-- エースになりたい --

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21.ジュニア

 

 高官棟、四階。連隊長室は相変わらずの場所にある。
 テッドを伴い、葉月はその連隊長室の前にいた。

 テッドがノックをすると、連隊長秘書室長、主席側近である『水沢 啓(ひろむ)中佐』が出迎えてくれた。

「いらっしゃいませ、ミセス准将。連隊長がお待ちですよ」
「こんにちは。水沢中佐。では、お邪魔致します」

 その昔、お兄さんと呼んで親しんでいた彼は、今や小笠原ではトップの秘書官に上り詰めていた。
 奥様の真理さんは途中で妊娠し、産休を取りながら子育てをしてなんとか秘書官を務めていたが、夫が中佐になると辞めてしまった。丁度、その時、この部屋に君臨していた『フランク中将』、あのロイがフロリダへと栄転になったからだ。それをきっかけに『私は引退して、家のことに専念する』と主婦になった。それはそれは惜しまれたが、夫の出世を見てみれば、彼女にとってはもう自分は軍にいてはいけないと思ったのだろう。その分、家庭を守るという意志。彼女なら、そんな選択も厭わない。葉月はそんな真理の気持ちを良く理解したつもりで惜しみながらも見送った。
 今でも時々顔を合わせる。相変わらず理知的な凛々しさは捨てずに、二男を育てる素敵なお母様になっていた。

 そしてロイの後にやってきた連隊長は……。

「少将、御園です。ただいま参りました」
「うん。わざわざ呼び立ててすまないね」

 机で書類に向かっている黒髪の男性。彼は眼鏡を掛けて、黙々と書類を眺めていた。
 しかも机の上にはいっぱいに沢山の書類に資料が積まれていた。――連隊長になったのだから、そんなことおやめになっては? ―― 葉月はそう呟きたくなるのだが、この『秘書官出身』の新連隊長には無理かなと諦める。元秘書官だった彼には、そうしてなにかを常に調べたり知ってみたりしないと気が済まない質なのだ。

 そんな彼が読みかけの資料をなんとか閉じて、やっと席を立ってくれた。

「今日、午前中は『チェンジ』に乗ったんだって?」
「はい」

 新連隊長は、淡々とした表情で葉月が待っているソファーまでやってくる。
 そして『座って』とレディファーストのような手つきで促してくれた。葉月もそこは甘えて腰を掛けるのだが、テッドはあくまで軍人として連隊長が座るまで座らない姿勢を保っていた。
 やっと連隊長が葉月の目の前に腰を掛ける。それを見て、側近二人がそれぞれの上官の隣に座った。

「ヒロム、例の持ってきてくれ」
「はい」

 連隊長に言われ、水沢中佐が連隊長席からひとつのバインダーを持ってくる。
 それをまた開いて眼鏡の彼は暫く黙って眺めている。指先でその資料の内容を確かめるかのようになぞって、それからやっと葉月に話しかけてくる。

「見たよ。澤村が持ってきてくれた新しいパイロットのいろいろな資料」
「そうでしたか」
「この前の滑走路飛行、あれはすごかったな。パイロットじゃない俺も興奮した」

 准将室目の前なら、同じ棟にいる連隊長室もかなりの迫力で眺められたことだろう。そう思うと、夫が連隊長の目に触れることも厭わずにやったことに苦笑いしかこぼせない。

「その澤村が企んだようだったが、やり方はともかく横須賀では問題があるとされていたパイロットを見事に操っていたわけだ」

 ああ、この連隊長もやっぱり……。夫がなにを狙ってやっていたかお見通しだったかと葉月は唸った。――敵わない男。
 葉月はもう小娘ではないが、でもキャリアをガンガンと積み上げてきた年上の男から見れば、まだまだ『お嬢ちゃん』なのかもしれない。
 それに葉月は彼の『顔』がとても苦手だった。特に切れ長の目をぐっと細めて、彼が黙って何かを考えている顔が『怖い』。ある人を思い出してしまうからだ。

「さらに澤村が謹慎していた間、部下の教官に任せて鈴木大尉に意味もなくやらせた学力テスト、その結果を澤村が俺に持ってきてくれたんだけれど、なかなか面白い青年のようだな」

 研修でそんなこともやっていたのかと、葉月は今ここで初めて知る。
 葉月が鈴木英太を見つけた時、横須賀からもらった資料に理数系の学力だけがずば抜けていたこと。これを隼人も自分の手で確かめて見たかったのだろう。またそんなテストを作って『試していた』ようだ。

「そうですね。元よりパイロット向きだったかと」
「チェンジ二機、横須賀にくれてやるほどのパイロットねえ」

 資料を見ながら、ふとしたため息をつく連隊長を見て、葉月は固まる。
 ほら、その切れ長の目を、どこか呆れたように細めるの――。彼の父親にそっくりなのだ。

「そのパイロットの我が儘で、今日はミセスがわざわざチェンジに乗ったと?」
「はい。必要と……澤村と判断を下しました。並びに、ミラーもコリンズも」
「ふうん。大空野郎共の感覚ってやつか? 内勤畑の俺にはまったく理解できないね」

 彼がもっていたバインダーをボンと、葉月の目の前に手荒く叩き付けた。
 それだけで葉月はどっきりとしてしまい、なおかつ、彼が今の方針についてあまり良く思っていないことを知ってしまう。
 そんな彼が眼鏡をついと指先で眉間にあげ、そこを立ち上がる。

「葉月。俺は君をちゃんと信じているつもりだ。だけれど、らしくないねえ――」

 連隊長は席を立つとそのまま窓辺へ向かう。
 彼がそこに立つと葉月に背を向けているのだが、入ってくる日光で、顔は見えなくても彼の眼鏡の縁がきらりと光ったのを葉月は見る。
 窓枠に手をついて、連隊長は離陸前の輸送機を身を乗り出して眺めていた。

「誰だって感情はあるよ。俺だってそうだ。どんなに連隊長といえどもね。例えば、君が『親父の跡目を継いだ空部隊長』ということだって、ある意味では『個人的な思い』でもあるよ」
「そうですね。私も同じです。連隊長からは在りし日のお父様を思い出してしまいますから」

 すると彼がちょっと嬉しそうに振り返る。
 そのまま細身の身体を窓枠に預けて、彼は腕を組み、ソファーに座っている葉月を見ている。

「でも、親父は君にもとことん割り切っていたはずだ」
「ええ。優しかったおじ様は、私がパイロットとして小笠原に入隊してからは、鬼監督でしたから」
「それを、君は……。親父から引き継ぐように冷徹に徹底してきたと思っていたけれどね? なんかこの鈴木というパイロットを見つけてからまるで君の……そう何の願いか分からないけれど、その希望を叶える為に、馴染みの男達が『異例』に奮闘している。特に、澤村がね」

 そして新連隊長は言った。

「それがちょっと気になったもんでね。つまり、特別扱いをして今までそつなく上手くまとまってきた小笠原自慢の『雷神2』の輪を乱すなと言いたいんだよ」

 親父がそうだっただろう?

 そういう彼の顔を、葉月は真っ直ぐに見た。
 葉月がこの想いで、そしてこの気持ちで彼を真っ直ぐ見る時は、彼の父親を思い浮かべて見ている。そして彼の言い分はやはり『父親』に通ずるものがあるのも確かだ。

「分かっております。細川少将」
「だと、信じているよ。葉月」

 彼は、退官した細川良和中将の長男。『細川正義(まさよし)』。
 横須賀で長年秘書官をしていた功績で、一時部隊長を経験して、その経歴で小笠原の若連隊長として抜擢された男だった。
 秘書官出身で、その敏腕を買われて部隊長。あらゆるキャリアを積んで、父親が去った小笠原の連隊長に就任。若手の中では出世筆頭。父親の細川が退官後もなかなか小笠原を出たがらない為、彼が年老いてきた父親の面倒を見たいと小笠原基地への転属を希望したら、なんと連隊長を命じられたというエピソードもちらほら聞いた。本当かどうかは分からないが、ロイが出て行ったあの洋館を引き継いで正義は家族と住んでいる。元々ロイの館と細川の日本屋敷は隣接している為、正義としては好都合中の好都合だったというところ。

 そうして今、彼は葉月の上司。
 その昔、無口であまり騒がしくない少年だったことだけが、葉月の中で思い出に残っている。
 だが大人になって再会してみれば、彼はものすごいキャリアを持った切れ者になって葉月の上司としてやってきた。

 顔つきも細川にそっくりで。しかも未だに『やんちゃ』を忘れない葉月の手綱をしっかりと握っているのは、なにも夫だけではなく最終的にはこの連隊長だった。
 彼の自慢は『雷神2』。シアトルの湾岸部隊から分けてもらった『伝説のエースチーム』。そこは『俺はパイロットではない』とは言っても、やはり『パイロットの息子』。しかも『ジャックナイフ』と呼ばれ持て囃されていたパイロットを父親に持っている。顔にも気持ちにも出さないが、雷神だけは彼はこよなく愛しているようだった。

 だからこそ。葉月だけならともかく『じゃじゃ馬ストッパー』と呼ばれている夫の澤村までもが、なにやらいつにない動きを見せているのが気になっているようだった。

 そんな細川ジュニアに葉月はもう一度念を押す。

「確かに今までにないことをやっております。ですが、これも雷神の発展になるはずだと大佐達とも意志を揃えております」
「……まあ、そろそろ雷神にも変化が欲しいところであるね。特にテスト飛行、あまり上手くいっていないようだし?」
「そこです。私はともかく、新機種開発を率先してきた澤村が、あの澤村がやや焦っていることもあるのだと思います。連隊長のお父様も、ビーストームをそのままでもと満足はせずに、異種パイロットのミラー大佐を引き抜いてきて変化をもたらしたことだって……」
「それはミラーが『きっちりと成熟していたパイロット』だったから発展に結びついたのだ。それなのに、なんだあの暴れ馬のような安定感のない若僧パイロットは。そんな青年が雷神に変化をもたらすと?」

 葉月は黙り込む。この男性は合理的で、そして慎重。リスクには厳しい、葉月が知っているどの男性よりもシビア……。融通がきかない。融通がきかないと言っても、余裕がない分からず屋という意味ではなく、本当に『駄目なものは駄目』ときっぱりと切り捨てることが出来る男。情にほだされて、『特例を出す』なんてことも彼には『リスク』に等しいのだ。
 だから彼は不安定な若者を、大事な雷神に投入することを懸念している。だが救いがひとつ。

「とはいえ……。横須賀の長沼と相原、そして橘がプッシュをしたパイロットならば……とも思う」

 横須賀のことはなんでも知っている彼だからこそ、向こうの空部隊の重鎮が既に目をつけていたパイロットならば確かな『横須賀ブランド』ということで、今までは『とりあえず』と様子見で黙っていてくれていた。
 だがこうして葉月と隼人が『あることで腹をくくって』しまった様子を目にして耳にして、少し釘を刺したくなったのだろう。

「彼は今からです。まだ二十五歳ですわ。必ず、一皮むけたエースにしてみます」
「どれぐらい、かかりそうかな?」

 またシビアなことを葉月に突きつけてくる。
 まだ引き抜いたばかりだというのに、この手厳しい連隊長は結果を今から見いだせとおっしゃる。葉月は深呼吸をして答える。

「――二年ください」
「駄目だ。一年だ」

 これまた手厳しい切り返しに、流石の葉月も唖然としてしまった。
 だが細川ジュニアの顔は、まさにあの鬼おじ様と同じ顔。決して冗談など口にしたわけではない鋭い眼差しを突きつけていた。

「一年経っても、いざこざするようなパイロットなら、君が庇っても俺が切る。いいな」

 葉月はこう答えるしかない。

「承知致しました。細川連隊長」

 正義がいるから、やんちゃも出来る。
 そして彼も、葉月がいるから、慎重派である上司の自分を押し上げてくれる。
 互いにそう思っているつもり。それでも彼の父親譲りの手厳しさがなければ、確かに統率がとれないだろうと、だから葉月も彼に全てをゆだねていた。

 話が終わったようなので、葉月はそのままテッドと一緒に失礼をしようとした。
 ドアを開けて敬礼をした時には、もう正義は連隊長席に座り、また資料を開いて眺めている。部下に丸投げにせず、自分で確認しないと気が済まない連隊長だと聞かされている。

 ドアを閉めようとした時、正義が急に呟いた。

「葉月、近いうちに食事でもどうかな。玄海に予約しておく。秘書室からテッドに知らせるから」
「はい……。有り難うございます」

 まあ、プライベートでもそれなりの付き合いはある。そんな時こそ家族の近況も交えて、腹を割って話す機会だった。
 ただちょっと……。『正義お兄様は、強引なのよねー』と葉月は胸で呟いてみる。

 ドアを閉めると、テッドも言った。

「相変わらず、連隊長はシビアで手厳しくて、『強引』ですよねー」

 彼がちょっと苦笑い。流石のテッドも細川の息子というだけで最初震え上がっていたのだが、息子の正義もそれなりに苦手のようだった。

「リスクが嫌いなだけよ。それにここでは、昔の顔なじみのお兄さんとお嬢ちゃんではありたくないのよ」
「でもお酒が入ると少しだけ陽気になりますよね」
「それを部下に見られたくないのよ」
「だったら、葉月さんは?」
「うーん。やっぱり昔なじみのお嬢ちゃんなのかしら?」

 それは本当で、彼は玄海の個室で葉月と時々飲もうとする。
 もちろん、どちらも部下を伴って。大抵は正義は水沢を連れてきて、葉月はテッドか隼人を連れて行く。

「今度は隼人さんと行った方が良さそうですね」
「そうね。なーんか、いっぱい愚痴をこぼされそう」

 そう思うと、正義もおじさんだわーと、葉月は笑いたくなった。

「おじ様はお酒を飲んでも、いつも通りの落ち着きだったのに」
「お元気でしょうかね。たまにはお顔を見せに行ってみては?」
「それがおじ様も、『釣りバカ』になったらしいわよ。漁村の漁師さんと仲良くなって毎日釣り竿のお手入れしているって」

 テッドが『考えられない!』と笑い出した。
 あんなに空の世界でギリギリで生きてきた男が、今は釣りバカ爺さん。それだけ穏やかな老後を過ごしていると言うこと。
 葉月も時には挨拶に顔を出している。時々、正義の妻に遭遇するが、こちらの奥様もとても素晴らしい女性で、葉月は仲良くさせてもらっていた。
 あれでいてあの正義、私生活も抜かりがないようだった。僻地の島に妻を連れてきても、あんなに朗らかで内助の功一筋な妻として生きているならば、妻にもきちんとしたフォローをしてるのだと葉月は思った。つまり『愛妻フォロー』。流石、私生活でもリスクは御免、妻もきちんと満足させて仕事には響かせない。当然、どんなに地位があがっても、他の女性に余所見をするなど彼にとってはそんな『遊び』こそ、大リスク。見向きもしないようだ。葉月は『うーん、エリートの鏡』といつだって感心している。

 

 正義のお説教は流石の葉月も戦々恐々なのだが、そこから解放されてテッドと笑いながら廊下を歩いていた。やがて連隊長室の側にある『副連隊長室』に差し掛かる。
 その副連隊長室のドアが、二人が前に来たのを計ったかのように『かちり』と開いたので、葉月とテッドは顔を見合わせた。というのも、この副連隊長室。こここそ、良く知っている男がいるからだ。
 しかも少しだけ開いて動かなくなった扉の隙間から、男性の目がこちらを覗いている。

「はーづきちゃん。連隊長のお説教、終わった?」

 開いたドアの隙間から見える黒髪の男性、そして良く知っている声。
 葉月はちょっとため息をついて、呆れた顔。

「終わった、終わったわ。例の新人パイロットのことで、ちくちく言われたところ」
「お疲れー。どう。俺のところで、一杯、休憩していかない?」

 葉月はにんまり微笑む。

「していく! 今、入ってもいいの? 達也」
「いいよ、いいよ。早く入れ! 正義兄さんに見つかったら、またうるさいぞ」

 そこにいたのは、海野達也副連隊長。
 彼はついに葉月を超えて、この基地のナンバー2にのし上がっていた。しかも葉月と同じ『准将』。基地のことを守りながら、主に陸部を管理している。
 そんな達也の副連隊長室に呼ばれて、葉月とテッドはそこに逃げ込むように、ちょっとはしゃぎながら雪崩れ込んだ。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 葉月の准将室と同じくらいの大きさの副連隊長室。
 達也の城だった。

「座れよ。葉月はミルクティーな。テッドはアイスコーヒーかな」

 元四中隊の同志。達也はなんでも知っている。葉月もテッドも気軽にソファーに座って二つ返事。
 しかも葉月は達也に呼ばれただけで喜んでいるのではない。『一杯、飲んでいけ』とこの副連隊長室に誘われて、とっても楽しみなことがあるからだ。

「リッキー。いつものお願いなー」
「かしこまりました。准将」

 その声が聞こえて、葉月は目をきらきらさせたい気持ちで、そこにいる栗毛のお兄さんを見つめた。
 達也のすぐ背後に控えているのは、あのリッキー=ホプキンス中佐。葉月の大好きなお兄様の一人!

「私、リッキーのミルクティー飲みたい!」
「任せてくれ、レイ。正義のお説教の後だろ。とびきり甘いのを入れてやるよ。テッドも、きちんと煎れたのを飲ませてやるから待っていてくれ」
「有り難うございます! ホプキンス中佐」

 あのリッキーは小笠原に残っていた。
 そして今は、海野准将の秘書室長をしている。
 連隊長室でロイを完璧にサポートしていたあのリッキーが、准将へとのし上がった後輩の為に、中佐という地位のまま……小笠原に一人残っていた。――それには訳があった。

 ロイの栄転が決まった時、もちろんリッキーも連れて行くとロイは言った。
 だがリッキーから断ってしまったのだ。彼は『もう最前線はいい。小笠原に残る』と。その上、自分の側にいた後輩の水沢に連隊長付きの秘書室を譲り、リッキーは己が全てを懸けてきた秘書室も辞退。そのぶん、こうして副連隊長の秘書室長として……ポジションはやや下がってしまったが相変わらずの秘書官をして達也を全面的バックアップをしている。ただ今まで持っていた『小笠原基地の内部を操作する権限』は全て水沢に渡してしまい、今は本当にただの秘書官だった。

 それでもリッキーはそれは自分が望んだことだと、とても満ち足りた顔で日々を過ごしている。というのも――。

 『お待たせ致しました』とリッキーはいつもの極上の優雅な仕草で、葉月とテッドにお茶を出してくれた。
 葉月のミルクティーはお馴染みの香り、そしてテッドのアイスコーヒーも香ばしい珈琲豆の香りが漂ってくる。流石リッキー。なにもかも本格的にこなしてくれると葉月は満足。
 そんな名を馳せたエリート秘書官のリッキーだが、今は一線を退き後輩に譲ったからと、水沢中佐の邪魔にならないよう黙ってひっそりと達也の影で過ごしていた。そんなリッキーの近頃と言えば。

「リッキー。蘭子さんはお元気?」

 葉月がそう訪ねると、あのリッキーが照れくさそうに微笑む。

「元気だよ。ランはレイにもまたパーティに顔を出して欲しいといつも言っている」
「私も行きたいのだけれど、なかなか忙しくて。蘭子さんと違って、お洒落をするとなると身構えちゃうし」
「気軽に来たらいいよ。制服で。ランとしてはそれが狙いなんだから。レイがヴァイオリン片手に白い軍服で来るとすごい盛り上がるって」

 リッキーは変わらずに、東條財閥の女当主『東條蘭子』と付き合っている。
 かれこれ四、五年になるだろうか?
 長年『御園皐月は、最高の女で友人』と葉月の亡くなった姉をその心に掲げて秘書官の道を突き進んできたリッキー。その姉のライバルだった財閥お嬢様の蘭子と、今は……『家族』として過ごしている。
 だからといって、結婚は視野にはないらしい。リッキーは今までも気ままな独身生活をこなしてきたし、一人でもきちんと生きていける男。むこうの蘭子は沢山の責任を背負っている財閥の娘で当主。結婚をするとなると蘭子の場合は大変らしい。だがリッキーが彼女が持っている財産を狙うような卑しい心も持っていないし、彼女がいない時はいない時で一人で仕事をして過ごしている為、ある意味での『内縁別居婚』でなんとか続けているらしいのだ。
 そんなリッキーは休日になると良く本島に出向いている。そして週末を蘭子の自宅で過ごして……いや、蘭子がリッキーと過ごす為に買った豪華なマンションで落ち合って二人きりの週末婚を楽しんでいるようだった。
 それだけじゃない。葉月が一番驚いたのは、小笠原にあるリッキーの自宅に見知らぬ青年が泊まりに来ていたことだった。リッキーがその青年と『アメリカ惣菜屋、Be My Light』に食事に来たのを葉月が目撃したのはもう数年前。声を掛けてみれば、その精悍そうな青年はなんと蘭子の息子『晴臣』だと嬉しそうなリッキーから紹介されてとても驚いたことがある。その青年はすっかりリッキーにうちとけていて、彼の影響でバイク好きになってしまったとか。
 小笠原に母親の新しいパートナーを訪ねてきて、島の穏やかな雰囲気の中、リッキーの自宅で男二人だけの楽しい時間を過ごしているとのことだった。

 やがてリッキーの口から『俺の家族』という言葉を聞くようになった。
 正式婚はしないが、未亡人で一人で頑張ってきた蘭子と、そして秘書官という仕事に全てを懸けてきた男が、会える時にあって過ごす。そしていつの間にか、彼女の大きくなった息子もリッキーに惹かれて、親子三人のように過ごせるようになったと言う。

 リッキーが最後に選んだのは、ロイと一緒にさらなる最前線を突き進むエリート秘書官ではなく、日本に残って家族と過ごしていく日々だった。
 その為、彼は地位を捨てた。出世も捨てた。だけれど彼は満ち足りている。それに小笠原ではそんな彼をまだまだ誰もが一目置いている。リッキーの潔い引き際にも、誰もが感心していた。

「晴臣が新しいバイクが欲しいと言い出して、またランと険悪な最中なんだ」
「まあ。でも蘭子さんと晴臣君と一緒に、北海道でツーリングしたこともあるじゃない」

 蘭子を後ろに乗せて、そして晴臣がバイクに乗ってリッキーと並んで。
 そうして北海道を気ままに走って旅行をしたことは、今でも蘭子がとても自慢する。『私はあんなに気ままでスリルな日々を味わったことがなかった』と。ずうっと財閥のお嬢様として育ってきたその窮屈さ。とりあえず資産家の娘として育ってきた葉月にも分かる。その上彼女は、愛する夫とも死に別れて、一人女当主としてお家を背負って企業を守って、息子を育てて。『虎の女』と呼ばれるまでに肩肘張って生きてきたのだ。
 軍隊の中核での仕事を持つ男。そのシビアさもさることながら、その反面プライベートでは自由気ままに生きているリッキーに、蘭子はとても惹かれたことだろう。その上、跡取りとして生まれた時から制約の中で育ってきた晴臣にもとても救いのある存在になったようだった。
 バイクでの旅行は『家族の思い出』。リッキーも蘭子もそして、たまに小笠原に来て葉月に挨拶をしてくれる晴臣も。三人揃ってあの旅行は楽しかったといつも言うのだ。

「でも。俺も男として自由にやってきたから晴臣の気持ちも分かるんだけれど……。今になって、やっぱり子供には危ないことはして欲しくないななんて思ったりしてさ。バイクの新車を認めるの躊躇っているんだ」

 うわー。すっかりパパだ。と、葉月はなんだか嬉しくなってくる。

「じゃあ、パパが一緒に側について乗ってやると蘭子さんに言えば?」
「晴臣はもう成人した大人だ。なにが一緒に乗ってやるだ。それにレイ。俺はパパじゃない。晴臣にはちゃんと思い出がある父親がいるんだ」

 そこはきっちりと割り切っているリッキー。
 でもきっと蘭子はそんなリッキーのきちんと弁えているところが好きなんだろうなと思った。きっと晴臣も。
 それでも葉月は、リッキーはもう、旦那さんでパパだと思っている。

 そしてお馴染みのブラック珈琲を満足そうに味わっている達也も……。

「それでもリッキーはまだまだ『秘書官第一』なんだよなー。まあそこが蘭子さんは好きみたいだけれど。もう少し休暇を取っても良いと思うんだ。俺だってそれぐらい許可するよ。とはいえ日本に残ってくれてバックアップしてくれるから副連隊長というポジションをなんとか維持できてるし。まさかトップ秘書官だったリッキーに支えてもらう日が来るとは思わなかった」

 達也もそこは今でも『夢を見ているよう』と言う。
 だけれど今は現実。今、表舞台に躍り出た後輩達を、今度はリッキーが支えてくれている。
 そんなリッキーが言う。

「一生懸命に全てを懸けて仕事が出来る期間は意外と短いものだよ。俺はそれを通り過ぎたと思っている。後は君たちを支えていくのが使命だね」

 そしてリッキーは『小笠原は世代交代の時期』と言って、ロイが出て行ってから自分より若い青年達に前に出るように後押しをする影の大御所に。
 フロリダにはマイクもジョイもいるから安心だと言い、そしてロイもリッキーを残しておけば小笠原は安泰だと言い、若手育成を託し、若い頃から常に共にいた二人はついに道を分かつことになった。
 それでもロイはリッキーの選択を祝福して出て行った――。

「晴臣が跡を継いだら、ランと一緒に気ままに海外を旅する約束なんだ。それまでは俺も影ながらでもここで頑張るよ」

 そんな年齢を重ね始めた昔なじみのお兄さんの幸せそうな顔。
 葉月は極上のミルクティーを味わいながら、自分も満足げに微笑む。

「俺もリッキーみたいに、奥さんとのらぶらぶがんばろっと」

 副連隊長の顔になると達也は『強面の陸隊長』と言われるのに、仲間内だと相変わらずおちゃらけている。一斉に皆が笑い出す。

「泉美さんも持ち直したし、良かったわね」

 ここ一年、入退院を繰り返していた泉美だが、調子が良くなってつい最近、念願の退院をして自宅に戻ってきていた。それでも相変わらずか細い印象でハラハラしてしまうが、元々彼女も『ガッツの女』。基地に働きに出ている夫にお隣の御園夫妻の為に、家のことを頑張ってくれている。

「家のこと。任せた方があいつも気力が湧くみたいなんだよな」
「うちはすっごい助かるけれどね。私が家事苦手だから――。隼人さんも忙しいし」
「確かに。葉月の飯は美味いけど、他は家事はイマイチだよな。海人の方がよっぽど上手い」

 息子の方が家事がこなせると言われ、葉月は『なんですってーっ』とお馴染みの同期生に突っかかってしまった。
 それにもテッドもリッキーも大笑い。

 ここは副連隊長室だが、葉月にとってはふっと息が抜ける場所。
 相変わらずの付き合いの達也と、時には真剣に額を付き合わせて基地のことで話し合う場所。

 彼とはもう、すっかり『親友』。
 若い日に痛いほどに恋した日々が遠い。
 そして時々一緒に、あれは苦しかったけれど、でも互いに恋をした日は二度と戻らない素敵な思い出だと語り合う。

 そんな達也は今は泉美一筋。
 年老いた母八重子と、すくすくと成長している一粒種の晃との明るい家庭を築いたことが、達也の一番の幸せ。
 そしてお隣にはもうファミリー同然の、御園家。

 テッドももうじき結婚するし、皆、それぞれの道を、それぞれの選び方で進んで、それぞれの形の幸せを手に入れていると――。
 胸の三日月の傷をふっと指先で触れて、葉月は振り返る。この傷があるから、今があるのだと。もう誰もが幸せになっても良い年月なのだと思った。

 だが葉月の耳にこだまする。
 ――『俺と、俺と一緒に空を飛んでください!』
 あの青年は、この傷がなにであるか知らない。すぐに知らせてやれない躊躇い。だけれど、あの真っ直ぐな眼差しが葉月には痛い。この傷に突き刺さる。
 痛々しいほどに真っ直ぐで、懸命で、熱い――。あの感覚、葉月にはどことなく覚えがある。ずうっと昔に終わったはずの何かが久しぶりに胸の奥で疼いていた。
 ――ああ、そうだ。私も答が出なくて見えないことに、あんなふうに真っ直ぐに懸命にそして熱くなって『空を飛んでいた』と。
 あの青年からそんな昔の自分を思い出してしまう。ここ最近、ずっとだ。

 あの子は何を追っているのだろう?

 だが、もう若い子達には分かりもしないだろう葉月の身に起きたこと。それを告げずにやり過ごすことが出来るのだろうか?

 幸せの側にひっそりと潜む、葉月の中では二度と消えない影。
 それがこの三日月の傷に永住している。
 『コックピットを降りる』――。傷を負うその前に決していたとは言え、二度ともう一度コックピットへと思い直せない程の決定打をつけたのはこの三日月の傷だ。

 もう葉月は空を飛べない身体。
 それを鈴木青年は知らない――。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 寄宿舎の個室で一人。英太は明かりを消して窓辺に立っていた。
 この基地の寄宿舎の部屋からは海が見える。朝日も夕日も見える。それはなかなかの眺めだった。

 大尉という地位もあって個室を与えてもらい、英太は気ままに過ごしている。
 個室と言ってもとても狭い。四畳あるかないか。ベッドと鍵付きの机とロッカーがひとつあるだけだ。
 それでも英太には唯一の場所。一人だけでなんでも出来る。
 今日もこうして明かりを消して窓辺で月が昇る海を眺めていた。

 部屋の明かりを消すのが好きだった。
 一人きり。それでもどこか安らぎを覚える。

 そんな中、英太は机に置いている青い携帯電話を手に取った。
 そして『彼女』に電話を掛けてみる。

『英太!?』

 彼女の驚きの声に、英太は薄闇の中ふと頬を緩ませた。

「華、元気か」
『英太こそ! 小笠原に着いたという連絡があってそれ以来じゃない。どうなっているのかって心配していたんだよ。留守電、聞いてくれた?』

 華子からはまめに叔母の近況を知らせてくれる留守電が週に、一、二度は入っていた。
 どれも『大丈夫。元気だよ』という知らせばかりだったので、英太はかけ直すこともせずただ安心していた。
 それは悪かったと思っている。だけれど集中したかったのだ。そしてやはり幼馴染みの華子が言ってくれる。

『まあ、英太のことだからさあ。新しいことがいっぱい目の前にぶら下がっていて、余所見が出来なかったんでしょ。春ちゃんも、英太に連絡するなとか言うしさ……』
「悪い。こっちにきていろいろあったんだ」
『え! また虐められているとか??』

 いいやと、英太は首を振る。そこには自然と笑みが浮かんでいた。

「いや。この島に来て良かった。どうも俺の肌に合っている上官が揃っているみたいで」
『本当に! やっぱり英太を見いだしてくれた上官だけあったんだね。相性が良かったんだ』

 華子の嬉しそうな声に、英太は益々微笑んでしまう。

「ああ、俺――。あの人達についていく」

 青い闇の中、海辺に昇った月が英太を優しく照らしている。
 その光に英太は彼女を感じていた。冷たい顔の、大人のあの女性を。

「次の週末、帰るから」

 幼馴染みの喜ぶ声が聞こえてくる。
 なんだか。月明かりの中、英太は可愛い幼馴染みの肌を恋しく思っていた。

 心が燃えている。
 誰かに受け止めて欲しいそんな夜。

  

 

 

Update/2008.8.14
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