼女はきっと──その後も蓋は閉まったのだけれど、犯人と直接向き合って、きっと……その時に」

「……思い出したのか。葉月」

 右京がジャンヌが言おうとした最後の一言を口にした。

 それで暫く──そこにいた誰もが口をつぐんでしまっていた。
 一番最初に嘆いたのはジャンヌだった。

「……な、なんてことなの! もっとその頭痛のことを重要視しておくべきだったわ!! 北海道旅行に直ぐに行かせるべきじゃなかった! まさか、そんな……出向いた先でそんな彼女の『一番の運命』であろうことに巡り会ってしまうなんて!」

 医師として誤った判断をしてしまったとジャンヌが急に泣き崩れる。
 するとそれまで、彼女に対して素っ気ない態度だった右京が、ジャンヌを静かに両手で包み込んだではないか。

「違う。ジャンヌのせいじゃない」

 それを聞いて、今度は隼人も……。

「俺が北海道旅行に連れて行かなければ、あるいは──。有珠山は両親が……亡くなった母が父と出向いた場所だったので、彼女とも行ってみたいと思って」

 彼女と一番、一番気持ちを通じ合わせて、二人一緒に『真っ白』になった……二人にとって新たなスタートをさせてもらえた場所だった。
 その場所で、彼女が『巡り会うはずのない因縁の男』と鉢合っていたとしたら?

「──なんてことだ」

 隼人も額を覆ってうなだれた。
 真っ白だった場所に黒い点が染みついたような気持ちにさせられる!

「誰も悪くない──。『なにもかもが重なった』に過ぎない」

 純一がそれだけ平坦に呟いた後、彼は次なる行動にすぐさま移ろうとしていた。

「それにまだ調べてみないと判らないだろう。有珠山にもう一度、部員を向かわせる」

 それでも彼もやや急いでいるように待機室の外に出ていこうとしたのだが、そこで純一が振り返る。

「そのハンカチを拾った男も捨てておけないな。澤村──思い出せるか?」

 隼人は首を振った。

「なんでもいい、どんな男だった。葉月はその男と向かい合ってどんな様子だったか」
「特には。でも年齢的には、兄さん達ぐらいの男性だったかな。その土地の人のような感じだったけれど。葉月も拾ってもらったハンカチをちゃんと受け取っていたし」
「そうか。では、あの日の何時頃だった」
「昼前かな」
「その時いただろう観光客も可能性があるな。少し出ていく、チビを頼んだぞ」

 純一がさっと出ていった。
 そして今度は右京が立ち上がる。
 ダウンジャケットを手にして、とても険しい顔をしていた。

「もう一度、北海道に行ってくる。澤村、純一に調べた結果を俺に逐一報告するように言っておいてくれ。お前は葉月第一だ。頼んだぞ」
「──はい」

 もう一度行くに隼人は面食らったが、でも──そこは確実に『火種の地』になってはいるようだ。
 隼人には止められないから、右京のことも見送るしかなかった。

「待って、右京──。私も行くわ!」
「駄目だ!」

 ジャンヌが後を追う。その姿はどう見ても……愛する者を案ずる女性にしか見えなかった。
 それが証拠に、あのクールで表情をあまり見せなかった女医先生が、とても哀しそうな顔に崩れているではないか。恋する女の顔だと隼人は思った……。

「ジャンヌが言い出したことだ。葉月は記憶を取り戻している。これから回復に向かうにあたってそこを『ケアする』と志願したのは、お前だろう」
「……そ、そうだったわ」

 ジャンヌが金髪の前髪を、グッと堪えるようにかき上げる。
 そこで暫く、先生は唇を噛みしめ──そして、いつもの『女医の顔』に戻った。

「彼女のことは、彼と一緒に……。任せて、右京」

 すると、右京が彼女にやっと微笑んだ。

「頼りにしている。有り難う、ジャンヌ」

 それだけ言うと、右京はまたあの厳つい顔になって去っていった。
 隼人と一緒にそこに残ったジャンヌがそれでも、彼の背を追っていった。

「右京……! 私、待っているから! 帰ってきてよ!」

 そんな声が階段の方から聞こえた。
 本当に恋をしているのだと──。いつの間にかという思いだったが。でも、どうしたのだろう? もう見慣れてしまったのだろうか? 二人が知らないところで愛し合っていたという事、もう、なんだかすんなりと隼人の中に染み通っていた。
 だが、この待機室に戻ってきたジャンヌの顔は、隼人が知っている女医の顔に戻っていた。

「彼女が元気になるように、頑張りましょう」
「はい、先生」

 いつもの頼もしそうな大人の女性の顔、そして女医にすっかり戻ったジャンヌ──。
 だが隼人はこれで確信する。この先生は、もう何もかも知っていて、葉月の記憶のこともとっくに右京から聞かされていたのだと……。それで? そのうちに二人は愛し合うようになったというのだろうか?
 なにはともあれ、葉月が信頼している女医だ。
 これはこれで、強い味方が増え、隼人も心強くなる。

「──今後、気になるのは、彼女が戻った記憶について、どう受け止めていくかね」
「そうですね」

 そうだった。有珠山で葉月が何を見たかも気になるが。
 『怖かった』──。そう言って先ほど泣きながら目を覚ました彼女。
 忘れていた『悪夢』にまた苦しめられる日々が来るのだろうか。

 彼女があの時、あの火山村で震えながら『寒い』と言っていた気持ちが、隼人にも通じてくる。
 本当に寒い──。隼人も身体が震えていた。

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