-- エースになりたい --

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22.サマーメモリー

 

 独身の頃もそうしていたように、葉月は海辺の白い家のテラスでも月明かりを眺めていた。
 久しぶりに、ヴァイオリンを片手に。夫のための一曲を――。

『見つめていたい』

 古い曲になったが、その色合いは褪せない。
 そして思い出の色も褪せない。

 おかしいわね。最近、どうしてかあの頃をよく思い出してしまうわ。

 ――ふと、そう思う今宵。
 屋根付きの真っ白なテラス。でも手すりだけ青色。
 夫が家を建てる時に、そう色指定したのだ。
 葉月が何故かと問うと、『お前が一人を好んで閉じこもっていたあの八畳部屋そっくりにしたいからだ』と言ってくれた。
 白とコバルトブルーのツートーンでまとめていた、葉月独身時代、丘の家の小さな一部屋。隼人は『あれは俺も気に入っていたよ』と言ってくれる。
 あの部屋はとても小さくて、でも、葉月が一人きりで閉じこもるには最適のサイズだった。それを隼人は『今度は外に作ってみよう』と思ってくれたらしい。妻が落ち着くと無意識に選んでいた部屋の色を、今度は外のテラスの色に。

 そこには丘のマンションと変わらずに、テーブルと椅子がひとつ。そして夫が愛用しているデッキチェア。天気の良い日曜日、彼はそこに寝転がって読書をしていることが多い。
 そして葉月は時々、目の前にある海を眺めるために椅子に座って景色を眺めていることが多い。
 この日の夜のように……。静かに昇ってくる月を眺めながら、その時に思いついた曲をヴァイオリンで弾くこともある。

 葉月がその曲を今日選んだのは――。
 そこから薫る潮の匂いから、マルセイユを思い出していたからだ。

 肩に乗せたヴァイオリン、そしてゆっくりとボウを引いて、じっくりと一音ずつ丁寧に、あの人に届くように。

 そこに夫の姿はないが、今同じ屋根の下にいる彼には聞こえていることだろうと葉月は微笑みながら音色を奏でる。
 今日はそうではないが、時々……息子が母の演奏に合わせてピアノを弾く音も聞こえてくることがある。でも……この曲の時だけは、息子も娘も邪魔をしない。それは母親が愛する父親のためによく弾く曲だからだ。

 やんわりと、月の明かりが葉月を包み込む。
 それまでのなにもかもを包んでくれる月。
 時々、蒼い月を見て自分を確かめるかのように、夜明けの空母艦を訪ねることも……。

 そして今夜は、葉月の新しい人生を迎えさせてくれたこの白い家で。手すりが青いミコノス色のテラスで――。
 弾き終わると、後ろには夫の隼人がいた。

「有り難う」

 たまに弾く曲だから、それが聞こえてくると隼人もとても嬉しいようで……。そして照れくさいようだった。
 そんな彼の手にはワインボトルが一本。赤いリボンがたすきがけになっているマム社のシャンパン。

「どうしたの。お祝いなんかないわ」
「今日、義兄さんの所からくすねてきたんだ」
「まあ、よく分けてくれたわね」

 ワインボトルと共に持ってきたシャンパングラスをテーブルに置いた隼人はちょっと苦笑い。

「そうでもない。これ一本くれるのに渋い顔をあからさまに見せたしな。しかも『コルドン・ロゼ』は絶対に渡さないとか言って、俺にくれたのは『コルドン・ルージュ』だったよ。これは日頃兄さんも飲んでいるみたいで、何本も持っていたしな」
「マムのルージュも好きよ。映画でも有名なシャンパンだわ。ヘミングウェイも愛した……でしょ」
「そうそう、そして義兄さんもルージュは大好きみたいだな。それに、あれなに。自分がルージュなら、義妹も薔薇の肩ラベルが飾られているロゼをお揃いで気に入っている――お互いに好きなんだと義兄さんは思いこんでいるぞ」
「一緒に外で食事をした時に、いつもリードする兄様のオーダーを無視したことが一度あったのよ。その時に私が勝手に選んだのがそれだったからよ。昔、山崎先生がご馳走してくれた一杯が美味しかったからつい」

 あの時、単に義兄の邪魔をしてやろうとふと思いついたワインを口にしただけなのに。
 藤田嗣治画伯が描いた薔薇の肩ラベルがあるピンク色のシャンパン――コルドン・ロゼ。義兄は『いいな。お前が手にしていると華やぐ』とか言って、それからコレクションのセラーには常備してくれるように……。
 葉月としては『違う男性(山崎医師)がたまたまご馳走してくれただけなのに、義兄さんは俺が選んでやったみたいに思い始めている』のが、ちょっとおかしな感触。でも義兄はそれは真剣だったし、葉月もついご馳走になる。
 どうも、隼人が『なにか葉月が飲めるようなものを一本譲ってくれ』と何気なく頼んだところ、かなり必要以上にムキになったご様子。葉月はそれも可笑しくなって、小さく笑ってしまった。

「ともかく。義兄さんはあのロゼは葉月が来た時に開けるんだから、夫妻が飲むのに易々渡すものかと拗ねていたよ」

 『まあ』と、葉月は再びくすりと笑ってしまった。それでも一本、分けてくれたようだった。
 近頃、義兄は昔のような頑なな心を保たねばらならい使命から解放されたせいか、今まで出来なかった我が儘を義弟の隼人と義妹の葉月に見せるようになっていた。
 それを隼人はこう言う……。

「なんか義兄さんも歳なのかな。変に言い張って、子供っぽくなったりして参るよ」
「それで、ルージュの方は渋々しながらも分けてくれたの? 隼人さんもどうしてワインなんか……」

 するとコルドン・ルージュの栓を、そっと慣れた手つきで開けようとしている夫が笑った。

「このシャンパン。F1の表彰台でシャンパンファイトに使われるだろ」
「ええ。勝利のお酒ってわけ? なにか勝ったの、貴方――」

 妻の問いに、夫はただ黙って微笑むだけの返事しかくれない。
 シュポンという音。細長いグラスに、金色のシャンパンが注がれていく――。

 ひとつのグラスを隼人が手に取り、それを妻に……。そして自分もそれを手に取る。葉月ももらったグラスを夫に掲げ、共に乾杯をした。
 月明かりの、夏が始まるテラスで、夫妻でシャンパンを一口。言葉もなく微笑み合う。
 そんな夜をこの日に限らず、それがシャンパンでなくても、ここで二人きり繰り返してきた。

 やがて隼人は海辺に昇る月を見つめながら、静かに話してくれる。

「あの男が来てから、俺は……妙に、お前と出会ったあの初夏を思い出しているよ。マルセイユの……」

 月を見つめる夫のシャンパンを飲む横顔に、葉月はドキリとさせられた。
 ときめきではない。夫が妻と同じことを同じ時期に感じていたことに――。
 だから葉月は『見つめていたい』をヴァイオリンで弾き、そして隼人はマルセイユを思い出してシャンパンを持ち出してくる――。

「貴方、私もよ……」
「うん、俺も感じた。お前が、その曲を弾いたから……」

 そこで夫妻はシャンパングラスを傾けつつ、しばし無言で見つめ合う。
 やがて葉月から、互いに感じていることについて投げかけてみる。

「どうしてなのかしら。あの夏、マルセイユで貴方と出会ったことを懐かしく思い出してしまうの。最近、今まで以上に――」
「どうしてなのだろう。……俺も最初はそう感じていた。だが、お前があの青年とチェンジに乗っているのを見て、なんとなく解った気がする」

 それはなに……と、葉月が問うと。

「ありきたりな言い方かも知れないが、『若さ』かな」

 葉月もそう思ってた……。

「つい最近のようで、やはり結婚していつの間にか遠くなっていると、気がつかされたような愕然としたものがな」

 夫のどこか寂しそうな眼差し。

「でも、俺の中ではずうっとつい最近でずうっと変わらずにあるものだよ。例えば、緑の木陰に煙草の匂い」
「もう、やめて……。またあの時、私が煙草をくわえていたことを」
「だってそうだろう? お前は本当に煙草をくわえて俺の目の前に立っていたんだ。それで、髪もこんなに長くて、それで、日差しにうんと煌めいて……」

 そこで隼人が黙り込んでしまう。
 ちょっと夢中になって話し始めていた自分に気がついて、照れくさくなったようだ。

「な。夢中になって思い出しているんだ――。そして気がつくんだ。実は遠くなっていることを。でも色あせていないことを。それが最近、どうしようもなく切なく思えるんだよ」

 なんだか葉月にも染み入るものがあった。
 同じ思いだ。でも葉月は少し違う。あの頃の自分は非道すぎた。とても胸を張れる女ではなかった。やり直せるなら綺麗にやり直したい。でも――夫が愛してくれたのは、そんな『どうしようもない女』で、夫はあの時の自分を今でもこよなく愛してくれている。
 葉月は知っていた。今の……熟した女になった妻も充分に愛してくれていることも解っているのだが、隼人が時々、葉月の向こうに『マルセイユの葉月』を夢中に探して投影して、今でも懸命に愛していることを。それは今でもとてつもなく嬉しい。でも、自分が若くなくなったことには少し寂しい気持ちも。
 それは隼人自身も同じなのだろう。熟した男としてゆったりと愛していく余裕が出来上がっても、出逢った頃の不器用でも若さだけを武器に攻め抜く痛いほど懸命だった自分を思い出し、その姿でマルセイユの葉月を愛しているのだと。
 いつまでも、二人はあの頃のまま。本当は違っていても、あの頃のままなのだ。

 でも。あの若い青年がなにかを掻き乱し始めている。
 私と隼人の間に、静かに沈殿してこなれてきたはずの何かを再び渦巻かせるかのように――。

 そんな懐かしい、いや、違う。

「そうね。私、あの頃の自分に帰ったような生々しさを感じたわ」
「俺もだ」
「なにか、また、始まる気がするわ」
「同感。それはまた……痛い思いをするかもしれない」

 だけれど――と、葉月はシャンパンをぐっと飲み干した。

「あの子は、きっと私と同じなんだわ」

 幾度か夫にも呟いた葉月の気持ち。
 隼人も葉月を追うように、ぐっとグラスを傾け飲み干した。

「そう、俺も――。あの頃のお前を思い出している」

 なにもかもが同じ思いの夜。
 夫妻は目を合わせると、微笑み合うことよりも、空になったグラスを共にテーブルの上に置いた。

「貴方は、私を見捨てなかったわ」
「……まあ、結果そうなっただけかもしれない」
「いいえ。見捨てなかった。そんな貴方が今の私にしてくれたのよ」

 葉月は月を見上げる。
 煌々と夜空に黄金色に輝いている顔のよう。
 あの頃、葉月にとって月は『夜の太陽』だった。昼の太陽は信じていなかったから。

「貴方と出会って今ある私が今度は――」

 生々しく思い出したのは、コックピットの中。
 あのように飛んで何処へ行くとも厭わず、己を空に叩き付けてきた日々。その向こうに望んでいたことが何であるか、正に今彷徨っている青年にも知って欲しい。
 今はちゃんと感じられる黄金色の光。でも葉月はもう『夜』の中だけでは生きていない。翌朝、太陽がちゃんと昇ることを知っている。

「投げ出せないぞ」
「そうね……」

 そして夫はテーブルに置いたグラスを再び手に取り、妻の空になっているグラスにもう一度乾杯をした。

「俺も手伝う」

 やっと葉月は隼人に微笑み、自分も空のグラスを手にしてかちりと合わせた。
 空っぽの乾杯。何も入っていないグラスに、これから何を注ごう。
 『勝利の乾杯』の気分になりたいと思った夫が言いたいのは、これは『始まりのファイトの乾杯』だということだったらしい。そして本当はまだグラスの中はからっぽで、勝利の美酒はまだまだ先にある幻なのだと――。

 

 鈴木青年を雷神のエースにしてみせる――。
 二人の新たなる目標が密かにここに。二人だけの間で、決まっていた。

 

「いいの? また長い道のりだわ」
「もうコックピットにいることが出来なくなった准将の、そして甲板を降りた俺の、彼等は今は俺たちの想いを乗せて飛んでいる、走っている。かまうものか」

 そうね――と、葉月が微笑むと、隼人は二杯目のコルドン・ルージュを注いでくれる。
 黄金色のシャンパンの向こうに濃紺の空。泡なのか星なのか、月明かりの明るさなのか。そんな光を葉月は感じている。
 さらに二度目の乾杯。二人はまた月を眺めながら味わう。

 一杯目に描かれた、青年達の向こうに見える『遠くなった私達』。  では、この二杯目には今度はなにを描こう?

 そんな時、葉月はふとあることを思いだして一人で笑い始める。

「なんだよ」
「今日は、完全にマルセイユの気分ね」

 葉月は波間を見つめて……。

「……貴方のキスがとっても甘かったことを思い出したわ」

 唐突な妻の昔話に、隣で静かにグラスを傾けていた夫がぐっと飲み損ねた唖然とした顔に。

「突然、なんだよ」
「本当に甘かったのよ。ほら、……初めての時、私、緊張しちゃってぜんぜん駄目で……」

 『思い出で構わないから抱いて欲しい』
 彼とは共に働けない、彼の気持ちは小笠原には向かない。でも――マルセイユで二ヶ月一緒に仕事をして過ごした日々はそれだけじゃなかったと感じた葉月は、溢れる想いを胸に、隼人の胸に飛び込んだあの日。

 初めての、肌。初めての――。
 それは隼人も決して忘れていないと思う。だから、夫はすこし照れくさそうに葉月から顔を逸らしてしまった。そのまま隼人も呟く。

「本当、覚悟はしたけれどな。あれほど無感だと男としてかなり焦った。あれ、忘れない」

 そっちの苦い思いの方が強いだろうなと、葉月も当時を思い返すといたたまれなくなる。
 隼人は『心の問題で不感症』だと思っていただろうが、本当は緊張していたのもあった。まだ、それほど知りもしない男性の胸に、自ら飛び込んだのだから――。でも、それを溶かしてくれたのだって……。

「だから。貴方のキスは余計に甘かったわ」
「い、言うなよ。十年以上も前のことじゃないか」

 でも照れくさそうな夫に葉月は言う。

「顔にキスばかりしてくれた……わ」

 身体が駄目なら、もう……。
 あの時の、葉月の肌を愛してくれようとしていた青年の困った顔。
 それでも彼は投げ出さなかった。そして身体だけじゃないとばかりに、葉月の額に瞳に鼻に、頬に。そして耳に、顎に。最後は唇をゆっくりと愛してくれた。その間、彼は首から下の肌に女性的な部分には決して触れなかった。葉月の栗毛を愛おしそうに撫でながら、ひたすら葉月を見つめてキスを繰り返してくれた。切羽詰まった顔など感じなかった。じっくりとゆっくりと、それに『キスだけでも構わない』と言わんばかりの彼の潤んだ眼差しに葉月はずっと見つめられ、そして葉月もずっとそんな彼を見つめていた。やがて、自分でも解るぐらいに頬に身体が熱くなっていることに気がつく。その頬に彼がそっと口づけを落として……。葉月の中にやっと……。

 今思い出しても、胸がとても狂おしくなる。
 彼の、じっくりとした優しい気の長いキスは誰よりも甘いものだった。

 そして隣に夫となって寄り添ってくれるようになった『彼』も、それはよく覚えているのか、まだ顔を逸らして今の妻になった彼女とは目も合わせてくれない。

 先に二杯目が空になった隼人が、テーブルにことりとグラスを置いた。

「週末だ。海人も寝たし。――待っている」

 そのまますっと背を向けてテラスを去っていってしまった。

 甘いキス。またしてくれるの?

 葉月はそっと夫になった彼に心で問う。
 でも、もう……そんな問いは必要ない。

 月が微笑んでいる。
 葉月も二杯目を飲み干す。
 身体が熱くなっている。

 そして胸は焦がれている。

 二人を、今宵も月が一晩中見守っている。
 熱い肌を合わせる二人を――。

 

 

 

Update/2008.8.25
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