◇・◇ お許しください、大佐殿 ◇・◇

TOP BACK NEXT

 29.ミセス艦長の思い通り

 

 流氷が沿岸から見て五割になると、船が航行できる『海明け』となる。
 その情報を得て、空母が少しだけの北上をはじめる。オホーツクを抜けるまで、この流氷が去っていくペースに合わせていくようになる。
「撮影は、日本海にはいってから、天気予報を参考に天候良い日を予測して、佐渡島の海域に行くまでの間を目安に撮影……と」
 雅臣が航海図と睨めっこしながら、書類を作りはじめていた。
「園田。これのコピーを頼む。あとプロジェクターで映像を見てもらえるようにセッティングを頼む」
「かしこまりました、城戸大佐」
 艦長室の心優のデスクが、雅臣の仕事場になっていた。……というのも、極秘なので、橘大佐も詰めている指令室では知られてしまうので、雅臣はこの件に関しては、艦長室で仕上げなくてはならない状態。
 雅臣が艦長室に籠もるのは、朝方や夜更けが多かった。心優も生活のリズムを狂わせない程度に、大佐殿の手伝いをする。
 雅臣が艦長室に籠もることもあるので、さすがに指令室にいるラングラー中佐も不審に思ったようだった。だが、そこは長年の側近としての勘なのか。
「艦長、今度はなにを思いつかれたのですか。城戸大佐を独占するのもほどほどに」
 たが御園准将はニンマリと側近に笑う。
「橘さんの引退飛行を、広報の撮影で残そうと思っているの。内緒よ、テッド。雅臣には、ファイルの整理をさせていると橘さんには告げておいて。艦長修行の一環ってね」
「そういうことでしたか。では、明日のミーティングで、そのお知らせをされるつもりなのですね」
「そうよ。橘さんを引きずり込もうと思うから、黙っていてね」
「勿論です。協力いたしますよ」
 ラングラー中佐も『そういうことならば』と、艦長と一緒にニンマリと微笑んでいる。
「お茶でも差し上げましょうか」
「ありがとう、テッド。ちょうど欲しかったところ」
 夕食時間が終わり、夜勤以外の隊員達は業務を終えたら就寝につく頃だった。
 指令室でも業務を終えたものから、側にある部屋へと男達が少しずつ消えていく。
 だが艦長室では、御園准将は相変わらずのやつれた目元でも資料動画を見入っていて、これぞというアクロバット飛行のシーンをカットしてはプリントアウトしたり、雅臣が使っているマシンにファイルを転送したりして参考にするように手渡す。
 雅臣はそれを確かめて、プログラムを組んでいる、書面でも、ファイル上でも、ミーティングの時に幹部が『魅入るようなもの』にしようと努めている。
 心優は二人のアシスタントに徹した。准将も雅臣も、同じ部屋にいるのにまったく関わらない様子で自身の仕事に没頭している。ものすごい集中力だった。ミーティングが明日に迫っているというのもあるが、それにしても、准将が提案すれば、雅臣がそれにすんなり応える。静かな企画作業が淡々と進められている。
「艦長、ここはこのようにされると『かっけぇぇ!』になると思うのですが」
 真面目な顔で『かっけぇぇ!』を混ぜ込んだ雅臣を見て、御園准将がきょとんとした顔。
「それ、うちの息子と海野の息子がよく言う」
「でしょ。これ、見てください。動画投稿サイトで広報がアップした広報映像に寄せられたコメントです」
 プリントアウトした一枚を雅臣が差し出す。
「雷神とマリンスワローの展示飛行のカットを並べた小笠原基地と横須賀基地の広報映像に対してです」
 艦長の側にいた心優も、雅臣が准将に渡したプリントを眺める。確かに『スゲー』『かっけぇぇ』の文字が乱舞していた。
 飛行マニアにいかに盛り上げてもらえるか。応援してもらえるか。それをお二人がいま模索している。しかも引退をするパイロットと、その教え子だった現エースパイロットの競演。さらに基地上空ではなく、空母での撮影。この企画のために、小笠原から心優の広報撮影をしてくれた少佐も乗船してきている。
「ふーん、こんなふうに言ってくれているんだ……。知らなかった」
 御園艦長が民間からの声を知って、いつにない穏やかな微笑みをみせた。
「ゆっくり見る間がないのよね。広報や、中佐や少佐から『こんな評判だった』という報告で済ませていたんだけれど。駄目ね。直接の声って、いいわね」
「艦長のことにも触れていますよ」
 雅臣が気を利かせて赤線を引いてるところを指さした。そこには『雷神の総指揮官は、小笠原の空部隊大隊長。元パイロットの女性、准将』ともあった。
 そういうことは、一般的にも知れてしまうもの。だからミセス准将には、プライベートでも護衛が必要なのだと心優は痛感する。
「彼等にまた『かっけぇぇ!』と絶賛してもらいたいわね」
「勿論です。もうプログラムは頭に描ききっています。作業もあと二時間ほどで終わります。お待ち頂けますか」
「どうせ起きているもの。出来上がるまで待っているわよ」
 雅臣も『イエス、マム』と応えて、元の仕事に集中してしまう。心優も雅臣のそばについて、懸命に手伝った。
「艦長。ロイヤルミルクティーをお持ちいたしました」
 ラングラー中佐が就寝で部屋に籠もる前に、艦長にいつもの一杯を置いていく。
「では、先に休ませて頂きます。おやすみなさいませ、御園准将」
「おやすみなさい、テッド。いつも有り難う」
 極上の一杯を手にとって、そこでも御園准将がほっとした顔をみせてくれる。
「テッドがミルクティーを煎れてくれるようになって、もう十七年かな……。夫より、彼が煎れてくれた一杯を誰よりもたくさんご馳走になったわね」
 ふと、いつにないそんな言葉を彼女が呟いた。心優と雅臣はつい、顔を見合わせる。
「はあ……。橘さんと懐かしい話をいっぱいしたせいか、いろいろと思い出しちゃう。だめね、歳だわ……」
 どんな時でもクールなミセス准将という構えもベールも取り払わない彼女が、今夜は本当に自分の自宅にいるかのように砕けた話し方になっている。
 それだけ、心優と雅臣のことも、自宅にいる家族のように感じてくれるようになったと言うことなのだろうか。
 心優はまだ慣れていなくて戸惑っているばかりだったが、こんな時は、どんな対応も慣れている雅臣が艦長へと微笑んだ。
「たくさんの想い出があることでしょうね。でも、俺達は、艦長や橘隊長、そしてラングラー中佐が前を行く背を見せてくれたから、こうして追いかけてこられたんですよ」
「そういえば、雅臣も横須賀で初めて見た時は、まだまだ怒鳴られてばっかりの初々しい新人パイロットだったわね。いがぐり坊主のくりくり頭の高校生ってかんじだったもの」
「え、いつの俺のことですか、それ! やめてくださいよ」
 御園准将が珍しく軽やかな笑い声をたてたり、雅臣が年上の女性にはまったく敵わない様子を見て、心優もつい笑ってしまっていた。
「そうおっしゃるのならば、俺だって艦長を初めて見た時のことを覚えていますよ」
「え、それっていつなの? 雅臣が本格的にホーネットに乗り始めた頃は、私はもう引退状態だったはずだけれど」
 今度は御園准将がちょっと焦った顔。雅臣も逆に彼女をからかうのかと思ったら、感慨深そうに視線を遠くに馳せ、でも懐かしそうに微笑んでいる。
「俺が横須賀で新人配属研修で小笠原の空母に行った時でしたね。そこで艦長が所属されていたビーストームが訓練している時でした」
 御園准将も『ああ……』と思い出したようだった。
「毎年来るから、いつのどこの新人研修に雅臣がいたのかはわからないけれど、新人の空母見学はよく見かけたわね」
「その時です。空母での訓練については、横須賀よりも国際化が進んでいた小笠原の方が配備が先でした。女性パイロットがいることは、もう既に俺達の間でも噂でしたから、小笠原の甲板で本当に貴女がいたのを見た時には、俺達すごいざわめいたもんです」
 艦長もうっすらと微笑むだけで、なにか思うところがあるのか黙っているだけになってしまう。
「明らかに、周りの男とは違う空気をまとっていて。その人が着艦したばかりのホーネットから降りてきて、それがとても細身の華奢な女性だとわかった時の驚き、いまでも覚えています。次の日も、准将はあの豪腕パイロットで有名だったコリンズ大佐の後をなんでもない様子でホーネットを操縦していた。俺達が息が苦しくなるような操縦もこなしていた。あとで教官が教えてくれました。彼女はエース級の過酷な操縦は身体的には無理だけれど、できないことはできないことで割り切って、できる操縦で全てをカバーしていると。つまり、力任せに操縦する男よりも技能がある。それを考えて訓練をしてきたから、飛べている――のだと」
 さらに雅臣は、続ける。
「そんな女性が、甲板に降りてきて、その綺麗な栗毛とか女性らしい顔が見えた時、風の匂いが変わったように思えました。俺達、既に大人の女性だった貴女を見て、すげえ……と静かになったのも覚えています」
 若い女性パイロット。きっとその頃から麗しい優雅さを漂わせていたのだろう。男ばかりの甲板に、いまのように雰囲気あるクールな面差しの、でもふんわりとした女性がそこに現れたなら、誰だって視線を奪われたに違いない。心優にも覚えがある。彼女の准将室に初めて入った時、風の匂いが違った。彼女が放つ、花と海の匂い。そんな彼女のパイロット姿、心優も見てみたかったと思う。
「わたしも、そんな艦長にお会いしたかったです」
「でも。その時の私は、人を傷つけるような女だったから……。同世代であなた達に出会っても、嫌われていたかも……」
 見間違いかと目をこすりたくなるほどに、ミセス准将が自信のなさそうな女の子に見えてしまい、心優は驚いてしまう。それは雅臣も? また心優と雅臣の視線が重なる。
 だが、今度は心優から。同じ女性として――。
「艦長だけではないと思います。わたしも……、傷つけるようなことをしたことがあります」
 心優だけではなかった。
「俺もです。艦長。艦長に酷いことを言い放ったことも含めて……。誰もがそうして人の大切さを知るのだと思います。俺は、そんな艦長が待っていてくれたから立ち直れたんですよ」
「うー……」
 いきなり艦長が目元を覆って、デスクの上で項垂れてしまう。
「うー……、駄目じゃない、おばさんを泣かせないでよ。涙腺崩壊する」
 え、艦長が泣いちゃった――。心優は唖然としそうになったが、横から眺めていると、その手のひらの下の目が悪戯っぽく笑っているのを見てしまう。
 そういうじゃじゃ馬嬢様らしい『おふざけ』。それに雅臣はとっくにそんな葉月さんであることはわかっているようで、俺は騙されませんよと笑っている。
「あはは。まず俺が期待に応えられてから、本当に泣いてくれたら嬉しいです」
「そこで、一緒に涙ぐんでくれたら可愛い男の子なのにねえ。英太ならころっと騙されるのに」
「ガキと一緒にしないでくださいよ」
 そこで艦長と雅臣が一緒に声を立てて笑っている。心優は元々はこんな二人だったのかなと感じた。こんな楽しそうにしている雅臣を見ると、本当にミセス准将を慕っていて、憧れだったのも仕方がないことかなと理解もできる。
 ひとしきりの談笑の後。また雅臣がじっと集中しはじめる。
 艦長室にあるコピー機で、サプライズで提示する企画書を人数分コピーしていると、雅臣が無言で心優を手招きしている。
 雅臣が指さした方を見ると、また御園准将が、今度は大きな皮椅子に背をぐったりと沈め、上を向いて眠っていた。こんなに無防備な姿勢を見せたのは初めてだった。
「どうする、心優」
 雅臣が息だけの声で心優の耳元に囁いた。
「ブランケット、持っていただろ。あれを」
 だが心優は無言で首を振る。囁くのではなく、雅臣の手元にあるメモ用紙に筆談で記す。
『ダメです。側に近づいただけで、気配を感じ取って目を覚まします。あのままの方がよろしいです。わたし達がいる上で眠られたので、気を許してくれたのでしょう。静かにそっとしておきましょう』
 さらに心優は付け加える。
『臣さんと楽しくお話しして、気持ちもほぐれたのでしょう。これからも、あのようにお話相手になってあげてください』
 それは御園艦長のすぐ側にいる護衛官としてのお願いだった。
 すると雅臣も秘書官時代から愛用している格好いいボールペンで、返事をくれる。
『承知いたしました。園田護衛官』
 心優の艦長に対する気持ちも雅臣には通じてくれていて、思わず嬉しくなって、彼ににっこりと微笑んでしまう。
『いまの顔、かわいいな。キスしたいけど……、我慢しておく。今度、艦内デートしよう』
 なんて、真面目な筆談の後にさらっと付け加えられていて、心優はギョッとしてしまった。
 でも雅臣はくすくすと笑って、そこだけ真っ黒に塗り潰してしまった。
 艦内デート? どんなことするの? なんか雅臣が相手だと変なことを求められそうで心優はちょっと不安になったり。あの四角いゴムパックを口にくわえたお猿の顔を思い出してしようがない。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 雅臣の見積もり通りに、二時間もするとその企画書が出来上がった。
 御園艦長も、三十分ほどうとうとしただけで目を覚ましてしまい、今度は過去の艦長日誌を読み込みはじめていた。
「艦長。出来ました」
 ちょうど零時を過ぎた頃。雅臣が艦長デスクの前に立ち、御園艦長へとその企画書を差し出す。
「お疲れ様。いまから見させてもらうわ」
 早速、艦長がデスクの上に、雅臣が二日かけて作り上げた『展示飛行プログラム』のチェックをはじめる。
 艦長がピックアップした橘大佐の数々の飛行演技のカット。それを雅臣がいくつか選び、飛行軌道などの図形を並べたものを順を追って准将がチェックする。
 彼女の琥珀の目が、瞬きをやめてしまったかのような集中力。そして時々首を傾げたりして唸っている。その度に、待機している雅臣が緊張して顔を強ばらせている。
「ローアングルキューバンテイクオフに、タッククロス、そしてバーティカルクライムロール。マリンスワローの男なら得意技ばかりね」
 やっと、ミセス准将が微笑んだ。
「これを明日のミーティングで提案しましょう。私が事情を説明して幹部を説得するので、もしこれで決まったら、撮影のことは城戸大佐に一任します」
「ほんとうですか」
 緊張していた雅臣にも笑顔が広がった。
「あと、撮影日に合わせて各機体には、展示飛行用の白煙のスモーク装備をさせるように。特に英太の七号機をアクロバット用に装備させると、戦闘用ではなくなるからスクランブル発進はできなくなる。そのシフト調整も忘れずに」
「了解です」
「スワローにいた男のことは、スワローの男に任せてよかった。私は燕ではなくて、スズメバチだったから。蜂はばーーと派手に音を立てて飛ぶけれど、燕は確かな軌道を描いて美麗に飛ぶ」
 そう呟いた御園准将を見つめていた心優はハッとする。それは雅臣も驚きで固まったままになる。
 今度は嘘ではない。琥珀の瞳が濡れたガラス玉にように見えたかと思うと、本当の涙が彼女の頬に伝っている。
「か、艦長。あの……」
「それがよくわかるプログラムになっている。スワローの男が得意とすること、こう見て欲しいというのが伝わってくるわよ。雅臣も、スワローのエースだったものね」
 空に戻れなくて、精神的に自分を追いつめていた男が、自分ではない他の男が空を飛ぶ栄光の手助けが出来るようになった。御園准将もこの企画書を作り上げた雅臣を確かめ、心より安堵した。そんな涙なのだと思うと、心優もちょっぴりもらい泣きをしてしまいそう……。
「ごめん、やっぱり歳かな。そう思って、許してね、雅臣」
「いえ。本当に俺も、心配かけたと思っています」
 少しだけ流してしまった涙を御園准将がハンカチで拭うと、いつものクールな横顔に瞬時に戻ってしまう。
「これで、橘さんが飛ぶのが楽しみよ」
「俺もです。隊長の飛行は、後輩、部下だった自分たちの目標で憧れでした」
「では、これで明日のミーティングまでの手配をお願いね」
「かしこまりました」
 そこで御園艦長がひと息。
「遅くなったけれど、あなた達も終わったら休みなさいよ」
 心優と雅臣は『はい』と揃って頷く。艦長はまた目を爛々とさせて、艦長日誌のデーターに向きあうばかり……。ご自分は眠ろうとしなかった。

 全ての作業が終わる。
「艦長、先に休みます。お疲れ様でした」
 雅臣が艦長室での作業を終え、就寝の挨拶をする。
「お疲れ様、園田。おまえも早く寝ろよ。明日の朝、これの手配手伝ってくれ」
「はい。かしこまりました、大佐」
 いつもの部下の顔で返事をした心優だったが、大佐殿が艦長室のドアを開けようとしているのに、そのままジッと心優を見つめている。でも一時だけ――。
 そんな雅臣に艦長がひとこと。
「夜は駄目よ。彼女は私の側にいるようにしてちょうだい」
 雅臣がびっくりした顔をする。しかも、真っ赤になった。
「いえ、そ、そういう、わけでは……」
「非番の日を合わせてあげるわよ。その日なら、夜遅くまでどうぞ。ただし、雅臣ももう飛行隊の指揮官であって、艦長補佐だから足下をすくわれないようにしなさいよ」
 そこまで言われて、艦長室から出て行こうとしていた雅臣が、御園准将の目の前へと戻ってきてしまう。しかも、ものすごく強ばった顔。心優は自分たちの恋仲に言及してきた艦長に対して、彼がなにを言うのか胸騒ぎ。
「御園准将。そこまでおっしゃるのなら、言わせて頂きます」
 心優はハラハラ――。
「彼女のことは、真剣に考えています」
 心優はびっくりして目を見開いた。そんなにはっきりと『真剣交際宣言』をしてくれるとは、まだ心優も望んでいたわけでもないし、思ってもいなかったから。
 でも。嬉しい。横須賀にいた時は『たまたま側にいた気易い彼女といるだけ』だと二人揃って流されていると心優は不安になったものだった。でも、もうあの頃とは違う。
「この任務を無事に終えたら、お知らせするつもりでしたが――」
「ああ、もう。私ったら、やんなっちゃう。おばさんのお節介でした。いいわよ、雅臣にそこまで言わせるつもりはなかったのに。ほんと、ごめんなさい」
 心優も御園艦長の側で、顔が熱くなるほどだった。また雅臣と目が合う。今度は彼の真剣な眼差しが心優を捉えたまま離さなかった。艦長の前でも、心優を見つめてくれている。
「おやすみ、心優」
「は、はい……。おやすみなさい、大佐」
 心優自身はまだ、人前で『臣さん』とは言えなかった。
「では」
 雅臣が落ち着いた横顔を取り戻し、艦長室を出て行った。
 静かになったが、すぐに御園准将のくすくす笑う声が聞こえた。
「離れたくないなーって顔していたから、つい。案外、わかりやすいのよね。雅臣は素直だから」
「そ、そうですか?」
 わかっていて、でも心優は頬も耳も熱くなってしまう。
「雅臣って優等生なのよね。上の言うことをよく聞いてくれる。でも匂いが『英太』と一緒。秘めた野生を感じる。飛行にもそれがよく出ていた。おりこうさんの飛行をしているようで、彼等だけが得た身体能力がパイロットの潜在意識を目覚めさせて、爆発するようなワイルドな飛行をする」
 優秀なエリートマンの仮面の下が『お猿』だということを、御園艦長が見事に見抜いていたので、心優はドッキリしてしまう。
「スワロー隊出身の男はそういう性質の男が多いわね。そんなコックピットにいた時のような、ひたむきなでも滾った熱い目で心優を見ている。欲しいって」
 つまり……。コックピットに全てを傾けていた情熱と同じぐらいに、心優を熱く欲してくれている。
 彼のなかでなによりも一番だったものと心優がおなじぐらいに想われている。大人の女性からの言葉に、心優はつい嬉しくなって笑顔を見せそうになったが、なんとか堪える。
「余計なお世話だとわかっているけれど、変な噂を流されないように気をつけてね」
 もう、どんなに誤魔化してもダメだろうと心優も降参する。
「はい。気をつけます」
「なんかねえ……。ミユが来たせいかな。貴女ぐらいの年頃だった自分をよく思い出しちゃって……」
 そんな艦長が席を立って、艦長室の丸窓へと向かう。
 生憎、ここ数日は強風が吹き荒れる春の嵐で、海が荒れていた。そのせいでスクランブルもなく、ゆっくりと北海道知床半島のあたりを北上中だった。
「出会った時から、意地悪な眼鏡のお兄さん。なんか会いたくなっちゃった」
 それって。ご主人の御園大佐のこと? いつも冷たい上司の顔をしている女性が、少しだけ一人の女性になれた瞬間。
「艦長でもそう思われるのですね」
「でも旦那さんである今の彼じゃなくて。出会った頃のあの人かな?」
「隼人さんはお幾つぐらいだったんですか」
 えーっと、と彼女が宙を仰ぎながら、思い出している。
「私が二十六歳で、彼がちょうど三十歳になったところかな。会った時からすんごい意地悪で、私の方が上官でも『そっちはお嬢さん、俺は兄貴』て感じだったわね」
 いまのご夫妻の様子からも『お嬢さんと兄貴』になることがあるので、心優も『わかる』と少し笑ってしまう。
「でも。誰よりもいちばんに、私のこと心配してくれた人。『生きている』と教えてくれた人。『生きてることを自分で選んでいる』とわからせてくれた人。だから、私はコックピットを一度降りようと思えた。彼の子供が欲しかったからよ」
 いままで、このご夫妻が結婚するまではとても苦しい道のりしかなかっただろうとしか想像が出来なかった。でも、そこで彼の子供が欲しいと思えるほどの愛に出会えたことは、とても素敵なことだと心優は思う。
 艦長はそのまま、小笠原の明るい海で待っている夫を想っているのか、春の嵐に荒れる波をみつめて黙ってしまった。
「では、艦長。今夜はわたしも休ませて頂きます」
「おやすみ、心優」
 今夜も彼女は眠らない。隣に夫の御園大佐がいれば眠れるのだろうか。
 心優はふと、そう思ってしまう。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 午前十時。艦長室の隣にあるミーティング室に幹部と、撮影に携わる隊員が集まる。その中には、雷神のキャプテンであるウィラード中佐と、橘大佐と競演をさせられることを知りもしない鈴木少佐も連れられて座っていた。
 ミーティング室に入って来るなり、悪ガキパイロットの鈴木少佐は一目散に姉貴分である御園艦長へとすっ飛んできて、『どうして俺が? 朝から会議に? なんかあるの?』と捲し立てていた。だか、お姉さんの御園准将はいつものアイスドールの冷めた横顔で『大人しく座っていなさい。終わったら一緒にランチをしましょう』ときかん坊の弟を諫め、なんなく大人しくさせてしまった。
「それでは、広報による空母展示飛行撮影についてのミーティングを開始します」
 ラングラー中佐が進行をする。
「小笠原広報室の駒沢少佐より、今回の撮影の概要について説明があります」
 心優が広報誌に掲載される時に担当してくれた駒沢少佐が席を立つ。
「お手元の資料に従って説明させて頂きます。プロジェクターの映像と併せてご覧ください」
 用意されていた資料と映像で、広報少佐の説明が続く。
 ひと通り説明が終わったところで、橘大佐が挙手をする。広報の駒沢少佐が驚いて『どうぞ』と促した。
「無難でいつも通りだな。これなら新しく撮り直さなくても、同じだと思う」
「いいえ。今回は空母から雷神チームが発進するということに重点を置いています」
「それだけだろ。空でのアクロバットに関しては、飛行マニアならもう見慣れたものばかり。雷神のアクロバット映像も既に公開済みだ」
「新規の閲覧者も見込んでいます」
「あ、そう」
 どこか不満そうな橘大佐だったが、これも上層部の意向なので、広報用の新しい映像は撮影するのも今回の航行での仕事ではある。
「はい、少佐」
 ついに御園准将が手を挙げた。皆の視線が一斉に『御園艦長』へと向かう。
 どうしたことか誰もが緊張した顔。そして心優もここでドキドキ。いよいよ雅臣がつくった企画を提示する時。
 駒沢少佐も、橘大佐の次は空母トップの艦長が意見があると知って顔色を変える。
「か、艦長。ど、どうぞ」
 なにを言われるのだろうと、不安そうな駒沢少佐。
 ミセス准将が、男達を従えているデスクの上座で立ち上がる。
「今回の広報撮影は、雷神とスワローの競演にしたらどうかと、新たに提案します」
 男達が揃って『はあ?』と呆気にとられた顔を揃えた。
「はい! 艦長!!」
 鈴木少佐が恐れずに、艦長へと食いついてきた。
「なに、鈴木少佐」
「マリンスワローは今回は搭乗していないのに、どうして競演を」
 男達の視線を集めて立っている御園准将が、こんな時に笑みを見せる。だがそれは不敵な笑み。彼女が微笑んだのに、男達がさっと顔色を変えて青ざめている。彼女についてきた幹部なら知っているのだろう。『ミセス准将が笑う時、とんでもないことが起こる』と。
 心優のドキドキは緊張していたものから、なにかが起こるというわくわくした気持ちに変わっていた。
 これがいままで上司、先輩達が言っていた『じゃじゃ馬嬢様の台風』? こんなふうにして男達を驚かせて、巻き込んでいくの? 
「スワローのパイロットならここにいます。皆さんよくご存じの……」
 御園准将はそのまま隣に座っている橘大佐を見下ろした。あの橘大佐もさすがにギョッとした顔に変貌する。
「は? 俺、俺のこと? なにいってんの、艦長さん」
 だが御園准将は今度は真顔で、幹部の男達に言い放った。
「橘大佐と鈴木英太少佐の競演を提案します。どちらもアクロバットのトップ部隊、横須賀マリンスワローに所属していたパイロット。いまや雷神のエースでもある男の上官で師匠でもある橘さんと、教え子であったエースの鈴木少佐。ホーネットとネイビーホワイトの競演。それを見てみたい」
 ミーティング室はシンとした。突然すぎて、どう返答してよいのか戸惑うしかないらしい。艦長はその隙も上手く使ってしまう。
「城戸大佐。お願いします」
「かしこまりました」
 雅臣も立ち上がると、心優を見た。
「園田少尉、お願いします」
「はい」
 朝いちばん。雅臣と打ち合わせをしたとおりに、昨夜出来たばかりの企画書をミーティング室にいる幹部に配る。
 そしてこちらもプロジェクターの準備。雅臣に指示されたとおりの映像が出るようパソコンのセッティングをする。
「ホーネットとネイビーホワイトの競演。そのプログラムと撮影メニューを、こちらもスワローに所属していた城戸大佐に企画してもらいました」
 今度は幹部達から『おお!』と感嘆のどよめきが起きた。
「スワローにいた男達の共作ということでもありますね!」
 駒沢少佐がそれを聞いただけで、嬉しそうに飛び上がった。
「プログラムを作らせて頂いた城戸です。艦長からの指示で作らせて頂きました」
 雅臣もおなじく、手元の企画書とプロジェクターの映像で今回のプログラムの説明をはじめる。
「スワローの男ならではの演目で行こうと思います。美しいループ軌道を描く『ローアングルキューバンテイクオフ』、そしてパイロットの能力を極限まで駆使し回転上昇をする『バーティカルクライムロール』。どれも隊長であった橘大佐が得意としていたものであり、雷神の鈴木少佐がいまは展示飛行のメインとして演技をするもの。それを、並ぶようにして揃って飛ぶ」
 同じ演技を二機で揃って飛ぶ? 他の幹部達がさらにどよめいた。
「城戸大佐」
 手を挙げたのは、雷神のリーダー、『スコーピオン』であるウィラード中佐。
「中佐、どうぞ」
「揃って――というのは、ホーネットとネイビーホワイトが平行して、つまり左右対称になるように演技をするということですか」
「そうです」
 迷いのない返答に、パイロットであるウィラード中佐が面食らった。
「はい、城戸大佐!」
 隣にいる鈴木少佐がまた手を挙げる。
「どうぞ、鈴木少佐」
「お言葉ですがー」
 悪ガキパイロットと呼ばれる鈴木少佐が、ちらっと上座にいる橘大佐を見た。
 その眼差しが畏れを見せるどころか、どこか生意気な眼差し。
「橘大佐が素晴らしい飛行をしていたのは、自分もよく覚えておりますし、目標でもありました。ただ……いまと昔では……」
 もう四十も後半にさしかかっている男と、毎日空を飛び、パイロットとして最盛期ど真ん中の若きエースでは、同じように飛べないのではないのかと……。悪ガキは恐れもせずに、相手になろうかという大佐に突きつけている。
「あんだと、このクソガキ」
 現役エースに挑発をされ、ついに橘大佐が立ち上がる。
 だが橘大佐が先に苛ついた様子で矛先を向けたのは雅臣。
「おい、雅臣。葉月ちゃんとなにかこそこそしていると思ったら、こんなことしていたのか」
 雅臣も動じずに『はい、そうです』と答える。
「艦長と共に、隊長が横須賀で飛んでいた頃の展示飛行映像を見ました。そして、ここ数年の訓練飛行も確認しました。若さでは出来ないものがあります。確実な軌道と描くのは、現役の鈴木少佐よりも、積み重ねた技術をお持ちである橘大佐です。リードをお願いしたいのですが、いかがでしょう」
 雅臣の提案に、橘大佐がニンマリとした笑みを浮かべ、今度は悪ガキへと挑発をする。
「おい、クソガキ。おまえ、好きなように飛んでいいぞ。俺がおまえが飛んだ軌道をきっちりトレースして、いかにもシンクロしたかのように見える飛行をしてやるからよ」
 今度は悪ガキの鈴木少佐がカチンとした顔をあからさまに見せた。
「そうっすか。ちょっと緩めに飛んでやってもいいんすよ。五十前のおじさんにはきついだろうし」
 流石、悪ガキ。負けていない。どちらの男の目も急にぎらぎらしていて、心優は取っ組み合いの喧嘩にならないだろうかと不安になるほどだった。
 そこですうっと、また御園艦長が静かに立ち上がる。
「どうやら、どちらもその気になったようね。駒沢少佐、許可が出るように手配をお願いしてもよろしいかしら。城戸大佐と共に企画を進めてください」
 駒沢少佐が飛び上がったように興奮する。
「スワローの男が企画した、スワロー出身の男達が飛ぶ空母上空ですね! 空母からのカタパルト発進、滑走路ではなく海面すれすれの低空飛行からのローアングルキューバンテイクオフで上昇、回転、それを二機が揃って飛ぶ。しかもホーネットとネイビーホワイトの競演! どれもパイロット目線で組まれたせいか、広報では思いつかないアングルばかりです! 広報としてはこんなにレアな撮影はありませんので大歓迎です!」
 最後に、御園艦長が男達に向かって優雅に微笑む。
「では、決まりね。撮影日を決定し、広報映像撮影に向けた準備を、皆様にもお願いします」
『イエス、マム』
 男達が声を揃えた。
 雅臣が企画するものが、映像になる。これで雅臣が少しでも、パイロットだった時の気持ちを戻してくれたらいいのだけれど……。心優はそう思わずにいられない。

 またもや、じゃじゃ馬嬢様、ミセス艦長殿の思い通り。
 どうなるのか楽しみだ。
 幹部の男達は口々にそう囁いて、ミーティングは解散となった。

 

 

 

 

Update/2015.4.28
TOP BACK NEXT
Copyright (c) 2015 marie morii All rights reserved.