◇・◇ お許しください、大佐殿 ◇・◇

TOP BACK NEXT

 16.もうサヨナラです、中佐殿。  

 

 心優が小笠原行きを了承したことは、長沼准将から秘書室に伝えられた。
 一日のうちに決意したその心優の心境を、お兄さんに親父さん達はどう捉えたのか。
 瞬きも出来ないほどに驚いていたのは、塚田少佐だけ。雅臣はわかっていたかのように、こんな時はさすがに徹底していて、いつもの中佐殿の横顔だった。
 仕事中は誰も聞いてこない。それどころか心優は、長沼准将に何度も隊長室に呼ばれて、席に座っていることが少なかった。
「御園大佐が喜んでいたよ。あと、葉月ちゃんは驚いていたかな……」
 やはり、御園大佐が奥様の為に思いついた引き抜きだったんだと心優は読んだ。
「できれば、もう来週には小笠原に来て欲しいそうだ」
 来週!? こちらを名残惜しむ間もないことに、心優は驚きを隠せなかった。
「言っただろう。澤村君は仕事は速いし、こうと決めたら、ミセス准将より強引に事を運ぶよ。まあ、それもそうなんだけれど。園田には来年の空母航行任務で、ミセス准将と乗船するまでに覚えて欲しいことが山ほどあるそうだ。あの大佐にいろいろと叩き込まれると思うから覚悟しておいたほうがいいよ。彼、女性を育て上げることも評判だけれど、それは裏を返せば『女性にも厳しいから』だ」
「御園大佐がわたしの教育をされるのですか。工学科の方ですよね?」
「うん。甲板のこと、パイロットのこと、そして空母艦のこと、さらにミセス准将の護衛について。彼は元甲板要員でもあって、元空軍管理官でもあって、元教官であって、御園准将の元側近という異例の経歴を持っている。『空と海の教育』となると最高の教育係てわけだ」
 空と海、そして御園のことを全て叩き込まれる。
 心優の心に、新たな気持ちが芽生える。それこそ、わたしが欲しくて知りたくてたまらなかったものばかり。
 臣さんが教えてくれるからとただ待っていた。でも、そうして彼に可愛がられている間、わたしと臣さんの周りだけゆっくりした時が流れていた。過去に囚われたままの男と寄り添っていることは、そばにいる女の時間も止まっていたに等しい。その間、わたしと彼を取り囲む『現実』の時間は急流のように流れていたというのに。
 ただそこにうずくまっているだけの二人だから、現実の流れに呑まれただけ。
 心優は心優の望むところへと、これからは自分の歩みで向かっていくだけ。
「了解しました。すぐに転属の準備を致します」
「そうか。それなら秘書室にはもう出勤しなくていい。最後の挨拶の日だけ、俺が呼び出そう。準備と挨拶するところがあればそちらを優先に。親父さんにも報告しなくてはならないだろう。沼津のご家族にも。有給を消化するという名目で移転の準備に当たってくれ。手続きは俺が直接するから安心をしてくれ」
「よろしくお願いいたします」
 胸が痛むばかり……。ここまで事が早く運ばれると、自分こそ怒りにまかせて、雅臣から離れようとしているようで。心優は自分のことを、やっぱり子供かなと泣きたくなってきた。
 だからとて、ここでもう一度雅臣と向き合ったところで、同じこと。秘書官として不満を抱いている限り、そんな男のそばにいる痛みを繰り返すだけ。
 あの人がもし『では、俺が望んだ道を行くよ』と言いだしたとしても。彼は小笠原に行ってしまい、心優は横須賀に残され、一時は遠距離恋愛が出来ても……。忘れられていく気がする。あの人が望んだ仕事に没頭したら、ミセス准将と海に出て行ってしまったら、心優のことは忘れてしまうだろう。
 たった二ヶ月そばに置いただけの女のことなんか、きっと。
 秘書室に戻って、心優は引き出しを開けて荷物をまとめ始める。
 その時になって、やっと周りの先輩達が顔色を変えて心優の周りに集まった。
「本当に行ってしまうのか。園田さん」
 親父さんが心配そうに駆け寄ってきた。
「はい。急なことですが、あちらも急いでいるとのことです。来週には小笠原に行きます」
「なんだって……」
 若い秘書官達のまとめ役だった親父さんまでもが絶句した。
 絶句した親父さんの代わりに、ひとりのお兄さんが心優に詰め寄った。
「園田さん。御園の権威を恐れて言いなりになっているなら、ちゃんと長沼准将に嫌だという気持ちを伝えて守ってもらった方が良い」
「大丈夫です。私の意志です。昨日、長沼准将からいろいろとお話を聞いて、一晩考えた結果です。護衛官として身を立てるなら小笠原が良いと言われました」
「だけれど、それは逆に御園准将のそばにいると危険も大いにあるということになるんだぞ――。本格的な傭兵としての護衛能力が必要になって訓練も厳しくなる」
 引き出しの中にあるノートや書類を束ねる心優の手が止まる。そうか、そんなところに行くことになるのか。この横須賀に抜擢された時も驚きでいっぱいで知らない世界に放り込まれた気持ちだったけれど。今度は、人々の日常を護るがための『本物の最前線』に行くことになってしまうんだと。
 そんな心優の躊躇を塚田少佐も見逃していなかった。
「安易に決意するな。もっとよく考えて、少しでも躊躇う理由があるなら、すぐに断ってこい。いまなら退ける」
 いまなら……。少しばかり恐怖心が湧いた心優も、本気で考え直そうかという気持ちが湧いた。
「いい加減にしろ。仕事中だぞ」
 そんな時、秘書室に険しい雅臣の声が響いた。彼だけがデスクに座って、淡々と仕事をしている。
「城戸中佐。よろしいのですか。私達がやっと見つけた女性秘書官ですよ。あんなに易々と引き抜かれて悔しくないのですか」
 塚田少佐はなにもかもわかっているから、『可愛い彼女を手放す気ですか』という勢いで雅臣に抗議してくれているのだとわかっている。
 でも雅臣は怯まない。ノートパソコンのディスプレイから微かに見える目線が、とても鋭い。心優だけではなく、塚田少佐でさえも震え上がっていた。だから親父さんも、お兄さん達もゾッとしたのかデスクに戻っていく。
「それが園田のためになるのなら……。俺は引き留めない」
 自分で決意しておきながら……。心優は酷いと本気で思った。
 雅臣に完全に切られた瞬間だった。
 さらに雅臣は尤もなことを突きつけてきた。
「長沼准将がこんなにもすんなりと園田を手渡すと言うことは、御園大佐との『交換条件がまとまっている』ということになるだろ。御園大佐とはいつもフィフティフィフティの間柄で交渉する関係性だ。向こうが園田が欲しいと言い出した代わりに、長沼准将もそれ相当のものを手土産にもらっている。園田がそれを断ると、その条件が白紙になる。それを無にして良いか、もう一度長沼准将に聞いて許可を得てから抗議しろ」
 室長の言葉に、塚田少佐も先輩達も、『御園大佐と大ボスは、対等の交換で交渉を成立させる』ということを思い出したのか、黙り込んでしまった。
 そして心優も……。大ボスは『園田次第』と言っていたが、その水面下で『なにかとトレードするための手駒にしていた』ことを知ってしまう。なにかと交換されたのだと。
 すんなり手放されたのは何故か。交換したものはなにか気になる。でもそれでこの部隊のプラスになっているのだろう、大ボスがそう事を運ぼうとしたのだから。
 御園大佐との交渉は『50/50』。なにかとトレードされて成立してしまったのなら、心優もそれに貢献せねばならないのだろう。お世話になった大ボスの役に立てるのなら。
 心優も心構えを整える。
「お世話になりました。皆さん。そして塚田少佐」
 心優は涙を堪え、いちばん上座のデスクにも深々とお辞儀をする。
「お世話になりました。城戸中佐」
「自分で決めたことなのだろう、頑張れよ」
 やっぱり酷い。頑張れだなんて、よく平気で言えると思う。引き留めもしてくれない。やはりわたし達は、一時だけおいしいところを味わうだけの関係でしかなかったのだ。
 ペーパーバッグにとにかくものを詰め込んだ。あとは最後の日にまとめようと、心優は秘書室を出てしまう。
 そこでやっと涙が溢れる――。
 わたしの恋。初めての熱愛。終わった。

 さようなら。中佐殿。
 さようなら。わたしのお猿さん。臣さん。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 その日のうちに、心優は父親のアパートを訪ねる。
 雅臣とホルモン焼きを食べたお店などがある基地港町の片隅、小さなアパートで単身赴任暮らしを数年している。
 週末は一緒に沼津に帰ることもあったが、このアパートを訪ねることは滅多になかった。
 暗くなってから、心優は制服姿のまま父親のアパートを訪ねた。
 チャイムを押すとインターホンから父の声が。
「心優です」
『ああ、どうした。珍しいな』
 そんな父の声を聞いただけで、心優はちょっと涙ぐんでしまいそうになった。
 やっぱり小笠原に行くのは怖い気もする。どうしてこんなことになってしまったのだろうと。
「おう、心優。どうした」
 携帯電話を片手に父が出てきた。
「メールなんてくれていないよなあ。父さん、見逃したのかと思った」
 雅臣や鈴木少佐のように背が高く、プロ肉体である父。そんな父を見上げて、心優はわたしファザコンだったのかなと初めて思ってしまった。
「話があって。いいかな。ご飯食べていた?」
「いや、メシはいつも訓練校の食堂でバランスがいいものをがっつり食って帰ってくる」
「あはは。お父さんらしいね」
 笑うと父も嬉しそうにして、心優を中に入れてくれた。
「なんだよー。心優が来るなら少しは片づけておいたのになあ。母さんに言うなよ」
 少しだけ、洗濯物を溜めている部屋が見えた。男っぽい匂いだけれど、心優には落ち着くお父さんの匂いだった。
「どうしたんだ」
 洗濯物を部屋の端に除ける父の背を見ながら、心優も躊躇わずにさっさと告げる。
「辞令が出て、小笠原に行くことになったの」
 余程びっくりしたのか、目を丸くした父がその顔で振り返ったまま固まっていた。洗濯物を端っこにまとめてる情けない姿で。
「なんだって! お、小笠原のどこだっ」
「御園准将の秘書室――」
「はあ!?」
 それだけいうと、父の形相がわかった。父が本気で闘うか、怒る時の形相で、娘の心優はゾッとして動けなくなった。
 身体が大きい父がずかずかと心優のところにやってきて吠えた。
「やめろ! 小笠原なんか!」
 訓練教官の声は馬鹿でかい。心優は耳を塞いで震え上がった。
「お父さん、声が大きいよ」
 それでも大きな手が心優の腕を掴んで、リビングへとぐいぐい引っ張っていく。
 そしてダイニングの椅子へと無理矢理座らされた。
「どうしてそんなことになった! 長沼准将に捨てられるようなことでもしたのか!」
「していないって」
「だったらどうして」
「……御園大佐がわざわざ、わたしのことを奥様のそばに欲しいと来てくれたんだけれど。あとは良くわからない……」
 お父さんに本当のことを言えば、もしかして、助けてくれる? ふと心優の心が揺れた。
 でも。お父さんがミセス准将のPTSDを知ってしまったらどうなるのだろう? この熱血お父さんのことだから、娘のために、なにをするかわからない。そうするとお父さんの立場も危うくなる? そう思うと、心優はやはり言えないと口を閉ざすしかなくなる。
 それにお父さんに助けてもらう娘で秘書官でありたくない。心優はもう、父親に護ってもらうような子供でもない。自分で判断をしなくては――。
「お父さん。もしかするとお父さんは横須賀訓練校にいるから、ずっと前からいろいろ聞いてるかもしれないね」
 そう娘が口にした途端、父親が静かになってしまった。父もすとんと心優の隣にある椅子に座る。
「御園のタブーを聞いたのか」
「うん。でもね、今度の転属はそんなことは関係ないの」
 少しはあるけれど。
「まさか。御園の何かに巻き込まれたのか」
 心優は黙った。
「そうなんだな。なんだ、言ってみろ。お父さんで助けてあげられることがあったら、手を貸してやる」
 もうそれだけで充分だと心優は父を見上げた。
「お父さん。わたし、頑張ってみる。怪我をしてなにもすることがなかったような気がしていたんだけれど。わたし、ミセス准将を女性として、女護衛官として護りたい」
 だが父の表情が一変する。また怖い鬼のような顔になる。
「おまえはなにもわかっていない。御園のタブーを聞いたのなら、わかっただろう。ミセス准将の周りには護衛を幾重にもつけなくてはいけないほど、常に外部から狙われるということだ。噂でもなんでもない。彼女は任務専門の指揮官だ。長沼さんとは違う。空母は安全かと思うがそうでもない。海からなにが侵入してくるかわからない。その為の護衛なんだぞ。国籍不明の傭兵と母艦内で突然かち合っても、おまえの命を差し出して准将をお守りするということなんだぞ」
 また心優の背に、ひやりとしたものが過ぎった。
 父が心優の手をぎゅっと握りしめる。
「御園に引き抜きされる男は出世する。でも心優、おまえはまだ護衛官としても秘書官としても日が浅い。そんな御園からの気まぐれのような引き抜きなど、断ってしまえ。おまえはまだ、長沼准将と城戸君の下で力を蓄えていく段階だ。そんな、ミセスの護衛なんて早すぎる」
「それって……。園田教官の目で見てそう思うってことなの……?」
 娘として贔屓目にして『危ないからやめておけ』と言ってくれているのか。それとも護衛を叩き込むプロの教官として『園田隊員はまだ護衛官としては未熟』と判断して言ってくれているのか。
 なのに父が黙って、心優から目を逸らしてしまう。
「お父さん?」
 黙っている父を見て、心優は悟ってしまう。正直すぎる父の反応に。
 娘が心配だから言っている。護衛官としては?
「お父さん。護衛官として、わたしはまだミセスを護れないと思っているの? それだけの実力しかないって言っているの? ねえ、お父さん」
 言いにくそうにして、父が重く言う。心優の手を優しく握り直して……。
「誰にも負けない腕を叩き込んだつもりだ。そうなるよう育てたつもりで、武道家の道でやっていけるとサポートしてきた。怪我をしてつまらなそうに生きているおまえを見るのは辛かったが、軍隊の空手部でなんとなくでもトレーニングを続けてくれていればそのうちに恋でもして嫁にでも行って、子供を産んで、今度はママコーチでもなれると思っていたけど……。そこにあの秘書室からの話で、護衛官としての道が開けてきた。父さん、嬉しかった。おまえがまた、怪我をした腕を庇いながらでも訓練に真剣に取り組むようになって、あの日のようにまた身体を生き生きと動かす心優に戻ってくれて。横須賀の護衛部でも、心優に勝てる者はなかなかいないと聞いて……鼻が高かった。まだ軍隊の護衛方式に関しては経験不足だが、あと一年もすれば……、司令官だって護れる。そう思っていた」
 心優は驚いて……、目を見開いていた。それは尊敬する父から、そして、プロの訓練校教官からの心強い『お墨付き』であった。
「ほんと、お父さん? わたし、自信を持っていいんだね」
「そんな実力であっても、……お父さんは、行って欲しくない。断って欲しい」
 でも心優の心は走り出している。誰よりもミセス准将の側にいられる女として守りたい。そして、小笠原をこの目で見てみたい。心焦がした男が望んだ世界をこの目で確かめたい。しかも、彼が望んでいたあの人の隣で!
「ごめんね、お父さん。わたし、やっぱり行きたい。怪我をして、ただなにをしていいかわからなかった日々にはもう戻りたくない」
 クッと口惜しい声を漏らした父は、それまで心優を慈しむように包んでくれていた手を荒っぽく突き返してしまう。
「だったら。死ぬ覚悟で行ってこい。ドッグタグ(認識票)を忘れずに首にかけておけ」
 そんな。死なないよ……。そう言いたかったけれど、父も護衛官並の能力はあったのだろうが、『その能力を伝授する』ということを軍から望まれたらしい。教官という内勤族だったとはいえ、自分ではない『教え子』が険しい任務に就いて苦しんだ姿を見守ってきたのだろう。だから『任務部隊』へと行ってしまう娘のことは、その心積もりで送り出すと言っている。つまりは、娘の心優も『死ぬ覚悟で行かねばならない』と言うことになる。
「お父さんにドッグタグを握らせたりしないから」
「約束だぞ」
 久しぶりに大きな父の胸に抱きしめられている。
 いま、心優にとっていちばんの男性はこの父に勝る人はいない――。そう実感しながらも、それがもう自分が好きになった男ではないことにも心優は涙をこぼした。

 父と最後に小笠原に行くまでに沼津の実家に帰省するかどうかを話し合ったが、結論は『帰らない』になった。
「一日も早く、ミセス准将の側近に相応しい訓練につくべきだ。実家などに帰って気持ちが緩んだらいけない。母さんには父さんからよく言っておく。きっと母さんも反対するだろう」
「わかりました。お願いいたします」
 父はここ一番という勝負へと娘を向かわせる気持ちでいる。それはここ一番の試合に心優を送り出す時と同じだった。
 そんな時は甘く気持ちが緩んでしまう実家や母や兄には会わない方がいい。それは、心優が選手時代だったときから同じだった。
 それは父も然り。
「もう任務を無事に終えるまで帰省もするな。いいな……」
「でも、新年ぐらいは……」
「帰ってくるな」
 ここで心優は、父が云うところの『覚悟』の厳しさを痛いほど感じてしまう。
「わかった……。無事に任務から帰ってきたら、真っ先に沼津に帰ります」
「なにごとも准将殿の為だ。気易く実家に帰ってくるな。あの人の護衛は、それを意味する」
 絶句した。実家と縁を切るほどの覚悟で、あの人に尽くせと言われている。
 心優は自分が荒れた気持ちだけで、小笠原に行こうとしている自分を浮き彫りにされた気がした。でも、逆戻りも決してしたくない。その気持ちも同じくらいに強く湧き上がっている。
 そして父が言うことは正しい。心優の中に『エド』という御園の護衛男がすぐに浮かんだ。御園大佐が言っていた。ミセス准将のために、事業を部下に引き渡してまで、単身でおまえのためについていてくれているのだから――と。プロの男も、自分が築いてきたすべてを手放してまで、『お嬢様』のためだけに側にいる。それこそが『本物の護衛の心得』。
 甘かったかもしれない。でも、もう……。
「行ってきます。お父さん。小笠原に、行ってきます」
 父はもうなにも言わなかった。なんともいえない顔をしている。その分、心優の手をまたぎゅっといつまでも握ってくれている。
 『帰ってくるな』はもしかすると、最後の引き留めだったかもしれない。それで娘の心が弱く揺れたら、小笠原にはいかすまい。その程度の覚悟で、空母に乗ってはいけないと思っていたのだろう。
 でも心優は誓った。絶対に空母に乗る。あの人の魂を見てくる。
 そしてその魂に敵わないと思ったら、その時こそ、あの人を諦めようと。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 横須賀から離島へ。その日が来た。
 それまで移転の手続きに心優は追われた。その間に一度だけ、小笠原にいる御園大佐と話せる機会があった。
 長沼准将を通じての電話だったが、その時に心優は『家族とどのような話し合いになったか』も報告をした。
 するとあの御園大佐が絶句していた。
『そうか。園田教官がそのような覚悟で――』
 父親が娘をどのような気持ちで小笠原に見送るか。それは同じく娘を持っている御園大佐の胸にも痛く響いたらしい。
『僕からもお父さんに連絡をしておこう。安心して預けてくれるようにね。話してくれてありがとう。では、その心積もりなら一日も早くこちらで受け入れたい――』
 父と娘の決意を知った御園大佐もかなりの本気になったようだった。『君を絶対に育て上げるよ』。どこか戸惑いながら移転の支度をしていた心優だったが、大佐のその声に腹をくくった。
『では。直行便ではなく御園家からセスナで迎えを出すようにしよう』
 御園家の自家用ジェットでのお迎え。そこまでの優遇に心優は驚きながらも、それだけ早く小笠原に来いという意味だと理解した。そして心優もここまで来たらもう、雅臣とは一刻も早く離れて、新しい世界に没頭し邁進したいという気持ちでいっぱいになる。
 お願いします。と、御園大佐の手配のまま、小笠原に行くことになった。
 一年半使った寄宿舎の部屋も空っぽになった。心優の荷物は、大きなトランクひとつだけ。寄宿舎生活はことたりるものだけで充分。
 そのトランクを引きずって、心優は最後の秘書室に向かった。
 秘書室のドアを開けると、お世話になった先輩達が笑顔で出迎えてくれた。
「園田。待っていたよ」
 冷たい眼鏡顔だった塚田少佐が、とても優しい微笑みで迎えてくれたのが余計に哀しみを誘った。でも、心優は今日は笑顔を務める。
「頑張って、行ってこいよ」
「辛くなったら、すぐに帰ってきてもいいんだぞ」
 兄さんに親父さん達が次々と、ほっとする言葉をかけてくれる。
 大きなピンク色の花束も頂いてしまった。可愛いリボンがかけてあって……。そこで心優はここでは本当に女性として接してもらっていた有り難さがいまになって心に沁みた。
 でも。その部屋に雅臣がいない。室長のデスクを哀しそうに見つめていると、塚田少佐が申し訳なさそうにうつむいた。
「たぶん。もの凄く辛いんだよ」
 塚田少佐がそういうと、どうしたことかお兄さんと親父さんが散っていった。それで心優は悟った。本当はこの室内の誰もが、もう雅臣と心優の関係を薄々勘づいていたんだと。
 デスクに座った親父さんが舌打ちをしている。
「まったく仕事は出来るし、エース時代からいい男っぷりなのに、女のことになるとてんで駄目。何度目だ」
 ――何度目のところで、隣の席にいる兄さんが『それは言っちゃダメでしょ』と親父さんを窘めた。
「今度こそ、うまく行くと思っていたんだけれどなあ。なあ、塚田君」
 兄さん達も見て見ぬふりをしてくれていたようだった。
「御園が迎えに来るんだってな。中佐も警備口にいると思う……」
 塚田少佐がそう言いながら、心優に花束をさらに押し付けた。『早く行け』の合図。
「お世話になりました。この秘書室に来なければ、わたしはいずれ空手も辞めていたと思います」
 塚田少佐のいつかの言葉を心優は思い出す。『それさえあれば、生き返ると思った』。これから行く道は、父が反対するほどに危険なものなのかもしれない。でも、心優は確かに、道場で身体を酷使してまで上りつめようとしていたあの息が詰まるほど邁進していた日々の充実感を蘇らせている。
 しかしそれは、もう雅臣の側では保てないものだった。哀しいけれど、過去に縛られた男に甘んじていたら、自分もきっと流されていつか本当の意味で雅臣とは壊れていたと思う。
 そのまえに、少しの欠片でもいいから、甘く思い返せるうちに終わりにしたい。これまでの二ヶ月が無駄ではなかったとまだ思っていたいから。だから心優だけでも先に行く……。
 その後に臣さんがどうなるかだなんて、わからない。わからないけれど、心優は臣さんを捉えているものをこの目で確かめたい。
 そこに雅臣が心酔した『栗毛のあの人』がいる。その人の隣に、わたしが先に立つ。そして雅臣が心優を通り越して見据えていた魅力を、この目で確かめる。いまの心優が先に進むのは、まずそこから……。
「行ってこい、園田」
 塚田少佐に背を押され、心優は再度先輩達に挨拶をして秘書室を出た。
 臣さんが、待っている? 本当かな。あれから、まったく話していない。もう雅臣の日常から切られたと思っていたし、雅臣も手放す覚悟をしてくれたのだと思っているから。
 会ったら、なにを話したらいい?
 ピンクの大きな花束と、大きなトランクを引きずって……。やはり心優の足は警備口に急いでいた。最後に、一目でもいい。会いたい。
「園田さん」
 訓練の帰りに良く歩いていた長い廊下。人気のない廊下で、また声をかけられていた。
 そしてその声に心優は硬直する。ふりかえると、業務隊の井上少佐がいた。
「久しぶり。小笠原に転属するって聞いて、とっても驚いてね」
 いつものにやついた顔でそこに立っている。でも今日の彼はどこか野心めいた目で、ゆっくりと心優に近づいてきた。
「どうやって御園准将と御園大佐に取り入った?」
 基地中がその話題になっていると井上少佐が付け加えた。
「しかも御園大佐直々に引き抜きに来たとか。空手ひとつで横須賀に来ただけでもボサ子ちゃんの奇跡だっただろうに。今度は、御園一族に気に入られたその訳を知りたい」
 いつもの井上少佐とは違う気がした。どこか気迫を秘めた目が険しい。
「特に、訳などありませんけれど」
「また空手ひとつで、採用されたのか」
「だと思います」
 しかしその返答では納得していない顔で、井上少佐が近づいてくる。いつか心優の黒髪にキスをした時のように、遠慮なく近づいて密接的に迫ってくる。
 彼が心優の直ぐ目の前に、胸を押し付けるかのようにして立ちはだかり、真上から見下ろしている。
「心優ちゃん。俺、ほんとうにあんたに興味が湧いたんだ。俺と好い関係になってくれないか」
 本当に好い関係になりたいのなら、もっと女が喜ぶ甘い言葉を吐くはずなのに。今日の少佐は男の目ではない。野心を滾らせた軍人の目をしている。それはそれで、この男が本気で上を目指そうとしているのだと、そう言う意味では素晴らしいとは思える。しかし、それでも心優の返答は決まっている。
「小笠原に行ってしまう女ですよ。そう滅多にお会いできないでしょう」
「会いに行くよ。直行便もあるし……」
 荷物で両腕がふさがっているのをいいことに、心優の耳元に唇を近づけてきて熱い息で囁く。『その時は、うんと可愛がってあげるよ』と――。その手がついに心優の頬に……。
「どうせ、城戸中佐と駄目になったんだろう。官舎に出入りしていること、奥様方のお茶会でいちばん盛り上がる話題だったみたいだな」
 奥様方の噂にされていることは覚悟していた。どうしてもそこで生活をしている人々の目は避けられなかったから。ただ目につかないよう目障りにならないよう努力はしてきたつもり。
「彼と駄目になる女はみんな可哀想でねえ。みーんな、俺が慰めてやったんだ」
 初めて、心優はこの男を汚らわしいとゾワゾワっと鳥肌を立てた。雅臣と駄目になった女の弱っている心に付け込んで、まるで残った餌のおこぼれをもらいにやってくる野獣のよう。
「塚田もこれは言えなかっただろう。塚田の奥さんは、元は城戸中佐の女だったと――。あいつだって、おこぼれもらっていたんだぜ」
 それには心優も驚いて、うっかり井上少佐を見上げてしまう。彼と目が合うと、頬に触れていた少佐の手が心優の顎を掴みあげていた。
「彼女も言っていたよ。女心がまったくわからない、男臭いばかりで猿のよう、小笠原の想い出から抜け出せない戦闘機バカで、ミセス准将が一番の女性。私のことを見てくれないってね。城戸さんのこと。なーんでも話してくれたよ。ものすごく泣いていて、可哀想だったなあ。俺はとても気に入っていたんだけれど、彼女は平凡な幸せが早く欲しかったみたいで、どうしたことか塚田のところに行ってしまったんだよ」
 『中佐をふった彼女に聞いてみたんだ。……その彼女が中佐のことを猿みたいだったと』。塚田少佐のあの話。あれは、奥様から聞いた話だったんだと、心優はさらに驚愕する。
 そして塚田少佐が井上少佐に怒りを燃やしていたのは……。奥様が自分のところに来る前に、この男に弄ばれたから!
「そんな空ばっかり見ていて過去に囚われている男なんて忘れて。俺がうんと可愛がってやる。御園で困ったことも、俺が助けてやるから」
 違う。この男は、御園で困ったことがあったら心優を助けてくれるのではなくて、『御園のことを逐一、俺に教えてくれ』、それが目的。
 男と別れたばかりの女の哀しみに付け込んで、臣さんのおこぼれをぜーんぶ食い散らかすハイエナ!
 なにが哀しんでいて可哀想だから、可愛がってやるだ! 心優の手から花束が落ち、そしてトランクも手放した。
 拳をぎゅっと握りしめ、半歩下がって小さく構える。こんな男、まっすぐ一発、目の前の鳩尾(みぞおち)! それで充分!
「痛ってぇ!」
 心優はハッとする。まだ拳を発射させていないのに、目の前の男が痛みで悶えている。
「彼女に触るな」
 心優の頭上に、光るシャーマナイトの黒い眼。その鋭い眼差しが、井上少佐を睨み、彼の腕を高々とひねりあげていた。
「御園の一員になるんだ。その覚悟で手を出しているんだろうな」
「くっ、城戸中佐」
「そうだ。猿だ。よく知っているだろう」
 臣さん! 心優は唖然としたまま、少佐を心優から突き放した中佐殿を見上げた。
「少佐。いつまでも園田をなにも知らないお嬢ちゃん扱いしていると、やり返されるぞ。見ろ。俺が来なければ、ミセス准将がお気に召した拳が鳩尾に入るところだったぞ。塚田以上の腕前がある黒帯、ずいぶんと余裕カマして近づいていたんだな〜」
 心優も我に返る。少佐に鉄拳を打ち付けようとした構えのままだった。そして井上少佐もこの時になって初めて、黒帯ちゃんが本気で自分に鉄拳を下そうと戦闘態勢を整えていた事に驚いたようだった。
「もうミセス准将の部下だ。彼女は自分に近づく怪しい者は、御園の敵として遠慮なく力を発揮し、御園に近づく不審者にもその鉄拳を使うことを許される隊員になったことを忘れるな」
 突き放された井上少佐の顔が悔しさで歪む――。
「本当ならば、業務隊長に報告するところ。御園が引き抜いた隊員に手を出したと知れば、業務隊長も真っ青になるだろうなあ」
 どんなに中佐殿のおこぼれを食い漁っても、こちらの男の方が格が上。猿社会だったならば、絶対に逆らえないはず。
「行け。今日は見逃してやる」
 威嚇する気迫を漲らせている猿に睨まれ、小賢しいハイエナが走り去っていった。
 何日ぶりか。それしか経っていないのに、もう何週間も会っていないかのような気持ちで、心優と雅臣は向き合っていた。
「小笠原にもあんな男はたくさんいる。気をつけろよ」
「はい。ありがとうございます」
「本当に辛かったら、俺を頼ってくれ。戻ってきてもい……」
 そこで雅臣が言葉を濁し、黙り込んでしまった。
 その間が長いので、心優は彼を見上げてしまう。哀しそうな眼差しで、でも、今日は透き通ったあの綺麗な目が心優をみつめている。
「いや。心優はきっと、素晴らしい護衛官になるだろう。俺を置いて行ってしまう強さがあるのだから」
「最後に生意気を申し上げたままだったこと、心苦しく思っておりました。本当に申し訳ありませんでした。お許しください……」
 心優として、大好きだった臣さんに投げつけた惨い言葉は、彼の傷をえぐったことだろう。それだけが心優には心残りだった。
 また雅臣が黙っている。今度の眼差しは、険しく、でも熱く揺れて心優を見ている。
「許さない。忘れない、心優に言われたことは」
 その一言に、心優の胸がズキンと痛む。やはり彼を深く傷つけたのだと……。もう取り返しがつかない。
「御園大佐が直々に、警備口まで迎えに来ている。じゃあな、元気で」
 なのに最後に、彼が心優を真っ正面から抱きしめていた。
 ぎゅっと抱きしめてくれて、そして黒髪もよく知っている大きな手が何度も撫でてくれている。
「臣さん……」
 二ヶ月の甘い想い出が一気に蘇る。彼の汗の匂いも、甘く狂おしい胸の痛みも。全部!
「心優。小笠原はこことは違う。本当に気をつけてな」
 そこで、彼から強く心優を胸から突き返した。とんと、突き放すように……。
 まだなにかを言いたそうにして、でも、唇を噛みしめ、ついに彼は背を向けてしまう。
 静かに、中佐殿が遠のいていく――。
 熱い涙でかすんで、もう、心優には彼が見えなくなっていた。

 

 ピンクの花束を片手に、トランクひとつ。
 警備口に行くと、その人が待っていた。
 黒塗りの車に、黒いスーツ姿の『エド』を従え。大佐の肩章を携えている眼鏡のおじ様が、制服姿で立っている。
「いらっしゃい。園田さん。待っていたよ」
 御園大佐が、悠然とした笑みで心優を迎え入れてくれた。

 

 

 

 

Update/2015.1.4
TOP BACK NEXT
Copyright (c) 2015 marie morii All rights reserved.